京都昨今 |
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77、 矢島祥子女史、計画殺人事件 【テレビ朝日、早河洋の使用者責任】 | ||
1)覚醒剤の町、西成 西成の方へ行きますと、医師の黒川渡さんに言って、7年以上が経ち、京大の白水倫生さんを、頼みたいと言い、「わたしの方は、良いですよ」と、ゆるやかな発語の中、笑みが見える、静かで明るい返事を貰い、4年と言う、年月が過ぎてしまった。 2011年1月18日、火曜日の早朝、3年まえ「(診療所の)ホームペイジは、作り変えている途中です」と言った、黒川さんの言葉を思い出しながら、グーグルの検索で、「くろかわ診療所 黒川渡」と入れ、出てきた画面の、字面に、わたし自身の、脳裏が止まり、判断力が無くなったのかと、自問する時間が、2、3秒つづいた。 検索機のトップには、「本日、報道ステーション・・・延期になりました」とのブログが出てきて、ブログの表現に対し、投稿者から「昨年末に黒川先生に電話したら『矢島先生が亡くなったんや!絶対に事件なんや!』って怒ったり悲しんだりしていましたとの、文章に、眼が行った。 西成区は、朝鮮人、中国人、フィリピン人と国籍もさまざまで、高齢なのに、大阪市の新住民となってしまう人々が多い。 第二次世界大戦中、GHQ連合軍の、戦闘機グラマンと爆撃機B29が、国際法禁止の、乳児と母親まで、目標とし、日本人の青年男子を中心に、推定3000万〜3500万人も殺害したため、戦前1億人の富国政策をした日本は、20代男性が少ない、6000万人となり、町の復興への、労働力も、資本もなかった。 西成の、あいりん地区(釜ヶ崎)は、1983年暮れから84年はじめ、結婚をした妻を連れ、「ここも、日本」と案内したことがある。 GHQ連合軍による、日本への都市空襲の残酷性だが、1983年の淀屋橋から肥後橋までは、ビルが林立していても、肥後橋をすぎ江戸堀から土佐堀にかかっては、まだ、空襲による、被害が、そのまま残っていた時代である。 インド大陸をふくめ、アジアを奴隷下した、欧米連合軍による、画策により、日本は嵌められ、敗戦後の乏しい資金も、つぎつぎGHQ連合軍に略奪されながら、企業は日雇いで、労働力をまかなおうとした。この負荷が、戦後、65年以上たっても、続いている。 働く人間かどうか、働けるかどうか、労働者を、弁別、采配してきた、数多くの異なる暴力団が住む、あいりん地区は、昔から、覚醒剤などの売買で、収益を上げてきた。が、21世紀に入り、大不況となった日本において、搾取も、そう簡単で、なくなっただろう。 2)医療扶助や製剤で収益を得る制度 病人を心身から治してゆく医療方針をとる、黒川渡さんは、医療扶助を求める、患者にたいし、「まだまだ、働けます」と診断してしまう。 西成の、生活保護費が目的で、病人だと主張してくる労働者を、社会参加させ、生きがいを見いださせようとする、黒川さんの、医師としての良識が、既存の権利を守ろうとする悪徳の医師と政治家に弁護士を加え、金だけの、現在の制度を否定してしまうもので、死を前にした、弱者を救おうとする医療精神と関係の無い、暴力団の組と組の抗争などに巻き込まれると、身体が危険なため、わたしは、白水倫生さんへも注意を言っていた。 1996年の暮れ、きちんと判断する能力のなく、出世が一番と言う、教条的な両親に育ち、薬品名を書くことが医療と考えている「福井次矢」医師を批判する、白水さんに、福井って、誰と聞くと、「教授」と言う。 「ごっつう、勉強ができるねん」と播州弁で言うので、わたしの世代、1951年、1952年生まれは、毛筆で成績順を書く、駿台予備校の公開模擬などで、理系は20番以内を競争してきたため、勉強だけが、取り得だと説明した。 同じころ京大病院に居た、黒川さんは、2003年になり、「(ええっ、まさか、、、?)」と驚き、少し首を傾ける表情をして、「福井先生、知りません?」と、いつもの、ゆっくりとした言葉づかいで、尋ねてきた。 わたしは、福井さんの論文は見たが、人物を見た記憶は無いと返事した。白水さんの表現と、論文からだが、福井次矢さんは、人差し指を動かしてから、中指を動かす、教条的な性格だと思う。 言葉と言葉に時間をかける、黒川さんは、わたしとの議論の場では、中指を、人差し指より、先に、動かそうとする。白水さんもそうである。 1970年安保反対運動があったころからだが、理系の20番以内を連続とっていたものでも、定員90名の東大医学部に合格しないので、東大向けの、駿台予備校の信頼度がなくなってきた。1969年、予備校で知り合った、浪人生が、高校二年のわたしへ相談を向けてきたので、入試問題漏洩にふれ、問題を作成している教員がいるからと説明した。 このころの東京だが、女子のばあい、東大より、大手商社に入社できる、青山短大が、難しく、フランス語などの外国語ブームがあり、大学の、英語やフランス、ドイツ語担当は、私塾を開き、入試問題と類似したものを、教えており、東大もだが、類似問題を練習してきたものが、合格できた。 3)東京人に通じない播州弁 京大病院でも、患者を薬漬けにする医療が横行し、利益優先の、1990年代の医療に対し、とうじ30代だった白水倫生さんは、「このままやと、医療制度が壊れてしまう」と言う危機感を、絶えず、言っていた。 それで、福井次矢さんを採用したのは誰かと聞くと、「北徹先生や。北先生、福井が、臨床できると思たんやけど、でけへんって、わかったから、怒り出してん」と、京大内科の揉め事を、21世紀になり、播州弁で言う。 わたしは、行動力の強い、ベビーブーム世代、1947年生まれの北徹さんには、1951年生まれの事大主義の福井次矢さんなど、敵う訳がないと言った。 京大の内科の人事が、能力主義でない、例証として、わたしは、母の主治医だった、藤原久義先生のことを言った。そして、病人は、研究熱心な名医を探し求めるのだから、良い先生がひとり居る、医療機関で、実践を基に、仕事をしてゆくのが、人生をムダにしない事だと言った。 白水さんは、わたしが藤原久義先生の京大講師時代を知っていることに、おどろいた様子で、「藤原先生、岐阜大で教授になったんやけど、同期で、一番先やねん」と、播州弁での、尊敬語の抑揚を使い、言う。 京大から、京大研究科と11年以上在学して、京大病院で無給医を10年つづけた、若い白水さんは、いろいろ理想を述べるが、1984年以降、ベッド生活が大半となり、京大へ家族の付き添いできた、病人のわたしに、医療制度の改革などできる、余力など、まったく無いと言った。 白水さんは、大学院の後半、遺伝子研究から、内科系へ専攻を変え、勉強熱心で、医師としての病気を考えてゆく思考力はあるので、当人の希望から、本を作ろうと考え、表現の訓練のため、わたしから、精神医学と内科学を質問し、テープ録音してゆく方向を取った。 本一冊は、充分できるほど、録音したものを、大阪北部の高槻に育ち、神戸大学で10年ほど過ごした黒川さんとの会話の、言葉は、ふつうに、理解できる妻に聞いてもらうと、「この人、どこで育った人?」と尋ねてくる。 白水さんの母は、学制の変化で、女学校(福井)は、妻と同じ学校になる。神戸市北区の出身の白水さんは、中学、高校の6年間、わたしの父方の祖母、高砂市阿弥陀の、「白陵」の寮で生活し、この地域は、祖母の姫路言葉にあたる。 東北や関東出身で、東京で大学生活を始め、東京人となった、編集者に聞かせると、わたしの言葉をふくめ、「二人が何を話しているか、まったく、わからない」と言う。 白水さんが、わたしを前に自由にしゃべった、神戸に姫路からの、環境言語は、わたしと似ており、わたしには、まったく抵抗がなく、このことが失敗となった。 内科での、医師に病状を告げる、頭がずきずき、がんがん、もやもやして。心臓がどきどき、ちくちくとかの、オノマトペ(擬声語)の共通理解は、難しく、精神医学がからむと、非常に難しいと思っていた。 が、西洋医学の共通知識は在っても、環境言語を等しくして、精神医学の領域を、話し、関東圏の知識人が、理解できないものであれば、出版の商業権が、東京となっている現在、不可能になる。 わたしに体力があれば、ひとり、ふたりの力量のある播州出身の内科系を加え「播州人だけの内科講義」として、本にして、放っておき、歳月がきて、理解してゆこうとする人が読めば、立派な医学とわかるだろう。 わたしが白水さんの言語表現で、注意したのは、2008年はじめ、京大病院の人事が原因だった。 「病院長の人事は?」と、わたしが聞くと、自分自身の先生を、「福井」と呼び捨てにする、白水さんが、「中村先生」と言ったので、2003年、阪急電鉄の駅の女子トイレで、デジカメをつかい、デバガメをし、逮捕された、恥さらしの中村孝志に、先生を付けるのかと、言った。 4)日高六郎に似た、手のライン構造 黒川渡さんの、医は仁術であろうとする姿勢を慕った、若い医師が、医師同士の、あるいは暴力団がらみの、既得権の争いの事件に巻き込まれ、くろかわ診療所の黒川さんはじめ、白水さんも、複数の医師が、犠牲になったのかと思った。 「矢島先生が亡くなったんや!絶対に事件なんや!」との河内弁だが、黒川さんの風貌なり、人柄を知らない人物が読むと、大阪の中心部から南河内の医師を想像してしまうだろう。 わたし自身、黒川さんから、このような、河内弁の発語を聞いたことが無いので、どのような状態での、表現なのかと思った。 黒川さんの、雰囲気だが、日本の著名人では、東京大学の社会学者「日高六郎」さんに、似て、きわめて、温和で、柔らかな話し方をする。 ゆったりした日高六郎さんを知る人は、ヒステリックに絶叫する日高さんなど、まったく無縁のもので、想像など、できないだろう。 これらからも、活字と言うものは、人間の表現の一部しか、示さないもので、誤解を生みやすいものだと思った。手のライン構造も、黒川さんは、頭脳と体をつかう日高六郎さんの複雑なものと類似し、出現率は非常に少ない。 「西成、女医、殺人容疑事件」「さっちゃん先生殺人容疑事件」との要項が記載されたペイジが在り、「黒川渡、、、インタビューを拒否」とか、黒川さんへの非難めいた言論に気づき、黒川さんは、生きている事がわかってきた。 被害者は、崇高なクリスチャンとしてあろうとする使命感から、純粋すぎる医療奉仕を人生の目標とされた、女医と分かった。わたしや黒川さんの娘でも良い、34歳と言う、女医の経歴なども、2007年に聞いていた。そのため、殺害された事実を、信じようと思っても、わたしの脳裏は、簡単に過去形へと進まない。 5)診療所へ3年ぶりの電話 午前中の診察が終わる時刻まで待ち、午後再度、電話を入れると、急患のため、往診とのことだった。 わたしは、黒川渡さんが、「白水君だけでなく、ボランティアで知り合った、良い女性の医師が勤務してくれるようになったため、少し余裕が出来たんです」と、京都のわたしの所へ、来てくれたときの会話を、思い返していた。 わたしが、ご両親の意向は?と聞くと、「理解のある、ご両親です」と黒川さんは言い、結婚相手は?と聞くと、「しないような、、、」との返事を得ていた。 わたしは、黒川さんと、矢島祥子女史との事で、2007年、サウジアラビア人の18歳の女性が、患者として来た時の話しも、記憶から出てきた。 黒川さんは、女の子だから、最初、矢島さんに、診てもらったら、次に来た時、父親が、ぼくに、娘の診察を頼むと言うのですよと、黒川さんは、イスラム圏の男親が判断した、日本の医師への言動を、わたしに言った。 黒川さんは、イスラムと言う、宗教圏の異なりがあっても、男親から、医師として人格を信頼されたと言う、こういった事を誇りに思う性格をしている。 わたしは、宗教の違いについて、1980年代後半、日本がバブルのとき、外国人の流入が増え、イスラム圏の患者も出てきたけれど、病気のときは、男女変わりなく、東大や慶応でも、名医を、求めてくるとの、事実を言い、担当医を代えられた、女医さんは?と聞くと、「いえ、そういう事にこだわらない人、だから、、、」と、黒川さんが、かるく受け流したので、黙ったことを、思い出していた。 2時の診察まえ、電話を入れると、「久しぶりです」と黒川渡さんは、以前の調子で、明るく言う。 わたしは、新聞もテレビも無い生活のため、事件を、今日気づいたけれど、むごい殺害と言うと、「ええ、そうです」と回答する。 つづけて、被害者となられた、女医さんの、ご両親に、ご家族の苦しみと、黒川自身へも、想像していなかった、とてつもない事が起き、健康を尋ねると、「変わりありません」と丁寧に言う。 マスコミの報道、間違いだが、黒川さんが、加害者みたいな報道だけど?と質問すると、「はい、そう」と肯定し、わたしが黙ると、「わかってくれる人は、わかりますから」と諦めのはいった口調で言った。 わたしは、現在の、正直であろうせず、自分たちの金儲けのため、ただ時間を奪うマスコミの取材は、いっさい拒否すること、患者さんの治療を大事にと言い、黒川さんと矢島祥子女史との、エピソードで、「アラビアの女の子の患者さん」と言うと、いつのことか、わからない雰囲気だったが、思い出し、「ああっ、ええ、ええ」と言った。 6)21世紀の、京都のホームレス 黒川渡さんさんが、京都のわたしの所へ、いつ来てくれたのか、手帳を見ると、2007年6月3日、日曜日の夜となっている。 矢島祥子女史について、手帳に、記載している事だが、わたしの兄の第一子は1975年3月生まれで、そのころと、思っていたが記載はなく、群馬大学医学部出身、沖縄県立中部、そして、大阪の病院に勤務した履歴とボランティア活動をしていたときなどがあり、氏名などは、「矢島さん」「結婚しない様子」とだけ、書いてある。 この2007年6月の、黒川さんだけれど、来てもらった、ひとつに、2004年以降、アトピー性皮膚炎を顔中発生させ、言動がひどく乱雑に変化してきた白水倫生さんの、医師としての姿勢について、わたしからの質問にもあった。 黒川さんと矢島さんは、ホームレスや、野宿者への夜回りなどをボランティアでしてきた。 わたしは、21世紀になり、京都で、増えてきた、ホームレスにたいし、実態を知ろうと、夜7時ごろ、バスや地下鉄に乗り、北は岩倉や上賀茂、西は嵐山、南は京都駅辺りを、スタート地点とし、三条か四条の方へ戻ることをしていた。 1970年代だと、社寺と家庭の明かりを印として、歩き間違いなどしなかったのに、21世紀の京都は、24時間営業の、コンビニに飲食店のライトにより、方向を間違え、夏は、日付が変わり、帰宅が3時をすぎ、6時になる日も続いた。 10時間近く歩くわけだから、足は、踝も、膝部が持たなく、脚絆を、包帯や紐で作り、歩いていた。 わたしが脚絆を考えついた、昔の人は偉いと言い、京都の北山の方で、山裾を歩くばあい、木々や草が多く、手を切るため、手の甲を守る、布をつぎつぎ工夫していると、「(農家の)おばあちゃんが、していた」と妻は言う。 体調が悪いと、すぐ重体状態になる、わたしは、ベッドで、倒れていればしまいだが、仕事のある妻に悪いと思いながら、続けていた。 1970年代、浮浪者は、神社や古びた寺の、軒下などで見ることができたが、21世紀になり、2002年には、不況と、火事への用心のため、神社であっても、門を閉めているところが多いと感じた。 女性のホームレスを、市中で、見られるようになったのも、このころで、見つけると、白水さんに連絡していた。 ホームレスは、寺町通りを中心として、東西の通りに出現してきた。救済して欲しいと白水さんに連絡すると、「女性、、、? 大変や」が、白水さんの返事で、わたしは、京都に救済センターか何か、医療センターが在ると思っていた。 連絡先が、大阪の黒川さんと知ったのは、白水さんの言動が、わたしへの人権侵害を越え変化してきた、2004年の後半で、京都には、ボランティアからなる救済センターなど、無いと知り、京都府や京都市の公共機関に勤務する人は、何を考えているのかと思いだした。 7)松田道雄を非難した和田春樹 医師の基本を、患者へは、平等に診察することにおいた、奈良市の「おかたに会」の、岡谷実先生を、尊敬する、1960年代生まれの白水倫生さんは、医療はゼニとの聖路加国際病院の日野原重明さんと、京都で中央診療所を開いた、松田道雄さんを、同じように考えていた。 事象は、同時代でも、理解しにくいどころか、誤解をされている事が多い。 松田道雄さんは、京都の小児科と、町医の歴史で、重要な人物であり、結核と小児マヒ治療で知られる。 1970年代はじめ、わたしが見学に行ったときの中央診療所は、錦市場を上った所に在り、黒い木造で、事務の仕事が、通りから感じられる、町屋そのものだった。 中央診療所の女医さん、看護婦さんも、医師や医療に恐怖を抱く、子供たちの心を安心させるような態度で接し、スリッパなど、畳を編む、イグサ製だった。 わたしの母は、1950、60年代、病院で、わたしの履く、ビニール製のスリッパを、金属のシャーレに入れた、消毒液を浸したガーゼや脱脂綿で、拭いていた。そのため、わたしも、病院のスリッパ類を、拭く癖があり、中央診療所のイグサのスリッパを見たとき、どうしようかと思いながら、医師たちが、笑顔で、迎えてくれていたので、消毒行為などすると、変に思われると思い、そのまま履いたことが記憶にある。 診療所は、廊下に絨毯はあったが、イエのつづきのように、和風であったことを言い、わたしの先生の、奥様は、肋骨の摘出手術を受けているが、京大農学部のそばに自宅がある、北白川まで、松田道雄さんは、往診しに来ていた事を、白水さんに説明した。 松田道雄さんの医療への姿勢は、1970年代の医学関係者は、誰でも知っており、山田忠男先生が、1970年代の不愉快な出来事として、「松田さんは、わたしと同様、趣味で、ロシア文化を紹介しているのですけれど、ロシア語の専門家の『和田春樹』から、誤訳をしていると、非難の指摘をされ、ほんとうに、こんな人が、居るんですね、、、と、ずいぶん辟易していてね。まつだ君は、どう思いますか、、、」と,冷ややかに、笑みを浮かべ、尋ねてきた事があった。 このとき、文章は、日本語であれ、翻訳であれ、読者に、読む気を起こさせる中身が充実したものかが肝要で、「左欲」の立場を声明すれば、自分たちは正義だと考えている、知ったかぶりの和田春樹さんの文章は、読めない代物と返事した。 京都は、日本語表現が巧みな、ロシア文学者も多く、わたしの発言は、1970年代後半、専門家たちに肯定されたと、山田忠男先生が言っていた。 8)奈良、「おかたに会」と、島田仁郎長官 「おかたに会」へ。2004年3月ぐらい、「おかたに会」に、帯状疱疹の患者が居たと思う。この男性は、奈良女子大で、物理を担当していたと言うが、停年のストレスで、罹患したと、わたしは思った。「おかたに会」、岡谷実先生の医療精神を敬うのであれば、公開すればどうか。わたしは、欲だけで京大病院に居た、弟子を育てられない日野原重明、福井次矢教授たちに、反抗している、白水さんのため、左眼の失明を覚悟していたのだ。 帯状疱疹の患者をみると、男性で停年の緊張から、発症した人たちが多いと思い、家族への感染から、感染症でもあると判断していた。 そして、この時期、白水さん自身も、極度のストレス状態と感じていたので、わたしは、この理由を、白水さんに、質問をしていたが、返答が無かった。そのため、黒川さんに来てもらった。 「白水君、あのころ(2004年)離婚をして、、、。知りませんでした?」と黒川渡さんは説明した。わたしが、製薬会社の重役の、お嬢さんと言うと、「ええっ、あの人は、、、」と、少し俯き、白水さんの気持ちも、分かるふうに言った。 わたしの嗅覚は、犬や猫などに、とてもかなわないが、ふつうの人より、過敏で、白水さんから、母乳のような、ニオイを感じ、赤ちゃんでも生まれたのかと思った。新生児は、はしか、疱瘡などを発症し、わたしは感染してしまうので、白水さんを危険だと思っていた。 「白水君、再婚をして、去年、赤ちゃんが、、、」「白水君、おかたに(会)には、世話になっているという考え方を、、、」と黒川渡さんが、言ったので、黙った。 人のインフルエンザウイルスを、家畜に打ち、感染した家畜が出て、そのインフルエンザウイルスを、人に打ち、日本国家から、ゼニを奪ったのが、「豚インフルエンザ」のUSAアメリカである。 現在、「鳥インフルエンザ」、牛や豚の「口蹄疫」で、大騒動をしている日本だが、寛容な国の、日本は、フィリピン人の母、日本人の父との間での、子供の国籍問題の「婚外子国籍確認訴訟」を、最高裁まで持ち込み、その結果、2008年6月、中庸な物の考え方をするように見える、島田仁郎長官が、原告へ日本国籍をと認めた。 中国、台湾、フィリピン、パプアニューギニアは、1940年代まで、人食い人種が居た。彼らは、霊を食べないと、復讐に来るからと、相手の脳を食べてきたが、ここから、感染症の歴史の考慮もあったと思いたい。発生というのは、どのような経路をたどるか予想がつかない。もし、フィリピン人の母親が、人食い人種の血統で、日本人に感染して行ったとしたら、島田仁郎長官たちは、どういう理性を働かすのか。 9)警察官対策のための京都の山段芳春 1月18日、矢島祥子女史殺害を知った、午後2時に、黒川渡さんとの10分ほどの電話のあと、許せない行為への、心身への痛みか、わたしは意識を失い、ベッドの状態となった。 意識を取り戻し、どうにか起き上がりパソコンに向かった、20日の午後、「やじびん(矢島敏)」とある日記から、この人は、被害者の祥子女史の長兄とわかった。 矢島敏さんの、日記をみると、医師である両親と、兄弟と共に、祥子女史を自殺と発表した、西成署へ、他殺だと抗議を繰り返している事柄があった。 西成署は、生体反応と言う前の、遺体の状態から、明らかな、他殺とわかっている事を、なぜ、自殺との歪んだ意見を、長く変えれずに居たのかが、わたしには理解できない事だった。たとえば、ひき逃げされた被害者を見て、仕事の過労による自殺という警察があって良いのか。 愛娘の、殺害の真実が知りたいとする、家族にたいし、狂った返答をできるのが、第二次世界大戦で、敗戦した、日本の警察の実態である。 日本はUSAの隷属下となり、USA帝国主義は、日本社会の混乱をねらい、第二次世界大戦前に採用された、町や村を代表してなった、日本の歴史を知る警察官を辞めさせるため、1960年代、東大出であれば、20代と、若くても、すぐさま地方の警察署長とすることにした。 1960年代まで、警察、教師、役所勤務だが、高い給与など取ると、日本の財政が持たないので、日本社会の基本の農業を知る、食費のかからない、農家の子息を選んできた。そして、老後のため、褒美として、多少の恩給がついた。 ところが、日本は、欧米からの、輸入品を多くする、「減反政策」をし、農業を軽んじ、兌換の金だけを優先する、今日の社会を作ってしまった。 即席の「左欲」に原因があるが、警察を「右翼」のような風評をつくり、若く出世だけが希望の輩の官僚社会をつくった。 このため、多少の勉強だけが取り得のバカに、敬礼をしなければならない日々を嫌った、町や村を守る使命を持ち警察官と成ったひとたちは辞職して行った。この結果が、現在の姿である。 亀井静香、野中広務さんなど、国会議員との関係が深かった京都の黒幕と言われた人物に、京都府警上がりの、山段芳春さんがいる。あまり報道されていないが、松野頼三、宮沢喜一、竹下登さんなども、交流があっただろう。 この人物は、ふつうヤクザ対策として企業が使ったと報道されたりする。が、じっさい、企業は、警察官対策に使った。 1960年代、クルマ社会となり、交通ルールが、よく変化した。これらに慣れない会社員が、不良の警官にからまれると、会社が運営できない状態となる。このとき山段芳春さんは、警察の裏ルートを使って、警察官の言動を、抑制した。 警察上がりの、あくどさは、よく指摘されるが、2002年、暴力団がらみの、土地ころがし、ゼネコン談合のとき、安芸の宮島では、船から現れたと聞いている、政治家の息子が、2004年2月2日、庄原市北町のトンネルで起こした事故は、一昔まえだと、ひき逃げか、もみ消しだっただろう。 10)NHK長谷川浩殺害事件 2001年10月、わたしの血縁、桑名藩出自の、NHKの長谷川浩だが、NHKの上部は、長谷川のイエが、東海銀行に、富士銀行はじめとする創業のイエであることを知っていたはずである。 9月11日の、USA「世界貿易センタービル」同時テロで、日本の金融マンたちも犠牲になった。長谷川浩も、わたしたちの血縁の犠牲数と、ならびにNHKの若い部下たちから、これはアメリカを支配する、ユダヤ系の策略であるとの意見をきき、番組制作への希望を、責任者として、受けていた立場であることは、NHKの、誰もが、わかっていた事である。 明らかな、長谷川浩殺害を、NHKの「島桂次」路線をついだ、海老沢勝二などによる采配とは、NHKの職員から流れてくる言葉なのに、警視庁渋谷署は自殺と報告した。 職場を神聖なものとして考えるのは、常識だし、わたしは、長谷川浩へ、連絡など、いっさい、したことはないし、長谷川浩からも無い。 幕府の判断は、大政奉還の頃、戊辰戦争の開始をみればわかるが、農作に迷惑がかからない時期をえらんでいる。 東海道一の宿場町を、無血にし、桑名藩は、陣地を移動させ、飛地領の「柏崎」でも、会津藩とともに、戦った。このとちゅう、戦いを止める、老中たちは、つぎつぎ、責任を取り、切腹していった。10代の白虎隊で知られる、会津藩の20代以上の行動も、会津を犠牲にし、戦いを、会津で止めることにあった。この歴史を知り、この血統をひく、長谷川浩が、自殺をするなど、無い。 職場は、共有のもので、大切だと考えていた人物が、自分自身の職場で、自殺などするのか。番組制作で、自分自身や部下が起こした、ミスの責任であるなら、長谷川浩は、辞職願いを、すぐさま出しただろう。 NHKは受信料金問題も含め、報道をみるかぎり、客観性に欠け、報道の精神など無い、集合体なのだから、国鉄、NTTと同様、解体していて当然である。 11)窃盗に詐欺常習、悪党・中野逸人の言いなりの大阪府警 わたしが、この「京都昨今」を、書き始めた、契機は、2006年2月17日、午後3時45分、わたしへの窃盗に詐欺を連続させる、金山工務店勤務の、中野逸人さんのデタラメの申し出を、鵜呑みした、大阪府警、吹田署の、自称、刑事課の広兼(ひろかね)警部から、わたしをからかった、言葉で、任意出頭との、要請電話が在ったからである。 広兼警部の、確認とかの電話に、加害者なのに、被害者風に応じたのが、鹿児島の甲南高校1973年卒、レイプ魔、マスコミ病の新日本石油関連、新日本石油マリンサービスの前田博司さんだろう。 わたしの名前で、マスコミへ電話できる、前田博司さんは、1994年、朝日新聞社の雑誌が、「新潮社の盗作商法」を特集したとき、被害者のわたしと並び、高校の担任で、西郷南洲顕彰館の山田尚二館長の名前があったため、会いに行ってきたと言う。 河出書房新社の重役で、わたしの担当、小池信雄さんに、この新潮社による被害の偶然を言うと、「重役会で問題になったんだけど、新潮社が、盗作を認める事になった、西日本新聞へ盗作記事掲載までの経緯を調べてくれない?」と言うので、新聞社に、教え子がいるんじゃないですかと答えたが、「連絡とって欲しいんだけど」と言う。それで、わたしは、前田博司さんの事をかき、山田尚二さんへ、手紙をかいた。 山田尚二さんからは、掲載された新聞のコピーに、赤ペンで、一行、新聞社へ連絡しただけですと、あった。この筆記から、前田博司さんへ電話を入れ、担任ではないと注意した。何度と厳しく言うと、「担当だ」と前田博司さんは怒り言いかえす。それで、すぐれた教師は、生徒の事は記憶にあり、担当でもないと言うと、「夏休み、補習の先生だった。甲南では有名な先生だったからだ」と大声で叫ぶ。 悪党どうしは、連結する。前田博司さんへ、警察から、連絡を入れさせたのは、木島喜一弁護士だろうが、2010年10月5日、大阪弁護士会は、木島喜一弁護士を、懲戒、退会させたと在る。 中野逸人さんは、1975年初夏、わたしが京都御所で、寝転び、休んでいると、「マツダ、マツダ、ぼく、フォーク知らんねん。誰の、レコード買えばよい」と話しかけてきた。「吉田拓郎か井上陽水」と返事すると、「マツダ、ぼく、小椋佳にしてん。この人、東大やもん」と言う。 梅雨に入って、蒸し暑い日、大阪拘置所に入れられている布哇寮の学生運動家たちに、差し入れの本と思い、学生会館の生協で思想書を10冊ほど買った。わたしは、遺伝子データの解析で、連日徹夜がつづいた頃で、寮までの、1キロの道が、非常に長く、暑さが厳しく、感じられる日だった。 布哇寮に着き、名前を呼んでも、誰も、返事をしない。雨粒が残る、モダンなベランダから、緑が繁茂した庭を見ていた。 寮の中から、女性の声がした。今出川通りから、道路舗装もまばらな、幅2メートルもない、寺町通りを歩く、わたしに気づいたのだろう。寮母さんのような人が、「全員、捕まってしまって」とだけ言い、布哇寮から、去った。 1971年ごろで、地方から来た、学生は、警察官と機動隊の区別がついていなかった。また、1970年ごろ、学生運動に参加したのは、京大や同志社で、100人にひとりの割合もない。99%の学生が、無関心だったと言ってよい。 「左翼」の学生運動家たちは、捕まることのない、「べ平連」のデモなど、学生運動では無いと判断していたし、フランス文学の桑原武夫先生宅が近い、此春寮にも、布哇寮と同じく、拘置所生活が、学生運動家だからできる純粋な証、と考える学生たちが居た。 梅雨の半ばとなった7月のはじめ、布哇寮の庭をみながら、5月に、大学へ進学させれくれた両親のことを思い、暴行に当たる行為はしないようにと、なんのために、二度、三度と時間を割き、注意をしに来たのかと思いながら、誰もいない、庭だけ見つめる時間をすごした。 布哇寮からの、疲労感が抜けない、京都の梅雨の7月、晴れた日、御所で寝転がっていると、また、中野逸人さんが、「フォークとポップス、どの人のレコードにしたらええ?」と聞いてくるので、同じく「拓郎か陽水」と答えると、「マツダ、マツダ、ぼく、『さだまさし』にしてん。この人、国学院やねんもん」と言いにきたので、もう二度と来ないで欲しいと言うと、「うんこ、うんこ。うんこ出てしまう」と騒ぎ出した。 2006年、大阪府警、吹田署からの件を、注意していると、小学生になる中野逸人さんの子供が、電話口で、「うんこ、うんこ、うんこ」と、脚踏みをしながら騒いでいる。 放っておいたら、どうかと言うと、「ここで、うんこするねん。(前妻の子の)真吏とちごて、アホや」と、自分自身の子供すら、見下すの口調でいうので、「手のラインを見てみろ。躾ないからだ」と言うと、「あっ、どないしょ。(再婚相手の)裕子といっしょやったのに、ぼくと、いっしょの、手になっている。どこでもする、ぼくの手といっしょや、どないしょ、マツダ」と言う。 12)大阪府公安委員会へ、捜査依頼の努力 1月20日、祥子女史の兄、矢島敏さんのブログから、報道番組の映像があることがわかった。 見てみると、「(西成区へ)来て、とても、つらかったんじゃないですか」「だから、自殺だったんじゃないんですかって形で、最初に警察に言われたんです」「辛い思いをしているとき、(警察官が)4,5人寄ってきて、自殺の可能性が一番高いよね」と、高崎市上大類町で、病院経営をされ、地方の名士である、内科医、矢島祥吉さんは、警察に、無礼きわまりない事を、言われたと言う。 「さっちゃんの会」を立ち上げられた、父、矢島祥吉さんは、警察が、真相究明の、捜査してくれるよう、署名活動をされ、『大阪府公安委員会』へ、9月14日の、朝までの、4830人分の署名と、要望書を提出した(共同通信、2010年9月14日)。この結果、自殺と他殺の両面捜査と言うことになった。 警察の発表の基調は、祥子女史は、2009年11月14日午前4時15分すぎ、「くろかわ診療所」で、「混乱」し、セキュリティーを止めず立ち去ったあと、祥子女史は「自宅アパートから失踪」して、14日午前に、木津川で自殺をした。そして、16日午前1時すぎ、水死の状態で、発見されたとのことである。 警察から、家族への説明は、2010年は、9月14日、12月1日、12月22日の3回あり、12月22日は、他殺説で、捜査らしいものをしたけれど、分からないと、又野弘人課長に言われ、祥子女史の母、晶子さんは、「左目が内出血」する抗議をされ、2011年2月3日、「粗末な説明」を、又野課長から受けたと、矢島敏さんの2月4日の日記にある。 「自殺」が基調の警察に対し、祥子女史の、ご家族が中心に、立ち上げられている、「さっちゃんの会」「さっちゃんの会を応援する会」の二つは、最後の居場所が、「くろかわ診療所」であり、祥子女史は14日午前4時15分すぎ、拉致の状態に近い形にされ、15日ごろも、生存していた可能性を主張されており、セキュリティー作動については、事件関係者が 発動させ、逃走したと主張されている。 13)母、晶子さんの、「生体反応表現からの殺害手順」 小児科医の、母の晶子さんによると、祥子女史の生体反応が、顔の右額、右手の甲、右脚の脛の部位にあったそうだ。 これらの傷だが、祥子女史が、自転車のハンドルを握り、乗っていて、計画殺人者に、左から右へ、薙ぎ倒されたときのものだろうと想像できる。 鶴見橋のくろかわ診療所から、長橋の祥子女史の住居まで、L字の、直線の合計で、700メートルある。 犯行は、国道26号線側そばの、くろかわ診療所の、自転車置き場を出たところとか、明かりがあり通行人が来る可能性の高い鶴見橋商店街より、人気が無く、殺人者たちが出没していても怪しまれない「長橋公園」や、「長橋小学校」の方が、良いのではないか。 2009年11月13日(金)、午後10時すぎ、黒川渡さんと、看護士が、祥子女史を目撃したのが、最後の姿という。 午後11時18分、防犯システムが作動し、外出した記録が、祥子女史の、カードに記録されているという。そして、20分ほど経った、午後11時37分、防犯システムを解除させ、入室した様子とある。 つづいて、翌、14日(土)、午前4時15分、祥子女史が、防犯システムを作動させ、その直後の、午前4時16分、警報機が反応したという。 思考を変えてみる。仮に、この13日(金)午後11時18分の、雨の日、祥子女史の外出が、くろかわ診療所からの、最後であるとしたら、どうだろうか? 祥子女史は、自転車で、700メートル離れた、住居に向かった。その途中、殺害者に襲われたのだろうと仮定する。 くろかわ診療所を鍵で閉め、アパートへ帰宅の、左手に傘、右手ハンドルで自転車に乗っている、祥子女史を、偶然会ったふりをして、挨拶をし、止まらせ、道路へ、薙ぎ倒すことは、簡単だし、走行中でも、足で蹴ったり、後方から手で、払えば、自転車は倒せる。これは、ひとりでもできるが、もうひとり、見張り役でも、居れば、より、し易い。 転倒した、祥子女史を気絶させ、すぐさま、もどり、くろかわ診療所へ着いたのが、19分後の午後11時37分で、計画犯は、くろかわ診療所へ入り、目的物を探した。 そして、翌日となる、14日(土)の午前4時15分まで、4時間以上、目的物をさがし、防犯システムを作動させて、診療所の鍵をかけた。 ところが、思い返すものがあり、すぐさま、診療所の中に入り、防犯システムの解除を忘れていたため、警戒センサーを動作させてしまった。センサーの動作を知った、計画者は、あわてて、くろかわ診療所から、去ったと考えれば良いのではないか。 犯行が、2グループに分かれ、なされたとすると、同じ時間帯の、13日(金)23時37分から、14日(土)4時ごろまで、4時間30分ほど、くろかわ診療所と、祥子女史のアパートで、目的物を、探していた。このような考え方だと、無理がない。 祥子女史だが、13日23時18分すぎ、祥子女史へ危害を加えたときは、別の場所で保存し、アパート近辺の人気の様子をみて、アパートにカバンと往診道具などを置きに行ったのだろう。 祥子女史の、後方から首を押さえた跡と、木津川での遺体の姿勢からだが、この犯行には、祥子女史の体を、水死のように伸ばせる、空間が必要となる。 水死にみせかけるため、首をもち、洗面器かタライにはった、水中へ、沈ませたと考えても良い。 そのため、腕が、地面へと、下がり、伏せた状態なったままでの、死後硬直がはじまり、時間経過をみて、仰向けの姿勢にしたと思える。 より完璧な実行のため、遺体を保存した場所を、遺体放棄の行動と、考え合わせる。最終場所の限定として、くろかわ診療所から、西へ直線1.5キロメートルほどの土地を見ると、「西成高校」、「西成公園」、「津守下水処理場」など、大きめの公共施設があるから、この辺りも、殺害計画を遂行する場所として、考慮が必要だろう。 遺体発見場所は、大阪市の、木津川、「千本松」、渡し船で、遺体を木津川へ、西成公園の周辺から、2キロ〜1キロ、下流の地点となる。また、祥子女史の自転車は、渡し船から、上流2.5キロにある、市営住宅の駐輪場で発見されたと言う事などとも、合ってくるだろう。 遺体発見時は、11月16日(月)、午前1時20分と言う。動画による、発見者や、祥子女史の、ご家族の表現から、祥子女史を、木津川へ、投げ込んだのを、たとえば西成公園近くの、木津川べりとするなら、11月15日、日曜日の夜半、人通りが、無くなった時刻だろう。 計画殺人者たちにとって、予定していた発見は、遺棄後、6時間以上経過した、朝方以降で、大阪湾の方だったのでは、と考えることもでき、自殺にみせようとした犯行者たちの、予想していなかった事は、遺棄、2時間ぐらいして、発見されたことにあると考えることもできる。 靴下を履いた祥子女史に、女史のものと断定できない片方のスニーカーが、と在るが、計画犯行者は、通常、日本人が、川へ身を投げるとき、靴下を脱ぎ、靴を揃えてから、行なうのを、知らないのだろう。 14)警察の奇妙な自殺説と、「殺人を示す生体反応」 西成署の、勤務の過労による自殺発表は、あまりにも奇妙である。医師が3人ほどの、小さな、くろかわ診療所で、夜を通し、カルテの整理に専念する仕事があるのだろうか。 西成区周辺の病院や医療機関の経理を調べれば良いが、単なる、医療収益が目的であるなら、祥子女史を消せば良く、部屋や診療所の「鍵の束」、持ち物なども、捨てればしまいである。14日(土)にはアパートのドアが開けられており、鍵の束が見当たらず、15日(日)には、冷蔵庫の上に、鍵の束が置かれてあったと言う。また、部屋の指紋消去の行為なども、通常だと、診療所の人たちの行動が予測できても、目撃や逮捕につながる危険がある事はしないだろう。 計画者たちに必要だったのは、祥子女史が、診察や往診で、筆記しているのではないかと思った、患者の履歴だろう。患者が、どこの医療機関にかかり、どのような治療法を受けたとかの、ニセ診療について。あるいは、金づるの患者たちを、拘束している、手配師の、知られたくない元締めなどが推測できる要項だろう。 考えると、16日(月)の、午前1時20分の発見だが、警察署に警官が待機しない日時での「死体発見」である。強姦の痕跡がなく、ズボンのポケットにサイフと携帯電話が在ったと、簡単にいうが、サイフと携帯電話が無ければどうなるのか。他殺を自殺にできる、交番の警察官たちの人員も計画に入れた、通報であれば、どうなるのか。 動画でみる、祥子女史は、細身で、群馬県高崎市で、小児科医をつとめる、母、晶子さんも、細い方である。 小児科医は、新生児から子供を診察する専門家であって、赤ちゃんの首に関して、晶子さんは、詳しく、普通の内科医など、かなわない。まして、ご自身の子である。 後頭部の高さ3センチというタンコブは、水死にみせかけるため、洗面器やタライなどに顔を漬け、殺した、打撃痕だろう。 祥子女史が、亡くなった時刻だが、頭部へ、打撃を与えた時刻だと、13日23時18分すぎとも、想定できる。 警察発表では、過労による自殺で水死の、祥子女史の、遺体について、「ここにね、明らかに、なんか、こう、紫色の跡が在ったんですよね」「ほんとに、きれいでしたね。眠っているかのように」と、長兄の矢島敏さんは、表現する。 これらの言葉から、祥子女史は、タライなどに顔を漬けられた後、硬直がはじまってから、長くない時間に、仰向けにされていたものと、考えてよいだろう。 ご両親も、長兄の矢島敏さんも、遺体の全体を見られている。この知見に、致命傷となった、頭への打撃、祥子女史の頭蓋骨の解剖所見と、手のひらと指の形状、肘までの、死斑だけでもあれば、殺害経過を、推定してゆける。 母、晶子さん、敏さんの言葉からだが、祥子女史の首周りを、仮に30センチとする。首を押さえた跡だが、これは、何センチぐらいのものだろうか。 遺体確認に、黒川さんも行っただろう。黒川渡さんの右手のスパンだが、親指から中指まで、23センチほどだろう。それらの実際による、応用で、首への「押圧面」が、記録なり、記憶にあるなら、それらの痕跡、その長さと幅と色を思い出せばよい。仮に、力が込められた「指圧点」の長さが、20センチとしたら、これが犯人の手の、親指から中指の長さと言うことになる。 祥子女史殺害だが、13日(金)午後11時18分すぎ、襲って倒し、14日(土)午前から15日まで、遺体を24時間以上、人目のつかない建物やクルマの中に、祥子女史を、置いていたのだろう。そのため、15日の午後2時すぎまで、祥子女史のズボンに、サイフと共に在った携帯電話が反応した。遺体を木津川へは、15日夜半、との行動ではないかと推定できる。 運搬だが、仮に祥子女史の体重を40キロとして、加害者がひとりのばあい、西成は、ゴミとなったダンボールなどを、リヤカーを引いている人が多く、リヤカーでの運搬が、一番、自然だろう。殺害者がふたり以上で、軽トラックをつかったばあい、運搬は、簡単になる。 大阪府警、西成署に、警察官に向いている人が、ひとりでも居て、すぐ殺人事件だと、良識のある判断し、せめて遺体発見の翌日となる、11月17日(火)に、手配していれば、「長橋公園」「長橋小学校」や、「西成高校」「西成公園」で、13日23時18分以降、犯行を継続実行している殺害者を、目撃した人を見出せた可能性が在る。 15)殺人者に同調する、絵ハガキの63歳男 数々の動画の中に、祥子女史と交際していたと言う、60代という人物が登場してくる。人指し指を、良く、上下させるところに、わたしの意識が留まる。 自己暗示にかかったとも、かけられたとも考えられるが、「ほらふき男爵(Munchhausen)」症候との、類似が考えられる。 おかしなことに、この60代の人は、自殺説を進ませるため、祥子女史と付き合っていたと言う、一枚の絵ハガキを持参した。 この行為だが、少し冷静な人が、警察にいれば、この絵ハガキが、届かなかったら、この60代の人はどうしただろうと考え、この人が関係すると疑うだろう。また時間の経過とともに、60代の人は、自分たちがしている事を、信じてくれる人がいるだろうかと、思うのではないか。 祥子女史の部屋から、指紋が拭き取られていた事実を考えると、祥子女史の部屋に、カルテの続きというか、自分たちが隠したいもの、たとえば、末端価格で1キロだと、5000万円から、売り方により1億円、2億円にもなる、覚醒剤売買の、人物関係がわかる、メモが、残っているかどうかの確認のため、祥子女史の部屋、及び、くろかわ診療所に、侵入したと考えるのが、順当だろう。そして、ふつうは、この計画殺人の、背後の組織を考えてゆくのが、警察の役割だろう。 この60代の人物は、11月13日(金)ごろ、祥子女史に診察してもらい、このとき、祥子女史は異常が無かったと言い、14日に祥子女史は自殺しているとの、主張をするため、16日(月)ぐらいに届いた、一通のハガキを大阪府警に見せた。そして、大阪府警の上部に、京都の山段芳春さんみたいな人物を通じた示唆があったのか、14日に「自殺」したと言う、犯罪にあたる、見解を出した。 祥子女史の、「出会えたことを、心から感謝しています。釜(釜ヶ崎)のおじさん達のために、元気で長生きしてください」という、11月14日(土)、「西成」投函のメモ程度の、絵ハガキだが、これは、63歳の男性が、自分自身がまだ若いと思っていることを言い、釜ヶ崎への貢献度をくどくど述べたため、祥子女史が、感謝の印として、渡したものだろう。 こういった事は、この西成区と対岸の、大正区で、鹿児島県の霧島から、戦後の焼け野原で、お好み焼き屋をしていた人の孫、中野逸人さん家族が良くやる手である。 1984年春、わたしが連絡を絶つと、住居のドアを叩き、「マツダ、マツダ、どうして、手紙くれへんの」と言う。帰って欲しいと言うと、わたしの妻の名前を大声でいい、「したいねん、したいねん」などを言う。ドアを開けると、「ぼく、いま、何いうた?」と聞き返すのが、いつもの中野逸人さんで、黙っていると、「マツダは、ぼくに働けいうけど、着るものないねん、ワイシャツもないねん」と言う。それで、首まわり37センチ、腕82のワイシャツ17枚を渡した。 「お腹すいてん」と言い、食事を出させて、金をたかり、20万円くらいになると、「いま、これだけしか、返せません」のメモをと、1万円ほどを、早朝、郵便受けに入れ、後で、全額返却したと言う。 この反復なので、せめて、礼状ひとつ、書いてこれないのか、その性格を直さないと、音楽関係は紹介できないと言うと、「今、ワープロの時代やろ、ぼく、ワープロないから、礼状書かれへんねん。ワープロもろたら、川端康成と、三島由紀夫の資料返すから」と言うので、1996年、東芝のルポ、30万円近いのを渡した。 2000年ごろは、パソコンに興味を抱いたのか、「えへっ、ほんまにIBMの、嘘やろ、嘘や、嘘に決まってるやん」と言うので、IBMのディスプレイを渡すと、「わぁ、本物や」と言いながら、わたしの妻を脅迫した、娘の河合真吏さんのため、「これから、金儲けをするねん」が口癖だった。 2011年現在、「paco delic」なる、音楽グループに参加し、風俗嬢が好きと言う、自称、プロ、作曲家の中野逸人さんである。 ミュージシャンであれば、中野逸人さんのピアノが、通常、プロというピアノ音でないことは、わかるだろう。 この中野逸人さん家族は、1980年代はじめ、わたしが遺伝子論文作成や学会発表に忙しいころ、毎日コンクール審査委員長の山田忠男先生を、紹介しろと、何度も連絡してきた。京都市交響楽団がピアノ演奏者を募集しているときで、課題曲が、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のときだった。 「ぼく、ピアノ、5年習っていたもん」と言い、絶えず連絡をしてきた。 いったい誰に習ったのかと聞き、そんな女性ピアニストは知らないと言うと、中野逸人さんの家族は、「わたしら、山田忠男先生って、知りませんなぁ」と言う。知らない人なら、紹介する価値がないじゃないですかと言うと、「知らんから、紹介してくれと言うとりますんや。逸人が、お願いしておりますんやで」と言えるのが、キヨスク (kiosk)大阪から、姫路勤務になった、中野敏人さん夫妻である。 1970年代、京都市立大学の音楽部は、平安神宮そばの、「武徳殿」にあって、象牙の白鍵が剥がれた、スタインウェイ(Steinway)を弾いた人は、懐かしく思うだろうが、1980年代になっても、「こんな曲、暗譜して、弾いている人、みたことない。ぼく、クラッシックのコンサート、行ったことないもん」と言う。 1977年は、作曲の「廣瀬量平」先生の、市立音大へ赴任のときは、京都の音楽界が沸き立ったときだが、高槻高校74年卒の中野逸人さんも興奮して、「マツダ、マツダ、ぼく、現代音楽の、ヒロセリョヘイ、知ってるねん」と、言い始める。 わたしとしては、山田忠男先生から、廣瀬量平先生のもとへゆき、「作曲を教えて欲しい」と言われだしたのもあって、市立音大の、ピアノ科首席の音を聞かせ、これぐらいの音でも、「京響」は無理だと言っても、歳月が過ぎると、「ぼく、弾けんねん」と言う。そのため、山田忠男先生から、「聞いてみても良いです」と許可を得た。 わたしは、ピアノレッスン場で、1小節も弾けない中野逸人に、驚き、小節も刻めないので、「メトロノームを頭に置いて」と言った。 こういった経過があっても、大阪府警、吹田署は、わたしに任意出頭という、電話をかけてこられる集団である。遺書とかに「マツダ」とでもあり、わたしからのワイシャツで、首でも巻き、東芝のワープロやIBMのパソコンと思える打撲があれば、わたしを容疑者とするだろう。 ニセの遺書や、郵便物など、すぐ作れる。なんなら、大阪府警の2万人と、各都道府県の本部長、課長クラス1万人ほど、「警察に勤務でき本望でした」などのメモを書き、全員、木津川の事件現場に、飛び込んで、欲しい。2月3日の、節分が終わり、春の水あそびと言える季節で、心身を鍛えた、警察官だから、使命として、祥子女史の遺留品探しのための、2、3時間の水泳は可能だろう。死んだときは、メモから、「自殺」とすれば、早い事務処理ができる。 自身の生涯を、医療奉仕で、自らの得た賃金を貧しい人々のために捧げることができるクリスチャンにたいし、大阪府警は、名誉毀損どころの過ちですまない、判断をした。せめて、いちどだけで良いから、大阪府警の2万人は、祥子女史の、供養のため、2月の木津川へ、自殺者がするように靴を揃え、飛び込んで、上ってこないで、欲しい。 16)所長を責める家族 長兄、矢島敏さんの日記、2010年11月10日に、「週刊朝日の掲載記事について」とあり、「母の証言として紹介されていますが」「事実に反している」とあり、「朝日から、訂正文が来て、日記への紹介が、可能であれば、する」との事だが、この後、矢島敏さんは、何もかかれていない。 『週刊朝日』2010年11月19日号の記事をみると、「交際していた」と言う60代の男性へ取材したようにある。が、祥子女史の、生まれた年を1974年と、誤記しているのだから、直接の取材なしに、書いたものだろう。 土地の下落が激しいのに、京都市東山区の土地の値上がりだと書き、京都市から、わたしへ倍の固定資産税を請求させた原因の『週刊朝日』は、いちど、休刊か廃刊をしても、良いのではないか。 交際していたと言う60代の男性の件だが、わたしは、ただ、祥子女史が、「結婚をされない予定」を、ご両親は、了解されていたのか、これだけを、矢島敏さんの母、晶子さんに確かめてみたいと思い、1月21日金曜日8時30分すぎ、妻に、高崎市の、病院へ、電話をさせてみた。 9時ごろ、お願いしますと言うので、祥子女史の、長兄の矢島敏さんへ電話を入れると、敏さんは外出中という、奥様が出られた。 明るい奥様に、結婚される意志は、なかったのですかと聞くと、「両親もそれは、強いていなかったです」と、肯定された。 母、晶子さんへ、再び、妻に電話を入れさせると、次兄の方がでられ、当方に、用件を聞かれたので、用件は、先に述べた、結婚をされない予定の事ですが、とわたしが聞くと、結婚はする可能性もあるかのような返事だった。 祥子女史が、他殺なのは、「黒川」も肯定している。この殺害は、法医学のレベルではなく、内科医、外科医の、だれでもわかることと言うと、次兄の洋さんは、「そういうんだったら、黒川所長は、責任者なのに、どうして、協力してくれないんですか?」を、反復するので、黒川が、そんな人間だと、黒川の周囲に多く居る、友人関係が成り立たないと言うが、通じない。 「(あなたは)支援者なのですか、妹は死んだのですよ」と、ばかり言う。 そして、「黒川所長は、協力してくれないし、9月、10月、11月、連日、朝3時まで、働かせ、この過重労働をどうするんですか」「黒川所長は、警報機が鳴ったことも、警察に捜査もさせないし」「西成署の又野刑事課長は、自殺と言ったんですよ」と、わたしへ抗議する。 他殺だと断定している、わたしへの抗議については、表現が、基本から、間違えていると指摘し、又野弘人課長や、山名康晴署長などは、警察の恥だから、即刻、辞めてもらえば良いと言った。 黒川さんだが、茨木高校時代、生徒会がつぶれていたので、復活させ、生徒会長をした。神戸大学でも、1970年の日米安保反対、学生運動の後、大学の自治会が、動かなくなっていたことから、「再建委員会」をつくり、わたしの科学史の先生、湯浅光朝先生の友人である、西洋思想の陸井四郎先生と、いっしょに、活動をしている。 卒業し、国立大阪病院を経て、久留米の聖マリア病院に赴任した。 21世紀に入り、わたしが、教壇に立つ側が、研究生をするのは、時間の無駄だから、止めろと言っても、大阪市立大学の社会の研究過程へ進み、「四ツ橋診療所」で働きながら、研究生同士を、対話させる行動をし、ボランティアで、ホームレスの救済活動をしている。 東大理Uと同じ偏差値73の、大阪医科大に合格したとき、大学から入学金などを打診され、「ウチにそんな、お金ありません」と答えた、繊維関係の労働者の父を持つ人である。わたしが、わたしたちのとき、300万円というと、2、3年ちがうのに、「ぼくもそれぐらいだったような」と笑って答えたので、かなり良い成績だったと、わたしは言った。 黒川さんは、すぐれた臨床医と出会うことを、人生の目標とした人物で、自分に合ったペースでの診療をするため、開業しようとしたが、資金があまりなく、診療所は、レントゲン機器など、生駒の方で閉院した病院から、調達してきたと聞いている。こういったリサイクル風「レコンキスタ黒川」に、祥子女史は、共感し、教えられるところが多かったのだろうと思う。 矢島洋さんが、また用件は何ですかと聞くので、お母さんへの質問ですと言っても、黒川批判をつづける。 わたしの言葉が通じないと思いながら、黒川は、自分が被害者になっておれば良いと考える人物であり、他人を働かせるのであれば、自分で働く人物である。いま、あなたの言っている、人物ではないと言うと、「妹が死んだのですよ」と、また言うので、それは家族だから、警察に言えることですと言った。 わたしが、黒川を責めるのは、唯一、住まいですと言うと、「妹は、大人ですから、、、」と矢島洋さんは言い、この発言には、良識を感じた。 それで、予定には、なかったが、「この63歳の交際していたと言う男性のことは」と聞くと、「あ、あれは、自己申告の人で、、、」と、わらうので、沈黙した。 17)くろかわ診療所の、鳴らない警報機 次兄の矢島洋さんとは、約束などしていないが、あまりの言動なので、午後2時、予定などしていなかった、黒川さんへ電話を入れると、 「しんといて(=しないで)、欲しかった、、、」と嘆くので、2007年6月3日のメモに、「結婚しない様子」と書いていた事をいうと、「結婚については、ぼくが、結婚せえへん、感じがしたから、そう言ったまでで、、」と黒川さんは、いつもの調子で、自分自身の独断の見方だと、言う。 動画の「YOU−TUBE」って、知っている?と尋ねると、「ええっ」と返事するので、動画を見た事をいい、矢島さんが西成のマザーテレサだと、黒川は浪速のシュバイツァーなのかと言うと、「ええっ、、、ああっ」と、このときだけ元気なさそうに笑った。 矢島洋さんとの会話の齟齬は、警察が自殺と言うことに来ているのだろう。矢島祥吉、晶子、ご夫妻は、臨床の経験の多さから、遺体を見て、他殺とすぐわかり、もう一方の、警察が、実際の見分が少なく、本来の警官に向いていない性格の者ばかりだから、苦しい被害者を、より苦しめさせる事がつづく。 残忍な計画殺人を、過労による自殺という、小学生でも驚く見解を出すから、こんな状態になる。木津川の河口の、あの水系(分水界)に、飛び込む人間はいないし、こんな表現は嫌だけど、飛び込んでも、海水の塩度で、ぷかぷか浮いて、行ったり、来たりしているだけ、、、と、わたしが言うと、「ええ、そうです」と、即座に黒川さんは言った。 番組の作り方について、「テレビ朝日」のは、祥子女史の悲劇が、くろかわ診療所に在るような、ものばかりだと指摘すると、「ええっ、、、」と、これも、まったく元気なく返事するので、祥子女史の、後頭部の打撃痕だけど?と質問した。 これに対し、黒川さんは、「あれ、(矢島さんの、家族の表現と、葬儀のとき)ぼくが気づいて、、、」と言ったとき、「(、、、!?)」と、わたしは、黒川さんがしてきた事を、報道しないマスコミと、祥子女史の家族の言動に、黙ってしまった。 「なんか、ひらたいもので、、、」と、黒川さんは、被害者の祥子女史を、思い返し、また考え直しているような間をあけ、「、、、後頭部を、殴れらたような、跡があって、、、」と発語したあと、黒川さんは沈黙した。 黒川さんの、抑揚からも感じた表現だと、打撃物は、たとえば、クルマの整備工がつかう、板金用の木槌か、地鎮祭の木槌か、漁師などが魚を絞めるときに使う拍子木を大きくしたような木かと、考えていた。 わたしが黙ったままでいると、「、、、女性だから」「司法解剖は、大阪市立大にまかせたので、、」と言う。 わたしは、後頭部の打撃痕について、黒川さんが、気づいたと聞き、タンコブの傷の状態がどのようなものだったか、、、それを、いま、わたしが聞いても仕方が無いと思い、沈黙していると、 「ご家族が、困らへんよう、警察(から、西成の管轄の大阪市立大学)に、何回も、言うて、、、」「困ったら、あかんと思たから、何回も、何回も、手配したんです、、、」「こっち(大阪)の新聞、向こう(群馬)では、見られへんから、掲載されているのを見つけたら、送っていたんです」と黒川さんは言う。 このあと、次兄の矢島洋さんが、警報機が鳴った事など、警察に捜査をさせないって、言って居ることは?と尋ねると、 「ウチの、アルソック(ALSOK)やから、鳴らへんので、、」と黒川さんが言ったとき、「(アルソック、、、鳴らへん、、、!?)」で、思考が止まり、意味がわからないので、アルソックって、何かと尋ねると、警備会社だという。 「そのため、アルソックが、テレビ朝日に、抗議して」「それからの、テレビ朝日は、訂正も、報道も、黙ったまま、、、」と黒川さんは、言った。 祥子女史報道は、動画でみるかぎり、東京放送の『報道特集』が8月21日と9月25日に、特集番組をつくり、11月27日『Nスタ』も作っているが、自殺か他殺のどちらかを問題提起し、警報機には、ふれていない。 警報機のことは、「テレビ朝日」の9月2日が原因のようである。これを「フジテレビ」が信じたのか、10月26日の『スーパーニュース』で、矢島祥子さんが、診療所を出ると、「わずか1分後に、警報がなります」と触れている。 9月2日の、『報道ステーション』だが、「直後に異変がおこった。早朝に、30分、警報音が鳴り響いたため、警備員が駆けつける」と、放送している。 11月8日の『スーパーモーニング』では、「警備システムのスィッチが入れられた直後に、警報が鳴ったものの、およそ30分後」と、 11月23日の『スーパーJチャンネル』では、「警備システムを祥子さんが作動、(略)、その直後、警報が鳴り響いたのだ。およそ30分後」と、 11月29日の『報道ステーション』は、9月2日と同じもの。 これらに、どれもよく似た、デタラメのナレーションとテロップを入れている。 警察の捜査に協力をしていないと言う、黒川さんの、人格をまったく否定する、矢島洋さんの、文言には、「(2009年の)12月、(2010年の)1月と、大変で、、、」「、、、警察には、2月、3月調べに来て欲しいと、せんど(千度)言うても、来てくれへんかって、、、」「警察、10月に、やっと、来てくれて、、、」と、黒川さんは言った。 祥子女史と付き合っていたと言う、60代の男性の事を聞くと、 「あ、、、」と言い、息を抜き、「あっ、、、」と、笑った抑揚になり、「ここらへんでは、あの人が、一番あやしいって」と、矢島祥子さんの次兄と同じ調子で、わたしが見たことのある人物のように言う。それで、周知の人かと思い黙った。 加えて、祥子女史と、長い付き合いのある薬剤師の男性は?と聞くと、 「ウチ、薬剤師、居ないから、、、」「あれ、、、、ここらの、、、近所の、薬局のおっちゃん」と、これも、黒川さんは、人柄は良さそうな「薬局のおっちゃん」を、わたしも、知って居る人物のように表現する。 黙ってききながら、それらは、話しの論理が、飛んで居る。わたしは、薬局のおっちゃんを見た事がないと返事し、ゼンソク患者だと、わかるだろうが、わたしの気管がおかしくなり、医療か公害か、悲喜こもごも、浪速のシュバイツァー黒川が原因の、ゼンソクの発作を起こしそうな状態になってしまった。 薬剤師の男性、尾辻利章さんの画面については、1950年代の松竹新喜劇みたいに、「別の人との、ボランティアの方向の違い」との意見は、テレビを見る人には、黒川さんとの、方向の違いのように取れる、あまりに外連な、切り貼りの編集方法が目立つので、テレビ局の演出により、白衣の薬剤師を大学などの研究者のように思っていた妻に言うと、「この人、こんな編集になると思っていなかったと思う。後で見て、落ち込んでいると思う、、、」と言い深刻な顔をした。 18)テレビ朝日、早河洋社長の使用者責任 テレビ朝日のレポーターが、「われわれは、彼女が死の直前まで、働いていた、診療所の所長を尋ねてみた」と主張し、「すみません、テレビ朝日の者なんですけども、、、」と挨拶をし、「われわれの取材に対し、所長は、時期が来たら話しますとだけ言った」と、くくり、正義派の番組をつくった。 が、この「われわれ」は、2010年の秋の段階で、黒川さんに、何かをインタビューして、何の画面作りをしたいのだろうか? 近所の、人が良さそうな薬局のおっちゃん、尾辻利章さんが登場してくる場面は、いったい、何度練習してもらったのかと思える動き方が、見られる。 テレビ局は、黒川さんから、他殺なら、犯人像でも聞き、祥子女史の人柄を聞きだし、黒川さんから、涙でも流させようと思っているのだろうか。 黒川さんと「くろかわ診療所」の同僚は、祥子女史が、14日(土)の勤務時間に、来ないとき、連絡を取りはじめている。これは、黒川さんの指示で、祥子女史が出勤してくる人だと、信じているからではないのか。連絡を取りつづけ、14日、15日と、祥子女史のアパートまで行き、現場の状況の変化を、覚えている事なども、祥子女史の身体に、危険があるのではないかとの判断ではないのか。 黒川さんが、声を出し、言える事は、2009年11月16日(月)の遺体発見後、18日(水)群馬県高崎市での葬儀のとき、母、矢島晶子さんの言葉から、頭部の打撃痕の様態に気づき、考えを検め、他殺だろうとの判断をした。 黒川さんは、11月16日(月)の遺体発見のとき、朝、西成署で、事件だと表明し、西成署管轄の「大阪市立大学」が、準じ、動いたこと。また、黒川さんは、2010年2月、3月にわたり、何度と、西成署へ、診療所の捜査と言っているのに、殺害者の捜査権を持つ、西成署がまったく動かなかったと言うことだろう。 同じく、家族が、2010年9月公安委員会へ捜査の申し出をし、2011年2月に何の結果もでないと言う、事件から14ヶ月以上にわたる、警察のとった態度は、怠慢とか、懲戒免職で済まされない。山名康晴署長、又野弘人課長はじめ、前科一犯に、実刑最低一年の、処罰が必要な時代である。 善意で動く人にも、個性があり、黒川さんのばあい、誠心誠意つくしても、感謝がない人や、売名だけで、誤解をまねく事をしている人たちの名前など、人前で言ったり、活字にすることなどないだろう。 延々とした、取材に疲れ、沈黙してしまう黒川さんより、次は、祥子女史とたいへん親しく大学で栄養学を専攻された、近所の食堂のおばちゃんに、祥子女史の患者さんでもある、昔の、西成を知り、丁半バクチの専門家であり、地質研究家でもある、近所の不動産屋のおじいちゃんでも登場させた方が良いだろう。その方が、鳴らない警報機を、けたたましく鳴ったような映像へ、創作できる「テレビ朝日」に、向いているのではないか。 無責任でしたい放題の「テレビ朝日」だが、祥子女史の、一連の番組があった、2010年11月13日土曜日、夜8時20分から、わたしと妻は、テレビ朝日の、撮影隊に、ふりまわされ、わたしは、倒れた。 テレビ朝日は、三条大橋を、ふつうに、歩いてゆこうとするものを、止まれとか、歩けとか、指図する。 命令を聞いていて、様子をみると、テレビ朝日は、鴨川の、五条署管轄の河川敷で、撮影のため、レールをひき、秋の観光客を、通行止めにしていた。 行楽の季節、五条署管轄になる、中京区の繁華街や鴨川の河川敷は、撮影許可など下りないので、許可書を求めると、使用許可は、東山署管轄の三条大橋の許可書だけである。 撮影で、使用している場所は、五条署管轄が中心であり、他、東山署と左京区の警察署の、三箇所の許可が必要だと、責任者に、場所と管轄を説明した。が、なかなか、わからない。 東山の方から、三条大橋を渡って、三人の警官が、中京区管轄へ来る。 わたしが、「五条署から?」と聞いても返事をしない。何度も質問させ、わたしが、「(東山署の)三条交番から?」と聞いても返事をしない。「(東山署の)大和大路交番?」と聞いても返事をしない。返事をしないので、時間がかかる。それで、君たち、帰りなさいと、指示をする。 わたしたち夫婦を捕らえている、警官たちが、三条大橋のとちゅうへ移動するので、「通行妨害だから、止めなさい」と、注意する。延々、これが、夜の10時すぎとなり、三人の警官は、仕事をしているつもりとなり、「テレビ局の仕事の妨害は止めろ」と、説教に変わった。11時となり、祇園の暴力団を、知ったふうに言うので、組が違うと指摘したが、自分たちの知識が正しいように言う。 14日(日)、昔から祇園で、商売をしている人たちへ、21世紀から、困らせた暴力団事務所を、調べ、祇園交番へ、報告に行くと、暴力をふるう責任者の警官は、ドアを閉め、帰れと言う。110番通報をして、東山署に連絡を、二度しても、行くといって来ない。 東山署へタクシーで行き、0時45分に、前原か、前園か、前川刑事の上司の、夜勤の刑事課長に説明をして、2時間以上たった、午前3時に、地域課長が参加し、揉めにもめ、ようやく暴力をふるった警官を呼ぶと、東山署でも、わたしたち夫婦に、「出て行け」と暴言を吐き、わたしの右腕をとり、暴行を連続する。このあげく、11月15日(月)、朝8時30分、京都府警、公聴課へ、電話連絡しなければならなくなった。 これらの後、原因となった、「テレビ朝日」に、夜8時38分、抗議の電話をしたら、からかう話法だけマスターした、受け付けの女史が出てきた。 テレビ朝日の、「早河洋」社長、使用者責任を問う。自分たちが行なった、過ちは、どのように、責任を取る。 19)あいりん地区での住まいが希望だった、祥子女史 わたしが、黒川渡さんを批判する点は、祥子女史の次兄にも言った、住居のことだった。 あいりん地区は、1970年代から、見学に行っているが、1984年はじめ、父に、結婚した妻を、あいりん地区へ連れて行ったと言ったとき、「おまえは、他所(よそ)さんの娘を、、、。何を考えとる。暴動が起きたら、どうする」と、はじめて、父を激怒させ、叱責をうけた。このことは、黒川さんにも言った。そのため、 「動画でみたけれど、なぜ、住まいを、西成に。あそこでは、、、(問題がある)」と言うと、「西成には、住まんとってと、何度も言うたんやけど、、、」と、黒川さんは言った。 そして、「あの子ぉ、、、」と言った、言葉づかいは、父親が自分の娘の事を言うようなもので、「はじめ、あいりん地区に住むと言って、きかへんかったん、、、」と、回想が入り、涙をふくんだようにも聞こえる声で、黒川さんは、言った。 「(あいりん地区、、、)」と聞き、言葉が出なくなった、わたしへ、黒川さんは、「まつださん、診察がありますので」と言った。 黒川さんとの、沈黙が交差する電話は、1月18日と同じく、また、10分ほど経っていた。 祥子女史は、自分自身の、少しの時間も、あいりん地区で、病気の人々へ、救済のためと判断されたのだろう。 祥子女史にとって、勤務以外、救済へと、自由に使える、くろかわ診療所は、わからない事があれば、高度な医療を知る黒川さんに相談し、考えれば良く、医学生のときからの、自己実現ができる、充実した場所だったのだろう。 黒川さんの筆記だが、遅く、郵便物の宛名書きのような事しか書かない。相棒の白水倫生さんは、郵便番号ぐらいを、自分自身も読めない字で書く。 祥子女史は、黒川さんの数倍、手早く、明快に書く性格に見えるが、計画殺人者たちが、想像した、余計な事は、カルテなどには書かない。 計画殺人者たちが探した、くろかわ診療所のカルテ類だが、病状に、処置方とクスリ以外、記載していないのに、気づいたと思う。 祥子女史が、あいりん地区を住居として、直截、病気で倒れている人を救済しようとしたことは、父、矢島祥吉さんからの、「命をかけて、すべてを、かけてやった子が、、、」などや、警察で遺体と接し「ガンガン妹を触りながら、何があったんだ、どうしちゃったんだって、問いかけました」との長兄、矢島敏さんの言葉と動作で、わかると思う。 テレビの映像は、祥子女史自身の指紋も無かったという、女史の部屋を映す。 祥子女史の部屋の本箱には、多くの書籍が整理され、並んで居るが、この中の、医学の専門書に気づく。わたしは、これを眼にして、各都道府県の、警察の本部長クラスは、あいりん地区の病人を、自分の給与も使い、質素だけども清潔にした住まいで、専門書を開き、勉強をしていた、祥子女史を、どのように考えるかと、問いただしたい思いになった。 あいりん地区には、異国人からなる暴力団が、西成警察近くでも、10、20とある。埋葬した遺体を掘り起こし、死姦ができる民族のいる、土地である。 日常の、彼らだが、密航してきたものですら、一年もたてば、あいりん地区の、労働者より、賢い顔ができるようになる。そういった連中には、あいりん地区で、病人を救済するための、医療のカルテを作成していた、祥子女史は、悪徳の医療関係者との商売の関係からも、邪魔だったのだろう。 祥子女史の遺体と、「鍵の束」「サイフ」「携帯電話」に、「カバン」「往診道具」「自転車」。もし、これらのひとつでも、見つからなかったら、警察は捜査を継続しなければならない。これらから犯行は、21世紀の、日本の警察の性質を、よく理解しているプロと判断できる。 大不況下の、日本の経済を見ると、もう、ヤクザなど、寄生できる時代ではない事がわかっているのだから、彼らのためにも、解散させる処置をとるのが、政治家の役割だろう。 西成区あいりん地区の人たちは、祥子さんを、「最高の人や」「死ぬまで絶対忘れない」「すごく明るい」「帰ってきて欲しい」「この世にいない先生」「神様みたいな人」と、無二の存在のように、いつくしむ。 病気で貧困の人、ひとりの、生活そのものを、救出することなど、命がけであっても、ふつうの人には、まったくできない事である。 西洋の神話や伝説には、女神や天使が、欠かせなく、出てくる。彼女たち、女神や天使は、困難なことを、命がけで行い、悪魔たちと戦い、犠牲になり、死者となり、神話を伝える、星になる。 現実の社会をみると、稀だが、21世紀の、金と名誉だけを追う日本に、祥子さんのような人が存在したのは確かな事である。 祥子さんの存在から、神話や伝説は、ふつうとは、かけはなれた才能をもった人を表現したもので、そういった尊い人を、追悼し、教えとするものだと、良識のある人は、思うだろう。 |
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「京都昨今」松田薫2011年2月6日 |