という訳で 「『鬼子母神』って『逢魔が時』の話であったよなぁ 夕闇ネタだけじゃなくて、逢魔ネタも出来るじゃん、しめしめ」 とか考えながら探検をして、家に帰って久々に『逢魔が時』立ち上げたら・・・
「がっくし」
『鬼子母神』なんて無かったよ、『脱衣婆』と勘違いしてました・・・ (鬼みたいな女が悪さするということだけで関連づけていたようです) まあ落ち込んでばかりもいられないので とりあえず報告をば。
雑司ヶ谷の鬼子母神の本殿。
無料配布されていた絵はがきに詳しいコメントがあるので、まんま転載してみる。
〜都指定有形文化財(建造物)〜 法命寺鬼子母神(きしもじん)堂 (指定:昭35.2.13)
鬼子母神堂の建立は、棟札によれば寛文4年(1664)、拝殿と幣殿は元禄13年(1700)に建てられた権現造の建物です。『新編武蔵風土記稿』では、広島藩主浅野光晟(みつあきら)の正室満姫(金沢藩主前田利常の3女)が寄進して造営されたと伝えられています。 本殿は三間社流造、身舎(もや)側面2間ですが、内部は向拝(こうはい)を含めて3間の一室となっています。本殿と拝殿をつなぐ幣殿は、桁行(けたゆき)3間、梁間(はりま)1間の室で、中央に3段の階段が設けられています。手前の拝 殿は桁行5間、梁間4間、入母屋千鳥破風(ちどりはふ)付きの建物で、正面に唐破風(とうはふ)の 向拝が付き、前面と側面に縁がめぐっています。 鬼子母神の由来は、永禄4年(1561)の鬼子母神像 出現に始まったと伝えられ、『新編武蔵風土記稿』 などによれば、初めは法命寺の塔頭東陽坊(後に 大行院)が別当で、長く庶民の信仰の対象でした。江戸後期には将軍の御成もあったほど、大いに繁盛しました。
ってことらしいよ。