京都昨今
 
85、『菊と刀』を使ったパッシンとヘンダーソン            畜妾制とキーセン②

1)同姓不婚と一体になった制度 
北朝鮮のニュースで、現在(2013)、「開城(ケソン)工業団地」は、外貨獲得のためという言葉が使われている。
同じように、わたしが、高校、大学生のとき、戒厳令を敷いていた韓国のことは、ときどき、雑誌が戒厳令下とはどんな状態かとか、「キーセン(妓生)」とはどんなものか記事にしていた。これらは、大人の会話で、わたしたち高校生の会話に、「韓国」「戒厳令」という言葉が出ることはなかった。

わたしの経験の範囲だが、「在日」のことを書くと、大阪の地下街での、韓国、朝鮮人の男子がナイフやカナヅチを使っての暴力、恐喝、タカリ被害はしょっちゅうだった。が、東京オリンピック(1964)以降、女生徒が犠牲になる強姦事件がふえてきた。このころから、大阪、京都では、成績が上位ランク以外の公立の共学へ進学させられない時代になった。
大阪万博(1970)以降、家庭の主婦も犠牲になってきて、大阪の郊外になる、高槻市の高槻高校、茨木市の関西大倉学園、枚方市の啓光学園の生徒は、毎日ターゲットで、生徒を守るため、風紀係の教員が、駅周辺を巡回するようになった。
ソウルオリンピック(1988)以降は、高齢の女性も犠牲になってきた。被害者側が黙るのが、日本の習慣で、高齢者への強姦は、信じにくいものだったが、韓国、朝鮮からのニュースを知って、民族の習性かと思ったひとも多いのではないかと思った。

理解しにくい習性は民族性なのだろうが、これらには、21世紀まで続いた、韓国、朝鮮の性制度の影響が大きいのではないかと思う。
今回の反韓運動は、いままで、強姦はじめ、暴力、殺人の被害を黙ってきた日本人が、ネットで、加害者が、韓国、朝鮮と気づいたからで、100年ぐらいで感情は治まらないだろう。

「キーセン(妓生)」については、男性雑誌などが、特集記事で扱い、外貨獲得のためという言葉があったのではないかと思う。韓国のじっさいは、1980年ごろまで、外貨獲得という国家の方針で、国の制度にふくめ、ソウルでは、高級ホテルごとが、キーセンハウスの状態だった。1980年代以降も国営のキーセンは続けられていた。
諸外国には、貧しい国がたくさんあるのに、朝鮮半島は、外貨獲得のためといって、ずっと内紛状態というか、騒動ばかりと言ったほうが、わかりやすいだろう。

中国と隷属関係ができた国々は、宦官に纏足という身体加工を取り入れ、下層階級を奴隷のように扱い、女性をペット扱いした畜妾制やキーセンの類似が在った。ところが、日本には、奴隷制はない。
欧米は、20世紀の初めに、進化論と優生学を流行させ、断種法を実施した。これも日本では議論はしたが、実行などしていない。

キーセンの起源は、常に残酷な歴史をつづける中国からで、韓国、朝鮮にうつり、オリジナルなものに変化したと、わたしは習った。
わたしが高校生だった1970年ごろ、京都は、中国の制度史でも、10人単位の専門家がいただろう。いっぽう、朝鮮史は、1970年代半ばから、任那、百済の古墳について、作家や歴史家が話題にするぐらいだったのではないかと記憶する。
やはり、韓国、朝鮮が、戒厳令を敷いていたため、古代史でも日本の学者は発言しにくい状態だった。

韓国、朝鮮の性奴隷である畜妾制とキーセンは、人類学の知識として、日韓併合時代を生きた、わたしの先生から聞いていた。
日本では、娼妓に自由があり、19世紀に遊郭でストライキをした娼妓の「自廃」運動と比較して、説明してもらった。
時代を知る三島由紀夫が「在日」は、韓国、朝鮮から逃げ出した「難民」であり、国際問題であると表現していた。韓国、朝鮮は国内問題を、国際問題へと責任を転嫁している国という見方だった。

韓国、朝鮮の性制度である「キーセン」は、2004年の“売春”、“買春”、“斡旋”禁止の「性売買特別法」で分かるように、21世紀になり、ようやく禁止になった。
つづいて、結婚制度に関連する「同姓同本不婚制度」も、2005年にやっと廃止になった。このことは、日本のニュースでも扱っていたから、知っているひとも多いだろう。

20世紀中、国家ぐるみで、外貨獲得のため、性奴隷制度のキーセンを敷ける民族である。国中で金のためならと、肯定されていたのだから、禁止といっても建前で、現在もソウルで継続されていても、奇妙ではない。これが完全になくなるか、別のものへと変化するか、若い世代への課題となるだろう。

過去、日韓併合(1910)という時代があり、日本は統治のため、朝鮮総督府(日本政府)を置いた。
ふつうこれだと、日本が韓国、朝鮮を統治したのだから、制度など、日本と同じだろうし、植民地なのだから、韓国、朝鮮人に不利なものへ改変していると思うだろう。
ところが、朝鮮の支配者(両班)は、日本政府から、金銭だけ出させ、約束事を次々破っていった。なにしろ、日本人と価値観がまったく違う。日本人の約束などが成立しない民族で、自分たちが決めた価値観だけを通してゆく民族であること。財産権はじめ、一夫多妻の畜妾制と、女性を自由に使えるキーセンなどは、絶対に譲れない伝統だとして、日本政府が関与しても、聞かなかった歴史がある。

西欧列強が、インド大陸、アジア、アフリカに敷いたプランテーションは、現地の民族を奴隷のように扱うものだった。ところが、日本政府は、韓国、朝鮮に、プランテーション(奴隷)方式を採用していない。
日本政府が、身分制度の廃止に、被差別階級の開放を唱えても、支配者階級(両班)は、財産権である農耕には、李氏朝鮮からの奴隷制(賎民の奴婢、白丁)が必要なため、これを維持するとした。

このことは、家族制度も同じだった。京城医専の桐原真一教授による血液型論文(1927)の「畜妾制」の記述、「男子ハ畜妾ヲ公然免サレテ居ルガ」(『改定第二版』p140『「血液型と性格」の社会史』河出書房新社 1991,1994)でわかるように、一夫多妻を廃止せず、温存して行った。

過去、わたしに取材した、マスコミは、「従軍慰安婦」問題が、1991年5月発行の、わたしの著書が発端になったと思っているだろう。
わたしが、マスコミへ言ったのは、日本の軍隊は批難ばかりされている。が、軍医たちの手書きの報告は、兵隊の生命を預かる以上、責務から、いかに真剣だったか。欧米のものは印刷なのに、日本は貧しい中、ただ誠実な手書きの報告書があり、国会図書館も、防衛庁の研究所、図書館(1980年代、目黒区の防衛庁、いま防衛省)も、わたし以外、未読といわれるものがずいぶんあったと言った。

著書の刊行前に、河出映像の清水浩ディレクターと出会い、TBSの『新世界紀行』で、放送をしたいと言われた。
そのため、長野オリンピックを予定した、長野で、日本最初の血液型検査をした新聞記事があり、それをわたしが、発掘してきたこと。
長野日赤病院長の原来復の墓がある、長野市松代町には、恩師の東大医学部教授たちが居て、夏目漱石、正岡子規と親しいこと。
テレビカメラは、日本に血液型の知見をもたらした原来復の母校、東大の本郷を中心に、彼らが生活していた万世橋(いま、秋葉原)を映せば良いし、原来復が留学したハイデルベルグ。血液型の遺伝方式を議論した日本の法医学者たちが集結したパリ、これらを映せば、ゆかりの家族たちと連絡が取りやすく、この医学史の出来事は、とうじ、東京を中心にした医学界でも、取り上げていなかったため、すべて発掘となり、はじめての映像と活字になるとの企画だった。これは企画後、とうじ河出映像の小池信雄社長が一方的に潰した。

2)恋愛、離婚の権利がなかった朝鮮女性
社会を構成する、結婚制度(家族制度)は、日本のばあい、男女同権と、明治維新(1868)のときに変えた。最初は混乱があっても、10年も経てば、民主的な自由結婚さえ選択するようになった。
ところが、韓国、朝鮮は20世紀であっても、女性を隷属させる畜妾制とキーセンは、先祖(李氏朝鮮)からの譲れない貴重な伝統だとした。女性の自由を示す、自由結婚など論外だった。

7世紀、10世紀に女性が自由に恋愛を詠め、描けた奈良と京都。室町時代に商人が自由都市を築いた商業の町、大阪の堺。徳川政権の町であって、独身も自由で町人文化が栄えた江戸。
自由を求めていった日本の文化と、まったく違うのが、韓国、朝鮮のキーセン(妓生)、ペクチョン(白丁)にみられる奴隷の文化である。

李氏朝鮮時代が、奴隷制を敷いていたこと。この奴隷制からと言える、①「同姓同本不婚制度」②「畜妾制」③「キーセン(妓生)」の三つの制度も、日本になかったため、ほとんどの日本人には理解できない。
わたしのばあい、1977年、いわゆる「在日」の運動家から、韓国、朝鮮の問題は、常に国内の上層階級(両班)にあり、いまだ奴隷制があると聞いていた。そのため、形質人類学の山田忠男先生に、制度史を確めると、そうですと教えられた。
ちょうど同じ、1977年ごろ、京都、祇園町の娘(こ)からの、舞妓が不在になるため、どのようにするか。時代の変化と不景気もあり、存続かどうかの問題が起きた。結局は、言葉が違うけれど、亀岡の娘からとなった。
この記憶があるのは、日本の遊郭とは、文化人類学の視点で、どのようなものか、歴史を調べていたためである。

日本の文化で、外国からも、日本人からも、誤解を呼ぶ事柄に、花街のことがある。夏目漱石の弟子、赤木桁平が、祇園ゆかりの吉井勇を、酒がからむ遊びだとして、「遊蕩文学撲滅論」をあらわした。
戦争中、吉井勇は市中への「転入制限」で、夫人と綴喜郡八幡月夜田に暮らした。1970年ごろ、月夜田は、わたしの散策地だったが、山の中という印象しかない。
「包み背に水月庵の老尼がゆく」「妹は寝ぬ蛙(かわず)うるさくねむれずと言ひ」の八幡の歌で、竹やぶと木々のなか暗闇に小さな明かりをみせる水月寺も、わたしが高校生のころ、まだ在った、荷物を背負い寂しくみえる老いた尼も、見ないとわからない光景だし、八幡あたりは湿地帯であり、水無瀬から樟葉にかけて、梅雨で雲が低いとき、カエルの大きな合唱は、あのころを経験していないとわからない。いま、過ぎていった八幡の風物を、効果的につたえるのは、吉井勇の歌ぐらいしか、わたしにはわからない。

同じように、吉井勇だけでなく、日本人の短歌、俳句の芸術は、わかりにくいものだろう。
歌を読むと、吉井勇が、祇園の舞妓に求めたのは、祇園言葉と仕草とわかる。小学校を経た子が、化粧をして着飾る娘になり、大人へと夢みる、幼さのある舞妓になり、無邪気な感情からの、境界を感じる言葉付きが、創作へと意思を向けたのだろう。

山田先生は、京都の文化を残し伝えるため、「京都文化団体懇話会」(略称『文団懇』ぶんだんこん)を創設し、初代会長に吉井勇をむかえた。学者や知識人では、ひとの気持ちをあつめ、運動体にすることが無理と知っていたためで、1970年ごろは、千宗室に。この山田先生に、わたしは、祇園の娘でなく、亀岡の娘になり、祇園も不況で止めようかといっているし、芸事で、残すところは残して、もう改める時期ではないかと言った。
山田先生は、フルートの普及には、友人の吉田雅夫を会長にして、フルート協会を設立。欧米人が邦楽の総譜(スコア)というので、文部省、外務省へ働きかけ、日本初の欧文付きの総譜(龍吟社、発行)。オペラを格段に普及させ、残してゆくため、言語(イタリア語、ドイツ語)を、早く英語にする運動をされていた。

3)転入制限の時代、祇園あたりはバー1軒、カフェ1軒
韓国、朝鮮は、吉井勇が大事にした、日本の女性が意思をもち、明確な境界がある文化と、性奴隷の畜妾制とキーセン文化と混乱しているのではないか。彼らの混乱からの捏造は、従軍慰安婦の数20万人とか70万人という主張にも表れている。
1944年ごろ、京大がある百万遍、今出川通りの喫茶店は2軒、祇園で町のバーは、四条通にいまもある元禄1軒、カフェは円山公園の円食(まるしょく)1軒と山田先生は言われ、活字にもされている。

和菓子作りも「物資統制」、夜は全国中が「灯火管制」で電球は五燭、吉井勇が「転入制限」を受けたように、祇園では、都をどりは中止、芸妓も伏見の深草や高野の陸軍病院へ慰問や軍需工場へ奉仕に行っていた。
深草に「第16師団」が在り、京阪沿線の西側に、数軒売春宿があったというぐらいで、大阪砲兵工廠播磨工場では荒井浜に三軒から四軒ほど。遊郭でなく、売春宿3、4軒とは、1960年代の都営住宅2DKの、2軒から3軒ぐらいを合わせた大きさとのこと。
韓国、朝鮮のキーセンは、四畳半と六畳の2DKに、千人、一万人が入れるのか。とうじ五大都市の京都は、「転入制限」を敷かれ、空襲に備え、紫明通り、五条通りは、住宅の立ち退き工事ばかり。夜は、灯火管制。食物も衣服とマッチも配給だった。いくら韓国、朝鮮の売春婦といっても、入れない町での営業は無理ではないか。

日本の娼妓の歴史だが、1979年の暮ごろ、山田先生の、第八高の同窓会が、下呂温泉であった。愛知一中、第八高の同窓が第二次世界大戦でずいぶん犠牲になった話と、同窓会のメンバーが芸妓にお酌をしてもらっている写真を見せられたことがある。
その時、日本が、欧米の音楽を選択し、邦楽から流れを変えてゆこうとしたこと。名古屋の「東雲楼」での娼妓「自廃」判決(1900)を話してもらっている。第八高の同窓に経済学の都留重人がいる年代だから、父親か祖父かが、山田先生の年代(1910、11、12年生)にあたるひとは、家に記念写真があると思う。

柳田國男の「ハレ(晴れ)とケ(褻)」に合わせると、遊郭では、芸妓(ハレ)が、日常(ケ)のありふれた時間(世界)にいる宴会客を、非日常の芸事である音楽や舞踊の時間(世界)につれ、ともに遊ぶ。
九鬼周造に合わせると、芸妓(ハレ)は、いき(粋)の世界に居て、日常のやぼ(ケ)から、切り離してくれる。もっと、形式ばったものであれば、茶道、華道があり、格式ばった家のばあい、儀式(ハレ)が日常になっており、息つく暇もない家庭ということになる。

韓国、朝鮮の支配者階級(両班)は、一夫多妻制の「畜妾制」を守ること、妻をズラリとはべらせることが、美学(ハレ)で、財力や権力の象徴で、これが生きがいということらしい。反して、やぼ(ケ)が、どのような雰囲気なのか、日本人には、分かりにくい。

ところが、この朝鮮の習慣は、「在日」社会といわれる、戦後に発生した「ヤクザ」社会に、見ることができると指摘されれば、映画などのシーンを思い出し、ああいった世界かと思うことができるだろう。
韓国、朝鮮の下層階級出身といわれる「ヤクザ」が、故郷の上層階級(両班)がしていることに憧れ、両班(ヤンバン)の真似をして作った世界と言えば、より理解しやすいかも知れない。

が、1990年代から不況で「ヤクザ」が沈黙の状態をつづけ、21世紀になってしまい、「畜妾制」が、日本になかったことから、非常に理解しにくい社会現象となっている。
が、「ヤクザ」の社会現象と、畜妾制とキーセンを並べると、韓国、朝鮮が主張する、従軍慰安婦、性奴隷の雰囲気がわかってくるのではないか。

畜妾制とキーセンは、朝鮮人による朝鮮語で構成された世界である。
極めて、無個性(非人間)にみえ、ふつうの日本の兵隊が、とうじの朝鮮語方言が使われる世界へ、複数回、利用しに行くのかという疑問が出てくる。客に、中国、朝鮮系の商売人がいなかったのかという疑問がわく。

歴史を調べれば良いが、これら、三つの制度は、一体になったもので、朝鮮の支配者階級だった両班には、すぐに分かる制度である。
さきに2004年、性売買特別法により、韓国で禁止されると、売春婦と業者たちは、より海外へ進出しはじめた。経済発展が目立つ韓国であっても、彼女たちは、日本はじめアメリカで商売をして、逮捕される。逮捕されてもまた行動をする彼女たちを考えると、韓国女性には抵抗が少ない職種ということになる。

4)朝鮮女性のN字、V字、M字脚と畜妾制
畜妾制とキーセンは、韓国、朝鮮の独自の文化とみることができる。
この文化制度に平行して、韓国、朝鮮人に独自な、ロコモーション(動作)を生み出したのか、ロコモーションが、これらの制度を特徴づけたのか、因果関係は、不明だが、韓国、朝鮮人の脚の文化は、人類学の視点で、関心を寄せるだろう。

李明博(イ・ミョンバク)大統領、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長の歩行が顕著だが、ロコモーションで、彼らの脚は、「〈〉」「<>」など、ひし形で動き、肩が大きく左右にゆれ、マリオネットのような動作を繰り返している。
ふつうの日本女性が見ると、足を外開きにした歩き方は、ヤクザみたいで下品ねと、眉をひそめさせる動作である。ところが、このヤクザ歩行を、国家の模範たる大統領、国連事務総長がしているのだから、韓国、朝鮮人には、行儀の良い、歩き方なのだろう。
前方から見ると、マリオネットのような人形がする、ひし形歩きだが、後方や斜めから見ると、韓国、朝鮮人は、蝶番(ちょうつがい)が離れ、壊れたハサミのような歩行をしているように見える。
この歩行を集団のとき、日本の狭い道路でも平気でするため、慣れない日本の女性は、違和感から、非常に恐怖を感じるという。
日本人がみると、頭か体の具合が悪いのかなと思ったりする。ところが、韓国、朝鮮人では、大統領や、国連事務総長がする歩行なのだから、歩き方の見本で、標準以上のものだろう。

日本人のばあい、タタミに座る文化だけれど、戦前から戦後の、都会から田舎の子供の写真や映像をみると、脚がまっすぐになっていることがわかる。
そして、ふつうの日本の男性も、とくに女性は、着物文化からの「躾(しつけ)」として、日本独特の小さく在る、膝をくっつけ、脚を閉じるように、やや前かがみで、内股の歩行をする。
いまの若い世代も、正月、七五三など節句の祝い事で、家族同士であっても、少し緊張する場面では、折りたたみの文化からの仕草をみせる。記念写真を撮るときには、手や腕も内側にし堅苦しい姿勢になり、座るときは、正座を、身につけているせいか、より小さくなり、くっつく。
反対に、韓国、朝鮮人は手にしろ脚にしろ、自由で開放的というか、日本人と、あまりに正反対なものが多い。

日韓併合時(1910)ごろの、韓国、朝鮮人の、床(地面)での生活、枕元に便器の生活様式に、トンスル文化を知ったばあい、日本人の中には、仰天したりするひとがいる。
が、昆虫学者のファーブルが「ふんころがし」に興味を持ったことから、子供たちにしろ、研究者にしろ、昆虫の世界に関心をよせたように、韓国、朝鮮人の文化には、接触する歴史が長い隣人の中国が、より明確な概念付けの研究を行えば、価値が上がってゆく可能性がある。
韓国、朝鮮人を、解剖学の見地から、股間をみると、じっさい離れており、日本人との人種差が分かる。ここから、彼らの股間は、排泄のし易さと衛生面から、出来上がったのかと、考えても良いと思う。

韓国、朝鮮女性の動作をみたばあい、椅子で膝を立てたN字が、上層階級(両班)に美的価値が高いと肯定されていること。床で脚を開いてV字でペタッと座り、胡坐をかくこと。昔の写真から、川など洗濯場での光景をみれば良いが、M字の脚で洗うこと。これに、マリオネットのように、股間を開いて歩く「オメガ歩行(Ω)」が、文化で肯定されている。
動作は文化だが、これら股間を自由に開く動作をみると、韓国、朝鮮女性は、畜妾制とキーセン文化からか、排泄などの衛生面か、膝を立てたN字の脚、脚を開くV字、Λ字、M字が苦痛なく、自在にできるようになっている。
そして、性への執着に関心というか、韓国、朝鮮では、女の子は、6歳という日本では学童の年齢になると、家の中に隠す。6歳の子供たちが、親から教えられる言葉に、女はここ(性器)で生きる、生きてゆけるという、畜妾制とキーセンの性制度から出来た、重要なものがある。
現在、在日韓国、朝鮮人への、ヘイトスピーチが問題になっているが、わたしは、ヘイトスピーチでの言葉と、女はここ(性器)を、小学、中学生のとき、韓国、朝鮮人の同級生の使用言語で知った。

この畜妾制とキーセンからの、N字、V字、M字の脚の文化は、ふつうの日本女性は、日常、しないし、できない。
そのため、韓国、朝鮮が主張する、従軍慰安婦、性奴隷での、謝罪と賠償は、「N字、V字、M字の脚の文化」、ここ(性器)だけで生きてきた、韓国女性にとっては、ここがすべてで、ここだけが歴史となる。そのため、ふつうの日本人は、韓国、朝鮮が主張している事柄は、何を言っているのか、なかなか分からない。
が、畜妾制とキーセンで、生活を成立させてきた、韓国女性には、「歴史(記憶)」が「ここ(性器)」しかなく、日本人が「そこ(性器)」には興味がないと言っても、いや違う「ここ(性器)だけ」という話になり、他事は一切ないため、会話など成立しない。
韓国、朝鮮が言う、歴史問題とは、すべて畜妾制とキーセンの「ここ(性器)」と「カネ(金)」を言っているものだと、日本人は考えれば良いのではないか。

日韓併合時、日本は、この文化(畜妾制とキーセン)を変えようと努力をしていなかったように思うひとがいるかもしれない。
というより、わたしが、1979年秋、手のライン構造とともに、人種別のロコモーションと、N字、V字、M字の脚の文化と、畜妾制とキーセン文化との関係を、形質人類学の山田忠男先生に言ったとき、誰も研究していないですと驚かれた。

同じように、日本人には、なにがなんだか分からない、「同姓不婚」というのがある。これは、家具調度品のように扱われる女性の苗字が、同じであれば、夫も、正妻側も混乱してくる。調度品の入れ替えは自由なので、夫側の苗字にすると、調度品として、管理も、入れ替えも困難になる。そのため、夫婦別姓が必須となる。

畜妾制とキーセンが、時代により、どれほどの規模をもっていたか。上層階級(両班)が複数の妻をもち、町には制度化されたキーセンがあるとすれば、下層階級の女性の人数はどうなっていたのか。韓国、朝鮮の下層階級の男性による、鶏姦、獣姦などの行動と、畜妾制との関係も研究課題になるだろう。

この、一夫多妻制度には弊害がある。韓国、朝鮮の支配者は、男性の優位性が生きてゆく意味をあらわす制度らしいが、このわがままな制度から、生まれた女性が成長し結婚する。そのため、この妻たちによる示威行為で、夫は殺害される事例がある。

5)任那日本府にノスタルジー
1979年の春、日本民族に理解をしめしたバーナード・リーチが逝った。秋は、山田先生が、ちょうどリーチへの回想を文章にされたときだった。このころは民芸ブームで、京都では、清水坂だけでなく河原町通りも陶器屋が並び、デパートには北海道や信州の民芸家具があちこちのフロアで揃えられていた。

山田先生がする、リーチの、わたしへの話は、数度に及んだ。柳宗悦による「民芸運動」から、朝鮮3・1独立運動を支持した声楽家の柳兼子夫人の話になり、知日派として知られたGHQのハーバート・パッシンHerbert Passin(1916-2003)からグレゴリー・ヘンダーソンGregory Henderson(1922-1988)へと内容がうつった。

生物学の山田先生は、京都帝国大学とうじ、中国・朝鮮を調査した考古学の浜田耕作博士と、京大オケで指揮の先輩になる東洋美術の長広敏雄から啓発され、日本の周辺民族を知っているつもりだった。

朝鮮半島と日本の風俗史はじめ、文化史で感銘を受けた講義は?と山田先生が聞かれたので、わたしは、考古学の森浩一先生による「古墳時代」と「百済」、文献中心の難しい民俗学なのに女学生が熱心にノートをとる竹田聴洲先生のことを言った。
「森君と、聴洲(ちょうしゅう)は、本物だ」と、山田先生はよろこばれた。そして、山田先生は、従来の、朝鮮半島から日本への人種の流れの考察に、持論の「九州」から「百済」へを組み入れ、検証を兼ね、進めたいのですがと丁寧に言われた。
それに対し、わたしは、遺伝子のデータが無いのに等しいですと返事した。山田先生は、わたしが探し出した中で、持参してきた5種類の世界遺伝子分布図とデータ量を知っていたので、「これで、だめですか?」と何度と真剣に聞かれた。わたしは、中国大陸と朝鮮半島は、なぜ、戦後も無いのですか。一部分が無ければ、仮定で埋めてゆけますが、これではできませんといった。

山田先生としては、浜田耕作博士からの教えで、日本と朝鮮の古代史復元を望んでいた。わたしが山田先生の「任那仮説」を肯定し、作図化しますから、活字にされたらどうですかというと、
「君は、新しいもの(仮説)を、受け入れるひとですね」
といわれ韓国、北朝鮮の問題があり、「まだまだ、早いです」といわれた。

遺伝子の流れからゆくと、朝鮮半島に暮らしていた、元祖日本人は、中国一帯の民族に、何度と急襲され、日本の方へ逃げてきた。ここから、朝鮮半島は日本人の故郷であると言え、これには、朝鮮は反論ができない。弥生時代以降の、九州北部の日本人は、聖地エルサレムと同様、故郷奪還のため、任那日本府を建設していったという考えも成り立つ。

わたしが、欧米のABO式遺伝子調査は、都市での被差別民もしていますと言うと、山田先生は驚かれ、「うーん、白人種は、、、」といつものため息をつかれる。
中国、朝鮮で、なぜ日本は輸血に必須のABO式血液型のデータ採取ができなかったのかという事柄から、「戦前は、シャーマニズムからの拒否でしょうね」と山田先生はいわれた。

1980年代になり、わたしが「一滴の血、父無し子の親が判る」(「信濃毎日新聞」1916年5月31日)(『改定第二版』p43)の、原来復の新聞記事を発見して、桐原真一論文の読解の仕方が変わった。朝鮮民族は、親子関係が判明するため、拒絶をしたのかと思いだした。

6)イモ畑のG.I.とパッシン中尉の人類学講義
大学での山田先生の声は非常に小さい。同志社新町校舎の南西端に、ぽつんとあった一階に一室という、夏はひたすら暑く、冬はいちじるしく寒い、ちっぽけなプレハブ校舎で学んだひとが記憶にあるひともいるだろう。
プレハブの二階にあった教室で、毎年500人の学生に、教養課程の「自然科学総論(自然人類学)」は行われ、春の最初、「わたしたちは、これですから」と山田先生は、ひとさし指を、立て、眼窩に当て、モンゴロイドの説明をはじめる。秋をむかえるころ、敗戦後、山田先生が経験された、ルース・ベネディクトと三島由紀夫の話になる。

1945年9月の休日、京大の訪問で、第6軍所属の技術軍曹といっしょの若いG.I.フィンキャノンは、理学部2階の山田先生の研究室へ、ふらりと入ってきた。前の部屋は化学の堀場信吉博士。
イリノイ大学で化学を専攻してきたフィンキャノンは、農業肥料のことを、稲(ジャポニカ)研究の山田先生に質問した。先生の手元には10種の辞書があるが、ドイツ語を軸に、イタリア語、ラテン語の辞書をひき答えると、フィンキャノンたちは驚く。素直な性格のフィンキャノンに、山田先生は、戦争で荒れたままの実験室などを案内し、二人を付属植物園の方へ散歩に連れた。
食糧用のイモ畑をまえにした、G.I.たちは、故郷の家族を思い出し、ノスタルジーばかりに。山田先生は、「わたしの家庭には小さな子供が二人いる」といい、G.I.たちを自宅へ案内する。

フィンキャノンにつづき、邦楽を研究する欧米人が訪問してくるなか、山田先生は、湯浅八郎総長に、新制大学1号となる同志社へと誘われた。そのため、山田先生は、同志社でたったひとりの自然科学者でありながら、GHQが制度を采配する、新制大学での教育方法を考案してゆく責任を負った。

「大学教育に人類学」と思っていた山田先生は「進化論研究グループ」を主宰した。このゼミには、工学部所属の生態学の天野宏、コロンビア大学へ留学していた社会学の難波紋吉(同大教授、神戸女学院学長)など12名が参加してきた。

日本人のほとんどが、いまだ敗戦後の脱力感にとらわれたままの、1946年の夏、GHQ民政部のパッシン中尉は「日本民族学協会」で講演をしはじめた。
多くの学生が学ぶ、新制大学でのマスプロ教育は、どのようにしてゆくか。山田先生は、イリノイ大学出身のパッシンと連絡をとりあうことになった。

山田先生は、アメリカの自由主義教育についての具体例は、戦前に、近所の音楽家から知った。
1918年京大の工業化学を育てた喜多源逸は、アメリカ留学をした。このとき、同伴の喜多嚢夫人は、ボストン音楽院でバイオリンの勉学をつづけることにした。
ボストン音楽院は、京大オケで親友の荒木元秋医師の、ピアニストのお母さんが、19世紀終わりに学んだところだった。
京都の音楽界に影響を与えた喜多嚢夫人は、ボストンで、個性を重んじる自由教育を知った。アメリカの方式は、学び方まで自由だという。
日本では、ドイツ式のテクニックを大事にした段階を追った授業だったため、喜多嚢夫人は、卒業した東京音楽学校(東京芸大)のレッスンを疑問に思い、卒業生に、アメリカの個人の仕方まで自由な教育を知らせた。
喜多嚢夫人の意見は、上野の練習方式を変えた方が良いとも取られ、一大事件となり、作家の幸田露伴の妹、安藤幸教授から注意を受けた。

山田先生と、尊敬できる化学繊維の喜多源逸、喜多嚢夫人の住居は、同じ北白川で近かった。それに、湯浅八郎総長がイリノイ大学出身だったことなどから、パッシンにアメリカ教育の内容は質問しやすかった。
ルース・ベネディクトの孫弟子であり、クライド・クラックホーンに学んだパッシンは、山田先生に、民族集団が持つ「文化の型」を伝えた。「文化の型」とはルース・ベネディクトが研究した日本人論だった。

「驚きました。ぼくたちは、そんな、まとまった研究があるのを、知らなかったのですから、、、」と山田先生はいわれた。
後年コロンビア大学教授になったパッシンから、アメリカインディアンは、部族により、習俗、行動がずいぶん異なること、人間は遺伝だけでなく、環境でも決まる具体的な学説があることを教えられた。

7)在日は難民問題でフィクションと三島由紀夫
――B-29が来るという空襲警報音もなくなり、あまりに、簡単に負けて、戦場での名誉の負傷はなんだったのか。1945年9月にもなると、虚脱感もない時代でした。『菊と刀』では、日本人社会は、噂されることだけでも恥じとして、詫びて責任を取ろうとする共通の行動パターンを示す。恥ずかしいから行動を取ることが表現され、日本民族に特有の「恥」は、アジアだけでなく、西欧の民族とも、まったく違うことを、ルース・ベネディクトは日系アメリカ人へのフィールドワークから抽出して、日本人を驚かせたことを、山田忠男先生は、学生たちに、繰り返した(『人類学講話』 <第四話“菊と刀を考える”>p228、三和書房1979)。

わたしたちの世代は、ルース・ベネディクトの著書は書店に並んでおり、読了していたひともいた。
が、わたしは、山田先生から、ルース・ベネディクトやクラックホーンの研究を、パッシンを通じ知ったことを、教えられた。

山田先生から『菊と刀』の感想をきかれたとき、乱雑な考え方に感じますと、わたしは答えた。
わたしのは、ありふれた短い批評だった。類似を何度と聞いてきただろう山田先生は、パイプでダンヒルをふかせ、ひと息おき、
「あのときのカルチャーショックですが、、、」といわれ、ルース・ベネディクトが概念化した、「恥」と「恩」、ならび、三島由紀夫論になった。
――「私たち日本人が日本人であるため気付かなかった内部を指摘された感を持つ処が多い」のですが、「敗戦に打ちのめされていた日本人の、特に知識階級には、学問の領域を超えて大きなショックとなったことは、三島の事例によってもうかがい知ることが出来」
と、1979年度からの、大学のテキスト(『人類学講話』p230)でも、三島事件(1970)と『文化防衛論』(新潮社1969)を記載し、授業中にふれられた。

――ぼくは社会党でも共産党でもありませんが、、、。三島由紀夫は、戦時中は、「菊」が絶たれたから、欺瞞と偽善が生じて別の方向へすすんだし、現代は、「刀」が無いため、切りがなく、ずるずると、だらしない感情をつづかせるようになったと言っています。
GHQがした、日本人への、精神教育の方針に、「菊と刀」の関係を、断ち切ることがあり、「市民道徳の形成に」大事なものだけを残すこと。「有害な部分」と思われる、「歌舞伎の復讐」に「チャンバラ映画」は禁止ということでしたけど、日本がわかるようになってくると、歌舞伎やチャンバラ映画は、遊びも遊びで、日本人のだれも、そんな見方なんかしていないって、わかってきたらしくて、すぐ解除になりましたけど(『文化防衛論』p28)。
――こういったことなど、GHQはまったく勘違いをしていたと。あの時代の軍隊と、日本人は違っていたと。
京大オケで映画監督をしている、ぼくと格技が一緒の、「柔道組」の丸山誠治なんかは、日本人は安心できる、ほのぼのとした家族ものが好きなんだからって、依田義賢さんとは、どうやりゃ安くて、新しいものが作れるかしか考えていないことが、アメリカさんは、ようやくわかって来たんだろって。最近の、依田さんは、とにかく映像文化博物館が必要だと言っていますが、、、。

――三島の言うのが正しいんです。現代社会に問題が無くなったため、左翼は、欺瞞の朝鮮人問題を作りあげ、じょうじょうとした際限のなさへ、一般市民を連れこんで行ってるのに過ぎないんです。難民問題ですから、まず責任は、朝鮮民族国家にあります。つぎに、国際社会でしょう(『文化防衛論』p38)と山田先生はいう。

――天皇制にしても、南原繁(東大総長)さんは、卒業式で、非常に無理な話を作りだしました。天皇批判をすれば、マスコミから、進歩主義、民主主義にとられるからです。
大学は数にしても、質にしても、戦前とまったく違っています。質が違うのに、同じように言うことが、民主主義を体現しているもののように、南原さんは考えついたのでしょう。新しく生きてゆこうとする東大の卒業生に向かって、奇妙な天皇批判をしはじめました。卒業生がどれだけ傷つくか。結局は、新しいことを作り出せない老人たちが、ダメなんです。この点も、三島と同じように考えますと山田先生はいった。

――ヒューマニズムを持つと、本当に戦わないといけない。ですから、現在の左翼は、戦わずにすむ異民族側につく。ヒューマニズムを考えられなくなった日本の左翼と同じように、GHQが指摘した、ヒューマニズムがもともと無い半島人とは、類似しているんです。そのため半島人は自分たちの国の問題を解決できない。
北朝鮮は反日問題をつくって、「反日教育をほどこすような北鮮人の問題」(『文化防衛論』p17)との三島の指摘のように、①「反日問題」と②「反日教育をする北朝鮮の問題」で見られる、二重の問題を、日本人へ突きつけだしました。

8)老舗=日の丸=軍国主義と解釈した1950年代
――ヒューマニズムを持たなくなった、戦後の日本の左翼は、自分たちのため、「人間性の疎外と、民族的疎外の問題」を「フィクション」へと捏造して、社会問題を発生させるぐらいしか、能力がなくなってしまったんです(『文化防衛論』p18)」と山田先生は、三島由紀夫による『菊と刀』の解釈論をつづけた。

――じっさい、とうじ(1970年日米安保問題)の、韓国、朝鮮人は、自国へぶつけられない不満を、関係のない日本へ持参してきて、多感な日本の学生に向けました。在日問題の本質も、三島由紀夫は、リフュジー(refugee、難民)の問題であると要約していますから、、、。
「在日朝鮮人問題は、国際問題でありリフュジーの問題であっても、日本国民内部の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱う一部の扱いには、明らかに政治的意図があって、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない」(『文化防衛論』p47)と、「在日問題」は「政治的意図」と断言したのが三島です。

山田先生宅のピアノのまえに、白ヘル(京大、中核)が飾ってあって、「新しい」とわたしが言うと、「庭に入ってきて、先生、機動隊に追われているから、助けてって言うから。何を、助けてやるか、大学の講義を邪魔する奴め、よこせといって、奪ってやった」と先生はヘルメットを奪うジェスチャーをし、笑っていう。
わたしが、「かわいそうに」というと、「ちがうのよ、ころがっていたの」と慧子奥様がいうと、山田先生は表情をもとに戻し、
――いまの学生運動家には、真実を理解しにくくなっているのが現状ですね。半島の問題を、日本の問題のように、転嫁する。左翼による政治利用、「民主連合政権(容共政権)」(『文化防衛論』p9)と三島は指摘していますが、ぼくもそう考えますと山田先生はつづけ、左翼といっても、二枚舌のアメリカに利用されているわけですが、、、。同じことを、アイダがねと言う。

わたしが、わからない顔をすると、山田先生は、舌で、ガチャと入れ歯を外して、歯を出し、会田雄次の真似をする。
――会田が、白人の連中にとって、日本人なんか、人間ではなかった。それで、いまも、半島と左翼へ、二枚舌を使って、日本を混乱させやがると、捕虜時代の話になると、いつも、怒りながら言っていますが、、、。

――捕虜で、牢屋の会田が、自分のこと(学歴、経歴)や親のことをいうと、白人の連中は、本当かって?白人社会に、そんな顔(出っ歯)をした、エリートはいないから信じられないって。これには、奈良本辰也なんか、鬼畜英米は、見る目は確かだっていうから、会田がよけいに怒るんですけどと、山田先生はわらいながらいう。

手本として、新村猛先生がいたが、山田忠男先生は、1959年、在日問題をかかえる京都での、「山城高校事件」のとき、解決する、京都府教育委員長として、山城高校へ行った。とにかく解決するために、行政の長として、はじめて、被差別地域へ入り、彼らの住居の床に座り、対話をしてきた。
「山城高校事件」が奇妙なのは、組合に入っていない新任の社会科の教師が、赴任先の控え室に入っただけで事件になったことである。このとき新聞は捏造記事をつくる。そして、裁判になったが、事件の本質は、いまだ、見えにくい。夜間生徒たちと、いっしょにウドンを食べる国語の教員に、数学の教員二人、合計三人が警察に逮捕される。生徒と、国語が、新任の40代が京都帝大を二回も卒業し、老舗の息子ということで、反発をしたという。「定時制の生徒=苦学=正義」で、かたや「40代=老人=悪人」「老舗=日の丸=軍国主義」と解釈する時代だった。

1911年生まれの山田先生と、1925年生まれの三島由紀夫は、「在日」は、日本へ自覚して来た、「難民(refugee)」だったことを知る世代で、彼らは、彼らが問題とする祖国(韓国、朝鮮)から、逃れてきた難民なのだから、「日本国民内部」がかかえる問題では無いと、当然のことを言った。

同じく、韓国、朝鮮の畜妾制とキーセンを知る世代であれば、従軍慰安婦にしろ、性奴隷にしろ、朝鮮民族が持ちえた「ここ(性器)」の制度だから、その制度を使い商売をした朝鮮民族が、次ぎの戦争のときには、どうやって金儲けするか、彼らがすれば良い議論である。

対馬市観音寺の仏像盗難事件(2012)でわかるが、日本人の家庭から、メイド・イン・コリアの電気製品など商品が出てきたばあい、日本人は、韓国、朝鮮に、再度、金銭を払うのかどうかを、考えればよいだけである。

9)困難な課題を短時日に抽出したベネディクト
朝鮮民族の畜妾制とキーセンを知る山田先生と、三島由紀夫とのかかわりだが、山田先生のお父さんが鉄道技師で、三島由紀夫の祖父と。弟さんは山田正男(東京都首都整備局長)で、戦前は内務省で防空を担当した技師で、わたしの(母方の)祖父の下と、山田先生はいわれた。
三島の祖父の出自は、わたしの父方の村になり、山田先生に祖父の名前をいうと、「(戦闘機をつくっていた)財閥の」となり、1985年秋、日販の重役室で、祖父の名前をいうと、神吉晴夫(光文社)が、生きていたらと言われた。意味がわからなかったので、後年、わたしを水飲み百姓の息子と育てた父に尋ねると、時間がかかり、「ああっ、変なもの(映画のシナリオ)書く、オッサンか」との返事だった。

また、「金閣寺放火事件」(1950)での、鑑定人の三浦百重(京大、第二代精神科教授)は、北白川の山田先生宅の、先の住人であったこと。西欧史学の会田雄次との交友が背景にあり、傷痍軍人の山田先生と捕虜兵の会田雄次は、三島の父、官吏の平岡梓が三島の天賦を見抜き、関東で、徴兵忌避に相当する行為をはかったことは、正当なものと判断していた。
山田先生は、三島の天賦の才能と人格には、アメリカ人が絶対的に肯定し、三島(菊)も、自分自身が合うのは、アメリカ文化(刀)であるということを知っていたでしょうといった。

わたしは、ルース・ベネディクトを評価が定まった書籍で知った。山田先生は、ルース・ベネディクトの孫弟子のパッシンから、研究を知った。このときの時間の価値はまったく違う。
また、「進化論研究グループ」の12人がともに、ルース・ベネディクトの考えは、世間に広がってゆくエネルギーを持った学説とみなした。このアメリカ人による、知らなかった日本人論が、じっさい心身に染みこんでゆく時間を、山田先生は、わたしへ、何度と、何度と再現された。
これにより、わたしも、「1946年」を追体験している気分になり、ルース・ベネディクトへの評価が変わって行った。

日系移民の言動から日本人研究をした、ルース・ベネディクトによる「恥」の概念抽出で、わたしたちは簡単に議論を始めることができる。
『菊と刀』への批判など簡単だろう。が、重要なのは、「恥」にしても「恩」にしても、そうだと、うなづかせる箇所があることである。ルース・ベネディクトの、無いところから在るようにした抽出能力である。
ルース・ベネディクトは日本へ来たことがない。山田先生の評価は高く、「短時日のうちにこの報告をまとめ上げ」「遂にあれ程までにして困難な課題に打ちこみながら、その年の秋になくなってしまった」(『人類学講話』p230)と書いている。

同じく、同時代に、『菊と刀』を知り、「伝統の美的形式」を、三島は「神風特攻隊の行動原理」にあると考えた。
いっけん無謀にみえながら、特攻隊の遺書にある「あとにつづく者あるを信ず」の思想は、「自らを最後の者と思い定めた行動者に他ならぬからである」(『文化防衛論』p10)と、特攻隊員は、犠牲は自分たちで終わり、この自分たちのあとにつづく、日本人を信じるという思想からの行動と、三島由紀夫はみていた。

「ぼくたちでも、話していましたから」と、山田先生は、奈良本辰也や会田雄次との会話を思い返していう。
――インドを奴隷下におき、中国の財力をアヘン戦争で奪い取ったイギリス。この計画的なアングロサクソンの計画的な日本への戦略など、三島の頭脳だと、かんたんに見抜いていたでしょう。
――三島など、GHQの彼らの、言葉は、どこまでも白人種の利益のための、二枚舌、三枚舌外交(=ダブル・トリプルスタンダード)であることを、知っていたでしょうし、ぼくらも、パッシンとヘンダーソンの本音は分かっていましたから、、、。
山田先生は、彼らの表向きの言葉を、大学での講義風にまとめ、
――パッシンには、先見性のある教育指導(アドバイス)を感じました。ヘンダーソンは、知日派と言われていましたけど、軍政での統制ばかりで、ぼくら日本人からは、どこまでも「異質文化(=アメリカ文化)」への調教(トレーニング)でしたね、ところが、はじめはアメリカ文化でトレーニングのつもりが、日本は、欧米文化が氾濫し、欧米文化のセールスマンだらけになっているんですから、、、。

10)モダニズムが無い朝鮮民族

わたしのばあい、日韓併合時代を経験した、山田先生たちによって、朝鮮人を、人種系統といっしょに、習っていたため、従軍慰安婦問題を、韓国、朝鮮は、また、同じことを繰り返してと思った。
しかし、現在の、高校生や大学生など、若い世代にとって、朝鮮、韓国人の取る言動は、本当に分かりにくいのではないかと思う。

朝鮮民族について、GHQのパッシンやヘンダーソンたちは、上層階級(両班)だけが中心の、社会的義務や責任が欠落している「中世時代の民族」ではないか、権力志向が異常に強い集団と指摘していった。
そして、上層階級(両班)は、自分たちが生じさせた、身分制度に結婚制度という、生活の基本が差別だらけという、韓国、朝鮮社会の中世時代のマイナス要素に、責任を取らない。近世を経験しようとしなかった、上層階級は、無責任のまま、日韓併合時代(モダニズム)を否定して、1960年代に、三島が答えた問題を、現在の日本の左欲に合わせ、反復している。

GHQの彼らは、せいぜい中世の中国、朝鮮には、欧米先進国にあるモラルが形成されていないという見方をしてゆく。
山田先生たちにとって、朝鮮が学習することに識字力の弱さなど、社会性も未発達なことも、日韓併合時代は、貪欲な中国による搾取と李氏朝鮮の政策のためだろうと思っていた。
どころが、歴史家のトインビーの解釈が影響を与えたことと、敗戦後、GHQの若い感性が、中国、朝鮮は、モダニズムが無いという発言が、意味をもってきたといわれた。

11)GHQが作った、革新的民主教育の京都
日本人への教育として、占領軍GHQは、「京都に第一軍団の本拠」を置き、静岡県より西は、京都を教育のモデル地区とした。

GHQの方針に合わせるのが、1946年にアメリカから凱旋将軍のように帰国した湯浅八郎の役割で、1947年に二度目の同志社総長になる。が、教育を民主的なものに改革してゆくには、市民運動が必要で、1945年夏、京大の生物学教室で研究中、教室から理学部、学部から全学へ民主化運動がおき、1946年教員組合がつくられ、山田先生は、同年、農学部を行き来する湯浅八郎から同志社へと誘われた。1947年湯浅総長のもと、山田先生には、まず「京都府をひとつ」にするため、知事も市長も革新系にする市民運動を起こしてゆく必要があった。

日本の故郷とも言われ、「菊」の京都を、「刀」のアメリカ・カラー(星条旗)で、革新的民主教育の町へ塗りかえてゆくことが、GHQのプランだった。
イリノイ大学出身のG.I.フィンキャノンとGHQのパッシンと同じく、イリノイ大学などに留学経験のある湯浅八郎総長に、コロンビア大学を経てきた難波紋吉博士たちと、古い京都には、アメリカの大学出身者がいて、山田先生は、京都駅、四条烏丸、岡崎、瓜生山などの宿舎のGHQたちと接触をし、自由なアメリカ教育が分かってきた。そして、日本は、アメリカが主導する、新しい教育制度へ、革新して行った。

山田先生が課題にしたのは、まず京都府を知ること。京都の歴史は、北部(丹波、丹後)を中心に始まっている。10世紀の人口は、延喜式の「出挙稲(すいこ・とう)」から、京都府の人口は約23万人。このうち、丹波、丹後に13万人もの住民が集中していたこと。京都より、文化程度が高い土地は、西の「出雲(島根)」であった歴史を教育してゆくこと。

民主主義への教育方針は決まってきた。つぎに大事なのは、学生。それで、山田先生は、故郷のスパルタ教育で知られる名古屋にゆき、自由に学べる同志社へと営業をしはじめる。
「ぼくのせいで、同志社は、京阪神の次に愛知県出身者が多いんです。エヘン!」と山田先生。

GHQとのやり取り、文部省との連絡で、山田先生は、新制大学の教育プログラムを作った。そして、革新の蜷川虎三政権が生まれ、高校教育もアメリカに準じて、戦前の「専門学校令(旧制専門学校)」を廃止して、男女共学に学区制など、「高校教育三原則」を打ち出していった。
GHQはプランどおり、京都へ、共産党、社会党系の左翼を増殖させた。
「真意が、なかなか理解されない。新聞でも、冷静な報道を続けるものがある反面、『君が代は国歌でない』『日の丸は国旗でない』などという見出しで、私たちがいいもしないし考えもしないことを一部が扱う」(『現代教育科学』1968、『随筆 京都学のすすめ』p117洛味社1973年)と、今日のマスコミと同じ社会現象がつづいたという。
この発端は、共産党、社会党へ、工作員を使っていたGHQと、蜷川虎三知事も関わりがあるとのことだった。

2013年3月8日、中山成彬衆議院議員が、国会で、慰安婦問題は朝日新聞の捏造であると、戦前の新聞記事を使い、朝日に反証された。このことは、テレビ、新聞各社が、大きくニュースにすると思えたが、していない。中山議員の形質は、九州南部の隼人族がそのまま見られ、言語は、鹿児島弁の抑揚が顕著だけれど、同じ「日本維新の会」の代表で、橋下徹大阪市長による、慰安婦問題発言(5月13日)が、ひどい騒動になった。日本維新の会のメンバーだが、関西人が多い。関西弁による言葉の綾は、関東人に通じにくい。橋下徹市長発言には、丁寧語、伝聞推定が多いが、これらは、アメリカ語、韓国語に訳せたのか。

山田先生の標準語には関西風味の幅があり、文部省の役人は事務的な関東弁が多く、1940年代は意思疎通が難しかった。摩擦から、とうとう京都は京都でやると、「西の文部省」と呼称される、教育委員会を作られた。そして、西の文部省には日本の昔があり、アメリカ風の新しいものを、どんどん受け入れる。「それは明治維新の意義を確認することから始まる」「英語でいうなら、リボルーション(革命)ではなく、リストレーション(復古)なのである」(『随想風音楽論』p50 音楽之友社 1981)これこそ京都だとよく言われていた。

12)戦後半月、京都は「みんな親米派」
日本は戦争に負けた。国家と国家のことで、終われば、通常にもどってゆくはずである。ところが敗戦後、年があらたまっても、ロシア兵は、夜間に、鍵をかけている、住居に侵入し、女性を強姦した。韓国、朝鮮人は、この種の強姦行為を、長年やりつづけ、商取引には、犬の肉を食え、ときには猫の肉を食えと1960年代の日本人に言った。

これに対して、アメリカ人には、敗戦後一ヶ月も経たないのに、京都人は、アメリカ兵の服装がわかるようになると、「みんな親米派」の表情をしはじめたという。

北白川では、京大オケを中心に「戦災孤児を救う義金を集めるための会」をつくり、演奏旅行では舞鶴、宮津へ行っていた山田先生は、百万遍の角では、日本史家の奈良本辰也と、ロシア語の無料講座をはじめた。そして、あれほど、B-29の空襲警報の発動音におびえ、鬼畜米英といって頑張った戦争なのに、どうなっているのか、名誉の負傷も、なんのことやら、
「これだから、日本人は、、、、やれやれ」と思い始めたという。

日本は、あっというまに、「みんな親米派」となった。それなのに、勤勉が取り得の日本が、朝鮮に、義務教育制度を実施しても、朝鮮人は、知能が欧米の半分ほどもない、これはどういうことかが、朝鮮から、京都へ戻ってくるGHQの疑問で、この考え方には、山田先生たちは不愉快を覚えたりしていた。が、GHQに半島のことは言えない。

GHQの彼らは、1946年ごろになっても、ソウルの女性が、ダイナミックでオープンな動作を見せること、彼女たちが、脚を広げ、Λ字にし、立ったままの排便をすることが、理解できなかったようだ。そして、理解しようとしていた自分たちが間違っていると気づいた。欧米人には理解できない韓国、朝鮮人と思えば済むことだった。
これと同様なのは、1980年代バブルのとき、新宿、百人町(新大久保)でもあった。朝鮮人、台湾人、南米の外国人娼婦は、新宿の道端で、頻繁に立糞行為をする。困ったのは、昔は、高級住宅街だった百人町の住民で、大便禁止の張り紙をして、社会問題になったので、記憶にあるひともいるだろう。

行政にかかわると、京都府内だけでも、戦後、どれほど田畑や家屋、財産が狙われ、韓国、朝鮮人による強盗、殺人、略奪が連続したかがわかってくる。
GHQの彼らのドライな観察と、韓国、朝鮮人による犯罪を知った山田先生たちは、自分たちの、朝鮮への認識は、白装束で黙って働く小作農へのセンチメンタリズムではなかったかという問題に変化したという。

わたしは、1974年には、拉致問題を知っていた。山田先生も同じだった。ここから、京都府民の生命でさえ、絶えず脅かされていることに、戦後からの教育も法律も、何ら対処できてなかったのではとわたしが言うと、先生は首肯された。

山田先生たちは、朝鮮の下層階級へ視線がゆき、センチメンタルな気持ちになっていた。ところが、世界一の工業国であり、軍備を誇るGHQのパッシンやヘンダーソンたちは、朝鮮の上層階級へ視線がゆき、分析をしてしまう。しかし、彼ら、アメリカ人の厳しさというか、自分たちの指導で治せる民族には、アドバイスをするが、できない民族には、できないと判断して、終わりにする。
GHQの学問と言ってよい、アメリカ人類学の手法での民族性の分析になると、朝鮮民族の仕事を嫌う上層階級(両班)は、中層、下層の声をきかないように工夫し、市民運動をおこさせないように注意をしているとのこと。
もし、欧米や日本に似た家族制度があるなら、故郷にもどって、のんびりしたいという地方文化ができているはずである。素朴な田舎が忘れられず、やすらぎたいという民族性があるなら、日韓併合の過程で、本来、地方に根付く中層階級ができ、モラルは自然発生してきたはずという。

欧米人の「罪」日本人の「恥」など共通する社会意識としてのモラル。朝鮮民族のモラル。これらが、形成途中かというと、その可能性もないと、GHQの彼らに分析され、弱いものの声を聞かない、弱いものが何もいえない、圧倒的に中層、下層を犠牲にする、韓国、朝鮮の民族性が分かりはじめたこと。歳月を経て、日本で「在日」が作っている「ヤクザ」社会が、その症例だと思いはじめたという。

欧米人が冷ややかに指導を諦めている民族に、日本は、日韓併合をすれば、日本人が日常とする「恥」や「恩」など、小学校、中学校教育で充分に教えることができると思った。ところが、まったくできていなかった。

このことは、イギリスがアヘン戦争で領土とした、「香港」の広さでわかるだろう。世界各地にユニオンジャックの旗をなびかせ統治するイギリスが、「香港」はじめ、中国で拡張させた領土の大きさを検討すれば良い。もし、中国民族に、欧米の法に順ずる性質があるなら、イギリスは、領土拡大の方針を建てていたはずである。ここから、イギリスは中国、朝鮮民族を、どのように評価していたかでわかるだろう。

GHQの戦争と統治の方法だが、山田先生は、日本を、
「ようやくアジアの東に形だけは近代的な国家ということになったのに、大きく云うなら世界中から袋叩きにされて遂にお手上げ」と書き、ヘンダーソンについて、
「持ち前の教養と知日派の穏健さから、『ディレクションではなく、サゼッションを!』と口癖のようにいったが、実際は間接的な命令となって軍政という名の下に教育や文化を統制したのである。しかも戦争中は軍部の指導下で、文化の上でも空腹をかかえていた一億国民の中に、奔流のように異質文化が流れ込む」(『随想風音楽論』p85)と、記しており、日本への異質文化について、植物学の溶液論を使い、
「溶液論でいうならフィルターになる政府の上に異質文化の薄膜がかけられたということ。この辺の事情は、ベネディクトの『菊と刀』に精しい」(『随想風音楽論』p85)と説明している。

13)下層階級は50%の朝鮮民族の政治
ルース・ベネディクトの日本人研究をGHQがどこまで使ったかは不明ですけど、と山田先生はいい、
――戦争中、日本の軍部の統制で、学習好きの日本国民は文化に飢えました。そこに「民主主義で化粧したアメリカ文化」を見せられ、日本人は反射で、「正義のアメリカ文化」を吸収して行きました。

日本政府は、日本人がこんなのですから、明治になり、より平等な社会実現をめざし、これを朝鮮にも実施しようとしました(1909)。しかし、朝鮮総督府が命令しても、支配者(両班)は李氏朝鮮からの財産権(相続権)を主張して、話合いにもならないんですから、、、。
日韓併合で、日本は社会を変えるのは教育だと確信して、教育は平等だと命令して、実施したつもりが、なかなか浸透しない。社会自体が変らない。そのため識字率(文盲率)が伸びない、、、。

結論として「①両班・②中人・③常人・④賎人」から成る身分制度は、形式だけ取り除かれただけで、肝心の身分制は残っていたのですから、、、。
――朝鮮の制度で、日本人が、理解しにくいところは、「③常人(農業、工業、商業)」という、ふつう欧米の先進国で行われてきた、ありふれた労働者階級に学習する権利が無かったことです、、、。
僧侶や医師という職業は、日本でも、欧米先進国でも、社会の上層階級なのに、朝鮮では下層で、奴隷にあたる「④賎民階級(僧侶、医師、妓生、奴婢、白丁)」に構成されていて、これが改まらない、、、。

欧米先進国では、中産階級以上の職業が、朝鮮では20世紀はじめでも、下層に置かれているんです。しかも「③常人20%」「④賎民30%」と、下層階級が50%も占める社会現象は、ふつうの日本人には、どのような社会だったのか想像できませんし、、、。

――他の民族との違いですが、朝鮮の両班といわれる支配者層は、権力で下層階級から一方的な搾取をつづけ、この搾取は中国より厳しかったといいます。どうやら、朝鮮の権力者である両班は、上層階級として、下層階級へ規律を均一にしてゆく、義務や責任が無かったみたいです、、、。

――1946年、パッシン30歳、ヘンダーソン24歳。と、優越感に満ちたGHQの若い彼らによる、観察からの意見をまとめると、朝鮮民族の上層階級(両班)は、儒教からのシャーマニズムに基本をおいたままで、西欧の「結婚」が成立せず、畜妾制とキーセンがあり、明確な奴隷階級(奴婢、白丁)があることから、古代か中世のままの民族、この可能性があること、、、。

――上層階級(両班)が、占いのシャーマニズムで、充分のため、欧米にみられる合理的な精神が宿る可能性がないと彼らは判断していました。GHQの彼らは、人類学と実験心理学から、上層階級(両班)から中層階級にかけ、共通の社会行動を取らせる、意識の枠組みが、空洞に近いというのが調査結果でした、、、。

――GHQの彼らは言っていました。日本は、日韓併合で投資をつづけた。なのに、「自由社会」を形成してゆく基礎の、「自由結婚(恋愛)」を導入させられなかった。嫁いだ女性からの意思での「離婚」も朝鮮では、実際、難しかった。
肝心の結婚(家族制度)に自由が無く、李氏朝鮮からの束縛される一夫多妻(畜妾制)で、旧来の既得権の財産相続と奴隷制(白丁制度)も廃止できなかった。これらに見られる、日本の政治支配とは、何だったのだろうか。彼らの日本への採点は、厳しいものでした、、、。

山田先生たちが理解した、GHQの若い彼らの見方と、ルース・ベネディクトの学説でゆくと、欧米は「罪」の意識があるため、事実と反することを主張しても、相手から真剣に反証されると、スポーツのルールと同じく、「罪」の意識で引き下がる。
日本人のばあい、事実かどうか以前の、噂されるだけで「恥」とする文化のため、穏便にと、謝罪してしまう。
ところが、韓国、朝鮮の民族は、精神における「罪」や「恥」の意識の箇所が、空洞になっているため、ルールがなく、犬や猫など弱い動物をいたぶるように、日本人へ、何度も同じことを繰り返してくる。しかし、これは、三島が指摘した、日本の左翼に問題があり、これには、山田先生も、新しい政策を作れなかった共産党、社会党の責任が大きいと言われていた。

14)キーセンから従軍慰安婦への創作
韓国、朝鮮では官民一体だったキーセンが、どのように実施されていたか、現代の日本の若い世代は分からないし、キーセンの状況など、とうてい信じられないと思う。

フルートの山田先生は1937年、26歳の春、一等兵で召集され、行き先は北満州となり、京大オケの先輩への懐かしさから大連を訪れ、チェロで優しい先輩の小林盈蔵小児科部長に会う。
北満州で中国のパルチザンの竹槍攻撃にやられた山田先生が、陸軍病院で入院していると、親友、荒木元秋中尉から京都便りが届く。

この友情から、京大オケで同期のバイオリンの荒木元秋軍医も、召集されたとき、小林盈蔵部長の誘いで、「満鉄大連病院(京大閥)」へ勤務している。
戦争の時代、山田先生と荒木元秋軍医が、いつもほっとするのは、ガハハハッと笑う頼もしい先輩、指揮者の朝比奈隆があらわれたときである。

敗戦後、山田先生の友人たち、京大オケの小林盈蔵(小児科)、荒木元秋(耳鼻科)医師たちに、子供や乳児がいる二家族は、1953年の春まで、8年近く、中国での「捕虜(徴用残留生活)」を続けさせられた。

日本のマスコミは、テレビ局を中心に、中国や韓国で、キーセン風の接待を受けてきた。1980年代の一番は、テレビ朝日だそうである。そのせいか、事実はキーセン制と知っていながら、従軍慰安婦に性奴隷とかいうニュースばかりして、中国で、捕虜生活者をさせられた医師家族は取り上げない。

関東軍731部隊もニュースになる。山田先生、荒木元秋軍医は関東軍である。石井四郎はじめ上司を、わたしは直接、教えられている。いちど特集すればどうか、医は仁術を中国人にも実践してきたチェロの小林盈蔵(小児科)と、詰問ばかりの中国政府と、ひとびとたちとは別と考え、中国人に律儀で誠実であったバイオリンの荒木元秋(耳鼻咽喉科)を。かれらは、戦地の大連で、ときおり慰安の音楽会を催していた。

1945年8月6日広島原爆投下、8月9日長崎原爆投下、同日、ソ連が火炎放射器部隊に戦車で、満州を南下。空はソ連の戦闘機とUSA-グラマン。ソ連の攻撃に、移民の満蒙開拓団は集団自決。同僚の医師家族が、ソ連の火炎放射器で焼かれ死ぬ。荒木元秋軍医は家族と死を覚悟する。これだけで、「731部隊」って、何をしていたのか、何だったのかと思うのではないか。

先輩後輩の友情はつづき、京大小児科出身の小林盈蔵が、帰国後、故郷の埼玉の熊谷に住み、熊谷小児診療所をつくると、山田先生は熊谷市桜町まで訪ねてゆく。

捕虜となり苦労をつづけ、横須賀で開業した荒木元秋医師と、山田先生は、中国、朝鮮の民族性を話しあったのだろう。
ロータリークラブの国際奉仕で、韓国をたびたび訪問した荒木医師は、併合時、南北を列車で縦断し、
「円錐形の藁ぶき農家、汗を流す小作農民の姿が印象的であった。また、京城、平壌など日本軍の恩恵に浴していた大都会のみが繁栄していたことを覚えている」と懐かしい思い出をつづっている。
韓国、朝鮮の民族性だが、上層階級(両班)は、金銭を持った強い日本人に媚び、とりわけ「日本軍」を利用するため、京城、平壌へと住みついた。

GHQのパッシンやヘンダーソンたちの指摘どおり、韓国、朝鮮には、「懐かしさ」、日本の各地にある故郷、欧米のノスタルジー文化が欠落している。
荒木医師は、1983年秋のソウルをみたとき、工業化が進み、「ホテルの夜の女も姿を消していた」と韓国の嫌な光景が無くなったと安心して、1985年4月、「ソウル駅もビルの谷間に隠れ、人口八〇〇万のメトロポリタンと化している。日本の統治時代の人口六〇万であったときかされ、民族の独立と科学技術の発達がこのような繁栄をもたらしたものであることを、この私の目で確め得たのである。」と、1970年代とちがい、ソウルが未来都市へと変貌したことに、よろこんでいる。

それでは、1976年秋のソウルがどうだったかというと、国家をあげ外資獲得といい、ホテル内には「夜の女が屯(たむろ)」して、「ホテルは公然とツインルームを開放していた」という。
そしてホテルには、2、3日で背広を作り上げる仕立屋もあり、宿泊先のホテル一箇所で、「飲む、打つ、買うにセビロ一着と四拍子の観光客が殺到」と宿泊先のホテルがキーセン場所を提供し、国家が一体になってカジノと売春で金儲けしていた事を書いている(「最近の韓国の印象」荒木元秋『神奈川県医師会報』1985年7月)。

「1976年」という時代であれば、分かるひとも多いだろう。民主主義国家といいながら、韓国は、軍政の戒厳令を敷き、敗戦後30年経ち、経済的には諸外国より恵まれていても、貧しいといい、外資獲得のため、軍政国家は、奴隷制の延長でしかないキーセンを全土に実施している。また、これに対し、女性たちによる目立った反対運動も起きていない。

朝鮮総督府が敷いた「公娼制」には、娼妓の年齢制限と意思の自由がある。が、朝鮮の「キーセン(芸妓から娼婦)」では女性は10歳未満も可能で、朝鮮民族の管理により自由はない。
日韓併合時の朝鮮では、
① 朝鮮総督府(日本)による自廃可能な「公娼制」
② 朝鮮民族による性奴隷の「キーセン」
この二つが、併用されていた。
この「②」のシステムを、韓国、朝鮮人が言わないため、「従軍慰安婦」「性奴隷」などと問題になる。
現代では、キーセンは、反社会的なものと扱われ、まして外貨獲得のための、国家による、女性への強制で、1980年代も実施していた事実が判明すると、国際社会から批難をあびるため、日本へ責任転嫁しているのが、韓国、朝鮮の政治力のようである。



 
 
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 「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2013.7.10