「吊り橋効果」
吊り橋効果というのは、一般的に人間が持つ防衛本能を使った恋愛システムとして知られている。
理屈としては、不安定な吊り橋を歩くことで緊張感が増し、体内の色々なバランスに変調をきたす。その一つの例が、血圧の上昇や心拍数の上昇。その変化が、まるで人を好きになることと同じように作用するため、結果として近くにいる人(大抵は好きな人)のことがより好きだと思いこむようになる効果のこと。
カール・エドワルド・バイエルラインが、ウォルフガング・ミッターマイヤーの部下として配属されまだ日も浅かった頃。
彼は来る作戦行動に必要な陸戦部隊の白兵訓練を任され、日々張り切っていた。
時々ミッターマイヤーが現れるととても士気が上がるので、バイエルラインは折りに触れ現場に顔を出してくれるよう頼み込むのを忘れなかった。
その日も訓練ドームに赴く前に、執務室を覗いてみる。
「…そっちの報告はもう受け取ったが…」
「ふむ。問題はやはり補給だな…」
既に佐官の位を得て、少なりとも独立した部隊を動かすことも出来るようになった彼の上官は、好んで彼の親友たるオスカー・フォン・ロイエンタールと作戦行動を共にする機会が多かった。
バイエルラインは、ミッターマイヤーの側にいるからこそロイエンタールの優秀さをよく知っている。
彼等が互いに絶対の信頼を寄せ合っていることも。
知ってはいたが、何故かバイエルラインはロイエンタールの言動に何時も居心地の悪さを覚えてならない。もしかしてもしかしたら、ただ単に「邪魔者扱い」されているのではないかと思う時も多々ある。
だから、今、二人が額を寄せ合うようにモニターと書類を眺めながら会話を交わしているのを見て、バイエルラインは声を掛けるのを躊躇った。
その一瞬の間に、彼の敬愛する上官は彼をめざとく見つけていた。
「どうした?バイエルライン。…ああ、これから訓練か。頼んだぞ」
弾む声で労われると、それだけで嬉しくなる。
だが、隣にある色違いの視線は、バイエルラインをひと撫ですると彼の存在をピシャリと弾き返すが如くに逸らされた。
そして、どうやらモニターの画面を切り替える作業をしたらしく、ミッターマイヤーの注目をそちらの方に促す。
「済まんな。今日はこれを仕上げねばならん。そっちが終わったら手伝って貰いたいくらいだ」
「はっ、喜んでお手伝いいたします。ではまた後ほど」
バイエルラインは姿勢を正して敬礼すると、執務室を後にした。
「少佐がいらっしゃらないからといって気合いの入らない訓練ならせぬ方がマシだ。卿ら、たるんでいるぞ」
イヤフォンを通じてバイエルラインの声が響く。
作戦行動で赴く惑星と同じように重力調整してある白兵戦訓練ドーム。
実戦用のトマホークと同じ重量とバランスに作られている訓練用のスティックでの乱打戦。
同じくビームライフルを使った射撃訓練。
必要最低限の防具を使い、レベルの高い動きが出来るようにする訓練が続く。
それが終われば筋力トレーニング、作戦行動シミュレーションなどのメニューが待っている。
この訓練ドームとて、時間の制約もあり、占有できるわけではないのだ。
バイエルラインは、分刻みのスケジュールをチェックしながら次々に指示と檄を飛ばしていた。
その時突如、バイエルラインの背後でざわめきが起きた。
「ぐはっ」
苦鳴と、防具の破片をまき散らしながら、部下の一人がバイエルラインの足元に吹っ飛んでくる。
「小僧ども、こんな児戯に興じていて前線で役に立てると思っているのか」
何時の間に現れたのか、そこには装甲擲弾兵を総監するオフレッサー上級大将の巨漢と彼に負けず劣らずの体躯を持った数人が訓練用の装甲服を纏って立っていた。
「我らが白兵戦の仕方を教えてやる。心してかかってこい」
言うが早いか、彼等は手当たり次第付近にいた一団と乱打戦を始めた。
と言うよりも、一方的に殴り倒し始めた。
一人、また一人、バイエルラインがミッターマイヤーから預かった兵士達が致命傷に近い殴打を受け、苦痛に呻きながら床に這っていく。
彼の部下達は、オフレッサーらの超人的なパワーに対抗しうる防具類を身につけてなどいなかった。もともと今回の作戦行動に力任せの装甲擲弾兵は必要ない。
迅速な行動力を必要として選ばれた人員に、より高度な働きが出来るようにと訓練しているに過ぎない。訓練の本筋は、練りに練られた作戦シミュレーションの反復にある。
「お待ち下さい!おやめ下さい、閣下!」
声を張り上げるバイエルラインの肩口に、ビシリとオフレッサーのスティックによる一撃が食い込む。
「青二才は黙っていろ」
なおも振り上げられたスティックが近くにいた若い兵士の肩を、腹を、力任せに打ち据える。
「立て!立ってかかってこんか!!そんなことで皇帝陛下の臣下を名乗るな!」
蹲る兵士を庇うようにバイエルラインはオフレッサーと対峙する。
唸りを上げるスティックが打ち下ろされれば今度こそ肩が砕けるか、腕が折れるかの傷を負うだろう。
バイエルラインは覚悟を決め、彼めがけて振り下ろされるであろう黒光りする特殊ファイバー製のスティックを見つめた。
だが、風を切って唸りながら振り下ろされたスティックは、バイエルラインの目の前に現れた人影が受け止めていた。
バイエルラインの鼻先数十センチにあるその腕の防具に、食い込むようにしてスティックの動きは止まっていた。みしみしという破壊音がバイエルラインの耳に届く。
一瞬にして、訓練ドームの中は静まりかえった。
「もう、そのくらいでよろしいでしょう、オフレッサー閣下」
凛とした声は、紛れもなくウォルフガング・ミッターマイヤーのものだった。
「訓練していただいたことには感謝いたします。我らが隊のドーム使用時間は過ぎましたので引き上げます」
何事もなかったかのようにオフレッサーのスティックをゆっくりと払いのけ、ミッターマイヤーは姿勢を正した。
「ふん。ふぬけばかりの寄せ集めどもめが」
がらん、と音を立ててスティックが床に捨てられた。オフレッサーが回れ右をして引き上げるのを潮に、部下達が続く。その間、誰も何も言わず、音を立てようともしなかった。
「大丈夫だったか、バイエルライン」
ミッターマイヤーが心配そうに振り向くのを、バイエルラインは信じられないものをみるかのように床にへたり込んで仰いだ。
「少佐…少佐…、申し訳ありません」
手を延べられ、支えられるようにして立ち上がる。
「何を謝る事がある。俺がもう少し早く覗いていれば…動ける者は医療セクションに連絡を入れろ。怪我人は動かすなよ」
重傷者は10人を数え、全員が運び出されるのを確認して、バイエルラインはどれだけ作戦行動に支障が出るかを思い、気持ちが沈んだ。
「どうした、バイエルライン。卿もどこか怪我をしているのか?」
「いいえ、自分は何処も何ともありません」
背伸びをするようにして真剣な表情のミッターマイヤーが覗き込む。その鋼色の泉に己の姿が映っているというだけでバイエルラインの心臓は鼓動を早めた。
「そうか。卿に何かあったら大変だから良かった」
「ですが、この有様では作戦行動に支障が…」
「何とかするさ。心配するな」
破顔して微笑みに緩んだ表情が一転して険しく、厳しく引き締まる。
「戦争は筋肉ではなく頭脳ですることを、見せてやろうな。バイエルライン」
そしてミッターマイヤーはバイエルラインの頭を左腕で引き寄せると、こつり、と額を合わせ再びにっこり笑った。
「よし。頼んだぞ」
「は…はいっ!」
バイエルラインは光の速さで素早く立ち直り、『ミッターマイヤーの為に』困難な問題に立ち向かい役に立つところを見せなければという誓いも新たに働き始めるのだった。
「足が地面に付いてないようだが、青二才」
「なんだ、居たのかロイエンタール」
元気いっぱいにてきぱき指示を出し始めたバイエルラインを見送っていたミッターマイヤーの隣にいつの間にかロイエンタールが立っている。
「医者、いくぞ」
「む…」
「ひびくらいはいってるだろう」
「多分な。まあ、右腕だし、大丈夫だ」
二人はそっとその場を後にした。
「あれで人の5倍は働くぞ」
「ごっつんこか?なら安いもんだろ」
ははは、とミッターマイヤーは笑う。
ロイエンタールは、吊り橋効果でだろ、とは言わなかった。
バイエルラインの一生の忠誠はミッターマイヤーのものになったかもしれないが、これ以上忠犬を増やされてたまるかということと、それが忠誠以外の気持ちだと気付くようなことがあっても困るのでこれからはもっと目を光らせておかねばと密かにロイエンタールは思ったからだった。
まだまだ先は遠く長いのだから。