京都昨今 |
86.京大オケ女人禁制事件 1941年 畜妾制とキーセン③ |
1)8月15日の夜に、自由への高らかな響き 戦後の西日本で、最初の管弦楽演奏会は、京大オーケストラによってなされた。指揮者は山田忠男である。 「戦いは終った。鶯の歌を関西ではじめて告げたのは京大のオーケストラである。戦いが終ったからといって勝ったのではない。惨憺たる敗戦ではあったが、自由の伝統に輝く京大の学生たちは、敗戦のその夜からゲートルを捨て防空頭巾を脱いで、高らかに歌ったのである」(『風流洞物語』p99 洛味社1962) 京大オケは、敗戦の日の夜、滝川事件(1933)以降、まさに反権力と反戦の砦となった学生集会所で、オケの練習をはじめた。 ――敗戦の夜に、ベートーベンの「交響楽第8番」の練習をはじめました。京大音楽部は反戦のシンボルでしたから。と、わたしへ何度もいった、山田先生が主導した、第59回定期演奏会は、1945年11月18日、夜7時、河原町三条の朝日会館で開催された。 東京では、日響(=N響)が9月中旬、復活をしていた。が、大空襲での被害から、照明の問題で、夜の演奏会はできず、日比谷公会堂で昼間の演奏会だった。 枕崎台風がゆき、涼しくなると思った、九月も半ば、山田先生は、理学部の事務室をとおり、階段をのぼろうとした。事務室のちょうど真上は、理解ある音楽部長の堀場信吉博士の研究室になり、山田先生の研究室は向かいになる。階段のところには、八月の新型爆弾の日と違った表情をしている、二人、三人の同僚たちがいた。朝の挨拶とおもったら、若い研究生の目に涙がある。広島へ行った京大病理調査班の理学部員が、台風(1945.9.17)による山津波で遭難して、俳人でもある前の音楽部長、松尾巌病院長のもとでは、真下俊一教授(内科)はじめ、多くが、宿から一気に海へ流されたとのことだった。 名古屋城のそばになる山田先生の実家は、B-29の爆弾が5発当たり、火も出たが、近所のひとが、打ち消してくれたという。名古屋だけでも、自分の周囲の、生命がいくつも奪われた。さらに、戦争はすんだはずだのに、広島や長崎からは、京大オケのメンバーも犠牲になり、新型爆弾がもつ放射性の物質は、体の外部も内部も崩し、生命体でなくなってゆく作用があるとの報告がつづいていた。 山田先生は、事実だけは受け止め、日記にしるしてゆく。しかし、この事実は、どんどん増えてゆくとだけ思っていた。この日々で、山田先生の気持ちを、少しとりなしたのは、学生たちと、いま練習しているベートーベンの「交響楽第8番」を構成している、楽器の練習音だった。 「第8番」の選定は、メッテル先生が、指揮者なら、ベートーベンの第一番から第九番まで、すべて演奏してゆきなさいという教えがあったからである。 ――ぼくたちの学生集会所ですが、外の明るさに慣れた眼で、暗闇のフロアを歩き、階段近くへすすんでゆくんです。すすむとともに、暗さが明るさへ変り、日陰にほっとしながら、階段のところから、上を見上げる。 ――取り返しがつかないことが、幾つも重なり起きてくるとおもった、戦争の時代。だけれど、8月上旬の、あの日々からは、バイオリンの旋律、フルートの音色、チェロの響き、どの楽器もですが、以前より、物悲しく聞こえだしました。そして、非常に不愉快な敗戦の日がきました。 ――「第8番」の最初のところのバイオリンですが、「第3番(英雄)」の最初の第二バイオリンと、ぼくなりに、くっきり違いをみせる練習をしていたんです。もっと力強く、もっとやわらかめにと指示した、オケの音が、二つ、三つ重なり聞こえだしたとき、学生は理解して練習してくれているだと思い、感激しました。これは戦後の音になるんだと。それから、どんな音であっても、立ち止まり、階上を眺め、聞いてしまうような時間がふえました。 ――戦争の時代も、戦後も、なにもないといってよいほど、貧しい時代でした。しかし、若い学生による音楽への気持ちはあったんです。敗戦の日、学生たちは、メッテル先生の時代はわからないけど、朝比奈隆先輩が居たときみたいにやりたいというのです。ですから、集会所では、気持ちを変えようと、それだけを思っていました。 戦争の時代を回想しながら山田先生は、右手を耳へ近づけ、金属性のライターを取った。 ――聞こえなくなってくると、このライターを当てるんです。、、、しばらくすると、聞こえてくるようになるんです。といい山田先生は、銀色のオイルライターを、右の耳の下にくっつける。 ――耳が専門の、親友の荒木元秋君に、聞こえなくなってきた耳の下に、冷たいライターを当てていると、なぜ聞こえてくるように成るんだろう。三叉神経の血管などが、興奮や鎮静作用で変化するんだろうけど、どうなっているんだろうと聞くと、わからないと答えるんです。 山田先生の、京大オケの思い出は、京大音楽部のメッテル先生にあこがれて、同期で入学してきた、堺市出身の荒木元秋医師とともにはじまる。 荒木元秋医師の、お父さんは輸入商で、明治時代、アメリカへ渡り、エジソンから「蓄音機」を買って、明治天皇に奉呈した荒木和一という。第三高等中学(=旧制第三高)を卒業して、ここで、山田先生の遠縁になる牧野虎次(同志社総長)と同級生だった。 中国で、8年あまり、家族で捕虜生活を強いられ、横須賀で開業された、荒木元秋医師には、著書(『鏡に映った戦争と平和』近代文藝社1992)がある。 山田先生の文章の特徴になるが、時代との関係で、差しさわりのある事が多く、それらと、分かりきったことは、まったく書かない。行間を読むという言葉があるが、文章の間どころか、とうじの人間関係を教えてもらっていなければ、読みにくい。 おなじことは、荒木元秋に言え、指揮者の朝比奈隆にもいえる。山田先生が出てこない。アメリカとの戦争が激しくなったころ、朝比奈隆が京都の宿にしていたのは、北白川の山田先生宅だった。ところが、こういったことは表現していない。 山田先生は、現在だと、フルートのプリンス現れるといった、新聞記事や映画ニュースで、1930年代に名前を知られた。その人物が、傷痍軍人となったということは、悲しい出来事で、この山田先生のことを書いたり、発言しはじめたりすると、戦争で死者となった、京大音楽部のメンバーたちの回想になるからだと思う。 そのため、ふつうの音楽ファンが、朝比奈隆の著書を繰っても、言葉にある、多くの背景は、分からないと思う。 2)『笛師』、京大オケ叛乱軍を指揮する 日本人には、読書家が多く、冷静で落ち着いた文章のはこびをする新田次郎には、現在もファンがいるだろう。が、京都を舞台にして、組み立て20年の小説『笛師』のバックボーンに、山田先生があり、音楽学の田辺尚雄先生と共に、登場人物であることを知っているひとは、少なくなったと思う。 山田先生は、旧制愛知一中時代のころ、明清楽の横笛となじみ、邦楽に詳しい。 衰えた邦楽に、洋楽を加える運動をすること。平行する、邦楽復興の一段階として、1950年代はじめ、雅楽の総譜と楽器博物館準備のことで、東京から邦楽の田辺尚雄先生を京都を招いた。そして、京都を中心に、10日間、田辺先生による講演会を催した。 ――雅楽は、6世紀、聖徳太子が大成。大和猿楽の、結崎・外山など四座は、14世紀に入り、観阿弥・世阿弥父子で隆盛し、観世・宝生・金剛・金春へと発展しました。 そして、日本の女流、たおやめぶりあふれる歌人、7世紀の額田王に、16世紀に出雲の阿国でて、いまも日本の情緒をまもる、祇園、先斗町には、人間国宝となる「京舞井上流」。京都だからできた盲目の女性文化、この地唄(じうた)の人間国宝は萩原正吟(せいぎん)。無形文化財の一弦琴の倉地素風(しん)など、才能のある女性がずいぶんいます。 となどの音楽講話を、してくださったと、山田先生はいい、これをよろこんだ、解剖の平沢興先生は、京大で歓迎したいからと、清風荘(西園寺公望邸)で雅楽の宴をした。 ――田辺(バイオリン)さん、合奏が好きなんです。学生のオケとは第二の後方に加わります。先生の田中舘愛橘がフルート吹きますから。平沢さんのまえで、舞をみせ、ここでも、田辺さん、踊りだしました。 ここで(先生宅の、「風流洞」の居間)ですか?とわたしが驚くと、 「そうですよ」と山田先生はロッキングチェアから立ち上がり、謡(うたい)と、腕の動作をする。 言葉による謡曲と舞は、小さく二畳もあればでき、このささやかさが日本の文化だろう。共通されたことは、山田先生も、田辺先生も、楽器、実験類をすぐ作られる。 戦後、日本が貧乏で、北白川あたりが竹だらけのとき、山田先生が、子供のためにつくって配った竹の笛は、細い竹(しの竹)と、小さなノコ、小刀があれば、一本、30分もかからない。(『インカの笛』p151NHKブックスジュニア 1975。本を書く、きっかけになった人物は、劇団くるみ座の毛利菊枝。戦前から親しく、「くるみ座」には協力され、とうじ毛利菊枝が有名だったため、著書には、美術史家の森暢夫人としか出てこない) このキャリアがあるため、旧知の人情家、バイオリン制作の峰沢峯造が、山田先生へ依頼事に行った。西陣に、良い笛をつくる福田泰彦が居る。生活が窮乏しているから助けて欲しい。これを聞き、山田先生は会いにゆき、福田泰彦の笛をためし、「福田名人」と太鼓判を押した。 消えてゆく伝統楽器の作り手をあつかった『笛師』とちがい、朝比奈隆の同窓になる井上靖の『貧血と花と爆弾』は、戦後、来日した、最初の巨匠、バイオリニストのメニューインMenuhin(京都公演は、戦前、スケート場だった河原町三条「京劇ホール」1951)の興行をめぐるマスコミ界をテーマにしたものである。 メニューインを、細長く、狭い会場で家族そろって聞いたという、山田先生は、これが契機で、海外音楽家のラッシュになったことをいい、井上靖が作品にしていると紹介した。(『ふるさとの歌』p87創思社1968) 山田先生の反戦と抵抗の経歴になるが、旧制の愛知一中ではSONY創業の三木守人とストにより、二人して無期停学。全寮制でなくなっていた第八高校では、三・一五事件(1928)があり、三木守人の同級が経済学の都留重人のため四・一六事件(1929)で、閉塞。侵略戦争反対と、留年をしているとき、満州事変(1931)が起き、級友が外人教師と激論をはじめ、また謹慎でとうとうノイローゼ。 大学では、滝川事件(1933)があり、鳩山一郎文部大臣が、京大へ「学生主事制」を強化した。 ただでさえ、ソビエトから追放されたメッテル先生による京大音楽部は、第一次世界大戦後、日本への三国干渉の、ロシア、ドイツ、フランスの音楽作品を練習、発表し、メッテル先生は、音楽家には、文学や美術が必要と教えたため、英語、ドイツ語、フランス語に加え、ロシア語を学習しはじめ、モダニズムの先端を行った。 とうじの旧制高校生の情報源は、週刊の大学新聞だった。山田先生たちは、大学新聞により、メッテル先生を知ったという。 1933年、京大音楽部に、白系ロシア人メッテルを慕う山田先生と荒木元秋が加わった。このとき、大学本部に反抗ばかりの、叛乱軍の芽が出て、一年、二年経ち、後輩が増え、「京大オケ叛乱軍」が完成した。そして、学生の自治権を求め、叛乱軍を率いた山田先生は、「西洋音楽亡国論」を唱える、なんたら何段の学生主事と、衝突ばかりおこしはじめる。 この居合道十段、剣道九段、柔道七段は、わたしたちの、学生運動の時代(1970)でも、だれだか分かった。何某は、聖護院の武専(武道専門学校)あたりでは、誰よりも有名だった。そのため、山田先生は文章で、人物名を表記しない。 ――朝比奈さんも、荒木君も、帰ってこないから、音楽評論をしていた先輩の、吉村一夫さんに相談したんです。定期演奏会の開催にたいして、芦屋に住む吉村一夫から山田先生への連絡は、洋服から家財道具一式を、敗戦後のどさくさに多かった集団強盗にやられたとのことだった。 ――祭典ですから、ぼくは、いつもどおりの燕尾服でした。、、、混乱して不安な時代でした。しかし、音楽文化は、市民の活動からあると、メッテルの教えどうり、評論家の吉村さんも同じ気持ちで、OB.のぼくたちは、最初からのように、やり直すんだと山田先生はいい、メンバーの姿勢を説明しはじめた。 ――春の定期(1945)は、学生集会所の階上でした。求められている祭典なのに、6月はプログラムの印刷もできない状況になりました。プログラムは黒板に書いただけです。それでも、集会所は、聴衆でいっぱいでした。8月15日、学生の命を奪っていった戦争は、敗戦という形で終ってしまいました。考えたことは、戦時中の春や夏とは違う、これからは、拘束されず自由にできるという期待でした。 ――集会所の規則で、練習はいつも夜の九時まででした。OB.も学生も、空襲の被害が少なかった京都だから、夜に、市民へ向けてできると、オケの練習に希望をこめていました。しかし、どうしても、同窓や仲間居たポジションに眼がゆきます。戦争で死んでいった友人たちを思うと、みな涙です。 ――自由になっただけの、合奏の響きを出そうと、これだけでした。練習するにつれ、これまで以上に、気持ちが通じて行っている気持ちになりました。でも、すぐ、涙だらけになります。 山田先生も評論をされたが、戦争の時代、洋楽への批判があった日本から「西洋音楽評論家」が多く発生した。これには、京大音楽部でオーケストラを教えたメッテルを要因としている。 リムスキー=コルサコフの弟子になるメッテルは、パトロンは別にして、音楽活動の発展には、新しい音楽を解釈し、大衆へ新しさと良さを、かみ砕いて説明してゆく評論家が、何人も必要であることを熱心に講義して行った。 ――ぼくは、強盗の被害を心配していたんですが、吉村さんは、参加したいというのです。オケの音に飢えていると言うんですね。熱心でした。仲間への鎮魂があったのでしょう。 ――広島陸軍病院で、上官だったチェロの更井恒夫(細菌学)君は、いつも親切にしてくれたコントラバスの松原久之(耳鼻咽喉科)先輩に、松原先輩、倉敷へ帰郷してくださいと、先輩に召集解除の命令を出したんです。松原先輩は、それで生き残れたんです。ですから、吉村さんは、どうしても参加する、どうしても皆とバイオリンかビオラを弾きたいというんです。服は、ドロボウにやられ、いま着ている夏物しか無いけれど、これを黒く染めたら分からないから、行くとのことでした。 メッテルが講義したロシアの評論家は、ムソルグスキーやリムスキー=コルサコフと交友のあったスターソフStasov、ワーグナーを押し出したセローフSerovなど多く、メッテルの気概は、朝比奈隆、吉村一夫はじめ、心がまっすぐな門下生たちへ通じて行った。 ――九時以降の打ち合わせは、だいたい、百万遍の西角の居酒屋でした。昼にしか演奏会ができないという東京の動きも伝わってきました。題目は、ぼくの好きなモーツァルトから選ぶことにしました。だけど、OB.だけになり、ひとつは、モーツァルトのピアノ協奏曲20番というように、ひとつ物事が決まると、やはり戦争で犠牲になった、メンバーの話になりました。 モーツァルトのピアノのソロは、日本音楽コンクール(1938)で2位の成績をとった進々堂パンの令嬢の続木雛子に頼んだ。 京大オケだけでも、多くの死者を生んだ悲惨すぎた戦争に、祈りと演奏が、心を救っていたのだろう。シスターの続木雛子は、練習のときから、自由な時間ができると、とうじ朝日会館の北に位置した、聖ザビエル天主堂(いま、博物館明治村)へ、祈りに行っていたという。 ――演奏会へは、戦争中は禁止状態に近かった、オーケストラの響きを求めて、京都だけでなく、神戸や大阪からも聴衆がくるとのことでした。じっさい、幕を開けると、会場には、京都会館のななめ前が宿舎になるG.I.たちまで来て、熱気があふれ、立錐の余地も無い日でした。 冬が近づく11月の半ばでしたけど、指揮のぼくは、汗だくでした。けれど、ビオラの、夏服の吉村さんだけ違っていました。舞台裏では、寒い寒いと震えていたのが、いまでも印象にありますと山田先生はいった。 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2013.8.4 |