京都昨今
 
84、畜妾制が残る朝鮮での血液型検査      畜妾制とキーセン①
 
1)捏造の翰林大学教授と韓国メディア
韓国の通信社である『聨合ニュース』は2013年2月28日、史実もだが時代背景をまったく考慮せず、1920年代からの、日本人によるABO式血液型と朝鮮民族がからむ、「反日」だけが基本にある捏造論文を斬新なニュースであるかのように、
「植民地時代の日本 血液型研究に固執した理由は?」
<"일제는 조선인 혈액형 분류에 집착했다"…이유는>
と紹介した。

これを受けて『京郷新聞』が同じ2月28日に、つづき『東亜日報』は3月1日に肯定する記事をのせた。
まず、史実との違いだが、京城医専の医学者は、朝鮮人の血液型検査に固執などしていない。たまたま、赴任地が朝鮮だったのと、日本人の由来を調査していた時期だった。それだけのこと。

少し詳しくかくと、血液型検査は、「輸血」と「親子関係」がわかるというのがキャッチコピーだった。ところが、朝鮮半島、中国大陸とも、儒教のシャーマニズムから、先祖からの血の検査は嫌だと言った。じっさいは、不貞の子供が発覚するための拒否だった。そのため、サンプルが少ない。

メディア側も、血液型の検査数が、1000人単位で、一箇所が1万人ほどだったら、これは少ないと思うのが、普通ではないのか。そして、少し冷静に考えれば「反日」という感情だった世相(=社会科学量)で、血液型頻度という客観的な生物量(=物理化学量)の価値判断を簡単にしてよいのかと思いつくのではないだろうか。

ふしぎなのは記事を公表する段階で、社会性が重要な新聞記事だから、編集も校閲も、日本にある歴史や科学史で項目別に、検証作業へ入る必用性を感じ、実際に行うだろうと思う。ところが、表現をみると、そういった努力をまったく感じさせず、なんの疑いもなく賛同する意思をみせていた。

牽強はなはだしい論文を発表したのは、翰林(ハンリム)大学の鄭駿永(チョン・ジュンヨン、정준영)教授である。

韓国メディアのニュースになるまえ、鄭駿永教授は、2012年2月11日、京都の国際日本文化研究センターで、『植民地大学の機能』「血の人種主義と植民地医学―京城帝大法医学教室の血液型研究」という題目で、発表している。
「日文研」に 、現在、どの程度の研究員がいるのか知らないが、あまりの見当違いの発表は、アドバイスをしてあげれば良いのではないか。

韓国メディアから内容を伺うと、鄭駿永教授の研究対象と論点は、わたしの書き物(改定第ニ版『「血液型と性格」の社会史』河出書房新社 1991,1994)をベースにしたものとわかってくる。鄭駿永教授は日本学研究所に所属するというから、日本語は読めるのだろう。

鄭駿永教授の、反日思想は、南北分断(1945、1950)を、US-B29と原爆により、全都市を焦土化させられた、敗戦後の日本が計画的にしていたという曲芸ができる。
鄭駿永教授及び韓国メディアの、創作歴史だと、南北ベトナム(1946、1962)も、日本政府が采配したのだろう。

有史以来、覇権主義が止まない中国は、過去に何度も、朝鮮とベトナムはじめ周辺民族を隷属し、搾取する政治を行ってきた。
監視というより、強引な拘束が、中国の政治だが、他民族を縛るのに、儒教を由来とした法律で、日本も影響下においた。
儒教の法の激しい実効性は、朝鮮とベトナムへ、宦官にみる身体加工を命じてゆけたことでも理解できるだろう。

男性優位の儒教の法律は、21世紀の中国、韓国に残存しており、力学が根本の儒教思想は、19世紀から現在につづく、戦争兵器の発明と軍隊の操縦が上手なアメリカへは服従する。ほんとに良い思想だ、儒教は。
反対に、左翼、右翼、貪欲な中国に、制圧され、一時期、儒教制度を取り込んだ日本と北ベトナムは、負けたつもりでアメリカと戦い、とうぜん中国とも戦いつづける歴史がある。

2)鄭駿永教授の出典箇所と帝大事情
ヒルシュフェルト論文の検証は、九州帝国大学から出て、この歴史について、「日本で欧米の血液型研究の動向にいちはやく反応したのは九州帝国大学だった」(『改定第ニ版』p86)と書き、九大の高山正雄医学部長を中心にABO式血液型の研究過程を説明している。

高山正雄は、日本に血液型の知見をもたらした原来復が「一高の医学進学過程」のときの先生(東大助教授)だけれど、血液型研究は、長野日赤の原来復を中心に考えると、ほとんど分かってくる。

鄭駿永教授が捏造論文の基にしているものだが、『改定第ニ版』の脚注、p80に「九大の血液型論文とその流行」と題してまとめてある。

4.①深町穂積「朝鮮人及満州人ノ人種学的生物化学的比率ニ於テ」『国家医学雑誌』430号p579(1922)③桐原真一、白麟済「日鮮人ニ於ケル血液属別百分率ノ差異及血液属別特有性ノ遺伝ニ就テ」『東京医事新誌』2299号p1963(1922)

5.深町穂積「同種血球凝集反応ヨリ見タル人血ノ研究」『社会医学雑誌』482号p189(1927)482号(pp.157-213)と483号(pp.296-318)
以上、九大の深町穂積、京城帝大の桐原真一、白麟済論文と、京城帝大の佐藤武雄たちが、1935年に朝鮮の北部、中部、南部を2万5000人ほど調べたもの(『改定第ニ版』脚注、p46)。

これら①1922年ごろと②1935年ごろの調査論文があったから、京城帝大は「植民地医学」のシンボルになり、「人種差別」だそうだ。
①は輸血手術と血液型の遺伝方式が定まらないとき。
②は輸血の知識が広まり、遺伝方式が定まったとき。
とうぜん、②の1935年の学界の状態は、問題が解決したため、ブームは終わっている。

京城医専の桐原真一教授(外科)が朝鮮人を調べようとした時期、ポーランド人ヒルシュフェルト夫妻による論文(1919)が発表された。これが原因で、桐原真一教授(外科)は、論文の「体裁」として、ヒルシュフェルトの人種係数を載せた。

ヒルシュフェルトの人種係数は、O型は、世界均一だとして省いた。そして、A型(西欧人)とB型(アジア人)の割合で、世界の人種傾向がわかる、人種係数が算出でき、これを、ヒルシュフェルト仮説という具合にした。捏造論文のため、寿命は4年(1919から1923年まで)だった。

日本は、明治維新での西欧文化の取り込みで、特に、進ませなければならなかったのは、医学と工業の部門だった。
日本の医科大学の系譜は、大学東校(1871)→東京医学校(1874)→帝大(1886)「医科大学」。大学は1897年の京大設置となるまで、西欧医学の中心地は「東京」しかない。
ドイツ語の習得が必須となるため、ドイツ人教師がいる帝大が中心となり、ドイツ留学に向けた勉強が中心になる。

貧しい東洋の国の日本では、病人を救う、西欧医学の習得のため、莫大な金銭を使った。日本人を蔑むことが習慣になった外国人教師を雇い、精密機器の購入をして、西欧医学を学んだ。将来、大学教授になれるぐらいの頭脳の輩出は、年間10人ぐらいである。
10人を、内科、外科、精神科など各科に分配する。大学や病院に必要な人材を配置してゆけば、地道な基礎研究の人員など想像がつくだろう。東京が中心で、20世紀に入って、かろうじて京都も含まれるようになったというのが、実際だった。

①1922年と②1935年の朝鮮のデータだが、関心は、血液の研究者と、血液型と気質学説を発表(1927)した古川竹二など、ほんの一部である。
血液型ブームは、1933(昭和8)年、一段落ついているので、1935(昭和10)年のデータなど、まったくの、無関心だった。そのためか、これは、オックスフォード大学のABO式血液型のデータ集にもない。

日本には、この当時の京城帝大医学部の紀要は揃っていない。わたしが、朝鮮のデータを知ったのは、転載によるものであり、探し当てるまで20年近くかかったものである。そのため、これら二つのデータは、わたししか扱っていない。

鄭駿永教授が論文の根幹とした一つ目の、ヒルシュフェルト論文の捏造について述べる。 わたしは、「ヒルシュフェルトの不正」(『改定第二版』血液型と性格の社会史 p59)と見出しを立てた。
説明は、ヒルシュフェルトが血液型調査を「夫婦でした背景には、物理学者キュリー夫妻(夫人はポーランド人)にあこがれがあったのかもしれない。また、一九一〇年代から白人と黒人の肌のちがいを調査発表していたアメリカの優生学者ダヴェンポート夫妻に刺激されたのかもしれない」(『改定第二版』p59)としている。

血液型の人種別研究が進んだ背景は、ハーバード大学のダヴェンポートの存在が大きい。彼が、白人種は、有色人種や混血より優れているという説を出した影響もあるだろうと書いた。

3)ペスト、コレラ、ハンセン病の朝鮮に志賀潔
次の、二つ目になる、桐原真一と白麟済の論文(『改定第二版』p137作図)。
鄭駿永教授は、桐原真一論文が、朝鮮民族の血液型頻度を扱っているというだけで、主題にし、反日と結びつけている。
天然痘、ペスト、コレラなど疫病が大流行した時代に、京城医専の校長として、赤痢菌(1897)を発見した、志賀潔が就任した。
志賀潔が、責任者として行ったことに、朝鮮民族のハンセン病、結核、神経梅毒など感染症を抑え、衛生知識を植えつけることがある。

鄭駿永教授と韓国メディアには、時代の考慮がない。まず、疫病が大流行する、中国と朝鮮の病気を効率よく、治めるにはどうすれば良いのか。中国と朝鮮とも、共通語が定まっていない時代に、医療チームはどうやって、病原が流行の地域に入ってゆき、治療をするのか。

日本が力尽きたころ、アメリカと共謀して、第二次世界大戦に勝利した、中国は、「大連病院(京大閥)」の日本人医師家族を捕らえ、8年近く、西欧医学の伝授のため酷使した。眼につくものは、中国のものが、儒教精神らしい。

鄭駿永教授にかかると、朝鮮子弟をよりよく指導していた桐原真一教授が「日帝」の手先となる。朝鮮、韓国のため3・1独立運動をした白麟済も日帝に屈した人物となっている。 

桐原真一について、鄭駿永教授がわかるのは、朝鮮人の血液型を検査した人物というだけなんだろう。
東京帝大出身の外科医の桐原真一に、この時代、重要な概念は、輸血と、遺伝方式を理解することだった。どちらも、実際への応用になると、意味を説明できる能力がいる。これも非常に難しい仕事になる。が、鄭駿永教授と韓国メディアには、関心が行かないようだ。
親子の遺伝方式が課題になっていた時代、血液型検査は、調査ということでなく、重要な研究課題だったという考え方が、鄭駿永教授と韓国メディアには欠けている。

日本の医学史をみると、江戸時代、幕府の監視下、蘭学(洋学)の勉強は、『解體新書』(1774)や蛮社の獄(1839)で、わかるように、洋学は、日本国内を攪乱させるキリスト教とのからみから、学問の仕方で研究者の生命にかかわるものだった。また、華岡青洲は、毒性の高い草々から独自の麻酔薬(通仙散)の完成に向け、自分の母、妻を実験の犠牲にし、世界にさきがけ全身麻酔による乳癌摘出手術(1804)をしている。
日本にみる医学への奉仕精神だが、明治維新で、無職となった士族階級のばあい、地元で天童といわれた子供を親がつれ、家族で東京生活をはじめた。幼児から勉強で、中学生から、20年間、休みのない生活で、家系が医師だったものは、親戚中に借金をしながら、ドイツ留学をめざした。
ところが、西欧学問と技術の獲得に関して、朝鮮、韓国は、日本が工場群の投資と帝大を設置した。医学部も同じで、漢字表記を手がかりに出来たため、日本人がドイツ人に侮蔑されながら、ドイツ語を学んだのと違い、まったく分からないという苦労は無い。鄭駿永教授と韓国メディアは、日本人医学者が何か搾取したような「殖民地医学」を肯定している。

鄭駿永教授たちに、帝国主義で「殖民地医学」と呼称される、「朝鮮総督府医院」、「京城医専」「京城帝大(→ソウル大学)」の責任者である総長の志賀潔は、恩師の北里柴三郎とともに、反体制(アンチ東大)で、とにかく純情なひとだったと、わたしは習った。
素朴な生活をした北里柴三郎、志賀潔とも、西欧の医学界に、人種差別がなければ、ノーベル賞をもらって、当然の学者たちである。

鄭駿永教授と韓国メディアに「日帝」の手先と蔑まれた、桐原真一にしても、どのような人物だったか、韓国は、一度、日本の医学者の足跡を追う番組を作ったらどうだろうか。

4)朝鮮人の嘘で失脚した桐原真一教授
桐原式胃鏡の考案で知られ、胃ガン研究で第一人者だった桐原真一の文章を、昔みたとき、力強さに明るさを感じ、帝大出身者には、偉い医学者が多かったと実感した。
桐原真一が出身の東大の外科には、世間では、東京駅で濱口雄幸が狙撃事件(1930)での、輸血をした塩田広重教授が居た。名医としられる塩田広重の教え子に、血液型の知見をもたらした原来復の弟と同期で同僚の都築正男(東大教授、海軍軍医少将)が居た時代である。

1970年代後半、京城帝国大学医学部、台北帝国大学医学部、満州医科大学時代の日本の教授たちを調べてゆくと、良い日本人の典型の学者が多かったことに気づいた。彼らは、自分たちがドイツ医学の習得と留学で苦労したことから、朝鮮や台湾、満州の医学徒へ、いかにして育ててゆくかと、思いやりをみせた。
日本語での授業のため、良い成績など困難と思ったが、よりよい向学心のため、トップクラスの成績を与えられた朝鮮人・台湾人もかなりいた。しかも、日本は、朝鮮や台湾の優秀な学生には特待制度をひき、学費を無料にしている。が、こういった事実も、ただただ「反日」の韓国、朝鮮には、理解できないようだ。
鄭駿永教授と韓国メディアに質問したい。日本人医学者は、朝鮮から、何か奪い取ったのか?

桐原真一論文をみると、青年期に大正デモクラシーを経験し、朝鮮の学生にやさしい医学者だったとわかってくる。欠点は日本人らしい、生真面目さだったのだろう。
遺伝法則で「O型×AB型」の両親からは、AB型の子供は生まれてこない。が、桐原真一は、朝鮮人が申告する嘘を信じてしまった。
「この家族は朝鮮平安北道の門下生の親戚で信頼ができ、また朝鮮は男女関係がきびしく、この点からも血液型遺伝の研究は朝鮮が最適であると、一九ニ六年の法医学会で古畑種基たちと討論した」(『改定第二版』p140)

桐原真一は、調査対象が、「平安北道」の「門下生の親戚」だから、確かであると言った。
日本の医学者の考えやデータより、朝鮮人のシャーマニズムからの「憑依した心」を信じこんだのが桐原真一(のち名古屋帝国大学教授)である。
現在(2013)、日本との政治問題でこじれ、理性なく激しい抗議ができる、「従軍慰安婦」と称する韓国人をみていると、「主人の子供は、わたしが生んだ。わたしが言ってるんだから正しい」といった論理で、絶叫する朝鮮人が想像できると思う。
憑依した朝鮮人の一方的な主張をはじめて見る、ふつうの日本人は、「朝鮮人はおかしいのでは」と考える自分自身が間違っているに違いないとおもってしまうだろう。

桐原真一は、こんな主観的な考え方で、朝鮮人の「O型×AB型」の両親から、AB型の子供が生まれてきている。「朝鮮人だから、正しい」という主張を信じて、デタラメ論文を作成してしまった。
鄭駿永教授は、デタラメ論文二つをもとに、帝国主義の日本人は、日韓併合時(1910)から、血液型の検査(1922)からも、南北分断を計画していたと、ふざけた気分で日本を批判した。
わたしが中学生から高校生になる1968年春ごろ、北緯17度線と38度線は、戦争好きの白人種が、黄色人種へ向けた悲劇の象徴として禁句だった。
朝鮮動乱(1950)の時代、併合時、朝鮮の保護をしていた日本は、社会の中心になる30歳前後が、第二次世界大戦により、死亡していたこと。日本の都市が、空襲での廃墟状態だったことを、朝鮮、韓国の歴史は教えているのだろうか。

「よど号事件(1970)」のときは、わたしは高校生で、学園のまとめ役だったので、記憶はある。「北朝鮮」、「韓国」と言葉にしていた生徒、学生はいなかった。いったい普通の日本人のだれが、あの軍事境界線を喜んでいたのか。
南北朝鮮の事態に、日本の学生が過敏だった時代を忘れているのではないか。

18世紀ごろからの、朝鮮半島の変遷をふつうにみれば、朝鮮民族を虐げ、李氏朝鮮を破壊しつづけたのは、ずっと中国にロシアだと、小学生でも分かるのではないか。
それなのに、学生運動が活発だった1970年代、キャンパスでは、「日韓併合(1910)で、祖国は戦乱の地になり荒廃した」、「創氏改名をさせられ、先祖からの名前が無くなった」、「ハングルを奪われ、日本語を強制された」、「在日は、みんな無理やり、祖国から強制連行された」と、在日と称する活動家たちは、創作したフレーズを叫んでいた。

事実を知らず、学生のほとんどは、朝鮮に悪いことをしたんだと思い、顔を硬直させながら、ただ沈黙をしていた。
ふつう歴史の間違いは「左翼」が指摘するものと、わたしは高校一年生まで思っていた。
が、21世紀になり、朝鮮や日本のマスメディアから「右翼」と呼ばれる知識人が、実証性の高い新聞記事をもとに、事実と言われてきたことが捏造や噂だったと、間違いを訂正して行った。

5)影響は4年間のヒルシュフェルト仮説(1919)
地動説のコペルニクスが居たポーランドからの、ヒルシュフェルトは、ハイデルベルグ大学のデュンゲルン博士の教室で、日本の原来復どうよう西欧にはA型が多いと知った。
A型でないもの、体内の血液による対象を明確化したヒルシュフェルトによる、B型への考え方だが、ポーランドには、13世紀にモンゴル帝国から攻められ、B型遺伝子が多く分布するロシアには、ずっと苦しめられてきた歴史がある。

血液型の頻度図は、1925年に、コロンビア大のオッテンベルグが、AB型をのぞいて、A型、B型、O型の三種で、西欧からアラビア、インド、中国、日本などを世界地図に表現した(『改定第二版』 p74))。
この目にうったえてゆく図形化が、遺伝子地図の端緒となった。そして、西欧では川沿い、山岳部など、サンプル数の合計が、100万人単位の調査が一斉にはじまった。


このようなときの調査の原動力こそ、西欧の生命科学の象徴といえるが、ダーウィンの「進化論思想」が根底にあった。

血液型を発見したラントシュタイナーが、1925年に、下等なメガネザル類はB型で、チンパンジーでわかるようにヒトに近づくほどA型とO型であるという、サルとヒトのデータを合わせた「血液型進化系統樹」を発表した(『改定第二版』p78)。

人種差別とからみ、乱暴にみえるこの考え方は、13世紀からモンゴル帝国が、西欧を襲った歴史からだそうだ。
言語がまったく違い、肌の色が違う人種は恐怖だった。そのため、数人の学者が遺伝子地図を作成したあとの、1940年に、イギリスの遺伝学者J・B・Sホールデーンは「ヨーロッパのB遺伝子頻度図」作成し、この地図へ関心が行った(『改定第二版』p80)。

医学で最先端をゆくドイツがそばにあるポーランドからのヒルシュフェルトは、長野日赤の原来復のデータを加えると、「西欧だけにA型が多い」としたかった仮説が壊れるため、無視をした。
さらに、ヒルシュフェルトは、各国の血液型頻度の作図(『改定第二版』p61)で、故意に西欧にA型が多くみえる論文作成をした。この際立った手法での発表で、ヒルシュフェルト論文は、白人種は優秀である事実を証明したかのようにみえた。

ヒルシュフェルト論文は、恩師であるデュンゲルン博士の考え方である「AとB」の「二因子」によっており、三つ目の「R(O)」についての考えはなかった。
O型の分布は世界均一とみなした、ヒルシュフェルト論文が影響を持ちはじめたころ、日本に血液型の知見をもたらした長野日赤の原来復どうよう、デュンゲルン博士の研究室でいっしょだった、A.F.コカが、アメリカ・インディアンを調べ、O型が76%も分布しているデータを公表した。
「ゆるぎなさそうにみえたヒルシュフェルト仮説(一九一九)の寿命は四年間だった。コカたちがアメリカ・インディアンの調査(一九二三)を発表したからである。」(『改定第二版』p67)。
と解説したように、ヒルシュフェルト仮説(1919)の影響は4年間で、終わりを告げた。
なのに、鄭駿永教授と韓国メディアは、ヒルシュフェルト仮説が、1935年ごろも有効だったような、デタラメ論法をとっている。
これにより、新しい方法論が求められ、ABOという三つの要因の組み合わせを考えたベルンシュタインが応用数理式を作って学界に登場した(1924)(『改定第二版』p68)。

ゲッチンゲン大学の数学者のベルンシュタインは、デュンゲルン博士の「ヒトの赤血球の『成分(構造)』には『AとBのふたつがある』という確固とした概念」は、メンデル遺伝学をもとにした数理生物学からゆくと、まちがっていると指摘し「A・B・R(O)の『三つの対立する遺伝子』を想定しないといけないと論述した」(『改定第二版』p69)のである。
A.F.コカとベルンシュタインによって、ヒルシュフェルト論文の影響力はなくなってしまった。
こんにちも、ABO式血液型遺伝子の考え方は、1924年のベルンシュタイン説によっており、「ABO式遺伝子」の歴史は、メンデル遺伝学に進化論思想がからむため、幅広い資料を相手に考察を進めなかればならない。

遺伝学から、ベルンシュタインが重要かというと、さして必要でもなく、分からないまま進んで行っても、遺伝の本質は追及できて行っただろう。
ベルンシュタインについての研究論文など、歴史背景を記載したものが見つからなかったので、わたしは『改定第二版』で、ベルンシュタインの論述を多くした。
日本人の研究は、黄色人種だから、信じないと論文に書ける姿勢は、正直であり、ベルンシュタインの記述は人種差別そのものという資料にもなる。
数理式以外は、デタラメばかりのベルンシュタインだけれど、遺伝学に応用数学者が参加し、学者たちの考え方が変わった。また、おおまかだけれど、ABO式の遺伝子分布ができるようになり、世界分布図を描くことができるようになったからである。

ただ、明らかな人種差別で進んでゆく傾向を、ノースカロライナ大学の動物学者、L・Hスナイダーは、ABO式血液型分布図を発展させながら、
「こんにちの研究は純粋な意味での人種研究ではなく、人種と国家と混乱しており、論調に国家がみえている(1926)」(『改定第二版』p75)
と研究者に警鐘を与えている。

鄭駿永教授や韓国メディアに、「優性(=見えるもの)」「劣性(=遺伝子=隠れたもの)」という、遺伝学では基本となる考察もみられない。基本を省いても「反日」といえば、不真面目であっても良いというのが、現代の韓国社会のようである。

日本での血液型研究、それと性格にまつわる、研究のすべてを乱暴に否定する韓国人の考え方は、2013年になっても連続しており、これは韓国人の民族性のあらわれ、歪んだ社会現象と扱えば良いことなのだろう。

「反日」という、感情からの簡単な表現行為は、韓国のメディア人にとって、日常の鬱憤の発散になるのかも知れない。正しさがあれば、ある程度、納得できるだろう。が、デタラメつづきで、どうするのかと思う。もう、大学生など、次ぎの若い世代に与える影響を、真剣に考える時代になったのではないだろうか。

影響力のあるマスメディアの、既得権の行使には、重大な責任もつきまとい、確信的なデタラメには罰則と、市民レベルで準備する時代がきたのではと思う。

6)「畜妾制」での朝鮮人血液型検査
京城医学専門学校(のち京城帝国大学医学部)の桐原真一(名古屋大学)の論文には、現在(2013)、韓国政府までが主張する「性奴隷」にかかわる、重要な制度が記載されている。
鄭駿永教授は触れていないが、桐原真一論文の、この箇所(「=畜妾」)を読めば、従軍慰安婦、性奴隷などは、日本でなく、韓国、朝鮮の伝統産物と分かるのではないか。

「朝鮮ノ家族ノ一般に厳格ナルコトハ、日本内地以上デアル、尤モ男子ハ畜妾ヲ公然免サレテ居ルガ」(「人血血型ノ遺伝及ビ其遺伝仮説ニ対スル批判」『社会医学雑誌』1927年、四八七号六四ニ頁『改定第二版』p140)

と、桐原真一は、朝鮮での男子は特別で、この論文の1927年でも、一夫多妻の「畜妾(ちくしょう)制」を続けていたことを指摘している。一方、女子には厳しく、
「女子ニ対スル慣習ノ厳重ナル事ハ比類ナク、相当ナル家庭ニテハ儒教ノ教示ヲ文字通リニ実行シテ居ル」
日韓併合時に、日本政府が、「畜妾制」は、女性の人格を認めていないため、廃止と主張しても、朝鮮は拒絶した。また、1910年代は、労働者がストライキ権など、より自由を求める大正デモクラシーの運動が盛んになっていった時代だった。が、朝鮮の上層階級(両班)の政治は、李氏朝鮮のまま女性の身分を認めなかった。

桐原真一は、儒教精神が厳しく残るという、朝鮮のデータから、「O型×AB型」の両親からは、どの血液型も誕生すると主張した。
データについて、西洋からのは親違いの子供だらけで、日本も同じようだけれど、朝鮮だけは厳格な社会のため、父親違いの子供はいないと主張した。
が、各国から挙がってくる、データの吟味から、「O型×AB型」の両親からは、O型やAB型の子供は生まれてこないと分かってきた。

客観的な遺伝学から成る世界に、主観で支配される儒教の教えを持ち出したことだが、1920年代の朝鮮は、一夫多妻により、女性の地位が低い事から、妻が「別の男の子供」と言うと大変なことになったのだろう。

親子関係の「遺伝」の議論は、生物学から医学にかけ、日本にも西欧風に特定のジャンルを越えた学術社会が、より活発になると思わせた。(「一九二五年一一月、古畑の学会発表」『改定第二版』p132)
ところが、朝鮮の倫理は日本より信用がおけるものと桐原真一が言ったため、桐原真一は、とうじ花形の遺伝学や法医学で、発言権を無くした。

鄭駿永教授による捏造の手法も韓国のメディアも、女性に人権などを持たせなかった朝鮮伝統の畜妾制を考慮すると、親子関係が判明してくる血液型検査では、どのようだったか、これらの考慮が必要になるためか、触れていない。
鄭駿永教授にしろ韓国メディアにしろ、韓国の理性ある若い世代が、納得できる「反日」を構築するには、最低、明治維新から日清戦争前の、李氏朝鮮の海外交渉事項の認識が必要になるのではないか。
が、韓国メディアの反日表現には、歴史検証の手続きが見られない。
このままだと、韓国メディアの反日は、思想というより、たんに感情だけの運動ということになる。
事実をもとにした日帝批判、反日は結構である。が、正しい道筋がなければ、次の世代が困るのではないのか。


現在、韓国は人口5000万人で、20世紀の終わりごろには脅威といわれる経済発展をとげ、西欧諸国とならんだ国家である。
どのように、若い世代をコントロールしているのか、韓国は世界水準よりはるかに高い国家規模になりながら、李氏朝鮮から残存する儒教からの制度を、徹底的に修正せず、韓国は悲劇だ、朝鮮半島だけが無残だと言い、日本にいる朝鮮民族(=在日)を敵対視する、特異な意識を形成している。


7)京郷新聞と東亜日報のデタラメ
韓国の主要メディアは、韓国でも読むに値しないと評価されているらしい。だけれど、聨合ニュースが発信して、なぜ間髪を入れず京郷新聞、東亜日報は捏造論文を肯定する記事をつくったのか、こういった民族性も理解しにくい。

<Ⅰ>
2月28日の『京郷新聞』をみると、「A型の多い日本人は、朝鮮人より優良?」‘일본인이 A형 많아 조선인보다 우월하다?’という題目で、キム·ジェジュン(김재중)記者が紹介している。
記事の内容で間違い箇所を指摘してゆく。

Ⅰ)日本人は1920年代から大規模で朝鮮民族の血液型を調査して、日本人は西洋人より劣っているが、朝鮮民族より優良であると植民地支配に利用した。

Ⅱ)京城医学専門学校(のち京城帝国大学医学部)の桐原真一教授のもとに学んだ、白麟済は3・1の抗日独立運動家で知られていたが、帝国主義の桐原真一教授に従順だった過去がある。

Ⅲ)血液型民族学は、その後、統計的に科学的にも"ナンセンス"と証明された。

事実との違いを論述してゆく。
ⅰ)欧米の血液型調査は、100万人単位の調査である。これらと比べると、日本人による朝鮮民族の被検査者数は、1922年ごろから1935年の間で、合計3万人足らずである。二桁も数値がちがう。
日本自体も、日本は欧米に比べ、ABO式血液型の、検査時期と、調査人数(サンプル数)を一定にしたデータが見られない。
日本の調査の欠点というか、データ収集能力について、一言でいうと、調査側の意思と、研究予算の問題になる。どれもこれも、県単位で2000、3000人という、あまりに小さなサンプル数で、なぜ、全国に必要性を説き、連絡できなかったのかと思った。

また、鄭駿永教授の論点の問題だが、昭和時代が始まったころの、日本全域(満州、朝鮮、台湾も含む)の血液型頻度をみると、東北や北陸での調査地点では、朝鮮半島のデータより、B型、O型が多い地点がずいぶんと見つかるが、これらを論点にしていない。

京城帝大の調査範囲もとうぜん日本人によるもので、朝鮮の3、4箇所と限られており、朝鮮半島全域、周辺の島々なども、まったく無い。
戦後は、医療関係や人類学関係者から、朝鮮と小さな島々のデータが発表されているのではと、1970年代は思ったりしたが、朝鮮半島を考えられるデータの発表は見られなかった。

1930年代までで3万人というものでも、たとえば病院や保健所など、朝鮮半島全体の30箇所で、1000人単位の調査。あるいは500人単位で60箇所の調査であれば、朝鮮半島のなかでの民族の動きを考えられる、格段重要なデータになってくるが、こういうものも現れてこなかった。

ⅱ)嘘をつく朝鮮民族を、懸命に擁護した桐原真一(1889-1949)に対し、なにもかも「3・1独立運動」という神聖なテーゼへ、邪悪な「反日」を結びつけ、批判すれば、韓国の正義の使者になれる、安易な考え方は、国際社会の要請で変化が余儀なくされてくるだろう。

ⅲ)血液型と性格の批判は、東大帝大法医学の教授のポジションに、金沢医科大学(金沢大学)の古畑種基が就いたためである。
ここの論点で重要なのは、軍国主義になびき権力志向の古畑種基が世相を騒がす事として、否定したということである。

鄭駿永教授とキム·ジェジュン(김재중)記者は、一貫して日本の軍国主義を批判したいのではないのか。
ところが、これまで見てきたように、どれもこれも論点がおかしい。理由は、朝鮮民族という、とうじ弱い立場のひとたちについた学者たちの検証をせず、日本人ということで批判してゆくからである。まあ、論点が奇妙だから、捏造作文を次々つくれるのだろうが。

<Ⅱ>

「“ A型が多い日本人による”優越感での荒唐無稽な『植民史観』」
“A형 많은 일본인, 우월” 日 황당 ‘식민사관’(3月1日)
東亜日報 の「李重絃?(イ·ジウン 이지은)記者は、
Ⅰ)日帝が韓半島を占領していた時代に、植民史観を強固なものにするために、血液型の研究に執着していたことが分かった。

Ⅱ)鄭駿永教授によると血液型分類は、日本民族の特権的地位を当然だと正当化し、植民地支配をするために必要だった。

Ⅲ)私たちが何気なく確かめてみるには血液型の話の中にひどい植民史観が隠されていることを知るべきである "と強調し、「大韩医史学会」の『医師学(医史学)』に投稿した。

ⅰ)ⅱ)ⅲ)、
韓国メディアは、鄭駿永教授の論文に重要性があり、話題のものであると言う。が、まともで新しい論文であれば、1920年ごろを扱ったわけだから、この論文を書くプロローグに準ずる部分が表現されていると思うのが常識と思う。わたしの知るかぎり、医学界で血液型と殖民地政策を肯定したものなどない。

<Ⅲ>

「種族偏見に利用された血液型」 “횡설수설/하태원]종족편견에 이용된 혈액형”(「東亜日報」3月1日)河泰元 (하태원 ハ・テウォン)論説委員の記事も、第一次世界大戦時代の先進国イギリスの臨床医学とドイツの基礎研究医学がどの程度進んでいたのか、日本がどこまで追いつけていたのか、それをまったく無視して、ただ反日の感情で主張を進めている。
デタラメを羅列してゆくと、
Ⅰ)「ヒルシュフェルト」による、「人種係数」により、朝鮮半島の南部は、日本との類似性があるとして、「日本に近い全羅南道(チョンラナムド)が割合増しなほうだという詭弁で、『内鮮一体』の正当性を強調した」

Ⅱ)「実は、人類を遺伝的に改良する目的で発展した優生学は、黃禍論に根を下している。欧州人はA型とO型が多く、アジア人はB型が多いという研究結果が出たことを受け、B型劣等論(黃禍論)を作り出したのだ」

Ⅲ)「脫亞入歐を謳いながら、開花に成功した日本としては、韓国人よりA型人口が多かったという事実で、植民支配を正当化したかったのだろう。しかし、一定の血液型の多少で、国の運命に影響を及ぼすと考えること自体が、前近代的だというのは、日本の敗北が証明している」

河泰元論説委員が、鄭駿永教授論文に従い使っている主張を見る。
ⅰ)朝鮮半島の南部の血液型頻度と、日本の類似は、日本人の流れを考えるときには、話題になっていた。が、「『内鮮一体』の正当性」との植民地政策と血液型の頻度が論じられている論文など、わたしは知らない。

ⅱ)「B型劣等論(黃禍論)」だが、西欧にとって、侵略してきた、チンギス・カンによるモンゴル帝国が拡大し、西欧へと侵略してきたことが問題であり、たんに社会事象での「黃禍論」が、生物科学へ大きな影響を与えたという、流行の原因をみるのは難しい。
西欧の生物科学が思想としての勢いをもつのは、白人種が黄色人種や黒人種と比較して、ヒトとしての優越性を納得しやすいだけの、ダーウィンの説「進化論」である。

ⅲ)日本は、「脫亞入歐」ということを国家の基本としたようになる。聞き慣れない「脫亞入歐」という四文字へ、「開花に成功」とありふれた言葉を連ねる。
歴史年表だと、遣唐使の廃止(894)から、とちゅう南蛮貿易時代があっても、黒船のペリーが、大砲で威嚇(1853)するまで、「鎖国」を続けてきた。じつに1000年という長い歳月、日本は外国と、政治レベルの交流を避け暮らしてきている。

河泰元論説委員は、日本はA型が多いということで、韓国への殖民地支配を肯定したが、この考え方は「前近代的」であるということは、「日本の敗北が証明」しているとの断定表現をしている。ここでの敗北とは、第二次世界大戦での敗戦のことだろう。
河泰元論説委員の論理で、普通に思考を進めると、①日本は「劣性のB型が多い朝鮮民族」を日本の民族として取り込んだ。②そのため「日本は敗北」した。
これだと、日本の敗北は朝鮮民族が原因ということにもなる。

 
 
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 「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2013.7.2