京都昨今 |
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76、中川昭一、大臣の課題 【殺人会社NECー鳩山関与D】 | ||
▲上は、2003年、自称、NECお偉方関連のメールで、巨額詐欺事件を起こし、社会問題になったものである。 名刺には、NECシステムテクノロジー、専務「諸岡旭」、執行役員「濱野勝弘」とあった。専務の諸岡旭氏は、娘さんが京都工芸繊維大とか言っており、諸岡旭、濱野勝弘氏はじめ、一同そろって、NEC本社勤務とのこと。他の社員が、本社からの専務も来ていたと言った。 いまの、鳩山由紀夫首相も、名刺を配る、性格があり、ヤクザから警察をふくめ、このような、お偉い、おぼっちゃんの、お名刺一枚は、天の声か、神のお告げのような効果をはたす。 1)中川昭一事件と、ストロス・カーン専務理事とゼーリック総裁 いっさい、接点のない、中川昭一が、去年の、10月3日、亡くなってから、わたしは、どの新聞も、読んだことはない。事件を知ったとき、中川は、10月3日、9時ごろ、自宅の玄関先で、まず、アルコール系の麻酔をかけられたと、思った。 日本のマスコミは、国際上、重要であり、日本にとって見逃せない、2009年2月のローマ事件のあと、2月下旬、「IMF」のフランスの社会党、ストロス・カーン専務理事が、事務局員と行なった対談を、自民党から、民主党への、政権移行期のためか、伝達しなかった。 2009年2月13日、日本が、アメリカドルでの、IMFの創設以来、最大の額面、1000億ドルを、寄与した事に対して、2月下旬の、IMF内部での、雑談が公表された。 会話だが、IMFでの、監査係になる、オンラインサーベイ(Online Survey)に所属する、カミラ・アンデルセン( Camilla Andersen)女史が、ストロス・カーン(Dominique Strauss-Kahn、1949 - )専務理事へ、インタビューしている形式をとっている。 @アンデルセンは、やる気の無い声で、日本の1000億ドルには、どんな意義があり、これだけの金で、充分なのかと、質問をした。 Aこれに対し、ストロス・カーンは、「賢い欧米の国は、金を出すことなど、しないから、日本からのが、多く見えるだけ」と言い、「いま、身近な、問題では、ダブリン危機(バブルが崩壊した、人口450万人の、アイルランドで、増税反対への、2月21日、市民による10万人単位のデモ)があるだろう、、、。ケチな日本からのは、アジア向けだけでね。 日本は、1本(1000億ドル)を寄与したけれど、もっと、2000億ドル、3000億ドルぐらい、継続して、運んでくれないと、ぼくたち優秀な(ユダヤ系)白人種は、困るんだと、指を使い、表現した。 Bは、英語の発声だけは、並のフランス人より、上手く、知性の低いストロス・カーンが、読売新聞社の越前谷知子、日本テレビの原聡子の、「尺八講座」だけど、彼女たちの、口の開け方は、これぐらい、と言っているのでないかと思う。 Cが、重要な時点となる。ストロス・カーンの、アル中の眼が、より、アルコール中毒まるだしとなっている。 ストロス・カーンは、酔っぱらいながら、アメリカの国家破綻の表面化は、これから本格的になり、経済が壊滅状態の西欧にも必要だから、「第二次世界大戦の犯罪」をデッチアゲて、日本人を締上げる計画なんだ。まだ、貯蓄があるはずなんだ。欧米に、総額で、3兆ドル(300兆円)があると、いいんだなぁ、と言った調子で、アンデルセン女史との、インタビューの内容と芝居に飽き、嘘つきユダヤ人がする、欠伸のような感じの表情を出したところである。 D「(USAユダヤ、シンジケート担当の、イチロー・オザワを利用して)日本から、金を、パクルことが、できないの、、、むにゅ、zzz、zz」と言った様子で、眠くなり、眼を閉じてしまった、アンデルセンである。 IMFのストロス・カーンは、良識のある振る舞いをしながら、アメリカ優先で、じっさいの国際貢献など、脳裏にない、悪党に過ぎない。 ストロス・カーンは、デフレの国は、IMFへ寄付をしろと言い、2009年2月ローマも、これまで、さまざまな形で、寄与させられてきた、欧米語を持たず、発言権のない日本だけが、大きな代償を払った。 じっさい、このアンデルセン女史とストロス・カーンとの雑談はじめ、ストロス・カーンの発言だが、英語のヒアリングが、可能な者には、常に、日本を、侮辱している人物であると、分かる。 欧米の策略そのものと言えるが、日本は、「第二次世界大戦」を避けるため、アメリカへは、「野村吉三朗」アメリカ大使につぎ、交渉に間違いがないよう、欧米語が堪能で、妻がアメリカ人の「来栖三郎」を、アメリカ大使として、就任させた。 日本は、アメリカとの戦争だけは、回避したい方針だった。そのため、「井口貞夫」を、全権大使として派遣させており、ワシントンには、「奥村勝蔵」一等書記官も配置させていた。 アメリカによる、不況打開の、第二次世界大戦の策略は、石油資源が無く、また、アジアに連合国の無い、小さな国の日本へ、貿易はじめ、避けられない国際状況へ、日本を追い込むことだった。 決起となる、「真珠湾攻撃(1941年12月8日)」だが、卑劣な事を国民性として嫌う、日本は、数ヶ月単位で交渉し、事前に、アメリカ大使館へ、戦争開始の打電をしている。 1940年代、不況下の、アメリカ政府と軍部は、アメリカ語でさえ、満足に話せない、貪欲なだけの、労働者階級出身の、コーデル・ハル(Cordell Hull)国務長官を中心に、日本を、戦争へと、陥れた。 上昇志向の強い、ヒステリックな、「コーデル・ハル」は、駐米大使館の「奥村勝蔵」書記官たちに、黙らせる条件を出し、文書の、受け取り時間を、改竄した。 自分たちだけは、死ぬことはない、井口貞夫に、奥村勝蔵は、第二次世界大戦で、アメリカ政府に協力し、この功績のため、戦後、二人とも外務省の「事務次官」にまで、出世をし、豊かに、暮らした。 日本を敵にした、USA国内の、即時効果は、ハワイはじめ、アメリカの日本人移民へ、労働賃金を帳消しにでき、殺害、強姦、財産の略奪を、正当化できた。 スポーツのような、戦争ゲームで、日本人を、3000万人単位、殺戮した。 犠牲者の人口について、1940年度で日本は、大陸はじめ、人口8000万人だった。富国政策による、出生者の数だが、統計の数値が、1941年から1945年までだとすると、毎年200〜300万人の、出生者の大きい数値、300万人をとると、この5年間に、1500万人が誕生し、合計9500万人となる。 敗戦後の人口が、6000万人だから、犠牲者は3500万人となる。しかし、戦後の、6000万人のうち、犠牲となった日本人の、戸籍を奪ったり、買ったりした人を考えると、いったい、どれだけの日本人が、犠牲になったのだろうかと、指摘すれば、新たな考え方が、必要な時代になったと、思うだろう。 策略どおり、日本が統治していたアジア地域から、財産を略奪し、中国、朝鮮などから、満州、台湾の日本人の小戸籍を使い、「新・日本人」となった、侵略者を使い、アメリカへ、より富をもたらしたため、コーデル・ハルは、1945年にノーベル平和賞を貰っている。アメリカには、どれほどの悪人が居たかが分かる。 それよりも、戦後、出世した、井口貞夫に、奥村勝蔵と言った、外務省はじめ、日本人スパイが問題である。 ノーベル平和賞の性質を示すが、現在も、世界を混乱させ、アメリカへ、富をもたらす人物が、受賞している。 中川昭一が亡くなり、日本社会が、騒然としているとき、2009年10月5日、トルコのイスタンブールで、6日に開催される、「世界銀行」と、「IMF」の、総会全体会合の記者会見があった。 @ は、2008年秋の段階で、USAの悪巧みを、日本の麻生太郎、中川昭一コンビに、知られてしまい、中川昭一暗殺が、上手くゆくかどうか、憂鬱な表情の、悪党二人である。 異常とも思える、口やかましい、パラノイアの母親に育てられた、USAのゼーリック(Robert Zoellick、1953 - )世界銀行総裁と、IMFのストロス・カーンである。ゼーリックは、アメリカ政府の、ラスベガス的賭博である、トランプゲームができ、金を数えるぐらいの、能力しかない。 USA連邦準備制度理事会の議長は、2009年度と違い、別の人物が、選ばれると言われた。が、2010年も、 仕事の処理、判断が遅く、鈍い、2010年のUSA経済を、回復には遠く、調整すらできない、ベン・バーナンキ(B.S. Bernanke、1953-)がFRB 議長を継続することになった。ユダヤ系、ベン・バーナンキは、人間味が欠如したR.ゼーリックと、犠牲になった、中川昭一と、同じ年齢である。 彼らとちがい、両親からの干渉が少ない、おだやかな環境に育った、ガイトナー(Timothy F.Geithner、1961 - )財務長官は、面識のある、中川昭一事件を、どのように思うのだろうか。 Aは、ゼーリックとストロス・カーンが、中川昭一暗殺の、死因が、「自殺のような臓器不全」との発表で安心したところ。 BUSAロビー、イチロー&鳩山由紀夫、民主党政権になり、「円」を奪える、との表情をしたところ。 Cロバート・ゼーリックが、オバカ(Obama)政権を陰で、操作している、63歳の子供ブッシュ(G. W. Bush)に、報告し、2月のローマ事件で、よく協力してくれた、財務省の、「篠原尚之」財務官を、君は白人社会向きだと言い、アメリカ主導の、IMFの「副専務理事」に取り立てれば、物欲が集まった、日本の財務省にいる人種が、落ち着くと、言ったところである。 1973年8月、オイルショックでの不況下に、東京のホテルで起きた「金大中事件(1973)」は、USAアメリカ主導、韓国政府に、日本政府が関与したものと言われている。 が、USAロビー、「金大中」(1925- 2009年8月18日)は、韓国の市民を犠牲とした、光州事件(1980)をおこし、ソウルオリンピック後、国家破綻へ導き、市民を苦しませ、15代目、大統領(1998-2003)となり、2000年ノーベル平和賞を、もらっている。 中川宅の、近所には、フランスはじめ、USAにイギリスの旧領土下で、治外法権になる、外国大使館が多い。 これらに加え、ローマのG7に、アメリカの世界銀行とIMFの会議など、日本の内閣は知っていることだから、中川宅から、近い、治外法権であり、アメリカとロシアと連携して動く、旧・フランス領の大使館周辺へ、形式上でも、警察を、調査に、配置させたと思うのが、わたしたち、市民感情だろう。 日本人は、欧米に、中国からも、時間が、過ぎ去れば、何事も、許してしまう、目出度い国民性と言われているが、国民が生活危機に陥っている、2010年の現在、この事件の真実が分かると、歴史から、看過することはできない、重要なものだと、良識ある市民は考えるだろう。 なにより、欧米の勝手な、政策により、優れた政治家の生命を失うことの多い、日本の、むごい事件を、真剣に考えるなら、国連にしろ、IMFのような機関との距離を、冷静に見る、教育が必要な、時代になったと、言及できる。 2)中川昭一の健全な心身力と、十勝、帯広のアピール 正直で、スポーツマンだった、中川昭一の体力が、どの程度のものだったか、実証してゆく。 写真@は、十勝や帯広の商品セールスの中川昭一であり、関東から、関西までの、大きな商圏へ、乳製品はじめ、野菜など、清潔で安全であるとの、「十勝ブランド」の定着に、努力した、中川の姿勢の、ひとつである。 Aは、顔に浮腫みのある、中川である。手の甲には、腫れや、浮腫みが無い事から、夜更かしに、睡眠不足のとき顔に出る体質だろう。これは、生まれつきの、人が多く、直接、病気に、結びつかない。 Bは、自宅の花の手入れでの、日本人独特の、蹲踞の姿勢で、脚部にしろ、腹部にも、贅肉がないことから、可能なことである。 Cは、2009年夏の選挙運動中のもので、廻り階段を、昇る、中川である。陸上の短距離選手がする、コーナリングのステップをしている。わたしは、この種の映像が、せめて、20メートルぐらい、5秒単位の動画があればと、歩き方のロコモーションを探していた。 DとEも、2009年夏ので、クルマから、降りるときと、入るときの、肩の動作で、20代の腹筋力と背筋力があると、わかる。 中川昭一の、利き手について、両手のひらの、皮膚流紋が有り、当人から、幼い頃から、成人するまでの使い方を、直接聞かないと、判別できない。 「利き手」は、矯正され、表情も、作り事が可能であり、歯も健康状態により、噛み合わせ、に変化があるから、歯のレントゲンでの、神経の状態(歯槽枝)が、あれば、参考になったのにと思った。 さらに、中川昭一の、身体のバランス能力の、実証として。下の写真は、2009年7月10日金曜日、十勝で開催された、「ラリー北海道」での、来賓として、中川の、挨拶までの、シーンである。 雨の日で、芝生に、水があり、歩きにくい状態の足元なのに、歩きなれた廊下を、スリッパで行くように、進み、中川の、脚力と敏捷性の程度に、わたしの、注意が止まる。 56歳の、中川の年齢に近い人で、雨の芝生を、このように歩き、階段の三、四段目に足をかけられるような、動作が可能な人は、どれだけ居るだろうか。 @は、挨拶文の下書きかを、左手で、背広の左ポケットに入れているところである。 Aは、階段三段分の、高さ65センチは、在ると思える、挨拶台へ、左足を軸に、上がろうとするところ。 日本人の背丈で、ふつう、雨もようの日、水を含み、足元が不安定な芝生から、60センチから在る高さへ、上がろうと思う時、両手は、転倒した時の用心と思って、自由にしておくだろう。 しかも、ハレ舞台での挨拶となると、このように、手前の位置から、上ろうとするのは、元運動選手でも、56歳と言う年齢を考えると、難しいのでは、無いだろうか。 わたしが指摘した、この挨拶台の高さや、十勝の、雨を含んだ芝生での、実地検証は、可能である。 Bは、ハードルの選手でもしていたかのように、左を軸足にしたまま、右足を、挨拶台にかけるところである。矯正の可能性が低い、「利き足」は、10代から、しぜんに、決定してくる。 人により、年齢差はあるが、21世紀、脚力の弱っている、20代でも、左右の、どちらかに、無理のかかっている人が非常に多い。 が、中川は、56歳で、腰痛持ちと言うのに、体重の掛け方は、左右の脚に、無理が見られない。といっても、わたしには、これだけの資料で、中川の、腰痛部位と、痛みの程度は、断定できない。 Cは、挨拶台での、セレモニーだが、息も切れておらず、ごく普通に、話している。 これらを見てゆくと、中川昭一の、身体は、腹筋から背筋、腕力も、脚力も、ふつうの50代の体力ではなく、30代並だったと思える。 中川の挨拶は、「主催者の皆さま方の、地元の皆様方の、ご苦労」「7月半ばというんですが、こういう天気」でと、2009年、やませ(山背)に、みまわれ、夏が来なかった、北海道の天候不順にふれた。 中川昭一による、セレモニーが意義を持つのだろう。「関係者の皆様のご努力」により、全国が不況のため、大きなスポーツイベントの中止が多いのに、開催が可能に成りましたとのべ、「先端技術、大いに、発揮していただいて」、「十勝、日本に元気を与えて欲しいと思います」、「広い、広い、十勝を、思い切って疾走して、また環境にも優しいラリーの成功に成る事を」など、十勝から、日本全国へ、熱気を与えて欲しい、と言った。 日本は、2009年8月の衆議員選挙により、ただただ「性権交代」とだけ言って、わたしが聞いていた話では、姦通罪、死罪が残るツングース系の民族から、人妻を寝取り、「室蘭の人妻」「札幌の人妻」とやり、人妻は、他人の男の物でないとの考えの、人物が首相になり、世間は落ち着いたようだった。 ところが、政治能力のあまりの無さに、十勝の人たちが、”あいつらには、何もできない。やはり中川昭一だ”と思って、9月半ばから、地元は、”中川コール”の状態になったのだろう。 そのひとつの現象とみられるのが、2009年9月27日、日曜日、帯広市議がもよおした、パークゴルフと思える。中川昭一は、招待され、朝9時ごろから、11時ごろまで、参加している。 @とAは、10月1日の、「十勝毎日新聞」によると、「編田照茂」市議の、後援会主催のパークゴルフのものである。 新聞には、中川が、「おわびとお礼の日々」と書かれ、多いときは、1日に50軒近くの挨拶をし、「今までならあいさつだけで帰るところ。これぐらいやらないと」と、パークゴルフへの参加と、2009年2月ローマでのできごとに加え、今回の、敗北の詫びをして、当然とのようにある。 写真@からBでわかるように、友人である、編田、帯広市議と、いっしょの時の、中川の笑顔は、編田の、丁寧にマイクを向ける仕草でもわかるが、テニスプレイも、じつに、楽しそうに、リラックスしている。 Cは、東京育ちだと、ひっくり返りそうになる、「おまんた囃子」を歌った三波春夫の、子息でテニス仲間の、三波豊和が、中川大臣席に、座っているところ。 D 2009年11月、全日本テニス選手権があった。全日本チャンピオンの記録をもつ、プロテニスの、「岩渕聡」(1975-)は、2008年11月9日、全日本テニス選手権の初日、「ゲスト&チャンピオン、イベント」でのことを、 「僕のパートナーはなんと財務大臣の中川昭一さんでした。最初は緊張しましたが、大臣もかなりの腕前なので良いダブルスができ、3戦3勝の結果でした」とブログに書いてある。 わたしは中川昭一の、握力、脚力に、驚いているが、チャンピオン経歴のある岩渕聡から見て、中川は、岩渕プロの周囲に居る、ふつうの30代の知人などより、格段の足腰の、運動能力があったと、感じたのではないか。 中川昭一は、北海道と、日本国家に、国際間での、金融の流れが円滑へと、安静も、睡眠時間も取らず、邁進し、日本テレビ、東京放送に、読売、朝日新聞など、マスコミの捏造により、犯罪者たちにより、計画的に、殺害された。 いっぽう民主党の、足寄出身の、石川知裕をみると、公費や企業献金で、ほとんど、毎週と言ってよいほど、ソープランドやパーティに、パークゴルフ。石川と、1980年ごろ、新発売のLPレコードを、中身が良いからと、100枚単位とかで、大手レコード店に、買取をさせた、歌手の松山千春との関係はどうなのか。 松山の商品だが、大阪の中心部はじめ、枚方市楠葉のレコード店も、大半が売れ残り、非難をあびた。レコードについては、レコード会社の、思惑があるだろう。近くでは、2007年2月、わたしを殺すと襲って来た、京都のヤクザの大元に、招待され、歌ったと言う件もある。 わたしたちが中・高生だった、1960年代中ごろとちがい、1980年ごろのLPレコードの代金は、高校生の一日分のアルバイト料金と、ずいぶん安くなった。だけれど、ファン層の、高校生にとっては、思春期の、生涯一枚の、レコードであった時代である。彼女たちへ、言い訳ができる、言葉など無いはずである。 足寄町は、松山千春にして、また、中川一郎殺しの犯人とも、一時、言われた、野中広務の子分といっしょに活動した、石川知裕を、好むのだろうか。 9月27日の、パークゴルフの日の、気象条件だが、帯広市は、快晴で、1019ヘクトパスカルの高気圧におおわれ、気温は21度。風がほとんど無く、湿度が35%と低い。芝生や地面からの、反射熱を考慮すると、暑いと感じられる、陽気だっただろう。 中川昭一は、会社員のとき以来のゴルフと言われている。相手への気遣いが強い、中川のタイプにとって、一番、心身を、消耗するのは、懇意でない人たちとの、挨拶と思える。 人間の栄養素は、神経を使う、中川のようなタイプ、大半が、大脳での血液活動で、消費されてしまう。 人間関係の緊張に加え、運動とで、大脳へ向かう、血流速度は速くなり、栄養素に水分が、使われてる時間が早くなる。この暑さに、慣れない、ゲームと人々との、2時間と言う、時間を、考慮すると、会話をはじめ、帯広の人たちとの、緊張のなか、発汗をはじめ、大きな疲労が加わったと思える。 おそらく、パークゴルフと言う、経験のない、プレイのあと、「ビール」を飲んだのだろう。 風の弱い日で、日射による、発汗から、体内水分量が少なくなっているとき、冷えたビールを体内に入れると、ビールによる利尿作用から、血液はじめ体細胞の、水分量が急激に減る。この生理現象により、嘔吐と下痢の症状は、よく起こる。 中川は、ゴルフプレイのあと、中川昭一後援会で、心を許せる、高橋猛文と、なじみの蕎麦屋で、食事し、蕎麦を、吐いたとある。 これは、「熱中症」で、汗をかき、ほてった、体へ、ふつうの飲料水ではなく、冷えたビール類を、胃へ入れたことからおきる。 通常、人間は、食事で、胃に食べ物を入れると、緊張状態の交換神経から、やすらぎの副交感神経へと、心身の状態は、切り替わるとなっている。そして、食べ物の消化のため、唾液と、胃酸が出る方向へ行く。 が、9月27日の、中川の場合、熱中症による発汗と、ビールによる利尿作用で、内臓をはじめとした体細胞と、血液中の細胞から、水分が、極端に、少なくなっていた筈である。 蕎麦屋での、食事のとき、消化液が出ないといけないのに、水分欠如の体細胞は、水分摂取と言う、新陳代謝が、本来とは、反対の、生理現象を起こす。 安心できる高橋猛文たちに、行きつけの蕎麦屋と言う、社会条件だろう、リラックスした中川は、まず顔面が蒼白になり、嘔吐現象を、したと思う。 中川殺人の、実行犯は、この、「2009年9月27日」の、パークゴルフ後の、蕎麦などの飲食で、吐いた事を、知っている人物たちによるものとなる。 これらも、帯広の人たちが、知っている、実証事項となり、わたしの、誤った所は、かんたんに、修正できる。 3)発声していないのに、もうろう発言とされた映像 この映像の断片は、「2008年9月24日」、麻生太郎内閣が発足する事から、日本テレビは、『ニュース・ゼロ』と言う、番組を作り、中川昭一が、大臣指名される、密着取材のようである。 @の写真、左端の新聞で顔を隠しているのが、中川である。取材する女史が、麻生内閣の人事について、下顎を動かさず、上顎と舌を、反って使用する、中国、満州語族に多い、「そり舌音」で、発声している。 「そり舌音」は、日本語での「あいうえお」の「え」での発声で、そのまま、舌を、上顎へ移動させる。母音の「え」の音韻での、舌の形のまま、上顎へ近づけ、口腔の、狭い空間により、発声が、可能になる。 よがり声を出す、女性は、新聞を読む、中川へ、「農水(農林水産大臣)に、石破(石破茂、衆議院議員)さんっていう!?」の質問を、かけている。 この声は、読売新聞社の、「よがり声に、どどめ色の口」を持っている、越前谷知子と類似して聞こえる。 「そり舌音」は、民主党の、蓮舫(1967ー)女史の発声に見られる。 著名な女優では、「松坂慶子(1952 - )」が居る。1970年代はじめ、女優の寿命は22歳ぐらいと言われていたが、彼女の活躍で、ずいぶん年齢が延びた。 満州語族の、日本語発声は、甘えたように聞こえるが、松坂慶子には、1980年ごろ、世田谷区の、砧撮影所に近い、経堂の北口を、自転車で乗りまわし、不自由な日本語で、挨拶をする、母親がいた。 1970年代の芸能界は、子役で、「この人、舌が長くってとか、舌足らずで」と紹介されている人に、満州語族の、発声が多いと、感じた。 満州語族が、形作った「舌音」と「歯音」は、歌手の、「テレサ・テン(ケ麗君)」の、日本語での歌声を聞いたとき、上手ではないと、感じたが、中国語での歌謡を耳にしたとき、日本語には無い、鳴き声が美しい、小鳥のさえずりに似た、甘い子音の発声に聞こえ、これが文化で、こういう人を、歌姫と呼ぶのだろうと思った。 日本語の音韻と使用法を、間違える議員に、社民党の、福島瑞穂(1955-)がいる。「小沢、土地購入問題」をめぐって、2010年1月17日、 「三党連立(しゃんとう、れんりつ)です」「「えーっ、国民の、皆しゃんは、あの、まぁっ、この件については、真摯の、説明を、求めていると、わたしは思います」と、形容動詞に、「真摯の」と、格助詞を使っている。 ふつうの日本人は、通常、形容動詞で使うばあい、連体形にして、「真摯な」と言うが、満州語族人は、2月のローマG7事件の犠牲者、中川昭一を、「国際会議で、、、。醜態をさらした」と、非難を繰り返した。だけど、福島瑞穂は、自身の、日本語が、日本人のものから離れた、不出来で、醜悪なものと、感じないのだろうか。 写真Aは、財務大臣、兼、金融特命大臣と発表する、麻生首相。 写真Bは、2009年2月、ローマG7で、一番最初に手を上げ、キョロキョロ、挙動不審の態度を取った、越前谷知子である。公開され、映っているフィルムを見ても、この、越前谷の言動が、一番、病的と言える。 映像も、新聞、雑誌記事も、編集者にかかると、自分たちの都合のいい、解釈が、優先で、自分たちの都合の悪い部分はすべてカットし、まったく、内容の違う物に、仕上げる。しかし、これが、殺人に結びつく、捏造だとわかれば、ふつうの市民は、許さないだろう。 イタリアのローマで開かれていた、2009年2月13日、17時、ローマに、着き、18時40分から19時15分の、「35分間」、ガイトナー財務長官たちと、「日米財務省会談」をした。この席で、中川は、バイ・アメリカンと言う、政策は、良くないことである、と発言している。
この後の、19時30分から21時30分まで、「G7・先進7か国の財務相・中央銀行総裁会議」での、「120分間」、会合と、夕食会の時間になる。 「夕食会」で、世界経済、回復へ、USAが、バイ・アメリカンと言う、保護主義貿易の方策では無く、各国は、協調し、財政出動をすると言う、段階で、日本だけに重荷を乗せてくる、欧米に対し、中川大臣と、白川方明総裁が、非常に緊張し、困惑、思索している映像である。 日本テレビに、読売新聞はじめ、各メディアは、2月13日の、ローマに到着したときの中川を、飛行機で、酒に、カゼ薬などを服用したと言う。 そうすれば、なぜ、このときの、重要な会合の、映像を、変体捏造し、「もうろう会合」などと、しなかったのか。 写真@の、中川の、両手の仕草は、このとき、風邪に腰痛の病状はじめ、いろいろなクスリを服用し、容態が優れなくても、日本だけに、大きく課せられた、財政出動と言う負担に対し、思案の動作というか、右利きのため、思案の動作は、左手の上に、右手をのせて居る。 また、写真Cの白川の、右手の指をみると、すべて、接触している。この動作は、犬や猫が、お座りのとき、手足を整えるのと同様、物事への、集中のとき、人間が取る、姿勢のひとつである。 この形は、日本の伝統芸、「人形浄瑠璃」の人形の、作り方と同様であり、静けさと、「間(ま)」を大事にする、日本人のものと言える。 わたしは2009年2月、中川昭一への、ローマ謀略事件を分析しているとちゅう、中川の、両手の「組(くみ)」が、理解しにくかった。 ふつう、大臣クラスは、テーブルに置いた、両手は、ふだん、リラックスしている。ところが、中川は、力を入れて、写真をみるごとに、ひとさし指から小指にかけ、力の配分が異なっているので、中川の動作が分からなかった。いったい、何を考えているときの仕草だろうか、と思っていた。 中川は、テニスをしていたとの事である。わたしのテニス歴は、生涯で、一日である。このため、中川のテニス好きからくる、手の鍛え方と言うのか、握力が分からず、国会での会議はじめ、写真B、C手の組み方を変え、手と指の力の入れ方が、理解し難かった。 2009年夏の、衆議員選挙で、わたしの、幼馴染になる、高砂市の、渡海紀三朗(1948 - )が、落選した。ベッド状態のわたしは、妻に、まったく無縁の中川昭一の結果を聞き、次に、渡海を聞いた。 わたしの両親は、渡海を、赤ちゃんのときから知っており、わたしは、家業による、播州の「自転車組合」でのバス旅行で、1歳児のころから、いっしょで、両親が、落胆していると思い、9月12日まで、連絡できなかった。 とうじの、バス旅行の光景として、渡海のおじさん(渡海元三郎)と、お兄ちゃんたちは、マイクの届かない、バスの中央に席を取っていた。1954年の秋、マイクのシールドが短いとき、自転車組合は機械が詳しいから、神姫バスの、中央部に、マイクの接続部を作ってしまった。 渡海のおじさんたちに、3度目のマイクが向けられたとき、おじさんは、静かに、うつむき、童謡が書いてある、小さな帳面を出し、小学生になった、お兄ちゃんと歌いはじめ、バスはこれだけで、男たちの、笑い声につつまれた。 わたしと父は、兄が酔うため、いつもどおり、バスの一番前の席に居て、一言も、声を出さなかった。5歳の兄の手に、幅5センチで、10センチ角のマイクがゆくと、兄は、両手にのった、マイクを、俯き見ているだけで、父と兄の間にいる、わたしは、その兄をみたまま、黙っている。 行き先は、大阪では、「松竹新喜劇」であり、若く、呆けた役の、「藤山寛美」を引き立てる、「渋谷天外」の演技を楽しみにしていた。 渋谷天外は、人形浄瑠璃での、手と同じ、動作でもって、静かで、上品な沈黙の、「間(ま)」を、大事にし、この「間」に、自転車組合のおじさんたちは、わらっていた。3歳になったわたしも、責任を感じながら、何も話せなく、バスの中はこれだけで、笑っている。 わたしの育った村では、渡海紀三朗、お兄ちゃんが歌ったのが、大きな事であり、これを話題にして遊ぶ。姫路から曽根の村の人が、つぎつぎ来た。社会党の田中(武夫)のおじいちゃんは、二回も、笑いながら、小学一年生になった渡海のお兄ちゃんを、自慢しに来たので、母は、兄に、「幼稚園で、童謡を習っているのに。意気地がない、、、」と嘆き、1955年から、兄は自転車組合のは、参加しなくなった。 わたしのイエとブリジストンとの関係を言うと、ブリジストンは、「溶接留め」の、簡易な安い自転車を作り、戦後、阪神工業地帯での販売を、と考えた。 が、わたしの祖父たち、阪神で、会社を経営する血縁と親戚たちは、ブリジストンのは、フレームの部分で折れ、人身事故につながるので、いっさい扱わなかった。 桑名も自転車屋をし、中部工業地帯は血縁だらけのため、ブリジストンは、町や村に、会社の労働者の、生命を大事にする、面倒な、家系と思っただろう。 @22時10分から、22時20分までの、「10分間」、中川昭一が、IMFのストロス・カーン専務理事と、「ユダヤ人 金さえ貰えば ご満悦」の、「1000億ドル」調停式である。 日本では、これまで、「日本テレビ」を中心に、2月のローマG7での捏造映像が、事実のように、報道した。 ローマでの映像は、スローモードで撮影したものである。スローモードは、瞼の上下運動からわかる。ヒトが眼腱を降ろす速度だが、酔っていたとしても、非常に早く、眠たいときであれば、開けるとき、ゆっくりした速度となる。 テレビ局は、この作為の映像に、中川が、別の箇所で、発言した声を、間延びさせ付け加えさせる事をした。確信犯による、許されない悪意として、中川が、発声、発語を、していないところに、間延びした声を付け加えると言う、内閣および、市民を動揺させた、刑事罰相当の、行為である。 Aは、会見が開始された、2分26秒ごろのである。ここで、中川が、言葉を、発声しているのに、映像からは、声が出て、来ていない。 Bこれは、よく取りあげられた、「あの〜」「ふぅっー」と言う箇所になる。 重要なこととして、中川は、マイクから口を離し、口を閉じ、「ふぅっー」と、など発声していない。記者会見での、別の箇所での、「ふぅっー」を録音移動させ、発声時間を、確信的に、間延びしたように、延ばしたものである。 現在は、撮影も録音も、デジタル式であり、機材も使いやすい。1973年ごろの、音響だが、大阪フェスティバルホールで、後方の席になるC、D席へは、音が届かなく、京都第一会館は、音が、左右に響かず、また、2階席には届かない。録音機は、1975年ごろまで、マイクは、直線の音しか、拾わないので、すぐれた技術者でないと、クラッシック音楽の録音は、なかなか、できなかった。 1980年代には、映像や音、スライス、カットは簡単になった。が、映像時間が5分であっても、良い編集にしようと思えば、10時間以上、2日ほどかかるときもあった。 2010年の現在、編集は、5分映像のばあい、器用に編集する人であれば、1時間、2時間単位あれば、充分なものができるだろう。 CNHKのヨシダと言ったように聞こえるが、記者は、自分たちの質問では、ペーパーを見て、読む。 D朝日新聞社の記者からの質問の箇所である。 「中国に対する期待?」と記者が言ったことへ、「中国のことは」「ロシアのクドリンさんが、ご発言されましたが」「これは、白川総裁が」と、左手で、左側の席の、白川を示した仕草である。 この、朝日新聞社の記者からの質問の箇所は、中川が、話しているのに、まったく、無言の状態が多く、放送業界のものであれば、誰でも、中川が、奇妙に見えるよう、故意に、作られたものであることが、わかる。 ローマでの中川の映像は、時間の単位が、細かい訓練をしている、音楽関係者であれば、事実と違うものであると、判断できる。 「日本テレビ」はじめ、報道各社は、デタラメを事実のように脚色し、自民党から民主党へ、政権を変えた以上、死者をまえにしても、真実の追究姿勢はなかった。 厳粛な死と、葬式を、眼のまえにしながら、中川への、名誉回復の報道は、いっさい、成されなかった。 そして、ただただ、ローマでの「もうろう記者会見」と、民主党の鳩山、小沢政権での、選挙で、「小沢先生のおかげで、勝利ができた」との、北海道11区の、石川知裕(1973- )議員に、敗北したからとのニュースを流した。 第二次世界大戦中を感じさせる、「ヒステリックな躁状態」のマスコミの社会状況と、洗脳された大衆の思考により、中川は、どこまでも、酒飲みで、「うつ病」と言う、心身の減退で、自殺のような死に方との、脚色のまま、世田谷での、10月8日18時からの通夜、10月16日帯広での最後の見送りも、歪んだ報道が、行なわれた。 10月8日、通夜の日、自民党の谷垣禎一(1945 - )総裁が、涙で眼を真っ赤にし、安倍晋三夫妻が、どれほど泣いたのか、という、表情をしていた。 また 福田康夫(1936- )元総理が、カメラやライトに対し、涙を含ませたまま、大きく眼を開き、慣れない様子の表情をされたのが、インターネットを通した映像からの、強い印象だった。 わたしは、中川の父、中川一郎、殺害事件のとき、「うつ病」と、さかんに言っていたのは、足寄町出身で、昭一のとき、大げさな泣き方から、市民に、「嘘無きをしている」と言われた人物、だったのではと記憶している。 中川一郎が亡くなった1983年1月、東京の記者たちは、福田赳夫内閣で、農林大臣を勤め、日本のことを考えながらの、良識ある仕事の処理と、考え方から、福田赳夫に、認められた、中川一郎が、邪魔になった人物がいた。たとえば、田中角栄、中曽根康弘のコンビが、主犯ではと見ていた。が、過去の経験は、2009年2月のローマ事件に、生かされなかった。 USAは不況になると、いつも日本の社会に騒動をおこし、金を奪う。1983年もそうだった。1983年1月、中川一郎の殺害だが、貞子夫人が、「中川一郎、殺し」と、怒りをこめたとおり、足寄町出身の人物が関与した。 犯行が実地できたのは、政治資金がない、福田赳夫や、中川一郎より、USA、CIAロビーで、公共事業と言い、国民の税金を、政治資金とする、田中角栄、中曽根康弘の配下の、金丸信、竹下登、小沢一郎へ接近したほうが、国会議員に成れると考えた、足寄町のが要因である。 田中、中曽根のブレインは、マスコミでは有名な人物だった。モスクワ五輪の放送権を、NHKより先にテレビ朝日へ、契約させた、朝日新聞社からテレビ朝日へ移った、「三浦甲子二」と言えば、思い出す人も多いだろう。 足寄町の人口をみると、刑務所入りした、有名な政治家たちに、歌手も輩出して、日本のユートピアみたいなのに、人口が、1950年16,531人、1960年19,385 人、1970年15,172 人、1980年12,667 人、1990年9,522 人、2000年8,315 人、2009年12月 7,937人と、激減化している。 1960年の、2万人近い人口だけども、この数値は、東京や大阪の郊外都市も、同じくらいである。 4)白川方明、日銀総裁のため、水を汲んだだけの、中川昭一の手 報道には、冷静さが必要と思える。が、民主党の「小沢一郎」の、慶応での同窓に、マスメディアを操作できる、広告会社、電通の「高橋治之」がおり、テレビ局では、東京放送(TBS)に、田中角栄の友人、A級戦犯、「児玉誉士夫」の、息子の「児玉守弘」がいる。 こういった人脈を知って、気配りが利く、中川昭一大臣の、行動を、日本のマスコミは、スキャンダルの方向へ、変体、編集し、この悪意ある捏造を、反復し、市民を洗脳してしまった。 15時45分から16時5分の、「20分」の「共同記者会見」である。会議を要約する、中川に、間違った、言動がなかった。にかかわらず、「人妻が好き」、首相になりたい、それだけが目的の、鳩山由紀夫は、口がいやしく、ゼニに敏感な、文化人を、勉強会と称して、食事会に呼び、2009年2月22日は、筑紫野市の、民主党衆院議員の会合で、「大臣や政治家というより、人間としてやってはいけない」「恥をさらした、罪は極めて重い」となど、批判をつづけた。 鳩山という、政治家としての采配してゆく力量をもたない人物が首相になり、いったい、国民のための重要な「国会の時間」を、ふしだらな鳩山個人の犯罪である「故人献金」と「母親からの10億円単位の政治資金」などで「どれだけの月日」を、使ったことか。 21世紀に入り、大不況の日本の金融で、1億円単位など、銀行から、おろすと、支店長たちが、あわててくる。それが、兄弟して、母親から、20億円もの額面を、もらったという。 強い心身を持つ、中川昭一は、覚醒剤に、脳裏が冒されながら、白川方明(1949- )総裁に、水が必要だろうと、コップを取った。 そして、G7の会合の要約を、発表する、白川に、邪魔にならないよう、白川の右脇に、ミネラルーウォーターを入れたコップを、置いた。中川の誠意を、大犯罪と言える、映像にまで、日本テレビは加工した。 @中川が、白川のコップを、間違えて、取ったとして流された映像の、はじめである。 Aは、各マスコミが取り上げたものである。中川は、白川が、遠慮深いため、発表内容を、間違えては、いけないと思い、気をきかし、左手で、白川のコップへ、手をのばしたところである。 Bは、資料を読む、白川の、邪魔にならないよう、中川が、白川のコップを、持ったところである。 Cは、中川と白川のコップが、中川大臣の前に、並んでいる写真である。この時点、中川のコップは、伏せられ、昼、14時50分から15時5分にあった、「15分間」の、「日露財務相会談」と同様、中川は、水を飲んでいない。 D一番右端だが、中川は、白川の、立場が大事なため、白川の手元は、書類だけにした。気を配る性格そのものと言える。万が一、倒れてはいけない、水の入った、コップ類など、邪魔なものを、すべて、自分の前に置いた。そのため、白川の前には、資料しかない。こういった、中川の、思いやりが、反対に捏造された。この重要な映像や写真を、解説した、日本はじめ、世界の、メディアが在ったかどうか。 中川は、2009年2月、ローマG7の席上で、「各国のひどい状況をみてきました」と、発言した。ふつうに、考えて、USAアメリカの搾取により、日本の貧困状態が、一番にもかかわらず、他の国の社会状態を鑑みる、同情深い、政治家が、どこに居るのか。 2007年、福祉の社会制度が発達したドイツは、大不況でロシアや東欧圏から、流入してくる、若者たちの数の多さに対応できず、浮浪児とし、見放す方針を採った。そのため、ベルリンなど、都市部は、数千から万単位の、異国からの、若者ばかりとなっている。これはイギリス、フランスも同じであり、かれらは、自国民を優先することにした。 中川を犠牲にした、経過がありながら、西欧諸国の、政府方針を知らない、民主党の藤井裕久(1932 - )財務相は、2009年10月3日、トルコのイスタンブールでのG7で、「子ども手当」を発言し、会場を、白けさせた。 @の写真左端は、2009年の春、何を、政治評論しているのかわからない、大阪の「やしきたかじん」の番組に登場していると言う、80歳の悪党、三宅久之(1930 - )である。この人物は、毎日新聞社を経歴したらしい。 Aは、「中川昭一、総決起大会」が、2009年8月9日、午後2時、帯広市において、三宅が「ゲスト」としてある。 Bは、ローマでの会見に触れ、「私(三宅)がこれから申し上げることは、激励の挨拶ではありません」「中川昭一を叱りに来たと」言ったときである。中川夫妻は、内容を、知らされていなかったのだろう。奥様が、驚き、中川の、表情を見たときであるが、中川は、平然とし、忍耐からくる、微笑みの、面持ちをしている。 Cは、田中、中曽根、この人脈の、読売新聞の渡辺恒雄(1926 - )、日本テレビの氏家斉一郎(1926 - )との関係だろう、てらてら、脂ぎった、80歳で子供の三宅は、「これから、お話し、申し上げることは」「ベロベロになる,、酒なら、止めてもらいたい」「酒、ウイスキー、このブランデー、高いんだとか、一切、かまわないから全部捨てちゃいなさい」と、計画的で、中川には、取り返しのつかない、票を失う、選挙妨害で、人権侵害の、講演をした。 Dは、三宅久之80歳でも子供の、名誉毀損の与太話に、諦めの境地の、中川夫妻である。 BとDの、中川の顔だが、時間経過があるのに、冷静で、微笑んだまま、表情に変化が見られない。「中川昭一」は、これほどに、心身を、静寂する訓練をしている。ここまで、心身の強い人物が、少々の体調のことで、倒れるか、どうかである。 わたしの血縁であり、後見人の、毎日新聞社に勤務した、佐川正雄(旧姓、前田)を、1977年毎日新聞社倒産のとき、殺人計画に、加担したり、2001年、「NY、9、11、テロ」で、死者となった血縁になる、イトコたちから、ゴールドマンサックス社の主導によると、情報を、確認して、番組制作を完成させ、放送しようとした、わたしの兄と同じ眉毛をしたNHKの長谷川浩を、殺害したのは、こういった人物たちと感じた。 毎日新聞社、中部本社、報道の後、東京興信所社長の佐川正雄にしろ、NHKの長谷川浩に共通しているのは、子供が無いと言うことである。ところが、血縁による、「イトコ会」と言うのが在る。 わたしは、ハトコを数えると、何人いるか、わからない家系で、育った。後見人の、佐川だけが、わたしの母を、愛称で呼べるが、わたしの将来で、論文が書きあがった、1975、76、77年に、「もう、(出版や、学界での事は)大丈夫だよ」と喜んで言っていた人物が、死亡するか、どうかである。 NHKの長谷川浩は、1960年、鳩山一郎という、USAロビーに殺された、祖父の、桑名別院の葬儀のとき、ネフローゼで仮退院のわたしは小学二年生で、長谷川は、中学生だった。 気絶しても、母に、起こされ、お辞儀ばかりの、葬儀をつづける、8歳のわたしを見て、また、祖父の遺言どおり、学問に専念している、わたしが居て、自殺などする筈がない。なにより、温厚で、感情を出さない性格の長谷川が、自殺したと考えるNHKの同僚など、居ないだろう。 NHKが、極端に、悪くなったのは、USAロビー、田中、中曽根、小沢系列の、金と名誉が欲しい、成金の「島桂次、海老沢勝二」NHK会長たちの時代となり、長谷川浩の殺害も、この連中によるものだろう。 @の中央の右は、民主党政権になれば、日本の高い、電波使用料を下げ、テレビ界が明るくなると言うデタラメを、自ら出演する『たかじんのそこまで言って委員会』で、まくしていた、50歳をすぎた子供、中国より南、南方モンゴロイドの形質をした「原口一博」(1959 - ) 総務大臣である。 元・民主党員、中曽根康弘の、顔だが、「大仏顔」と言えば良いが、南方モンゴロイド、クメール系である。同じく、民主党には、クメール系の山岡賢次(1943 - )などが居る。 『たかじんのそこまで言って委員会』は、番組名も知らず、テレビで、一度も見たことも無い。 この番組の進行役、50歳を過ぎた子供、辛坊治郎(1956ー)は、東京の放送局に就職できず、読売が、アナウンサー採用にした。 1980年ごろの、辛坊治郎は、地味な顔で、おずおずしており、関西弁のニュアンスがわからないことで、一年は持たないだろうと、友人にきいていた。 放送倫理がわかっていない、辛坊治郎は、まだ、成人していないのだろう。中川昭一の、ローマでの事を、「世の中にはやってはいけない事がある」、「オメオメ有権者の前にもういっぺん出るな」、「お父さんも自殺されてるし」と言い、「自殺すればいい」か「首吊って死ね」「切腹もの」とかの、内容を言ったらしい。 番組の中心、やしきたかじん(1949- )は、1970年代、セクハラで有名だった。1973年ごろ、高級と言われる、レストラン・バーでのピアノなど、生演奏が普通で、祇園では、京都市立大などの女学生が、大学の許可をもらい、アルバイトをしていた。 友人からの、相談ごとで、最初、「オフコースが、、、」と言われたとき、わたしは、すぐに「もちろん、が何?」と言い、困った顔をした男女とも、「アリスが、、、」、と言ったので、わたしは、何を言われているのか、わからなかった。 一番の困り事は、「祇園に、ヤクザが居ます」と女学生たちが言うので、1970年代はじめ、京都では、ヤクザが、市中に、でまわる事は、禁止事項だったので、日を変えて、級友もまじえ、聞いた。 この事を言うと、ピアノを演奏していると、床をゴロゴロして、足元まで、来て、覗いて、触ったり、まつわりつき、スカートをつかみ、中へ顔を突っ込んで来ると言うのが、「たかじん」だった。 丑年で、還暦の子供、「たかじん」は、ローマの中川の、変体トリミングをした、映像を見て、「オレの、北新地の、午前1時30分の顔や」、「恥ずかしい、表を歩けない」、と言っていた。 中川昭一が、酔っていれば、バチカン博物館は見学など、不可能に近い。他の民族の財産と命を略奪したのが、欧米の宮廷文化であり、バチカン博物館は、展示の見学距離だが、7キロ以上歩く。北新地から心斎橋の往復の距離である。 2月14日の、15時45分から16時5分、「20分間」が、現在も揶揄している、「共同記者会見」で、その後の、16時20分ごろから17時50分まで、「90分間」のバチカン博物館の案内だが、このとき、距離にして、約4キロ以上あり、酒に酔った人物が、歩けるのかどうか。 恥ずかしいと言うならば、「たかじん」の方である。1990年代のヒット曲で、「東京」があり、渋谷のレコード屋に流れていたので、買うと、継ぎはぎ、まるわかりで、聞けないかった。 1980年代から、4分音符は、音名どおり、1小節を、4に割ったもので、16分音符は、1小節を、16に割ったものであり、これぐらいの単位は、音のミスなど、切り貼りできた。ところが、「たかじん」は、していない。 2000年ごろ、ベストCDと在るので、別の録音と思い買うと、また、昔どおりの、切り貼り、まるだしだった。 60歳で子供の、「たかじん」だが、番組制作局は、「読売テレビ」になっている。1970年代、祇園で、脚にまつわりつかれたり、セクハラに遭った、女史たち、金持ちの「読売」が、鳩山ぼっちゃんの、子供手当て、一回、1500万円以上、ひとり10億円ぐらい、責任を取ると思うから、10人でも、1000人でも、あの時代、祇園で、からんできたのは、「やしきたかじん」と、思うものは、「読売」系列に、請求すれば良い。 テレビでは、中川昭一が、犠牲になっても、中川の言動などが、奇妙であると捏造した、確信的、映像が作られ、映されつづけた。 @は、FNNの安藤優子(1958- )による、アナウンスは、極めて、中立の印象が在る。が、中川に関しては、作為の、非常に嫌味が交じった、発声だった。 安藤によると、FNNは、9月20日、中川昭一を、北海道の記者が、取材しており、取材へ至るまで、「事務所サイドの話では『ものすごく体調が悪く、立っていられない』と」告げられ、取材時間が、2度、変更された事を言う。 写真Cは、9月20日、帯広市が経営している、世界で唯一という、足の短い、農耕馬、道産子(どさんこ)が「ソリ」を引き、競う、「ばんえい競馬」について聞かれ、「わたしも行けば、数千円寄付してきますが、当たったことはないんだけど」と、微笑んだ表情をした、中川で、若い世代になる、喜多真哉記者へ、にこやかに答えている。 さらに、安藤は、亡くなる2日前の、10月2日、中川元大臣は後援会の会合を突然キャンセルし、後援会幹部は「体調はずいぶん具合が悪いと言っていました」などと、告げた。 ふつうの人は、A、Cの中川の笑顔と、@安藤B喜多真哉の顔の、どちらが、正常で、好印象を持つだろうか。 中川の、スケジュールが、込み入って、忙しい事は、2010年から、「@」北海道の、民主党の、「鳩山由紀夫」、故人献金問題、刑事罰相当の巨額脱税問題、「A」「小林千代美」議員の、日教組からの政治資金、規正法違反問題、「B」小沢一郎、土地購入での4億円単位の、政治資金、規正法違反の「石川知裕」議員の問題など、これらは、北海道の、政治家同士からの連絡があり、中川は、心身とも、非常に、忙しいときだったと思える。 北海道で、3名の民主党議員による選挙違反があり、しかも主犯が、鳩山首相に、小沢幹事長と言う、民主党のトップで、法律に違反し、獄中生活で、当然の人物たちが、「民死党」と、言っている。 そのため、9月20日ごろ、マスコミに話せない、東京と帯広との連絡や会合が、在り、民主党北海道の議員が、選挙違反で、逮捕となれば、中川昭一が、繰り上げ当選となる。そのため、選挙事務所などとの連絡で、多少、緊張し、これらからの、時間のズレを、体調のせいにしたのではとの可能性が、考えられる。 また、体調を言うなら、2009年9月13日に、台風14号がマリアナ諸島で発生。14日には、台風15号が南シナ海北部に発生しおり、26日には、台風16号がフィリピンの東で発生している。 わたしなど、ゼンソク持ちの、まったくの病人だから、8月の下旬につづき、9月中旬から下旬、ほとんどベッドから、動けなかった。 この時期の、北海道は、2009年8月から、サハリンの寒冷低気圧、オホーツク海の低気圧が発達し、東北地方が言う、「東北風(やませ)」が吹き、不作の年に当たり、十勝の、第一次産業の人たちには、経済不況につづく、気候による、凶作の年に当たってしまった。農林水産大臣をした、中川は、こういったことに、敏感である。 住居は、世田谷区下馬、と言うことで、ここは、東京ICにつづく、「1」首都高速3号、「2」都道420号線、「3」国道246号など、大型トラック類が通る場所である。 トラックはじめ、クルマにオートバイも、自動車の回転軸から、車体である大きな金属物が動くと、電磁波に振動音が、腰痛持ちはじめ、病人には、痛みを、増加させる。この、中川の腰痛の原因は、閣僚であってすら、解決しない「北朝鮮」の、「拉致問題」の、会長だった事で、よけいに痛みが増しただろう。 FNNの取材陣は、この、映像での、中川の、若手に気配った、表情と、返答を聞き、ほんとうにウツ病と思うのだろうか。 大事なのは、中川が、ソフトバンクの孫正義は知人だから、「ばんえい競馬」の存続に、協力を頼んでいると言う事である。北海道の道産子もだが、中川が、木曾の人なら、農耕を手伝う、小さな木曽馬の繁殖に力を入れると思う。 日本に、数少なくなったものを、知っていて、大切にしようとする、中川昭一を、左欲の人は、「タカ派」と呼称する。 5)9月下旬から、呼吸が止まる10月4日までの、経過 事件通報は、10月4日、朝8時18分、中川夫人から、119番へ、そして、救急隊員が、死亡を確認し、警察へ連絡したと言う。 午前の10時41分、住居の、管轄となる、世田谷署が、検視を、始めたと言う。 中川昭一は、ポロシャツ、短パンの姿で、「うつ伏せ」の状態であり、掛け布団はかかっておらず、着衣、寝室ともに、乱れがなく、外からの侵入の形跡が無いことから、警視庁は、事件性がないと判断したらしい。 遺体は、14時30分ごろ、自宅から、鑑識へ、移された。 この経過から、行政解剖により、10月5日、監察医からの、死因は循環器不全であり、死亡推定時刻は、3日の23時ごろと発表した。 実証的なる、中川の死について。10月3日、9時前後、玄関から、二階の寝室に運ばれ、再度、仮死から、致死へといたる、麻酔をかけられたと思える。 大事な留意は、中川の、常人と違う、発達した、咽喉。ならび、頚部位の、血管の太さである。 「死」への判断は、神経痛止め、抗けいれん剤の服用の、考慮から、重要な一点に、「@」仰向けか、「A」うつ伏せの状態だったかに在る。 中川の、健全な心身から、睡眠中、副交感神経が働いているときに、「うつ伏せ」で、吐くと言う、症状を、起こすということは、まず考えられない。 「死」にいたる基礎として、仮に、薬剤である、腰痛止め、抗てんかん剤が、効かなかったときの死亡は、「仰向け」の状態であり、「顔」は、時間とともに、白蝋化と、進んでゆく。 10月4日の夜、弔問へ、首相経験者が、つぎつぎ、弔問に訪れ、西洋のメディアは、重要な人物が亡くなったと認知したようだった。 この事件での、弔問者の中で、最重要になるのは、情報が集約される人物からの発言である。 麻生太郎(1940- )の言葉は、10月4日の弔問で、「死因が、よく分かりません、でしたけれども。すごい、ショックでした」、「この方が、亡くなられたというのは、非常に、自由民主党としても、大きいダメージを受けたと」、「保守の理念を、再生していく、うえでは、もっとも、この方は、期待をされて、おられる、人物だと」だった。 中川が、国家、国民を考える、政治家として、必要な、大衆を知った上での、経験からの素早い、判断力に対し、尊敬し、学ぼうとしていた、麻生太郎が、「この方」と言う、表現をした。 逝ったのに、近い日、電話連絡を取っていた、安倍晋三(1954- )は、弔問の日、「非常に元気そうで」と言われ、自民党の敗北を、反対に励まされたと言った。 「連絡を密に」と約束した、自民党所属のとき、各大臣を経験した、「真・保守政策研究会」の、平沼赳夫(1939 - )の、「(中川さんが)次回の選挙で、捲土重来を、期すって、大変はりきって」と言った、言葉にもある。 このように、重要な人物から、大切にされていて、健康診断でも異常なしと出た人が、死ぬと言う可能性は、無い。 西洋メディアは、日本時間で、10月5日ごろから、報道をしはじめた。 中川昭一の、人物紹介は、ローマの出来事により失脚した、 「タカ派」の政治家で、父親の中川一郎も、身近な人が関与していたと思える、親子して、ミステリアスな、殺害のようだったと言う、とまどいを交えた、発声での、報道をはじめた。 西洋の各メディアによる、東京からのレポートは、短くも真面目で、発声と文面から、このレポーターたちは、他殺と考えているのだと思った。 また、政治家としての中川昭一は、国民の生きる権利を守るという、基本使命を言っている人物なのに、なぜ、日本では、タカ派と扱われているのか、イギリスを除く、フランス、ドイツをはじめ、ヨーロッパ諸国の、30歳前後に見える、若いマスコミ人たちには、奇妙さを、共通してゆく、雰囲気があった。 マスコミで流れた、9月下旬から、10月はじめの、中川昭一の、日々を、要約する。 @9月24日(木)ごろ、中川、「健康診断」で異常なし。午後3時ごろから、2時間ほど、プロの、テニスプレーヤと、シングルテニス。 A9月24日、25日(金)ごろ、中川が、「谷津義男(1934 - )」、元農相へ、中川事務所を、議員会館前から、日本橋へ移転するという連絡をした。 B9月25日か、26日(土)に、帯広市へ。 C9月27日(日) @)帯広市の友人である、編田照茂(1954−)市議主催の、パークゴルフ大会。 (民主党の「安田正雄」(1948−)市議の、ブログには、「秋季パークゴルフ大会・焼肉懇親会」となっている) 午前9時受付で、9時30分から11時すぎまでの90分、18ホール。 帯広は、この日、快晴、気圧1019hpa。朝は、気温19度で、風は北からの弱いもの。午後気温21度、風は東からの弱いもの。湿度は35%と、乾燥した状態だった。 A)中川後援会幹事長の、「高橋猛文」と、なじみの蕎麦屋で、食事をし、中川、嘔吐。 同、9月27日夕方、中川は、東京へ。 D9月28日ごろ、妻、侑子が、中川昭一の母、貞子へ、元気であるとの電話連絡。 妻、侑子の母である岩田剛(鹿島建設勤務)夫人も、このころか、9月30日ごろ、中川昭一と会い、いつもどおりの、元気な体調だったとのこと。 E9月30日ごろ、伊吹文明派の、谷津義男と会い、話し合う予定。 ところが、十勝、帯広から、中川の後援会の、組織を作り直す、急ぎの用件とのことで、谷津には、電話で断ったとのことで、谷津は、普段と変わらず、元気だったとのこと。 F9月30日の日本の気象条件である。 @)台風16号(KETSANA)、台風17号(PARMA)につぎ、台風18号(MELOR)と、つぎつぎ、台風が発生。 A)気象庁確認で、日本の南、マーシャル諸島で、中心気圧 910 hPa、最大風速 55 m/s、最大瞬間風速 80 m/s との、名古屋から東北、北海道まで、日本へ被害をもたらした、超大型台風、18号(MELOR)の発生。 G10月2日(金) この日の帯広は、最高気温が15度ほどで、湿度が88%と、非常に高い。この気象状況の帯広市の、北海道ホテルで、正午から、 @)「十勝毎日新聞、創刊90周年記念」。 A)岩野洋一会長による、「帯広連合後援会、幹部会議」。 B)鈴木孝昌(1943−)会長による、「中川昭一を支援する帯広市議の会」。 などが在り、中川の体調がすぐれず、妻、侑子が、代理で出席したとの報道だった。2日の、中川だけれど、急遽決まった、中川の支援の会と言っても、3日は、一年前に決まっている、恒例の大きなテニスの集まりがあり、東京へ、戻らないといけない日である。 C)中川は、2008年、プロテニスの、「岩渕聡」と、ダブルスのコンビを組み、ゲスト、出演している。 テニスの普及のためだろう。毎年観戦している、『東レ・パン・パシフィック・テニス』(有明コロシアム)決勝戦への、出席のため、中川は、同2日(金)、一日、四便ある、日航機の、「とかち帯広」発→「羽田空港」着の、10月の時刻表は、「1」10時15分、「2」13時30分、「3」15時45分、「4」20時20分で、どれかの便に、乗らなければ、テニス観戦はできない。これらの、検証は可能だろう。 H10月3日(土) @)決勝戦は、午後の13時のため、テニスの友人たちが、午前の11時ごろ、世田谷区下馬の、中川宅を、訪問。2007年から、フジテレビ勤務で、警視庁担当の、娘、真理子が、玄関へ、テニス仲間への、応対に出る。 父、昭一が、眠っているとの返事。しかし、テニス仲間の要望で、真理子は、再度、父、昭一の、ところへ確認をしに行ったとのこと。 A)妻、侑子が、外出先から、帰宅。午後になる21時過ぎ、夫、昭一が、寝室に居り、「上半身だけを、ベッドにもたれ 掛けるようにして、うつぶせで寝ているのを確認」したとのこと。 I10月4日(日) @)朝、8時15分、妻、侑子、夫、昭一の部屋へ、起こしにゆき、死亡に、気づく。 A)8時18分ごろ、妻、侑子、119番の連絡。昭一の顔には、うっ血他、外傷無し。長女の真理子(25歳)、長男(17歳)は、世田谷区下馬の自宅に、不在で、妻、侑子のみとのこと。 B)朝、中川侑子が、十勝連合後援会の、「高橋猛文」幹事長の携帯電話に、交信、着信跡を残す。 C)侑子夫人から、携帯への、着信に気づいた、高橋猛文が、中川侑子へ、電話を。 D)8時30分、高橋猛文が、帯広連合会、「岩野洋一」後援会長へ、連絡。 E)9時ごろ、妻、侑子、夫、昭一の叔父になる、「中川義雄」参議院議員へ、電話連絡。 着目点は、10月4日の、ニュースの文面に、「3日、午後9時ごろ、外出先から 帰宅した妻の侑子が、中川昭一が 上半身だけを ベッドに もたれ掛けるようにして うつぶせで 寝ているのを 確認したが、異常は感じなかったという」ところである。 この、「上半身だけをベッドにもたれ掛けるように」と、言う、表現だが、この姿勢が、頭の位置など、わたしには、分かり難い。 そして、「4日、午前8時15分ごろ、うつぶせの状態で死亡」「ベッドに若干の嘔吐物」がありとの、警察からの、報告で、死亡推定時刻が、3日の23時ごろとの、表現なども、わたしには、非常に、理解し難い。 うつぶせの姿勢を取り、11月3日の、21時には「異常なく」、2時間後の、23時に「死亡」と言う、現象がありえるかどうかである。 着衣について、多くのマスメディアが、「ポロシャツ、短パン姿」とあり、『産経新聞WEB』に、「寝間着姿」と在った。 中川は、風邪がひどかったとの事である。もし、咳こみ、嘔吐し、死に至る方向へゆくなら、3日の21時の、時刻に、中川の、顔から首に、直径、2、3ミリの星状にみえる、「紫赤班」が、かなり出ており、苦しいとの内容を、郁子夫人に、手を使っての動作でも、訴えるからである。 ふつう、眠っているばあい、息がつまると言うのは、食べ物が詰まったり、痙攣から、舌が、喉へ、落ちたばあいで、「仰向け」の状態である。 「うつぶせ」のばあい、反対の姿勢であり、嘔吐が簡単となり、舌が喉へ落ちるという、この現象を、起こし難く、呼吸困難から、救われる。 有能な政治家の、凄みの利いた、響きのある声は、オペラ歌手の数倍、咽喉を使う。中川昭一の、演説で分かるとおり、中川は、ドスの利いた声を出せる。鍛えられた咽喉を持つ、中川の、年齢と体力から、喉に詰まると言う症状が、起こりえるのだろうか、と言う点である。 うつぶせによる睡眠の健康法は、インドの「ヨガ」にあり、別に、習わなくても、スポーツ選手のばあい、中学生から、しぜんにする。 水泳部の合宿のばあい、朝の8時ごろから、18時ごろまで、10時間近く、泳ぐ。 合宿中に、授業を補う、補習があり、階上の教室であれば、高校生などは、階段がのぼれないぐらい、疲労している。 わたしの経験では、階段がのぼれないぐらいの、レベルは、枚方市の啓光学園での、ラグビー部と水泳部である。ラグビー部は、疲れても、仰向けになったりしながら、スクラムで頭をぶつけた、タックルで背中や腰が痛い、太ももが痛いなど言い、まだ手を使い、階段を、這うように、のぼってゆく。 が、水泳は両手、両足とも、使い、口も鼻も、塩素殺菌の水により、ヒリヒリしており、呼吸も大変なので、皆、うつぶせのまま、無言で這っていた。 階段を二、三段のぼったら、止まり、呼吸し、何度も、うつぶせの状態で、倒れ、廊下はころがりながら、三階の教室へと行き、昼の休憩時も、夜の睡眠時も、大の字の形で、水泳部の大半が、うつぶせのまま、眠っていた。 20時から22時に就寝し、6時か7時に起床のスケジュールで、塩素で髪の毛は茶色になるのは、いまも知られるが、1968年ごろ、ゴーグルが無く、塩素で眼がやられ、水泳部の、誰も、眼が開けられない。 青少年の、疲労により、眼が開けられない状態については、高校や大学での、スポーツ大会で、全国クラスの選手は、皆、経験しているはずである。 被害者、中川昭一の、着衣は、パジャマなどだったと思える。長女、真理子が、3日の11時ごろ、即座、帯広の、妻、侑子に連絡したと思える。 時間経過である。3日の11時ごろから、侑子夫人が、帰宅の21時まで、「10時間」も在る。 この10時間が、問題となる。妻、侑子は、夫、昭一の母、貞子へ、至急、連絡した筈である。 死亡発見時の、「ポロシャツ、短パン姿」について、死亡推定の、10月3日の東京は、最高気温は15時ごろの、25℃ほどで、湿度が77%とのことだが、21時には、21℃で56%と変化し、「ポロシャツ、短パン姿」は、湿度の関係で、肌寒い。 この「ポロシャツ、短パン姿」は、はじめ、娘、真理子が、そして、昭一の母、貞子と、妻の侑子たちが、自殺風に、汚された部屋の様子に、驚き、死後硬直にかかった、体のパジャマ類を、ハサミで切り、着せ替えが簡単な、着衣に換えさせたものと、わたしは考える。 中川の体重を、仮に、60数キロとすると、人間の水分は体重の70%ほどあり、死後硬直にかかった、重さの実験として、丸めた毛布などに、60キロの水をかければ、かかえるのに、どれだけ難しいか、体感できる。 殺害犯たちが、死亡現場を、中川自身、服用していた、腰痛止めで、抗てんかん剤として使われている、薬品を多量飲み、自殺と思わせるふうに、クスリの包みなどを、散らかした部屋の様子にしたことから、家族が、混乱したのだろう。 落ち着けば、中川は、10月2日(金)昼すぎ、「とかち帯広」、15時45分発ぐらいの、JALに乗り、羽田に、17時25分ごろ着き、20時ごろ、世田谷の自宅で、相互に、連絡をしており、10月3日(土)の朝となり、自殺も病死も、100%無い。足寄町のは、飛行機など、時間経過を知っているのだから、少し考え、嘘泣きより、「おかしい」、「絶対に違う」と言うのが、政治家である。 妻、侑子が言った、3日の21時、呼吸の在った、中川昭一と言う、時点は、長女真理子と長男を、母の貞子か、母の岩田夫人宅へ、預けた時間だろう。 この3日の21時から、4日の8時15分に死亡に気づいたとする、「11時間」ほど、妻、侑子は、電話で肉親たちと、事件処理の、連絡を取り合っていたと、思う。 わたしが推定した、中川の行動と、着衣、部屋の様子については、妻、侑子、娘、真理子、母の貞子たちは、周知の事柄となる。 昔、神経痛止めでの、バルビツール酸系で、致死となるケースは、多く報告された。1990年ごろから、良い薬が出ており、仮に、ベンゾジアゼピン系を多量服用したばあい、意思どおりに行動できないとか、幻覚が見られても、死に至ることはないだろう。 また、通常の、抗うつ剤で、あれば、少々、多めに服用しても、死には、至らない。ただの睡眠状態のままで、家族が危険と思ったら、病院へ運び、胃洗浄をしてもらえば、済むことである。 わたしは、世田谷区下馬の、中川宅を、インターネットの映像で見て、「核家族」であることに、驚いてしまった。こんな、無防備の住居で、日本のこと、世界の平和のことを、考えてと思った。 まず、中川宅の、家族構成をしり、中川の、妻や子供、他人をかばう、性格、行動をしるものであれば、朝、財務省です、警視庁ですとか、書留です、宅配便ですとの訪問があれば、かんたんに、殺せる。実行へと、うつすのに、何度か、本物を装い、宅配便ですなど、練習をしておけばよいことである。 しかも、「10月3日」の8時50分は、コペンハーゲンであった、IOC総会からの帰り、鳩山首相夫妻が、政府専用機で羽田空港に着く。「10月4日」の8時30分は、石原慎太郎都知事たちが羽田に着き、警視庁は、厳重体制の配置で、都市部の警備が、ふだんより、欠落した状況である。 殺害方法は、玄関口あたりで、即座、アルコール系の麻酔薬で、口をふうじ、仮死状態へもって行き、部屋へ運び、医師の処方の、抗うつ剤、腰痛止めのクスリを、多めに、口へ入れ、アルコール飲料を飲まし、このあと、舌を押し、胃の中のものを、吐かせ、麻酔薬を呼吸させ、致命的な状態にした、古典的なものだろう。 犯行時刻は、午前9時、前後と思え、見張り役などを入れ、最低4人いれば、完全犯罪にできる。 この時期、FNN勤務の、長女、中川真理子は、小沢一郎の、「西松建設」と関係のある、「富永建設」。イトマン事件での弁護士、「富永義政」の弟になる、小沢一郎氏と親しい「トミナガ」の「富永保雄」、前社長に、かくまってもらい、逃走していた、覚醒剤所持での、サンミュージック所属の女優、酒井法子、担当だったそうである。 長女、真理子の、仕事の拘束時間は、犯行者たちが、簡単に、調節できる。10月1日、2日に、警視庁管轄になる事件、事項を、起こせばよいことで、取材内容を、テレビ局へ持ち帰り、編集まで、かかわる仕事にすれば、帰宅は深夜から朝方になる。 民主党、小沢一郎の関連事件を、少し、列挙すると 1>1998年2月19日、 ホテルで酒の瓶を置き、「東京4区」の「新井将敬」衆議院議員が自殺(50歳)。 2>1998年3月29日、 「森田健作」、衆議院、東京4区の補欠選挙で、当選。 3>2000年3月16日、 中曽根、小沢の子分、「山口敏夫」(元・労働大臣)、偽証、背任罪で、実刑。 4>2000年5月14日、 小沢一郎と対立の、「小渕恵三」総理が、4月の脳梗塞から、死亡(60歳)。 5>2000年6月2日、 小渕総理を継いだ、「森喜朗」内閣の解散、選挙は、6月25日。 6>2000年6月19日、 「竹下登」、元総理、死亡(76歳)。 7>2000年6月25日、 第42回、衆議員選挙で、サンミュージック取締役の、森田健作、当選。 8>2000年7月18日、 サンミュージックの酒井法子担当、「溝口伸郎」取締役が、自殺(54歳)。 9>2000年10月2日、 「中西啓介」(元・防衛庁長官)引退。2002年1月27日、心不全で死亡(60歳) 10>2005年3月13日、 千葉県知事選挙、森田健作、民主党推薦の「堂本暁子」に負ける。 11>2005年7月18日、 小沢の子分、イ・アイ・イの「高橋治則」、クモ膜下出血で死去(59歳)。 12>2009年1月26日、 森田健作、千葉県知事選に、再挑戦と、正式発表。 13>2009年3月29日、 知事選の結果、民主党などの推薦者たちと競い、森田健作、当選。 14>2009年8月3日、 酒井法子の夫、覚醒剤で、現行犯逮捕。 15>2009月8月8日、 酒井法子、出頭、逮捕。 16>2009年9月11日、 酒井法子、「奄美」でも、覚醒剤使用から、追起訴。 17>2009月9月17日、 酒井法子、保釈。10月26日、東京地裁で、即日、結審。 18>2009年10月2日、 詐欺、横領罪の「山口敏夫」、東京拘置所から刑期まえに、仮出所。 テレビ局での報道や警察担当になると、仕事が終了するのが、午前1時、2時は通常で、ふつうの人には休日でも、朝方に帰宅、しばらく休んで、会社へと言う事がある。 10月3日の11時ごろ、長女、真理子が、父、昭一を起こしに行ったとき、アルコール系の麻酔をかけられ、ベッドの中で、動けなくなっている、昭一を見たとき、自殺にみせかけた、犯行現場を、自殺だと、勘違いしたのではと思える。 娘、真理子は、北海道の帯広に居たと思える、母、郁子へ連絡し、父、昭一が、呼吸をしている事を告げ、妻、郁子に、「再度の連絡まで、そのままに」、と言われたと思える。 政治家の妻が取る手段は、まず、一番信頼できる、昭一の母、貞子への連絡である。次に、娘と息子のことで、自身の母へ連絡を取り、事後処理を、考えたと思える。 夫に息子という、二人の犠牲者をみた、母の貞子には、過去の嫌な、記憶が鮮明だろう。 夫、中川一郎の、死後の顔が、白色であれば、犯行者は、死を確認して、ホテルの床をひきずり、小柄な男が、風呂の、低い金具へ、結びつけたことによるものと通常考えるだろうし、うつぶせの場合は、床やベットに、頭や顔を、接している部分から、血液が、紫紅班から、茶褐色へと変化してゆく過程たどるので、これらは、貞子夫人の脳裏から、消えないことで、すべて、他殺と考えてよい。 いまの高校生は、土曜、日曜に、クラブ活動をする。7歳下の、弟を思い、長女、真理子(25歳)が中心に、10月3日、11時から、父、昭一の、手当てにかかったと思う。 残念なのは、アルコール系の、麻酔薬による、他殺へ、との判断があれば、使用量によるが、すぐさま、救急、集中治療室のある、大学病院へ、運べば、中川昭一の、生命の維持が、できていたと考えられる事である。 旧・自民党員による、内閣により、「国策捜査」という、言葉が流行している。むかし、大学を卒業すれば、弁護士になれた時代があった。関東大震災で、壊滅した、東京で、どういう出自か、経歴なのか、弁護士となった、「小沢佐重喜」という、政治家がいて、鹿島建設に関与するようになったそうだ。鹿島となれば、田中角栄に、中曽根康弘となる。 彼らの、行動パターンの特徴だが、上に姉か、姉がわりが二人以上という、家庭環境で育ち、物事を依存し、責任転嫁をすると、言うことにある。「田中、中曽根」の、手のひらの中心部の、皮膚流紋と、ラインに、共通して、それら家庭環境の、発現が見られる。 関東大震災のとき、思想家の大杉栄は、憲兵、甘粕正彦大尉に殺害された。殺害方法だが、それと別の方法で、殺したと、即時言えるのが、当の、加害者である。 民主党権力の関与がない、鑑識であれば、中川昭一の、解剖所見のカルテには、頸動脈 、鎖骨下動脈 、腋窩動脈に、心臓へとつながる冠動脈の、すべてに異常なし。ならび、常人の数倍、鍛えられた咽喉。心臓に、胃、肝臓はじめ、臓器など組織細胞は、健康な青年以上に発達していた筈である。 中川の、頚動脈の太さは、麻生太郎への、応援弁士としての、動画を見れば、子供でも、分かる。鎖骨から、腋窩への動脈に、心臓部位への、冠動脈に、腹部から、脚部の動脈の健常さは、主治医が、知っていることである。 中川の、遺体は、行政解剖とのだった。監察医(東京都監察医務院)からの、10月5日報告では、「循環器系に複数の異常」とのことだった。が、血液循環悪化による、「急性循環不全」」とは、どう言うことなのか。 1980年代まで、医学のサンプルは500例だった。が、500は難しく、現在、300例とのことだが、中川昭一と、同じ年齢の、病死に当たる、1953年生まれで、56歳の、政治家や実業家など、サンプル300は在るのか。 中川の、身体について、9月25日に、健康診断で異常なし。同じ頃、プロテニスプレイヤーと、プレイ。常識に考えて、「うつ病」の人物が、ボールの、反射性が鋭い、テニスなど、できるのだろうか。
中川の、体力の考察で、56歳と言う年齢での、動脈、静脈の血管を比較すれば、彼と同年齢より、格段に丈夫で、健全な体細胞状態だった筈である。また、心臓との血流循環で、中川は、通常の50代とまったく違う、健康な人のものだった筈である。なぜ、虚偽報告ができるのか。 死因のところで、解剖にあたった、行政となる警察による責任者の調書には、「循環器系に異常」「心不全」など。これらの他に、事件の大きさから、再調査として、中川が、かけれた麻酔薬と、寝室にあったと言う酒は、成分が違う事から、解剖での、臓器保存による、抽出、分析での、調査結果が、追記されていると、考えたい。 1991年、日本は、アメリカが仕掛けた、バブルの崩壊後、不況が進み、精神疾患の大人が増えた。親のリストラに伴い、ゼンソクや、てんかんの疾病症状を出す子供たちが増えた。 中川昭一が、睡眠剤である、抗うつ剤を服用していたら「うつ病」なのか。それなら、中川は、腰痛止めでもある、抗てんかん薬を服用していた筈である、これなら、「てんかん」患者だったのか。 6)北見の国、網走までの、日数 北海道のことを、間接的に描いた、小説に、志賀直哉のものがある。 日光からの戻り、上野からの汽車で、直哉は、7歳ぐらいの男の子をもつ、26、7歳ほどの女性と、同乗したのか、それを小説にしあげた。これが、有名な『網走まで』である。 作家、太宰 治(1909−48)が生まれた、翌年の、1910年、26歳となる直哉は、有島武郎たちと、同人雑誌『白樺』を創刊し、ここに、『網走まで』を載せた。 汽車の中で、26歳ぐらいの母親の言う事をきかない、7歳男の子の言動から、志賀は、父親は、大酒飲みでは無いかと想像して、人間の性格など、環境などで変化するとの考え方をする。 むずかる7歳の子供を観察しながら、直哉は、母親に、行き先を尋ね、網走との返答に、「何の国になってますかしら?」と、「国」を質問した。 赤子を抱いた母親からの「北見」との言葉に、「そりゃ大変だ。五日はどうしても、かかりましょう」と言い、母親は「一週間かかるそうで」と答える。 日本の鉄道は、1892(明治5)年10月、新橋から横浜まで、開通した。2010年の今から、100年ほどまえ、上野から、網走まで、汽車を使い、7日はかかったと言う、この日時を、わたしたちは忘れ、志賀直哉(1883-1971)ひとり、持てなかった欲望だけの国、USAアメリカによって、無惨な状況である。 わたしの、帯広の思い出は、旭川へ行き、都市銀行が無く、困り、一番近いのが、帯広に、商工中金があったので、東京の叔母へ連絡した。すぐに、手配をしてくれると言うので、夕食後、ほっとして、旭川を散歩した。 石炭ストーブのニオイがする、旅館から、井上陽水の、「♪都会では、自殺する、若者が増えている」の『傘がない』が聞こえた、8月の近い日、晩秋のような夜の寒さと、石炭のニオイを、呼吸しながら、東京や大阪で耳にするのと、違うと、感じた。 ちょうど、とうじ井上陽水が所属した、事務所の、胸の豊かな女性の腹がふくらんで来るときだった。 井上陽水を嫌う専修大のOBが、わたしに、吉田拓郎の、『襟裳岬』の「♪理由(わけ)の わからないことで 悩んでいるうち」と歌い、「おい、マツダ、おまえに、この歌詞がわかるか」と言い、「マツダ、おまえに、分かってたまるか」と言われた事を、思い出させる、石炭のニオイだった。 1974年の、襟裳岬は、作詞家の岡本おさみが、書いたように、何もなく、岬への、道と、土産店を、作っているところだった。 層雲峡から十勝の方へとゆき、十勝川は、水流がなく、帯広は鉄色で、錆びた橋を渡ると、すぐ、小さな商工中金が見えた。 この1970年代は、地方に放送局が、つぎつぎ、誕生していった時代で、どこもかも、4、5階建てのビルで、従業員が、数人しか居ない時代だった。東京のマスコミより、北陸から東北の日本海側にかけ、洋服屋で、女性が着替えに入ると、店内から、消える。現在の、北朝鮮による拉致被害者が、地元から関西へ、伝わってくるときだった。 政治家がらみの、事件がつづく、北海道で、講談社の『フライデー』(2009年10月2・9日合併号)をみると、鳩山由紀夫(1947ー)首相の、「故人献金」を知る、「花田順正」税理士、「怪死事件」を扱っていた。 北海道の国税庁、「後志」支庁署長を経歴した、苫小牧市の花田順正は、引退後、税理士となり、衆議院選挙の前日、8月29日、登別温泉で、心不全で、亡くなり(65歳)、遺体の状況が、奇妙とあった。 わたしが、登別へ行った1974年は、近代的な建物など、あまりなかった。箱根の硫黄、有馬温泉のラジウムは臭いがあり、嫌がるひともいるが、抵抗のない、ふつうの温泉だったとの印象がある。 苫小牧はじめ、北海道の、温泉に慣れた人が、8月に、心不全を?と、ただ疑問に思うだけである。遺体の損傷についてだけれど、これは、「塩度」のある温泉の中に、浸かっている人の、足を引いたり、上から人体を押さえ込めば、傷跡も残らない。犯行は、見張り役、ひとりと、二人いれば簡単にでき、ひとりでも可能である。 鳩山由紀夫にしろ、小沢一郎の、西松建設からの献金問題での、小沢にしろ、両者とも、実業家や労働者を、どのように考えているのかと思ってしまう。 小沢関連でのゼネコンに、1993年11月、戦後最大、5900億円の負債での、倒産と言われた、「村本建設」がある。また、2007年8月、5600億円の負債を出した、「麻布建物」も、小沢一郎の関連である。 わたしは聞いたことの無い会社だった。が、1993年のはじめ、とうじ67歳の父は、先に、事柄を、知っていたのだろう。「(1960年代)村本が。リヤカーを、、、ひっぱって、、、。一代で、築いた、、、」と、だけ言った。 村本は、大阪の町を、リヤカーを引き、生活のため、父たちの会社へ、仕事を、貰いに、来ていたそうだ。 1996年、イズミヤの社員が、わたしの母を、後ろから、撥ね、母は、頭を打ち、背骨を、複数折り、気を失っていた。このとき助けてくれたのは、母がわかる、近所の、女性だった。2000年ごろと思うが、ここの、おじさんが逝き、葬式で、「西松建設」と、わかったらしい。 通夜から戻った父は、うつむき、正座し、「ああっ、、、。西松やったんかぁ、、、」と、だけ言った。西松の意味がわからない、わたしは、何?と聞くと、「良(い)い、建物を、建てよる」と一言、播州弁で言った。 2000年のころ、30年間、すぐそばに住みながら、わたしは、おじさんの顔を、一度も、見たことが無かった。大正時代に生まれた、父の世代は忙しく、昔、小さな建設会社は、技師だけでも、経営ができた。 7)中川昭一の課題 政治家とは、町や村の人へ、できるかぎり平等な配分をする役割をもつ。名誉毀損どころか、死にまで、追いやった、画策された、2009年2月14日のローマG7で、欧米の犠牲になった、中川昭一は、インターネットなど、スローで捏造された、デタラメの映像を、何度も見るようにするため、日本のマスコミは、より、騒いだ。 同じような、映像が、2009年5月24日の、横須賀の、神輿が出る、祭りであった。横須賀、「諏訪大神社」の大祭の、露店のときである。 民主党の、数えだと30歳の子供、横粂勝仁(1981年9月 - )は、何人なのか、ガッコウで何を習ったのか、町の行事がまるで分かっておらず、マスコミも同様のようだった。 諏訪大神社の半被(はっぴ)をつけた、小泉進次郎(1981年4月ー)が、仏教からの「睡蓮」の意味もあるだろうが、「睡」の半被を着た、露払い役の、年配の人に、案内をされ、「ありがとう、ございます」と、言っている。 このとき、民主党の旗を持った、お抱えを付けた、日本の風習を知らない横粂勝仁が、「シンジローさん、シンジローさん」と、握手を求めている。露払い役が、道を、分けているとき、祭りの、「改め役」が、小泉進次郎であることが、分かっていない。 わたしは、1961年秋、逝った、祖父に代わり、したことがある。小学三年生だったので、父と母が介添えだった。 りんご飴の露店商が、わたしに、赤い飴のりんごを、手渡してくれる。幼児のときは、欲しくても、手にすることすら、許してくれなかったものだった。両親を見ると、わたしには言葉がなく、半被の露払い役と、にこやかに話している。わたしは、ただ、お辞儀をした。 「改め」は、露払いの案内に対し、露店の人たち、「市(いち)」と同じく、祭りや市に、参加する人たちへの、ねぎらいと、祭りごとが、約束どおり、平等に、行っているかを、見る、役目であり、露店の人たちを、最優先にし、お辞儀ばかりで、進み、これが終わって、祭りが、本格的となる。 どこの国から来たのか、わからない人間を優先し、古くからの、町の人の営み、「市(いち)」に、縄ひとつ、竹一本での、境界をしめす「垣(かき)」を尊ぶ、日本の、仕来りを、からかい、壊し、略奪するのが、民主党政権らしい。 中国生まれで、USAのジャーナリスト、ジョン・パウエル(John W. Powell 、 1919ー2008) が、2008年12月に亡くなった。ジョン・パウエルは、朝鮮戦争で、アメリカが、中国に対し、国際法で違法な、細菌兵器を使ったと、公表し、国家から、非難された。 アメリカを批判しているような、ジョン・パウエルに見えるが、これが彼らの手法である。注釈として、この兵器は、旧・日本軍の研究からと言う。細菌兵器などだが、第一次世界大戦で、フランスに負けてばかりの、ドイツが、国際法で違反の、化学兵器のマスタードガス(イペリット)を使ったのが、歴史に残っており、炭疸菌の細菌兵器も、ドイツが開発したが、使用については、まだ、見方は決まっていない。 日本陸軍、731部隊のことは、とうじの学者たちの全体を、直截、知らない、神奈川大の、「常石敬一」が、1980年代ごろから、何度と、発言をしはじめた。 『科学朝日』で、日本の科学史を、誤りだらけにし、連載させている、高橋真理子に、1980年代連絡すると、「神奈川大の、この世界では権威の、中山茂と常石敬一先生が」と言うので、わたしは何の業績がある連中か、と聞いた。 とうじの高橋真理子は、科学史家の湯浅光朝先生を知らなかった。それで、わたしは、1990年代、常石敬一に、歴史事項は、明確にしておかないと、デタラメばかりがはびこり、良くないと言ったら、女性に囲まれ、「731部隊展示」をやっている常石敬一は、「これは、祭りだからねえっ」と、言った。 GHQロビー、石井四郎(1892- 1959)の論文だが、ほんとうに彼が書いたかどうか、他人のものは自分のものと、収集癖に妄想癖がある、清野謙次(1885- 1955)に手伝ってもらったのではないかと、わたしは、考えていた。 それで、戦争肯定派の鳩山一郎が命令の、軍事教練すら、拒否した山田忠男先生に、ドイツに留学していたときの、文献から、実験資料でも何でも、京大を退官する、大正時代、清野謙次に、渡してしまった足立文太郎(解剖、1865- 1945)が悪いと、わたしは、何度も、医学界の重鎮に、責任があると、言った。 山田忠男先生は、「ちがいます。足立先生は、研究だけの人でした。結婚も、(とうじの数え方だと)50歳近くになって、され、教授にまで育てた、教え子たちをまえに、『諸君、、、。結婚生活とは、こういうものだったのですか』と言ったので、弟子たちは、やはり足立先生は、学問だけの人だと、うつむいて、失笑するより、仕方なかったんです」と説明してくれた。それに対し、わたしは、そういった人物が、学者になる時代ではなく、足立文太郎に、責任が付きまとうと、発言した。 山田忠男先生が、京大に入学したのは、京大、滝川事件と、長崎医科大の血液型と気質相関関係、博士号売買事件があった、1933(昭和8)年である。学問の自由に対し、文部大臣の、鳩山一郎は、学問は政府に拘束される物との、見解を出した。 京都には、徹底した、反骨思想と言うか、哲学の真下信一(1906‐1985)先生は、孫みたいな、わたしたちの世代には気さくで、明るく、反戦からの獄中生活者と感じさせない方だった。 同じく、獄中生活者だった、新村猛(1905 - 1992)先生のことを言うとき、「ぼくらと違って、新村君だけです。まったく、勉強をしないで、進学、卒業できたのは」と、笑って言われた。 大正時代の終わり、とうじ、秋に入学で、丸太町通りに、古書店と古本屋が並び、三高から、京大への進学は、古本屋に置いてある、上級生が使った、語学の原典のどれでもいいから、一冊を夏休みを入れ、三ヶ月の間、読んで、臨機応変に、適当に、訳せば、採点の先生が、合格点をくれたという。 真下信一先生たちにとって、獄中死の三木清が、本物だった。軍部になびき、戦争を肯定した、哲学の西田幾多郎と、高坂正顕、西谷啓治はじめ門下生は、偽者で、1969年ごろは、作家の志賀直哉も、詩人の高村光太郎も、ずっと、批判された。 親の行いは、子、孫、曾孫にたたって行くのが、日本の伝統なのだろう。高坂正顕の息子の、高坂正堯など、「学問屋の子は学問屋」と言われつづけ、1970年代、太陽の当たる時刻、今出川通りを歩いているのを、わたしは見たことがない。 1910年代からの日本の新聞を見てゆくと、冬場、東北や山間部で、風邪や感冒が流行ると、1000〜2000人単位の村が、全滅と言う記事が多いのに気づく。また、「従軍慰安婦問題」にからみ、東北地方が冷害に襲われたばあい、村の10代の女性が、都会に、売られて行く記事は、多い。合計だと、数万単位になる。 わたしは、1969年から1976年まで、学生運動家の方の立場で、各セクトの、主張を書いたビラを、たいはん読んでいるが、従軍慰安婦も、いまだ問題にしている、南京事件も、それらが、事実であれば、問題として、扱っており、記憶にあるはずだが、無い。 こういう事実に対し、USA民主党の、移民、成り上がり、通名マイク・ホンダ(本名:Michael Makoto Honda、本田 実、1941 - )は、「慰安婦」と言う、日本の、医学史を研究する、わたしなど見たことのない言葉で、「謝罪要求決議案」の、略式決議を、民主党の、金と地位だけわかる、ナンシー・ペロシ(Nancy Pelosi、1940ー)下院議長と決定し、日本へ、金銭を要求してきた。 「従軍慰安婦」「南京大虐殺」は、朝日新聞社の本多勝一氏、「731部隊」は、作家の森村誠一による、断ち切りの、安い捏造本を、きっかけに、風靡した、この事だけしか、記憶にない。 最低、大正時代から敗戦の、30数年分の、東京と大阪の、朝日、毎日新聞を、見れば、どこにも、出て来ないことが、わかってくる。 GHQ連合軍による、日本への、国際法違反の、無差別空襲。これによる、死者は、できるかぎり、日本人が、整理しただろう。しかし、敵国の、南京で、一万人単位、殺害したばあい、「万単位」の、死者は、誰が、葬り、日本軍人の、食事など、生活方法は、どうなるのか。 日本は、地勢学、戦争学での、思考力が弱いと言える。反論は、地勢で可能である。戦争中の、南京事件も、欧米による「白夜」の思考からの、捏造の数値で、議論している。北欧、ドイツ圏内でも、白夜が起き、太陽が沈まない、24時間戦争の、季節がある。欧米による、デマゴギーに、日本は、ムダな時間を使いすぎている。 中国パルチザンの攻撃は、雨の夜であり、日本の軍部もこれに対応する。南京の緯度は32度だ。九州では福岡が33度、 長崎が32度で、よく似ており、日本にしろ、中国の南部に、雨などで、真っ暗の、夜が来ない季節があるのか。 歴史を明確にするなら、18世紀の、周辺民族からの、「反乱」を、「抗議」に変える必要がある。ほんとうの民主、共産国家なら、ロシアの侵略をのぞき、ウイグル族の抗議、チベット族の抗議、苗族の抗議にしてゆくべきである。 南京事件の反証として、日本人のアイヌ民族は、なぜ、残っていることができたのか。同じく、17世紀、オランダ人に発見され、台湾は統治された。が、この地の、霧社事件も、同じ民族どうしの戦いで、相手の首を刈る、数万人単位の、タイヤル族、ブヌン族の、全滅は、可能である。ところが、道徳教育を信じる、日本の警官たちにより、ふつうの日本人まで、犠牲となった。 1932年の、中国、上海での、「肉弾三勇士」は、延々と、出てくる。また、正月は、白馬の「昭和天皇」、満洲国の皇帝「溥儀」は、新聞の全面に出てきて、これらの新聞の写真で、戦争に勝とう、と思うのは無理と、中学生レベルだと、だれでも、考えるだろう。わたしは、地方紙も、できるかぎり、閲覧してきた。 欧米の新聞は戦争ばかりである。ところが、日本の地方紙は、戦争中というのに、時代劇に、講談など、話ばかりが、のっている。 南京事件について、日本の軍隊に、攻撃をかけたのが、アメリカによる中国人傭兵、イギリスによるインド人傭兵、フランスによるインドシナ人傭兵、オランダによるインドネシア傭兵など、欧米の武器による、軍人以外の、中国人もふくめ、民間人虐殺の、議論は、どうなっているのか。 また、中国の、「八路軍」は、1989年はじめ、学術書で、『中国八路軍、新四軍史』(河出書房新社)が発行された。このとき、出版社に、四人の著者たちが、来ていて、担当の小池信雄が、わたしに、知っている?と尋ねるので、わたしは、「(中国史研究家の多い)京都」と、だけ言い、予算を聞くと、600万円の、制作費が下りたとのことだった。 中国との、戦争議論で、中国の革命家が、どれだけ、日本の反戦家の、東京大学、京都大学の研究者たちを、残虐に、殺したか。「中国、ソ連の連合軍」の攻撃は、大きく、「@」シベリア、「A」蒙古、「B」南京、「C」香港など分かれる。毛沢東の、中央紅軍(赤軍)による工作員の、民間の日本人虐殺は、どれだけの、数なのか。そして、現在の、天安門事件(1989年6月)に続く、歴史を、明確にすべきである。 また、敗戦後、GHQ連合軍と共に、中国は、軍部の方針に従わない中国人を殺し、「宦官と纏足」の歴史から、100万人単位の、日本の民間人を、虐殺、強姦し、働ける者は奴隷化、した事実も、議論してゆくべきである。 中国の民族性は、「破仏」の歴史を、調べればよい。中華民族は、3世紀の「三国時代」をみても、政府が変わるとき、同じ民族を殺し、また、美術品、宗教関連のすべて、破壊してしまう。そのため、中国南部には、仏教彫刻が、ほとんど残っていない。 国境問題について、17世紀までは、日本は、中国、朝鮮の、隷属、支配下と言ってもよい。18世紀からの、日本の商業形態で、日本は、海流を利用した、船による、日本の諸国貿易を発達させた。文化と食べ物の産地、大阪から江戸への、「菱垣廻船」から「樽廻船」。そして日本海流を利用した、「北前船」がある。 とうじは、欧米の船も、海流に合わせないと、進めないので、戊辰戦争は、春から夏、流れは、九州から、北海道へとなる、日本海流に、沿って、進行している。欧米列強は、このとき、中国大陸などからの、傭兵を、蒸気船の軍艦を使い、つぎつぎ、日本人として、入れ、日本を混乱させ、犠牲者ばかり出させた。 朝鮮によると、世界で一番残虐で、許されない民族が、日本人だそうで、「創氏改名」が、よく話題になる。先祖からの、氏名が重要ならば、日本での、朝鮮人で、なぜ、通名と言うのを、使用するのだろうか。また、良識だと、祖国に戻り、朝鮮を、より繁栄ある国家にするのが、義務と思う。 日本政府も、日本人へも、平等にして、たとえば、「夏目漱石、ナポレオン毛沢東、小沢一郎」とか、「太宰治、リンカーン金日成、鳩山由紀夫」とかを許可して、ニュースのばあい、通名、「ナポレオン小沢一郎」が、脅迫、窃盗、殺人とか、通名、「リンカーン鳩山由紀夫」が婦女強姦に、脱税を、可能な時代にして欲しい。 また、日本での、朝鮮半島人が主張する、階級社会の李氏朝鮮の宮廷装束について、日本で、平安時代や、江戸時代の、儀式のとき、貴族が着る装束で、学校やパーティに出席している女子のいる、地域があるのだろうか。 日本の、朝鮮人の歴史について、これは、1920年代、大阪と済州島とに、航路が出来たことにより、工業国としての、また、関東大震災はじめ、河川の氾濫など、自然災害のとき、労働力が必要となり、募集した人員が、日本へ、蓄積して行った。この歴史は、1970年代、大阪市立大学が、調査、研究したものが在る。 朝鮮半島南部の島々と、済州島の歴史考察をしてみると、18世紀、中国からや、ロシア帝国からの侵略にあった、朝鮮人が、抑圧され、南端部へ追いやられたのが、済州島人であり、20世紀後半からの、朝鮮半島の民族が、19世紀の朝鮮民族と言う、断定など、できない。 島根県の「大根島」は、朝鮮人参の産地だが、これを理由に、朝鮮のものと主張できるのかどうか。 朝鮮人による、わたしの血縁の殺害について、わたしの父は、何も言わない。父の級友では、加古川市、野口出身の、旧制・兵庫県立工業(尼崎)、旧制・国立高等工業(寝屋川)を卒業し、「多木化学」へ養子に行った人が、USA扇動の、労働運動で、朝鮮人に殺された。 また、1980年代、世田谷で、読売新聞をとれ、「殺すぞ」と言って、わたしに、暴力をふるったのは、「渡辺恒雄」の子分で稲川会と言っていた。2002年からは、NEC、住友信託、アイフルの、朝鮮人ヤクザが、「殺すぞ」と、何組もが、数年にわたって、暴力をふるった。 2009年5月、わたしが原稿依頼を断ると、「甘粕正彦大尉の孫」が、「河出の事を、知ったように、坂本一亀さんもだ」と、三島由紀夫関連も兼ね脅すので、わたしは事実を書いているだけで、野坂昭如、猪瀬直樹と言った、何人か分からない人物が、他人の出自を、デタラメに揶揄しているから、訂正しているんだと言った。 坂本一亀の故郷は、九州という。東京との往復で、明治時代の中ごろから、発達した、加古川があり、三島由紀夫の、祖父の、出自に関しては、近隣の村から、わたしのイエへの依頼だと、わたしのイエは動かないから、祖父でも、ひい爺さんでも、「借り、本籍」を作ると、説明したが、この「借り、本籍」が、東京人には、わからない。 写真という、事実に見えるものが在っても、ほんとうの意味など分かりにくい。 この『京都昨今』、『44』の下の写真、「米田保育園」の、左の後列、三番目と、「米田幼稚園」の、七夕祭りでの、前列右一番目は、現在、高砂市議の、「今竹大祐」君と、思う。 同級の、今竹君だけが、悲しそうな顔をしているのは、1957年の七夕祭りで、わたしが後、一ヶ月ほどで、死ぬことを告げられていたからである。 『54』での、米田小学校の、入学式の写真だが、播州の子供の冬装束である。冬になり、わたしの最期と言う時、姫路日赤から運ばれ、記念撮影をした。新しい、お母さんが来た、神姫バスを通したイエのケンちゃんと、病気で死ぬ予定の、わたしを同じクラスにすると、泣いてばかりなので、ケンちゃんは、一組だった。 1958年春、わたしが入学したのは、二組だった。廊下側の後方で、ショウちゃんは窓側で、前の席は、一組担任、福田先生の子、福田君で、わたしが倒れたとき、連絡する係りだった。 一年生の一日目の二時間目、わたしは、わたしのイエへ遊びに来る、福田先生の方が、賢いと思い、一組へ行き、空いた席にすわっていたら、福田先生は黙ったまま、授業をはじめない。 「ぼくの席」と言う子が来たので、わたしは、二組に、わたしの席があると言った。この間も、福田先生は、黙ったままだった。仕方なく、二組へもどり、わたしは、福田君に、「ぼくだと、福田君の、お母ちゃんに、習う」と言ったら、福田君も、困って、黙ったままだった。 米田小学校の、最後の、記念写真は、わたしが一番先に座り、隣がケンちゃんだった。けれども、動くことができない、わたしと、他人に遠慮するケンちゃんとで、離れてしまった。 河出書房新社の、小池信雄に言われ、医学史などしたため、脳裏が、従来の医学史にない、人名だらけになった。1980年代後半、医学史をするまでは米田小学校の入学式の写真をみても、だれがだれか、区別がついた。 今竹大祐君は、高砂市議でもあるし、過去の記録は調べることができるだろう。 わたしたちが小学生の、1960年ごろ、国鉄の北は、田圃ばかりだったのが、記憶にあると思う。姫路から神戸までで、明石なんか、城に、こんもり、小さな森があり、他は田圃ばかりだった。今竹君も、記憶にあると思うが、明石の、民社党の吉田賢一さんところも、農家で、海岸への南に「魚屋通り」が並んでいただけと言っても、東京人は、理解しようと、しないのだ。 今竹君、東京中心のマスコミは、父親や両親の代が、異国出身者で、新興宗教会員を、優先している。それだから、変な日本語が流通している。日本には小説の原稿料に5段階あり、1990年の段階で、わたしは一番高いそうだ。この一番高いものが、執筆、出版拒否をすれば、物書きの、世の中が変わると思い、抗議でしていない。 加古川や、宝殿の、北の田圃だらけの村々に、「汚穢屋(おわいや)=汲み取り屋」が在ったか?大江健三郎は、初期の作品で、在りもしない、仕事を書いた。そのため、1970年代になっても、医学部の研究者は困った。こんな馬鹿げたことを、真実のように、語っているのが東京だ。 野坂昭如は、若いとき、昼間から、アル中まるだして、日本人離れした、爬虫類顔の、デマゴギー男だ。印南の、神吉、西神吉を、「きわめて貧しい村」と書き、あちらこちらで、しゃべった。三島由紀夫の祖父は、生活のため、副業に、「的形」「大塩」で、塩作りをしたそうだ。百姓の意味がわかっていない。米、粟(あわ)、
稗(ひえ)、 黍(きび)に、大豆。ジャガイモ、里芋、山芋、サツマイモなどに、春、夏野菜の後は、季節のちがう、麦栽培に、蕎麦、大根、ゴボウ、ソラマメなどの時期は、村による「イエ作り」、「生活道具作り」があり、ずっと、忙しい、西神吉の百姓が、なぜ、遠くて、入浜権があり、清潔さも一番の、塩田へ、労働に行くんだ?「塩屋」の意味を勘違いしているんだ。
さらに、後、水田を「三町歩」持ち、「だだっ広い別荘」を持ったそうだ。皆、わたしの血縁のところだ。わたしの育家の南は、わたしの時代で、すべて田圃と、蓮池で、別荘など無い。 三島由紀夫の、徴兵だが、今竹君も、わかる、同年の、1925年生まれの、文房具屋のおっちゃんたちに、1990年代後半、聞いた。 米田町、西神吉は、わたしのイエを除いて、とうじ、全部が、農業と、にちもう(日本毛織)の下請けの職業だ、志方も、野坂昭如の言う、村々は、日本毛織の下請けと、事実を言っても、わからないんだ。 医学史、衛生史で、「汲み取り」、「浄水」は、重要だから、扱う。1940年ごろ、東京は大都市だから、在る。関西では、大阪市、堺市にあり、後は尼崎市の、三箇所ぐらいだ。 日本は、米による、稲荷文化で、農家が、皆、肥料として使う。野坂昭如に、猪瀬直樹など、日本文化の基本がわかっていない。猪瀬直樹は東京都副知事だそうで、自称ブルジョワ出身の、USAロビー、デマ・アジテーターの石原知事と、良いコンビだ。わからないのは、石原慎太郎は、北方モンゴロイド系だが、子供は、中国南方系の顔をしていると言う事だ。 2006年、足寄町の政治家の親分、野中広務の親戚、京都市議の「駱駝館」が、 渡海(紀三朗)の、お兄ちゃんを、「現役ですかぁー」とバカにしたから、履歴を調べたら、落選のときがあった。不愉快だから、ケンちゃんに、票を集めてもらおうと思ったら、居ない。両親に言うと、ケンちゃんは、わたしの出自、桑名、名古屋の方で実業をしていると、言った。 それで、曽根の事務所に電話を入れたら、次男の方の、奥様が出てきて、票に困っている雰囲気から、旧・国道1号線の神戸まで、北の部分が、わたしのイエの血縁と言うと、この旧・国道1号線の位置を知らない方だった。 下の写真は、指揮者、朝比奈隆が33歳のときである。この1941年11月のあと、戦争となり、朝比奈は、1944年には家族もともに、「ハルピンオーケストラ」へ行き、敗戦により、大陸でも困り、日本への帰国の、混乱期は、「京都フィル」に所属し、ハルピンへは医師として行った、トランペットの、滝野勤二(府立医科大OB)が、朝比奈隆家族の、生活の、面倒をみた。 「京都紘楽団」に所属した、「鍵善」の、今西善造が撮った、『75』の、1936(昭和11)年、「ベートーベン第九」の演奏会のメンバーで、ひとり、笑っている人が居た。歌人、正岡子規のイトコの筈と思ったが、他の人たちも、朝比奈だと、分かるだろうと思って、病気の朝比奈が元気になれば、手紙で連絡しようと思ったが、亡くなられた。山田忠男もだが、京大音楽部長だった、伊吹武彦先生が、健全だった、1970年代だと、わたしへ、メンバーの紹介に、楽しい時間が過ごせたと思った。 フルート奏者の、山田忠男は、1911年3月生まれで、1935年の大学生のとき、モイーズ(Marcel Moyse)が来日公演をして、日本人に、フルート の音楽性が、伝わったと言っていた。中国への出兵は、1937年2月と、26歳になるころである。 じっさい、1937(昭和12)年満州へ、一兵隊卒として行き、負傷兵となり、毎日コンクール(日本音楽コンクール)審査委員長、リコーダー協会長を、務めたため、音楽界では、1930年以降生まれの大部分は、山田を知っているだろう。 USAのマスコミは、沖縄の、「基地反対運動」を、これまでの、日本人、強姦、殺人の歴史を、省みず、揶揄して、報道をしている。 USAの民主党の、ハワイ移民の子、成り上がり、ダニエル・イノウエ(Daniel Ken Inouye、井上 建、1924- )議員は、米軍基地問題の早期解決と主張している。 兵隊の生活費に基地まで、日本が、出資し、いざ、戦争のときは、USAを中心に守り、金に困ると、デマゴギーで、貧乏な日本にたかると言う、こんな都合の良い話しを、敗戦後、60年以上、唱えつづけられるのが、アメリカである。 写真の光景は、 第二次世界大戦へ突入する、1941年11月、バッハの『音楽の捧げもの』で、三日間のスケジュールだった。来日した、ハリッヒ・シュナイダー女史に、日本にはレコードでもない、チェンバロでの「トリオ・ソナタ(Triosonate)」を習い、ヴィオラ・ダ・ガンバ (Viola da gamba)も日本には、レコードでも、無い時代だった。 一日目は、戦争への「灯火管制」のなか、京都の「ドイツ文化研究所」において、宝石と勲章をいっぱい附けた華やかな外交関係の社交界へ披露した。 二日目は、一般公開し、その後、三日目は、全国放送のため、大阪放送局(BK)で演奏をした。京都から大阪へは、チェンバロを、「馬車」に乗せ、一晩かけ、運んだそうだ。着いてから、全キーの、調律も大変だったと思う。 とうじ、大阪から通う、京大の学生にしろ、研究生たちも、大阪から京都は、上り坂の道のため、電車を使うが、帰りは、健康のため、歩く人が多かった。 一番前の、笑顔でチェンバロに指先を向けているのが、エタ・ハリッヒ・シュナイダー(Eta Harich Schneider)女史(44歳)である。女史へ、山田が朝比奈と、1940年は、この1941年12月に、敵国となったフランスの、ルクレール(Jean Leclair)と、ラモー(Jean Rameau)のコンセール(concert)を演奏したと言うと、いっしょに演奏したいから、楽譜を貸して欲しいと言われたが、12月開戦となり、不可能になったと言う。 京都だけでも、欧米との外交関係がつづいていたこの事実から、USAには、欧米流の、戦争になれない、日本軍隊の行動など、大人と子供の戦争ゲームと計算していたと、考える事ができる。 右から三番目、ビオラを右腕に、かかえ、1941年11月の日本の状況と、自身の立場を、冷静に凝視しているいるのが、指揮者の朝比奈隆(33歳)であり、右端の、後方、眼鏡をかけ、フルートを持っているのが、満州で、中国パルチザンにより、腰に重傷を負い、負傷兵となり、杖の、必要な生活がはじまった、山田忠男(30歳)である。 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2010-02-25 |