お西山食歳記

黄門様の四季の宴

水戸光圀公「黄門さんは、大グルメだった」    渡辺 斉

 常陸太田ライオンズクラブでは、創立三五周年を記念し、当地ゆかりの水戸黄門公に着目、「黄門さま、四季の宴」と題し、黄門さんの大グルメぶりを三富正雄、和代氏の編集著作により発刊しました。
 四季おりおりの食材を生かし、自ら台所に立っての巧みな包丁さばきは、自慢のタネだったようです。
 「春の花見」「夏のスタミナ料理」「納涼まつり」「秋の重陽の節句」「マツタケの宴」「月見の宴」「冬のいろり開き」「正月、梅見の宴」等等、その時々の出席者や逸話をおりまぜ、参考文献にもとずき「宴のかたち」が紹介されています。
海外にまで、その食材を求めた貪欲なまでのグルメぶりは、見事なものです。
それでは、ここに紹介しましょう。

2OO1年3月25日発行
   企   画 茨城弘報(株)
           常陸太田L C 渡辺 斉
   編集・著作 オフィス リーベ
            三富 正雄
            三富 和代
   発   行/ 常陸太田ライオンズクラブ
           常陸太田市宮本町394番地
   ●禁無断転載
   ●資料・復元料理写真提供 大塚子之吉氏

以下はその内容です。


目 次


まえがき(四季の宴と日常生活)
光圀と斉昭
〔花見の宴〕帰順寺の花見
〔花見の宴〕久昌寺の糸桜
〔花まつり〕西山荘の花御堂
〔端午の節句と田植え〕はしりのカツオ
〔誕生会〕手打ちひやむぎ
〔納涼〕黄門さまのスタミナ料理
〔八朔〕夏の夜を楽しむ
〔重陽の節句〕味覚の秋を満喫
〔マツタケの宴〕御酒ゆるゆると
〔月見の宴〕光園の包丁さばき
〔紅葉狩りの宴〕炉開き
〔正月・梅見の宴〕豪華に春を待つ
記録書に見る「水戸黄門さまの宴」
アユの足半料理・南蛮渡来の料理


 まえがき   四季の宴と日常生活
     
  助さん、格さんを伴って、諸国漫遊の旅を続ける黄門さま。やってきた土地で、さまざまな事件に巻き込まれる。藩主の跡継ぎをめぐる御家騒動、家老一派の悪だくみ、そこに悪代官がからんでの斬ったはったの大立ち回り。最後はご存じ、「葵のご紋」の印篭が登場して、事件が解決する!!というのは、天下の副将軍・徳川光圀の活躍ぶりを描いたテレビや映画のシナリオ。

  では、実際の黄門さまの日常生活はどんな様子だったのだろうか。
中納言の位にあり、将軍を補佐する立場から“副将軍“と呼ばれた水戸の殿様。すぐれた治世で歴史を築いた光圀(義公)、斉昭(烈公)の二人の名君。その私生活も気になるところ。
名君の生活ぶりは、質素で倹約につきる -と伝えられてきた。三度の食事も、一汁一菜の簡単なもの、というのが定説になってきたが、当時の側近が書き残した「記録」によると、けして華美ではないが、土地のもの、旬のもの、などの食材を上手に使ったグルメ食卓だったことが、わかる。
何を食していたのだろうか、誰と盃をかわしていたのだろうか、どんな宴だったのだろうか。 明の学者・朱舜水との交流、仙台藩を通しての西欧文化の導入といった国際派でもあった江戸時代の黄門さまの食卓をのぞいてみた。

  黄門さまの食卓については、水戸の割ぽう料理「大塚屋」のご主人、大塚子之吉さんが、当時の記録である日乗上人日記、食菜録、桃源遺事、水戸歳時記などをもとに二〇年がかりで復元に努めている。その大塚さんの研究成果をもとに、三〇〇年前の、常陸太田・お西山(西山荘)での日常生活と四季折々に催した宴の模様を紹介する。



光圀と斉昭
          茨城地方史研究会長 佐久間 好雄


 水戸では光圀(義公)と斉昭(烈公)が二名君として知られ、種々の点で二人がよく対比されている。明治時代には二人並んで神として常磐神社に祀られている。
 さて光圀は水戸藩中士の娘を母として誕生するが、本来「水子」にされるはずであったのを、三木之次(ゆきつぐ)夫妻の子として江戸の藩邸でなく、水戸柵町の三木の屋敷で生まれ三木家の子として育てられた。光圀が正式に父頼房の子として認められるのは、十六歳になってからである。
中流の藩士の子として育てられた光圀には、温厚な兄頼重と違って勝気でやや強情なところがあった。十二歳の時に父の面前で隅田川を泳ぎきった話や、遊ぶ時に藩邸の塀の上や屋根の上を走り回るなど、一般の大名の子とは思えないものがある。その胆力のすわった様子が父頼房には頼もしくも思えたのであろう。

 しかし青年期の光圀は両親の期待を裏切るような不良少年で、「歌舞伎者」(人目につく奇抜な格好をする者)であり、とても「権現様の御孫」とは思えない日常行動であった。
だがそれだけに彼には小さいうちから庶民性が身についていたのであろう。晩年、一般農民の病苦をいくらかでも救おうと、『救民妙薬』と題する漢方による治療書を出版していること、また藩主を退く直前に村々に粟や稗を貯えさせ、凶年の時に施すだけでなく豊年であっても、老人や孤独の者などに施すことができるようにせよと命じていることなど、常に光圀の目は弱者に対しても向けられていたといえよう。
捨て子などもたびたび拾って救ったとか、身障者にいたわりの気持ちを示したとか記録されているが、これらのことは普通の大名には見られないもので、生まれながらの性格にもよろうが、幼少のころの育った環境にも影響があるのではなかろうか。

 もう一方の名君斉昭については、光圀と違って好悪の評価が相半ばする。光圀より100年もおそく、日本を取り巻く環境が急迫する時代に生きた人物であるから、一概に光圀と同列祝するわけにはいかない。しかし鎖国体制の動揺する中で、一時は日本の政治の動向に関与した、傑出した人物であった。
三十歳まで部屋住みの恵まれなかった斉昭が、病死した兄の後を継いで藩主になったから、それだけに政治に打ち込む気構えには、激しいものがあったのもうなづけよう。政策の上で自分の考えを貫き通すような強さがあった。家臣らに対しても自分の好悪の感情をはっきり示す、厳しさを持った藩主である。だがその一面温かさを秘めた性格もあわせ持っていたといえる。


「春」 花見の宴
 帰願寺(きがんじ)の花見


 寒い冬から春へ。特に山里で厳冬を耐えてきた常陸太田・西山荘の黄門さまたちにとっては、待ちに待った自然のうつろいの時であった。草花の芽吹き、そして梅が咲き、桜が墨絵の世界に彩りを添えるころになると、心がうきうきとなってくる。
 江戸時代、元禄のころになると庶民の間でも花見の風習が定着した。青年時代に江戸でさんざん遊興にふけった光圀は、西山に隠居したあとも、この季節、桜を訪ねて野山をよく歩いたという。
水戸市見川に、真壁郡桜川(当時)から、桜の苗木を移植させたという記録もある。その後、「水戸の桜川」は町民の桜見物の名所になっている。

元禄11年3月24日に、光圀は帰願寺の僧と花見をしている。書院を光圀が寄進したとされる帰願寺とは、距離も近いこともあって、よく行き来していたらしい。
近海の白身魚、エビ、ツクシ、菜の花といった旬のものを詰めた食篭(じきろう)という花見用の弁当を用意して、帰順寺で花見をしたという記録もある。この時の花見には、小姓頭の助さん(佐々介三郎)が同席している。
僧を相手にひとしきり囲碁を楽しんだあとは、花見の宴。
「二汁五菜。御しる。ふき、干し大根。二汁御ひや斗。のり、くり、くこ、いりもの、丸山とうふ、あぶらふ、たんぽぽあえ、いわたけ」 と、メニューが記録されている。
盛りだくさんの料理をさかなに、酒をくみかわしての花見の宴が繰り広げられた。
酒がはいって調子がでてくると、「日暮れまでは、御詩歌ありし・・ら。参加者たちが、 次々と誌や歌を披露して、宴はさらに盛り上がっていく様子が手に取るようにわかる。
「我君の光もそひて山寺の 庭の桜も色ぞそまれる」 宴で詠まれた歌のひとつ。 宴会はまだ続き、さらに、「吸い物、うど、御酒、御さかな」が運びこまれた。
冬から春への節目でもある「彼岸」をこえるとさまざまな風習、行事が活発になる。

  彼岸の中日には、水戸徳川家でなくなった方々を供養する御廟祭(ごびょうさい)が行われ、一般の家庭でも寺参りをして、仏壇には彼岸だんごを供えた。 西山荘では、黒ごまでくるんだぼたもちをたべたそうだ。


「春」 花見の宴
 久昌寺の糸桜


 元禄13年3月1日(西暦1700年4月19日)。西山荘から山伝いに近い久昌寺で糸桜(いとざくら)(シダレザクラ)見物の花見が行われた。
いまも、常陸太田市街を見下ろすところにある久昌寺は、光圀が延宝5年(1677年)に、生母谷久子(久昌院靖定大姉)菩提のために5年の歳月をかけて建立した日蓮宗の寺。
諸国から、数多くの僧侶を招致したという。 その久昌寺の花見には、住円、日周上人といった僧や、朝倉源兵衛などの家臣が顔を揃えた。
この日は好天に恵まれた。 日当たりのよい広い境内に、花見の宴用の会場づくりから始まった。 東側に、畳を並べて「座敷」をこしらえ、西側に「台所」を設営。 準備もあって、結局花見の宴が始まったのは午後からになった。 花見用の段重ねの高級弁当・食篭がお酒とともに持ち込まれた。 この日の弁当の中身は、 「御汁こまごま。うど、御あえもの、たんぽぽ、いりざけ、こんぶ、松たけ、御雑煮いろいるありしなり」 松たけは、秋にこの近くでよくとれたもので、漬け込んでおいたものらしい。 花見は夜まで続き、日が暮れて、さらに酒が出された。

 春の天気は変わりやすく、久昌寺の花見の日は夜までなんとかもったが、翌日は雨。 花見に出席していた日周上人が、翌日花見のお礼を歌にして、西山荘に届けた。 「空もなを心ありてかまといせし きのふはふらで今日の春雨」 良い天気だったきのうと、雨降りの今日の様子をかけた返礼の歌。

  こうした歌のやりとりも、「桃の枝の短冊をつけて給いる」というから、ファクスやE メールで無表情に送り届ける現代と比べると優雅でもあり、遊び心も豊かだった。


「春」 花まつり
 西山荘の花御堂


 桜が咲いて、花見がたけなわのころは、家々の庭や山野の草花がいっせいに花開きはじめる。元禄12年4月8日。この日は花まつりにふさわしく、好天に恵まれた。

 光圀は元禄4年にお西山に隠居してからも4月8日は、「太田仏生会」「山の誕生会」として、花まつりの行事を欠かさず続けてきた。この年も、いつものように準備が進められた。
 奈良朝時代から行われているというお釈迦さまの誕生を祝う「花まつり」の行事の儀式である法要、法会が進められているうちに、西山荘の前にこの日のために設けられた花御堂は、近在の人たちが持ち寄ったシャクナゲやウツギ、ヤマブキといった季節の花でいっぱいになった。
 花まつりには「甘茶」がつきもの。 アマチャの葉を乾燥させて煎じてつくった甘露水とも呼ばれた甘茶を、花御堂に安置された誕生仏に注ぎ、持参した竹筒に入れて持ちかえるという風習があった。

 しかし、 男たちにとって楽しみなのは酒。この日も、夜になると、「花まつりの宴」が催されている。庵に集った顔ぶれは、家臣のほか、交流の深い僧侶、“太田の豪商“といわれた高野又兵衛の姿もあった。
 酒は白酒。江戸時代になって庶民の生活の中に広がっていった白酒は、3月3日の雛祭りに振る舞われていたが、4月の花見のころまで、てんびん棒の前後にさげた桶にいれて売り歩くようになっていた。 江戸での生活の長かった光圀は、そのころのことを思い起こしながら、白酒を酌み交わしていたのではなかろうか。 涸沼産のニシンが、酒のさかなとして出された。 1月から花見のころまで涸沼でとれたニシンは青魚とも呼ばれ、かつては食用にされにくかったようだが、関西地方で昆布との煮込みなどに使われていたことから、江戸周辺でも食されるようになったという。

 光圀は、この涸沼産のニシンを京都への贈答品としても好んで用いた。元禄元年の2月に那珂湊港から巨大な探検船・快風丸を蝦夷地に向かわせた光圀。石狩や松前での交易で、昆布やニシンを大量に確保したのではないかと推測できる。
 花まつりの宴は深夜まで続けられた。献立は、一汁三菜の精進料理の夕食に、酒と魚菜の炊き合わせが出された。それぞれに用意されたお皿には、たぶん、水戸地方で「お釈迦さまのハナクソモチ」とよばれた花まつりのだんごも乗っていて、みんなでほお張ったのではないだろうか。


「夏」 端午の節句と田植え
 はしりのカツオ


 花が咲き乱れた春らんまんの季節が過ぎると、野山が青々としてきて、大地の躍動を感じるころとなる。農家にとっては田畑への植えつけ作業がはじまり、鹿島灘では、海の幸が豊かになる。
                                      
 端午の節句の5月5日は、お城では「端午の節会(せちえ)」が催されて、宴膳が用意されたそうだが、田植えの始まる農家にとっては、ショウブやヨモギで身を清めて、秋の豊作を願いつつ、作業開始の時でもある。
隠居した光圀は、西山荘の近くに田んぼを借りて、米作りをやっている。収穫のでき具合はともかく、農民の苦労も味わったことになる。 田植えのあとの振る舞いは、厳粛で厳しい農作業のあとだけに、楽しみごとのひとつ。

このころ、浜ではカツオが水揚げされはじめる。 さわやかな新緑と清々しいホトトギスの初鳴きの声とミックスさせてよまれた「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句。当時はとても高価だったそうだが、初物を食べることで75日寿命が延びるとされたカツオを江戸庶民は心待ちにしていた。 そのカツオは、5月ごろになると、水戸の城下を売り歩く姿が見られた。

 グルメの光圀は、このはしりのカツオが大好きで、隠居所の西山に、この季節になると献上させていた。記録にも、田植えの時期に大きなカツオを買って調理したとされている。 西山荘の座敷にまな板を持ち出して届いたカツオをおろして、刺し身と煮物にして家臣や、田植えの手伝いにやってきた人たちに振る舞ったようだ。 カツオの塩辛も保存食として珍重されていた。特に、「川尻のたたき」は、黄門さまの料理の研究を進めている水戸・大塚屋の大塚子之吉さんが文献をもとに復元させたが、カツオの身をつかった上品な塩辛で、4等分した豆腐に乗せたものは、おかずいらずで、酒が進む逸品。光圀も箸(はし)の先でなめながら、酒を酌み交わしたのか、と興味が募る。

 端午の節句に欠かせないのがちまき。光圀もちまきが好物だったという。西山のまわりにちまきを包むクマザサの一種のチマキザサを植えつけさせたとされる。数年前に、野草研究家によって繁茂が確認されたというが、いまも育っているのだろうか。


「夏」 誕生会
 手打ちひやむぎ


 光圏のバースデーは、寛永5年(1628年)6月10日。初代の水戸藩主徳川頼房の第3子として、水戸・柵町にあった家臣、三木之次(ゆきつぐ)の家で生まれ、育てられた。母は谷久子。幼名は千代松で、6歳の時に、江戸の小石川邸に移った。 最初の誕生祝いである1歳の時には、そのころの武家の子どもたちが元気に育つようにとの願いを込めて行っていた「1升もち」を背負って歩かされたという。

 その後、6月10日の光圀誕生日には家臣らに祝いの振る舞いが続けられ、現在でもゆかりの神社などでは誕生祭が行われているところがある。 隠居した西山でも、誕生祝いの行事は続けられた。 西山荘では、床の間に曼陀羅を掛けての祝い事だったようだ。祝い膳のメーンディシュは、季節柄、アユだった。

 6月には、久慈川の支流の里川でアユ狩りを楽しんだという記録がある。美しい姿で、「香魚」と呼ばれるアユ。塩焼き、魚田、刺し身、なます、煮びたし!と、さまざまな調理を楽しんだようだが、とりわけ、光圀は焼き物を好んだ。 面白い食べ方をしている。
  焼いたアユを一皿に2尾盛り合わせる。1尾は普通の塩焼き、もう1尾はしょうゆ味の色付け焼き。このしょうゆ味の焼き方は、大子地方に伝わるものだそうで、しょうゆと酒の混ぜたところにアユを漬けておいて焼くだけだというが、焼き上がりが美しいべっこう色になり、生臭さも抜けて、酒のさかなに最高だ、というところが光圀の気に入った理由かも知れない。
 6月1日は「ムゲノツイタチ」といって、皮が白く長くむけるようにといった願いを込めて新小麦でつくったうどんを食べる風習が県内にある。江戸時代には水戸城下で、小麦粉でこしらえたまんじゅうなどを売り歩く光景もみられたそうだ。

 光圀は、誕生祝いの日に、小麦粉をつかってつくるひやむぎを家臣らに振る舞った。 江戸市中を遊び歩いていたころに、うどんやそば打ちを覚えたらしく、記録によると、西山荘ではひんぱんにうどん、ひやむぎ類が振る舞われている。
「むしろ一枚三十五文うどんふみござの御用」という西山荘で購入したものの記録もあり、めん類をたいそう好んでいたことがわかる。


「夏」 納 涼
 黄門さまのスタミナ料理


 夏の蒸し暑さには、さすがの光圀も往生した。奥久慈の山間部に涼を求めたり、港御殿に出かけていっては、海風にあたってしばし暑さを忘れた。
 城中で五節句の振る舞いが行われる7月7日の七夕。この日から武士は白かたびら(ひとえ)の着用が許された。それだけ暑さが増すころでもある。当時の記録書によると13日は「生霊(いきみたま)」といって、仕えた師や親類などに酒肴を贈る習慣があった。現在の「お中元」のはしりかも知らない。
この時期の暑さは、冷房装置のない当時、大変なものであった。涼をとる工夫をしたり、暑さに負けないスタミナ料理をたべたりした。江戸にいたころの光圏は、寛永11年に大洗の松林で「納涼(すずみ)の宴」を催している。磯浜の海の香りが好きだった光圏は、太田に隠居してからも、たびたび「湊」を訪れたが、涼をとることとともに、新鮮な魚介類を食べる目的があった。
記録によると、浜に上がったばかりのスズキが宴の席に届けられているほか、当時、沖合でよくとれたマンボウが喜ばれた。水戸藩主は代々マンボウが好きだったらしく、将軍への献上品としても使われ、「水に浮く亀を献する小石川」という句が残されているほどだ。

 このころのスタミナ料理といえば、身近な食材として「どじょう」と「うなぎ」があげられる。
大伴家持が万葉集に「夏やせによし」と詠んだうなぎは、江戸・元禄のころから蒲焼が庶民のスタミナ源として普及したという。那珂川の河口でとれたものがもっともおいしいと書かれている当時の書物もあり、久慈川、那珂川ではうなぎ漁が盛んだったようだ。
いまでこそ、庶民の味として定着した蒲焼の乗ったうなぎ井の考案者は、大久保今助という水戸藩出身者。大久保は常陸太田の在の生まれで、江戸で財をなして芝居小屋を経営していたが、大好きなうなぎの蒲焼を焼きざましにならないで食べる方法はないかと考えて、うなぎ飯を考案したとされる。

 光圀の時代にはまだ、ほかほかのうなぎ井はなく、天然ものの皮が固いことから、山椒(さんしょう)みそを塗って蒲焼にすることが多かった。 スタミナ源を求める光圏は、元禄13年6月12日に、涼を求めて3目前からやってきていた湊御殿から、涸沼を訪れた。広浦からご座船で渡り、海老沢でシジミをさかなに宴を催している。暑い最中でも、グルメの殿様の胃袋は健在だった。


「夏」 八 朔(はっさく) 
 夏の夜を楽しむ


 蒸し暑い夏の夜空には花火が似合う。
 お西山の光圏は、八朔の夜、鉄砲方に命じて、西山荘の庭先で花火を打ち上げさせたことがあるそうだ。五つ(午後8時)、鐘を合図に酒宴が始まり真夜中の子の刻まで続けられたというから、山里に響きわたる打ち上げの音と、夜空に咲く花火に、近在の人たちは驚いて飛び起きたことだろう。
 「八朔」は、8月ついたちの略称。徳川家康が天正18年(1590年)の8月1日に江戸城に入城したことから、江戸幕府では毎年この日を祝日とし、行事を催してきた。
 水戸のお城でも、正装姿で家臣が登城し、祝詞を言上する習わしとなっていた。
 光圀が隠居した先の太田・西山御殿でもこの日は人の出入りがあってにぎやかであった。太田とその周辺の郷土や庄屋などがお祝いにやってきたからだ。元禄6年の8月1日の記録によると、「御殿にて暮方に松むし、すずむし御庭にあっめ給ふ」とあり、西山荘に参上した主だった人たちと“暑気払い“ の宴会「虫の音会」が開かれた。この時のごちそうは二汁一菜。締めくくりは、光圀自慢の手製のひやむぎと決まっていた。
 八朔は、庶民の生活の中でも、暑い夏を通り越して収穫の秋を迎える準備の時として、さまざまな行事が行われた。県内でも、台風の季節を前にして、荒れよけ、風除け、天災よけ、といった無事の収穫を祈る行事が各地でいまも伝承されている。
 この日は農家も農作業を休み、赤飯を炊き、煮しめなどのご馳走を用意して祝の食事をとる風習もあった。秋の収穫の作業を前にして、「嵐よけ」の祈願を口実にした農家の骨休みの日でもある。

 「生姜(しょうが)節句」とも呼ばれた。ショウガがたくさんに子分かれすることから、豊作に結びつけたり、子宝に恵まれる、といった縁起が好まれた。そればかりではなく、独特の辛味と香りをもつショウガの漢方薬としての効用も、珍重された。

 たしかに、発汗や解毒作用のあるショウガ。暑さでぐったりした体に、食欲を回復させる効用がある。光圏も好んでショウガを食した。
当時の記録書によると、やっこ豆腐の薬味としてショウガを乗せているほか、おろしショウガとみそをすりまぜてこしらえたとする「ショウガ酒」も飲んでいた。奥久慈に涼を求めて出かけた折にも、行く先々でショウガをはじめ、二ンニク、ニラ、ラッキョウなどの「五辛(ごしん)」を使った料理を積極的に食べていたという。夏バテ無縁の光圀は食生活の工夫にあった。


「秋」 重陽(ちようよう)の節句
 味覚の秋を満喫


 鹿島灘で暖流と寒流が混じり合う茨城は、常陸国風土記にも記されているように、太古の時代から「南限北限」の地として動植物の生息、生存分布がバラエティーに富んでいて暮らしやすいところとされている。 その典型的なパターンが秋に訪れる。

 初夏のはしりのカツオに対して、サケ(鮭)の川のぼりは、グルメにとって今も昔も待望のニュース。那珂川のサケのそ上は、昔からよく知られ、季節になるとそちこちで網が仕掛けられる。水戸の近くでとれたものが脂がのって良質と評判がよく、初代・水戸藩主の頼房の時から「献上鮭」として珍重されてきた。献上サケの漁師には、網代元の名が与えられ、秋になるとこの漁師があげた「2尺2寸」の極上献上サケが、京都や江戸に届けられた。 秋の行事は「重陽の節句」に始まる。 五節句の一つ、9月9日の重陽は数字が重なることから「重九」、長久につながるめでたい日とされ、・秋の味覚での祝いごとが行われた。

 ちょうど立春から二百十日ごろにあたり、清々しく秋空が広がる一方で、台風の襲来も心配のころだが、間もなく手にする秋の収穫を心待ちにしながらの宴となる。
 もう一つの春がくるということから、「別春会」と名付けた酒宴が開かれた西山荘では、近在の庄屋や家臣たちを集めて、赤飯をふかし、ご馳走を用意して、菊の花をさかなに酒を振る舞ったと記録書に記されている。

 光圀がここに隠居してきてから、元禄4年の5月に自ら植えたという菊が使われた菊飯や菊酒が振る舞われたという。光圀が自ら育てた菊を摘んでこしらえた菊づくしの料理。 独特の苦みを口にして、豊かな秋の到来を喜んだ。

 朝晩の冷え込みが始まるこの季節。西山荘の台所の食材もなんとなく豊かになる。
 元禄4年9月2日。「うりづら兵右衛門来る。柿、栗、小豆等もて来れり。御そばきりでる」 元禄6年9月9日o「くり壱寵給ハる。夜にて御酒まいる」 元禄7年9月2日。「松たけにて御酒被召上也。御魚三種。・・山にて御手づから松茸被為取也。・・日暮て・・・御そばきり出す。新そばなり」 と、記録書にあるように、マツタケとりをしたあと、新そばのそばきりを味わった秋。黄門さまの満足そうな顔が目に浮かぶようだ。


「秋」 マツタケの宴
 御酒ゆるゆると


 元禄12年9月8日に、西山御殿(西山荘)にマツタケの「初もの」が10本届けられた。
13日には、さらに「松茸壱寵二十二本也・・」と記録書にある。1 5日には、これらのマツタケを方々に配っている様子が記されている。
 地元の人たちによると、西山荘から西山公園のあたりの「山」では今でも、マツタケやマイタケなど天然もののキノコがたくさんとれるという。
 黄門さまのころは、このあたりは、まるで自然にすっぽりと包まれたような環境だっただけに、今とはとても比べようもないくらいキノコが豊富にあった。それでも、特にマツタケは珍重されていたらしく、当時の記録書には、この季節になるとやり取りの様子がひんぱんに出てくる。
  「松たけ多クとらセられし。・・庵(西山荘)へ。・・御料理御汁度々。はつたけ、松たけむし・・御酒ゆるゆるめし上らる」(元禄9年9月21日)。
 「江戸へ松茸二十本篭入献上、・・」(同11年9月1日)。
 隠居所の裏山でとれた新鮮なマツタケが江戸に急送され、将軍の食卓メニューに加えられたのだろうか。
 記録書によると、とれたてのものが直ぐに寵で届けられているが、当時の書物によると、「出荷」されるマツタケは、大半が塩水を入れた樽に塩漬けにして江戸に贈られた。地元でも、塩漬けによる保存が行われていた。キノコの季節が終わった正月や春に向けての行事の宴に良く登場するマツタケは、この塩漬け保存の塩出しをして調理していたようだ。 それだけ、マツタケが珍重されていたということになる。
 とはいっても、キノコ類は新鮮なものが一番。マツタケがたくさん届いた元禄12年の秋は、マツタケ豊作の年だったのだろうか、ひんぱんにいただきものが届いたり、光圀も自ら山に出かけたりしている。

 9月21日の光圀の行動記録によると、帰願寺の僧と「慈緑山」へ出かけ、山でマツタケとりをしている。「壱かぶに二十三本ありし」とあるから、相当大きなマツタケのかぶに出合ったらしい。 よほどうれしかったらしく、お決まりの宴会は盛り上がった。

 用意されたメニューは、 「御汁しめじ大こん、ごぼう、御すあえ岩たけ、いりさけあへ、わりくり、しょうが、あぶらふいりさけ、わさび、松たけとうふ、みょうが」。お酒でこれらの料理をたん能したあと、お茶が出され、いい気分で詩を吟じ、歌を詠みあったあと、 “二次会“ の準備が整った。 まず、うどん豆腐御前が出されたあと、みょうがとしめじ、白身魚の吸い物、ごぼうやでんがくをさかなに酌み交わす酒のうまさに一同ご機嫌だった。 「御酒、御うたいなどありて御酒いつもよりよく被召上也」。光圀も少々飲みすぎたようだ。


「秋」 月見の宴
 光圀の包丁さばき


 光圀が隠居所にやってきて間もない元禄4年の8月15日。常陸太田に住んでから知り合いになった庄屋や近くの寺の僧侶など近在の人たちと、家臣らを集めて、西山荘で月見の宴が開かれた。 その時の様子を自乗上人が、くわしく書き残している。

 自乗上人は、京都生まれの日蓮宗の僧で、光圀が延宝5年に、生母久昌院の菩提のために常陸太田に建立した久昌寺に招かれた。光圀が隠居してからは、常に相談相手としてそばにいて、光圀の西山荘暮らしの一部始終を克明に記録し続けた。 その日乗上人の記録によると、この日の天気は「晴れ、午後雨、雷少」。朝から晴れ上がったいい天気だったが、午後になって雷雨という、典型的な夏の日だったようだ。
 人々を集めて、光圀自らの料理を振る舞うということだったらしい。 西山荘に毎日のように出入りしている自乗上人がやってくると、光圀が廊下まで出てきて「こなたへまいれ」と台所に呼び込んだ。そこでは、光圀が包丁を手に、魚を裁いている最中だった。
 座敷では招いた客が待っているのに、「物語(おしゃべり)いろいろありて・・」と光圀の調理の講釈が続いた。湊から届けさせた魚を裁いて、得意だった様子がうかがい知れる。自乗上人によると、「魚体こしらえあるとて見せた」魚だったが、「いまだみぬもの」とある。光圀が調理して振る舞ったこの時の魚はなんだったのだろうか。 日暮れになると雨も上がって、月がのぼり、月見の宴の準備は整った。

 ひとしきり料理と酒を楽しんだあと、一同は庭にしつらえた即席の座敷に場所を移して歌の課題に取り組んだ。
 この日の宴にだされた歌のテーマは「山里の月」。 「詩は一年の明月中秋にありという意で・・」とのアドバイスをもとに、それぞれが詩をつくり、歌をうたった。
 宴は深夜まで続いた。ご隠居の自らの手で裁かれた魚で酒を味わい、月を愛でながら歌を詠む時を過ごし、「時のめんぼくかようのことぞ。一生の喜びとおもいし也」と、記している。

 お月見は、夏の終わりから秋いっぱいにかけてのロングランの行事。 「お月見なり」 元禄12年9月13日には、西山荘から山続きの久昌寺で開かれた。帰順寺の僧も出席しての月見の宴。高台にある寺の境内からの明月観賞。
この時に残された御歌。 「おもひきやもなかの空に引かへて 今宵さやけき月をみんとは」


「冬」 紅葉狩りの宴
 炉(いろり) 開 き


 奥久慈の山々が黄色く、赤く染まりはじめると、いよいよ冬支度の準備にはいる。
 その前に、グルメの黄門さまとしては、豊かな山の幸を求めて出かけたくなる。間もなくやってくる冬将軍に閉じ込められることを惜しむかのように、奥久慈地方の村々を泊まり歩いては土地に伝わる料理などをごちそうになっている。こうした巡行がなによりの楽しみで、この時に人々と交わした会話が、「副将軍」を通して、“庶民の声“として発せられたのかも知らない。
 光図のトレードマークでもある「諸国漫遊」も、行動的ご隠居の姿の表現のひとつでもあろう。なによりも、少年、青年期を奔放に江戸庶民の中で過ごしただけに、西山で暮らすようになってからも、人とのコミュニケーションが欲しくて仕方がなかったのではないか。
 秋が深まった元禄8年10月9日。漫遊記にも登場する西山荘での家臣、助さん(佐々介三郎)と格さん(安積覚之進)を連れて紅葉狩りを楽しんだ。
 この日は、太陽暦の11月14日に当たるから、山里では朝晩の冷え込みはかなり厳しくなっている。
 西山荘の周辺での行動らしく、夜には、冬の始まりを告げる行事でもある「炉(いろり)開き」を行っている。
 山歩きの紅葉狩りで少し冷えた体を炉の火に手をかざして暖をとりながらの語らい。光圀が好きなひとときでもあろう。
 自乗上人も一緒で、「今宵、炉の御ひらきとて、御祝ありし・・」と記録している。
  「炉開きの宴」は、いろりに小枝をくべながら、光圀がもちを焼いて回りにいる人たちにたまわった、という。「その後、御酒まいる」とあり、いろりの火で顔をほてらせながら酒をまわしては、歌を詠みあった。
 紅葉狩りの余韻と、冬への思いを込めて詠んだこの時の光圀の歌。
 「山里はみねの嵐にさそはれて 手もたゆからで落葉たく也」 久昌寺の日乗上人は、「今宵しも峯の紅葉おりくべて酒あたたむる宿のたのしさ」と詠んだ。
 十竹の号を持つ助さんの歌。
 「いつしかに冬たつ夜半は火に向かひ 心をすます木からしの風」 忍び寄る冬の寒さを感じながら、光圀は心を許した側近や僧と背を丸めて、いろりで暖をとりながら過ごした夜だった。


「冬」 正月・梅見の宴
 豪華に春を待つ


 すっかり木々の葉が落ちて、冬のたたずまいになると、隠居所の西山も、年越し、新年を迎える準備を始める。
 光圀は、年末になると京都の朝廷や将軍家、主だった大名に贈り物をしたという記録がある。「鯉魚一尾」「鮭三尺」「川尻のたたき」(塩辛)や「甘漬鮭」「白魚」などの水戸藩産の珍味が送り先で喜ばれたようだ。
 新年は静かに開ける。
 新たな年の始まりは、父で水戸初代藩主の頼房をまつっている瑞竜山に詣でる。元禄7年は1月2日、翌8年と9年は4日に、出かけている。2日は西山荘で、「御うたひそめ」が行われた。この日からは新年のあいさつに訪れる人たちも多く、「御盃頂戴」「御雑煮いでし」と、祝いの酒とぞうにをごちそうになり、「昆布」をいただいて帰った。
 正月が過ぎて、日差しにやわらかさを感じるようになると梅の開花のたよりが届く。

 寒い冬から春へのうつろいを喜びながら、梅見の宴に趣向を凝らす。お重がいくつも重なった行器に料理を詰める。持ち運びのできるお重弁当のようなもので、一つ一つを広げると、豪華な宴席料理があっという間にできあがる。
 冬の食材が乏しい季節だけに、お重に詰める中身は、その時によって異なったが、記録に残っているもので再現すると 、 一の重は、春マスの小串、エビ、錦玉子、煮しめに紅白のかまぼこ。
 次のお重は、ヒラメの昆布じめ、サケのレンコンはさみ、はららご(すじこ)のゆず釜。
湊に水揚げされた生きのいいヒラメ、県南特産のレンコンと那珂川や久慈川でとれたサケの身と珍味の卵を加工したものが詰められている。
 三の重は、「常磐アンコウ」のとも酢。アンコウは冬の水戸地方には欠かせない魚。北風が吹きはじめるころから魚屋の店頭に並び、梅が咲いて南風が吹きはじめると、「そろそろ終わりになるよ」と、声がかかる。大きくて、ぐにゃぐにゃしたアンコウは、この辺では吊るし切りでさばく。皮をはがし、身や内蔵をきれいにおろすと、“アンコウの七つ道具”といわれる部分がそろう。
骨を除いて全部食べられる。
 江戸前の「アンコウ鍋」、水戸の「アンコウのとも酢」といわれ、水戸では昔からとも酢が主流だった。光圀の梅見のお重にも、キモ(肝臓)をおいしく調理したとも酢で食べるアンコウが詰められていた。
 四つ目のお重は赤飯や梅の花をあしらった梅花めし。
 豪華な料理を味わいながら、冬からの開放が間近い「梅見の宴」を楽しんだ。


記録書に見る「水戸黄門さまの宴」
           割ぼう料理・水戸大塚屋主人 大塚 子之古


  「諸国漫遊」で知らされる水戸黄門・光圀。虚実入り混じって伝えられているが、「食事」について調べてみると、まさに「事実は小説より奇なり」であった。
 光圀は江戸時代前期の人だから、「黄門さまの食事」が和食中心であったことは当然である。
しかし、和食だけでなく、各種の香辛料を使った南蛮料理や、牛肉や豚肉、牛乳、チーズも食していた。好きな酒もぶどう酒やリキュール酒のようなものを飲んでいる。
 これらの“ エスニック料理”や南蛮風の酒を、側に仕える家臣や、後年取り組んだ「大日本史」の編さんに携わった彰考館の史館員たちにもごちそうしていた。あの、さまざまな規制のあった徳川綱吉時代に、天下の副将軍の光圏が牛肉や豚肉を食べ、牛乳やぶどう酒を飲んでいた事実は、古文書を調べてはっきり分かるにつれて驚きだった。
 光圀が生きた時代は、江戸幕府の基礎が固まり、安定期に入ったころ。既にキリシタン禁制で肉食が禁じられ、オランダ以外の西欧諸国に対しては鎖国の状態であっただけに、肉を食べ、牛乳やぶどう酒を飲んだという黄門さまへの興味、関心が高まった。
 いったい、どんなルートで南蛮料理が水戸に入ってきたのだろうか。
 まず考えられたのは、光圀が明から招いた儒学者・朱舜水や明が滅びて日本に亡命してきた僧・心越らによってもたらされた「異国の味」。さらに、海外との交易に強い関心を持っていた仙台藩・伊達家からのルートもあった。
 海外で生活した船乗りたちが日本に戻り、仙台より江戸に荷物を運ぶ途中、那珂湊に寄港したさいに、祝町の料理茶屋や宿に南蛮料理を伝えたという説もある。
 実際に河口に「南蛮河岸」という地名が当時の記録書に記されていて、この説を裏付ける格好になっている。
 ところで、南蛮料理の作り方がこうした船乗りたちによってもたらされても、材料がなくては料理はできない。光圀は、西欧の料理に欠かせない香辛料も肉類も「自前」で調達していた。
 光圏の生活ぶりを記録した書物によると、隠居所の西山荘付近や藩の薬草園にコショウ、ニッケ、月桂樹など草木を栽培させ、県北部の高萩・大能地区に牛を放牧し、水戸藩直営の牧場経営も進めさせていた。ここでは1日あたり7リットルの牛乳を絞った。江戸時代の古い地図にある水戸・柵町の「宍倉」は肉の貯蔵庫で、城内でも肉を食べていたのではないか、との推測も成り立つ。
 「黄門さまの宴」で特筆すべきは、「生類憐れみの令」が出されていた時代に、堂々と牛肉、豚肉、とり肉をメニューに入れていたことであろう。
 元禄4年には、将軍家の用人にあてた手紙に「野猪(いのしし)を料理して振る舞う」と書いたものがあったり、「かねがね約束の白野猪二つ、今夜届けましょう」という佐賀・鍋島公にあてた手紙も残っている。
 将軍・綱吉に大の皮を贈ったという話があるくらいに、光圏は「生類憐れみの令」には批判的であり、挑発的でもあった。
 そのわけは、光圀が「医食同源」の思想に基づく健康のための料理を志向していたことによるのではなかろうか。
 若いころ病弱だったという光圀は、特に健康には留意していた。西山荘に隠居してからの側用人は二十三人いたが、このうち七人が本草学者と呼ばれた漢方医だったことでも分かる。
 食に気をつかい、食べることに食欲だった黄門さま。当時としては、奇想天外、ご法度の食材を積極的に取り入れたメニューは、記録書をひもとくたびに、教えられるものがあり、その都度新鮮な驚きを楽しんでいる。


アユの足半(あしなか)料理

 太田の隠居所から、近郷近在を訪ね歩くのが好きだった黄門さま。奥久慈の小里郷にやってきた時、アユ漁の最盛期だった。
 土手の上からアユ釣りの様子を見ていたが、グルメ心が燃えたらしく、突然川原に下りて、「アユ料理をする。まな板、包丁を・・」と大騒ぎになった。
 アユをさばく刃物はあるにしても、山間の川原にまな板はない。
 そこで黄門様は、「だれか履きたる足なかぞうりを・・」。足半(あしなか)ぞうりとは、釣り師が川のなかで、石などで滑らないようにはくぞうり。
 そのぞうりをまな板がわりに使おうというご隠居のアイデア。水の中のぞうりはきれいであることと、ぞうりの裏側の滑らないようにしてあるわらの細工が、魚体がつるつるのアユを調理するのに具合がいいとの機転だった。
  「その上(ぞうりの)にて、小柄で裁断すべし。わらほど清浄なるものはなし」と記録書にある。
  「アユの足半料理」として復元されている。


南蛮渡来の料理

 四つ足動物の肉を食べたり、スパイスを使った料理、牛乳やぶどう酒を飲む。ハイカラだった光圀は、招いた儒学者から海外の食文化を学んではオリジナルなものを考案している。外国帰りの船乗りがもたらす情報も聞き漏らさず、健康食品づくりに生かしていく。食への食欲さが感じられる。
 当時の記録書に出てくる南蛮料理を拾ってみると、牛肉のなます(牛刺し・牛タタキ風)、アサリ貝の牛乳仕立て蘇伯-(スープ)、豚肉の角煮風、ぶどう酒、牛乳酒など。
 これらの南蛮渡来の料理をこしらえるために、牧場をつくって牛を放牧し、薬草園で香辛料の栽培を積極的に進めた。
 光圀は、「牛乳の効能は牛肉よりもなおさら大なり」とその栄養価を評価し、家臣にも飲ませたとされる。ぶどう酒も藩内で醸造しているが、ブドウの実を絞って発酵させたていどで、上等なものではなかったろうが、海外の文化への関心は、かなりのものだった。