京都昨今 |
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83、西成の50時間――女医誘拐殺人事件 U 【テレビ朝日、早河洋の使用者責任D】 | ||
1)高崎市へ連絡した朝 11月14日土曜日9時、祥子女史が定刻どおり出勤してこないことから、黒川さんもスタッフも異変を感じ、黒川さんの指示で、スタッフはアパートはじめ居場所を確認しはじめたと言う。 「これまで、、、(無断欠勤など)無いから」と黒川さんは、14日の8時すぎ、祥子女史が定刻どおり来ないときに異変を感じたと言う。 成人の無断欠勤は、会社のばあいを考えればよく、診療所への迷惑行為であるから、黒川さんにしろ、診療所は動く必要はない。 このため、この即時性について、黒川渡さんへ、わたしは、2月26日に何度と確かめた。 「矢島さん。こういった、、、ことは(勤務などは、定刻どおり)」と黒川さんは言う。 祥子女史の、女医として処理速度や性質が、通常たとえる犬的か猫的でなく、パンダかコアラのものであっても、患者との時間には四角四面なものであったと感じさせる。 国立大学出身の医学部生はほとんどと言ってよいが、群馬大学出身の祥子女史は、幼いときから10数年単位、毎日、毎日、勉強をしてきて医師となった。そして、例外とも言うべき、社会の弱者に奉仕する事を課して医師となってから10年もの期間がある。 黒川さんが言っている、祥子女史の規則性だが、通常、これが無いと国立大学医学部には入学できないし卒業もできない。が、黒川さんの、この緊迫した心中を計画通りと愉快犯たちは見ていたことになる。 わたしの疑問として、一般に孤独につよく自己防御もできる医師のことで、なぜ、翌日の15日(日)の朝10時20分という早い日時に、大阪から距離のある、群馬県高崎市の実家に連絡したのかと、黒川さんへ尋ねた。 「日曜日は、矢島さんが、必ず出席する(釜ヶ崎・ふるさとの家の)ミサが、、、」 と言う。 祥子女史が欠かさず出席した日曜のミサは、尊敬する本田哲郎神父がとりおこなう。 本田神父は、フランシスコ会の日本管区長のあと、志願して1989年「ふるさとの家」に来られた。 釜ヶ崎への赴任を希望したのは、ホームレスとも呼称される生活に保証のない労働者、社会の底辺と言われ、弱く虐げられたまま生きてゆく人々を知り、彼らが少しでもよりよく生きてゆくため、「自立援助」の組織を1999年につくられた。これが、「釜ヶ崎支援機構」である。 「ミサには出席しているだろうと思って、教会へ捜しに行ったんです。だけど、矢島さん、出席していなくって、、、」 それで、祥子女史の日常性、信仰の姿勢を知る、釜ケ崎「ふるさとの家」の本田哲郎神父も、これは通常ではないと判断した。 「捜索願い」と言ったのは、本田神父だった。 そして、黒川渡さんは、警察に、行方不明の捜索願を申し出たと言う。 西成署へゆくと、勤務先の責任者の黒川さんからだと、大阪など地域限定の捜索で、全国捜索には親や親族の許諾が必要と言われたと言う。 そのため、15日午前10時20分ごろ、黒川さんは、高崎市の父、矢島祥吉さんへはじめて連絡をして、祥子女史の確認が取れないと言うことをつたえた。 夕方、祥子女史の兄弟が西成に来たというので、「両親は?」と質問した。 黒川さんは疲れた深呼吸をして、 「オヤジさん、、、。腰を抜かして、、、(動けなくなり)」と小さく弱い声で言った。 2)15日夕方に全国捜索願 高崎市の父、矢島祥吉さんの指示だろう、連絡した日の4時か5時ごろ祥子女史の兄弟と西成署で会ったと黒川さんは言う。 長男の矢島敏さんは神奈川県茅ヶ崎市から、三男の矢島剛さんは京都市からで、彼らが黒川さんと「全国捜索願」を提出したという。 15日(日)兄弟(敏、剛)は、夕方、西成署にあらわれた。 このときの、くろかわ診療所のこと、スタッフの動向を、黒川さんに尋ねていないが、「犯人は、矢島さんの、家庭環境を知らなかった」と言う黒川さんの考えだと、西成署に現れたカジュアルな服装の長男、三男を見て、犯行者は彼らだけが血縁者と思ったのかも知れないとわたしは考えた。 捜索願を出したあと、黒川さんは、このとき平静さが見えた矢島敏、剛さん兄弟へ、食事でもと言い、 「こうやって、飯を食っているとき、ひょこっと出てくるかも、知れないね、、、」などを話したと言う。 黒川さんは、詐欺に賭博、覚醒剤(薬物)売買に、殺傷事件が日常といえる西成の事を言っても、建設的な言葉でないと思うのか、わたしにはいっさい言ったことがない。 同じように、西成の出来事を、想像できない若い世代の矢島兄弟に、何も言わなかったのは、黒川さんだけの心配であれば良いと思っていたにちがいない。 2009年秋の、矢島祥吉さん家族の様子だが、11月15日、大阪にきた矢島敏、剛兄弟をはじめとして、兄弟の間では、喜び事がつづいていたように思える。 10月は、長男の矢島敏さんたちに三番目の子(次女)が誕生し、11月11日は、京都で生活をしている音楽家の三男(矢島剛)がロック音楽(デビューアルバム)をリリースした。 3)西成の50時間 祥子女史の遺体は、11月16日午前1時20分、木津川の釣り人が発見した。 祥子女史が誘拐された時刻を仮に、14日の0時ごろとすると、誘拐された後に殺害されて、木津川に放棄され発見されるまでの時間は、およそ「50時間」、2日と言う単位である。 群馬県高崎市の矢島祥吉さん家族に連絡があり、新幹線たにがわ高崎発6時16分に乗車したのだろう。矢島祥吉さんによると、午前10時40分に遺体(西成署)と対面したとある。前日、腰を悪くし歩けなくなった、父、矢島祥吉さんを中心とした家族に気力を感じる。 西成署で遺体と会った、午前10時40分。亡骸の祥子女史を見たとき、乱暴な攻撃による惨殺痕が見えたと思える、祥子女史の「眼(眼球)に顔の表面」に対して、矢島祥吉さん、晶子夫人は、熟練した医師としてどのような知見を述べ合ったかと思う。 そして、司法解剖が始まる午後1時30分の時間だが、他殺を考えると、ここでの2時間50分間が、非常に重要だと感じる。 黒川さんによると、矢島夫妻が司法解剖を急がしたからと言ったとき、合計3回も行なった祥子女史葬儀の判断が先立ち、こんな時間の流れが出来たのかと思った。 遺体が発見された日の黒川さんだが、西成署へ行くまえから信じられない恐れにとらわれたみたいである。 高校のとき、大学のとき、同窓生のため自分自身を犠牲にしてきた性格をそのままつづけている人のため、責任者がひとりと言う重圧が大きかったのだろう。茫然自失と言ったら、わかりやすいのだろうが、聞きなれなく何を言っているのか分らない精神医学用語の「解離性(感覚)障害」のほうが、このときの心身の状態をより明確に表現している感じになる。 それにかかわらず司法解剖が始まったころ、長男の矢島敏さんは、「黒川があやしい」、「妹を殺したのは黒川だ」と言い始めた。 15日(日)は、ふつうに見えた矢島敏さんたちは、なぜ、無惨に殺された祥子女史の遺体が在る、ただ悲しい霊安室という場所で、落ち着きのない小学生が言うような、論理性がない「人殺し」と言う、法外で人権侵害の言葉を吐けたのか、普通の人には考えにくいことだろう。 息子(敏、洋)たちが「妹殺し」と三ヶ月にわたって言いつづけているとき、普通だと、親であっても多少冷静になり、人権侵害になるからと注意するものである。ところが、矢島祥吉さん夫婦は子供といっしょに、黒川さんとスタッフを疑い攻撃し、黒川さんに命令していた親である。 黒川さんからも影響を受けた、祥子女史は貧困層を自分自身が持つゆっくりとした時間で、診てゆくことを生きる姿勢とした。 矢島夫妻は、祥子女史の時間感覚が、他と違うことは知っていたはずである。同僚の白水倫生さんが、医学論議をはじめても、祥子女史は、他の動物と違う反応を見せるパンダのように、独自の時間を持ち、相手により黙ったまま過ごせる資質があった。 この、他の人とはかなり異なる祥子女史の性格が、貧しい人たちへ心身をそそがせたのではないのか。彼女の社会への奉仕精神には、善人と悪人との見境、この区別がなかったのではないのか。このために、A氏や尾松郷子さんたちと交じってしまったのではないのか。 矢島祥吉さんたちはクリスチャンだそうだが、過去、どのような宗教体験をして生活の糧になる文化を築いてきたのか、わたしには分からない。日本が政教一致の国であることは、創価学会と公明党をみればわかる。矢島祥吉さんは打算だけのクリスチャンなのか。 祥子女史は、父が経営する上大類病院の跡継ぎなのに、断っていた人で、事件の11月には、母、晶子夫人がすすめる高崎の人との見合いの話しがあった。が、見合いも断っていたそうだ。 結婚観だが、欧米のように文化が進むと、さまざまな考え方が出てきて独身者が多くなる。なかには、社会に貢献する人も出てくる。 祥子女史が大阪市西成区を選んだのも、その現れだろう。2007年6月、黒川さんから、祥子女史を聞いたとき、裕福な家庭に育ったことを原因にして崇高なものと感じた。 出身をきくと、群馬と答えるので、「群馬?(遠すぎる、、、)」とわたしは言った。群馬大は、法医学の古川研さんを、古川研さんの兄弟をとおし知っているだけである。 黒川さんは、意に介せず誇らしげな表情を見せるので、群馬県に距離をかんじる、わたしが古い世代の人間かと思い何も言わなかった。 こういった、我が娘の性格を知っているなら、ふつう家族は、黒川さんに、「娘が世話になりまして」と形だけでも言うのが関西の風習だが、黒川さんに一言の礼もなく、命令口調ばかりだったと言う。 殺害という事象に驚いている黒川さんへ「人殺し」と言う。この精神症状だが、群馬にもある山岳信仰を由来とする「憑依(trance)」なのか。キリスト教信仰による、懺悔のときによくある、自分だけは正しいと言う感性での絶叫なのか。 大企業の進出で、東北の町が大きくなり言われなくなったが、関東地方では、関東での区別の文化があり、1970年ごろまで、「坂東(利根川)以北とは、付き合えない」と言う、地理での境界を使う言い回しをよくしていた。理解できない相手を、どうにか分ろうとするとき、地理での境界が出されると諦めからの納得というものをしてしまう。 宗教や文化からの憑依は、日本では、21Cになり、なじみになっているものに、朝鮮半島の韓国人による「火病(かびょう、ファビョン)」がある。 黒川さんは、祥子女史が持つ、ゆるやかに表現してゆく言動の理性を認めて、そこに価値を見出そうとしてきた人である。そのため、同じ兄弟で、敏、洋さんからの急激な「妹殺し」と言う、感情だけとは思えない人権侵害の乱暴な言葉遣いは、信じられなかったものだと思う。 2011年1月、黒川さんと、最初の短い電話のときは、このような経過をしらなかった。そのため、わたしは、西成署は明らかな他殺に、自殺の可能性を言い、遺族を、より悲しませる状態にしたのだから、なぜ、京大の法医学教室か、外科から、ひとりでも来てもらう事をしなかったのかと言った。 このとき、わたしの、事務的な口調に対し、黒川さんは落ち着き、法医学の知見による議論は、矢島夫妻が進めており、傍観者の立場となっており、どうして良いのかわからなかったとのように言った。 そして、白水倫生さんと連絡が取れて居たと言うことから、祥子女史へ西成署が自殺説を当てはめようとしたとき、どう判断していたかを尋ねると、 「(矢島さん)自殺なんか、しいひんわ(しない)」と白水倫生さんは、言ったと言う。 診療所の責任者としての黒川渡さんだが、この日(11月16日月)は、黒川渡さんが、「ホームレスの巡回相談日」だったので、黒川さんの代わりに、白水倫生医師が出向き、午後は、診療所の外来も、代行してもらっていたと言う。 これ以降、「くろかわ診療所」は、しばらく休診をつづけた。 4)「日本基督教団」と「ふるさとの家」のお別れ会 16日、警察での時間の流れを、黒川さんに、ひとつひとつ尋ねて行った。 霊安室へゆくと、 「矢島さんのお母さん(晶子夫人)と、付き添いの女性が、出てきて、、、」と黒川さんは言った。 母の晶子さんは、娘を思って、また確認のためもあり、遺体の取り扱いの処理をされたのだろう。 付き添いの女性と言ったので、その女性は誰?と聞いた。が、「わかりません」と黒川さんは、警察官の取り調べに返答しているような、きわめて生硬な抑揚で言った。 長く医師をしてきた、矢島夫妻だから、弔い事を冷静にすすめることができたのだろう。 が、西成署での、母晶子さんの言動が、熟練した医師としての行為と分からず、ふつうの母親にはできない行為をしていたと、警官から警官につたわったのだと思う。 周辺へ、どのように流布したのか、これらが、「あの母親では、、、」と自殺説の要因のひとつになったようだ。 16日夜、西成で「お別れ会」が、二度もよおされた。 矢島夫妻の宗教がプロテスタントとの事で夜6時をすぎて「日本基督教団」で、7時ごろに祥子女史のカトリック信仰の「ふるさとの家」で行なわれた。 5)白水医師を消去し、采配する母親 黒川さんの医師としての生き方だが、貧困な人、異国人、感染症ならび薬物中毒者への境界が無い。熟練の医師としての黒川さんからみて、同じく「矢島さん」は、代わりのない医師だったのだろう。 黒川さんは、「くろかわ診療所」を、「白水君に、後を任せても良い」と白水倫生医師に言っている。 部下も自分と同じと考える、黒川さんにとって、患者をおもう治療のできる医師が一番だから、祥子女史が勉強をつづけベテランの医師になれば、同じような事を言うだろう。 なのに、矢島家族はちがっている。 2011年1月の矢島洋さん、敏さんの奥様との会話のとき、くろかわ診療所の医師が、黒川渡さんと祥子女史だけのように言うので、わたしは白水倫生医師のことを言った。すると、両者とも知らないと言う。 そのため、なぜ、矢島祥吉さん家族は、同僚の白水さんを知らないのかと黒川さんにたずねた。 黒川渡さんは、「(どうして?)」と言う表情をして、 「白水君いましたよ。16日、お別れ会で、矢島さんの家族たちと挨拶しましたから」と言う。 兄弟たちは、同僚の白水倫生さんを、まったく知らないと言った。が、黒川さんによると、母の矢島晶子さんは、16日初対面の白水倫生医師に、 「診療所に、祥子が来たとき、どのように思いましたか?」と尋ねたそうだ。 白水倫生医師が、 「天使が舞い降りてきたような、、、」と答えると、晶子夫人は満足そうな表情をしたという。 わたしが、白水さんは、良い回答をしたと言うと、 「どうしてです?」と黒川さんは、かなり不機嫌になった。 黒川さんが不機嫌なのは、矢島晶子夫人は他人を采配ばかりするだけでなく、くろかわ診療所のスタッフ全員を、徹底して疑惑の眼で見つづける性格の人だからと言う。 そのため、黒川さんは、スタッフ全員を紹介した。 それでも、人権問題など関係なく、疑いつづけ、夫の矢島祥吉さんを使い命令できるのが、晶子夫人だと言った。 性格上、嫌な事があっても、十分の一も言わないのが黒川さんである。その黒川さんが不機嫌な顔をしている。わたしが始めて見る表情だった。 それでも、わたしは、白水さんの表現に、間違いは無いと思っているので、 「文化の差があっても、一般大衆に分かりやすい」と言った。 けれども、黒川さんの気分は直りそうもなかった。 表と裏があり、人権侵害を平気でしてくる矢島家族の異常性と、家族の複数による攻撃は、わたしが直截経験している。 父、矢島祥吉、晶子夫人、長男敏、次男洋、三男の剛さん。この家族は、大きな声で言い続ける才能がある。 彼らが同じ場所で、それぞれに黒川さんを指弾してきたら、どうだろうか? そのため、どれほど、嫌な事をつづけられたのかと思い黙っていると、 「矢島さんの、お母さん、、、」と言い、「(あのっ、、、)」と言うぐあいに、少し右手を動かした。 欧米人は頻繁だが、黒川さんには言葉を補充させているつもりの、沈黙のままのジェスチャーが多い。 黒川さんの右手の意味だが、矢島さんが残虐な事件に会ってしまった事、死者となった事、これらがまだ信じられないのに、お別れ会に通夜など、つぎつぎ手配していったそうである。 この母の矢島晶子さんの言動に、不信感を抱きながら、傍観していた黒川さんへ、母の晶子さんは、何かを命令した。このことを言いたいらしい。 「あっ、、、」とだけ黒川さんは言い、これ以上、言葉にするのは嫌で、手など、ジェスチャーをつかい、表現しているつもりのようだった。 祥子女史が、信仰の居場所とした「ふるさとの家」でも、黒川さんは、祥子女史の死を理解したくなく、俯いた状態をつづけていたそうである。 お別れ会での、黒川さんは悲しさの中におり、この悲しささえ、どのように受け入れて良いかわからず、認知力が点滅したようになり、記憶が連続しなくなっていた精神状態だった。 なのに、母の晶子さんは、黒川さんを呼び、 「祥子のため、発言してください」と言ったと言う。 黒川さんにとって、自分自身と同じく病気の貧しい人がわかる、「矢島さん」の死は、なかなか了解したくないものだった。考えられない残虐な殺害と言う事実に、神聖な死へと逝ってしまった祥子女史をまえに、なにも考えることができない状態だった。なのに、母の晶子夫人は平然と言葉を求めてきたという。 母の晶子夫人が非常に冷酷で、見える数字だけを追う性格のように祥子女史から聞き、そのために母親と衝突していたことを知る黒川さんは、実際の晶子夫人をまえにして、 「(、、、こんな女性)」が、おとなしい祥子女史の母親だったのか、と祥子女史がかわいそうに思ったと言う。 しかも祥子女史との決定的な違いは、責任に関することだった。ふつうの人より格段ゆっくりした性格であっても祥子女史は、自分自身に関わることは、一歩進んで責任を取るみたいである。それに対し、母親は、責任が問答される場面では、出てこずに黙ったまま隠れることができるという。 「その、、、(分るでしょう?)」と言う表情をして、また右手を、少し動かし、黙った。 わたしは、 「ええっ」と肯定し、「(何も言えない、、、)」と頷き、黒川さんに、どのような言葉を言ったのかと尋ねなかった。 わたしたちは、長い沈黙をつづけた。 6)キリスト教を利用する矢島祥吉 矢島洋さんにもみられたが、初対面の段階で他人を見下し、すべて指図してくるのは、自分たちは病院経営をする医師たちであり、子供にも金銭的優位と言う意識があるからだろう。 2007年に採用するとき、黒川さんは、祥子女史の両親に会って許可をと思ったが、祥子女史が泣いて断ったというのも、世の中は打算と金だけだと割り切り、キリスト教のプロテスタントを利用する父親と母親が、調子にのるとどこまでも、命令する習性があり、これを非常に嫌ったようである。 祥子女史がカトリックを信仰の対象にしたのも、ここに原因するようである。 一般に、関西人には、関東の人の言葉遣いは乾いており、荒く速くて乱暴に聞こえる。 祥子女史は、日本社会の中でも特異と言われる、歴史が京都より古い大阪の土地にきた。 大阪で気づいたのは、ごく一部に、貴賎の上下でなく、人柄の判断で、日常生活を成り立たせてゆく人がいる事、貧しくても心のきれいな人たちがいる事。これが奉仕の支えになったのではなかっただろうか。 祥子女史は、独特のとろりとろりとした精神時間を備えていた。そのため病気で言葉の不自由なホームレスに当たり、ゆっくりゆっくり診ることができる性格をしていた。この長所は、同じような道を進んでゆく上司の黒川さんすら、会ってすぐに、価値評価をしにくかったのではと思う。 ふつう、仕事の処理速度の緩慢な人物を採用するかどうか。この人物に、同僚として、採用して価値をあたえたのは黒川さんである。 地方のお嬢さん育ちで、成人して金銭に困ったことのない祥子女史は、働く場所を大都会の大阪、しかも西成という地域を選んだ。さらに自分の意思で「あいりん地区」へ行った。 黒川さんが、危なすぎる行動を、止めて欲しいという忠告をしても、聞かないのが祥子女史だった。結果として、殺害された。けれども、誰が悪いのかと言うと、殺害をする方である。 祥子女史のような医師がひとりふたりと増えてゆけば、世の中は確実に変わると黒川さんは考えただろうし、わたしもそうだと信じる。 そのため、殺害を知った同じ日、祥子女史を知る人たちの誰もが言葉にできず、沈黙のままだったという。 突然の死、しかも殺害。こんなお別れ会に、言葉で表現してゆくなど、わたしもなど、まったく出来ないことである。 11月16日の夜、この日のことは「ふるさとの家」に集まった知人たちが証言するだろう。 鶴見橋商店街は典型的な大阪人の集合だろうし、労働者の集合地「あいりん地区」にしても、全体を広く考えると、大阪人や関西人に囲まれた地域である。 お別れ会に来た人たちも、年配の人たちには、祥子女史の行為が無謀だったと感じていても、自分自身の娘にあたる若い死者をまえに、やるせなさの感情しかなかっただろう。「ふるさとの家」には、ただ静粛に、関西独特の湿気った空気が、つぎからつぎ出ていただろう。 若い人たちも、突然の悲報と事実のまえに、逝ってしまったという事など認めたくなく、だれもが、何を言ってよいか分らない状態だっただろうと思われる。 黒川さんは、祥子女史にかかわることを、わたしと何度も話していても、いくら時間が経っても、自分自身が発言する言葉に、安易なもの、また誤りを含んでいるのではないかと、表現に注意をしている。 黒川さんの注意の仕方だが、祥子女史の人格にかかわることは、反応が遅いと言う事以外、何も言っていない。 わたしも、自称恋人のA氏と尾松郷子さんと、どのような会話の進め方をしたのか、そのため、性格の一端だけでも、つかみたいと思い、黒川さんに、「せめて10秒ぐらいの音声を聞くことができれば」としか言っていない。 くろかわ診療所の祥子女史の、お別れ会に集まったひとたちは、黒川渡医師の関係者はじめ、生前の祥子女史への追悼を、一心につづける、他の地域には理解し難い、やさしい感覚を持った人たちの集まりだったと思う。 黒川さんによる、祥子女史が殺害されたと言う言葉から、誰がこんな事をしたのかと言う気持ちで、無言のまま涙ぐみ、静かに見送ろうという親和性が成り立っていたはずである。 知人たちによる沈黙。つづいてゆく沈黙のお別れ会のとき、長男の矢島敏さんに、戦争ばかりしている欧米キリスト教文化圏からの、憑依現象がおきたのか、 「祥子、お前は、早すぎる!」と、雄たけび声をあげたそうである。 死が信じられなく、頭をたれ、追悼をしている知人たちは、何が起きたのか、わからない状態になり、ただ驚いていたそうである。 お別れ会の責任者にもなる黒川さんは、厳粛な時間の騒動に、いったい何が起きたのか分らなかったと言う。 声であり、言葉の意味に気づいて、だれが何のために声を上げたのか、周囲をみまわしたと言う。そして、突然の声は、長男の矢島敏さんとわかったと言う。 これを言うとき、祥子女史の突然の死を経験した、黒川さんには、チリチリと重ぐるしい場面のフラッシュバックが起きているのだろう、涙が出てくる感情を抑え、息を飲み込む声で、ひとこと、ひとこと言った。 そして、このお別れ会が終わったとき、母の晶子夫人に携帯のアドレスを聞くひとがでてきた。晶子夫人が戸惑い、要領を悪くして弁解していると、長男の矢島敏さんは、母の晶子夫人に「そういうこと、言ったってね」と叱りつけ、怒鳴ったそうである。 が、晶子夫人は、長男の言動には注意を与えず、うろたえていたそうである。 「携帯のアドレス、(突然聞かれて)言えますか?」と黒川さんは、お別れ会の苦しい心象がいまだそのままで、諦めたように言った。 お別れ会の空気の断片を感じたわたしは、「(いいえ、、、)」と、黙ってうなずいた。 黒川さんも黙ったままの状態になった。 このとき、日頃、黒川さんを平気で批判している白水倫生さんは、「どうでしたか?」と尋ねた。 黒川さんには、「16日」の記憶が辛く、また、わたしの質問がわかりにくかったようである。そのため、 「白水さんが、黒川さんに対して、、、」と補足を加えて行った。 「ええっ、、、」と黒川さんは、質問の意味を了承した表情をみせた。そして、 お別れ会が終え、会場の「ふるさとの家」を出るころ、身体を支えるのが、やっとの状態だったことを言い、黒川さんの身体が普通でないことに気づいた白水さんは、 「(心身)大丈夫ですか?」と、静かに丁寧に、黒川さんへ、たずねてきたそうである。 遺体を乗せたクルマが西成を去るとき、知人たちは息をする音も押さえ、なにも言葉にできない気持ちのまま、ただひそやかに列をなし見送った。 この見送る知人たちに、矢島敏さんは 「皆さん、ありがとう、ございました」と、欧米の映画に見られる、天恵により生き返った人のように、大声で、手をふり言ったそうである。 この光景に、黒川さんはじめ、キリスト教はアーメンの十字架ぐらいしかわからない西成のひとたちは、言葉なく唖然とした。 これにより、 「あの家族と、あの母親が嫌で、祥子女史は、自殺したのではないか」と言う言葉が、貧しいけれど本音だけは言える生活観に慣れている、あいりん地区の人たちへ、次第に広がって行ったという。 7)計算の木津川、西成管轄放棄 木津川への放棄の仕方だが、仮に、西成公園(津守1丁目)あたりで、祥子女史を、遺棄したとする。この辺りの、木津川は川幅100メートルぐらいで、護岸は、「J」の字となっている。そして、ふだんの水流であれば、東側へ、津守の護岸(土手)に向かって当たる。 これを考慮すると、木津川が、雨の日の後でなく、普段の水量のとき、西成公園(津守1丁目)の位置から遺体を投げ、順調に流れたとして、2キロ下流が、発見場所の西成区「南津守5丁目」になる。 そして、ここから400メートル下流は、住之江区「北加賀屋5丁目」になる。 発見は、大阪市が運営している渡し舟「千本松渡」(大正区南恩加島〜西成区南津守)のひとつだが、川幅は200メートルと広がっている。 「千本松渡」の400メートル下流は、住之江区「北加賀屋5丁目」で、住之江署の管轄になり、遺体確認者が、住之江区の「地域課の警官」となる。 この地域の木津川の性格を考えると、「千本松渡」あたりで川幅が広がり、大阪湾の海水が混ざる分水界(分水境界)になる。 この河口の状況を考えると、このあたりに放棄されると、潮の干満と日時により、流れに変則性が出てきて、遺体は漂い、確率は小さくても、一時間あり、西に向かうと大正区へ流れつく可能性がでてくる。 そして、このときは管轄が西成や住之江区より事件発生が少ない大正警察署になり、事務処理の報告がどうなるか、わからなくなる可能性がでてくる。 西成署の見解のひとつが、祥子女史が、西成区の木津川へ、飛び込んだと言うものだった。犯行を明確にしてゆくため、この木津川の河口の流れの性格を知る必要がある。物体の形状の違いにより、流れ方も違うだろうから、さまざまな形状を用意し、漂流実験を何度もしてゆく必要がある。 結論として、祥子女史事件のばあい、遺体の川への投棄は、木津川の流れを、良く知った人物たちによる行為で、西成側の「南津守5丁目」に、釣り人たちが「来る事を」、ないし「居る事を」、確認してからの行為と考えた方が良い。 8)交友相手の責任を求める矢島家族 黒川渡さんを、あげつらった批判は、2011年7月26日の「さっちゃんの会を応援する会」にも見られる。 「なぜ『くろかわ診療所』における祥子先生の勤務実態は語られないのか?」と題しており、黒川さんが、 2010年3月31日、「NPOヘルスサポートおおさか」でした講演に、祥子女史の名前が無いと、批判している。 「さっちゃんの会を応援する会」の、誤りだが、まず、年度を2011年とまちがえている。 黒川講演の本文で、わたしが驚き、感傷にひたったところがある。2005年12月の、診療所を開いたときからの「言語聴覚士」の女性が、「ご家庭の事情で丁度本日付で退職ということになりました」と言う箇所である。 この文面から、2007年6月、「くろかわ診療所へゆかせてもらいます」と言った、あのときに返事したわたしの言葉が、記憶から出てきた。 2007年6月、京都へ黒川さんが来たとき、矢島祥子女史の話題は合計3分もなかった。 わたしが興味を持ったのは、黒川さんが「くろかわ診療所」の特色として述べていた、「言語聴覚士」のスタッフのことだった。 先天的か後天的かで、言語が不自由になった人。言語が不自由な人を理解してゆき、病気による症状の明確化、認知レベルの明確化をしてゆくこと。 そして、「神経心理の評価」のできる「言語聴覚士」の女史といっしょに、「病状をきちっと仕分け(鑑別診断)」して、客観的に分るものにしてゆくことである。 「言語聴覚士」の事をきき、どのような方法でやってゆくのですかと、わたしは質問した。そして、黒川さんから説明を受けた。それでも実際が分らないので、西成へ行きますと返事した。 黒川さんの講演には、診療所を開いたときからの白水倫生さんがない。また、他のスタッフの名前もない。 「NPOヘルスサポートおおさか」の性格として、集まった人の誰もが、祥子女史の事件を知っているだろう。文書などの活字でなく、もし、会のはじまりなどで、祥子女史を追悼していたら、矢島家族はどうするのか。 そんなに、祥子女史の名前が形式として必要なのだろうか。 わたしは、祥子女史が「くろかわ診療所」へ来て、2007年から2008年、10回以上、白水倫生さんと会っている。白水さんの性格だが、女医さんでも、才能が優れる人は、内科以外も、わたしに告げる。が、祥子女史は、過去一度も会話に出てきたことがない。 この矢島家族は、テレビに出演する前はどうだったのかと思う。 ヤラセ番組に恥じらいもなく参加しはじめ、いつのまにかドキュメント番組の、レギュラーのような振舞いができるようになった矢島家族だが、「テレビ朝日」の番組(2011年11月10日)で、自称恋人のA氏とは、遺体が発見された(11月16日月)の5日後(11月21日土?)に会ったと言った。 釜ヶ崎支援機構の尾松郷子さんは、11月18日の、高崎市の葬儀のとき、矢島夫妻に、交際していたA氏が、渡したいもの、返したいものがあるとでも言ったのだろうか。 大きな問題点になるが、母の晶子さんが、この日(11月21日土曜日?)、A氏は、祥子女史からもらった、誕生日のCDと小さな花束を返したと言う。 このCDだが、弟さん(矢島剛)の、デビューアルバムなのか。それにしても、ここで、自称恋人A氏は、なぜ、恋人から誕生日にもらったものを返すのか、この行為がまったく、わからない。 矢島祥吉さんは、かなり巧妙に、冷静な判断ができる人物と感じる。が、尾松郷子さんが出現したとき、祥子女史と性格がまったく異なる、彼女に何を感じたのだろうか。 尾松郷子さんから、祥子女史に交際していた人が居たと聞いたとき、高崎で見合い話しをすすめていた矢島夫妻は、どのような気持ちになっただろうか。 晶子夫人も、夫の祥吉さんどうよう、祥子女史がA氏と肉体関係を持ち、交際相手がいるのに嘘をついていたと考えたのだろうか。 そして、三日後、西成でA氏と会ったとき、矢島祥吉さん家族は、どんな気持ちになっただろうか。 同じ21日、黒川さんは、堺市の医療機関につとめたあと、くろかわ診療所に来た看護師に、「祥子女史とA氏」、「看護師とA氏」との関係を追及していた。 祥子女史を殺害した犯人を徹底して探し出そうとする、黒川さんの精神は、祥子女史は嘘をつかないという、祥子女史の心の清らかさを信じての行為だと思う。 これは、わたしも同じである。ところが、矢島祥吉さん家族は、A氏や尾松郷子さんの虚言を信じ、祥子女史を疑った。 そして、父の矢島祥吉さんと家族は、いくら間違っても反省をしない。この証左だが、祥子女史が世話になった、くろかわ診療所の黒川渡さんとスタッフがあやしいと言う雰囲気を出し、肝心の事をまったく放送しない「ヤラセ番組」に何度と登場して、役者のように涙を流していることでわかる。 A氏は、「誕生日のCDと小さな花束」を祥子女史からもらった相手である。どのような過程か知らないが、A氏と友人だったといえば、交友にも解釈できるだろう。この嘘をつく交友相手のかかわりで、祥子女史は被害にあったのではないのか。 矢島祥子さんは、診察中、患者や、他からの暴漢に襲われたのではない。なのに、黒川さんを責めることができる。 群馬県高崎市では、従業員(矢島祥子)が交友相手(A氏)と、なんらか関係ができ、事件が起きると、経営者が責任追及されつづける町なのか。 9)現場検証は、我々(矢島)のまえで 「2009年11月」、事件の真実の過程だが、黒川渡さんは、「スタッフがあやしい」と言う、矢島晶子さんに応じ、2009年11月ごろ、新大阪でホテルの部屋を用意して、スタッフ8人を面談させた。そして、晶子夫人はひとりひとり詮議して行った。 それでも、時間が経つと、また矢島家族は疑う。そのため、黒川さんは、事件の背景の資料を集め整理して行った。重要だと思ったのが、祥子女史自身が自分の判断で参加して行った、いくつものNPO団体だった。 黒川渡さんの、西成署への対応だが、「(指紋採取のため)現場は、そのままにしてあるから来て欲しい」と連絡していた。が、どういうわけか、西成署が来ない。 「2009年12月」、警察に現場検証を要請しながら、黒川さんは、矢島夫妻が自分より、10歳も年老いているのと、早ければ良いだろうと思い、2009年12月30日、東京へ出向いた。 準備した水道橋YMCAで、祥子女史がかかわった「あいりん地区」と、新今宮かいわいの社会環境に、祥子女史自身が広げたNPOの人間関係を3時間にわたって説明した。 が、黒川さんがいくら説明しても、矢島祥吉さん家族は、NPOの種類他、分らなかったと言う。 ここの解釈だが、矢島家族は、事実を受け止めると、責任は娘の祥子女史になるから、分らない振りをしていたとも考えることができる。 「2010年1月2月」、年がうつったころ父、祥吉さんは、じっさいに尾松郷子さんと会って確かめたいと言い出した。これを実現させると、だれの指図なのか、この後、切り替えしのように、尾松郷子さんから、矢島祥吉さんに会いたいと申し出、実現させたそうである。 「2010年2月」、父、矢島祥吉さんが、尾松郷子さんと会った同じころ、矢島晶子夫人による、黒川渡さんとスタッフへの猜疑はつづき、黒川さんは、2月、母、晶子夫人に、祥子女史のアパートへ呼ばれた。 黒川さんは、事件前後をふくめ、はじめて、祥子女史のアパートへ出向き、部屋に入ったと言う。 「2010年3月」、父、矢島祥吉夫妻、および家族は、本来の対決相手、A氏と会うことをした。会見は、油断ならないように、準備した。このため、「2011年11月10日」のスーパーJチャンネル(テレビ朝日)の、2年ぶりに会ったと言うのは嘘である。とにかく、嘘だらけで、ヤラセ芝居が巧みな矢島祥吉家族である。 「2010年3月11日」、黒川渡さんは、矢島家族が、手配した公明党の川岡栄一府議と共に、大阪府警本部へ転勤になった、岡本惠司警視に、捜査願いのことで面談に行った。 西成署で警官に指示をして、「司法解剖」を早めた事も原因しているのに、矢島家族は、疑惑の相手の追求が済むと、「殺人事件なのに、なぜ警察は現場検証に来ないのか」と、黒川さんを責め立てはじめた。 「2010年8月上旬」、西成警察署が現場検証へと動かないので、黒川さんは、スタッフと共に、「大阪府保険医協会・社会医療対策委員会」に相談しにゆき、協力を願った。そして、この後、西成署へ、スタッフ8人と行った。それでも西成署は捜査に来なかった。 そして、8月上旬、「事件後、指紋の調査がありますので、現場となる診療所は掃除をしないまま、スタッフ一同待っています」との配達証明郵便を、西成署の又野弘人・刑事課長宛てに出した。それでも西成署は動かなかった。 「2010年10月」、黒川さんは、事件後、診療所の裏の出入り口、診療所の中で、犯人が触ったと思われる箇所、祥子女史の仕事場、これらを、西成署が来るまで、触れないで、保存しておいた。 そして、西成署は事件後11ヶ月になろうとする、10月11日に、ようやく捜査にきた。 わたしが黒川さんに、西成署が、現場検証に来るのが遅かった理由を聞くと、 「オヤジさん、現場検証は、自分たち(矢島家族)の前で、しろって警察に言うから、、、」と黒川さんは言った。 矢島祥吉さん家族は、これほど、黒川渡さんおよび「くろかわ診療所」のスタッフに命令を下し、従わせてきた。なのに、テレビなど、マスメディアでは、いっさい協力していないような報道が流されている。 10)マスコミが追求しない「釜ヶ崎支援機構」 テレビなどメディアは、なぜか、11月18日の高崎市に突如あらわれた、「NPO釜ヶ崎支援機構」の尾松郷子さんと、尾松郷子さんが紹介したA氏の事を言わない。 事件のキーパソンとも言える尾松郷子さんに焦点を当てないため、真剣にみる視聴者には、わかりにくい事件の経過が、よけいに分からなくなる。 高崎まで尾松郷子さんが行くと言うことは、所属する「NPO釜ヶ崎支援機構」の上司が許可をしたと言うことになり、上司たちは、尾松郷子さんが葬儀に行った理由を言えるはずである。 もし、A氏との関係を友人関係としても、それが事実なら、なぜ、A氏は、16日(月)西成でのお別れ会のとき、矢島祥吉さん家族に挨拶をしなかったのか。また、ここまで他人をからませた複雑な筋書きにするなら、なぜ、18日(水)高崎市に友人ですと、あらわれなかったのか。 A氏の紹介を尾松郷子さんにさせた事。これは、矢島祥吉さん家族をおとしめることが目的なのか。それだとすると、いくら愉快犯たちの計画にしても限度を超えているのではないか。 矢島祥吉さんの性格だと、あいりん地区に知られる結核などをはじめ感染症患者に接する、祥子女史の医療活動は自身の生命にかかわるもので、祥子女史の生き方を思うと犯人追求のため、テレビ番組の責任者に尾松郷子さんの事を言っているはずである。 が、テレビは、尾松郷子さん、および「NPO釜ヶ崎支援機構」の上司への取材など、いっさい放送していない。 11)ホームレス利用の共同体構想 西成の再開発、再生プランのひとつに、「西成市民館」があり、長く議論されてきたようだ。市民会館などは建設されても、その後の、金の動きは小さいだろう。が、施設のよりよい利用のため、管理は市ではなく、ボランティア集団が管理運営するようである。 祥子女史が勧誘されていたのは、新今宮に建設予定の、一階が診療所、二階がホームレス用の施設のようである。 この新今宮ホームレスセンターだが、河田惠昭(京大)理事長の「NPO CDR(大規模災害対策研究機構)」が主導しているものであり、関連ゼネコンには中曽根康弘さんゆかりの鹿島建設などがある。 新しい診療所を女性所長にして、祥子女史を採用すれば、ホームレスに理解が得られ、マスコミに向けて大きな宣伝になる。そうすれば、全国にいるホームレス予備軍が西成をめざす。 すると西成はホームレスの大集合地になり、ホームレスの高層住居が建ち並び、自治体からの金で、闘争資金もふえる。A氏や尾松郷子さんたちにとってのホームレスは資金源の物のようである。 それより重要なのは、若い労働者の確保で、これは世界から集める。すると異民族もふえ、世界の西成になり、西成は人材派遣の中心地になる。 そうすれば闘争資金は格段ふえ、いっしょに闘争する若者も選ぶことができ、日本やアメリカなどの帝国主義にレジスタンス運動をつづる、A氏のような革命家たちは、共同体(ハマス体制)を構築し、英雄になれると考えているようである。 凡人とちがい才能があふれた革命家のA氏たちは、自ら土地を耕作してゆくとか漁業をしてゆく考え方は、資本主義の奴隷でおかしいらしい。 自分たちが英雄になるための共同体の欠陥だが、自称革命家たちは、1970年前後の安保闘争時代と同じように、日本やアメリカの帝国主義、資本主義と戦い続けるのかと言う点である。 あの時代(1970)は、経済の成長期で仕事があった。帝国、資本主義そのものの、「仕事=金銭」が在った。ところが現在、欧米も大不況下なのに、この「仕事」をどうするのか。この見通しがないのに主張だけがある。 1970年安保反対闘争から、40年以上経った。あの当時の学生運動家の大半は居なくなった。そのため、高齢者だらけになったあいりん地区で、A氏は学生時代に抱いた闘争運動や恋物語を語れるのだろう。 しかし、可能になった事は、貧しいまま死期をまえにした病気のホームレスに人生を捧げてきた祥子女史の生命を奪ったこと。許されない共犯になる行為だけではないのか。 64歳のA氏が「革命のための闘争」「ハマスの実現」を考えるのは自由である。が、社会の弱者へ医療を心がけてきた30代の祥子女史と、祥子女史の生き方を理解した黒川渡さんと、いったい、どのような関係があるのか。 「後記」 以上、去年の2月26日に聞いたことを思い出し書きつづった。とつぜん来た、黒川さんとは9時間話した。 黒川さんは、何の資料もなしに、わたしの質問に答えて行った。黒川さんが、警察の捜査上の事はじめ、公表しないで欲しいと言ったことは、いっさい書いていない。 黒川さんは、わたしとの会話から出来事の全容が見えてきたと言い、資料を整理して、また、京都に来ますと言った。が、黒川さんは体調をくずした。 この京都昨今『77』は、矢島家族と、マスメディアからの祥子女史情報で仕上げた。黒川さんから、祥子女史は残業ではなく、眠っていたと事実を言われたとき、わたしは、全文削除を考えた。が、そのままにし、急いで『78』を書くことにした。そして倒れ、3月11日、東北地方が地震に襲われた。 黒川さんとは、この一年、電話連絡も、いっさい取っていない。 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫 2012-03-10 |