常陸太田ライオンズクラブの
「黄門様の桃源郷作り」

西山荘の桃の謂れ

黄門様は1691年(元禄4年5月3日)正に新緑の西山荘に隠居しました。水戸光圀公は太田の地に西山荘を創られた時、中国の詩人陶淵明「桃花源記」に感銘、桃源郷にしようとされました。「桃源遺事」にも「小径を挟みて桃数百株を植えさせ、増井川の流れに柴橋を掛けさせ、桃源橋と号したまう」と書かれています。10年間、この桃源郷にて大日本史編纂を始め、山野を散策、薬草園を作り、1700年(同13年)師走、西国に旅立ちました。


9代藩主 斉昭が藩主になるのが1829年(文政8年)。この間、129年が流れます。桃の木の寿命は20年。代々藩主が桃を補充していれば斉昭公の時代にも桃は生き生きと咲きつづけていたでしょうが、きっと植えてなかったのです。だから文献に「斉昭公も遺志を継いだ」と書かれているのだと推測します。


すっかり桃の面影が淋しくなった現況に気付いた我々常陸太田ライオンズクラブも平成から毎年、黄門様の桃源郷づくり運動をすすめています。





定期的に植樹と害虫駆除、剪定の奉仕をしております。以下は2003年2月23日早朝の様子です。