Ein Garten vom August



PM11:30

さんざんな一日にとどめを刺された格好のエレベーターの記憶を振り切りたくて、見知らぬ酒場で酒を飲み、したたかに酔ってようやく官舎に戻る。
身体はまるで泥水を吸った真綿のように、どこもかしこも重たい。
ぶり返してきた頭痛と酔いでもうろうとした意識の元、カードキーを差し込み暗証番号を入れる。
官舎といってもほとんど何もない、快適な寝起きをするための清潔なベッドがあるがらんとした部屋。
外からの灯りが薄いカーテン越しに届いて部屋を暗闇にすることがなく、ひとつしかない椅子に座っている人影をぼんやりと浮かび上がらせている。
「なんだ…こんなとこに居たのか」
「ご挨拶だな。ずっと待ってたのに」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

低く、耳障りの良い綺麗な声。
今日一日、誰のどんな言葉よりも耳朶に心地良いその声に、ミッターマイヤーの身体から黒く澱んだモノが抜けて行く。
それと同時に全身からも余計な力が抜けて、どさりとベッドに横たわる。
この痛いくらいに糊の利いたベッドリネンは誰が洗濯しているのだろう。
実家のそれは可愛い少女がハーブの香りを付けて皺ひとつ無くプレスしてくれていたっけ。
戦地から離れ、このイゼルローンの地を踏んで、たった今ようやく人としての己を取り戻した気がする。
「灯り、点けるなよ」
「必要ないな…」
薄暗がりの中、閉じた瞼の向こうで人の動く気配がする。
何故こいつはでかい図体のクセに物音ひとつ立てずに動くのだろう?
「安い酒を過ごしてきたな…どうしてまず此処に戻ってこなかった?」
ギッ、とスプリングがたわんで間近で声がする。
「エリックを見舞って…オフィスに戻って…」
久しぶりの柔らかいベッドは、猛烈な眠気を誘う。
襟元から入り込んできたひやりとした手のひらも気持ち良い。
押し寄せてくる眠気には抗いがたく、重たい軍服も皺だらけのシャツも魔法のように取り除かれて行くのを、されるがまま、傍らの器用な腕に委ねてしまう。
鼻孔を擽るのは、男の襟元から漂うコロンの香り。
きつくもなく、甘過ぎもせず、だがこうして間近に寄れば必ず感じる、まるで染みついている体臭のようだ。
何時から自分はこの男の体臭を嗅ぎ分けられるようになったんだっけ?
投げ出していた手のひらに、大きな手のひらが重ねられる。
合わせられるしっとりと湿った手のひらと、絡み合う指。
「おまえこそ…何処にいた?」
「ずっとここに」
「ウソをつけ」
「ウソなものか。ずっと待ってた」
尚も反論しようとした唇に、唇が重なる。
「勝手にするから寝てて良いぞ」
「…まったくもう…」
ミッターマイヤーは眠気を振り払うように頭を起こし、覆い被さってくるロイエンタールの闇夜に黒々としたクセのない髪を握り締める。
「どうした?」
「人はさ、美味いもの喰って愛しいセックスをしていれば平和でいられるそうだ」
チュ、と軽い音を立てて再び唇が合わさる。
これはミッターマイヤーから贈られたもの。
「俺は今日、最低の不味いモノばかり喰わされたから戦争でも起こしたい気分になった。だから、セックスくらいは最高にしてくれ」
「任せろ」

どこからか微かに入り込んでくる淡い光が、ミッターマイヤーの輪郭を浮かび上がらせる。
若々しく快活な表情が見えなくても、額から頬、顎にかけて弛みのないラインが良く判るほどに。
ロイエンタールは知っている。
ミッターマイヤーがこんなに疲れているのにこんなに酔わなければならなかった意味を。
人より秀でたものを持つ人間は、集団の中で軋轢を生む。
自分のように貴族などというくだらない肩書きでもあればそれは少しは軽減されるのかもしれない。
だが、ミッターマイヤーのような平民出身者は、こんな社会構造の、しかも軍隊という階級社会では想像も出来ないようなどろどろとした人間の感情の中を生き抜かなければならないだろう。
それでも、欲する側にしてみればなんとしても手にしたいと思うほどの何かがミッターマイヤーにはある。
渦巻く嫉妬や蔑みから身を守るには嫌でも周囲と距離を取らなければならなくなる。
孤独と悲哀。
彼自身、そうと気付いていないかもしれないが。
そして、こんなミッターマイヤーにいつにも増して欲情してしまう自分がロイエンタールは面白い。
元気の良い時であれば眩しすぎて傍にいたら火傷しそうだが、今のミッターマイヤーはしっくりと肌に馴染む気がする。
どちらのミッターマイヤーも得難く愛しい。

「…っく」
「声を出せよ。我慢は身体に良くない」
「…る…さい…っっ!」
悪態は素直に口にするクセに、どれだけ感極まっても快楽を声にしようとしないミッターマイヤー。
結局のところロイエンタールがぎりぎりまで追い詰めようとしないのは、『次の楽しみ』ということらしい。
闇の中、密やかな吐息を交わしながら二人獣のように睦み合った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

イゼルローン標準時 8月30日 AM2:00

先程まで闇の中にあった部屋に、今は枕元のスタンドが柔らかな光を投げかけている。
ロイエンタールは、まるで自分の屋敷の豪奢なベッドででもあるかのように枕を背もたれにして横たわり、心臓の上のまだシャンプーの匂いと湿り気の残る小さな蜜色の癖毛を撫でていた。
「腹減ったな…」
ぽつりと呟く声がする。
「おまえの馴染みは皆閉まっている時間だ」
「わかってるさ。そういえば今日はろくなもん喰ってなかったな、と思っただけだ」
言いながら腕時計が示す時間を見遣ったミッターマイヤーは、「あっ!!」と叫んで身体を起こした。
「どうした?」
「今日は俺の誕生日じゃないか!」
まるで子供のようなその言葉に、ロイエンタールは二の句が継げない。
暫しの沈黙の後、「誕生祝いに朝までご奉仕してやっても良いが?」と問い掛けてみるが、すでに腹の上の相棒は夢の住人だった。

この世に生を受けて20と数年、誕生日だからと嬉しかった記憶は自分にはないが、きっとミッターマイヤーにとっての誕生日は幸せな記憶がたくさん刻まれているのだろう。
ロイエンタールは、そっと枕元の灯りを消した。
手の中にある温もりをこの世に送り出してくれた生命の営みに感謝しつつ眠りに就く。
──誕生日、ありがとう。ウォルフガング・ミッターマイヤー。

end   

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ふー、やれやれ。ようやくいちゃいちゃが書けました(笑)
前半を読まれて、これのどこが誕生日でどこがいちゃいちゃなんだと思われたかもしれませんが…あまりひねりは無かったですね。申し訳ありませんm(__)m
ミッターマイヤーを次々襲う災難を書くのは楽しかったですが(をい)
結局最大の災難はロイエンタールだったかも…(ほほほ)
所詮は西方浄土の誕生日モノですのでこの程度でご勘弁を(^-^)
さて、次は企画を練りつつ去年放り投げたつくば編でも…妄想モードオン。