京都昨今

74、日本が失ったもの         殺人会社NECー鳩山関与B
1)殺人会社NEC関与の本物メール

USAユダヤ資本に、華僑資本が主導と思える、2008年から2009年、USアメリカにより、全国中、ぼろぼろであっても、世界で、一番安定していると評価されて良い、日本の麻生内閣が、マスメディアにより、見下されている。

いっぽう、小学校から高校生まで、新学期の4月にはいっぱい、5月には友人がゼロ状態だったと思える、民主党の鳩山由紀夫(1947- )議員が、総理にふさわしいとか、創作されている。

政界の、若いホープと言われたらしい、民主党の前原誠司(1962ー)さんは、2006年2月、民主党、永田寿康議員による、ライブドアの堀江貴文さん関与とされた、「偽メール問題」により、鳩山由紀夫議員に、怒られ、責任から、代表を辞められたそうだ。

パソコン通信での、メールは、媒体である、ソフトの「メーラー」により、文字の配列から、文字の形に種類まで、異なってくる。

10年ほどまえ、IBMに聞いたところ、会社内で、同時発信の実験をしても、個々、着信時間はじめ、誤差が出てくるとの事だった。

上のメールは、NEC関連、NEC直接関与による本物である。文書でわかるとおり、本来、ハードにしろ、ソフトにしろ、新しい物が開発され、商品価値をもつ。

NECは、京都市に関与するソフトで、新しい物が開発できていないのに、新ソフトとして、顧客の京都市や金融へ売ろうとした。ところが、顧客にバレ、まったく、関係のない、わたしを、ヤクザに襲わせる事にした、エライ会社である。

「省庁」でのコンピューター運営費で、読売新聞(2005年6月14日)は、「年950億円削減可能」、問題となっている「社会保険庁」は520億円が削減可能とある記事を、「第1面」に載せた。管理を良くする、新しいソフトにハードと、メーカーから言われても、官庁はじめ、役所関係で、誰が、わかるのだ。

20代の、官吏の祖父の、第一子が、大正時代に死んだとき、身内からの香典は、いまの金で、10億円ほどだった。妻が驚くので、血縁に何かがあれば、どうするのだと言った。
天皇家を、守る役目を、京都でしてきた、桑名藩出自の官吏へ嫁いだのだから、日本が、戦争に巻き込まれたら、金を出すのも、役目のひとつだと言った。

官僚の報酬に天下りなどの、待遇問題だが、日本の歴史を検証してみれば良い。
詩人、高村光太郎は、
「日清戦争は終わっても 戦争意識はますますあがった。次の戦争に備へるために 軍艦を造る費用を捻出するのだ。陛下が一ばん さきに大金を出され 官吏は向う幾年か、俸給の幾分かを差引かれた。父はその事を 夜の茶の間で 母や私に くはしく話した」『建艦費』と書いた。
「宣戦布告よりもさきに聞いたのは ハワイ邊で戦があったということだ。つひに太平洋で戦ふのだ。(略)天皇あやふし。ただこの一語が 私の一切を決定した。(略)。身をすてるほか今はない。陛下をまもろう。詩をすてて詩を書かう。記録を書かう。」『真珠湾の日』

モールス信号ぐらいしか無い日本が、敵からの攻撃などすぐわかるレーダーをもつUSAと戦った。日本は、レーダーがあり、奴隷同様の、日本人移民の多い、ハワイへ攻撃した。USA、もう、すべて、公開したらどうだろう。


東山区が選挙区になる、『まえはら誠司』「号外、京都版、2009年6月5日」には、「すべては政権交代のために」、「わたしは岡田候補を応援した」とある。

『まえはら誠司』「号外」による、「岡田克也」議員だが、岡田克也氏は、友人、親友などが、できなかったと思える性格である。

民主党の「マニュフェスト」に、、「イオングループ」など、大きなスーパーにより、店を閉じた、八百屋、魚屋、豆腐屋はじめ、小売業を、地域に密着して、家族で、営んでいた人たちに、「1000万円」ぐらいの生活保障金を、提出する準備が在ると思う。

スーパー、コンビニはじめ、欧米式、各種チェーン店だが、21世紀のはじめ、若い営業マンが、京都で、数件紹介して欲しいという。
わたしは、土地、建物の提供。経営者の給与は無し、しかし、体裁上、5年間は、アルバイトの賃金、時給800円を保証してくれるなら、友人を紹介すると言うと、フランチャイズ料金、3000〜5000万円単位の、著名な会社の、すべて、返事がない。

比較して、自民党の、前の総理、福田康夫さんだが、はじめの一学年で、2、3人の友人ができたなら、二学年目にも、2、3人、一年目の級友とも、合計5、6人となり、友達関係を保ってゆかれた方と思える。

自称、友人など居なかったと言われている、いまの、麻生太郎総理は、一学年目から、聞き役で、10数人から友人とし、二学年目には、学年中を、均等に、友達とされようとした方である。

小学校から中学校、大学まで、金や権力と関係が無ければ、友達ひとり居なかったと思える、小沢一郎(1942 - )議員についてだが、前原誠司さんは、小沢前代表にしろ、公設第一秘書は、無罪を主張しているが、西松建設という、企業、一社から、3億円もの献金を、なぜもらったのか、何に使ったのか、世論からの疑問視を、「深刻に受け止めるべきだ」とある。

いまの、マスメディアは、欧米ユダヤロビーと、華僑資本に、左右されているのか、1980年ごろ、オーバードクター問題で、ある程度の業績があっても、専修大学の助教授など無理なのに、親の七光りで成り、しかも、麻生太郎総理との、党首討論で、大人と子供以下のレベルを見せ、不可解な論理で談義をする、かの御仁は、専修大学の教員のとき、学生たちから、講義内容がわからないと言われ、「学生がバカだから」と、抜かした。

このとき、東大などを退官された先生たちは、「そう言う事だけは、言動にあらわさないようにしてください」と言った。

すると、次には、駄々っ子になり、休講して、不平をぶつぶつ、こきならがらの講義をし、学生を困惑させた過去がある。

母親が、なにもかも用意してくれる環境に育ったと思える、鳩山由紀夫議員の、性格は、いまも同じなのか、「故人献金問題」は、あいまいどころでは無い。

昔は自民党員、鳩山由紀夫、小沢一郎おぼっちゃま族議員が、献金を要求した、「西松建設事件問題」でも、西松建設の社員たちへの、人権や、ただ仕事に専念した技術や労働者にたいしての、心配りなど皆目ない。
また、工事への入札で、今度こそは上手く行くようにと思って、懸命に、熟慮した、他のゼネコンへの、気持ちや努力など、鳩山由紀夫代表たちは、まったく、考慮していない。

赤字という、「東京湾アクアライン」、オレンジ共済、詐欺事件などにも関与し、「中曾根康弘内閣」で、自治大臣、国家公安委員長をし、小学校、中学校と、友人ひとりができなかった「小沢一郎」 氏が、中心となり、活躍した。

メールをはじめ、通信、郵政関連の大臣である、「総務大臣」は、2009年6月まで、鳩山邦夫(1948- )さんだった。が、日本郵政の、西川善文社長の、進退問題で、辞職し、麻生太郎内閣の支持率とやらが、低下したそうだ。

西川善文氏は、住友銀行のOBだそうだが、旧自民党員の民主党、小沢一郎氏が関与したと言われる、1991年のイトマン事件、1994年9月の住友銀行、名古屋支店長射殺事件から、絶対、逃げることのできない人物である。


2)市民の、常識が欠落した、鳩山兄弟

仕事の処理速度が、遅いと思える、鳩山兄弟だが、2009年6月の総務大臣、辞任の芝居が、何故、マスメディアを、上手く、通過したのか、わたしには分からない。

鳩山兄弟の、常識欠如だが、兄の鳩山由紀夫氏は、神社で、まるで、鳩にエサでもやるように、両手で、パンパンしている。
弟の鳩山邦夫氏は、仏教の墓のまえで、同じく、パンパン両手で、やっている。

神前での拍手(かしわで)は、必要なものでもない。仏前どうよう、静かに、立ち、お辞儀だけで、在って、良いものである。
こういった、常識が、金銭至上の、この兄弟には、欠けている。

麻生内閣支持率低下への、第一段階だが、大芝居は、2009年5月21日の、参議院予算委員会であった。

「国民新党」の、自見庄三郎氏が、質疑で、「わたしは本職が医者なんです。38年医者をしておりまして」と言い、「えっ、新インフルエンザ、ですね。いいですか。あまり時間がないようですから、鳥からヒトにしかうつりませんから、ヒトからヒトへうつりだすと、致死率64%、重篤なインフルエンザですね。スペイン風邪どころではない。致死率64%と言う、ウィルスですからね」と言われた。

「アメリカのCDCですよ。世界で一番権威があるCDCですよ」との発言を基盤にした、自見庄三郎氏の、「スペイン風邪どころではない。致死率64%」とは、学問への良心や、信頼性を、どこに感じさせる、発言なのか。

また、重要なのは、「鳩山総務大臣の ご判断を 尊重しますか? あ・ん・た・は ヨウカイしませんか、人事に? 総理?そのことをねっ、はっきり 国民のまえで、申し上げて、みえる。わたしはそう思います」との、文言である。

麻生総理が「ヨウカイ?」 と聞き、民主党、小沢グループの、森裕子議員が、「『介入』」と説明をする。
ほんとうに、エライ、自見庄三郎議員にしろ、森裕子議員にしろ、生きるか死ぬかの、国民の生活状態をバカにするのも程度がある。

これに対し、麻生総理が、「民主党は、夏が近いと、自見庄三郎議員や、森裕子議員を『妖怪』扱いするの? わたしにゃ、人間にみえるけどねぇ、ひどいね民主は。いや、違ったか。何、そういう意味?民主党では『介入』を、ヨウカイと言うの?」と発言されたかどうか、わたしは、忘れた。


3)『週刊朝日』で、税金を決める、京都市

2月が終わる頃、作曲の、広瀬量平さんが、亡くなられていた事に気づき、頭が、しばらく、考え事のような状態になった。

3月か、4月には、出版関係者が持ってくる、書籍から、河出書房新社の重役だった、小池信雄さんの奥様が、書き手と知り、また、亡くなられていると在り、河出の6階、ガラス張りの重役室で、父親を、朝日新聞社の記者で、池田邦二氏と言われていた気がし、この方も、亡くなられていると知り、小池信雄さんへ、見舞い状を出そうかと、考えていた。

おなじころ、偉い、京都市東山区の区長から、支払いは、わたしなのに、「外1名」の、いつのまにか、2002年度も払いすぎで、2002年11月に、東山区の職員が提示した、金額の倍になっている、固定資産税の請求書が来た。

地価というのは、売買の相場が在り、決まってゆく。わたしの周囲は、父方の祖母出自が地主の借地はじめ、売買など、一軒も無い。

狭い、京都の、地価の、じっさいは、1991年から、ずっと下がっており、京都での売買価格だが、不動産屋どうしでは、路線価の20分の1から、ゼロの取引という事実を、わたしが言うと、京都中の、地価が、底なしになってしまうと、不動産屋に、嘆かれた。

京都市東山区を、突き詰めると、2008年の、『週刊朝日』を、ひとりが見て、決めたと白状した。
それで、責任者の、名前を言いなさいと言うと、2人で相談したとなり、昔、京都市勤務で、東山区の顧問、70歳を超えた子供か大人の、「森谷尅久」さんの分かる人?と尋ねると、誰も分からないと言う。
それで、ガランとした東山区役所へゆくと、3人で決めたと言い、偉い、局長の名前を言わない。

つぎの郵便物は、京都市右京区にあるという、交通局からの、実家宛の物だった。
わたし名になっており、ヤクザを使い、何度も、わたしを襲った、「京都高速鉄道」から、「京都市」が、譲渡され、京都市の、葛西宗久交通局長、からの物である。

関わりが大きいのに、「貴殿の手続きは特段ございません」と成っている。

075・863・5096の、葛西宗久さんに電話をすると、受付は、「一番上ですから、出られません」と言う。
京都市は、ほんとうに、偉い人だらけである。

2008年終わりか、夜、建仁寺へ散歩へゆくとちゅう、花見小路で、妻が、あの人、こっちを見ている、と言う。
「小林・益川理論」とかで、GHQ連合軍采配の、ノーベル物理学賞をもらった「益川敏英」さんが、芸妓さんと居る、という。

わたしは、矯正視力、0・3ぐらいで歩いており、じっさい、名前も、何も、知らないので、知らないと返事した。小さなパソコンの画面で、見ると、小さな頭脳をしてそうな顔である。

この偉い益川敏英さんは、天皇陛下に、忙しいですか?と尋ねられ、「陛下ほどでも」と答えた、エライ輩である。

「物性科学」の基礎、素粒子論においての、「小林・益川理論」だが、物性において、相対性を想定するのは、せいぜいGHQ連合軍、ノーベル賞レベルの、モデルと考えればよい。

宇宙への思考の「措定」を成立させる、実際だが、相対性など無いと考え、「素粒子」だが、「味の素」の親戚と考えると、分かりやすい。

味の素があれば、どんなものにも、「味付け万能」と、料理人に言えば、「バカ」と思われる。
昆布には昆布の、カツオにはカツオの、ネギにはネギの味があり、これらは、すべて、高分子の世界であり、高分子への思考を、素粒子へと、置き換えると、「素粒子、破れかぶれ」と成る。

この益川敏英さんは、「エジソンは電力会社を立ち上げたが、直流で発電したため、送電しやすい交流で発電した対抗の会社に負けた。基礎科学を深く理解していなかったため」「科学は基礎が大事」と、2009年5月8日、京大の新入生のまえで、しゃべったらしい。

物事を、新しく追求してゆく方法として、電流を考えるにしても、何も、分からない、白紙の状態から、組み立てて行くのが、基本と、わたしは考えている。

天文学だが、1965年秋、寝屋川市への引越しのとき、「同志社香里」に天文クラブがあったので、通いたいと思った。が、わたしの就寝時刻は、通常、夜8時で、容態により、夕方5時のときもある。
とうじの同志社香里は、田圃の、一本道の中にあり、電車から、登校が、まるみえの状態だった。

「灘中学」への進学も、父から、「おまえが、三日も、続くか」と叱られて、印南郡、米田小学校を、一年生の一日目で、「止め」と言った、経歴から、その通りだろうと思い、天文クラブのある同志社香里を、あきらめることにした。

ベッド生活が大半のせいもあるが、わたしの、星座への関心は強く、1968年、京大からの大仕掛けの、「飛騨天文台」ができると聞いたとき、行ってみたいと思った。

それで、天文学の、「宮本正太郎」さんの、飛騨天文台の構造と研究の講義をきいたが、的屋の親分みたいだし、欧米との、高価な循環取引の研究所のような気がしてきて、東山にある花山天文台も行ったことがない。


4)人格をからかい、本物を排除する、マスコミ

マスコミが狂っていると思う、5月、わたしのところへは、河出書房新社の、憲兵、「甘粕正彦大尉の孫」が、祖父どおりの、骨格で、詐欺に来て、しかも、8時間以上、脅迫、恐喝をした。

「小池三子男君は、五反田の、ソープランドなど、行っていないと言うんだ。憤慨している」と言うので、「千駄ヶ谷のペパームーンで、契約の、小池三子男さんの、面接のときです。わたしは、宝塚のファミリーランドと、奈良のドリームランドは行ったけれど、五反田も、ソープランドも知らない。小池信雄さんが、三子男さんの話を、止めたんです」と言うと、「ピターキャット、ピターキャット」と反復する。

わたしは、IQ130クラスの、小池三子男さんの、ソープランド講釈に退屈し、「マラ・ペニ公爵三子男」の詩をつくっていた。
「いい娘(こ)、探すの、難しいんですよ」の反復が、酔った、小池三子男さんで、信雄さんに、「行きましょうよ」と言いだした。
それで、同じ女性とするのですかと、わたしが質問すると、「そうですよ。いい娘(こ)、探すの、これが、難しいんだから」と言ってばかりなので、小池信雄さんが、「ミネオ君、ミネオ君、止めよう」と注意した。

妻に、「甘粕正彦大尉の孫」は、IQ110程度で、危険だから、「警察」と、メモを渡しても、わたしの妻は、甘粕の孫の、レゲエかヤクザかと思える、風体から、怯え、できなかった。

68歳の子供、「甘粕正彦大尉の孫」に、こんな状態を、2時間も続けていると、わたしは、数ヶ月倒れ、起き上がれませんと言うと、「元気、元気」「ぼくは、河出に、食わせてもらった。恩返しだ」「野間宏、安岡章太郎さんには、飲ませてくれと、編集部に来て困った」と、何の意味か理解できない事項を言い、「浅田彰(1957- )は、東京オリンピックのころだ。中学生のときから、原稿を送ってきて」と言う。

わたしは、事実として、2日以上、昏睡した、状態になった。
あまり、奇妙なので、小池信雄さんに電話すると、「池田って誰?」「妻は居ない」「安岡章太郎はとっくに死んだ」「浅田次郎(1951年 - )だ」と言っている。

狂っていると思い、かれらと知性がちがう、千葉共栄さんに電話をすると、「奥様って、どんな方ですか?」「はい。、、、女優の、馬渕晴子(1936- )さんを若くした方?違うと思いますが」と、千葉共栄さんだけが、正常だった。

2009年、千葉県知事選におき、知事となられた、森田健作さんだが、森田さんのように、言動が、分かりやすい人を、何故、先の選挙で、千葉県民は、選ばなかったのか、わからない。

森田健作さんの経歴で、「剣道2段」が、全日本剣道連盟のではなく、詐称との事とかを、テレビは追求していた。

剣道の段位は、人格もふくめてのであり、森田健作さんのばあい、年齢と人格から、週に一度、月に一度の、練習に参加されると、すぐ、5段は、許可される。

剣道の重要さに、礼儀がある。茶道や華道と同じく、段位への金など、手続きが、要るだけである。

この夏、逝かれた、俳優の山城新伍さんとは、仕事場での、挨拶と言われても、若いスタッフへ、蔑む視線を浴びせる人だった事から、わたしは、挨拶を、したことが無い。

森田健作さんの撮影を見たのは、1976年、秋の終わりごろ、丸太町を下がった、鴨川だった。
まえの東岸が、草がぼうぼうの、旧会津藩邸で、先祖ゆかりの土地だが、京都の、中心街にしろ、北の上京区、南の伏見区にしても、尾張藩、桑名藩の跡と知らず、わたしは、ぼんやり、立っていることが多い。

「森田さん〜」「健作さん〜」と叫ぶ、女学生の声に、共演の、「金沢碧」さんは、川べりに居ることに気づいた。

1970年代だが、まだ、人格のある、一流の俳優さんと、見物人とは、境が、明確にあった。

肝心の、森田健作さんが、視力0・1以下の、わたしには見えないので、撮影のケーブルを巻いている、静かなタイプのスタッフに、「森田さん、どこですか?」と聞いたが、怪訝な表情をする。

後ろのファンの妻が、「まえ」「まえ」と小声で言い、わたしの背中を、何度もつついたころ、わたしは、30センチも離れていない、眼のまえに、森田健作さんが居ると、分かった。

ずっと、わたしに、ほほえんでくれていたらしく、このとき、森田健作さんは、俳優というより、スタッフ側ができる人で、こんな人が兄さんなら、明るい人生が送れると思った。

1976年夏、桑名での、撮影現場へ、行ってくれと言うので、合宿所でもあり、一ヶ月単位宿泊先の、旅館へ行くと、俳優目当ての、女子高校生たちが、ずいぶん居た。
わたしは、会議と言い、ラグビーのボールと同じように、片手で、頭をつかみ、庭へ、放りながら、興行の整理の役目かと思ったら、行き先が、松竹はじめ、映画関係者が居る、ホテルのレストランと分かった。

この時、あと、2年で30歳になるから、俳優業を止めると言った男優さんが、「松田君、あの、柿食いたい。とって来て」と、畑の中を指し、柿を言ったとき、わたしは、柿泥棒になるんですかと言った。
すると、「オレ、NHKに出て、撮影が、終わっているし、柿泥棒だと、降板になる」と言って、笑ったとき、奥歯が、なかった。

わたしが、歯をどうしたんですかと聞くと、「保険が無いし、痛かったから、タコ糸を付けて、引っ張った」と言う。

音楽に、演劇関係は、不況に弱く、わたしのできるかぎり、仕事は、平等に分配していたつもりが、「仕事、ありがとう。きょう、仕事が来ると、分かったんで、一切れ、残していたパン、ちぎって、洗面器に入れ、水でふやかして、飲んで、来た」の言葉も、わたしの考え方を、根本から、変えるものだった。

森田健作さんをめぐっては、妹がファンになり、1971年、テレビの『オレは男だ!』のとき、女学生のリーダー役がイメージと違うといい、アナウンサー徳光和夫さんの親戚の友人と中心に、「降板させる署名」のグループを作り、大阪、梅田、SONYプラザ前で、署名1万人を計画し、テレビ局へ、持ってゆき、これは、新聞記事になった筈である。

このとき、テレビを見て、砂浜で、竹刀を素振りする、ステップを見たわたしは、妹に、この足は、2段と言う主人公のでは無い。高校3段、仮り4段の、全日本学生選手権レベルと言い、わたしの足を見せたが、妹たちは、森田健作さんのイメージが高まるものであれば、何でも良いという時代だった。

この8月、森田健作さんの、事務所所属の、女優さんが、覚醒剤使用ニュースが流れたとき、まず、中国からの「絶望主婦」の新聞記事に、わたしは、笑っていた。

が、実際となり、わたしが知らなかった女優さんの、借家が、千葉県と言うことなどから、森田健作知事の、先の、対立相手が、千葉県に何をもたらしたのか、民主、公明党推薦の、典型的な、大陸、北方モンゴロイド顔の、「堂本暁子」女史ということなどから、複雑な気持ちになった。
インターネットで、この女優さんの、ロコモーションを見ると、誠実で、真面目な性格とわかった。

そして、森田健作さんが、『オレは男だ!』で共演された、お祖母さん役の、「原(はら)泉」さんが、徹子の部屋で、1930年ごろ、プロレタリアの演劇をし、憲兵や警察に逮捕され、トイレも、「檻の中で、眼のまえで、させるのですよ」と言われていた、言葉が、記憶から出てきた。

マスコミの犯罪と言って良いが、作家の、有吉佐和子さんを、タモリ(森田一義)の『笑っていいとも!』に電話をし、呼んだ、俳優の「有島一郎」さんは、遠くからでも、わたしに、深く、お辞儀をしてくださる方だった。

タモリの、公式というか、テレビデビューは、川崎敬三さんが司会の、「アフタヌーンショー」(テレビ朝日)だったと思う。
テレビカメラは、タモリがする、「イグアナ」の模倣を、故意に、外した。

「これが、面白いのですか?」と、川崎敬三さんが言ったとき、保護者役の赤塚不二夫さんは、「こんな、筈じゃ、なかったのになぁー!?」とか、言われた。
わたしは、漫画家の赤塚不二夫さんを、大人に感じた。

ビートルズさえ、言葉にしない、京都府教育委員長、山田忠男先生に、タモリと言う、人間の形態模写をする人が居るんですけれど、解剖学として、成立していない、人種別の首を中心とした、骨格の差の表現ができています、と告げた。

周囲に、京大、同志社の教員や研究生が居る環境からか、日本ザルはじめ、霊長類の骨の知識もある山田先生が、しばらくしてから、「松田君の言っている、タモリとか言う人ですが、、、」の話になった事がある。

どのような脚本なのか、有吉佐和子さんが、『笑っていいとも!』に出られたときの、タモリとの会話だが、有吉佐和子さんの、気持ちや言葉を、完全に、外しているものだった。

テレビを見ていた、わたしの妹が、「お兄ちゃんなら、どうする?」と聞いたので、「死ぬ」と、わたしは返事した。

この後のマスコミだが、新潮社の編集者が、作品として、成っていない、原稿を送ってくるとか、黒柳徹子の部屋では、女優の高峰秀子さんが、「ねぇ、徹子さん、電話で、睡眠薬、100錠欲しいって、言ってくるの」とかが、在った。
薬品によるが、睡眠薬100錠ぐらい、10錠ずつ、服用すれば、10日で無くなる。

20年ほどまえ、妻の取材先が、遠藤周作さんと言うとき、カメラマン同伴のため、何かあれば、わたしが謝罪にゆくと言っていた。

ところが、遠藤周作さんの、アポイントを妻がとると、著名なためか、他の人が、取材したいと言い、妻の行き先は、千葉県、鴨川市の、作家の近藤啓太郎さんとなった。

近藤さんが、「集英社」の、編集、記者たちに、生活を荒らされ困ったと言うので、二日拘束の仕事から、わたしは、先に、新宿高野からの果物セットと、10万円を渡して欲しい。
足らなかったら、5万円を、なんらかの形で、補充して、カメラマンが、何か起こしたら、わたしが謝罪に行くと言った。

妻の言動に、開けっ放しの生活をされている、近藤啓太郎さんは、好感をもたれ、わたしを、作家の安岡章太郎さんへ、紹介するからと、電話をしてくださった。

このころ、遠藤周作さんは、「小学館」の編集者に、『劇団樹座』での、フラダンスの姿を、「選集」に、掲載され、怒っておられた。
マスコミの編集者が、偉く、なりすぎた時代なのだろう。

わたしは、妻に、疲れるから、もう、作家への取材は止めて欲しいと言い、女優の、南美江さん、津島恵子さん、久我美子さんたちに会ってから、仕事を、止めて欲しいと言った。


5)長塚節の『土』を、下敷きにした、『おしん』

1983年のNHK『おしん』は、妻が、女優の長岡輝子さんへの取材というので、あらすじを読み、これは、正岡子規が、才能を、認めた、長塚節の『土』が、下敷きとなる、作品と思った。

著作権に敏感と思えるNHKだから、『土』を参考にしたとの、断りが、あったと思う。

長塚節は、茨城県の出身で、生まれ育った村を、農業の学問で、開発しなさいと、恩師である正岡子規に言われ、それを実践しようとした。

長塚節の『土』だが、夏目漱石が、朝日新聞社の、主筆だった、池辺三山(いけべ・さんざん)に掲載をいったものである。

『土』は、夏目漱石の、『坑夫』と同じく、農村で生活する、夫婦と女の子と弟が、本来生活に必要がない、「金銭」に、追いかけられ、母親が、伝染病である「破傷風」に罹り、苦しみ、死にゆく過程を、地味に描写したものである。

池辺三山が、なぜ、長塚節の『土』が、出版化されないのかと言う。この紹介を、夏目漱石はして、『土』は、日本の最も、貧困な農家を描いた、非常に退屈な作品と、読者の意識をそらさない表現をした。

が、実際、1970年代の、京都と言う、都の時代が長かった、西日本の、農村と比較しても、20世紀はじめ、日本のどこにでも在った、農家の、一頁と、わたしは、思った。

GHQアメリカの奴隷である日本は、1991年に不況へと、突入し、1994年、パソコンをはじめとする電気メーカーは、赤字転落し、各社とも、混乱し、USA連合軍だけは、戦争が可能なので、アジア・アフリカ、中南米から、金銭に、物品を、略奪どうようの事をして、好景気を続けた。

日本は、外国人労働者を受け入れることができる、企業だけが、自社内で生活させ、給与は、低くても、労働者の自国では、10倍以上になり、外国人を安心させ、肝心の日本人は、労働の場所が、どんどん、消え、これら外国人の賃金も、日本から、無くなった。
この「消失、総産、額面」を公表し、通貨の信頼を無くしてはいけない『円』と違った、形で、国民へ与えないので、日本国内に、金銭という兌換が、消えた状態になっている。

1992年ごろから、わたしは、20代後半の、将来ある青年たちには、この構造を言い、退社だけはしないようにと忠告していた。
でも、わたしが、才能の在る人物と判断した青年ほど、大手メーカーから離れて行き、かれらも、50歳という年齢が近い時代になった。

マスコミでは、朝日新聞社が、女性のアルバイトであっても、1994年まで、社会保険が在り、それまで、いちばん待遇の良い会社だったと、記憶する。


6)「中川昭一議員問題」はじめ、閣僚への、人権考慮がない日本のマスコミ


以上は、番記者という、指名手配をしても、良いと思われる人物たちである。

NHK長内一郎さんは、ブッシュ大統領関連の、シティ銀行、ゴールドマンサックスが仕掛けたと言われる、「NY、911」の事実を、親戚からの連絡でも、知った、わたしの血縁、NHKの長谷川浩の、抹殺計画を知っていた、光井正人さんに頭髪が在った頃の顔をしている。
が、見方を変えれば、NHKの悪党、Eさんに、似ていない事もない。

自社からの入れ知恵か、画像、左端は、北海道新聞の長谷川綾さんという方だそうである。
30代の女史は、2008年10月22日、麻生太郎首相が、帝国ホテルのバーを利用する事から、バーの料金ではなく、宿泊費が数十万って高いのではと、質問した、エライ女史である。

都市の高級ホテルの役割は何なのか。長谷川綾記者の文言により、ただでさえ不況なのに、ホテルの常客でさえ、使用をひかえ、都市機能が止まってしまった。

政治家のパーティ券問題が、社会問題となるが、1970年の、大阪万博後の不況で、都市ホテルが嫌う客に、国会議員、都道府県の議員などのパーティがあった。

国会議事堂の絨毯どうよう、都市ホテルを、公共施設とおもい、バカな議員とバカな複数の秘書が、絨毯の、同じところを、歩く。
とうじ、皮靴の底や先を守るため、鉄鋲を打っていた人が多かったため、より、すりへり、削られ、取替が必要になった。

ホテルの収支だが、絨毯代金をみても、悪党の国会議員が集める、パーティ代金どころでは、無かった。

長谷川綾さんの質問だが、なぜ、国会記者クラブのメンバーは、止めなかったのか。
国会議事堂の、経費が、高いのでは?新聞記者の給与って、高いのでは?と質問したらどうだろうか。

麻生太郎首相に、都市ホテルのバーの使用は、高いのではと言いながら、自分達は、別の存在とでも思っているのだろう、2008年10月15日、内閣総理大臣の官邸での、メディアとの「懇親会」だそうである。
この食膳は、国民の税金だと思うが、遠慮を知らず、そのような意思の気配すらない、自分が大事な、マスコミの連中である。

右端は、市民にはまったく縁がない、豪華な食膳で、連中の機嫌をとっている、衆議院の松本潤(1950−)内閣副官房長官である。

佐藤栄作政権は、1964年11月から1972年7月と、非常に長期で、政治担当の記者たちで、面倒をみてもらうのが好きなタイプは、寝食とも、世話になる。が、反対の記者は、徹底して嫌われる。
1972年2月浅間山荘事件の後は、同年3月、佐藤栄作により、犠牲となった、”沖縄密約”、西山太吉記者、蓮見喜久子外務省事務員により、政治スクープを出した、毎日新聞社は、USアメリカ奴隷下の、日本政府主導で、部数激減となり、給与が減り、倒産への事態となった。

この沖縄基地の使用料金問題にしろ、核持ち込みだが、1969年から、「琉球返還」と叫び、わたしに影響を与えた、IQ120前後の、著名な作家村上春樹氏と違い、神戸高校での、上級生と、同窓となる、IQ天才値の、京大の、学生運動家たちは、知っていた。

むかし、河出書房新社の、小池信雄さんが、『文藝』って、「ピーター・キャット」の村上を認めないんだ。オレは良いと思っているのにと言うので、小池さん、IQ高い方、125とかと言うと、「そうだ、オレ125、なぜ?」と返事する。

わたしは、同じことの反復で、クドイと言い、『文藝』の編集は、IQ130以上でないと、勤まらないと言うと、「それ、オレを、バカにしているの?」と言う。
いや、わたしは数値の違いと言うと、「(東大教授の)オヤジが、ノブオは、生まれつき、バカだからと、よく言っていたんだ」と。

「西山事件」など、日本政府とUSAの、画策そのものとも言える。

日本という国家を侮辱、侵害された、前財務大臣、中川昭一議員の2009年2月のローマG7事件だが、国家が、辱められたのに、何事も検証されず、日本のマスコミの日々は続いている。
イギリスのブラウン首相など、中川昭一さんの事を、笑っていた。

事柄が重要なため、中川昭一さんの、人格権侵害の問題と、名誉回復への、調査があってよいものである。

なのに、2009年6月12、13日、イタリアのレッチェ(Lecce)からは、G8の様子を、日本テレビの原聡子女史は、
「どの国でも重要な、経済、商業の大臣ですが、行く先が見えない、没落国家、USアメリカでは、オバカ大統領が、2008年から指名しても、つぎつぎ、断られ、4月の下旬、中国の奴隷下を考える、華僑系アメリカンが、商務長官になりました、、、」など、大手Y新聞の、E女史の、おともだち、原聡子には言えませんので、おなじみの、尺八講座です。

前回は、『どどめ色花びら3回転、行進曲』でした。今回は、聡子の、尺八による、『ゴックン協奏曲』です。
「マウスピースには、大きく、口を開け、歯を立てたり、ガブッとなんかしないで、、、」
「恐かったら、このように、眼を瞑って、ゆっくり」
「そして、ビブラートをかけるときは、口と頭を、こんなふうに、左右に、ググッ、グイと、ゆらして」と、この程度だと言えそうな、顔つきである。


前財務大臣、中川昭一議員の、出来事の検証をする。
2009年2月14日、「G7」の本会合は、朝8時15分から、昼1時50分までで、中川昭一議員だが、日本の「G7」への役割は、ほとんど終了していた。
この「昼食会」を、中川昭一財務大臣は、午後1時ごろに退席し、同会議場のレストランへ移動している。

この、レストランへの案内は、麻布高校の同期である、昔の公務員だと定年の、玉木林太郎(1953 - )財務省国際局長なのだろうし、また、イタリアの大使だが、2008年10月、穏当にみえる「中村雄二」閣下から、外務省の、65歳の子供、安藤裕康(1944−)氏に代わっているが、こういった外務省関係者が関与する。

安藤裕康大使だが、NY総領事、内閣官房副長官補から、歴史あるイタリアの大使となった。

@会場であり、宿泊先でもある、「ウェスティン・エクチェルシオール」Westin Excelsiorの、1階の イタリア・レストラン、「ドニー」Restaurant Doneyへの移動は、「午後2時」から、「午後2時30分」と、たった、30分ほど、と言うことである。
Aレストラン、「ドニー」は、ビュッフェ形式らしく、飲食は、サラダと「パスタ」とともに「赤のグラスワイン」と言う。

ふつうに考えて、高級ホテルの、レストランで、マナーを守り、軽食をとりながら、「30分」で、酔っ払う、人物が居るのか、どうか。

ワインを、そそいだのは、玉木林太郎氏という。
重要人物が食事で気をつけなければ、いけないのは、レストランのばあい、サービスをする側の、ボーイの、サーバーに、フォークやスプーンに、薬品をしかけているばあいである。

「G7」の本会合後の、日本のプレスへの、報告、質問だが、午後3時5分までの15分が、ロシア財務省との会談で、3時45分から4時5分が、日銀の白川方明総裁とによる、記者会見である。

会見は、「よろしいですか」、と中川昭一財務大臣の言葉から、始まった。
「えーと、まあ、昨日の夜からG7の会合、まあ、実質は、今日ですけども、共同宣言みたいなものが出ました」
@「日本としては、実質、経済対策をやると、具体的に、ADB(アジア開発銀行)にたいしての、具体的な対策をとった」
A「IMF(国際通貨基金)の1000億ドルの事については、、、。昨日、正式に、合意をいたしましたし、あるいはIFC(日本政策金融公庫による、途上国への銀行資本、増強支援)に対する、10億ドルに対しても、以前に、日本でも合意をしました」
B「どんどん、具体的な事をやってゆくことが、世界に対する貢献であり、また、国内に対しても、日本銀行をふくめて、やるべきことを、やってゆくこと」
C「日本が、4月2日 『G20』(2009年4月2日、ロンドン)に向けて、作業を、する」と、記者会見の「3分5秒」ごろ、述べた。

「7分52秒」のときには、
「きょうも、いろんな国の、ひどい、厳しい状況を、ききました」と言い、USアメリカとイギリスの支配により、ユーロ経済圏が、USアメリカの、「全世界、植民地化政策」で、失業率が、人口の10%以上を占めだし、市民が、ストライキをしている、社会問題を、嘆くように、言った。

発言での、問題だが、4月2日 『G20』にある。
ローマ、2月14日の『G7』での会議は、日本からの緊急支援、資本注入が、中心となった。

4月2日 『G20』では、近隣の中国、韓国は別にして、環太平洋の、インドネシア、 オーストラリア などに、インド、アラビア、アフリカ、南米のブラジルはじめ、新興経済国12ヶ国が参加する。
ここで、中心が、2月14日の『G7』で、わかるとおり、金融、資本の、具体的な発言をし、世界から、焦点をあびそうな、日本の中川昭一大臣へゆくと、莫大な損をすると考えたのが、USアメリカと、イギリスなど西欧である。

USアメリカのマスコミは、4月2日の、『G20』で、 カメラの位置を忘れた、オバカ(Obama)大統領が、バッキンガム(Buckingham Palace)での、オババ(Elizabeth II)女王たちを、自分の背中で、隠しながら、オバカ大統領が、オババ女王に、携帯音楽プレーヤー「iPod」を、進呈と、ニュースにしている。

第一回、『G20』は、本来、サミット議長国の、日本での開催であると、麻生太郎首相が主張したが、USAは聞かず、2008年10月11日、 ワシントンD.C.で、ブッシュ大統領を中心に、実施された。

第二回、『G20』が、2009年4月2日のイギリスであり、第三回の『G20』は、国家破綻が明白となる、2009年9月、USAのピッツバーグである。

「人民日報」を読んでいると、日本がアジアへ、金融援助に、投資をすると、侵略的行為であるとの文章が眼につく。中国だが、2009年初めから、日本企業が退散となると、中国は困ると言い、企業誘致となると、賛成したり、資本主義による侵略だと言う、文言に気づく。

これらは、どちらか一方にしないと、日本での地味な性格をしている、若い実業家は、要請があっても消極的になると思う。とくに、日本人へと帰化した、中国系は、中国を嫌う。

オバカ(Obama)大統領たち、USAには、日本と中国が、アメリカ国債を、1ドル=200円で、500兆円、即金にしてもらいたいと主張し、USA領土で、倒産状態のカリフォルニア州に、また地震が来たら大変なので、領土分割してもらい、また、ハリケーンばかり来る、フロリダ州も、もとは、モンゴロイドのインディアンの土地なので、譲渡してもらえば良い。

ブラジルは、2014年の、FIFAワールドカップの開催国だけで良く、大不況が来る、オリンピックなど、参加も辞めると言えば良い。




TBSの小森浩和記者の質問に、まるで、自分がスターかのように、TBSのカメラに視線を合わせ、スター気取りの、上野景文(1948ー)バチカン大使である。

覚醒剤による、効果で、脳裏と体が、ふらふら状態になった、中川昭一大臣を、日本のプレスへの会見のあと、午後4時20分ごろから、90分間、外務省の上野景文、財務省の玉木林太郎さんたちが、バチカン博物館などを、案内したという。

中川昭一議員が、イタリアや、ローマ法王庁(バチカン)から、言われたのは、バチカンが大不況なので、天皇陛下の訪問が成れば、日本人観光客が、増えるから、だったはずである。

美術品に、触れたのは、天皇陛下に失礼がないか、美術品の、埃の具合や、修理の程度の確認のためだと思う。これぐらいは、どのプレスも知っていたはずである。

このオレンジ色に白色の洋服をきて、眼を瞑っているのは、「社民党」やらの、福島みずほ党首である。表情をみると、若いとき、胸を患ったのではと思う。

服装の色だけは、ウクライナの、ユリア・ティモシェンコ首相と同じようだ。

12月2日、参議院厚生労働委員会において、採用内定 の取り消しや派遣切りの問題について追及している。

この後、2月は、ローマ(G7)での中川昭一議員を、論理なく攻め、「ろれつの回らない口調で」「日本に対する信用を、著しく低下させた」「麻生総理の任命責任は重大」「速やかに退陣すべき」と、わたしからの私文書をまだ返還しない、新宿の悪党「小林明子」弁護士と、司法同期で、体型も似た、福島みずほ(1955 - ) 党首は言っている。

福島みずほ女史は、「そうり」を「しょうりーぃ」と発音する。
ふつう、「さ、し、す、せ、そ」の発音では、舌は、上顎に接触しない。が、「ちゃ、ちぃ、ちゅ、ちぇ、ちょ」、「じゃ、じぃ、じゅ、じぇ、じょ」など、舌音韻となると、上顎への接触部が出てくる。

中国、満州語族は、この舌音、歯音が、さかんで、母音の多い、日本語と異なる。


7)両祖父、殺しの契機となった、鳩山一郎政権

日本には、むかし、「鳩山一郎」氏という、GHQロビーの政治家が居て、1933年の、京大、滝川事件では、法律の末川博助教授が、先頭に、ひるんだ滝川幸辰教授に、社会の規範を築こうとする、法律学の研究が侵され、学問の場をどうするのか!?と、逃げる、滝川幸辰教授を追い詰め、滝川教授は、大学当局と、鳩山一郎文部大臣への、抗議を、向ける、役割の一部を背負った。

文部大臣で、USAロビー、右欲の鳩山一郎氏など、脳裏が、今成金しかない輩は、末川博先生たちの、学問の自由への、理念の抗議の連続に、ただ沈黙だった。

第二次世界大戦がはじまると、鳩山一郎氏は、戦争を止めずに、中央政権から、逃げ、戦後は、GHQアメリカ、ロシアに従う、方針を選択した。

1954年ごろの、日本が、どのようだったかだが、兄の、幼稚園児の正月号の雑誌から、交通整理をする、「おまわりさんを見たい」と、母に言ったとき、母は、神戸に居ると思い、「おまわりさんだなんて」と言った。
わたしは、神戸や姫路で、「見たことがない」と、言った。

父が気づき、「大阪まで、連れて行ってやれ」と言い、阪急と阪神百貨店の間で、箱の上に立ち、交通整理をする、巡査を、はじめて見た。

見たことのない、交通整理のような、光景にあうと、一日中見ている性格を知っている母は、わたしの手を引き、つぎに、手を引っ張った。
気持ちが百貨店のほうへ行き、わたしの先にいる黙ったままの兄をみて、母に「おまわりさんって、偉いね」と言うと、「そう、大変な、お仕事なの」と言い、母に手を引かれ、兄に追いつき、阪神百貨店へ、向かった。

姫路や神戸といった、地方都市は、町や村の代表となる、「市警」の青年たちだが、GHQ連合軍が、導いた、外国人たちと、衝突すると、殺されていた時代である。

そのため、いわゆる、特攻帰りという、ゼロ戦や、人間魚雷回天の生き残りの、叔父は、姫路で、体を張って、町の人たちの生活を、守っていた。

日本は、わたしが生まれた、1951年9月、吉田茂内閣により、サンフランシスコ平和条約を締結させ、日米安全保障条約、正しくは、日本、および日本人は、アメリカの安全のため、犠牲になりますの条約を結んだ。

わたしのイエには、GHQアメリカが仕組んだ、条約の通知があり、特攻帰りの叔父が、新しい条約により、ヤクザと呼称され、逮捕されてしまうと分かり、祖父の指示で、父が、叔父へ結婚を理由とし、イエへもどした。

が、わたしの祖父たち、血縁は、どこまでも、自由な日本人を主張し、これを、成金屋、鳩山一郎氏という輩たちは、排除した。

このため、わたしは、子供のとき、姫路で、岡山の方へは行かないようにと、習い、いまだ、岡山だけは、通過しただけの土地である。

父の妹の叔母は、20歳を過ぎても、町や村のためと、選挙の票固めばかりの役割で、親戚から、キヨちゃん、いい加減にして、「嫁入り仕度」と言われても、「ええねん、ええねん、アテは、ええねん」と言う叔母だった。

2007年秋の終わり、叔母が、姫路日赤へ来たことがあると言うと、母は否定した。が、病室の位置と、父が、両祖父が、運ばれた、病院の帰りで、叔母が、加古川東高校3年の叔父が、村一番の成績のため、「お父ちゃんが、お兄ちゃんに、頼みって。お願いやから、ケンゾー、大学へ、やらせて」と、幼稚園児の、わたしのベッドの下の床に、叔母は、額をつける土下座をした。

30歳をすぎた父は、「大学なぞ、困る」と言った。
この言葉の意味だが、東大や京大へ進学すると、誘拐され、殺されるという事だと、「NY、9・11事件」の背景を読んだ、NHKの解説委員、東大OBの長谷川浩が、殺されたのと、どうよう、わたしの血統は、どうしても、社会正義が出てしまう事にあると、21世紀になって、了解した。

鳩山一郎氏の孫と言う、鳩山由紀夫氏が、医師不足というが、この医師とは、数だけなのか。

1982年春、京阪沿線、丹波橋で、70過ぎの、小柄な着物姿の、女性が、電車のドアに、腕を取られた。このとき、助けようとしていたのは、10人以上の男性客である。
皆、ドアを指さきで、摘み、一向に、女性の腕を救うことができない。それで、わたしの行動を止める妻を、振り切り、わたしは、ドアの内部へ、腱鞘炎の腕を入れ、ドアを開けた。

「助かった、助かった」と言っている、男性客たちだが、同時に、ドアを離したので、わたしは、腕の付け根まで、吸い込まれた。
「キャー」と、妻が声を上げ、京阪の駅員が、走ってきて、後日、中書島管区の駅員が、礼にきたが、わたしの右手は、骨折に近い状態だった。

同じく、1982年6月、小田急沿線、成城学園での「科学基礎論学会」の前日、わたしは、江ノ島方面行きの、急行電車のドアに、挟まれた、高校生に気づいた。顔が、新宿方面になった状態である。
わたしは、わたしの前にいる、小田急の駅員に、合図を送ったが、動かないので、このままでは死ぬと思った、わたしが走って、春に痛めた右腕を、ドアに入れ、男子高校生を救った。が、高校生は、恥ずかしいのか、礼も言わず、小田急の駅員たちも、どうようだった。

鳩山由紀夫、民主党代表、どういう意味での、医師の増大なのか。

また、1963年、わたしは、加古川市から、豊中市庄内小学校へ転校したが、7月、参観日のとき、わたしのグループ7、8人に、小柄な、I君が、体当たりで、飛んできた。グループのメンバーはI君を避け、この京都昨今『40』の庄内小学校の新校舎、3階の右から、3つ目の、教室から、I君が転落してしまうと思い、左腕を出し、かかえたのは、わたしだけである。

わたしの左手は、ガラス窓を、破り、手首を切り、50センチ以上、血が飛んだ。次男の早川君に、わたしのポケットから、ハンカチと、ちり紙を出してと言い、三男の木下君に、わたしがカバンへ、予備に置いている、ハンカチと、ちり紙を出してもらい、床に落とさせ、わたしが、自分の足で、血を拭き、岡重信先生に、医務室へゆき、外科へゆくと告げて欲しいと言い、廊下で合った、三年生の、妹を、参観をしている母に、状況だけを言い、無いことにして欲しいと言った。
いまだ、手術跡が残る、左の手首を見ると、知ったかぶりの医師は、自殺の跡ではと言うだろう。

生活に苦しい、国民に、市民を、騒がせる、鳩山兄弟。20歳ころから、ずっと、労働してきた、わたしの年金は、一ヶ月も無い。
政治家であるなら、政(まつりごと)の重要さが、どこに在るか、少し、考えたら、どうなのか。

1963年、豊中市庄内小学校に、血液型と形質との関係と、一部、手のラインの構造について、家庭環境とのことを、識別できる、子供がいると言い、近所の、大阪大学に『人間科学部』と言うのができた。何を学問しているのか、わたしは知らない。

また、わたしの専攻が、心理学と思った、連中が、1970年代から、心理学ブームを起こした。わたしは、心理学が、何を目的にしている、学問なのか、知らない。

貴殿たちの祖父、口だけの鳩山一郎氏は、わたしの両祖父殺しを、采配した輩と言っても良いのだ。なんなら、病院名から、すべて、書く。

1974年森田健作さんが出演された、映画『砂の器』が良かったと、近所に引越ししてきた早川君が、わたしの母に言い、「ひとり、自殺した人が居る。松田君は、覚えているはず」と、聞いたとき、母に、I君の、お母さんが、卒業式のとき、5年、6年生の間、はじめて、いじめられませんでしたと、礼を言った事を言ったが、1965年の卒業式では、クラスを超え、30人ほど、男子の母親が、礼を言いに来たので、わたしの母は、わからなかった。

早川君が言ったとおり、『砂の器』を見に行き、志賀直哉の『赤西蠣太』をモチーフにした作品とわかったが、大阪空襲をはじめ、勉強になった作品と感じた。

山田忠男先生からの話だが、同志社大学には、重要建築物があり、「これと、これを写真に、と言っても、誰も、動かない。それで、西川(幸治)君に言ったら、京大から、脚立をもって、写真を撮りに来てくれたんだ。ほんとうに、同志社のは、何もしない」と、山田忠男先生は、怒っていた。

はじめ、建築学の西川幸治さんを呼び、写真を撮らせるなら、山田先生が、すればいいじゃないかと、わたしは思った。
わたしの感覚の鈍さだが、山田先生のステッキは、母方の祖父と同じく、長く、飾りと思っていた。

太平洋戦争中、日本軍人ばかり批判する、国会議員や、自称正義のジャーナリス風の、朝日新聞の本多勝一氏がいる。
京大での学生生活があることや、新聞記者として、京都府教育委員長の山田忠男先生を、認識していた時代があるかも知れない。

山田先生は、戦争反対で、戦争を嫌い、京大には、メッテル(Emmanuel Metter)が指揮者として居たため、音楽にも憧れ、フルート奏者となった。

軍事訓練は一回か、そこら出たという履歴で、徴兵検査のとき、雨の日で、軍事訓練参加の印のインキが、水で流れ、複数回になり、前線で戦う、一兵卒だけは逃れたい、と思ったと、わたしに言った。

山田忠男先生への質問に、中国での、パルチザンの攻撃を聞いたら、月も星もない、夜ですと返事された。

わたしは竹槍で腰部を、突かれたと思っていたら、「南船北馬」の、中国の地勢をしる、パルチザンは、落とし穴を作り、そこに竹槍を仕掛けていたと言う。

このような、パルチザンの攻撃は、中国では南の地、南京の方がしやすい。雨の夜の攻撃に、東京帝大や京都帝大出身の、日本の学者が、対抗できるのかどうか。また、敗戦後の日本人虐殺、奴隷問題を、中国は、どのように、弁明するのか。

上野(東京芸大)での、有名な話だが、一兵卒として、死に行くまえ、ただ毎日、サティ(Erik Satie)の作品を演奏し、これを、音楽家としての生きた証とした人がいる。
彼らに、従軍慰安婦とか、中国などでの、残虐な行為をした人物との、烙印を、どのように、押すのか。

これらの事は、良識の判断に乏しい、大江健三郎氏にしても同じだ。戦争反対と言い、何度も、憲兵に捕まった、祖父と、軍属として、またイエの仕事として、10代の学生の父がつくった、大砲の砲身にしろ、16歳で、人間魚雷回天に志願した、叔父たちの、海軍の力で、貴殿の育った、愛媛県の地域が、GHQ連合軍の攻撃に合わず、死から逃れていた可能性を考える力はないのか。


8)西洋で、倒産した、音楽メーカー

ピアノのメーカーは10社、20社あって欲しいし、ピアノ線のメーカーは、その倍なければ、作曲は、し難い。なのに、西洋音楽が発達した先進国で、ピアノのメーカーが、つぎつぎ倒産し、そのいくつかを、経済状況では、西洋より、ましな、日本が、ひきとる形になっている。

わたしの文房具類というか、美術用品の大半は、イギリス、ドイツ、フランスだが、1990年代からの、世界大不況は、音楽の世界だけでなく、美術用品なども、西洋の会社は、つぎつぎ、倒産した。
国民の大半が、役人や銀行員のイギリスのばあい、自国の管理もできなくて、よくも、経済経営学などの、本家のように言っているものだと思った。

アメリカも有色人種の、オバマ政権発足時は、支持率が高かったが、次第に落ち、初夏の段階で、次の政権を準備しているのが、USアメリカである。

西洋など、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアとも、内閣支持率は、失業率の高まりと、犯罪からとの社会不安で、2008年秋から、無かった。

2009年麻生太郎内閣で、細田博之(1944- )自民党の幹事長が、4月、ご自身の誕生日に、ピアノを演奏されている。 ベートーベンの『月光』はじめ、20年、30年の単位、政治家の憩いとして、一ヶ月に一度、あるいは一年に一度、二、三時間を過ごされていると感じた。
細田さんのピアノへのタッチだが、ケンプ(Wilhelm Kempff)を良く聞かれ、観衆のレベルを考えてなのか、冷静にし、感情を出さないようにされている。

ペダルだが、USAのライス(Condoleezza Rice)長官は、ダンプカーのブレーキのように踏むので、面白い人と思ったが、細田博之さんは、ショパンは天才だ、ベートベンは格段に偉大だ、それに比べ、この会場に居る、人間か野獣か区別がつかない連中は、と考えられながらの、醒めた演奏方法で、音符の意味を理解し、楽譜を大事にされ、作曲学に、細田さんのような先生が居れば、少し、音楽界が変わったのではと思った。

おなじく、河村建夫(1942ー)官房長官だが、この方は、文系、理系にかかわらず、文献学、解釈学の研究者であれば、一線に行き、良い門下生ができたのではと思った。

外国人、人権問題だが、20歳をむかえ、より自由な人間になろうとする青年たちだが、両親や、周囲の干渉で、帰化できない事が悩みであると、京都の青年たちは、言っている。

この原因だが、日本、アジアへの干渉と、世界の混乱ばかりを、仕掛けてきた、USアメリカとロシアに責任が在る。

最近と言ってよいのか、21世紀はじめ頃、京都では、中国の富裕層の学生が、「日本人は、米と漬物だけの食事で、みすぼらしい」と言い、朝鮮半島からの留学生に「小さい国、黙れ」と言っている。

台湾からの学生も中国の勢力で、気弱になり、観光の行き先を、聞かれ、答えながら、どこからですか?と質問すると、「台湾」と言うので、分かりますと言うと、「おおっ、台湾、知っているのか」と、女学生までが、こういった調子である。
とにかく、2009年の、台湾の青年は、自信がない。

河原町三条から、木屋町では、イタリア人はだいたい元気だが、USAからの静かな白人の青年たちは、「ここは、ダウンタウン?」と、恐るおそる、たずねてくる。そのため、「いや、チャイナタウン」と、わたしは答えている。


9)九州での、外国人の割合

1991年秋遅く、神田の神保町の韓国料理屋で、赤ちゃん雑誌『マミー』編集長の赤星一朗君から、成人雑誌『ポスト』編集長の福田博章さんを紹介された。

赤星一朗君は、わたしと同年だから、1970年安保反対運動時代は、短い言葉で済む。

とうじ、若い世代の、福田博章さんに、わたしが、遺伝子の研究へと行った理由を、人間は遺伝の動物でもあり、文化環境の動物でもある事を、兵庫県加古川市に転校して、一年半、朝鮮人の級友はひとりと思っていたら、転校まえ、他の級友が、ぼくら朝鮮人と言い、クラスに10%以上いることに気づかなかったと、この事を言っていると、わたしに似た【夏型】の、手のラインを持つ福田博章さんは、俯いたまま、クスクス笑いながら、石鍋焼きの、器を、スプーンで、コツコツ、コツコツ鳴らしている。

「おい、福田、福田」と、【秋型】のラインを持った、赤星君がすごく真面目に注意する。

とうとう、福田さんが、ゲラゲラ笑い出し、「松田さん、ぼく、山口県出身ですよ。クラスに、朝鮮人、40%以上で、赤星さんは福岡だから、50%以上ですよ」と言うので、1960年ごろから?と聞くと、「そうそう」と赤星君。

北九州は遺伝子分布状態から、30%ぐらいの流入と考えていた、わたしは、驚きながら、家業が、お寺の子、赤星一朗君は、この時まで、何時間も話しているのに、わたしの頭が単純にできていると思っていたのだろう、思いやりで、いっさい、言葉にしなかった。

1970年代、中ごろ、写真雑誌『GORO』の創刊メンバーとなった赤星君は、70年代、80年代、縁故もない、フリーの記者を、自分自身が面接し、採用していた人物である。
昔の赤星君は、この『京都昨今』「41」、一番写真下の、左端、わたしの中学時代の、級友に、そっくりだった。


10)日本が、失ったもの

わたしへの、映画界入りの、役のひとつに、「宮本武蔵」があった。この理由がわかったのは、2009年になり、妻が、大きな、買い物バッグを、タクシーに忘れ、そのタクシー会社の所在に、タクシー会社が、複数重なる。何故、こんなところに、会社がと思い、一乗寺の宮本武蔵の事から、京都観光と、わかった。
映画界のひとたちは、そういう事柄など、常識だったのだろうが、なぜ、姫路から高砂に、神戸や桑名で、面接と、説得をされていたのか、20代はじめの、わたしには、関心が、音の響きにあり、わからなかった。

下の写真だが、演技に、はじらいが在り、ういういしく見える、動作で、これは、2009年、2月22日、平安神宮での、朝市である。
「東映の映画村に居ます」と自己紹介され、「南京玉すだれ」での「東京タワー」への歌謡も、解説も、上手にできていた。

わたしは、この女性の、司会進行のエム・シー(MC、Master of Ceremony)を聞き、まだ女学生のように、細く、高音の声ながら、よくできていると感じながら、観客の反対側へ行った。わたしに気づいた、音響と、演劇の係りの男性が、音源の場所から、離れられる。

いつも感じるが、音楽、美術関係の、黒子のような存在をする人たちは、同業の雰囲気がわかるようだ。

音源は、ラジカセの、小さなもの一つ。予備の、もう一つも、かなり小さい。

わたしが、1970年代、仕事で使ったピー・エー(PA、Public Address)関係機材は、ステージ用の大型のものだった。このような演芸ものでも、とうじは、タテ70、ヨコ30センチほどのスピーカーが、ふつうだった。

観客から、彼女の父親や祖父にあたる世代からの、節度のない揶揄にも、さりげなく、返事されている。まじめな、エム・シーにたいし、揶揄など、考えられない事である。

さびしく、嫌な光景だと感じながら、わたしは、音を立てず、鳥や猫への合図と同じ、観客に向かい、右手を上げた。
つぎに、後方の位置のままから、彼女の背に向け、音楽での指揮と、同じく、「こっちを向いて」と言った。

背中で、わたしの声を受け止め、「東京タワー」を作ったまま、彼女の、右の踵が、少し浮き、動こう、とする。
彼女は、少し俯いた、恥ずかしげな、仕草で、左足を軸とし、左まわりで、180度の回転をして見せてくれた。
これだけなのに、平安神宮の、催しの会場が、日本人が持っている、自然な、笑顔となった。

アメリカの搾取経済により、20世紀の1990年代から、21世紀の2001年となり、大不況で、すっかり、忘れてしまっている、日本人の、昔に、持っていた、静かな、日本人の笑顔を見ることができたと思った。


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2009-08-29