京都昨今
70、みさき公園の、ゼンジー北京             【殺人関与 鳩山由紀夫】
[第一章] みさき公園の、ゼンジー北京
1)
東京オリンピックのあった、1964年4月30日、わたしたちは、伊勢へ、修学旅行に行った。
大阪府豊中市から、伊勢へは近郊である。が、修学旅行費を工面できないという、同級に同窓生がいた。話した事もなく、家庭環境も知らないが、不公平と思い、わたしは、「参加しません」と、担任の岡重信先生に言った。

母が学校へ呼び出されることになり、
「他人(ひと)様に合わせなさい。修学旅行は、学校の行事だから、行きなさい」と母は言った。
わたしは、費用の事で、参加できない同窓たちもいる、学校の行事って、分からないから、5年生のときの、「高野山林間学校」と同じく、欠席すると、母に説明すると、「修学旅行は別です」と、母は言う。

わたしの修学旅行への参加は、大喜多正照校長先生からの意見もあり、担任の岡重信先生が、母へ確認し、参加という事となり、学校側は、準備してしまった。

こういった、大人社会による、わたしへ強制する言語と理屈が、分からなくなると、わたしは、まったく、沈黙の言動をとる。
小学校でも、児童会の下級生には、挨拶などするが、黙ったままで、過ごした。
わたしが黙ったままだと、困るのが、6年3組と、担任の岡重信先生だった。

修学旅行への準備は、4月29日、行く日の前日から、母が用意しはじめた。
当日の30日、わたしは休むと、いつも通りの事をいったが、母は、朝、駅前の豊南市場などに買い物へゆき、兄が小学生のとき使った、旅行カバンに、おやつなどを入れはじめた。
「お兄ちゃんの、カバン、、、」と、わたしは言った。
母は、「これを持って、修学旅行へ行きなさい。カメラも」と言い、1959年、わたしが姫路日赤に入院中、兄が小学五年生のとき、姫路駅前で買ってもらった、2回シャッターを押す、「フジペット」も持参となった。

庄内小学校発車の、観光バスで、伊勢へとなり、無言の状態のまま、参加した。バスが大阪の中心部を抜ける。伊勢の海岸沿いになっても、旅行へ参加できない同窓は、この太平洋の景色も知らないと思い、わたしは、一番後方の席の真ん中にいて、次男、三男グループと、トランプを始めた。

到着して、初めて見た、1964年の伊勢神宮は、古い木造の、ヒノキだろうが、再利用の、再利用と言った、板切れを、張り合わせた、壊れかけの、灰汁色 (あくいろ)の塀がつづいていた。

拝殿ちかくの建物、ここの屋根は、焼き栗色の古くなった柴だが、手入れもなく、風雨に乱され、載せてあるものに見えた。

世間が言う、都会育ちとなった、大阪、梅田近くの小学生には、「こんなところへ、何しに来たんの。まだ、『奈良ドリームランド』の方が良いのに」と不声が、上がっていた。

2)
宿の二階で、夕食が終え、土産を買いにとなった。
岡重信先生は、「まつだ、先生は、いつも、ここで、買うんだ。五分引きだ。3つ以上の土産、500円以内で買うゲームだ、オーバーは負け」、と言った。

『がっちり買いまショウ』は、三組のカップルが参加する、テレビ番組だった。漫才の「夢路いとし、喜味こいし」さんが司会をされ、小学生がするような、ゲームで勝負を決め、彼ら漫才コンビが、「3万円、1万円、5千円、運命の分かれ道!と、顔や顎を、くしゃくしゃさせ、早口で言う、番組の 『がっちり買いまショウ』をしよう、合計、500円以内だ。誰が、500円に近いかだ」と言った。

『がっちり買いまショウ』の司会は、わたしが幼児のとき何度も、眼の前で見た、「いとし、こいし」さんだった。

伊勢での買い物は、わたしが一番早く、合計金額も495円だった。岡重信先生から、「さすが、まつだ、495円か。一番だ」と誉めてもらったとき、買い物をしながら、300円以内にと、相談している、女子のグループに気づいた。

「、、、200円台と、400円台の違いは、誰でもわかる。こんな計算なんて、、、。500円というのは、高価すぎる、お土産なのでは、、、。わたしは病院生活の子供で、生活感が無いからだ、、、」と、大きな反省が生まれた。

土産屋さんから出てゆくと、新しい土産屋さんで買ったという、2組にあった、担任の小谷俊治先生が、若いせいもあり、2組は、いつもリラックスした感じだった。
2組は、5年、6年生と隣のクラスで、わたしの友達も多いから、五分引きで買ったというと、「ぼくら1割引き」と笑って言う。つづいて、5組、6組と会った。かれらも、1割引きと言う。

「もう、マツダ君、損した」と、470円、480円ほどの価格になった、友達の浦谷君、早川君たちが言う。わたしは岡重信先生に、「先生ー!」と言うと、「いや、まつだ、5%引きだと、頭を使った。それだから、いいんだ」と言った。

泊まったのは、海岸に面した、伊勢でいちばん大きな、木造旅館だった。わたしは、日ごろ、体調により、午後には安静のためベッドで、病状により、午後からの安静もあるが、夜8時には、必ずベッドなので、同窓より先に、時間どおり、眠ろうとした。
すると、「まつだ君、このまま、寝るの」と、兄さんたちが、庄内小学校へ通った、三男の木下君、次男の早川君がいう。

「なに?」と言うと、「枕投げ合戦をしたって、お兄ちゃんが」と、二人が言う。「どう、やって、するの?」と聞くと、「誰かが、相手側に投げれば、始まるって」と言う。
わたしたちは、3組で、大広間の、中央が、布団の位置だった。
これだと、3組と4組が、真ん中だから、「犠牲になる」と、わたしが言い、敵になる、6年4組の委員長で、庄内駅前、看板屋の石山君にも告げた。

石山君とは、4月から、書道塾がいっしょになり、友達になっていたので、石山君の4組が、「まつだ君、枕投げ合戦しよー」と言った。
児童会がいっしょの、5組の委員長、おとなしい細谷君も、「まつだ君、しよー」と言い、3組と校舎がいっしょの、1組からも「やろー」と言ってくる。

廊下にいる、先生たちに、聞こえる会話で、わたしが、注意をされるのではと思い、柱の場所にいた、岡重信先生たちを見ると、黙ったまま、わたしたちの方を見ている。

わたしは、3組と、4組の、体格の小さな子へ、「顔を下にして」と言った。
わたしが、ラグビーボールの半分ほどの、小さな枕を「ぽーん」と、端っこの、6組に投げると、木下君、早川君たちも、投げ、合戦がはじまった。
1組と6組は、遠いので、立ち上がり、1組と6組対抗の、ドッジボール大会のように、枕を、思いっきり、なげ合い、汗まで、かきだした。

どうなるのだろうと思っていたら、岡重信先生が、3組の、わたしたちの所にきて、「もう、いいから、いいから。もう、眠ろう!」と、微笑んで、言った。

翌日の朝、伊勢のシンボルである、大小の「夫婦石」へ行くことになった。
どこの海岸にでも在りそうな、ただの岩二つ。これに夫婦などの意味をあわせ、古くから、二見興玉神社(ふたみ、おきたま、じんじゃ)と呼ばれて、日本の名勝のひとつとして、また、信仰の対象としてある。

「夫婦石」(めおといし)の男の方がある。右端のワラを編んだ縄のようなのが、「鳥居」の役目をする。
夫婦石は、岩の間からの朝日を見て、夫婦仲良く、行きますようにと拝むのが、習いで、藁(わら)で編んだ、ありふれた注連縄(しめなわ)が、鳥居の役目を果たしている。

修学旅行の予習とちがって、「先生、こんなー、小さな、岩ー」と、5年生のとき、池田市の五月公園へ、岩石集めに行った級友や同窓から、不満の声が出た。

岡重信先生は、
「いいんだ、いいんだ。ここで、願い事をすれば、かなうんだ」と岡重信先生は言う。
不平の声が止まないので、わたしが、ぱんぱん、ぱんぱん、手を数度たたいて、「岡重信先生が、校長先生になれますように」と言うと、わたしの次男三男、グループが、同じことを、し始めた。

小さな岩礁、なんどか崩れかけ、観光用に、修正したという、有名な夫婦岩(めおと・いわ)のところで、岡先生に、「写真」といった。岡重信先生は、小さな岩と岩を結ぶ、藁(わら)で編んだ、注連縄(しめなわ)のようなところに立たれた。

3)
岡重信先生を撮った、朝の同じ、5月1日だが、真珠島での、「御木本幸吉」の会社の、見学を終え、帰りの電車の中、大喜多正照(おおきた・まさてる)校長先生が、6クラスもあるのに、列車の片隅の4人席の、ひとつで、行儀よくされていた。
わたしは、校長先生のように、偉くなると、たったひとりの状態が多く、寂しく思った。そして、
「校長先生、写真」と、だけ、いうと、黙ったまま、背広に、ネクタイをなおされた。
大喜多校長は、昔の、校長先生の見本というか、いつも、静かで、重厚な雰囲気をもたれた先生だった。



大喜多校長との、やりとりだが、1963年、わたしが、兵庫県の加古川市から、隣の府県、大阪府庄内小学校へ、転校し、塾や家庭教師など、放課後、勉強がなく、わたしに、遊んで欲しいと言ってくる、母子家庭の下級生のための相談が多かった。
「土曜日の午後だけでも、校庭を開放できませんか」、「一、二年生の、子供は、原っぱや、土があれば、遊んで時間をすごせますから。ぼくが監視役で、児童会が同じの子供は、送って行きます」と、担任の岡重信先生に言い、岡先生が、校長へ相談する形だった。

答えだが、岡先生が「校長先生と相談したんだ。もし、開放の時間、怪我があったら、校長先生だけでなく、先生たちの、責任になる」と、文部省や、豊中市のきまりを、わたしへ告げた。

児童会や、思った事を言葉にできない、一年生など、下級生たちから、わたしへの依頼も、岡重信先生に言った。質問が、高学年の6年生と低学年の1年生まで、共通し、多人数と、分かったときは、大喜多校長が、朝礼で、
「文部省と豊中市教育委員会から、放課後の運動場使用は禁止となっています」と言う、形を取られた。


1963年は、排気ガスがくすぶる、中心部の大阪市から、郊外になる、となりの、豊中市へ、また、九州などからの転校生が、学期ごとに増えて行った時代だった。

わたしは、児童会が同じになる、子供たちは、学期が変わるごと、母子家庭の、母と、同窓や下級生は、
「まつださんと、校庭で遊んで居ると思うと、安心するから、、、」と言った。
わたしは、困惑しながら、なんども、放課後の教室や校庭の使用を、岡先生へ言い、校長先生にも聞いてもらった。

豊中市の小学校でも、庄内の隣の駅、服部にある、小曽根小学校の、1960年は、放課後、校庭で遊んで良かった。が、1963年には、ダメになっていた。


東京オリンピックをひかえた1963年、豊中市で一番大きく、36クラス、生徒1700人が在学する、庄内小学校のせいか、「先生たちの責任」という、子供には、理解しにくい事情が生まれた。

大喜多正照先生は、めったに、校長室から出てこられない先生ときいたが、6年生になった、1964年秋、わたしが、精神薄弱児の教室の子供たち20人ほどと、校庭で遊んだり、中庭の花壇造りをしているとき、見ておられた方と、岡重信先生から聞いた。

4)
豊中市庄内という、町の構造からゆくと、駅をはさんで、街道にならび、南北に、商店街ができていた。
野菜も生きていると言い、食べなかった、わたしに、かろうじて、食べられるものは、豆類だった。

駅の東側の、「豊南市場」は、1960年の秋ごろは、活性があった。割烹着すがたの主婦たちで混み合い、買い物客で、活気があり、豊南市場の入り口から、二、三軒おいた、穀物屋には、豆類が、いっぱい在った。

母が、「これは、ささげ。この小さいのが小豆」、「ご飯で、よく食べる、これは、いんげん豆」と言い、日によって、「よく食べるのは金時豆」と、表現を変えるので、わたしは混乱する。「虎豆(とらまめ)も、おいしいの」といくら言われても、斑入りのには、「模様があるのは、嫌」と、1960年秋、9歳になっても、言っていた。

タテ横、一尺半四方で、深さ二尺ほどの、豆類を入れた、木製箱は、1960年には、20数種類近く、並べてあった。1963年の春に、数えると、14ぐらいになり、東京オリンピックの年を迎えて、豆類は、10ほどになった。
また、1960年には、市場の奥に在った、買った「うどん」を、殺菌のため、杉皮で包んでくれる、麺類屋から、1964年には、わたしが好きな、「きしめん」も、見なくなった。

1960年ごろまで、外商を中心に商いをしていた、デパートが並ぶ、大阪、心斎橋筋は、日曜日など、買い物客だけが歩き、通りの人たちの数は少なかった。
東京オリンピック直前での変化は、大きなスポーツの祭典にあわせた、アメリカ風の多量に物品を売る、日常生活品が、かんたんに入手できる、近所の「スーパー」の商業主義が展開しはじめた。

いままでは、都心部だったのが、大阪から、電車で10分ほどに、スーパーが開店した。
庄内では、1964年ごろ、テナントの内面装飾がガラスで、店内が見える方式の、ダイエーができた。

ダイエーの前になる、駅側に、ガラスの効果をねらった、幸福相互銀行ができた。
日本では、大半が、欠勤すると給与が低くなる、日雇いと正社員の制度がまざった、「日給月給」のシステムだったが、豊中市に、この「日給月給」の会社員が多くなり、主婦が貯金のために通える銀行となった。
少し後、西口に平行した、北側に、階上がある、関西相互銀行ができた。


どちらの銀行からも営業がきた事から、母は、二つ利用していた。兄が欲しいという、「東京オリンピック記念1000円硬貨」を、母が買い忘れ、幸福相互銀行では、入手できなく、関西相互銀行の支店長が手配してくれたという。

こんなとき、母は、兄のことなのに、切手や硬貨など、蒐集癖がない、わたしを連れて行く。これまで、銀行といえば、加古川市に在った、神戸銀行で、建築様式が古典と思っていた。

同じ、1964年であっても、血縁の、東海銀行、頭取の長谷川が、わたしへ、直接、話しかけてくることなどなかった。神戸銀行でも経験しなかった。
わたしは、このような環境に育ったが、関西相互銀行の庄内支店長たちは、二階の合板の応接間で、「これが欲しがっていた、1000円硬貨だよ」と、親しそうに、話しかけてきた。沈黙したまま、わたしは、時代が変化したのだと思った。

5)
風俗の変化だが、1964年、5月の子供の日もあわせ、連休に、演芸のゲストとして、「ルーキー新一」「平 参平(たいら さんぺい)」さんたちが来ると言う。

お笑いの、演芸だが、わたしは、2、3歳のころ、家業の秋の旅行で、「松竹新喜劇」は、良く見学していた。

1930年代の花形は、吉本新喜劇の、「エンタツ、アチャコ」で、かれらの、作品、大学野球『早慶戦』に、反応したのは、帝国大学生だった。
野球に、アメリカ語での専門用語があり、ルールがあり、それら耳にして、知っていることが、ひとつの階級をあらわすものだったのだろう。

1950年代中ごろ、喜劇では、渋谷天外、藤山寛美さんが人気をとり、「横山エンタツ」さんは、一人での、漫談だが、登場してくるだけで、観客は、笑っていた。
「漫才」でのスターは、「中田ダイマル、ラケット」さんだった。

横山エンタツさんと、「ダイマル・ラケット」さんたちの話芸は、社会問題ではなく、日本人の、日常生活を、滑稽にし、演出されたものだったが、日常、笑うことの無い父をふくめ、劇場中、声をだし笑い、にこやかにしてくれる、おじさんたちと思った。
「ダイマル・ラケット」さんたちが、演台に、居るあいだは、いつも、笑いで、劇場がざわめき、椅子から前へ乗り出したり、立ち上がったりする人たちが多く、演台へ近づくことなどできなかった。

上品な漫才というか、真面目なおじさんたちと感じたのは、「いとし、こいし」さん兄弟のだった。
「いとし、こいし」さんのときは、20代後半になった、父が許可してくれ、2歳ごろから、わたしは、演台のすぐそばへ、行き、見上げて、聞いていた。

漫才の中身だが、「君ところの、嫁さんなぁ、、、」と、いつも、互いの、奥さんの性格の、「いけず」の度合いや、風体を、標準語に近い関西弁で、言い合う、どこまでも、上品な言葉の遊びにとどまり、他者を傷つける、表現はなかった。

夢路いとし 、喜味こいしさんたち、兄弟の漫才への姿勢だが、言葉も、衣装の背広にしても、きっちりとしたズボンの折り目は、いまでも、強い印象として残っている。
1953年、54年ごろ、わたしが、2、3歳児のころ、大阪の演芸場の光景である。

6)
1964年の、お笑いは、明らかに、違ったものだった。わたしの同窓たちの、商家が見える、あたりに、即席につくった、演台での劇で、人気があったのは、ルーキー新一さんだった。

ふつうのポロシャツを着て、胸の辺りを、両方手を使い、アメリカ人が肯定する、女性の象徴が、バストにあり、左右の、バストを意味するように、指先で摘み上げ、「いやーん、いやーん、バカ!」といった、芸風で、小学、低学年の子供たちも、女性のふりだけで、笑わせていた。


わたしは、妹をふくめ、幸町二丁目の児童会の子供たちと、集団で見た。舞台設置のそばには、級友の絨緞屋「カネマン」があり、6年4組の委員長看板屋、石山君のイエもあった。

「変だけど、おもしろい」と、この寸劇を、一、二年生の女の子たちも、笑っている。見学者は、子供たちだった。
後で、わたしの妹と同級になる、5組の委員長、細谷君が四年生の妹をつれ、やってきた。

四年生の妹をはじめ、下級生も喜んでいたが、ルーキー新一さん、所属の、吉本新喜劇について、まず、大阪市の教育現場から、批判がおき、PTAも同様の意見で、テレビでの、吉本新喜劇は、見ないようにと決まったらしい。

このあと、庄内小学校の大喜多正照校長先生が、朝礼のとき、「駅前のダイエーに、吉本新喜劇が来ていますが、言葉や態度が、風紀上問題ですので、見にゆかないようにしてください」との訓示があった。

中学受験のため、越境入学もあった、庄内小学校では、テレビを見ない子供が多く、はじめ、何のことか、分からなかった。
が、朝礼での、校長先生の訓示にあった、吉本新喜劇の言葉と態度は、わたしが慣れた、松竹新喜劇とは、まったく違っており、同じ吉本でも、中田ダイマル、ラケットさんたちの漫才とは、違っていた。

肉体を表現してゆく、アメリカ風のものは、侵略だけでなく、先住民の、インディアンの殺戮、強姦を繰り返してきた、肉食が中心の、アメリカ民族にとって、ふつうのものであっても、米に野菜という、草食が中心の、日本の、幼い子供への教育には、良くない物が、小学校の教育現場の先生たちの判断だった。
わたしは、児童会の、一二年生たちへ、悪い事をしたように感じた。


7) 
庄内小学校の6年生の、秋の遠足は、バス旅行もかね、全員が参加できた、南紀がそばの、「みさき公園」だった。

大阪市中が渋滞で混み、予定より、一時間ほど、遅くつき、岡重信先生が、演芸をする、ゼンジー北京さんへ、生徒に昼食を済ませてから、ゆっくり、奇術を、見たいのですがと、挨拶へ行った。
岡先生と、いっしょの、わたしたちは、普段着で、「はい、はい」と、静かに返事された、ゼンジー北京さんを、そばで見て、級友と、「うわっ、本物の中国人だ」と感動していた。

ゼンジー北京さんの、奇術だが、
「コノ箱ニ、鳩ヲ、入レル。トコロガ、箱ニ入レタ、鳩ハ、コノヨウニ、居ナイ。消エタ。ソコデ、中国ノ、奇術、サッキノ鳩、左ノ、袖カラ、デテキタ。コレガ、中国ノ、奇術。ナゼ、箱ノ、鳩ガ、袖カラ出テキタノカ。ソレハ、鳩ガ、コノヨウニ、二羽、居ルカラヨ。中国ノ、奇術ニ手品、種ト仕掛ケダラケ、ワタシ、種ト仕掛ケ、全部教エル、アルヨロシ」
「トコロデ、庄内小学校の、皆サン、ワタシヲ、中国人ト、思ウカ。ソレ、マチガイ。ワタシ、中国シラナイ。中国語シラナイ。話シテ、イルノ、コレ日本語。ワタシ、日本人、アルヨロシ」と言った。

舞台用の、青い中国の衣装での言葉を聞いたとき、中国人と会えて良かったと、言っていた、わたしたちは、異国への、あこがれから、「ええっ?」と、残念がりながら、ゼンジー北京さんの、奇術というより、話芸に、笑っていた。

とうじの、みさき公園は、周囲が、自然だらけのせいか、ゼンジー北京さんの声は、良く通っていた。

江戸時代から、明治初期に、来た、欧米人の旅行記には、日本人の、ほとんどの労働者である、百姓に、「なぜ、笑ってばかりいるのか」と、不思議がられた、報告書ばかり、見つかる。

これは、不動産である、水稲、田圃文化を、長い歳月をかけ、維持し、働いてゆくものが、共同に生きてゆける、植物栽培を中心にした、文化形態を、獲得したからであり、海賊や山賊、盗賊には、町や村が、共同体として、外部からの、略奪行為を、拒絶した、ことに因る。

岡先生が、中心の卒業アルバムを作るとき、「六年生での、思い出は?」と質問した。廊下側の、一番、後方の、席にいた、わたしは、クラスの様子を見ていた。
全員参加ということや、みさき公園での、ゼンジー北京さんの、他人を傷つけず、笑わせる、演技に、それぞれが、楽しく感動し、いちばん大きな思い出として、みさき公園の、ゼンジー北京さんと言い、岡先生は、その通りの、アルバム作りにした。


[二章] ギュル大統領夫妻(2008年6月)
1)
南紀は、伊勢とおなじく、岩礁が多い。わたしは、20歳ごろ、一度、岩礁から岩礁へ、バタフライで、泳いだ。南紀のばあい、波が大きいため、波の動きに合わせると、体が、宙に浮く。

とおくから、海を眺めていた、日々は多い。
けれども、1958年、米田小学校へ入学したとき、一年二組で、同級だった、分け隔てのない幼なじみを、1961年夏、加古川で、逝った、知らせから、川で、泳いだ経験は無く、海も、泳いだのは、浜辺がある若狭湾と、岩礁の南紀のと、2回しかない。


この伊勢の南、和歌山県、串本、紀伊大島の沖で、1890(明治23)年、9月中旬、日本へ、一年ほどの月日をかけ、横浜へ来た、トルコの船の長さ80メートルほどの、木造軍艦、「エルトゥールル号」が、トルコへの帰路、台風の時期で、難破、遭難した。

軍艦の座礁、大破は、樫野埼(かしのざき)灯台の、燈台守が発見し、救援を、近くの村人たちに求めた。
相手が、日本人でないことは確かだが、ひとつの村、10戸、20戸となる、村人たちは、トルコ人、600人以上のなか、村人たちの、食料を、乗船者、69人に与え、看護した。

治療に当たった、医師たちだが、明治天皇が、国家の来賓の、事故だから、褒美との、配慮に、「われわれは、ただ、重傷の、トルコ人たちを診て、治療に専念したので、不要」と回答したことに、医は、仁術と、死との境の、人々を診て、共通する事柄は、救助にあり、日本の本草学で治癒へ向けた。

手当てを受けたトルコ兵たちも、同じく、日本の、田舎の人々の、わたしたちが知る言葉ではなく、遠い、昔に在った、仕草などから、相互の了解を得れる、優しさを文化の根本におき、眼のまえの人々を、信じて行くことができる、能力があったからこそ、可能だったものだろう。

とうじの、医学は、蝋(ろう)に、薬草などを溶かし、軟膏にしたもの。手当ては、包帯になる、日本てぬぐい。
医食同源の考えから、海産物に、山や、水稲によるもので、海辺のトルコ人は、日本人どうよう魚に、貝類を食べるので、医療に当たった人たちは、ほっとしたところがあったと思う。

村人や医師の態度でわかるように、エルトゥールル号事件だが、日本の共通語すら、知らない村人たちには、災害に遭遇した、人間を助けるという、心身があったという以外、何もない。

わたしの小学生のイトコは、1969年1月、紀州、田辺の言葉を採取した。が、わたしが、それを聞いても、わからない。1970年代はじめ、わたしも、南紀を、まわった。

南紀の海岸沿いの、民宿もしている、漁師さんたちは、1970年ごろ、若い、わたしたちへ、無言のまま、ただ、微笑んでいた。ゆっくり、のんびりした時間を過ごす、漁村と言える。わたしが、お辞儀をすると、ただ静かに笑って、それを、礼儀とする、町や村に共通のものが在るところだった。
      
6つのライン系列

春型T類、U類、V類 夏型T類、U類、V類 秋型T類、U類、V類
冬型T類、U類、V類 台風型







2)
大統領夫妻が、来られるまえ、トルコの民間、考古学研究所の、トゥファン・トゥランルさんが、海底調査され、戦艦、乗組員たちの遺品を探索された。

和歌山の「エルトゥールル号の慰霊碑」に、2008(平成20)年6月7日、アブドゥラー・ギュル(Abdullah Gul)大統領夫妻が、来られた。

南紀の人々は、日本へ来て、トルコへの帰路、遭難された、兵士たちのため、5年ごとに追悼式をする。
2008(平成20)年の、今年は、1890(明治23)年9月の惨事を、憂う、町での通例の行事に、大統領夫妻が参列され、大島小学校と大島中学校、生徒計78 人が、『「トルコ兵』への追悼歌」を歌った。

大統領は感激された。南紀の赤ん坊は、大統領に抱き上げられたことを喜び、子供たちは、トルコの偉い大統領と、近づけた、握手をしたなど、感激から、胸がいっぱいになったという。

わたしは、2008年6月の、ギュル大統領夫妻が、参列された、出来事は、南紀の子供たちの、生涯をつうじ、誇りの、ひとつになると思う。



トルコは、人口7000万人もが居る、大きな国家である。トルコ人のほとんどがイスラムのスンナ派の民族である。

1970年代、わたしが、トルコ人の生活を調べているとき、国家が成しえる、地勢からの、食料を得やすい風土で、日本人の仏教どうよう、日常へ溶け込んだ、なにげない感じのものである。

わたしたちには、理解へ遠いが、識字率の低い民族が、混交する、アラビア圏では、社会秩序のため、宗教が法律の代わりを成している。安心を得る、社会への規律のため、強烈に見える、イスラムの信仰が在る。

なのに、ギュル大統領は、イスラム系政党、出身者のため、「政教分離」が言われる、トルコで、反対の抗議があったという。

国際国家としての、トルコ、優良な人々たちによる、平等な国家を目指すため、日常生活の、移り行きに合わせた、信仰を、異端を感じさせる宗教だと、批判できる時代になったのだろう。

3)
トルコは、海に面している地形でわかるように、漁業も盛んだが、海の町であっても、現在の、日本より、のんびりしている。

和歌山、海難にあった、トルコ兵への追悼式に参加された、ギュル大統領夫妻の、腕に手の、動作と仕草であるが、夫人の、かがみ方を含め、この姿勢は、日本人もする。

二番目の写真、冬の服装での、イスラム教徒たちに囲まれた、大統領だが、かれらの、ゆったりとした、腕、手の仕草は、日本人も、日常する。このようなオーバーコートは、平均、気温が似る、東京や、緯度からだと、函館など、北海道などでは、ふつうなので、理解できるだろう。

三番目は、案内、四番目は、高齢の女性に、挨拶する大統領。五番目は、議会での、大統領たちの拍手、六番目のひとさし指の使い方だが、これは、ふつうの日本人はしない、仕草である。

ギュル大統領の動作や、手のラインだが、皮膚隆紋の形成がしっかりしている。

ギュル大統領の手のひら、20数枚の写真からゆくと、【夏型T類】となり、思考の方向をしめす、主線1番の「α」アルファ、政治での、対立する相手側の意見を聞き、また、市民の意見も、譲りながら聞いてゆく、互助の、性格をしている。
6番の「ζ」 ゼータ線形が、明確であり、相手を思う、あたたかな心の空間が広い。

わたしの場合、トルコは、トルコの人たちでなく、西欧、東欧、アラビア、アフリカ圏との、隣接する、音楽現象の、音に音階(スケール)の上下という、関心のない、人たちからは、味気なくみえる、音の分析から、近づいている。

わたしが、多感な高校生のとき、アメリカやイギリスはじめ、スペイン、フランスなど、西洋文化は、西洋人の、恩師たちから、直接、習った。
時間は戻らないが、1970年前後の京都で、トルコの文化を紹介する研究機関は無かったように思える。トルコの文化へは、わたしが、機械を使い「音」を、計測をするようになった、接触からである。

トルコ文化へは、小学生のときは、中学生向けの、文学や音楽、カードを使っての占い、と言われる遊びで近づいた。
他の国の文化の理解は、自然なものと考える、わたしには、トルコへの、研究が、音の計測という、味気のない、機械技術で、短期間で、してしまったという点が、いまだ、わたし自身を、劣等感へ、追い込む。


「三章」 京都の反戦学生が尊敬した、ホメイニ師
1)
コーカサス(カフカス、Kavkaz)への興味と研究も、トルコと同じく、1970年代中ごろ、音楽からだった。
トルコどうよう、音階(スケール列)の調査へ行きたいと思ったまま、病気で倒れ、40年近くの、歳月が、経ってしまった。

コーカサスは、わたしにとって、昔から、内紛などの連続の地域であっても、同じ、ソビエト連邦だった。

北京五輪が開幕した、2008年8月8日、グルジア軍は、グルジアからの、分離独立を、主張する、ロシア派の、南オセチア自治州へ、戦闘攻撃をし始めた。
ロシアが、戦争のつもりかと言うと、グルジアは、「これが戦争でなければ、何なのだ!」と報道した。

イランは、7月9日、国連決議なんか無視だと、ミサイル発射実験をした。そのため、8月のグルジアの戦争のとき、イランが、核ミサイルを、打ったら、本格的なものになると思った。が、指導者、ハメネイ師が居る国家だと、感じた。


イランには、先なる、指導者として、ホメイニ(Khomeini、1902−89)師【秋型T〜U類】を抱き、現在の国家は、ハメネイ(Khamenei)師【夏型U類、秋型T類】へ伝達されている。

1970年代、わたしたちの世代が、大学生のとき、ホメイニ師は、写真から、厳しい人ではないのか、と思った。

学生運動が激しかった、1970年前後の、神社と仏教の寺院だらけの、京都で、「ホメイニ師」は、煩雑で明確でない、イデオロギーを抜いた、反戦派の、哲学専攻の学生を中心に、尊敬されていた。

米帝、日帝反対と叫んでも、影響力がないと、考えた、同志社大学で、ふつうに学問をつづけたいと思った、男女は、「ラマダン」を、市電とバスが走り、いちばん、人通りの多い、烏丸通りの、西門から、中学の「彰栄館」と、礼拝堂の前ぐらいまで、おこなった。

学生の数だが、多いときは、100人以上が、空を上に、仰向けの姿勢で、バタンと倒れ、動かない状態をつとめた。
胸には、画用紙などを使い、「反戦」、「非暴力」と書いたスローガンを胸にし、沈黙で、実行した。

わたしが、大学では、イスラム思想書と、「荘子(そうし)」の研究書を、持ち、読んでいたときだが、1975年、春、神学部の「幸日出男」教授が、「なぜですか?」と、三条京阪駅で、「59番」と、同じバスの、わたしに質問した。
それで、「先生が、キリスト教を、学問するのと、同じ理由です」と、わたしは、一度だけ返答をし、「59番」は止めにした。

ホメイニ師だが、写真、左から一番目、手と腕の長さ、腰の位置にくる右手、指の長さに気づく。
三番目は、若い世代の言葉を聞こうとしている、手のひらを、右の耳に当てている、仕草。

四番目は、左に黒い装束のホメイニ師、右に茶色い装束のハメネイ師、両者が、両手を、日本にある仏像の手の仕草のように、宙に浮かしたままでの、ゆったりとした感じの対話。

五番目、読書中のホメイニ師、六番目は、散歩のように見えるところである。画家であれば、どちらも絵画の対象になる、思索する人間の、味わいある、光景と感じるだろう。

一番左を見て、ホメイニ師の、厳しい表情も、国家を統制する指導者として、必要だった時代だったと思う。

ホメイニ師、ハメネイ師、両者に共通した事だが、両親や、周囲に干渉されず、また、自身も、他人への干渉を嫌う性格をしている。
黙ったままの人物たちと言える。言葉少なく、周囲の意見を聞く。そして、全体からの、「まとめ」を述べてゆく性格をしている。

わたしたちが、大学生だった、1970年代、京都の哲学専攻は、市民革命へと進もうとした「ホメイニ師」へ、尊敬の意識をこめていた。ホメイニ師の手のライン構造だが、ホメイニ師ほどの、精神空間、心の広さを持った、手のライン構造をした人を、わたしは、いまだ、知らない。

1970年ごろ、関西の、イラン(ペルシア)文化への学習場所だが、大阪外語大学ぐらいしかなかった。
ペルシア語専攻には、ペルシア猫を抱いてくる女史ひとりが、ペルシア語の先生という、学問の環境だった。

1970年代のペルシア語はじめ、アラビア圏の語学教材だが、欧米製の、高価で、アラビア人が、怒鳴ったような発声のものばかりだった。偏見をもたないようにしようと思っても、欧米製の語学教材を、テープレコーダーにかけるのは、忍耐力が必要だった。

2)

現在の、ハメネイ師の方が、1980年代までの、ホメイニ師より、優しそうに見える。
ホメイニ師も同じ、指に見えるが、左端と二番目の、ハネメイ師の、中指と薬指の仕草に、わたしの眼と意識は行く。中指と薬指が、接触し、ひとさし指、小指は、離れている。

手での、この細く長い指の形質だが、「イラン(=ペルシア)」とずいぶん距離がある、日本人では、1970年代、同志社大学の学生、サンプル1万人以上で、見たかぎり、単純な表現で言うと、B型のタイプU類を中心に、この形質だった。

民族と装飾だが、ハネメイ師の、両手の、薬指に、「指輪」が、はめられている。指輪のばあい、はめたり、はずしたりが可能な形質を持った民族に、発達したものと言える。

楽器と指先との関係だが、B遺伝子高頻度の地域で、弦楽器が発達した地域は、指先が、細い。
ないし、爪と指先の接触部位の関係だが、O型遺伝子T類は、指の先端まで、爪と指先の肉の箇所が、ひっついている。

古代エジプト、メソポタミア、インド文明、これらの民族に発達したのは、指の形質によるのではないか、と言うことである。指輪や楽器のハープ類など、爪弾(つまびき)き、易いのは、B型T類、O型T類、U類である。

指の関節だが、同じような体格だと、A型に比べ、小さく見える。A型のばあい、節の骨が大きい。関節部位の皮膚の表面、「@」の形質が、他の血液型遺伝子に比べ、ひとまわり、大きい。


三番目は、ハネメイ師による、教え、講話だろうが、聞き手である人々は、「胡坐(あぐら)」か、「正座」である。同じことは、四番目の、警察、軍隊関係者の、姿勢だが、同じく、「胡坐(=座禅)」に正座である。

わたしが、アラビア圏の民族を調査していた、1970年代、男性たちは、胡坐(座禅)の姿勢で、ゆっくりと、それぞれの対話をしてゆくのが、習慣としてあり、日本人と同じだと、思った。
五番目は、ハネメイ師と、モハマド・ハタミ・元大統領が、アフマディネジャドへ、新大統領への、授与式に見える。

指輪、楽器など、文化に関与するもの、すべて西洋が作ったような、デタラメを超えた、ゆがんだ歴史を広めたのが、GHQアメリカとイギリス連合軍である。


3)
2000年9月、モハマド・ハタミ大統領が、キューバのカストロと会っている。この一番左の写真だと、サングラスの印象から、モハマド・ハタミ大統領は、厳しそうに見える。
わたしたちが気を付けないと、いけないのは、少ない情報の中で、行う、審判とも言える、判断である。

左二番目から、理解できるように、モハマド・ハタミ(Khatami)元・大統領(任期、1997ー 2005年)【春型U類】は、表情から、わかるとおり、穏やかな、対話ができる。また、他言語、他民族であっても、自分から会話を、相手に合わせてできる、才能がある。
育った家庭環境だが、「父」なる存在を畏敬し、父親、母親の両者から、社会常識の学習を、数々注意され、ハタミ・元大統領自身が、社会の規範を、肯定しながら、生活してきた跡が、仕草に在る。

写真、四番目は、モハマド・ハタミ大統領を、迎える、市民だが、写真の左端の女性たちによる、拍手が、実に静かで上品さを感じさせる、仕草に、わたしの、注意がゆく。

五番目は、ハタミ、元大統領が、多くの人々の前で、アフマディネジャドを大統領として、信頼する、と言う、仕草なのだろう。この、静粛さ、才能ある、若い相手の人格を、認める行為は、第二次世界大戦後の、GHQアメリカの教育により、日本の、都市部には、無くなった。

ひとつの民族が持った、習俗には、他民族には、理解し難い、言語に動作による、事項が、かなりある。

じっさいとして、イランの、ハタミ大統領の、心底からの暖かく、見える言動の雰囲気を、われわれ、単一、言語しか所有していない事になってしまった、現在の、日本人へ、どのような思考の、重要な結果を、引き出すのだろうかと、わたしは考える。



左端は、現在の、アフマディネジャド(Ahmadinejad)大統領が青年のときで、写真、四番目の、指の形質が、ホメイニ師、ハネメイ師と同じく、中指、薬指が接触している。指の長さだが、労働の種類にもよるが、重労働などをすれば、指は、短くなる。
アフマディネジャド(Ahmadinejad)大統領の手のラインだが、日本の政治家と比較すれば、長い。ところが、1970年代、京都の反戦学生たちが、尊敬した、ホメイニ師たちと比較すれば、線形αは、少し短い。

写真左から、三番目、四番目の仕草だが、天上の、太陽のもと、両手を掲げ、心身のひとつの祈りはじめ、行動への、用意を意味する、動作をとっている。

一見、過激な言動を、選択し、指示しているように見えるだろうが、左端の一番目から、三番目は、ホメイニ師、ハメネイ師を習い、見知らぬ他者と出会ったときは、他者を優先し、譲りながら、相手がどのような人格を持っているか、素早く、判断でき、国家のためなら、まず周囲の閣僚に意見を出させ、実行へうつしてゆく、おとなしい性格の人物と、わたしは判断している。

アフマディジャド大統領は、アメリカの、ABCのニュースキャスター女史とやらに、失礼とかのレベルでは済まない、「何が望みなの?誰と議論したいの?」と、たびたび質問される。
アフマディジャド大統領は、いつも、「わたしは、ただ、アメリカの指導者たちと、対話を、したいだけです」と、言辞の、端ばしに、静寂を取り、しずかに返事されている。

8月14日イランの、アフマディネジャド大統領、【夏型T類】は、親米派のトルコを訪問した。
このことは、イランが、ロシア側でもない、「戦争国家ではない」、という、明確な、意思表示になる。

イランの兵器の表現は、西洋から高い金額で買わされた、武器による、軍隊を維持する、国家の、大統領という立場から、軍人へ役割を与える最低限の、行為ではないのではないか。

アフマディネジャド大統領は、2008年12月、イギリスBBCに、取り上げられ、
「イエスの生誕を前にした、キリスト教徒の皆様、おめでとうございます。わたしの国、イスラムにも、予言者として、イエスキリストは登場してきます。もし、イエスが居られたなら、現在の、戦争の状況を許すでしょうか。わたしは許さないと思います」と言われた。

この中での表現には、アメリカ合衆国はない。しかし、CNNなど、アメリカのメディアは、イランのアフマディジャド大統領による、アメリカ批判と報道した。


[四章] 異端者となったフセイン
1)
アラビア半島での、出来事は、1850年代、アメリカ合衆国の、海賊の王様、ペリー(Matthew Perry)たちにより、成されている。
海賊の悪党、ペリー(Matthew Perry)は、「黒船」から、ドッカーンと、大砲を撃ち、1854年3月日米和親条約を強制させられた。
正しくは、アメリカによる、「日本、隷属条約」である。日本は、欧米による、画策された、「戊辰戦争」で、日本国内を戦場にさせられるまで、日本は、長崎の「オランダ商館」設置で分かるとおり、『鎖国』し、日本国内で、生活をしていた。

NYを中心として、コマーシャリズムが好きな、移民の労働力を、中心にした、アメリカ人に、唯一、分かるのは、「金」、「金」、「金」、アメリカン・ドリームの簡単なのは、宝くじで大金持ち。つぎは著名人になること。イギリス語にしろアメリカ語にしろ、構造と発音は、非常に難しく、移民たちには、理解できない。アメリカの支配者は、この仕掛けを利用する。

移民、自由なアメリカ人への一歩。移民たちは、「金の効力」を教えられた気持ちになるが、奴隷と変わりがない。

「金」で、動じない、移民たちが広がると、南北朝鮮や、中国、東南アジアでの、歪んだ、戦争の歴史の宣伝、世界で一番残酷なのが、日本人だとの、活動をする。
そして、日本が、金銭を、渡すと、素直なところも、ある民族と、評価される時代が、2009年の、いまも、つづいている。

19世紀、20世紀、21世紀、世界最大の、戦争国家アメリカ、物欲主義者が集合するのもNY。
NYは、「金」で作られた町であり。思想なき、左欲と、右欲が、からまり、後は機械で、生息する人間たちの町、NY。

アメリカでの、「アミッシュ(Amish) 」、「ダンカー派(Dunker)」など、素朴であろうとする、キリスト教徒たちは、アメリカの都市部で、他人の物だけでなく、生命までも、奪う、人間たちを、どのように思っているのだろうかと思う。

キリスト教の、諭し、アミッシュ(Amish)に、ダンカー派(Dunker)の、生命の在り方、そこに学ぶべきところを、見出していれば、アメリカは、2008年夏のような事にならなかったのではないか。

今日の先進国という、悪いアメリカ人と、悪い日本人の、言動により、信仰なき言動と判断。
機械が優先した先進国の基準があれば、古代文明を持った、エジプト、アラビア圏内、インド圏内、中国圏内の、それぞれの民族を、好戦的人種と評価できる。

西洋とアメリカの略奪戦争により、文化財を失った、アラビア圏の国々は、発言権すらない。

われわれ、日本人のなかで、良識を持つ、どれだけの人々が、アメリカと西洋に、「バルバロイ(異民族、異端者)」と定められた、イラクの言語、複雑に分岐する、アラビア、イラク、ペルシャ語の、読解、聞き取りが、できるのか。

2008年9月、物欲主義の、極端に悪いアメリカ人(Cultic American)たちによって、自由をもつ、アメリカは崩壊してしまった。悪いアメリカ人により、アメリカのマスコミは、アメリカ合衆国の中心地、NYを支配する側の体制の人たちに立ち、報道しているところがある。

2)
戦争国家、アメリカ合衆国人に、刑罰とやらを受けた、サッダーム・フセイン Saddam Hussein の、手の仕草、指の動き、手のラインを見ていると、フセイン Hussein は、わたしたち、日本人が、なじまされた、ブッシュ George W. Bush、USA The 43rd President  より、性質は、優しい。

「親身になる」「暖かい」という事項を肯定するのならば、フセイン Hussein の方が、日本人には、良識として、通じるだろう。また、映画の主役であれば、映画監督は、ためらいもなく、ブッシュではなく、若いときハンサムなフセインを、選ぶだろう。

フセインは、イスラム圏では、大多数の、「スンニ派」だった。アメリカからの資本や武器の投入で、フセインは、大統領になれた。政権は、アメリカの、レーガン(Ronald Reagan)政権からの、援助で、フセイン政権は、1979−2003年4月までつづいた。


ハリウッドの俳優だった、図体だけの、レーガン大統領の任期は、「1981年1月ー1989年1月」という長期間だった。
このとき、レーガンは、フセインに、イラクでは巨額になる金銭と、兵器を与えた。が、レーガンには自覚がなかった。

理由に関して、レーガンの頭脳は、アメリカと、イギリスに、文化のフランス、イタリアぐらいしか、記憶できない頭脳構造で、後は、その他の国々、その中に、イラクがあったのではと感じる。

トルコ、イラン、イラクに多く居る、山岳民の「クルド族」は、集団により、言語を数々もち、それぞれのイスラム教を持ち、言葉に習慣の違いから、トルコ、イラン、イラクなどと、よく、衝突する。
紛争を起こさせるには、欧米にとって、多少の金銭と武器を、クルド族に与えれば良いことだ。

フセインは、多数をしめるアラブ人で、多数をしめる「スンナ派」の「ムスリム」だった。

3)
重要な事は、イラクは、東は「イラン」、西は「ヨルダン」「イスラエル」「レバノン」。南は、「サウジアラビア」、北が、クルド族で、衝突ばかり起こす、「トルコ」に、アルメニアとアゼルバイジャンに「グルジア」が位置する。

山岳地帯に、熱帯の砂漠など、厳しい自然から、宗教のちがい。習慣、言語の違い。機械文明の差をはじめ、日常の言葉や、情報文化が、市民へ、普及していない地域である。

言語がちがい、識字力がなく、山岳、遊牧民が多いとなれば、欧米やロシアからの金銭や武器により、それらを所持した民族が、紛争を起こそうと思えば、すぐ、起きるという、想像はつくだろう。


フセイン裁判での、フセインの表情と、エジプト文明、メソポタミア文明からの伝統と思える、手の仕草を見て、考えさせられるところは、ないだろうか。

左二番目のは、四大文明のひとつ、メソポタミア。バビロニア(Babylonia)の土地で、大衆を治めるため、大統領という、一番偉い役職になった、フセインが、死刑へとなる裁判で、フセインの、負荷ばかり告げる、裁判官たちの、命令言語は了解した、しかし、どうすれば、事実を、通じさせることが出来るか、そのひとつの、手の動作である。

この、フセインの親指とひとさし指での、「了承」を意味する仕草だが、日本人には、理解し難い。しかし、欧米、アラビア圏は、可能だろう。

これらをしかけた、「ブッシュ USA The 43st Pre.,」に、イギリスの「ブレア(Tony Blair、UK、The 43st Prime M.1997 ー 2007)」だと、わめきちらすか、泣きだすに、違いない。
わたしは、フセインが、大政治家だとか、世界思想に習熟した、人物とかなど、思考から、外す。

フセインは、「国家」の統治、市民生活のため、広大な大地、多数の民族、多数の言語を持つ、ロシアを統治した、「スターリン」を手本とした。スターリンは、ふつう、独裁主義で知られる。

4)
イラクが、アメリカの仕掛けで、紛争などの連続を起こし、ブロードウェイの国、アメリカは正義の味方の顔つきで、イラク攻撃をした。

アメリカの戦争の方法なのだろう。イラク、[ira:k] の発音は、第2番目に、アクセントを置く。
ところが、ブッシュの、取り巻きの、誰が考えたのか、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領 41st President は、地理や国名がほとんど、識別ができなく、アメリカ人の、自分自身の居る国家が、世界一と思っている、兵隊に向かって、イーラーキ、『i-ra:-ki』と、発音し、第1番目、第2番目、第3番目に、アクセントを置き、「イー」「ラー」「キ」と、音節を分けた。

アメリカの大衆は、これほど、良識というか知識が欠如していても、戦争とテロでは世界一だから、賢そうな、顔ができる。
つぎに、息子の、ブッシュ George W. Bush、USA The 43st President は、自分自身の名前が、「George」ではじまるためか、グルジアを、『ジョージア georgia [dzo:ja] 』では、第2番目に、アクセントを置いて、発音した。
そして、父、ブッシュと同様、『dzo:-ji-a』。「ジョー」、「ジィ」、「ア」と、3音節に分けて発音した。

息子ブッシュ USA-43STと、父ブッシュ USA-41ST、との違いだが、息子ブッシュは、強い、アクセントを、置かない。さらに、ブッシュUSA-43STは、コーカサスの、グルジアでの戦争を、「ジョージァ、アメリカは、ジョージァを忘れない」などと、のたまわった。

アメリカの大統領とは、これぐらい、暗記できれば、できる、容易いものである。
日本で言えば、上野、東京、品川、渋谷、新宿などの、駅名が発音でき、駅の違いが分かれば、大統領になれる国、それがアメリカである。

5)
2008年暮れ、大統領の任期が過ぎた、「ジョージ・ブッシュ USA-43ST」は、アメリカ人から、忘れられ、歳月が逝き、戦争で、死者となった、若いアメリカ兵の親族だけ、親子2代、戦争殺人鬼と、記憶に残る、存在になるだろう。

戦争犯罪者、ブッシュ親子に、クリントンClinton夫妻を、シベリア抑留所へ入れ、凍結の、平原へ、放り出したらどうだろうか。寒くて、のたうちまわるブッシュ親子2代に、クリントン夫妻を、見たい人々が多いはずだ。
テレビで国際中継をすれば良い。

アメリカ合衆国を先頭に、西洋社会、自らががつくったのと変わらないのに、欧米と日本のマスコミは、「怪物、極悪犯のフセイン」が居なくなったと告げた。

文化、社会には、ステップ、階段があるのではないか。この階段だが、文明国家とやらの、われわれ日本から、とても見えにくい、自然民族であっても、わたしは、同様の階段があると考える。

欧米社会、アメリカの隷属化の日本社会の、欧米風繁栄は、熱帯地域の大半を、奴隷社会にしたという、昔からの、方法をつかったからに、過ぎない。

アメリカや、西洋諸国が中心ならば、中南米、アジア、アラビア、アフリカ圏内も、生活ができる賃金を、渡すのが、道徳上、当然ではないのか。
かれらの中で、また社会の上下があり、おとなしい性格の人々は、支配者である、肌の色が明確に違う、白人種に黄色人種が、労働にみあった、等分の賃金を渡す時代が、近いと、わたしは、思いたい。欧米社会の価値尺度でなく、その地域にあった尺度で、才能にあふれた、子供や若者に気づけば、先進国とやらに、招き、学習、学問できる、時代と考えたい。

肉食禁止の国々がある。これらの国々の社会判断に、正しさがあるのかも知れない。
わたしは、1歳児のとき、野菜も生きていると母に言い、母が「食べないと、死んでしまうの」と嘆いても、「良い」と、牛乳だけを飲むぐらいの性格をしていた。

大量の魚を、自分たちの、餌として食べる、クジラが駄目、マグロが駄目と言っている、グループがあるそうだが、GHQアメリカに、西洋国家、牛肉、豚肉、鶏肉、魚貝類、すべてを、禁止にしたら、どうだろうか。

独裁者と言われたフセインだが、西洋はじめ、現在、国際社会と言われる、現在、アメリカ合衆国はじめ、西洋で、市民から、人気のある、実業家、政治家の大半が、独裁者となってしまう。

フセインの手のライン構造だが、政治家では、ドイツのメルケル (A.D.Merkel)女史、フランスのミッテラン(F.Mitterrand)首相たちが、似ている。なにより、ブッシュ大統領がそうだ。

6)
アメリカ人たちの歴史観だが、ブッシュたち、アメリカ合衆国の教育者は、「ボストン・ティー・パーティ(Boston Tea Party)」などを、どのように、解釈し、中学生ぐらいに、教えているのだろうか。
侵略、強姦、独占ばかりの、イギリスは、先に、フランス軍と戦った。つづいて、1773年12月は、オランダと紛争をした。

この、略奪、殺戮国家の、イギリスとオランダだが、自分たちの国でもないのに、アメリカで成長した白人種たちが、インディアンに仮装して、ボストンに停泊中の、イギリス東インド会社の「イギリス船」へ、「インドの紅茶箱」を、ボストン湾にへ、投げ捨てた。
これに、イギリスが、怒って、戦争がはじまった。
この悪いイギリス人には、紅茶を栽培し、加工し、商品化への労働をしたのが、奴隷化したインド人であるという事など無い。

インディアンを殺しに、殺し、強姦したあとは、1861年からの「南北戦争」(American Civil War)である。
インド人はじめ、アジア圏内の、黄色人種の、自分たちの国を守ろうとした男子を殺し、女性は、強姦した。
黄色人種への強姦に飽きたのか、次は、伝統芸の、アフリカで生活している、黒い肌の人間を、「奴隷」とし、勇敢な男子は殺し、女性は、強姦した。その結果が、画期的な「奴隷の発見!」である。
黒い肌の、黒人種が、人間か、どうかの戦争、それが「南北戦争」である。

しかし、政治家、リンカーン(Abraham Lincoln)が、どのような言動をとろうと、「奴隷」は奴隷だった。
黒人を殺すことは、正しいと思った、歴史錯誤の、事件なのに、まやかしの、「南北戦争」などと、命名した。

このとき、欧米が判断する、悪い、アジアの中国や、インドが、地球を破壊させる、機械化を選択し、成功していればどうなのか。

日本と、朝鮮半島で、社会問題となる、「創氏改名(そうしかいめい)」だが、この実施、解答は、孔子(こうし)の『論語』にある。また、近くは、朱子(しゅし)の『朱子学(しゅしがく)』にある。
日本も、中国に習い、女性に、人格を与えない、時代があった。

言語が通じないまま、「アメリカ連合国 (CSA)」の立派な人物が、黒人奴隷ではない、アフリカと違い、男子には、トム1( TOM)、トム2、トム3、と名前と番号をつけた。
女子には、アン1(ANNE)、アン2、アン3、アン4、アン5と、名前と番号をつけ、ときには、白人種とのSEX相手という、神が与えた、ホワイト・ペニスとの豪華なボディランゲージだ、これが黒人最高の文化的生活だと主張した。

進学の小学校、中学校を、1番か2番で卒業していない、頭脳に見える、オバマは、リンカーンを尊敬しているという。実証が中心のアメリカである、おそらく、リンカーンと直接、面識があり、同時代に生きたのだろう。

しかし、リンカーン(Lincoln)による、「合衆国(USA)側」が、攻撃、破滅され、南北戦争で負けていれば、現在の歴史は、どうなのだろうか。じっさい、リンカーン側が勝っても、アメリカでの奴隷主義は、簡単に変化しなかった。

7)
写真は、フセインに変えて、極悪、殺人鬼、ブッシュ親子たち、アメリカ合衆国が作ったとも言える、イラクの北部出身、第2代暫定大統領、タレバニー(Jelal Talebani )である。

タレバニーは、イラクのクルド人系の政党をつくった。イスラム圏内で、少数派の、「イスラム教シーア派」の人物である。良く仕事をし、判断が早く、部下への、命令が強い、ヒステリック、パラノイアの人物である。タレバニーの手や指の動作をみると、日本人では、見られないものがある。人指し指と中指の使い方である。
そして、左から一枚目、二枚目は、恐そうな人物に思える。

しかし、三枚目から、アラビア圏のマスコミからの、インタビューだ思うが、思案、省察の仕草であることは、日本人も、日常する動作なので、理解できる。
四番目は、フランスのシラクによって、前へ、押し出されようとしている、遠慮した雰囲気だし、五番目のイタリアの大統領との握手も、腕をとられ、恥じらいながらの握手に感じる。

六番目のイランのアフマディネジャド大統領と、手をつなぎ、静かに、安心し、歩む姿勢である。アラビア半島の国々は、アメリカや、ロシアに、いつも、振り回され、自分たちの国家と言った、時代を、いつ迎えることができるのだろうかと言った、省察の時間のように、とることができる。国家の主権とは何か、もし、アメリカ合衆国の政治家が、この理念を、持っていれば、紛争に、戦争などないと、イラク、イランの大統領たちは、分かっているはずである。

戦争へとなる、原因のひとつだが、イラクの北部には、クルド族が在る。宗教から、自国の識字すら学習されていない、民族である。
宗教、宗派が違い、識字率が低い、民族に分かるのは、「戦争」と言う、状況だけではないのか。


8)
フセイン政権、打破、壊滅後の、イラクを治めた、ジャアファリー(Ibrahim al-Jaafari、1947 - )だが、彼も、イスラム圏では、「少数派のシーア派」になる。
西洋やアラビア圏、独特とも言えるが、人指し指を、このように、日本人は、上げない。また、ジャアファリーも、タレバニーと同じ動作をする。

人指し指と中指の使い方である。が、写真二番目の、両手をつかう、動作だが、日本人で、このような、仕草をする、政治家がいるだろうか。

このジャアファリーは【春型】。部下に対し、ヒステリックな命令が多い。そして、いまの首相マリキ Nouri al-Malikiのように、右手【春型】、左手【台風型、ハリケーン型】をした、権威、権力に弱い、人物をコントロールする。

マリキ首相は、言われたとおり、するし、主張も、上部からの命令だと、すぐ変更する。いま、イラクの政治を采配しているようだが、すぐ苛立つ、この人物に、とって、「少数のシーア派」対、大多数で複雑な文化形態が在る、さまざまな民族の、「スンニ派」への政治は、負担に、ならないのだろうか。


[五章] 人殺しに関与した鳩山由紀夫

1)
どこか、めでたい国の政治家のようだ。写真左端の、手のひら、ひとさし指と中指がくっつき、薬指が中指へと近づき、ひとさし指と薬指では、薬指が長い。薬指から小指が離れる形相。この手のひらと、指の形だが、日本人のばあい、血液型A型とAB型に見られる。

写真2番目で、領域X=2と、簡単に表現する。領域X=0の福田康夫、麻生太郎首相との違いは、ここにある。
4番目だが、叱責なく、息子を溺愛した、父親の姿勢だが、この「うんこ」座りの、脚と腰での、「蹲踞(そんきょ)」だが、左腕の動作をふくめ、ここまでの、さりげない自然な折りたたみは、稲作文化を大事にした、日本に生まれ育った人間でないと、できない。

写真5番目、右端の、椅子への手だが、酔ったヤクザ風の寅ではなく、議員らしき人物の。

歴代の首相との比較だが、ここまでの、明るい(=あっ軽い)人物は、居ない。どのように違いかの、実験は、まだ、ご健在な、村山富市さんを含め、「羽田 孜、村山富市、森喜朗、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎」さんたちの、手のひらへ、中学校の理科室にある「スポイト」に、国会議事堂あたりの水を含ませ、少量、たらせば、「手のひら」の性質が分かる。

村山富市さんはじめ、福田康夫、麻生太郎さんには、手のひらに、直径2〜3ミリの、水玉の「球形」ができ上がる。
少し高等に、進学の小学校を一番か二番で卒業した人物なら、食塩の濃度を調節し、実験すれば、より、確かな形相、性質がわかる。


家庭環境との関係を要約する。
\@\、森喜朗【夏型T類】さんは、一ヶ月に、一回二回、母親から、常識について、一分ほど、注意され、両親の言う事に従がったため、現在の線形になっていると思われる。
\A\、安倍晋三さんは、週に、二、三度、母親から、ことごとに注意され、週に一度は、一時間以上の、口論や意識での反抗をしてきた環境が在った。
\B\、福田康夫さんは、一年に、数度、母親へ相談し、父親から、また、母親から、一年に、一度か二度、ほんの一言、忠言をうけ、従がってきた環境に育った。
\C\、麻生太郎さんは、数ヶ月に一度、母親から、用心に用心と、注意を受け、それを、素直に受けてきた環境に育った。

この方々と違い、
\D\日本の電波、放送権(国家権益)を、他国に売ろうとした、誰かさんは、一日に一度以上、母親から、注意をうけ、肯定したかと思うと、次の日、同じ事をする。なにより、母親、祖母たちが、激情的であり、また、子供を甘えに、甘やかす存在だったと言える。この家庭環境の理解は、福田康夫、麻生太郎さんたちには、想像ができないと思う。ヒステリックだが、継続してゆく、心身力などない。

2)
郵政民営化といい、国家の放送権(=郵政省管轄)を、他国(アメリカ合衆国)へ売ろうとした、人物など、同じく球形ができにくい、タケナカなんとかと同様、国会喚問をし、国家の予算を、東京のつぎ、新潟につぎ込んだ、ロッキード事件での田中角栄氏のようにするのが、法治国家の義務ではないのか。

この人物、「不純」の、「純」という名前があったと思うが、選挙区が横須賀市と、1970年安保反対運動へ、高校生まで、駆り立てた、東大、新聞の左欲の悪党、GHQユダヤ、ロビー「日高六郎」さんの、昔の、別荘が、米軍基地そば、横須賀市秋谷とは、本当に、よくできている。

宮澤喜一内閣(1991年11月-1993年8月)での、「改造内閣」は、日本が、現在の、大不況へと、転がってゆく、契機である。このときの郵政大臣が、宮澤喜一氏ともども、日本の財産に、貯蓄をアメリカへと渡す、郵政民営化へと策略した、「純」なんとかと言った人物である。

英語ができなかった、宮澤喜一氏には、義父に英語屋の伊地知純正がおり、英語ができる風になった。アメリカに懐く方法、日本の財界人にたかる方法を知った、宮澤喜一氏は、戦前から、GHQアメリカロビー、造船売り、日本売りの、政治家のひとりである。
また、1960年、1970年の学生運動の準備だが、1950年代から、完全なGHQスパイ宮澤喜一氏は、ブレインとして、1950年代、英語などできない、GHQロビー日高六郎、鶴見俊輔、小田実氏などを使った。


写真は、夫が大統領となり、飴と鞭との生活が始まったヒラリー女史である。アメリカの白人階級社会では、低ランクに所属させられる人種となり、この社会事象について、ヒラリー女史は、抗議したりする。
この、ひとつだが、2006年1月
米下院など、共和党に支配された、「プランテーション "like a plantation"」と言い、ブッシュ政権は、アメリカ史上、最悪のものではないかとも主張した。

ヒラリー女史の、右手は【春型U類】で、理想を、段階的に、議論できる性格をしている。仕事の処理、判断だが、すぐれたブレイン10人居れば、非常に早い。

左手のラインだが、【春型U類】から【台風型】へと、変化したと思える。夫の才能などに、限界をかんじたり、その限界に甘えたりするので、この形相となったと思える。アメリカでは、白人種で、ランクを作っているのだから、先に、すばやく、白人社会を打開しないと、経済、問題解決にならない。

左右の手の動作と、ライン構造をみると、世界が良い方向へ行くようになり、政治家としての役割が終えれば、左手も【春型U類】へ、移ると思える。

写真3番目、6番目は、ヒラリー女史と、比較にならない戦争殺人が平気な人たちだ。

3)
いちやく、時の渦中に、巻き込まれた、「中川昭一」さんだが、経過をみてゆくと、2月13、14日、”ローマG7”の予定が、アメリカの、都合で、決まったのが、日本時間、2月10日である。

このとき、中川昭一【夏型T類】大臣は、2008年暮れから流行した、 マイコプラズマからの、インフルエンザに罹患しておれば、百日咳の症状がでるので、腰痛持ちであれば、中枢神経の背骨から、頭部、下肢まで、痛みが、ひびく。
インフルエンザの認知と、危険性だが、2009年1月、町田市の鶴川サナトリウム病院で、分かるとおり、接種をしていても、ウィルスは変化してゆくので、感染者が出て、死者までの犠牲者となる。

中川昭一大臣のばあい、2月10日から、財務省、日銀との会議の連続で、治癒の方向へは行かない。

中川昭一大臣の、移動だが、日本時間、2月14日未明、東京、緯度”35度”、→ イスタンブル(トルコ、 Istanbul )”41度”→ ローマ”41度”である。西方向へ、飛行機で、12時間の移動のため、出発の時間により、同日、ローマに到着する。
薬の飲み方だが、この時間のあいだであると、睡眠導入剤を入れ、2回ないし、3回となる。

薬品が、体内に留まる分量が、7日単位になると、病気のひとつの症状として、グスグスとしたアレルギー性鼻炎が止まり、「治癒」と感じる、体調になったと感じる、次の日ぐらいに、反対の、死と隣接した、危険なショック症状がでる。

哲学のない、世界最低の国、アメリカのおかげで、日銀との金融調達の打ち合わせとの緊張がつづき、飛行機内での緊張に、体内の解熱作用の、風邪薬で、水分が、大腸で吸収され、便秘状態になり、薬が数日分、体内に留まりってしまう。
ここに、スコッチ類だと、まだ、作用は、ましだが、ワインという、ゲテモノに近い、”生酒”を入れると、薬との関係が、混乱してしまう。
また、食事での、肉類だが、フランス、イタリア料理は、バケモノ飲料ワインによる、「漬(ヅケ)」をしている場合が多い。

アルコール分解酵素が少ない日本人のばあい、このドブロク系のワインにより、体内調節が、バラバラとなり、骨格左右異常に、眼瞼下垂症状が出る。日本酒も危険で、720cc、3000円ぐらいの、純米仕込みの良い酒を適当にしていないと、骨格左右異常、眼瞼下垂などを発症する。
わたしのばあい、酒は、20代は、スコッチ、一本は飲めたが、30歳を過ぎてからは、5年に一度か、10年に一度、ひと口ぐらいである。

酒より、恐いのが、食べ物である。2008年、ニチレイフーズが、中国製冷凍食品「いんげん」から、社会問題となったが、わたしは、UCCフーズ配達、ニチレイの、Sサイズの「ピザ」、厚さ1センチもない、3センチ角、一口で、気を失った。家人も、二時間、気を失い、後日、これでは、「帝銀事件」だと思った。そして、わたしのばあい、半月間、ベッドでの生活となった。

4)
1964年東京、1988年韓国、2008年中国オリンピックで、儲けたのはアメリカと西欧で、不況を起こしたのは、日本、韓国、中国である。もう、オリンピック経済政策など、通じないだろう。

2009年2月、麻生太郎首相は、福井、越前市などに、おもむかれた。
北陸、越前市での、市内での、購買チケットだが、これは、学園祭と同じようなものである。
内需による、活性化は、余程の、才覚が、その国家なり、その地方から、出てこないと無理である。

福井だが、渡辺会計事務所(福井市米松)に、「屋敷」さんと言う、北陸高校出身で、短距離100メートルを、9秒台で走る人物が居るそうだ。なぜ、こういった、才能のある方を、世界大会へ、おくらないのか、福井のメディアは、どうなっているのかと思う。

「藩札」の有効利用だが、これは、わたしの、父方の祖父が逝った、1960年12月、兄が、祖父の机の引き出し類を開けていた。このとき、祖父が、机に入れていた、兌換紙幣などの種類の記憶による。
2009年2月4日東京地裁は、盗作盗用の、新潮社に、貴乃花親方にたいして、名誉棄損との判決を出した。記事責任に、佐藤隆信社長を入れたことで、新潮社は、「編集権の独立」と言っている。

「ウチの父は、殺すのも自由な、”パーフェクト・リバティー”なんです。佐藤隆信社長の命令だと、人殺しもします」と、大門武二出版部長の娘さんが言っていた。これが、編集権の独立か。この新潮社からの出版物で、著者が、40歳ぐらいの子供か、加藤廣(1930 - )さんとやらが、著書の「忠臣蔵」で、”日本人は300年間騙されていた”とのキャッチコピーをやっている。
わたしの、「京都昨今」『68』を盗用している。そのため、じっさいの藩札利用など書くと、”元、中小企業金融公庫勤務、金融のプロが明かす、藩札の本当の使い方”などを、PL教の新潮社は、やるに違いない。

5)
朝日新聞、2月18日、「もうろう会見『大失敗』」、米ウォールストリート・ジャーナル紙、アメリカ時間、17日付の朝刊1面に、主要7カ国財務相”G7”後の記者会見で、大臣が、失態を演じたときの写真など2枚を大きく掲載した。「17日に辞任に至ったことまでは時差のため盛り込んでいない」とある。

GHQユダヤロビーから金銭をもらっているのか、朝日は、このような記事を、循環させ、捏造をしてゆく。
朝日の、循環取引記事は、秋山耿太郎(1945 - )社長になっても同じようだ。

G7開催国の、イタリアには、金銭に余裕などなく、世界一、戦争強姦、財産略奪の国、アメリカは、金融政策の議論のまえに沈黙して、逃亡した。

2009年2月、ローマ、G7だが、戦争での敵国の財産略奪、若い兵隊の性欲を満たす、戦場での女性への強姦は、より暗黙裡との、注意が出たことで、応用が利かず、バラック・オバカ(Barack Obama)政権での、30歳ぐらいの子供、アメリカのFRB議長のバーナンキ(Ben Bernanke、1953 - )に、財務長官ガイトナー (Timothy Geithner、1961 - )に原因がある。アメリカはG7より、約7870億ドルの「景気対策法案」を優先した。
これはオバマ政府の方針だし、アメリカ、イギリスのマスコミも同じだった。

”ローマ、G7”の様子だが、フランス紙は、トップ。イタリア紙は、下の段にあった。もちろん、日本人のこと、中川昭一大臣など記事にしていない。
このとき、アメリカ、イギリス紙は、アメリカでの、約7870億ドル(約72兆円)の「景気対策法案」がトップだった。

大不況の原因のアメリカだが、2009年2月の「景気対策法案」を、財務長官ガイトナー(Geithner
)が、退屈な、教科書英語で、声明をいったとたん、アメリカの株が急落下した。

イギリス紙は、即座、約7870億ドルの「景気対策法案」が、テムズ川に流れる、汚水と同様と判断したのか、”イギリス、国家破綻”の記事を作成した。これだと、G7での、国際間での、金融に、負担がない。

アメリカからの、景気対策の朗報をまっていた、調子の良い、イギリスだが、これは、フランス、ドイツ、スペインも同じで、オバマ政権に、才能と発展性がないと判断し、G7で、具体的な、金融での出費など、発言しなかった。

第二次世界大戦と同じく、唯一、日本だけが、犠牲となり、不況打開へ、いちばん具体的な、金融方針と出費などを意見した。

6)
この事実について、G7終了後、日本人記者団の、良識ある、ひとりが、言辞をだした。
あの、各国が、自国の、とっている、まぁ、政策をですね。 えーっ、えー 、しました けれども、あのっ、ひとつひとつの国の、その政策について、コメントが、あるというわけでは、必ずしも ありません」と言い、
「日銀の決定した、金利は、政策は、適当であったと思います。今月はそうした評価であったと思います」
と事実を
言い、「日本だけが、分かりやすいものです。が、日銀を誉めるわけでは、ありませんけれども」と、注釈された記者がいた。

この事実でわかるとおり、
アメリカ、西欧が、自国保護のため、金融出資、投資について、まったく、する気がなかったので、イタリアはじめ、各国は、一面で、日本のことなど、記事にしなかった。
日本が苦労して作成し、不況打開への、金融政策の考案をである。

中川昭一大臣に、関しては、もし、「日本、100兆円、無償の援助!」をするとあれば、略奪強姦の欧米は、トップ記事にしただろう。
第二次世界大戦とどうよう、”日本の、無条件降伏万歳”、「小泉純一郎内閣の郵政民営化、郵便貯金=アメリカの物」など、はじめ、日本の財産は、白人のものと、記事にしただろう。

中川昭一大臣、辞任の記事だが、G7出席の、日本以外が、財政、金融面での、負担を表明しないという事実があったため、GHQユダヤロビー主導の、デマ優先で、欧米では、改竄に等しいものになった。

写真と各国の、財務大臣辞任の、記事を見てみると、
@中川昭一大臣、辞任との、速報は、ロシアでは、17日、「タス通信社」からのものを記事にしている。写真は、国会議事堂で、水を飲んでいる中川昭一さん。
「(小沢一郎、鳩山由紀夫はじめ)野党の不毛な脅しで解任」と、「イズベスチヤ」にはあり、解任でも、経済政策を出している、麻生内閣自体は、影響はなく、後任には「与謝野馨」さんと報道した。

Aワシントンタイムズは、17日、ニコラス・クラレフ Nicholas Kralev記者が、「麻生太郎首相が、アメリカへの最初の訪問」とのタイトルで、中川昭一大臣は、ローマに到着する、飛行機のなかで、酒を飲んでいたと、書いた。NBC(ロサンゼルス)は少々揶揄した記事になっている。

Bフランスは、AFP 通信からのものでは、ル・モンド、”France 24 ”、2月17日 、G7により、中川昭一大臣が辞任とある。

Cスペイン紙の”La nacion ”2月17日は、中川昭一大臣は、インフルエンザにかかり、薬の影響もあり、普段どおりではなかったため、辞任とある。

Dは、イタリア紙 ”Corriere della Sera ” 2月17日で、中川昭一大臣は、ローマG7で、酒に酔っている様子もでたが、時差ボケに、風邪薬の影響で、体調がおかしく、辞任したとある。

イタリア紙の、国会議事堂の椅子にひとり居る、中川昭一さんの写真は大きく、眼に涙がある。
わたしは、この写真を見たとき、映画、『ひまわり』(I Girasoli)での、ラストシーン、「ひまわり畑」にいる、ソフィア・ローレン(Sophia Loren)が浮かび、ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini)の曲が、脳裏に流れた。

欧米語でない、日本は弱く悲しい。G7にしろ、サミットにしろ、国連にしろ、「常識外れ」の戦争植民地国家が、常任理事国とやっているのだから、日本は稲作文化にもどり、米と野菜、川魚文化を中心に、「鎖国政策」をとり、「永世中立国宣言」をしたら、どうだろうか。
これを2年やれば、アメリカの国家破綻は完全なものになり、100%立ち上がれない。

7)
1970年代中ごろ、公安から聞いたが、日本の国会議員の、40%が、GHQユダヤロビー、中共、ソビエトの異国人と聞いた。1980年代には50%近いと聞いた。このことは、記者クラブに入れない、大手出版社の日本人編集者たちは、知っている。もう、日本人でない国会議員白書の公開時期ではないか。

中川昭一大臣、ローマに到着時だが、咽喉と胸部を守るためか、ベージュのタートルネックだった。このときの表情だが、2、3時間は仮眠ができたのか、顔の浮腫みが少ない。

中川昭一大臣、日銀スタッフは、ローマG7の進行のとき、最初のアメリカはじめ、欧米から、実りある経済政策が無く、日本だけの大きな犠牲になると、麻生太郎内閣府へ連絡したと思う。

麻生太郎内閣府からは、『責任は、オレ(麻生太郎)だ。釜して、よい』との意見だったのだろう。ただ、このときの内閣府だが、現在閣僚でない、中枢メンバーが、かなり居て、ロシアをふくめ、太平洋側諸国を、舵取りする、日本の役目として、中川昭一さんが、ひとつの問題を、クリアできるか、試練を与えた。

中川昭一さんの、失敗のひとつだが、アメリカでのG20 サミット(2008、11、18)で、高校か大学の生協で買ったような、200円ほどの、コクヨの赤のレポート用紙を閉じるとき、「この連中は、バカか、、、」という表情を出した。バカを自覚していない、殺人と強姦が趣味の悪党に、侮辱した視線など禁物である。今回のばあいもだが、日本の記者団には、かなりのユダヤロビーが居り、一線を、引くことが必要である。

わたしの場合だが、朝日新聞、AERAの、近藤康太郎記者は、1994年夏、わたしへ、取材ができた、褒美として、念願の、キューバ取材ができたという。
が、近藤康太郎さんの、手のラインを見、上腕を持ち、血流を止め、調節したとき、わたしは、わたしが知己の出版社に、朝日、AERA所属がいると、思った。次の日、朝日の知己に、電話をしたら、よりによって、河出書房新社の編集女史の夫が、朝日AERAと教えてくれた。

”G7”「終了後」の、中川昭一大臣の、日本人向け、記者団への、レスポンス演技だが、
$@$「あの〜っ、ふ〜っぅ・・・。オ、オバマ政権に対して・・・、日本は 早く、適切に、、、」、と、俳優の、「竹野内豊」さん風の演技。
$A$「んっ、んっ、、、? な、なに? もう 一度 言って」と、漫画家の、「赤塚不二夫」さん風の演技。

この正気で、知己の記者へ向け、行った、二つの演技は、まったく矛盾している。ノーカットの映像があれば、分析できる。とにかく、わたしが、映画監督なら、撮り直し、と言う。

これを、見た、アラビア圏の国々の、政治家を揶揄、捏造ばかりする、”ABC News”  の、チンピラ記者、ジェフ(Matt Jaffe)が、ブログとやらに、中学生かと思える文章と写真を貼った。
循環情報による捏造の、東京放送(TBS)は、当日、ジェフ記者は、現場に居たと、報道した。40歳ぐらいの子供、東京放送(TBS)井上弘(1940- )社長、貴殿の、責任は大きい。

中川昭一大臣の、日本人向けの記者会見だが、はじめ、浮腫みの在る表情で、俯いたとき、狭心症での、痛みが走ったのか思った。これが、ガタッと、左右となったり、後方へ行くと、「肋間神経痛」の薬を服用していると判断するが、単に、麻生太郎内閣府、指示による、演技の失敗と分かった。

超一流の政治家へは、より高度の演技力がいる。わたしの妻が、むかし、取材させていただき、尊敬している、演技力のある、南美江(1915 - )さんは、トースターが無いので、パンは金網焼き。エアコンなど無し、風向きが分かる家に住まれていたという。彼女の演技は確かである。南美江さんの生活をすれば、日本から、欧米流の不況など無くなる。

8)
アメリカの経済政策の失敗を取られた、中川昭一さんの後任だが、与謝野馨【夏型T、秋型U類】(1938 - )大臣が、財務も兼任されるという。

2月17日、「能力はないが体力はある」と言われた、与謝野馨さんのライン構造だが、家庭環境でいうと、両親から、注意や叱りごとなど、受けることなど、された事がない。
非常に、他者の意見を、組み入れることができ、ほがらかで、おだやかな、性格をもたれている。発言したことへの責任には強く、実行してゆかれる。

2月18日の段階で、次期、特命、内閣総理大臣代理が予定、「与謝野馨」さんのばあい、「スポイト」による、手のひらへの、水実験は、誰でも分かる、明確な輪郭をもった、「球形」が、見えるはずである。与謝野馨さんは、手のライン構造を、図解するとき、x軸、y軸を、建てられる。
与謝野馨さんの、領域X=0とした場合、福田康夫さんは、X=マイナス2、麻生太郎さんは、X=マイナス4となり、マイナスの度合いが大きいほど、言動は慎重である。

郵政民営化問題のとき、麻生太郎首相は、「第二次」小泉内閣で、郵政民営化担当の総務大臣、郵政民営化を決議した「第三次」小泉内閣では、スポーツ担当の総務大臣で、こんな事は、政治担当の記者であれば、周知のはずだ。そうだろ、朝日新聞の、F県、進明中学を、一番か二番か三番で、卒業した、持田周三君。

麻生太郎さんの、知事をまえにして、医師捕獲のための発言「医者ちゅうもんは」だが、正しい。
むかし、宇和島出身、京大、精神科の「扇谷明(せんごく・あきら)」先生など、「ここの(京大)医者、70〜80%、頭、やられてまっせ」と言い、国会議員のことを聞くと、「あの種は、人間ちがいますわ」と教えてくださった。


アメリカだが、経済封鎖、保護貿易との方針で、この政策だと、頼みの中国が、経済維持できないし、バイ・アメリカン"Buy American"条項では、アメリカ経済は、デフレどころか、国家フリーズ状態となる。


9)
1992(平成4)年1月8日、G、H、W・ブッシュ 41st Presidentは、宮澤喜一首相による晩餐会で、吐いて倒れた。このとき、平成天皇はじめ、日本国民は、父、ブッシュ41st の容態を、心配したのではないのか。

民主党の鳩山由紀夫幹事長は、2009年2月、ローマ、「G7」中川昭一大臣の、会議後の、同行し、慣れた日本人記者中心の件を、2月16日、
「本来ならば即刻、クビじゃないですか。そのぐらいの大変な、破廉恥な行動ですよ」と、ゴタゴタ主張した。
また、関西財界のリーダー殺しに、関与した、松野頼三さんの子息、「松野頼久」(1960 - )議員も、中川昭一大臣を批判した。
つづいて、鳩山由紀夫幹事長は、2月17日の、中川昭一大臣辞任に対し、「お辞めになって すむという 話ではない。任命責任を 徹底的に追及してゆく」と、のたまわった。

偉いものだ、民主党の鳩山由紀夫さんは、国民が、大不況のさなか、2004(平成16)年夫婦して、「日本を語るワインの会、平成16(2004)年11月号、第17回」へ、目出度く、ワイワイと、「ご出席」、されている。

主催が、京都、東山区、祇園を潰す、役割をかついだ、F県F高校出身だけが、ご自慢の、「元谷芙美子(もとや ふみこ)」夫妻のことも良くできている。

鳩山由紀夫幹事長、わたしは東京で、「コ」「コイズ」なんとかさんが関係した、「イ」「イナ」系のヤクザに恐喝された。また、京都では、貴殿が、関係した、「アパグループ」関連、NEC関連の、ヤクザにも、わたしは、殺すぞと、数年間、襲われた。
桑名藩出自の高齢な母と、妻が、いる前でもだ。

鳩山由紀夫幹事長、貴殿が少々関与した、専修大学だが、福井県、鯖江市出身と言われていた、科学史家の湯浅光朝先生が、神戸大のあと勤務されので、周知と思う。
湯浅先生は、反戦を主張し、刑務所に入れられた人だ。
貴殿、鳩山幹事長も、「議員を辞め」、夫婦して、刑務所はどうだ。

湯浅光朝先生の生き方だが、貴殿、鳩山由紀夫さんとは、縁がない人間の生き方だ。日本帝国主義反対、文部省壊滅、天皇制反対、琉球返還、北方領土返還を主張した、学生運動家の、高校生も大学生も、警察に逮捕されると、威嚇の声から、恐怖で、食事もとれず、ほんの一ヶ月で、身長が、5センチから縮む。わたしもだが、友人のばあい、180センチあったのが、10センチ単位で縮んだ。

鳩山由紀夫幹事長。祇園の老舗は、ことごとく、やられ、この「アパグループ」の祇園進出で、2002年、京、祇園舎、八坂神社の、50歳以上の「神主」さんたちは、リストラとなった。この事実を、ご存知か。

鳩山由紀夫幹事長が、夫婦でワインと言っていた、2004年には、僧侶たちのリストラだった。さらに、「アパグループ」たちによる、欠陥建築物で、京都は揺れ、ガタガタになった。

京都人としての、誇りで、経営を諦め、店を手放し、流浪のあと、静かに自殺された、ご夫妻の痛みなど、貴殿、殺人関与と言える、鳩山由紀夫幹事長には、わからないだろう。

30歳ぐらいの子供、鳩山由紀夫(1947 - )幹事長、人殺しと言われても、否定できない、貴殿、市民へは平等でないと、いけないのではないのか。貴殿は、民主主義を、根本から、心得ていない。知能が低いことは聞いていた。東大のとき、貴殿と、同窓のが、物理数学の、応用に、組み立てが、まったく、できないバカ、専修大学での講義もと、言っていた。学問は別におき、弱っている、国民の生活を救うのが、国会議員の役割ではないのか。

日本人の体質に合わない、ワインなど、まず、カリフォルニアから、輸入禁止にすべきである。

赤ワインに白ワイン、これをタラタラ飲んで、へラヘラ話せる、ときには、「ミユキちゃん、きょうは、きのうより、美しい。それでは、食後の一服、客も来ないし、メンマに、マヨネーズをタラタラと、オープン、ご自由、ズルズルズル」とやれれば、妻が取材した、高円寺の詩人、「ねじめ正一」さんの、生き方も理解できるだろう。しかし、二重、三重人格の鳩山由紀夫幹事長、貴殿に、人間として、多少の良識があるのなら、すぐ、国会議員を辞められるのが、「道理」のひとつであり、次に、議員を辞めたからと言って、責任を取ったかどうか、これを熟慮すべき時代だと、わたしは、思う。


10)
若い世代へ、経済活動は、人間社会があって、成立してゆく。
この「社会」だが、人類が、「社会」を築くまで、どれほどの歳月がかかったか。この思索が必要である。

テキストとして、テンニース(Ferdinand Tonnies)の、『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』、”Gemeinschaft und Gesellschaft”がある。
「正しいか」、「正しくないか」となれば、決して、正しいものではない。

しかし、この書物が、20世紀の、西欧、日本の、哲学、社会学、精神医学者に与えた影響は大きい。
たいはんの学者が、テンニースの、まとまった、思考の枠組みを、規範において、論文を作成して行った。

この書物を、「原典」で、一年、二年単位をかけ、暗記までのレベルにして、ドイツ哲学の本流、カント、ヘーゲルが所持できた、科学哲学の精神へ近づいてゆくこと。テンニースからの接近、そうすれば、無闇な時間を費やさずに済む。
わたしの、この考え方は、1970年から、40年ちかくなる、いまも、変わっていない。



▼伊勢神宮、1964年4月30日、豊中市立、庄内小学校、6年3組
後列、左から2番目松田。

わたしは猫背になる癖があり、岡先生から、「まつだ、胸を張って」と言われ、二度、細い板の台から、後方に落ちた。
左右に居る、わたしとの遊びが、1963年からリモコンに音楽の、長男組みは、わらっている。が、二列目にいる、次男三男組みたちは、落下した、わたしの出来事を、真面目に受け取り、顔が硬直している。

HOME
「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2009-02-19