京都昨今
78、眠りについた祥子さん     【テレビ朝日、早河洋の使用者責任A】
「形質、遺伝と環境」
ヒトの形質には、生まれつきのものと、環境により作られるものがある。上の写真は、鳩山由紀夫夫妻のものである。鳩山由紀夫さんが、歩行のとき、見せる、脚の形態は、「II」であり、日本人古来のものである。一方の幸夫人が、見せる、脚の形態は、「<>」となっており、いわゆる日本のヤクザに見られる、歩き方である。

1977年ごろ、京阪の丹波橋で、人を押しのけ座る、同志社大学の、小倉襄二さんが、「人権と差別」と言うNHKテレビ取材のある、特別講義を作った。
小倉襄二さんの講義が、差別そのものだったので、わたしは、中止にして欲しいと、文学部と神学部へ行った。が、無理と言うことだった。講義で、在日と言う、朝鮮人の集団が、いくつか来て、講義後も、わたしへ、相談しにくる、余波があった。
鳩山幸夫人の事を、パクチョンか、ペクチョンとか差別して言う、堺市、八尾市の人たちが居た。また反対に、MKタクシーで、総務部長をしていたと言う北朝鮮からと言う人物は、日本より歴史が古い、朝鮮では白丁(ペクチョン)が最高の位なのですと言っていた。この人物に、(1978年ごろの)MKタクシーの社報に、同志社出身の新卒が社員になったとありましたねと言うと、「あれは、社長(通名、青木定雄)の甥ですわ」と笑って言った。
鳩山幸夫人の脚は、馬に乗る環境からだろう、満州人に見られ、日本のどこでも、観察できる。


1)事実を隠してゆくマスコミ
2009年秋に、良心のある医師のひとりと思える、黒川渡さんへ、生涯にかかわる、事件がまきおこり、マスコミが動いていた。
アメリカもだが、マスコミは、自分たちの思い込みを中心にして、新聞記事やテレビ番組を作ってゆく。新聞、雑誌などのマスコミから、取材された経験のある人は、表現した事の、一言も、記事にならなかったと言う人も、多いだろう。

大不況から、金銭目的のための、単純で残虐な事件が増え、反対に大きな金を目的としたものは、警察の捜査網から逃れる、完全犯罪の遂行のため、経路を複雑に組み合わせた、計画犯行が、行なわれるようになった。

これら知能犯には、彼らの計画犯罪の荒筋を、すばやく解いてしまう、「社会グループ」が、あれば良いことだ。戦前には、学者とか作家が、花形となり、マスコミの媒体をつうじ、意見が公開され、そのあと、読者をふくめ、市民からの判断を仰ぐ、知識人の集団が形成されていた。

戦後は、交通網と出張の時代ができあがり、時代のせいで、交通機関の時刻を推理のポイントにしたりする、作家・松本清張の存在から、推理小説が、観光産業へも、影響を及ぼした。そして、出張や旅行で、ふつうの会社員も、松本清張の作品から、社会への参加ができ、社会性のある事件や問題を考え、市民たちの良識による、社会正義が保たれたところがある。

せめて、1960年代の、マスコミの形態への、復帰が成されれば、われわれ庶民は、我が身にかかる事件へ、予防線が、張れる事だろう。

わたしは新聞もテレビも無い生活を続けてきた。独自性があり、知性の高い記事に文芸や番組が在るとわかれば、安心して、近づき、見るだろう。市民が知識を享受できる、記事やテレビ番組は、いつごろ在ったのだろうかと、いま、回想をしている。

大手の新聞社、テレビ局に、即座、求められるのは、社会を成立させている基本に、信頼と言うものがあると言うこと。この信頼は、欧米、アフリカ、アジア諸国、それぞれ違うだろう。
近隣国である、中国、朝鮮とも、ずいぶん社会の規範がちがうのが、日本である。犠牲者でありながら、沈黙をつづけ、欧米はじめ、投資ばかりしてきた中国大陸に、戦争をせず、衛生教育はじめ、建物から生活様式の、投資におわった朝鮮からも、歪んだ歴史教育により、搾取されつづけているのが日本である。

2)村山富市が総理になれる日本
村山富市さんは、1924年3月に生まれたそうだ。少しの学歴で、1944年日本帝国陸軍に入隊し、終戦での兵隊の位は、「軍曹」とか言う、下士官だったそうだ。
わたしの父は、1926年2月に生まれ、1941年、軍需工場へ勤務する軍属となり、1945年陸軍、姫路第10連隊の46部隊へ入隊し、上官に殴られただけの二等兵で終わった。

陸軍では、下士官が「曹長・軍曹・伍長兵長」、兵隊が「上等兵・一等兵・二等兵」となっている。
元総理の村山富市さんは、一年の軍隊生活で、軍曹と成った。わたしの形質人類学の先生である、山田忠男先生は、第八高(名古屋大)から京都帝国大学、さらに研究科へすすみ、一等兵となり、戦場で負傷し、村山富市さんより三階級下の一等兵で終わった。
わたしの父のばあい、加古川市立商工から、兵庫県立工業の学生となったとき、戦争の時代になり、軍属から二等兵だから、村山富市さんは、四階級上になる。なにかしら、村山富市さんが、とてつもなく、欲にかたまった、偉い人に感じる。

村山富市さんは、ふさふさした眉毛を持つ。その奥に、汚い欲が、渦巻く、濁った眼があるのだけど、マスコミは追求することがなかった。

村山富市さんは、戦後、日本社会党の政治家となった。
わたしの村とイエの政治家である、赤ちゃんのわたしを抱いては泣かせた、高砂の阿弥陀の旧家で、日本毛織に勤務していた、百姓出身の日本社会党の「田中武夫」さんは、ずるい考え方のできる、村山富市さんでも記憶にあると言うだろう。

わたしを見つけると、「わはははっ」と笑いかけ、近づいてき、日頃は、労働者だった田中武夫さんと、育ちから、人格まで違うのに、底知れぬ欲深の村山富市さんは、社会党委員長となり、内閣総理大臣となった。
わたしの村やイエと、共に生き、祖父の若い友だった、田中武夫さんは、いつも労働者側の人だった。田中さんは、時代の変化から、高砂の曽根で、タイヤ業をしていた、若い自民党の渡海元三郎さんを、国会へ上げて欲しいと、祖父に頼み込んだ。

3)溶接留めの・鳩山ブリジストン
大阪の堺市、尼崎市、兵庫の神戸市、姫路市など、祖父は、わたしのイエの血縁だけで、50万票単位を、まとめてしまうことができた。

祖父の弁護士であり、戦前から民主主義で、戦後は、のちに民主党を結成した、明石の百姓で、日本社会党の吉田賢一さんも、田中武夫さんの意見を聞き、渡海元三郎さんを当選へと、持ってゆくことにした。
1954年ごろ、町や村の判断をまとめる役の、50代前半の、祖父が、わたしと祖母がいる居間の、隣の、仏壇の間で言った言葉は、
「政治家は、いつ、何時(なんどき)金が、要るか、わからんから、金を使わさんように」と、いつもの言葉をいい、渡海元三郎さんのため、「(渡海は)若いから、気を、使わさん、よう、に」と血縁へ、播州弁で言った。

祖父は、戦後、事故を起こすのに、ただ金のため、利益優先の、溶接留めの安い自転車で、荒稼ぎをしようとした、ブリジストンのものは、いっさい扱わない事にした。
敗戦後、祖父の言葉が響く、中部の名古屋圏、大阪、神戸、姫路では、フレームが折れ、人身事故をおこす、ブリジストンの営業はできなかっただろう。

こういった、自分の町と村の、人命を重視する祖父だったが、母方の祖父(内務省、土木局長)も、人命尊重主義だった。
町や村の人を大事にしたいと言う、両祖父と比較して、ブリジストン関連の鳩山由紀夫さんの、祖父、成り上がりで、金好きの鳩山一郎さんなどは、地球上の人を、友愛したいと言う、壮大な思想を、持たれた人らしい。

わたしの恩師たちは、1930年代から、文部大臣の鳩山一郎さんを、心底、あれほど知識がなく落ち着きのない者は無いと、批評していたらしい。

わたしが姫路日赤へ入院していた、1958年、両祖父は、国にからんだ町や村の寄り合いの食事で、一服をもられ、姫路、仁豊野(にぶの)のマリア病院へ運ばれた。以降、病気が連続した。そして、母方は、1960年7月、大阪市立病院で、同年12月、父方は神戸大学病院で、死を向かえることになった。

村山富市さんや、鳩山由紀夫さんの、思い通りになるのが、敗戦後の、日本なのだろう。

4)とりわけ残虐だったロシア兵士
第二次世界大戦の、敗戦のため、日本は、欧米から搾取された。中国は、国民性が残虐で、どんな肉でも食べるため、日本人を100万人単位奴隷にし、日本女性へは、強姦に殺人をつづけ、日本と戦争をしていない朝鮮も、1945年日本が敗戦を向かえると、女性は強姦をして、食べてきた。

同じく、強姦、食肉主義で、50万人単位の日本兵をシベリアに抑留し奴隷扱いした、ロシア人は、1945年、敗戦の、京都の女性たちへも実行し、21世紀になり、高齢になった、女性たちが、ようやく、言葉にしはじめた。

東海道の、三条大橋近くでは、木屋町御池を下がったところに、GHQ連合軍の兵士が、日本の女性に、つぎつぎ、乱暴を加えたビルが、つい最近まであった。
GHQ連合軍の兵士の中でも、とりわけ、ロシア兵によるものが、残虐であったと、21世紀に入り、90歳近い女性たちが、被害者である事の、恥ずかしさに耐え、50代のわたしの妻へ、やっとの思いで、言葉にできるのが日本社会のようである。

日本には、平安時代、国風文化を創った。
世界で唯一の被爆国であり、第二次世界大戦では、推定、3000万人以上の犠牲者を出しながら、これを再建してゆく、一段階として、過去、平安時代にも選択した、思想の鎖国による、国風文化をつくった歴史をかえりみ、日本文化の規範たる、信頼に謙譲とは何か、史実、事実をもとに表現してゆける、思想家なりを、育てる時代に入っただろう。

5)2011年1月18日に知った悲劇
科学史家の湯浅光朝先生の紹介で、わたしも知り得た、神戸大学の陸井四郎先生と、学生の自治を回復させようと努力した、黒川渡さんは、2005年暮れ、大阪市西成区で、診療所を開いた。
医は仁術の姿勢に同調した、最初の同僚の医師は、1995年ごろ、京大で、知己となった、白水倫生さんだった。2007年春には、群馬大学出身の矢島祥子女史が加わった。

黒川渡さんは、2009年秋、かれらのうち、34歳の矢島祥子女史が、計画的に殺害されるという、大きな事件に、遭遇させられた。

この殺害に、西成署は、祥子女史の、死には、自殺の見方もできるとの、発表をした。
事実は、個人の自殺に見せかけたもの、というより、愛人との「情死(心中)」にみせかける工夫がされたものだったと言えばよいだろう。

テレビ番組からと思える、安物の脚本に、おおざっぱで、欠点だらけの偽装自殺なのに、警察官に向いていない集団からなる、大阪府警の西成署は、事件を見抜くどころか、捏造してしまった。

テレビと、インターネットで知る、黒川渡さんは、まるで、祥子女史への、加害者のように扱われているが、医は仁術が、医師として生きる、黒川さんの基本である。この、黒川さんにとって、祥子女史は、部下であっても、共に、働いてくれる、ひとりの人格のある医師であったと思う。

マスコミ報道が、原因だが、インターネットの掲示板なども、黒川渡さんが、なぜマスコミに反応しないのかが、わからないと、短絡に批評、評価している。

わたしが、この悲惨な、祥子女史殺害事件を知ったのは、2011年1月18日(火)であり、三年ぶりに電話連絡をし、黒川渡さんの人格を尊敬する、わたしの、言った言葉は、「元気ですか?」と「マスコミには一切無言を」だけである。

1月18日に、わたしは、黒川さんへ、「何かできることは?」と言った。が、黒川さんは、無言のまま、何も言わなかった。
このような、黒川医師には、21世紀の、歪みきり、腐敗した日本のマスコミへの、対応など、できないと思い、わたしが、事実の断片を書き続けることにした。

6)母、晶子さんへの電話
黒川渡さんが無言のままだったので、2011年1月21日、交際相手との結婚への過程を知るために、わたしは、矢島祥子女史の母・晶子さんへ、電話をかけ、質問することにした。
妻に電話をしてもらうと、晶子女史は「9時です」と言った事務の女性の言葉に合わせ、わたしの妻は電話をかけたら、名前も名乗らない、男性が出た。

そして、この男性は、いきなり、「妹は連日、深夜3時まで、過重労働をさせられた、この労働は警察も言っている、あなたは黒川側か?」と礼儀の無さとかでなく、人権侵害の言葉を連続させた。
祥子女史を、妹と言っているので、兄かと思い、動画で見た、記憶の断片から、「洋(ひろし)」さんですかと、わたしは尋ねた。
30代後半のようだが、両親や、学校教育から、どのような、常識を体得したのだろうかと思う、言語表現だった。

黒川渡さんが、言った、矢島祥子さんの事項を、わたしが、手帳に断片を書いていると言い、わたしの筆記は、民主的な裁判であれば、法廷で、証拠として、充分、通じるように書いてあると言うと、「黒川渡所長を、裁判所へ訴えるため、提出できないか」と言うような、怒気を入れた、表現をつづける。

群馬県高崎市には、このように、関西で言う、ヤクザと思える、家族が、病院を経営しているらしい。はじめての、電話なのに、名前も言わず、矢島洋さんは「弁護士、弁護士」と連呼する。わたしが何故、弁護士ですかと聞くと、「それじゃー、どうするんですか」と、食ってかかってきた。

大阪には、黒川渡さんが、控えめで、勤勉な医師であることを知る人が多い。
その黒川さんを、まるで、犯罪者、殺害者のように言う。ならびに、直接、なんら関係のない、わたしへも、侮辱と言った程度の言語では無かった。

この家族には、娘を失ったと言うことから、「さっちゃんの会」を作り、マスコミに正義を求めている、矢島祥吉さんという、66歳の子供以下ではないかと思える人物が居る。
矢島祥吉さんは、他殺を、自殺と言う、西成警察署に対し、裁判にかけるとまで、決意されたとの、表現をされている。

堕落した警察署を、裁判に向けると言える、矢島祥吉さんに対して、わたしの方は、子息の矢島洋さんから、侮辱を受けたのだから、黒川渡さんと、「矢島家族」を、警察に訴え、また、裁判にかけられるのではと思った。

7)長兄、敏夫人からの電話
2月18日、朝9時、矢島敏さんの妻から、当方へ、電話があった。質問事項が、祥子女史の結婚観という、あいまいな物で、黒川所長は妹に過重労働をさせたと、わたしを責めた矢島洋さんと同じく、結婚のことを、延々とつづけられた。
電話の後でも、夫であり、妹になる祥子女史の会の、中心とも言える人物の、矢島敏さんが、わたしへ連絡してくれば良いのにと思うが、無い。

次兄洋さんだが、祥子女史とは面識がありませんと言って、わたしは返答に困る電話を、妻へ、渡した。
わたしの妻は沈黙ばかりだが、次兄矢島洋さんは、沈黙のままの、わたしの妻へも、「妹と会ったことがあるのですか?」と、理解し難い、質問を連続できる、非常識さを持っている。

長男の矢島敏さんの妻も、わたしは、黒川さんと、世間話の流れで、その女医さんは、結婚を?と、聞き、「しないような」と黒川さんから、返事をもらっただけで、その間、数秒と言っても、話しを、つづける。

矢島敏さんの妻は、いきなり、わたしと会うことができるかと切り出してきた。論点が代わっているのを、分かりながら、夫である矢島敏さんが、そばに居ると感じた、わたしは肯定した。その後、矢島敏さん、および、家族から、電話なり、連絡が在ると思ったら、無い。

2月21日午前1時30分、矢島敏さん宛てにメールを送信したが、返事が無い。そのため、21日の夜、8時45分電話を入れても、矢島敏さんは、不在と言い、折り返しの電話があるかと思ったら、無い。電話が不通で、ファックス送信をしようと思っても、矢島敏さん宛には、できない。

2月24日の朝11時ごろ、矢島敏さんの妻から、謝罪のファックスがあった。この奥様は、神戸に育ち、わたしの親戚や友人が、通った、学校の出身者である。
環境言語が似ており、2月18日の電話のおり、話し方が、矢島洋さんなどと違うので、あいている手を、広げて欲しいと言った。手の大きさですが、大きいほうですか?と聞くと、「大きいほうです」と言ったので、A型のT類か、O型のU類と思い、言うと、O型との返事だった。

O型のU類のヒフは、日本人の中で、一番白く、この白さは、二の腕の裏側でわかる。A型T類は、黄白く、B型U類は、赤味がある。これらは、二の腕の裏側、脇などで、比較すれば良い。
対照的に、日本人の中で、一番、有色に感じるのは、褐色の、O型T類であり、手の大きさが、他の血液型より、小さい。
そのあと、矢島敏夫人に、手相で言う、感情線である、線形αが、ひとさし指へ、まっすぐ、向かっているのでは?と指摘すると、「そうです」と言う。

手の運動では、ひとさし指から動かす、矢島家族の、線形αは、ひとさし指と中指の間に、向かい、中指から動かす傾向のある奥様と、環境がまったく違うので、奥様は、ご自身と、お子様と、神戸のご両親を大事にして欲しいとの、長いメールを送信した。

8)パンツ一枚のミュージシャンと捜索願い
黒川さんは、2009年11月15日(日)に、祥子女史の次兄と弟と、会ったそうだ。わたしが、14日(土)に、無断欠勤で、翌日に、群馬から兄弟が?と質問すると、「うん、、、」と言う。どんな人たちと聞くと、「(15日までは)ふつうで、(行方不明の)捜索願いを、(家族が)出し、食事のとき、見つかればいいですねと言うと、はいと言い、(16日から、次兄の矢島洋氏は)ぼくを、犯人扱いにして、責めた人、、、」と黒川さんは、言った。

黒川さんが、ふつうの人と感じた、三男、矢島剛(同志社、神)さんは、むかし、わたしへ取材してきて、後、援助交際とかで、京都府警に逮捕された同志社(工)のが、関係するライブハウスで、デビューした「モーモールルギャバン」と言うグループであり、パンツ一枚で、ドラムを叩いていると言うと、「ええっ、、、?」と、黒川さんは、驚く。

祥子女史は音楽好きで、東京、山谷を知り、西成のあいりん地区に関する出来事だから、著名な岡林信康(同志社、神学部中退)さんに、夏祭りとかで、情報協力の、呼びかけをしてもらえば良いとアドバイスをした。すると、二人とも、知らないと言った。

黒川渡さんは、2009年11月14日、祥子女史が出勤して来ない事から、これは異常事態ではないかと判断し、群馬県高崎市の実家へ、連絡を入れたそうだ。

黒川さんが、遺体を見たのは、群馬での葬儀の、2009年11月18日(水)だそうだ。わたしは、遺体の発見が、16日(月)の午前1時20分で、警察から、不審死扱いで、司法解剖にゆき、大阪市大の、法医学の鑑定が、月曜日か火曜日までに終わり、水曜日に、祥子女史は、群馬県高崎市へ到着?と不思議がると、「家族が、急がしたから」と黒川さんは言う。

黒川さんの、記憶にある事柄で良いからと言い、弔いのとき、黒川さんは、祥子女史の母、晶子さんの、言葉から、後頭部の、打撃痕を、疑問に思い、指摘したそうだ。

葬儀の死化粧からの、わかる範囲で良いから、死斑は?と聞くと、鼻骨に傷がと言う。黒川さんが、長く沈黙をつづけるので、色は、赤、紫、黒のどれ?と聞くと、「血液凝固の、、、」と考え、返事をするので、それならば、出血による黒ですねと、わたしは言った。
大阪府警の見解のひとつに、矢島祥子女史は、2009年11月14日午前、木津川河口、大阪湾近くへ、自殺のために、飛び込んだそうである。が、この行為で、顔の前部にあたる、鼻梁と、後頭部に、傷など、まずできない。これら、祥子女史の生体反応から、他殺になる。

黒川さんは、医師としての、立場から、99%の他殺と言う。
数論を専攻してきた、わたしは、新しい学問や未知の領域へ、数値による確かさを与えるのは、非常に難しい事から、100%とかの表現はしない。が、祥子女史に関しては、300%、500%他殺と言った。

9)うたたねをしていた祥子女史
テレビ局がつくった、動画からだと、祥子女史の、あいりん地区の行為は、医事法に、ひっかかると黒川さんへ言うと、「そうやから、してへんと思う、、、」と言う。
沈黙の長い、黒川さんを、わたしは突き詰めてゆき、くろかわ診療所から、離れた、西成公園への医療行為は?と訊くと、困ったように、「(西成公園へ行っていたのは)事件後、知ってん、、、」と言う。

2月21日、黒川渡さんに、祥子女史は、夜な夜な、何の残業をしていたのかと聞いても、「うーん、、、」「わから、へん、ねん、、、」との、祥子女史を庇う、言い回しをした。

それで、22日、同じ質問をして、いったい、何の残業をしていたのか。と、一時間以上、5回にわたり、似非フェミニストは止めてくれと、強く、質問した。すると、「うたたねを、していて、、、」「(診療所に居ず、アパートへ)帰ってと、いつも言ってたんやけど、、、」と黒川さんは、ようやく言った。

さらに、重要なことだが、「とうじ、事件担当の(2009年11月)の、西成署の人は、自殺と、言っていませんよ」と黒川さんから、二度、三度と言われ、「えっ、、、?」と、わたしは思い、考え直す事にした。

黒川渡さんは、自分の念願として、小さな診療所をつくった。祥子女史は、犠牲者であることは事実である。が、「さっちゃんの会」はじめ、黒川渡さんを、人権侵害どころでない、誹謗をつづけている。

上大類病院長の、矢島祥吉さん、および家族の言動、矢島氏の専任弁護士たちは、黒川渡さんへ、どのような謝罪をするのかと思う。
わたしに関しては、矢島洋さん、矢島敏さんたちの、言動は、どこまでも、許さない。

マスコミは、診療所で、毎晩寝ている、祥子女史を、残業と報道した。これらは、黒川渡さん、および「くろかわ診療所」のスタッフへの、犯罪行為であるから、罰則は、覚悟の上と思う。

10)大阪府警の警察官による鑑定
鑑定だが、これは、戦前から、「教授」は、実施することなどなく、このことが、鑑定ミスの問題を起こす。
責任者となる、教授は、講義に、研究、大学の会議に、学会の準備から整理まで、仕事の予定があり、同じく、大学を知る人は、講師・助手クラスも、講義に、研究はじめ、学会の事務があり、忙しい。

そのため、警察では、不審死であっても、「検視」を、警察官(司法警察員)に、まかせるのが実情である。被害者側、あるいは加害者側であっても、法医学の専門家による、正確な鑑定を求めるのなら、今の制度を、改める、必要がある。

事件の様相だが、遺体がなければ、心中風の自殺とも解釈できる。が、祥子女史の生体反応を示す外傷から、本質は、許す事のできない、計画殺人事件となる。
祥子女史事件は、不審死であるから、「検視」を、せめて警察の数人が鑑識をして、より、客観的な、審判が在れば、管轄の、大阪市立大学、法医学教室への依頼が必要だとの、判断がでてきたはずである。

大学の法医学教室の助手クラスひとりでも、鑑定していれば、即座、他殺と判断しただろう。そして、大阪府警・西成署は、犯人逮捕の、捜査本部を作っていたはずだ。
祥子女史事件は、大阪府警内でも、鑑識能力のある、警察官がしなかったはずである。そのため、警察史上、恥ずかしい履歴が、生まれることになった。

西成署に、鑑識能力のある警官が、居なかったことが、悲劇の祥子女史事件を、より、やりきれない事件へと、進ませた。

2009年11月16日午前1時20分、木津川での遺体を発見と、警官による確認と、西成署への伝達。それと西成署内での、ずさんな鑑識結果で、祥子女史事件は、終わろうとしていた。

事件が、予定していたのと違う方向へ展開したのは、被害者である、矢島祥吉夫妻が、そろって医師と言うことからである。もし、医学と関係のない人が、被害者の親であれば、事件は、心中か、自殺で終わり、西成署は、ほっとしただろう。

事実を認識する能力が欠如した西成署のため、矢島祥吉さん家族の怒りは、別の方向へ向かった。
矢島夫妻の娘、祥子女史の希望をかなえ、2007年春に、雇ってくれた、くろかわ診療所の黒川渡所長を、加害者であるかのように、責めつづける事をしはじめたのである。

11)中京区中島町で起きた、テレビ朝日事件
わたしが2011年1月18日まで、気づかなかったのは、2002年から、2010年、京都のヤクザに、夫婦して、襲われ、倒れていた事と、このヤクザを、京都府警、東山署が、現場検証をしながら、逮捕に向けなかったと言う事にある。

2010年11月13日は、ヤクザ以上に、質の悪い、テレビ朝日の、法律を守らない、極道・撮影隊に、振り回された。
テレビ朝日が起こした事件の場所は京都市中京区だった。中京区は、五条署管轄であり、管轄の警官が対処すべき事柄だった。なのに、東山署の警官は、所属を隠し、事件がおきた、午後8時20分の、2時間以上経った、午後11時ごろ、テレビ朝日のヤクザたちを逃がす処置をした。

この3人の不良・警官を追いかけ、東山署にたどりついたのが、翌日、11月14日の午前0時30分で、対応したのが、ぐうぜん刑事課長だった。不良・警官の責任者になる、西口寿紀警部、地域課長が出てきたのが、午前3時である。
あきれる事に、この西口寿紀課長は、わたしたち夫婦の目の前とも言える、7、8メートル離れた席に、居たのである。

そして、テレビ朝日のヤクザとの衝突現場が、中京区中島町なのに、「三条大橋の件は、適切に処置をした」と、西口寿紀課長は、現場を、東山区に、変更をし、自分たち、東山署の不良・警官の、言動が、正しいと主張した。
11月15日、京都府警の、浜田毅・広報課長の部下である谷村警部補は、謝罪に行くと言った。本部長、熊崎義純・警視監は、どのように責任を取るのだろうか。

12)大規模なメンバーによる、矢島祥子事件
祥子女史事件の、計画者たちは、10人とかのレベルでは無いだろう。
目的とした、金銭の総合計も、100億円単位ぐらいのものでは、無いだろう。

この金銭を目的とする、政治家に医療団体と、末端の構成要員が、ボランティア団体の人間のためだろう。殺害事件を追う、マスコミも、実行犯たちが、ぼんやり、見えながら、肝心の使用者が見えないため、被害者である、くろかわ診療所へ、疑いの視線を向ける、報道番組を作り続けた。

あいりん地区の人たちへの医療を、優先する、生き方をしたいと言う、祥子女史の希望を理解した、くろかわ診療所の、優しい人格を持つ黒川渡所長にスタッフの人たちが、加害者のような報道がつづけられた。

被害者である、矢島祥子さん家族、矢島祥吉、晶子夫妻に、矢島敏、洋、剛兄弟には、信仰心と言う、純粋なものなど縁遠い、悪党家族と断言できる。

矢島祥吉さんと言う、悪党は、信じられないほど、遠慮深い、黒川渡さんの性格を利用して、苦しめるということを連続させることが平気な、残虐性のある人と言うことが、時間とともに、わかってきた。
矢島祥吉家族は、被害者を全面に押し出した、法外な行動を取りつづけ、無関係な、わたしへも、敵視し、良識のない、言動をつづけた。

祥子女史殺害事件の、進捗を、止まらせた、要因のひとつは、矢島夫妻に、キリスト教信仰の、資質が、根本的に欠如していると言う、単純な事にある。

最愛の、我が子、純粋な祥子女史の、キリスト教信仰すら、疑うのだから仕方ないとも言える。信じなければいけない、対象である、我が娘すら忘れることができる矢島夫妻なのだから、他人である、黒川渡さんなどに価値など無かっただろう。関係のない、わたしへも、自分の息子たちを使い、法外な言動を、させることができたのが、その証左である。

科学の、本質を追求するには、余計な事を除去する、捨象が、一番大事になり、これは、社会科学でも同じだろう。

今回の悲劇、事象の真実の追究を、願うなら、疑い、こだわっている、「その部分」を、捨象すれば良いのに、人を疑うのが好きな、矢島夫妻は、「その部分」に、こだわってしまった。
日本人が過去に持った、太陽を拝む、素朴な信仰がない家族に、学問での、基礎を求めても、仕方がないとも言えるが。

13)伊丹十三さんが作った、縫いぐるみの女性
1978年の秋ごろではないかと記憶するが、母に食事だと、呼ばれ、昼食が運ばれるまで、ぼんやり、食堂にある14インチのテレビが映す、テレビ朝日の、アフタヌーンショーを見ていた。

番組と昼食が終えた、午後1時まえ、テレビは、大阪の靭公園を映しはじめた。樹木の間に置いた、クルマの中で、二人の男性が、ボソボソ話しをしている。ひとりは、知人の役者だったため、なんのドラマだろうと、思っていたら、ウウウッー、ウウウッーと、サイレンの音がして、パトカーが現れた。
警官がクルマに近づき、ドアを開けると、知人が出てきて、「サツのダンナ、申し訳ありません」と、警官役に頭を下げたころ、「覚醒剤取り締まり、大阪府警」のテロップと言葉がでてきて、大阪府警の宣伝だとわかった。

食事を終え、遺伝子データ解析の、仕事へ向かったとき、アフタヌーンショーでの伊丹十三さんの、際立った、言葉と仕草が、脳裏に、反復しはじめた。

番組では、映画監督の伊丹十三さんは、強姦事件の説明をするため、夜なべして、手製の女性の人形を作ってきたと言い、説明のため、教壇のような台にのせた。
そして、伊丹十三さんは、襲う、男性の役をして、行為を模倣し、加害者に怒りをぶつける表現をつづけ、弱い立場の女性へ向け、「なんですか。襲われたって、言っても、体の傷なんか、癒えますよ。こんなこと、こだわるのが、おかしい」と大声で叫び、手製の、縫いぐるみの人形を、宙に放り上げ、捨てた。

14)「その部分」だけを見た、西成署員
祥子女史殺害事件の経過に、いちばん、とまどったのは、11月16日、司法解剖に接していないと思える、大阪市立大学の法医学、前田均教授、道上知美講師たちだろう。

西成区は、覚醒剤と売春婦の町で、有名である。
町の性格のためか、西成署は、犯罪を構成する、女性の体の「その部分」、その小さな部分を、除去、捨象しないどころか、その部分だけに、こだわっった。

「心中によくある例」を中心に考え、「その部分」だけ、見たため、計画殺人事件が、「自殺」となってしまったのだろう。これは西成署にとって、まだ良い考え方で、もし、殺害者側の意向に合わせた警察官の指示どおりだと、西成署は、ふつうの犯罪行為では、済まなくなってくる。

祥子女史殺害事件のばあい、生前での交渉ではないだろう。常識で考えて、殺害後のものになる。ここで、通常、死後硬直が、はじまって、30分以上たったころ、63歳の小太りの男に、死姦が、できるのか。それだと、被害者の股関節に、損傷が在ったはずである。

殺害時間を14日(土)から、訂正し、13日(金)夜、23時18分すぎとする。
死体遺棄を、15日の夜半22時ごろ仮定したばあい、殺害からの、時間経過は、40数時間となり、遺体は、硬直から、溶解へと変化してゆく頃である。

水死とみせかけるため、木津川に捨てる事は計画にあり、水中で、流れ消える可能性の高い、「その部分(精液)」を、明確に残すには、できるかぎり、15日であることが、大事になる。

これを成立させるには、注射器類での、「精液」の注入だろうから、医療関係者が必要となる。

大阪市立大学の法医学教室の前田均教授は、責任上、医療施設などでの注射器等での注入が考えられる、との考慮から、管轄である、西成署へ、法医学を成立させた歴史を省みて、厳重な注意をするべきであった。

15)東電OL殺人事件と、祥子女史殺人事件
1997年3月19日午後5時30分ごろ、東京、渋谷区円山町で、東京電力本社に勤務する、渡辺泰子(39歳)さんが、絞殺で発見される事件がおきた。
渡辺泰子さんの、膣内から、O型の精液が、確認された。

現場である、円山町の木造アパート「喜寿荘」には、絞殺された、渡辺泰子さんと、洗浄・消臭剤のブルーレット液を使う、水洗トイレのタンク内に、精液が入ったコンドームが在った。

売春婦でもあった渡辺泰子さんと関係があった、ひとりに、ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ(30歳)さんが居た。
ゴビンダ(血液型、B型)さんは、「喜寿荘101号」の隣、「粕谷ビル401号」でネパール人4人と暮らしていた。
ゴビンダさんは、「喜寿荘101号」の鍵を所有していたのと、目撃証言から、事件発覚、二ヶ月後の、5月20日、逮捕された。

現在も裁判中だが、論点が、コンドーム内の精液(B型)になっている。
渡辺泰子さんの、死亡推定日時は、1997年3月8日深夜から9日にかけてだった。
検察側の主張は、水洗トイレのタンク内の、コンドームは3月8日ごろ捨てられ、これは、死体発見の日と同じである、と言うものである。

弁護側は、ゴビンダさんは、渡辺泰子さんと、2月28日に会ったと言い、この主張は、売春相手を、手帳へ刻銘に記載していた、渡辺泰子さんの「2月28日外人」と一致する。よって、ゴビンダさんは、事件と無関係であると言う。

司法鑑定は、帝京大学、押尾茂(東京理科大OB)講師が行い、コンドーム内の精液は、「10日ほど前の物である」、との事だった。これだと、死体発見の、3月19日の10日前の、死亡推定日時の3月8日と合い、検察側は、押尾鑑定に合わせた。

反して、弁護側は、鑑定を、日本大学医学部の押田茂實(東北大学OB)教授に依頼した。
押田茂實鑑定は、「精液は20日前」だった。
弁護側は、3月19日から20日前だと、2月の下旬になり、ゴビンダさんが主張し、渡辺泰子さんが手帳に記載している、「2月28日外人」と一致し、ゴビンダさんは、事件と関係が無いので、無罪となる。

2009年11月14日(土)、くろかわ診療所へ勤務してこない、祥子女史に、異変を察した、黒川渡所長は、診療所のスタッフ8名に、祥子女史を探すように指示した。そして、11月16日(月)午前1時20分、木津川で、祥子女史は、釣り人により、発見された。

以下は、わたしの推論である。11月16日、西成署の、警察官により、鑑定されたと思える、所見は、祥子女史の手首に在った、心中をしめす赤いヒモのようなものと、体内に在った精液から、男女関係のもつれによる、自殺の可能性があると判断したのだろう。
重要なのは、警察に、自殺の可能性と判断させるためには、祥子女史の遺体が、16日ごろ、木津川で、発見されなければ、いけないと言うことだろう。木津川河口から、大阪湾へ流れ、発見が、数日後あるいは一ヶ月後となれば、警察の判断が、まったく違ってくるからである。

16)わたしたち夫婦へ歌ってくれた岡林信康

祥子女史の背景だが、「NPO釜ヶ崎支援機構」のメンバーを見てみると、山田實・理事長、大阪市立大学の野口道彦教授、「ふるさとの家」の本田哲郎神父たち。
2008年5月、第1回、大阪市立大学の、ホームレス支援の研修会で、矢島祥子女史と同席し、2010年秋、朝日、読売、毎日新聞などで、「囲い屋」について、発言している、福祉部門の尾松郷子さんに気づく。

祥子女史に、わたしの兄の子、妻の姉の子の三人は、1975年3月生まれのため、わたしは、彼女が、中学、高校生のころ、どんな音楽や、映画、テレビ番組が流行していたのかも、調べていた。

一般の人に、わかりやすいのは、祥子女史が思春期のときの、日常の道徳を破壊したストーリーの、テレビドラマだろう。
『ずっとあなたが好きだった』(1992)、『高校教師』(1993)、『悪魔のKISS』(1993)などがあるが、祥子女史のような医学部生は、忙しく、テレビなど、見ることは無いだろう。

わたしの、テレビドラマの認識の仕方だが、『悪魔のKISS』のばあい、「山谷ブルース」や「チューリップのアップリケ」で知られる、岡林信康さんの、ライナーノートを書いている、小泉カツミさんが、女優の黒田福美さんと親しいと言っていた。そのため黒田福美さんは、小泉カツミさんによる、世間でしられる女優らしくない、人柄の紹介を通し、見た事になる。

友人は、1980年ごろ、岡林さんの、番組を作っていたけれど、わたしは、小泉カツミさんに、血液型の医学史に疲れたから、日本の現代音楽史にうつり、そこで、岡林信康さんを扱うと言いった。

日本の現代音楽史だけれど、1985年秋、宮城道雄記念館で、吉川英史先生から、「(日本語での表現をした吉田拓郎と井上陽水でも、日本の音楽界はダメなのです、、、)」と、無言の返事を受けた。それで、歴史の論述は必要なのことから、わたしが現代音楽史を書きますと返事した。
現代音楽史は、1994年4月から、予定していたものだった。が、5月初旬にはじまった、わたしの過去、三作品を盗作した、竹内久美子の犯罪と、長い裁判で、消えてしまった。

1994年はじめ、わたしに取材しにきた、小泉カツミさんだが、わたしにマスコミに出ない理由をきいたとき、わたしには、理由はなかったのだけどと言い、NHKと番組制作での、打ち合わせの事を言った。NHKで、思い出の曲と言われたとき、わたしには1968年、69年が大事なので、「岡林信康さんの、、、」と言った。すると、1991年ごろの、プロデュサー、ディレクターは、顔色を変えた。

これを言うと、小泉カツミさんは、岡林さんの、コンサートに来て欲しいと言った。しかし、わたしは、体調を合わせることができるか、どうかの病状だった。わたしに、岡林信康さんの好きな作品で「花火」があるが、アルバムでしか、聞いたことがなかった。それで、リクエストしたいと思ったが、1994年のコンサートは、すでに、曲目が決まっているという。そのため遠慮することにした。

それでも、小泉カツミさんは、4月28日の日本青年会館にと言うので、夫婦で行く事にした。
岡林さんは、わたしたち夫婦に、中央あたりの、前の席、左右両側を、空席にしたものを用意してくださっていた。そして、岡林さんは、わたしたち夫婦に向かい、歌ってくださった。

17)上大類病院長は拘置所生活者
2011年2月26日、土曜日の午後、京都の東山へ、黒川渡さんが、とつぜんに、来た。
26日の朝に、わたしの、京都昨今『77』を読み、「(文章の中に)ぼくの言いたい、気持ちが、書かれてあったので」と、妻へ言ったそうだ。
わたしとしては、当初、1月18日の、3年ぶりの、10分間の、電話だけで、この、『78』を、仕上げようと考えていた。

というのは、殺害事件後、一年以上経っており、事件の様相を告げる物が、あまりにも多すぎ、黒川さんから、少しでも、事柄を聞いたばあい、文章作成ができなくなると判断していたからだ。

最初に、「体、大丈夫ですか?」と心配の言葉だった。が、すぐさま、わたしの京都昨今『77』のタイトルが、自殺か他殺かの捜査中なのに、決定したような「計画殺人事件だなんって?」と非難しはじめた。
わたしは、わたしの責任になる事だけですと言った。

つぎに、黒川さんは、「(大阪府警)捜査一課の、岡本(惠司)さんの、名前は、どうして、、、(知ったのか)?」と質問してきた。
わたしは、ありのまま、2月24日に、警察へ電話をかけると、刑事が、わたしの事を質問してきたので、答え、折り返しの電話と言う形を取ったと言った。
つづいて、「(祥子女史のボランティア医療が)西成公園は、どうやって、分かりました?」と、まるでテレビの刑事ドラマのように、わたしへ質問するので、あいりん地区は、1973年から、行っているし、動画からの映像で、西成公園は、分かったと、と返事した。

祥子女史が、くろかわ診療所を、最後とした時間について、わたしは、2009年11月の「13日23時18分」にしているが、黒川さんは、「警備会社の記録などから、『14日4時15分』と思います」と強く言った。
これも、わたしの推論で、間違っていたら、わたしの間違いで、それは、それでいいんですと言った。

「でも、診療所の中に入って、何か、、、(取るものなど)在る、のかな?」と黒川さんは、聞いてきた。
それで、金塊10キロ、覚醒剤1キロとかと言い返すと、「そんな物、無いです、、、」と、祥子女史殺害事件で、以前と違い、わたしの冗談が通じない、心境になっていると分かった。

妻から、黒川さんが、来たと告げられたとき、わたしとして知りたいのは、遺体発見の16日の様子だけだった。が、黒川さんに、16日のことをできるだけ、詳しくと言っても、時間の流れと言う、「線状」のものは、黒川さんは、ショックがひどいため、沈黙の状態が長くなる。そのため、わたしも控えることにしていた。

黒川さんへ、昔の、手帳を取り出し、「矢島さん」「結婚しない様子」などを記載した、2007年6月3日の、祥子女史に関するメモを見せ、また、わたしが質問した、白水倫生さんの、スケジュールを見せると、
「そうでしょ。ぼく、白水君のことしか、言ってない気が、、、」と安心したように言う。

質問はしないつもりだったが、黒川さんが、かなり疲れた様子なので、沈黙のあと、この記憶は、「点状」のものだからと思い、祥子女史の鼻梁の、傷を聞いた。
「ここら、一センチの長さです」と黒川さんは、祥子女史の、目頭の線を合わせた位置から、下方を指で示した。
祥子女史の母、晶子さんが、右の額に傷と言われていたけれど、右のこめかみ部位と、おとがいから、下顎へ、どのような傷が?と質問すると、
「花が、、、」と、黒川さんは、西洋風の棺の、形を指で描き、祥子女史の顔の周囲を、花が覆っていたように、説明をする。
左右の眼窩の、周囲の色を、記憶にあるかぎりと言ったが、「化粧、、、。(それ)で、、、(見えない)」と、電話での回答と同じ、言葉だった。

わたしが、聞きたい事は、祥子女史が、苦しんだと思える、殺害順序に関することだった。
遺族が、頭部後方の首から耳にかけて、押圧痕があったと言っているのだから、水の中に漬けられ、10分単位、抵抗したと思える事から、口腔の上部や、上顎に、裂傷に近い物が、出ていると思うけれど?と聞くと、
「鑑定に、、、検案書など、見てませんし、知りませんから、、、」と黒川さんは、弱い声で、言った。

黒川さんが、沈黙をつづけるので、両親の出身校でもある、群馬大学のカラーを知っている?と質問すると、返事がなかった。信州大もだけど、群馬大は、「東大カルテ」で、東大出身の教官が多く、1950年代、60年代の教官は、「東大出身のわたしが教えるのだから、君たちは、東大の学生と同じだ、京大以上だ」と言っていたことの知識はと聞くと、
「そんなのが、あるんですか?」と黒川さんは、おどろく。

そのため、1968年ごろから、激しくなった学生運動のことに触れると、
「(上大類病院長の)オヤジさん、東大紛争に参加して、一年間、入っていたと、、、」と言うので、誰から?と質問したら、「オヤジさんからです」との返事をする。
一年?と言い、わたしの周囲の大半は、中退の処置をされたけれどと言い、セクトは?と聞くと、
「オヤジさん、『社青同』、、、だったとか。、、、そんな、ような、、、。言い方をしていました」と黒川さんは答えた。社青同のヘルメットの色って?とわたしが聞くと、「青です。関東のセクトですから、、、」と黒川さんは言う。

18)日高六郎から江田三郎へと変化していた手のライン
事件が原因だろう、黒川渡さんの、手のライン構造が、言葉の少ない、社会学者の日高六郎さんから、政治家の江田三郎さんへと変化しているのに気づいた。
幼いときから、江田三郎さんと同じであれば、ストレスが少ないが、急激に、発言数が増える人格の変化のため、ひとりになったとき、自分自身が、発言した言葉に、自己嫌悪の状態に陥り、心身管理に、危険性が増す。

黒川さんの手の変化から、あいりん地区には、革マル、中核、連合赤軍など、むかし、学生運動家だった人が、逃れ、潜伏する地域として知られ、連合赤軍の、「若宮正則」とか、と言うと、
「ええ、少し、知っています」と言うので、永田洋子や、坂東國男が、薬物に詳しいことは?と聞くと、
「えっ、詳しいのですか、、、?」と黒川さんは、聞き返す。

そして、どうして、こんな状態に?と、1月の電話の折も同じ質問をし、黒川さんは、「探偵が、、、」と返事したとき、「(探偵、、、!?)」の意味が分からなかった。そのため、黙っていると、「刑事を辞めた、、、」「売名の感じの、、、」と言っても、わたしには、分からず、「トビマツ」と言われ、しばらくしてから、「飛松」と言う字面が浮かび、あっ、鈴木宗男に似た人とわたしは言った。すると、黒川さんは、いっさい黙ってしまった。
矢島敏夫人に、黒川さんとの会話を言ったとき、「似ています」との返答だった。

「飛松(五男)が、診療所に来て、報道ではなく一般の番組であり、矢島さんが、赤いミサンガをしていて、、、」「TBSの取材陣が、外で待ったままだと、、、言うので、それなら、会いますと返事すると、外には居なく、15分ぐらいしてから、来て、、、」と黒川さんは、言う。
「(ミサンガ、、、?)」の意味が分からないので、何?と聞き返すと、「ミサンガ」と黒川さんは言ったが、わたしには、分からない。
黒川さんが、手首で様子を作るので、報道特集していた、赤い糸のと返事し、テレビドラマを調べたわたしは、あれは、『高校教師』(最終回)のせいではと、わたしは言ったが、黒川さんには、テレビドラマが、分からない。
「飛松の言う、ミサンガじゃ、なかったんです」と黒川さんは、不愉快きわまりない表情をした。

飛松五男さんが、黒川渡さん、および、くろかわ診療所のスタッフにしたことは、刑法にあてがうと、証拠変更、証人威圧行為、刑法104、105条、強要の言行、刑法223条などが引っかかり、大阪府警は逮捕できる。
また、矢島祥吉家族においても、刑法をもちい、迷惑防止条例などを適用できる。

TBS報道特集、2010年8月21日への、疑問点だが、市民が外部に向けしてきた、明らかな言動を集める、報道が、なぜ、一般の一部(矢島祥吉家族)の声を集めたものが、主体となった番組を作りえたのか、ここに、大きな社会責任が発生することは、マスコミに勤務したものだと、即座にわかる。

それに加え、TBSは、2010年12月の、定員オーバーと速度による、大宰府車転落事故で、救出しようとした、秦智之さん(26)を「容疑者」と表現したのではないのか。乗用車の左バンパーを見れば、どのような速度での事故か、判断がつくだろうし、秦智之さんの自宅は、左折する方向の、すぐそばのため、救出に向かう、気持ちは理解できる。これを読んでいたのが、1980年代、愛人の精液を入れ、番組を休んだM女史らしい。
わたしは、この女史の腹部膨張について、記事にしようとした、大手週刊誌を、TBS関連勤務の友人に「Mさん、同期で、良い人なんだ」と言われ、ただただ、徒労を感じる、わたしの出費で、止めた。

フジテレビ(FNN)は、くろかわ診療所の前に、数時間張り付いたそうである。小さな医療施設のまえだ。病人を扱うところだ。この行為だけでも、テレビ界は、どのように、判断するのか。
ならびに、テレビ朝日の、スーパーモーニング、スーパーJチャンネル、報道ステーションなどに、「やらせ問題」が生じるのは、編集経験者であれば、分かるだろう。

19)日野原重明と、中国の国家主席たち

テレビ好きの、聖ルカ病院の日野原重明を知る、黒川さんに、飛松は、日野原と同じ、思考形態と言うと、「日野原と同じ!?」と驚く。わたしも、「飛松五男・日野原重明」ラインの会話は嫌なので、中国の要人と同じと言った。

現在の中国政府を、100点満点で、60点合格としたなら、40点と言い、日本の鳩山由紀夫、菅直人、岡田克也、仙谷由人たちの政権は、30点と言って、鳩山由紀夫さんなどの、中学、高校時代は、邸宅に帰ると、母親の安子さんが、毎日、お話で、土、日曜日は、2時間、3時間ほど、母との接触が合ったと言うと、
「気持ちが悪い、、、。そんな親子あるんですか」と黒川さんは言い、「どんな手ですか、、、。(ボールペンで手のひらに)書いて下さい」と言う。

説明として、彼らは、労働にしろ、新たな学問にしろ、努力による生産はできず、家庭教師などを付け、勉強だけできた事。そして、世の中が悪いのは、すべて、いまの政治家のせいと言う、家庭環境で育った「マザコン内閣」と指摘した。
手のラインでゆくと、鳩山由紀夫、菅直人、岡田克也さんは、線形α(手相での感情線)が、ひとさし指と中指の間へ、仙谷由人は、中指へとゆき、これは、類似している、イギリスの「エリザベス2世家族」を典型的なモデルとして取り上げ、研究してゆけば、家庭環境が解明できてくると、説明した。

このひとさし指から動くヒトだが、祥子女史の、母・晶子さんも同じで、お母さんは、医者だからとの名目で、管理生活をおくっていたはずで、兄弟に、マザコンの典型的なものがあると言うと、
「聖ルカの福井(次矢)さんもマザコン」と黒川さんが言うので、日野原重明と福井次矢さんを、くろかわ診療所で、インターンの学習体験させたらと言うと、
「ぼくは良いですけど、、、来ないと思う、、、」と黒川さんが言ったので、笑った。

現在の中国政府だが、兵庫県警勤務だった、飛松五男さんや、聖ルカ病院の日野原重明さんと同じ思考をする人物たちにより支配されている。

中華人民共和国の、胡錦濤・国家主席、呉邦国・常務委員長に、王岐山・副首相が、そろって、同じ分類に入る。
わたしが春型、夏型、秋型、冬型、台風型と5分類しているが、彼らは、台風型に分類でき、彼らに、中国の人々と共に生きて行こうとする、思考形態は無い。つねに、自分だけであり、共産党政権での、下位の時、上位に、お世辞だけを言い、出世をしてきただけである。
どの分類であっても、手のひらに、自分自身の言動を見直す、フィードバックを示す、ラインが出ていれば、人物評も変わるが、とにかく、いまの、中国と日本の政治家の、日常生活は、どうなっているのかと思うほど、道徳に基づいた規則性がない。
北京オリンピック(2008)、上海万博(2010)のとき、農村部からの「農民工」と言う、労働者が、日本のマスコミでも、問題にされたが、彼らの、他者に迷惑をかけない、きまりある生活をしている事をしめす手を見て、中国の、良識ある知識人の言動は、どうなっているのだろうかと思った。

まえの、ぜんぜんと言って良いほど、仕事嫌いで、仕事をしない江沢民・国家主席のとき、政治がつづいたのは、命令をそのまま聞く、胡錦濤、呉邦国たちが、軍部を使いながらの、恐怖政治をしたからだろう。
胡錦濤の、脳裏の特徴は、ぽかーんと、瞑想か空想か分からない時間の多い事であり、呉邦国は仕事が遅く、王岐山・副首相はバタバタ興奮し、飛び歩いているだけの人である。彼ら、「台風型」の特徴は、国家や、人々に関心がゆかず、自分自身の利益だけで動く。

胡錦濤・国家主席、呉邦国・常務委員長は、上からの命令に「はい」と大声で返事ができたのに対し、習近平・副主席は、周囲の様子をみて、おずおず「・・・ハイ、・・・ハイ」と言っただけの人であり、ここには、中国の、人々への視線などない。民主党の岡田克也さんレベルで、国家が仕切れないのは、政治部の記者なら、わかるだろう。

2011年3月現在、続いている、中国の政治形態は、線形αが、ひとさし指と中指の間へ、収束してゆく春型の、民主党の岡田克也さんと、類似した「習近平」・副主席の時代に、政府が、政治家をふくめ、人々の意見を汲みいれようとしたとき、大混乱がおき、崩壊してゆくだろう。

20)全共闘議長・山本義隆を知らない世代
黒川さんの返答から、東大、全共闘議長、「山本義隆」だけど、と言うと、反応が無い。以前、2003年も、同じように、黙ったままだったので、知っていると、わたしは思った。
東大物理の、ヤマモトヨシタカを、知らない?とわたしが、あきれると、
「ええ、知りません」と1955年生まれの黒川さんの返事から、世代の違いを感じながら、山本義隆さんを、押し上げた、全学連・初代委員長、北朝鮮万歳の、武井昭夫さんは?と聞くと、
「本、持ってます。読んだことないですけど。北朝鮮を肯定する人ですか、、、」と黒川さんは言う。

黒川さんは、神戸大でのセクトは、と聞くと、「民学同です」と言ったので、この時代を知る人は、たいがい笑う、表情をわたしはした。
民主主義学生同盟(民学同)は、暴力否定で、人々の声を聞き、誰でも入れる感じのセクトで、神戸大学だけでなく、1975年以降、存在が在るかないか分からない雰囲気のものだった。

祥子女史事件で、発言をしている、鳥越俊太郎さんは、山本義隆さんと、似た世代で、京大新聞で、民青(日本民主青年同盟)のはずだったけどと言うと、
「鳥越、民青だったんですか」と黒川さんが聞き返すので、京大新聞は、西部講堂の下、旧制高校みたいな建物で、木造の一階に、2人ほどいて、わたしは、1973年ごろ、新聞を買いに行っただけ、と説明しても、黒川さんは、西部講堂が分からない。それで、反対になる、東大路通り、東側は、京大サッカー部が在って、草がぼうぼうだった所と言った。
そのため、黒川さんは、現在の建物名で、聞きかえすが、これらの名称は、わたしが、分からない。

ただ、時代は、朝永振一郎さんが、ノーベル物理学賞をもらったせいで、1969年春ごろまで、湯川秀樹先生と、二人して、理学部から、散歩していてと言い出し、理学部と、当時の工学部の位置ぐらいしか分からない、わたしには、どのように、説明して良いのか、分からなくなってきた。

1970年代後半の、神戸大学、医学部の、学生運動家が、全共闘の山本義隆さんを知らない事は、わたしより、山本さん当人が、一番おどろくことだろう。
これだと、わたしが、 京都昨今、『23』、「きめた ところは ないんです」の意味が、まったく分からないと思いながら、『23』の、「英語」は、放出中学出身、エリオット研究家の、中井晨先生で、1976年から、1980年代半ばまで、わたしの隣町、八幡市男山に住んでいたと言い、親友の、山本善隆さんは、船場中学出身と言うと、黒川さんは、このローカルな、放出中学、船場中学と言うところで、笑っている。
「善隆さんの、兄だったと思うが、奴隷主義につながり、次の世代で差別と言われる、労働移民を推奨してきた、関西大学の山本繁綽さんがいる」と言ったが、黒川さんは、二人とも知らない。

そのため話を学生運動時代にもどし、1968年の東大紛争は、階級社会反対のものなのに、東大や京大の、学生運動家たちの、内部に接すると、大学の学内ランク、大学別ランクだらけだったと言い、原因は、思想表現した、ビラに在ると説明をした。

ガリ版刷りのビラは、流行のマルクス・レーニン主義の時代で、ロシア語はときたまあるけど、ドイツ語はふつうに出てきて、この共通用語が分からないと、議論にならなかったと言った。
そして、1970年ごろは、東京出身の学生でも、郊外からの人は、訛りが強く、英語の音読ができない人が多く居て、即座に、辞書の引けない人も多かったと言うと、黒川さんは、
「そんな(時代ですか)、、、?」と言った表情をするので、ええと肯定し、辞書を引いて、学生ビラを読解しようとした人は、勉強不足だと感じて、だいたい、学生運動を、辞めて行ったと事実を言うと、黒川さんは笑った。

そのため、あの矢島祥吉さんなど、東大紛争のとき、24歳ぐらいで、東大医学部生でない劣等感に、ドイツ語のわかる医学部生だから、優越感があり、あの強引な性格だと、20歳ぐらいの学生運動家には、傷ついた者がかなり居たはずと言いながら、もし、晶子夫人との交際が、1968年の、学生時代からので、女性の少ない、学生運動の場所に来ていたら、妬みの感情などが交じり、釜ヶ崎は、非常に危険な場所だと言った。

21)悩ませた女性問題の父親と、本田哲郎神父
父親が、学生運動をしていたことを、祥子女史は、あいりん地区で、口にしていた?と聞くと、
「していたと思います。ぼくにも、言っていましたから、、、」と黒川さんが言ったので、殺害原因のスタートが、父親の学生時代に、なるかも知れないと、言った。
「そん、な、、、」と、黒川さんは、言いながら、過労からだろう、黒川さんは、しだいに、眼を閉じた時間が長くなってきた。

わたし自身、殺害を知った1月18日から、2月26日まで、背景の調べ物で、毎日2時間ほどの仮眠が続き、24日から、この二日間は、一睡もしていなかった。

なぜ、矢島祥吉夫妻は、殺害犯たちに、造られた、「その部分」を、警察と、法医学者たちと、自称交際相手の、63歳が言うまま、肯定するのかが、わたしには、わからなかった。
わたしの祥子さんのイメージは、黒川さんを通してだけである。この、まったく、面識のない、わたしが、祥子さんの潔癖性を信じているのに、自分たちの娘の生き方を、信じられない、矢島祥吉夫妻の愚劣さに、腹立ちが増してきた。
あの両親には、自分の娘を信じる、能力がないのか、祥子さんが可哀想だと、わたしが言うと、
「ぼくも、そう思います」と黒川さんが言うので、動画に、家族写真が映っていたけれど、あの家族での、母親は、祥子さんだったと、わたしは言った。

矢島祥吉夫妻に、少しの理性でもあれば、社会の弱者を救済したいと言う、祥子さんに対し、お父さん、お母さんもそうだわと言い、どちらかでも、祥子さんと共に、東京の山谷や、西成区あいりん地区などで、たとえ一週間であっても、医療活動をするのが、常識では無いのか。
あいりん地区で、女医の役割で、生活を切り開いたのは、祥子さんで、母・晶子さんたちではない。母・晶子さんを代表に、この家族は、体力で生きる西成の男たちの、社会心理を理解せず、転倒した性( Confused love)の意識から、いつのまにか、自分たちを中心にもってきており、このままでは、あいりん地区の労働者が怒りだすことに、気づいていない。と黒川さんに言うと、
「ぼくも、そう、思います」と言った。

動画でみたけど、「神よ!」とか言っていたから、父・祥吉さんは、奇特な人だろう。あの人の手つき、どこへでも動いてゆきそうな指を見ると、手を出した、看護婦の事でも、思い返していそうな感じがすると言うと、
「看護婦、、、?福井矢次さん。聖ルカの看護婦、、、射止めて」と黒川さんが言ったので、
鳩山由紀夫さんの、母・鳩山安子さん担当の、総責任者、福井矢次院長が、聖ルカの若い看護婦を、、、?と質問すると、「いえ、福井さん、看護婦に、射止められて」と表現を言い直した。

「オヤジさんの、その(手と、指ですけれど)、、、、。矢島さん、お母さん(晶子)から、女性問題がある、お父さんのような人はダメよと、、、(父親の日常の行為から、男性不審に)」と黒川さんは言った。
そして、2007年春、念願のくろかわ診療所への勤務となるはじめ、「こんなとこ(西成区)に、勤めるんやから、(両親への挨拶と、西成区の説明のため)いつでも、会うよ、言うたら、矢島さん、(会わないで欲しいと)泣きはじめて、、、」と黒川さんは言い黙った。

人間として、母と結婚生活をしていながら、なぜ、日常、眼のまえに居る、この矢島祥吉と言う父は、別の女性へ、何を求め、関係を持つことができるのか。
祥子さんにとって父親が、病人のように行なう、イエス・キリストの教えから遠い「転倒した性( Confused love)」を起因とする女性への行為は、「女好き」とか、「男だから」の概念では解釈できないもの。まったく理解したくないものだっただろう。

祥子さんの、父親不審の心の一片は、1982年ごろの、七五三の気難しそうな表情をした祥子さんや、2000年ごろ、医者になったときと思える、父との記念写真の、諦めた表情からでも、想像でき、これを指摘すると、
「矢島さん、いつも、本田さんを、偉い人だと言って。、、、すごく偉い人だと」と黒川さんは、祥子さんが、毎週欠かかさなかったミサで、生きてゆく糧とした、本田哲郎神父の事を言った。

22)祥子さんが、心やすませた診療所

祥子さんの父親は、学生運動もして、女性問題も起こして、、、。世代の違う、祥子さんには、分からないことが多かっただろうと思いながら、祥子さんは、どのような会話形態をとる人?と、黒川さんに聞くと、
「おそい人です。、、、とろい、、、とかでなく、返事に時間が、、、」と言うので、白水倫生さんとは、と聞いた。
「白水君は、ほらっ、差別的な表現するでしょ」と黒川さんが、言うので、わたしは、白水さんは、正直なだけで、思考が長く、基本は優しい人だけどと言った。
「白水君が、例の調子で、言っても、矢島さん、返答が、、、(無いですね)。かといって、無視ではなく、、、」と黒川さんが、言うので、京大でも、白水さん、クラスの人は、少ないからと説明をし、白水さんも沈黙の人だから、祥子さんも、医療知識や生き方は、尊敬していたでしょうと言った。

「あの人(祥子さん)が、亡くなったら、自分が、どうやって、生きて行ったらいいんだろうと、言っている人が、すごく多いんですよ」と重要な発言をしている、「野宿者ネットワーク」の、生田武志さんは、どんな人ですかと聞くと、
「口数の少ない、、、。言葉の、重い人です、、、」と黒川さんは言う。

黒川さんの話を聞いていて、祥子さんにとって必要だったのは、言葉以上に大事な、信頼できる心の中の世界であって、いちばん安心して、心を休ませることができるのが、無言のまま進む、「くろかわ診療所」だったのではと言い、黒川さんの、干渉のなさから、自分のアパートでなく、診療所で、眠ってしまうのだと思う、と言った。

眼を瞑る状態が多くなった黒川さんに、あいりん地区や、くろかわ診療所の周辺に、「祥子さんと同年齢の、女性は?」と言い、祥子さんは、「神様のよう」と評価されていたのだから、同じ年齢から、一番、妬みが走ると言うと、
「、、、」と、黒川さんは、分かり難そうな表情をする。

あの63歳の男の、絵ハガキだけど、祥子さんへ、手紙類や贈り物をして、そのあと、「祥子先生、63歳の男が、返事を待っていますけど」と言い、書かせて、「わたしが適当に、投函してきます」と言えば成立するでしょうと、言うと、黒川渡さんは、表情を変え、「そうです。いるんです」と言った。

「(共犯者について)矢島夫妻も、警察も、聞いてくれないし、矢島さんが、ぼくに相談していた事も、合わせて、追求して行って、全部、文書にしても、あのオヤジ(矢島祥吉)さんは、、、。解析ができなくて、、、」
「(2009年)11月、12月から、(2010年)1月にかけ、整理して、渡した資料も、まったく読めない人なんです」と
黒川さんは、どれだけしても、矢島祥吉さんと家族は、努力と誠意を、無駄にしてしまう人たちと言う。

わたしも矢島洋さんとの一回。矢島敏さんの奥様との、答えのない電話とメールに、疲れというより、わたしへの名誉毀損どころではない言動は、生涯許さないと決めたので、黒川さんの憤慨さは、とても理解できた。

2月18日に、「(来週ぐらいですか)いつ、捕まりますか?」と、矢島敏夫人は言う。わたしが、当方の『77』を読まれたのですかと聞くと、「知りません」と返事し、ご主人の矢島敏さんはと言うと、「知りません」と言い、平然としている。

この失礼さは、何だろうと思いながら、「(捜査の開始は)いつですか、、、?」のような事を、尋ねられる。
わたしは、「(、、、?)」となりながら、捜査は3月に入ってからでしょうし、直接の、実行犯は、日本に居ない可能性が高く、問題は、命令をしたもので、経営者か政治家などは、捜査権と逮捕権のある警察にしかできない事を、説明したが、この点を、理解してくれない。

こういった事を黒川さんへ言っていると、
「西成署の、細川刑事も、デキが悪いと言うか、、、」と言うので、「細川って?」と質問すると、岡本課長の部下と言い、「ほんとに、いくら(人間関係を)説明しても、分からないし、、、」「調書も遅く、(どれだけ、かかるかわからないから)ぼくが書いた方が、早いと思って、、、」と黒川さんは言う。

現在、府警本部捜査一課で、とうじ西成署捜査一課だった、「黒川さん、覚えてます。がはははっ。ワシ、いま、西成署ちがうから、、、」の、とても明るい岡本惠司・警視とは?と質問すると、
「(西成署の)岡本さんとは、(2010年)3月に、(大阪)府警本部で、はじめて、、、」と黒川さんが言ったとき、西成署の刑事課長と、はじめて会ったのが、大阪府警本部とわかった。

「あのころ、、、。(2010年の)1月、2月、3月と、ぼくが新大阪で場所を借り、診療所のスタッフ(8名)と、会合をさせて話し合っても、あのオヤジ(矢島祥吉)さんは、まったく、、、。関心を示さなくって、、、」と黒川さんは、言う。
共犯者について質問すると、
「ぼくが、情報を集め、追求して行って、毎晩、(午前)2時、3時ごろ、(群馬へ)メールを書いては、、、」と、黒川さんは、2009年11月から2010年3月に関して、黒川さん自身がしたことに、反応しない、「上州・矢島一家」には、かなり、憤慨して言う。
このことも、矢島敏夫人に、西成署を近くにして、周囲の探索に、やりとりは、通常の人物にはできないし、非常に疲れると言っても、「ああ、そうですか。わたしは、タッチしてないので、わかりません」と言う。それなら、矢島敏さんが、電話かメールで返答してくれば良いのに、してこないのが、矢島一家である。

矢島一家の、矢島洋さんたちは、「(目撃証言を求める)音楽コンサートを、できますか!?」「できるんですね!?」など、面識のないわたしへ、要求できる人たちである。

「さっちゃんの会」(矢島祥吉)、「さっちゃんの会を応援する会」(矢島敏)の二つの記載事項は、黒川渡さん、くろかわ診療所のスタッフへの、人権侵害を越え、生命権におよび、刑法どころか、憲法に反している。
他人の生命をおびやかすことの平気なのが、上大類病院長の方針らしい。

わたしが、矢島祥吉さん家族へ、出したメールの内容は、祥子さんの、遺体の親指とひとさし指の形、指先の爪の様子と、体内(肺)の水分の塩度である。これだけなのに、矢島祥吉家族は、返事をして来ない。






HOME
「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2011-03-07