Ein Garten vom August PM11:30
さんざんな一日にとどめを刺された格好のエレベーターの記憶を振り切りたくて、見知らぬ酒場で酒を飲み、したたかに酔ってようやく官舎に戻る。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 低く、耳障りの良い綺麗な声。 今日一日、誰のどんな言葉よりも耳朶に心地良いその声に、ミッターマイヤーの身体から黒く澱んだモノが抜けて行く。 それと同時に全身からも余計な力が抜けて、どさりとベッドに横たわる。 この痛いくらいに糊の利いたベッドリネンは誰が洗濯しているのだろう。 実家のそれは可愛い少女がハーブの香りを付けて皺ひとつ無くプレスしてくれていたっけ。 戦地から離れ、このイゼルローンの地を踏んで、たった今ようやく人としての己を取り戻した気がする。 「灯り、点けるなよ」 「必要ないな…」 薄暗がりの中、閉じた瞼の向こうで人の動く気配がする。 何故こいつはでかい図体のクセに物音ひとつ立てずに動くのだろう? 「安い酒を過ごしてきたな…どうしてまず此処に戻ってこなかった?」 ギッ、とスプリングがたわんで間近で声がする。 「エリックを見舞って…オフィスに戻って…」 久しぶりの柔らかいベッドは、猛烈な眠気を誘う。 襟元から入り込んできたひやりとした手のひらも気持ち良い。 押し寄せてくる眠気には抗いがたく、重たい軍服も皺だらけのシャツも魔法のように取り除かれて行くのを、されるがまま、傍らの器用な腕に委ねてしまう。 鼻孔を擽るのは、男の襟元から漂うコロンの香り。 きつくもなく、甘過ぎもせず、だがこうして間近に寄れば必ず感じる、まるで染みついている体臭のようだ。 何時から自分はこの男の体臭を嗅ぎ分けられるようになったんだっけ? 投げ出していた手のひらに、大きな手のひらが重ねられる。 合わせられるしっとりと湿った手のひらと、絡み合う指。 「おまえこそ…何処にいた?」 「ずっとここに」 「ウソをつけ」 「ウソなものか。ずっと待ってた」 尚も反論しようとした唇に、唇が重なる。 「勝手にするから寝てて良いぞ」 「…まったくもう…」 ミッターマイヤーは眠気を振り払うように頭を起こし、覆い被さってくるロイエンタールの闇夜に黒々としたクセのない髪を握り締める。 「どうした?」 「人はさ、美味いもの喰って愛しいセックスをしていれば平和でいられるそうだ」 チュ、と軽い音を立てて再び唇が合わさる。 これはミッターマイヤーから贈られたもの。 「俺は今日、最低の不味いモノばかり喰わされたから戦争でも起こしたい気分になった。だから、セックスくらいは最高にしてくれ」 「任せろ」
どこからか微かに入り込んでくる淡い光が、ミッターマイヤーの輪郭を浮かび上がらせる。
「…っく」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ イゼルローン標準時 8月30日 AM2:00
先程まで闇の中にあった部屋に、今は枕元のスタンドが柔らかな光を投げかけている。
この世に生を受けて20と数年、誕生日だからと嬉しかった記憶は自分にはないが、きっとミッターマイヤーにとっての誕生日は幸せな記憶がたくさん刻まれているのだろう。 end
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