京都昨今
81、祥子女史がA氏に書いた絵ハガキ   【テレビ朝日、早河洋の使用者責任B】
 

1)市橋達也・逮捕後の矢島祥子女史事件

医師をえらび、現代の世の中へ、自身のこころざしとして貧しい人々の治癒をきめた矢島祥子女史が、2009年11月に大阪市西成区で計画的に殺害されたことを知り一年がすぎた。

矢島祥子女史の家族は2011年1月に事件が風化しないか心配という旨を、わたしに言った。
事実として、この種の事件を把握しているべき京都府警の警官たちに質問してみたらまったく知らない。ニュースに敏感なはずの祥子女史と勤務地が近い大阪市の数少ないマスコミ関連の人たちも、どういうことなのか記憶にない。

事件が起き、西成署に殺人事件との通常の判断があれば、このような事態になっていなかっただろう。
2009年9月、自民党にかわり民主党が政権をとったが、アメリカの記者から頭がおかしいと事実を指摘された人が首相になり、不安定な世間がよりゆらぎ、西成かいわいの11月は「市橋達也」逮捕一色だった。
市橋達也は2007年3月に千葉県市川市でイギリス人英会話学校講師(リンゼイさん、Lindsay Ann Hawker )を殺害した。潜伏地のひとつが「あいりん地区」で、11月10日、神戸で市橋達也の目撃情報があり西成区のとなり住之江区で逮捕された。
捕まるまえ西成(2008年夏ごろ)で働き、懸賞金1000万円が出た市橋達也には、いくつもの指名手配写真がみられた。そのため、警察は事件の多いあいりん地区を捜査しやすかったはずである。

薬物は医療から祥子女史にも関連してくる事象と思える出来事だが、2009年10月3日、西成で麻薬密売人から、買おうとして、京大の経済学部の四年生(28歳)が大阪府警に逮捕された。
覚醒剤と大麻を健康目的に持っていたと言う、覚醒剤所持のニュースは京都でも、大きく報道されていた。
この学生だが、逮捕の前の7月に京都市の左京区のラーメン屋で、足でドアを開けようとしたらドアのガラスが割れたと言い訳し、言動が奇妙がられ器物損壊容疑で逮捕されていた。そのため、内偵していたと思える。

インターネットの利用で、2009年秋、西成区では、複数の密売人グループにより、日常、路上で覚醒剤売買が行なわれている事から、取締りが一段と強くなった時期である。

派手なリンゼイ殺害事件と「市橋達也」逮捕劇のニュースは、連日大きな扱いだった。京大生による覚醒剤所持も大きなニュースだった。
それらに比べて、祥子女史殺害のニュースの在り方はどうだったのか。矢島祥子女史殺害事件だが、知識人である新聞記者の「事象(事件)」を見る「勘」はどうしていたのか、記者としての資質も問われるものである。


2)事実を隠し、嘘をながすテレビ朝日
わたしは、去年(2011年)の夏ごろには、殺害犯の共犯者ぐらい逮捕されるだろうと思い、この京都昨今の『77』『78』を仕上げた。

権力に負けたとだけ言える西成署のデタラメの審判が、被害者である矢島祥吉さん家族を苦しめた。

それより、なぜ、こんなことが許されているのか。これであれば二番目の事件が現在進行しているのと同じである。
11月16日の祥子女史の遺体発見から、「娘を殺したのは黒川だ」「妹を殺したのは黒川だ」「祥子は天使だ」「祥子のヒモ(=A氏)だ」「祥子の銅像を設置する」と叫びまくる、異常な家族により、黒川渡さんは、考えもしなかった苦しみを「くろかわ診療所」のスタッフと経験することになった。

さらに、黒川渡さんが、祥子女史にふりかかった出来事を言い、特定していった関連者を、矢島家族から教えてもらい、2010年夏から秋に、何度も壊されていた郵便受けを、事件のときですと断定し、「犯人はそこに居ます、捕まえます」と言い、黒川さんに「40歳で親離れしない情けない長男」「バラバラだった家族が事件でひとつになった」と言い、黒川さんが会うのを断ると、脅迫するように電話を切って、騒いでいるだけの飛松五男探偵に、ヤラセと嘘の番組を平気で制作し流す「東京放送(TBS)」や「テレビ朝日」などによって、診療所での医療行為も侵されるようになった。

矢島家族や飛松五男探偵によると、祥子女史はなんでもできた女性のようだが、勤務後は「帰宅して欲しい」と黒川さんとスタッフが何度言っても診療所にとどまり、平気で眠れる性格と、女医として状況判断の速度を考慮すると、黒川渡さんは、奉仕にちかい雇い方をしたと言えるのではないか。

黒川渡さんは、生涯を地味な勤務医で終わろうと考えていた。診療所をひらくまえは医真会八尾の内科系総合診療の部長だった。だけども、自身が八尾へ引き入れた、診療所の開始からの白水倫生さんが、医療方針が京大と同じで、薬漬けだと言う抗議をした。これで、病院を辞められた。
白水倫生さんが、「オモロイ河内のおっさん(黒川)、まだ辞めへん」と言うので、わたしは、はじめて医真会八尾に電話をした。すると、「ぼくが、就職させた部下で、まだ、行き先の決ってないのがいますので」と言うのが黒川さんだった。黒川さんが八尾を辞めたとき、白水倫生さんに、いったい、ここ(京大)をいつ辞めるのかと言うと、「黒川さん、奥さんが共働きやから、ええわ」と白水さんは言う。これに一言も言わないのが、黒川さんである。

捜査が進行中のため、いちばん重要な証言者の黒川さんには、言えないことだらけである。これを良いことに、「ヤラセ番組」を、さらにデタラメにして放送するテレビ朝日は、わたしが間違いを指摘したこともあり、反省し少しはましな番組を作ると思ったら、2011年11月、捏造もここまで来たのかという嘘だらけの内容を放映したようだ。

被害者の両親が、医師という知識人階級が、番組へ信憑性を与えるのだろう。夫妻の登場だけに頼り、補助する前後が無いため、不自然きわまりない構成になっている。
通常こういった社会事件の報道は、祥子女史と大学や高校の同級生、元同僚に、事件のときの同僚に家族が、目撃者さがしのビラを巻いている行為が映し出されるのではないか。
女学生時代にブラスバンドをしていたと言うなら、友人たちの声はどうしてないのか。ひとりでもふたりでも、なぜ出てこないのだろうか。

「2011年11月10日」のスーパーJチャンネル(テレビ朝日)は、矢島祥子女史の両親が、遺体発見後の5日目に会った、「A氏と2年ぶりに会う」と解説している。これは、嘘ではないのか。
被害者の父、矢島祥吉さんは、テレビ業界に慣れたスポンサーか、露店の親分かと思えるような雰囲気を出し、
「元、私は赤軍派でしてって言う話。最初から、そんな挨拶する、バカ、ないだろう」と言っている。

番組では、両親が自称恋人と言うA氏と決闘するかのように会う。
この種の言動の演出だが、ふつうの視聴者がこの番組を見たばあい、実際に医療活動をしていた、祥子女史の医師としての姿や力量がわからないのだから、たんに西成区に居る、娘の自称恋人の老人A氏に会う老夫婦となる。

これだと、まるで数寄者や変態向けの、趣味や色物の番組みたいである。大阪の人間なら、「あいりん地区」を知らない地方の純朴な娘が、ホームレスみたいな老人A氏と関係をもち、30歳を過ぎて女に目覚め、親に言えず自殺したのか、殺害されたのだろうと思うのではないか。そして娘同様「あいりん地区」を知らない群馬県の老夫妻が、ただただ娘を偲んで、老人A氏に会いたかったのだろうとも取れる作りである。


3)A氏に書いた絵ハガキ

「自称恋人というA氏」だけれど、ふつうの視聴者が、この番組を見て、事件の本質の一端を理解できるだろうか。まず、なぜ、祥子女史殺害直後、A氏は西成署へ出向いたのか。この肝心な点が、まったく分からないし、説明もない。

テレビでは、音声を変え、顔も見えないが、矢島祥子事件で有名になったのか、2010年から、A氏はさまざまな場所で、講演をしているようにみえる。
「動画」YOU・TUBEを調べると、顔をそのまま出し話していると思えるのがある。
講演しているA氏を見ると、何を言っているのか分からないところが目立つ。しかし、声質が良く、自分の言動に酔っているように思える。
他でも講演をしており、人前に立つのが好きなのだろう。言葉遣いだが、九州南部のなまりに気づく。鹿児島弁でわかると思うが、文節の終わりを、つづめると言うか、縮める。A氏の言葉は、鹿児島弁ほど明確ではないが、この九州南部と思える発音と抑揚がある。
黒川さんに、A氏の言葉遣いは?と尋ねると、「関東弁というか、標準語のよう?」と考えながら言う回答だったので、2011年2月、わたしが考える人物と違うのかと思った。

このA氏だが、闘争をつづけるには「あいりん地区」へ、パレスチナにみる、教育に医療を備えた組織「ハマス」のようなものが必要であると言っている。
ここから、祥子女史殺害の犯行だが、A氏たちが、2009年9月、元・学生運動家出身者だらけの民主党政権の発足によって、計画していた「闘争のNPO構想」が可能と思ったのではないか。
ところが、祥子女史から拒絶され、「闘争のNPO構想」が崩れ、失恋もした感じになり、A氏を中心に、腹いせによる「自殺説」を使い、社会を混乱させたかったと言うこととも考えられる。

若い世代は、まったくわからないが、1970年代前半、オイルショックで就職先が少なくなり、「自称恋人というA氏」の「赤軍派」という学生運動の団体の名称がひびいた時代に、ナンセンスクイズが大学で流行していた。
クイズの一例だが、電線に3匹のスズメがとまっており、3匹とも鉄砲で撃たれ、2羽が墜落したが、1羽だけ、電線にとどまっていたのは何故か?と言う種類のものである。
答えのひとつに、「目立ちたかったから」というのがあり、A氏はまさに、あの時代の人と言える。
この自称恋人A氏は、祥子女史から貰った、
「出会えたことを 心から感謝しています。釜のおじさん達のために 元気で長生きして下さい」(絵ハガキは沖縄うみさんぽ、辺野古の長島)
と言う、祥子女史自身の署名も住所等の記載もない、誕生日に添えられたような、カードの文面から、どじょうが宙返りして空を飛んでいるような創作劇をつくった。

そして、西成区に根付く左欲インテリ集団を背景に、警察を信じ込ませることに成功をした。
この文面の主旨だが、「元気で」と言うものだけである。大阪府警で、「元気で」とか挨拶している人物は、自殺前の兆候が出ていると判断しているのだろう。

さらに祥子女史が、この短文の文章を書く際の意識の流れを、区切って見る。
「釜のおじさん(=A氏)」・「元気で」としてみると、「釜のおじさん」は、おじさん達どうしで、生きて行って欲しいと言う意味に作り変えることができる。
この「釜のおじさん」が、名誉か金をちらつかせ、再開発ならび新医療施設への勧誘をしていた。返答が遅いのは迷いだろうと考えたが、祥子女史に、完全に拒否されてしまった。
ここから、祥子女史の絵ハガキは、拒絶や決別を意味する内容のものと考えるのがふさわしくなる。

そして、祥子女史のアパートや診療所への侵入は、A氏たちが渡した建設計画や勧誘の過程が、黒川渡さんに知られると、西成区で貧困ビジネスをしている連中の証拠になり、草の根運動のような「NPOオイコス」から反対運動をされることになるから、祥子女史の殺害と、保存していると思える元覚醒剤患者などの履歴を入手して、関係資料や書簡類を破棄する行動をしたのだろう。


4)100万円なら動く西成

一年前(2011年2月)の、黒川渡さんからの漠然とした話からの、ぼんやりした記憶からだが、祥子女史は、大きなNPOが主導する新医療センターへの勧誘を断りたいと相談していたようだ。

祥子女史が、黒川渡さんへ相談し、断わる事にして、A氏は「釜のおじさん達と」いっしょに生きて行ってと言う趣旨を、A氏たち共犯者は、どういう具合に役割と演技を決め、意味を変造していったのか。
別れの遺書のように脚色できたと思ったのだろうが、これを信じたのが、疑うのが職業の警察である。いったい、西成署員で、A氏たちの親告を正しいと通過させたのは、誰なのか。

わたしなど、交渉の決裂文を、「恋文」と言うA氏の奇妙な解釈が、どのようにして通じたのか、これを、祥子女史の兄の矢島洋さんに尋ねようとしたら、事件後一年以上経っているのに、最近かのようにA氏は問題外の人物として笑った。同じ現象は、黒川さんにも起きて笑う。
これらから、わたしは、恋文とは正反対の、決別の絵ハガキと解釈する、わたしの考え方が間違っているのかと思った。
矢島家族も、黒川渡さんも、祥子女史殺害という、あまりに異常な事が起き、まともな思考がし難くなっていたのだろうと、わたしは思った。

この交際相手のA氏だが、くろかわ診療所の黒川所長は、祥子女史の患者と言うことで認知していただけで、患者の対応に問題があったとしても、つねに医療と福祉を勉強していた女史だから、「男性との交際」など、まったく知らなかったといっていた。

祥子女史の放送は、2010年8月のTBS報道特集が最初だが、TBSは「報道」と無縁と言える、ヤラセ丸出しの番組をつくった。
それぞれの番組での、西成かいわいの登場人物だが、
@ 祥子女史の遺体の第一発見者(木津川での釣り人)
A 自称恋人の「絵ハガキ男」のA氏
B 祥子女史と親しく10月14日に死亡と言った人

よく第一発見者があやしいという言葉を聞く。なのに、この釣り人は、どうして登場してきたのだろうか。
矢島夫妻が、警察に、娘の遺体発見者に礼を言いたいと申し出をし、住所や連絡先を聞いたのか。しかし、この第一発見者を、テレビに登場させるまでの交渉だが、金銭問題もからみ複雑ではなかったのだろうか。

これらだが、第一発見者を共犯者とすれば、矢島家族にとって、非常に危険な事となり大阪府警の責任問題になる。
同じく、自称恋人の「絵ハガキ男」のA氏だが、いったいどう言ってテレビに出演してもらったのだろか。

テレビに姿や声を出した3人だが、「犯行者(大きな権力者)」がいたばあい見方によっては身体に危険が及ぶ立場である。
西成では、100万円と言えば、少々のことでも、命令どおりに動く人が多いと、京都の元ヤクザに聞いたが、祥子女史殺害の番組を「動画」でみたとき、登場人物は、それぞれ幾ら貰ったのかと思った。


5)オメガ(Ω)脚での歩行

黒川渡さんから、祥子女史の頭骨の形質を教えてもらおうとして、黒川さんが実際に見ている、兄弟の頭部の話しになった。
両親と兄弟の、人種別識別をし、長男と三男は類似が多いけれど九州の南端部の遺伝形質なのだろうか。祥子女史は次男の形質と似ており、母親は言葉も形質も日本人だろうが、「群馬の山間部の人なのか?両親の出身地は?」と議論していった。
そして、祥子女史の後頭部の形質を尋ねて行ったが、黒川さんからは、分からないと言う返事しかなかった。

父親の矢島祥吉さんと、長男の矢島敏さんたちの動きについてだが、「〈〉」(=オメガ(Ω)脚歩行)である。ふつう日本人の体は上下動をするが、矢島親子は民主党議員に多く見られる左右に揺れる動作をする。
そのため、両親はどこの出身?と尋ねると、黒川さんは「ええっ、不思議ですね」と深く考える表情をした。

民主党議員に多いが、彼らは、歩行のとき体が左右に揺れる。この明確なものは、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領の、オメガ(Ω)脚歩行(=「〈〉」)がわかりやすい。
同じく、父の矢島祥吉さん、長男、次男、三男とも、満州族、朝鮮族に多く見られる「オメガ(Ω)脚」で、歩行のとき「〈〉」(=オメガ脚)で進む。
日本の本州を中心に分布する大和民族は、お辞儀の頭や体の上下動でわかるように、脚も膝をくっつけ、折りたたみ、縦揺れ構造で動き、欧米人(=白人種)はヘソの部分を中心にまっすぐ引っ張られ、ロボットが行進するような動きをする。

つぎに、骨の形質から、人種別の発毛状態に話をすすめた。わたしは、明治生まれの、わたしの先生たちが使っていた、近畿は大和(ヤマト)族、東北は蝦夷(エミシ)族、九州は隼人(ハヤト)族と言う概念を使ってゆく。が、黒川さんは医師であり、頭骨の形質も、すぐ理解する。
そして、「ええっ、ええっ、違いますね」と言い、考えつづける表情をした。


6)割れていたコンタクトレンズ

2011年2月は、黒川さんとは四年ぶりの会話になる。わたしは、木槌か木製のバットのようなもので、後頭部を殴ったのだろうが、どのような方向で殴られたのか、その角度を考えたいと思い後頭部の状態を知ろうとした。が、黒川さんからは、解剖所見も見ていませんと言う返事の繰り返しだった。

祥子女史の遺体の状態、頭部の打撃痕だが、これは、黒川渡さんが高崎市での「お通夜(11月18日)」のとき、医師の矢島夫妻が、祥子女史の外傷は西成署の見地と違うのではと、黒川さんへ確認したからである。

打撃痕を「たんこぶ」と言う、矢島夫妻の表現から、黒川さんは、大学時代(1980年ごろ)、神戸大の学生運動家の友人が、セクトの違う連中に襲われ、「拉致」された出来事を思い出したそうだ。
黒川さんが、友人に、「どうしたの?」と尋ねると、いきなり、後頭部を殴られ、あとはわからなかったと言ったそうだ。ここから、祥子女史も同じような攻撃をされたのではないかと思ったと言う。

わたしは遺体の傷ばかり質問していた。半死状態にし、さらに、水死に見せかけるため水の中につけ、抵抗するため、「眼球破裂」まで、圧力をかけた殺害の仕方は、あまりに残酷すぎると、殺害の手順を細かく、3時間ほどの間で、合計20分ぐらい、このことを言っていると、
「コンタクトレンズ、割れていたんです」と黒川さんは、警察の検案書にある事実を、矢島夫妻に聞いたのか、簡単に言う。
「(ええっ、、、?)」わたしは、時間差攻撃やフェイントをかけられたように、少し脱力感に襲われ、コンタクトレンズが割れ、首から上、手、脚が傷だらけなのに説明もなく?それだと、鼻腔と咽喉にも傷が行っている?と尋ねると、
「知りません。検案書見てませんし、(精密な解剖)、、、してへんのと、ちがいますか」と言う。
それだと、どうして自殺にと、わたしが責めたように言うと、
「ほやから、、、」と力を込め「西成署は、自殺って、断定していないんです」と黒川さんは言う。
それで、それは、事務処理の書面上のことで捜査が進展していないではないかと言った。
祥子女史殺害は年月をかけた計画なのか、市橋達也の捜査で騒がしくなった西成で とつぜん起きたのか。事件の性格を捉える基礎事項すら定まっていないのが実際である。


7)父親は祥子のヒモ、母親は祥子像

黒川さんは、父親の矢島祥吉さんは、「手下」と思っていると言う。この点だが、わたしが話した次男の矢島洋さんも同じである。はじめての電話で、挨拶もなく、面識のない、わたしへ、命令口調なのである。
これを言っていると、
「洋(ひろし)君、あの兄弟の中で、一番、まともですよ。オヤジさんが、ぼくだけ、きつく命令するって、洋君、嘆いて、、、。長男の指図ですけど、洋君が、黒川があやしいと(11月16日に)言い出し、怒ると、洋君、2月に謝ったんです」と黒川さんは言う。

2010年3月になり、矢島祥吉さんは、警察との連絡などで、大阪に弁護士が必要と黒川渡さんに言い、黒川さんは、ホームレス対策の運動で知り合いの、人権派の弁護士(2010年12月まで担当)を紹介した。
安永一郎弁護士を紹介された、矢島祥吉さんは、2010年5月、西成署へ「申し入れ書」を提出したいと言った。
その文章だが、黒川さんが受け取った書面に、「A氏は祥子のヒモ」と言う表現があり、黒川さんは、警察に提出するもので、「ヒモ」は困ると言うと、黒川さんの言う常識が通じ、オヤジさんを説得できたのが、次男の矢島洋さんだったと言う。

矢島洋さんは、状況が変われば話ができる人なのだろう。わたしも、黒川を唯一責める部分は、祥子女史の住居だと言ったとき、矢島洋さんの「妹は大人ですから」の言葉遣いに、常識を感じたと言った。

父の矢島祥吉さんが、「A氏は祥子のヒモ」と言い、母の晶子さんは、西成に来て、三角公園に祥子女史の銅像を建立したいと言い出し、「あいりん地区」の住民に反感がおきだしたのが、2010年5月ということである。

両親の言うことをきかず、自分だけが満足する信仰だけの道をゆき、雇い主に迷惑をかけつづけたのだから、ふつうの人は黒川渡さんへ感謝を示すと思うが、この矢島家族には無い。

夜間、くろかわ診療所で寝て、他からみれば残業をした形跡を残し、黒川渡さんの親族をふくめ、夜間まで気づかわせたのが祥子女史である。
同僚を困らせた娘であれば、医師としての技量がどれだけ高まっていたかは別にして、なぜ、裕福な両親が支援して、小さな医院を開業させる事をしなかったのだろう思う。

父の矢島祥吉さんだが、どれほど特別なのか。世間で偉いのは、国会議員でも大臣になる。祥子女史が言うのに、東大紛争に参加して、拘置所に入れられたとき、福田赳夫(とうじ大蔵大臣)さんにより、釈放されたそうである。
祥子女史事件では、2010年3月は、公明党の川岡栄一大阪府議と府警本部へ行き、2010年11月は、岡崎トミ子・国家公安委員会委員長へ嘆願したそうである。

東大紛争の時代、「社青同・解放派(革労協)」に所属していたと、父の矢島祥吉さんは黒川さんに言った。
この「社青同・解放派(革労協)」には、江田五月、赤松広隆、横路孝弘さんたち有名な民主党議員がならぶ。

父の矢島祥吉さんの活動は、1970年前後らしいが、1980年代「革労協」が、高崎市まで、カンパを求めにやってきたと、祥子女史は小学生のときのことを思い出し、黒川さんに言ったことがあるそうだ。
父の矢島祥吉さんは、「革労協」に「人殺しはいけない」と、懸命に言っていたそうである。

このような学生運動家たちの、絆というか結晶が、2011年2月25日、衆議院の予算委員会第三部会で見られた。高崎市の中島政希衆議院議員(このとき民主党。→12月に無所属)が、質疑で、祥子女史殺害を取り上げ、江田五月法務大臣が回答をした。
これだけの記載だと、矢島家族だけの責任になる。が、このことは、2011年1月、次男の矢島洋さんへ、「岡崎トミ子みたいなのに会ってどうなるのか、地元の国会議員」と言ったのは、わたしである。


くろかわ診療所の周辺が危険なので、こんなときは、知名度のある国会議員に動いてもらうより仕方ないとわたしは言ったが、世間で言う偉い政治家との接触を嫌う黒川渡さんは、もう、いい加減にして欲しいと言う表情をしながら、
「犯人は慎重でない」と、2011年2月26日、夜10時ごろ、黒川さんは、犯人がそこに居るかのように壁を凝視し黙った。
静かな時間となり、黒川さんは、犯行者たちは祥子女史が、「(病院経営者の娘という)家庭環境を知らなかった、、、」と考える様子を見せた。

犯行者は、病院経営と言う成功者の矢島祥吉さんにしろ、著名な政治家の江田五月さんは「社青同・解放派」、仙谷由人さんは「社青同・改革派」で、首相になった菅直人さんは元・べ平連だそうだ。共通しているのは、マザコンという言葉で要約されているだろう。
不況の1980年代に、投資という体裁のいいアメリカのバクチ経済に振り回されて、ありもしないバブルを起こし、今日をもたらした自民党政治が悪いと言えるが、1969年大学でした日米安保反対運動を、自分たちが権力者になりマスコミを洗脳して実現したのが、2009年9月の民主党内閣だそうだ。

元・赤軍派と言うA氏は、自分が学生時代に知った同じ運動家が、そろって有名になり、無名の存在の自分を表現したかったのではないかと、わたしは考えていた。が、このとき、黒川さんの言説が何を意味しているのかわからなかった。わかりだしたのは黒川さんが帰宅してずいぶんたってからである。

黒川さんの言説だが、言葉に仕草が伴い、阿吽(あうん)の呼吸の会話をする人である。殺人事件を解いているわたしに、メタファーを遣い、肝心のところを「あうん」で、間をおいて、「あれですから、、、」「これですから、、、」と言った表現で終える。余裕のあるときは良いのだけれど、今回は、わたしの頭が疲れる。
黒川さんの知人は、複数の意味が重なる、表現法であることがわかるだろう。この黒川さんが、犯行者たちは、祥子女史の、育った社会環境をほとんど知らないと言った。

黒川さんの表現を推測の範囲で考えてみると、祥子女史が犯行者たちへ、幼児からの環境を言っていなかったため、大きな規模のNPOの医療組織からの、出世にみえる強い勧誘が在ったのだろうという解釈ができる。
祥子女史は、高崎市上大類町では、名前の知られる病院の経営者の娘で、世間が尺度とする報酬や地位に関心がなく、ただ尊敬する「マザー・テレサ(Mother Teresa)」の歩いた道を、踏みしめた生き方をする。この純粋さを、犯行者たちは、理解できなかったのだろう。

「マザー・テレサ、、、(どんな信仰関係)?」と、わたしが聞くと、黒川渡さんは、マザー・テレサが、祥子女史に直接した、頭頂に軽く手を置く行為を模倣し、
「これですから、、、」と言った。
マザー・テレサによる、洗礼の執行のようなものだろうが、そこには侵されることがあってはいけない信仰が成立していると、わたしは言ったが、祥子女史で、クリスチャンという言葉が日常になった、黒川渡さんは、
「今回のことで、キリスト教が嫌いになりました」と言った。
こういった決め付けは、黒川さんらしくないので、日本でもカトリックの神父さんやシスターに10数人単位で会うと、仏教みたいな、ゆるやかな所があると気づいて、考え方が変わると思うと言った。
祥子女史殺害犯探しへ、黒川さんがしている行為は、危険すぎると感じたので、それはあぶないと言うと、「注意しています」と返事した。


8)新医療センターへの勧誘

祥子女史が参加していたNPOだが、いくつほど?と尋ねると、黒川さんは、
「矢島さん、NPOって誘われると、どこでも入ってしまうから。そいで(いくつ入っていたのか)わからへん、、、(これが事件へ、、、)」と嘆き黙った。

大都市では再開発と言う事項が、ふつうに使われている。大阪市梅田が知られ、西成区の近くでは、「阿倍野再開発」の事業規模が大きいものである。
祥子女史殺害の事件の、黒川さんによる、表面事項をみると、殺害犯たちによる、再開発とホームレス向け新医療センターへの勧誘の失敗にある。

わたしは、黒川さんへ、事件が複雑にみえるのは、還暦をすぎ片思いが交じったA氏と、同世代の女の妬みが交じっている犯行だからだろうと要約した。
まず、全国でも特別な「あいりん地区」であること。明らかな他殺に、権力者がでてきて意見されると、「自殺」に変えて、平然としている警官たちが居る町であること。
男性が中心の町で、ホームレスに対して仕事の処理に問題があっても、報酬の高い医師の祥子女史が話題になると、非常に妬む女性たちが出てくると思えること。

被害者の遺体の傷を省みると、祥子女史の純粋で懸命な生き方を尊重しない人物たちにより、このような事件が成立したのだろうと、わたしが、犯行の背景を数時間言っていると、
「そうなんです」と突然、黒川さんは言った。
昼すぎ、わたしの所へ来て、7時間以上経て、夜中になったころである。
「(えっ、、、、、)」二日ほど徹夜していたわたしは、話しはじめ、7時間も経ち、そうなんですと言われ、どのように反応して良いかわからず、黙っていた。

黒川さんの口調は、ゆっくりとして変わらないが、かなり腹立った表情で、大きな組織のNPOが関連すると言いはじめた。そして、これらは、父の矢島祥吉さん、西成署にも告げたけれど、関心をよせなかったと言った。

事件後、黒川さんは、警察のしない犯人追及をして行った。黒川さんは、日頃、給与を上げて欲しいと言っていた、NPO関連という名目で勧誘を受けつづけ、指図どおり動いていた、診療所のスタッフは即処分したと言う。
これら事項は、矢島夫妻に述べていたが、病院を経営する父親の矢島祥吉さんは、黒川さんを見下し、指図ばかりして、黒川さんが、説明する祥子女史が関係した「NPO」と人間関係が、皆目、わからなかったようである。


9)くノ一尾松郷子

2010年1月の電話連絡で、わたしが、最初に、黒川渡さんに電話で質問した事項だが、60歳を超えた、ホームレスルックの人が、どのようにして西成署の警察官に会うことができたのか? また事柄を緻密に疑い、理屈が合うように言及してゆく事を基本とする警察社会で、いくら金と女に弱い西成署員がいたとしても、なぜ、そう簡単に、「死者の恋人」と確定してもらう手続きを、踏むことができたのかと言う疑問を指摘した。

つづいて、高崎市の病院経営の父親に、どのような手順で会ったのか?と言うものだった。黒川さんは、困惑したのか、少し間を置き、
「紹介する女性が、、、」と、ため息をつくようにしたあと返事をした。
長くなりそうな事だったので、それ以上聞くことはしなかった。

この不思議な「くノ一(くのいち)」のような女性は、「釜ヶ崎支援機構」の尾松郷子さんだそうである。
「あいりん地区」では非常に有名な人で、とうぜん事件を知る誰もが知っていることだそうである。そのため、祥子女史をめぐるテレビ番組に登場してこないのは非常に奇怪と言える。

父、矢島祥吉さんが、「2011年11月10日」(テレビ朝日)、A氏とは、遺体が発見された(11月16日月曜日)の五日後(11月21日土曜日?)に会ったと言っている。
このきっかけは、不思議な「くノ一」尾松郷子さんが作ったそうだ。
不思議な尾松郷子さんは、11月18日群馬県高崎市で行なわれた「お通夜」の席に、突然、出現したそうである。

この「あいりん地区」の尾松郷子さんと矢島祥子女史とは、面識があっても、黒川さんには、大阪から遠方の群馬の「お通夜」の場に居る状況が理解できなかった。そのため、脳裏が「?」の状態がつづいていたそうである。
「どうして、、、?」と黒川さんが、ぽつんと言うと、
「矢島さんに交際していた人がいた事知っている?」と、尾松郷子さんは、異常に元気で、謎賭けのような言葉遣いを、黒川さんにしてきたそうである。

わたしはまだ聞いていないが、黒川さんが、殺害犯たちを具体的に考えるようになったのは、この「お通夜」の席からだったと思う。

矢島祥吉さんの、「5日後にA氏と」と言う言葉からだが、かなり憤慨して黒川さんが、「11月21日(土曜日)」A氏にそそのかされ、金銭を求めだした診療所の女性の話をしはじめたときが、記憶から出てきた。
黒川さんは、自分自身、何度も反復し、リアルになった事柄を言う。
が、くろかわ診療所も鶴見橋にも行ったことが無いわたしには、この重要な時間と空間がつかめない。つづけて、
「21日(土)、マグドナルドのところでA氏と出会ったと言ったんですけど、会っていないんです、、、」と言った。
黒川さんにとって、とても重要な時間と空間なのだろうが、マグドナルドが、どこのマグドナルドかわからないし、A氏も、A氏を取り巻く女性もわからない。わかるのは、祥子女史への共犯者たちが、西成のどこかで、うごめいていたという程度である。

黒川さんと同じ現象は、矢島家族の次男の洋さんにも起きる。
これは、元赤軍派と言うA氏が、1970年前、活動家に席巻した革命思想を、時空を超えて持ち出し、理解できない言葉が多いのか、よほど滑稽な存在なのか、A氏がからむと論理が消え会話にならなくなる。
矢島祥吉さんによる「元、私は赤軍派でしてって言う話」と言うA氏の言語法だが、これは幼児語に近い。ところが、A氏は現役の活動家のつもりで、これを使う。この言葉の使い方だが、ホームレスのようなA氏が、長く病院経営をし、祥子女史の悲劇が無ければ、立派な社会人のままの矢島祥吉さんと同格になりたい、同格であると思う語法なのだろう。

また、ドン・ファンのようなA氏は、はじめ矢島祥子女史、つぎに診療所のスタッフの女性、この人物の動きを黒川さんが気づき注意すると、つぎの女性へとターゲットを変えるA氏は、尾松郷子さんを中心に、「ロス疑惑の三浦和義」のように、女性への接触を簡単にしてしまう人であることがわかる。

この不思議な「くノ一」なのかと思わせる尾松郷子さんは、「NPO法人・釜ヶ崎支援機構」に所属している。
わたしが黒川さんに、年齢を聞くと、祥子女史と近いらしい。その背後に、インテリの男がいると言うと、
「ミズウチ」と言った。ふつうの人が聞くと、冷静に聞こえるだろうが、わたしには、このミズウチが、黒幕のひとりのように聞こえた。

尾松郷子さんの関係ある男だが、「NPOホームレス支援全国ネットワーク」の水内俊雄(大阪市大)さんらしい。
年齢と専攻を聞くと、年は黒川さんと似ていて、「地理」とのことだった。大阪市大の地理とは、「赤の赤」を意味して、「左欲中の左欲」と関西では考える。

水内俊雄、尾松郷子さんと、関連する大きなNPOと人脈をみると、ずいぶん大きな組織と学者名が出てくる。

矢島祥子女史殺害は、いくつもテレビ番組があった。が、矢島祥吉さん、および家族は、この不思議な尾松郷子さんと水内俊雄さんを、いっさい取り上げていない。
わたしが黒川さんに、「この二人は、調べ方で、A氏と共犯になるだろうし、A氏の『闘争のNPO構想』に破防法が適応されたら、水内俊雄、尾松郷子さんにも破防法、教唆罪があてはまり、検挙できるし、彼らのバックの、新施設建設計画をすすめてきた学者たちも、参考人で引っ張れる」と言った。が、黒川さんは黙っている。

わたしが黒川さんに、さらに犯行には、「医者の子(娘)」がからむと言っていると、
「医者の子(娘)って、何ですか?」と黒川さんは、真剣に聞いてくる。
そのため、東京や大阪の都市部では、富裕な実業家の子弟が居て、成立しないけれど、地方の学校では、所得の高さから、医者の子の集合体ができる社会現象を言った。
共通項を短く言うと、幼児や小学生の頃、知識人である医者の子ということから、周囲より知能が高く、幼稚園や小学校で目立ち、「素早く有名になりたい、金が欲しい、地位が欲しい」などの気持ちで構成され、医者の子同士で行動をする。金銭の支払いは割り勘で成っており、この集合体に貧乏人は子分として居るだけと説明してゆくと、
「(尾松郷子は)岐阜の、医者の娘」と、黒川さんは言った。

「医者の子(娘)」と言う概念からもだが、黒川さんは、警察の捜査が動かないため、黒川さんなりに、調査をつづけ、解明したつもりが、疑問と疑問がつづき、脳裏が非常に混乱しているようだったというのが、2011年2月の黒川さんだった。


10)先人の逢坂隆子と黒田研二
黒川渡さんは、2005年12月に診療所をひらいたあと、2006年11月には医療関係者からなる、草の根運動のような、NPOヘルスサポートおおさか( HEALTH SUPPORT OSAKA。設立ならび理事長は矢内純吉さん、大阪府立看護大学医療技術短期大学部、元・学長)をスタートさせ、医師や法律家に宗教家も参加する「NPO・オイコスOIKOS」(事務局・川波剛さん)を2008年3月に設立した。

この契機だが、2003年9月に、社会福祉学を専攻する医学者たちの逢坂隆子(四天王寺大学)、黒田研二(大阪府立大学)さんによる、「萩ノ茶屋地域」の「特別清掃事業」、ホームレス2893名の健康調査に参加したことにある。黒川さんは、両先生たちに大きな影響を受け、黒川さん自身、なにかをしてゆかなければいけないと感じたと講演で述べている。

祥子女史だが、2008年5月に、大きそうな「釜ヶ崎支援機構」の尾松郷子さんと、大きな大阪市大の水内俊雄さんたちに誘われ、第1回「ホームレス支援全国ネットワーク」研修会に招かれ、短い発言をしている。
矢島祥子女史が、大手ゼネコンもからむ「再開発」「新施設建設」という、組織体からの勧誘であることを知ったのが、2008年から2009年になろうとする頃のようである。

矢島祥子女史が、「ヘルスサポートおおさか」や「オイコス」の一員かどうか、わたしは知らない。が、逢坂、黒田両先生たちの活動から、黒川渡さんが影響を受けて発足させたNPOと、水内俊雄、尾松郷子さんとA氏の「闘争のNPO構想」とは、まったく本質が違うことに、祥子女史が、気づくのに、時間がかかったようである。

黒川さんたちの「ヘルスサポートおおさか」には、逢坂、黒田両先生たちも参加されている。
これら自治体の財政も考慮した、草の根運動が、大阪市の管理下になるホームレスの「清掃事業」をどんどん進展させてゆけば、自治体からの生活保護の「扶助費」を目的とし、「貧困ビジネス」で利益を得ている既存や新規の医療施設関連者が妨害してくるのは、わかっていることである。

これらだが、黒川さんから聞く前の、2011年1月に、わたしは、矢島洋さんと長男の奥様に、「相手が大きくて、いまの黒川には何もできない」と告げている。

テレビ局が言っている「真実追求」だが、たとえば、テレビ朝日に勤務する社員が、ボランティアに参加しているつもりで、この働きが、他の会社の直接利益になるもの、たとえばTBSやフジテレビに関係する行動をして、殺害されたとする。
このとき、事件の真実を取材してゆくとき、重要な相手は、TBSやフジテレビになるのではないか。

くろかわ診療所に勤務する、矢島祥子女史と看護師が、ボランティアと称して、他の機関に利用され、行動をしていて、この途中、矢島祥子女史は、自分自身が利益目的の集団に操られていると気づいた。事件の本質が、この構図と過程であると、矢島夫妻たちは、黒川さんから説明を受け、周知ではないのか。

テレビ局はこういったことを知っていても、相手が大きそうだから取材に行かない。それで、ヤラセ専門のテレビ朝日などは、医師2名の「くろかわ診療所」だけ映している。


11)草の根運動のようなNPOオイコス
事件の翌年(2010年3月31日)「NPOヘルスサポートおおさか」が主催した「大阪ホームレス健康問題研究会」で、「診察室・往診から垣間見る」とのテーマで、黒川さんが講演された。
出席者に、黒川さんの、神戸大の恩師、斉藤洋一(外科、元・神戸大学病院長)さんが居られ、黒川さんは、「くろかわ診療所」での実際の治療を述べ、「オイコス」の姿勢も触れている。

オイコスは、一般社会生活で、他から取り残された人々を救済して行こうとする運動であり、くろかわ診療所としては、精神科が拒絶する覚醒剤など薬物中毒歴のある患者も医師として診断してゆく方針をとっている。

ギリシア語で「家族」を意味するオイコスは、差別されるホームレスが地域と解けこみ、他から拒絶されたひとりが、対話をつうじ地域社会に入り、共に生きて行けるようになればと言う精神をもった有志の団体である。
もし、昔は、高級住宅街だった地域が、ホームレスひとりと地域の老人ひとりになったとすればどうするのか。

黒川さんは、「人間にとってひとりとは」と言う難しい問題を、ホームレスにも地域住民にも、共存への課題として抱かせ、できうるかぎり、地域社会にも理解してもらい、対話をとおし、共に生きていってもらいたい事を望みとしている。

現在、田舎も都会も町の在り方が変わった。1960年代から、大家族だと「姑小姑(しゅうとこじゅうと)」で揉めることから、家族はより小さな集合体となり「核家族」と呼ばれるものが主流になった。
1990年代からは、大不況によるリストラにより、夫婦あるいは親子という二、三人の核家族が際立ってきた。この核家族は、すぐそばの肉親を責めるだけでなく、殺害という行動まで起こす家族社会に変化した。

祥子女史殺害が可能だったひとつに、祥子女史が西成で一人住まいと言うことになる。これらは、日々継続して考えるべき重要な社会問題なのに、積極的に取り上げ、対話を通し答えを出そうとしてゆくメディアは見られない。






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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2012-2-16