ただ美しく闇を纏いて 黄昏編6 

by 獅子丸



「久しぶりだな、青二才。己がいかに無力な存在か思い知ったか?」
集中治療室の扉の前に辿り着いた影は、幽かな灯りにようやく顔を浮かび上がらせる。
端正な造形美。忘れるはずもないその顔。
バイエルラインを射抜く鋭い視線は、もはや伝説となった漆黒と蒼。
口許にあまりにも有名な冷たい微笑を湛えながらそこにいるのは、紛れもなく、オスカー・フォン・ロイエンタール、その人だった。
「ま…さか、あ、貴方は…亡くなったはず…」
ようやくそう口にしたバイエルラインは、その自分の言葉に全身の皮膚が粟立つのが判った。
「そう、オスカー・フォン・ロイエンタールは死んだ。では、ここにいる俺は一体誰だ?」
揶揄うように話しかける、その声、その表情。
それら全てが、記憶の中にあるロイエンタールのものと寸分違わないものであることはバイエルラインが一番良く判っている。
そして絶対に間違いなく、確かにロイエンタールはあのハイネセンで永遠に眠っている筈だった。
「そうだな…。ミッターマイヤーを連れに来た使者とでも」
集中治療室の扉に手を触れ、愛おしげな視線を作り、ロイエンタールは嬉しげにバイエルラインに言葉の楔を打ち込んでゆく。
バイエルラインは暫し、言葉の意味が判らぬとばかりに眉を寄せ、黙り込んだままだ。
「どうした?もう幾らも時間はかからぬ。手足など無かろうが、ズタズタに裂けた身体であろうが、二目と見られぬ顔になっていようが、俺は一向に構わぬぞ」
「やめてくださいっ!ミッターマイヤー閣下は…閣下は…」
希望など全くないことは、バイエルラインが一番良く判っていた。
ただ、奇跡のように傷跡の少なかった顔が虚しく目に浮かんでくる。
「帝国の至宝だのともてはやし、ミッターマイヤー一人に全てを押し付けて、貴様らはさぞ楽が出来たことだろう。せめても間抜けなテロリストからなら何とか守り通して、天寿くらいは全うさせてやれるものと期待したのだが…貴様らは無能の上におまけが付く」
穏やかな言葉が一転して牙を剥いた。
獣のようにしなやかに、影のように音もなく、ロイエンタールは一瞬のうちに座り込んだバイエルラインの間近に立ち、胸ぐらを掴み上げた。
如何に青二才と呼ばれようとも現役の軍人でもあるバイエルラインの身体が、片手で締め上げられ宙に浮くなど、とても信じられなかった。
その圧倒的な力に息を詰まらせ、鋼のように力強い腕を振り解こうとするがまるで通用しない。
視界がブラックアウトする寸前、まるで仔猫を放り投げるように廊下に叩き付けられ、ようやく息を吐いて噎せるように咳き込んだ。
「わ…私達だって、手を拱いていた訳ではありません。閣下を御守りする為にあらゆることを…」
「黙れ!ミッターマイヤーの家族すら守れなかったではないか。あの男から家族を奪うと言うことは死刑を宣告してやるようなものだ」
ロイエンタールの一言一言が、バイエルラインを鞭打つ。
言われるまでもない。
家族を亡くしたミッターマイヤーの精神(こころ)は、確かに死んでいた。
冷たい廊下に座ったまま、全身を無力感に襲われ、バイエルラインは起き上がることが出来ない。
ただ黙って次の罵声を待っていた。
だが、ロイエンタールは扉を一瞥したきり口を噤むと、次には低く静かな声でこう告げた。
「バイエルライン。もう時間がない」
「え…?」
「もう、もたない。時間の問題だ」
バイエルラインは、冷たい金銀妖瞳ともっと冷たい部屋の扉を交互に見た。
「助けてやろう」
「?」
「ミッターマイヤーを助けると言っている」
ロイエンタールの言葉の持つその意味を、彼は理解出来なかった。
「そんなこと…出来るはずが…」
「そう思うのならこのままでいるが良い。もう待つことはない。明日には盛大な国葬が出来るぞ」
今、自分の目の前に立っているのは美しい悪魔だ。
己の耳に、かけがえのない人を救ってやると囁いている。
「俺なら助けることが出来る」
「本当に…」
「失いたくないのであろう?」
床に手を付き、バイエルラインは頭を垂れた。ミッターマイヤーを救えるのなら、たとえ悪魔と取引をしても、地獄へ堕ちても構わない。
「お願いです、お願いします。ミッターマイヤー閣下を、閣下をお助け下さい」
金銀妖瞳がすうっと眇められ、口許が微かに歪んだ。
「もう会えぬ」
「え?」
「もう二度と会うことは叶わぬ。声を聴くことも、姿を見ることも出来なくなる。それでも構わぬか?」
「どういう…ことですか?」
「そういうことだ。帝国がミッターマイヤーを失うことに変わりはない。だが、ミッターマイヤーの命を助けることは保証してやる」
もはやバイエルラインにロイエンタールの言葉の持つ意味を理解することなど出来なかった。判っていなくても言葉が勝手に口をつく。
「構いませんっ。ミッターマイヤー閣下が助かるのなら、どんなことでも」
「その言葉、忘れるなよ、バイエルライン」
座り込んだままのバイエルラインの目の前に、美しい微笑みが近付き、わななく唇に冷たい口付けが贈られる。
「さて、もう時間がないな…久しぶりに顔を見てくるか…」
縋るような視線へ振り返ることなく立ち上がり、ロイエンタールは音もなく扉の中へ消えて行く。
辺りを包む静寂に、はっとしたようにバイエルラインは慌てて立ち上がり集中治療室へ飛び込んで行く。
だがそこには、白くなったモニターと、空になったベッドだけが残されており、何処にもミッターマイヤーもロイエンタールの姿もなかった。
もちろん、窓も、他の出口もない。
切れたモニターにアラームが鳴り響き、やがてドクターや看護士が駆けつけてくるだろう。
バイエルラインは震える拳を握り締めたまま、その何もなくなった空間を見つめ、ただ立ち竦んでいた。

『ただ美しく闇を纏いて』~黄昏編 終了
黎明編へ続く

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