【我が街モリオカ】


16世紀の末、南部氏による盛岡城築城が都市としての盛岡の始まりです。

それ以前は、803年に坂上田村麻呂によって志波城が築かれるなど、

大和朝廷の支配下に組み込まれながら次第に開かれてきました。

その後は安部氏の勢力圏となり、NHKの大河ドラマ「炎立つ」で有名になった、

前九年の役で安部貞任が敗れるまで続きます。源頼朝が平泉の藤原氏を討ち、

この戦いで功を為した南部光行は八戸三戸の地頭に任ぜられます。

南部氏は甲斐源氏の一族で山梨より三戸に移り住み、安土桃山時代に盛岡まで

勢力を広げ、豊臣秀吉の許しを得て、不来方(こずかた)の地・今の盛岡に築城を

開始しました。こうして城下町として開かれた盛岡は領内各地で産出された金や紫根、

馬、俵物などの特産物によって支えられます。

1665年南部藩は盛岡藩となり、その後明治維新を迎えます。

明治維新では、盛岡藩は佐幕派として官軍と戦い、秋田戦争に敗れて無条件降伏。

盛岡城は兵部省の管轄となり城内の建物はことごとく取り払われてしまいました。

1871年(明治4年)の廃藩置県に盛岡藩は盛岡県に、翌年には岩手県となりました。

そして1984年(明治22年)4月1日、市町村制の施行に伴って全国の30自治体と

ともに市制を施行し、「盛岡市」が誕生。岩手県の県庁所在地として現在に至ってます。

 盛岡市は岩手県の内陸部、やや北西寄りに位置しています。

東京までの距離は約500km。海抜は市役所付近で126m。

市内で最も高い地点は1427,2m。経緯度は市役所付近で東経141度09分26秒、

北緯39度41分58秒。盛岡とほぼ同じ緯度にある外国の都市は北京、アンカラ、

リスボン、ワシントンなどがあります。

広さは、約489平方Kで約30万人の市民が約10万世帯に暮らしています。

盛岡市の産業比率では第三次産業が8割をしめ盛岡は

卸業と小売業を中心とした商業都市、消費都市といえます。 

盛岡ゆかりの先人と言えば、まず原敬(はらたかし)、平民宰相として有名。

そして新渡戸稲造(にとべいなぞう)国際連盟事務局次長に就任。

「我太平洋の架け橋とならん。」と言う言葉はあまりにも有名。

金田一京介(きんだいちきょうすけ)言語学者、市ただ一人の名誉市民。石川啄木の生涯の友人。

野村胡堂(のむらこどう)盛岡中学時代、石川啄木らとともに文学に親しみました。

「銭形平次捕り物控え」の原作者。

石川啄木,詩人。近代短歌史上に輝かしい1ページを刻んでいます。 

盛岡市の観光、見所と言いますと、城下町の遺産が中心となります。

まず、岩手公園「不来方城」(こずかたじょう)跡、市の中心部にあります。

そこから石割桜に進みます、巨大な花崗岩の割れ目からエドヒガン桜の幹がのびています。

樹齢400年。次に我が家の近く、上の橋と擬宝珠(ぎぼし)盛岡の中心を流れる

中津川に架かる上の橋、中の橋、下の橋は昔、盛岡三橋と呼ばれ、

青銅の擬宝珠が取り付けられていました。

ヒノキ造りの上の橋の擬宝珠は1609年の物で国の重要美術品。

6月には杜若(カキツバタ)が咲き乱れ、橋の上から楽しむ事ができます。

そこから五百羅漢へ、瑞鳩峰山報恩寺の羅漢群。マルコポーロやフビライの像もみられ

ます。その後は鬼の手形、

(巨大な三個の岩に苔で手形が浮かび上がる、岩手の名の起こりだといわれる)

啄木新婚の家、中央公民館、(南部家別邸、御薬園跡で日本庭園が美しい)

先人記念館、原敬記念館から盛岡てづくり村と言うコースがベストでしょう。

さて、お腹がすいてきました。

わんこそばは「直利庵」冷麺はお好みで、じゃじゃ麺は「白龍」ですが、

ここでちょっと意外なお話を、実は盛岡は寿司が美味しいのいです。

価格も都心部の半値程度、ネタは八戸、宮古等沿岸部より豊富に入ります。





盛岡の秋の風物詩 山車の巡行



まるせいデロリンマンの部屋




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