鋼鉄の天使 



 出逢った瞬間、恋をした。

一目見た時から、ただひたすらその姿を追い続けた彼は、何時の頃からか気が付いた。
ウォルフガング・ミッターマイヤーには、鬼神の顔と、天使の笑顔の狭間に、もうひとつ隠された貌のあることを。
怒りでも哀しみでもない、それは見た者の心に疼くような切なさを呼び覚ます、ほんの一瞬の表情。
多分、本人ですら気付くことのないその貌を、彼は知ってしまった。
それが禁断の領域であることを知らずに。


「補給終了まで約4時間」
「ロイエンタール隊との合流まで12時間かかります」
「了解…では、補給チーム以外は12時間の待機時間とする。合流後、ロイエンタール隊の補給を待って作戦開始時刻を確定する」
「了解」
ウォルフガング・ミッターマイヤーとオスカー・フォン・ロイエンタールが、作戦行動を共にするようになって昇進を重ね、共に大佐に昇格したばかりの頃。
新たな地上作戦行動に伴い、前線の補給基地に先に寄港したのはミッターマイヤー隊だった。
「バイエルライン」
オペレーターに指示を出してしまえばお終いとばかりに、ミッターマイヤーはせかせかと書類のフォルダーを机の引き出しにしまい込み、バイエルラインに声をかけた。
「はっ」
「たまには一緒に飯でも食いに行くか」
「はいっ」
2人が古びた補給基地の建物を後にして、近くの街に入る頃には夕暮れの空に低く垂れ込めた雲が今にも泣き出しそうになっていた。

常に最前線へ兵士達を送り出している街には、荒んだ空気が漂っていた。
食事を済ませて帰ろうとした矢先、路地で結構な人数に取り囲まれた。
貴族と思しき男数人と、兵士崩れらしい男達。
「おまえらみたいなのが絡んでこない分…」
ぽつり、とすっかり闇に包まれた空から雨粒が落ちてくる。
「基地の食堂のがマシだったな」
力を溜めた足下で地面が鳴った。
「黙れ、平民野郎っ」
飛びかかってきた男は、軽く除けただけのミッターマイヤーの後ろで泳ぐようにしながら地面へ這いつくばった。
「俺はお貴族様でも手加減しないぞ」
「大佐…」
「自分の身は自分で守れよ、バイエルライン」
「了解っ」
バイエルラインが振り向くと、ミッターマイヤーの足下には既に2人目の男が転がっていた。
淡い炎−ほむら−に包まれたかのようにも見える小柄な姿がしなやかに躍動する度に、男達の悲鳴が上がる。
的を外れたハンドガンのエネルギー波が地面で跳ね返ったと思った次の瞬間には、銃そのものが宙を舞っていた。
「こんな狭いとこで」
二発目の蹴りで銃の持ち主だった男の身体は数メートル離れたビルの壁まで跳ね飛ばされていた。
「銃なんか振り回したら危ないだろっ」
にやりと不敵に笑うミッターマイヤーは、まるで鬼神。
戦場で、絶対に出逢いたくない敵がいるとしたらそれはミッターマイヤーそのものかもしれない。
「ぐはっ」
数刻の後、最後の苦鳴を響かせて、男達はすべて地面に懐いていた。
稲妻が夜空を切り裂き、雨足がいよいよ激しくなり始めている。
「終わったな…」
戦いを終えた瞬間、すっ、とミッターマイヤーの面から表情が抜け落ちた。
…あぁ…この貌…。
伏せた睫毛が上げられたとき、そこには先刻と変わらない穏やかとも言えるミッターマイヤーが戻っていた。
呼吸の一つも乱れてはいない。
雨の滴が、色を濃くした蜜色の髪の先から滴っている。
「雨、本格的になりましたね」
「ああ…帰ろうぜ、バイエルライン」
「大佐っっ、怪我してるじゃないですか!」
「ん…掠っちまったか」
ミッターマイヤーの右腕、手首と肘の間に血の糸が絡みついている。
彼はそんなものがあったのか、という所作でその細い傷を見やる。
「こんなもん、嘗めときゃ治るだろ」
ちらりと覗かせた紅い舌が、滲み出る赤を嘗め取っていく。
バイエルラインの心臓が、びくりと跳ねた。
血の赤と、蠢く舌の紅に吸い寄せられるように目が離せない。
「どうした?バイエルライン」
その声に我に返り、バイエルラインは慌ててポケットからハンカチを取り出してその傷を縛った。
「近くに馴染みの所がありますから、そこで手当して雨宿りしましょう…風邪をひきます、大佐」
「そうするか…すまんな」
2人は、地面に転がる男達を一顧だにすることなくその場を後にした。

「馴染みって…」
一瞬、ミッターマイヤーは絶句した。
「ここは……」雨に煙るどぎつい娼館のネオンに足を止める。
「あ、気にしなくていいです。入りましょう」
バイエルラインは、勝手知ったるという気安い動作で館のドアを開いた。
「これがエイドキッドとバスローブね、用があったら呼んでちょうだい」
「ありがとう、あとはやりますから大丈夫です」
女将と思しき女性に案内され店の二階奥の部屋に通されると、バイエルラインは必要な物を手近なテーブルに並べた。
「手当する前に、シャワー浴びて暖まってきた方が良いですよ、大佐」
「……」
手渡されたバスローブを無言で受け取ると、ミッターマイヤーはバスルームへ消えた。
入れ替わりにシャワーを使い、脱ぎ散らかされたミッターマイヤーの服と自分の服を乾燥に頼み、バイエルラインが戻ってみると、ミッターマイヤーは傷に当てたガーゼを押さえたまま、ぼんやりと窓辺に佇み激しい雨を眺めていた。
「大佐、手当しますよ」
両手をスプレーで消毒しながら声をかけると、ミッターマイヤーは大人しく椅子に座った。
浅い傷からはほとんど出血が止まっている。
それでも慎重に傷を消毒し滅菌ガーゼを当てて固定した後包帯を巻いていく。
その間、妙に大人しいのが気になるので、ちらちらとミッターマイヤーの表情を窺うと、少し怒ったような表情で押し黙っているのが判った。
「どうしたんですか、大佐。痛みますか?」
「いや…」
「雨、止みそうもないからしばらくここで何か飲みますか…特別に美味い肴でも頼みましょう」
「意外…だったな」バイエルラインの言葉を遮るように、ミッターマイヤーの声が重なる。
「卿もこんなところで遊ぶのか…」
ミッターマイヤーの纏う、いつもと違う何かを敏感に察して、バイエルラインの心臓は再び鼓動を開始するまで少しの間停まっていた。
…こんなきわどい場所で何を言い出すんですか、あなたは。
そういえば目の前の人物は、『堅物の平民』で通っていて、結婚したとて前線に出てしまえば商売女性と遊んで歩くなどと言う行為とはほど遠い愛妻家であり、その方面では華々しく浮き名を流す彼の親友とは全く違う気質の持ち主だった。
「自分だって男ですからね…」それはちょっとした悪戯心。
「こういうお店くらい知ってますよ」嘯きながらエイドキットを片付ける。
「なんて、ね。以前作戦でこっちに来たとき、ここの女将が絡まれてるのを助けたんですよ。それ以来なんか良くして貰ってるんです」
バイエルラインの言葉に、視線を上げたミッターマイヤーは淡いグレイの瞳を瞬かせている。
くるくると良く変わるその表情を、もっと変えてみたい。
「大佐こそ…」そう思う悪戯心の炎はなかなか消えない。
「堅物とか言われているけど、まさか奥方以外の女性を知らないなどと言うことはないでしょう?」
古びた娼館、安物の調度品、ぎらつくネオンサイン。
場所が場所だけに、我ながら大胆な挑発。
だが、最初に踏み込んできたのはミッターマイヤーなのだとバイエルラインは自分を後押しする。
彼は気が付かなかった。
踏み込んでいるのはミッターマイヤーではなく、自分だということに。

いきなりミッターマイヤーに腕を取られ、バイエルラインは目を見張った。
「そう…だな」
少し掠れた声音は、だがバイエルラインを戦かせるほどの艶を含む。
ぐい、とそのまま腕を引かれ、たいした力が入っている訳でもないのにまるで逆らうことが出来ず、バイエルラインは促されるままにベッドの脇まで移動させられてしまった。
「おまえよりほんの少し長く生きて、長く軍にいる分…」
そしてまた、繰られるかの如くベッドに座らされ、バイエルラインは呆然とミッターマイヤーを見上げた。
「知らなくて良いことをたくさん知ってるよ」
いつもは優しく見上げてくる灰色の瞳が、今は鋭い光りを放ちながら見下ろしている。
まるで凍り付くようなその視線は、先刻までの鬼神のもの。
挑発は意外な形で跳ね返ってきた。
「た…いさ…」バイエルラインの心臓は、軍人にあるまじき勢いで脈打ち騒ぎ始めていた。
「何なら…」
鴇色の唇に見たこともない笑みを湛え、その笑みの上をてらりと濡れた紅い舌がそっとなぞる様を、目を離そうにも離すことすら出来ずに見つめ続ける。
ぞくり、と鳩尾から下半身を痺れが襲う。
「俺がどんな人間か、教えてやろうか?…バイエルライン」
次の瞬間、片腕に込められた力が魔法のように彼の身体をベッドに横たえた。
「!!」
上げようとした両腕を捕らえられ、バイエルラインはベッドの上に縫い止められる。
今や紛れもない恐怖が彼の上で婉然と微笑んでいた。
乾きかけの、暗い蜜色の髪の隙間から、鋼の瞳が彼を見つめている。
バイエルラインの心臓は破鐘のようにがんがんと鼓動を刻み、呼吸のままならない口元は空気を求めて徒に動くだけだ。
ふわり、と形良い小振りの頭部が降りてきて、蜜色の髪がバイエルラインの喉元を擽り、少し冷たい唇が鎖骨に当たる気配がする。
そして、不意にミッターマイヤーの掌が脇腹を掠めて移動したと思う間もなく、その指先がバイエルラインの股間を目指していることを察知した。
「たっ、大佐っっ!!」
さすがに一瞬にして呪縛の解けたバイエルラインは、驚愕に目を見開き思わず声を張り上げ喚いていた。
数瞬の沈黙の後、彼の上で小柄な身体が小刻みに震えだす。
「…っく…」
「大佐…」
「あははは、ごめんごめん、バイエルライン」
笑い声と共に、ミッターマイヤーからは危険なものが、バイエルラインの上からはその自由を拘束していた重みが消え去った。
ふっと、あげられた明るい灰色の目元が弛み白い歯が零れる。
「冗談だよ、カール。卿の悪い冗談に付きあっちまった。悪かったな」
ミッターマイヤーは、軽やかにバイエルラインの上から飛び退く。
「済まなかった。でも、あんなに驚くとは思わなかったぞ」
くすくすと笑うミッターマイヤーに、もう先ほどまでの危うい影はない。
だが、去っていった温もりは、その笑い声は、バイエルラインの導火線に火を付けた。

「雨、まだ止まないな」ベッドの上を移動し、窓を見上げていたミッターマイヤーは、いきなり足首を捕まれ引き戻された。
「小さい足、ですね。…そりゃ、そうですよね、私なんかよりもずうっと小さいんですから、貴方は…」
掴んだ足首は、指が余るほど細い。
バイエルラインは、今度は逆に驚きに見開かれたグレイの瞳から視線を逸らさないよう見据えた。
手の中の引き締まった足からは、逃れようとする動きは伝わってこない。
「教えてください、大佐」
ぐい、と引っ張るとまるで羽根のようにその躯は軽かった。
「貴方という方を…全部」
ほんの悪戯心で仕掛けたことだったのに、今やバイエルラインには沸き上がるどす黒いモノを鎮める術がなかった。
というよりも、鎮めるつもりもなかったと言った方が良いかもしれない。
「私をからかって楽しかったですか?」
バイエルラインの問いに答えはない。
ミッターマイヤーはもはや笑ってはいなかった。
ちょっと困ったように、静かにバイエルラインを見つめ返している。
一瞬、その穏やかさにたじろいだが、答えを待つのは止めた。

迷いを振り払うように、性急な動作でバスローブの襟に手をかける。
解けた濃紺のローブの下から現れた、白く滑らかな首筋に唇を寄せる。四肢を絡め、体重を乗せてしまえば小柄な躯から抵抗を奪うのは簡単だ。
バイエルラインの歪んだ視界の中に、瞑目し固く閉じ合わされた金茶の睫毛の先が見えた。
「ん…」唇を合わせる。
最初はゆっくりと、だが差し入れた舌先に絡み付いてくるものを感じた時から、我を忘れて貪った。
やがて唇を離し、吐息を伺う。
「貴方が悪いんですよ……」
荒い息の下、想像していたよりもずっと華奢な首筋から鎖骨に唇を落とす。
「あ……」
鮮やかなほど白い肌の上に並ぶ2つの薄紅の飾りにも口付ける。待つほどもなくそれは固いしこりとなった。舌先と指で転がすように愛撫すると、身動きのとれない躯がぴくぴくと跳ねる。
「こんなに感じて…」
「あっ、…や……」
甘い声に、再び我を忘れる。
…先に仕掛けてきたのは貴方ですよ。
バイエルラインは、心の中でそれが免罪符であるかのように繰り返す。

 鬼神の鎧に天使の翼…。
 どうして、ここへ降りてきたんですか?
 なぜ、私を誘ったのですか?

二人合わせた躯には、すでに紛れもなく雄の脈動が感じられる。
纏いつくバスローブを引き剥がしながら唇を絡め、掌ではくまなく引き締まった躯の線を確かめる。
自らもバスローブを脱ぎ捨て、肌を合わせようとしたその時、バイエルラインの雄は絡み付く指に引き寄せられ、ミッターマイヤーの唇に吸い込まれていった。
「な…っ、大佐……くっ…あ…」
温かく、自在に動く舌先に翻弄され、若い雄は瞬く間に上り詰めようとする。緩急自在に責められ簡単に限界を迎えてしまう。
手の甲で唇を拭う仕草も艶めかしいミッターマイヤーは、荒い息を繰り返すバイエルラインの腰を跨ぐようにして抱き寄せ、耳元で囁く。
「…来いよ…バイエルライン…知りたいんだろう?俺が…」
やり場のない怒りは、吹き飛ばされていた。
自分は所詮、この声に逆らうことは出来ない。
ミッターマイヤーが頭を振る度に、汗が珠となってきらきらと舞い散る。バイエルラインは、濡れた苦鳴を聞きながら、彼の上で繰り広げられる黄金色の残像が弧を描く官能の舞を堪能した。
窓の外はいつしか雨も止み、青白い月が覗き込むように丸く広がっていた。

 訳なんか無い…。
 最初の最初から…貴方に捕らわれていた。

バイエルラインがシャワーを浴びて出てくると、ミッターマイヤーは乾燥を終え、プレスされた白いシャツのボタンを留めながら微笑んでいた。
もちろん先程までの妖艶さなど欠片も見あたらない、いつもの少年めいた笑顔で。
だが、バイエルラインは髪を拭きながらふいと横を向いてしまう。
「どうした?バイエルライン。なに拗ねてるんだ?」
「いえ…なんかいいようにあしらわれてしまったな、と思って…」
ベッドの中でも、とはさすがに口には出来ない。
「何言ってるんだよ。卿が遊び慣れてないことなんて最初から判ってたさ…」
ミッターマイヤーは、子供のようにベッドの裾に跳ねながら座った。
「ただ、こんなとこに馴染み顔で入って行くから、卿も女性を玩具にするようなことをしてるのかと思ったんだ」
「だから、自分はっっ…」
気色張るバイエルラインを片手で制し「もう判ったんだからいいだろ」とまた笑う。
ほんとうに、その笑顔には勝てない。
「ま、少し卿を見くびっていたかもしれないけど…」
「こんなことっ、本気でなきゃ出来ません…よ…」言葉の終わりは、つむじ風のような接吻に飲み込まれた。
一瞬の沈黙の後、ミッターマイヤーは天使の笑顔から、鬼神の顔へと変貌した。
「卿の本気は受け取った。だから二度と俺を試すような真似をするな」
鋼の視線が、バイエルラインの心臓をぎりりと鷲掴みにする。
「…誓って」彼は瞼を閉じ、恭しく項垂れた。

 鬼神の鎧に天使の翼…。
 聞こえるのは鋼の羽ばたき。
 もう、逆らえない。
 貴方だけ。

「そういえばさ、バイエルライン」
「はい…」
「さっきロイエンタール隊が3時間ほど早く着いたって連絡入ってたんだが」
「えええっっ、そういうことは早く言って下さいよっ」
バイエルラインは大慌てで服を着替えだした。
「疾くしろよ!!」
「は、はいっっ!」

 その一夜を忘れない。
 永遠に、天使の背中を、追いかける。

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最初にお届けしたモノを知っている方、知らない振りをしてこっち読んで下さい(T^T)
あの時点でこのくらいの推敲出来たハズなんだけど…だめだめです(>_<)
当時の「青二才ブーム」に乗って書いてしまったもの(笑)なんだけど、これ、バイエルライン嬉しいか嬉しくないか判らないかも。
ミッターマイヤー誘い受けの珍しいパターンで、Dの「鍵のない部屋」に共通する、ちょっと奔放で手に負えないタイプのミッターマイヤーにしてみました…この後、ロイエンタールと合流して、バイエルラインを弄んだのがバレてお仕置きされたかどうかは…知りません(笑)

とにもかくにも、こんなに美しい華沙凛嬢のイラストがいただけて、書き捨てにしないで良かったと心底思います、ありがとう、キャシーちゃん。

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