京都昨今
69、予測できること、予測できないこと           【京大  生体実験病院U】
▲ 雨降りの京都市立動物園。猫みたいな、アムールトラ(2008年6月22日、写真、松田薫)

1)
幼児のころ、神戸の動物園へ行って、わたしが、立ち止まるのは、いつも、「トラ」の檻の前だった。
大倉山住まいだったので、諏訪山動物園からの記憶がある。

王子動物園の歴史をみると、山の手、諏訪山動物園は、1946年に無くなり、1951年の春から、「王子動物園」へ移転したある。

小学生のとき、王子動物園へ行ったとき、神戸にあった、もうひとつの動物園、「諏訪山」のは、どうしたのだろうと思った。
わたしは、1951年9月生まれなので、歴史年表でゆけば、諏訪山動物園へ、行った事がないとなる。

甲子園に、阪神パークができ、 レオポンが生まれたときは、大阪の済生会中津病院で、危篤だったので、もう、見ることができないと思った。


1961年、印南、米田町の生家へ戻ったとき、まだ、病中だったが、秋になり、「どこか、行きたいところは?」と母に聞かれ、阪神パークのレオポンと言い、阪神へ連絡し、わたしは、陽射しが弱くなる、閉門まえに行った。

1953年秋からの、王子動物園は、明確に記憶があり、トラの檻は、いまの、パンダとゾウの檻の、中間にあったとおもう。

兄は、子供はじめ、客がいない、淋しい動物園に慣れすぎたのか、いつも、母に、ベンチまで、座らせてもらいに行っていた。1953年の、秋から暮れの、ころもそうだった。

わたしは、トラの前へゆき黙っている。
大きなトラにとって、2歳になった、わたしなど、小さな、赤ちゃんみたい、だっただろう。
トラは、いつも、困ったふうの表情をして、姫路の方向をみている。

檻にある、説明、電車の、行き先を示す、直径25センチほどの標識に、「トラ、ネコ科」とあるので、トラが動かないと、わたしは、「トラの、ネコ」と呼ぶ。

母に、トラが子供の手や腕を噛む、出来事がつづいていることを、説明され、檻へは近づいてはいけないこと、また、柵へも近づかないことは、言われているので、わたしは、柵からも、離れた位置から、小さな声で言う。

1953年の暮れ、着物で、下駄の母が、わたしの声を、聞き、いつものように、あわてて、走ってくる。

「猫じゃありません。虎です。虎は、お手手も、腕も、パクって、食べちゃうの」と、母は、わたしの手をとり、江戸言葉に、関東弁をまじえて言う。

わたしの右側、入り口から、トラの檻のあいだには、飼育係のおじさんたちが居て、仕事着のおじさんが、わたしの傍に、じっと、黙って、立って、居てくれている。

飼育係のおじさんは、わたしを、理解していて、くれているせいか、いつも、黙ったまま、傍にいてくれる。

トラに噛まれる事故は、東京や大阪、京都など、都市部では、網や柵が充分でない時代、幼稚園児や小学生に起きた。

母は、兄が幼稚園へかよう年齢になり、わたしも、ひとりで、歩いてゆける時期になったので、真剣な注意で、飼育係のおじさんに、
「猫と、猛獣のトラの、区別がつかないのです」と言った。

飼育係のおじさんは、青年の飼育係を二人を呼んだ。一人を檻に入らせ、金具の棒で、トラの、背中を、つつかせた。
トラは、立ち上がり、姫路の方をみて、大きく、口をあけ、一回だけ、「グッ、ガァーオー」と、叫んだあと、また姫路の方をみて、彫刻のように、動かない。

わたしは、鉄の棒で背中をつつかれて、わたしが大好きな、トラは、痛くないのかと思った。
食餌は、エサの場所で、生の、牛肉だった。

母が、「ごらんなさい。トラって、あんな、大きな声がでる、猛獣なの。お肉の塊を、一口で、食べちゃうの」と言う。
わたしは、「棒でつつかれ、痛くないの」と、トラの眼を見ていた。

わたしの気持ちがわかるのか、トラは、恥ずかしいといったふうの、眼をした。それで、わたしが、「ネコ」と呼ぶと、知らんふりの顔で、もっと、恥ずかしいといった眼をする。
「ちがいます。猫じゃありません」と母が言う。

2)
京都、岡崎動物園で、6月7日の土曜日、午前9時50分ごろ、40歳になるトラの飼育係が、有名なドイツのライプチヒ動物園(Zoo Leipzig)生まれの、アムールトラに噛まれ、亡くなられる、事故がおきた。

頭が丸刈り頭の、飼育係の方だが、わたしは動物好きの人だと思った。
それで、原因は、この飼育係の人が、動物好きで、トラなどが好きだったことが、ひとつの原因だろうと考えた。

物の考え方だが、奇妙な事件がつづく、このごろ、単に、シャッターなど、扉を開けていた事というのは、どうでもできる。リストラ時代だしとも取れる。

事故後の、記者会見とかでは、学界の世界を知らない人には、芸能人かとおもえる、首に個人認証カードをぶらさげた、「長谷川淳一」園長(53)が答えている。


京都市立動物園は、2005年、飼育係りが、ホッキョクグマに、襲われる事故があった。


長谷川淳一園長は、嘆きながらも、
係りの、伊藤淳(40歳)さんが、ドアなどを開けていた、不手際を指摘している。 さわやかそうな感じがする、長谷川淳一さんの発言は、100%正しい。

東大入試中止の影響と、オイルショック後での就職になる、1951年生まれの、わたしたちの世代の、人間嫌いで、動物好きには、
動物園の園長は、あこがれの仕事で、勤務すらしにくい職種だった。

豊中市立庄内小学校で、同級生の、木下君の夢が、それで、二人して、好きな動物が、トラ、豹、ピューマだった。木下君のイエは、階段に、動物の、高価な輸入物のミニュチアが置いてあった。
二人になると、話は、動物だった。病気ばかりの、わたしを知っている、木下君に、実現したら良いねと言うと、木下君は、遠慮して、「うん。ありがとう」と返事をする。

寒冷地の動物である、アムールトラの「ビクトル
は、「多摩動物公園」へ来て、カップリング (Coupling)のため、2007年11月、ブリーディングローン (Breeding Loan) で、京都市立、岡崎動物園へ、きたという。

岡崎動物園は、二条通りが、バス通りとなっている。
ヨボヨボの、徘徊風の文化人と、財界人が住む、高級住宅街でもある、白川疎水通りは、深夜に救急車が、サイレンを鳴らし通り、交通量も多い。

1980年代、90年代、バブルとやらで、岡崎動物園の、周辺の道路は、歪んだ経済力と宗教力でもって、進行方向を一方通行にするなど、させられた。
これらによって、伝統を守ろうとする、有名な料理屋も、営業が出来なくなった。

山科区の京都刑務所へつづく、三条通りの、金曜日の夜から土曜日の朝方までは、暴走族みたいなのが走り、深夜パトカーがサイレンを鳴らしに鳴らし、通る。
梅雨まえの、6月7日は、午前2時までうるさく、朝は5時から、大型の観光バスが走っていた。

これら、慣れない、夏の夜の騒音と、湿気が強くなる、6月であり、大きな疎水がある、岡崎の湿度は高い。
さらに、京都の樹木からの、臭いとかで、不愉快だったのかと考えた。

多摩動物園によると、「ビクトル」はおとなしく、「11歳」と、人間では60、70代と老齢なので、60歳をこえて、「種虎」だと格好が悪い生涯だと、加齢に悩んだのかと、わたしは考えた。
また、開園していたので、観客に、問題ではとも考えた。

これらを、飼育課の、坂本英房係長さんに言うと、「一般の方ですか、、、」と、わたしに聞く。
わたしは名前と年齢などを言った。

「道、道ですか。変わっていません、20年まえからこうです。はい、、、。」
「ビクトルは10歳で、人間だと40歳です、はい」
「ドーキンス(Richard Dawkins)の、利己遺伝子の説があるんですよね、はい、はい」
「トラは、野生の動物なんです、はい、多摩は、行ったことがあります、、、。」
「攻撃する遺伝子を持っていたんです、はい、はい、はい」
と、獣医師の坂本英房(48)さんは、講義して下さる。

あまりに官僚風、居丈高なので、わたしは、1968年から、遺伝学をしており、とうじは、DNA、遺伝子とか言わず、「遺伝要因、遺伝因子と、言いました」と、改めて、自己紹介をした。

比叡山、東山の、日本ザルは、見られたことは、あるのですかと、わたしが質問させていただくと、
「ええ、あります。はい、、、」
京都市立動物園のアカゲザルが、背中のヒフが赤くなるほど、毛がない、これを聞くと、
「いま、毛が抜ける時季ですね、はい」
と、なんでも、「はい」、と言えば、終了する。また、トラにもどると、
「原因はですね、本来、閉めないといけない、通路、シュートを開けていたことですね、はい」と言う。

世の中には、偉い人がいるものだと、改めて思い、「事故の原因は、野生のトラを、檻にいれた、人間にあります。わたしの、この考え方は、終生変わりません」と、言い、席をたった。


長谷川淳一園長だが、京大「霊長研」の「松沢哲郎」さん、文部科学省、大臣官房審議官から、京都(きょとん)大学へ、副学長と「天上り」し、リスク対応係りとやらの、「木谷雅人」さんたちといっしょの会合にでている。
京都大学と京都市との、「野生動物保全に関する教育及び研究の連携協定」を締結(2008年4月18日)している。

「門川大作」京都市長と、「尾池和夫」京大総長が握手している。
この後、2ヶ月もたたないのに、このような悲惨な事故だ。

賢い、地震学者の、尾池和夫さんとやら、2008年5月12日の「四川大地震」(M7.9〜M8.0)を、予知できたのなら、なぜ、知らせてやらなかったのか。

1970年代、中国の偉い、地震予知学者との交流があったのだから、地震発生後、老齢の地震学会員が、すぐ、民間機で飛び、中国で、ヘリに乗り換え、100人ほど、ロープで釣ってもらい、空から、
「東京や京都の、地震予知学者のおじさんたちが来たから、もう、恐くないよ」と、四川省の子供に、呼びかけてやらないのだ。

四川省の子供は、「気色悪い、欲ボケの、汚い爺さんたちが、恐いよー」と泣くかもしれないが。
それでも、行ってやるのが、地震予知学者の義務だろう。

6月14日、日本の「岩手・宮城内陸地震」も、予知できたのなら、なぜ、東北の人たちに、「明日、地震が来るよ」と、電話をしてあげないのだ。

1970年代中ごろ、5月、6月の季節、長袖のワイシャツを折り、地震学会の用意をしていた尾池和夫さんたち。ご自身が、かかわる事柄は、確認に、行かれたらどうなのか。

わたしは、6月22日、日曜日、午前中に、行った。入場の金は、とうぜん払った。

わたしの後を、毛がなくなっている、アカゲザルのときもついてきた、80歳を越える、女性二人が、アムールトラのところへもついてくる。トラを観察していると、クルマ椅子で、80歳は越えた、女性二人は、杖で、
「やー、おい、これ、これ」と、呼び、ガラガラン、ガンガン、と、トラの檻をつき、柵をたたいている。

あまりにひどいので、トラも、人間どうよう、不愉快になるから、付き添い介護の、男性一人に、止めさせて欲しいとわたしは言った。
この気持ちがつうじたのか、トラは、大きく立ち上がり、位置を変えた。

3)
日本モンキーセンターに、アカゲザルの情況をきくと、
「こちらでは、毛が抜けていませんが、何か依頼でしょうか?」と言う。

わたしは、京都市立動物園の出来事は、学歴主義で起きたとおもっています。動物園勤務は、動物好きが一番大事かとおもって、それを尋ねているのですと言うと、
「あの、話の意図が、見えません、物事は、簡単に言ってください?」と言うので、学歴主義が、世の中をおかしくしているのではと言うと、「質問の、意図がわかりませんね。知りたい事は、なんなん、ですか」と言うので、わたしはあなたの、名前も聞いていませんが、と言った。

「学芸員のアベですよ」と言うので、わかりました。あなたのような人物は、動物飼育に向いていないと言った。
確認のため、「阿部晴恵」さんに電話を入れると、「はい、わたし、学芸員の赤見です」というので、阿部晴恵さんへの電話ですというと、「同じ、学芸員ですから」と「赤見理恵」さんは、かわらない。
専門はなんですかときくと「博物学です」と言う。
博物学など、世界でも、日本でも、教える事ができる学者が、過去、いたのだろうか、と思いながら、
「たとえば、イギリスなどの博物館から、着任の依頼があればゆかれるのですか」というと、「ありませんけど、ありましたら行きます、、、」と、マスコミ病の、飛び跳ねた声でいう。

阿部晴恵さんに、かわって欲しいんですと言っていると、「ちょっと、まって下さい。行ってらしゃ、あーっ、いー」と叫んでいる。
あなたには、礼儀がないというと、「どうしてですか、取材ですよーぉー、記事のー」と言う。きみたちは、基本がなってない、いまのこれを、記事にするというと、「結構ですよー、はい」と元気な人物だ。

まだ50代とおもうが、「西田利貞」(1941-)所長、あなたは部下への教育をどうされている。
学問と称して、大学や研究機関から、金をたかる人物ばかりで、こんな世の中になった。西田利貞さん、あなたに、どのような業績がある。給金を、国家へ返せ。

京都(きょとん)大学、サル所長だったと思うが、サルに電極を差し込み、脳波が、どうのこうのと研究した、「久保田競」さん。
機械の針の、動き、揺れと、人間の文字の、揺れによる個性と、どちらが意味ぶかい?サル研所長だった久保田競さんは、マラソンをしたら、睾丸(Kintama)が大きくなったという。
この論理だと、マラソン選手たちの睾丸は、大きいのか。久保田さん、少し考えてから、発言するのが、研究者の義務ではないか。

また、サル研の、「大島清」さんは、1957年、東大、産婦人科入局という。1976年に、京大サル研、助教授となった。
「ボボ、いろいろ、見て、さわるって、嗅いだら、大脳前頭葉が活発化」「服装で、65歳の女性でも、ボボ、再、活動」
「古希がきても、美人ボボで、朝立ち、オマンコ」だったか?著書が非常に多いらしく、わたしは、二、三、京大の連中から、エピソードを聞いただけで、面識もない。

大島清さんの、サル研へは、反対が多かった。指紋の「岩本光雄」さん、どころではなかった。
大島清さんは、霊長研へ入ると、サルの研究に没頭しますと約束されたらしい。が、「近藤四郎」所長に、おねだりして、成り上がり、ヒトのボボ観察、体験が主になった。霊長研を、崩壊の方向へ、ゆかせた、ひとりと聞いた。

不祥事だらけの、京都大学病院だが、院長が、整形外科の「中村孝志」さんになたったそうだ。

まさか、2003年4月20日に、阪急河原町駅で、2003年3月29日、女子トイレ内を、隠し撮りをして、書類送検された、京都大学、整形外科教授、専門が、万能細胞の山中伸弥さんと、同じ、リウマチとかの、中村孝志容疑者ではないと思う。

731部隊の精神継承「今村貞夫」さんの影響なのか知らないが、京大、皮膚科、宮地良樹さん。わたしが、1976年5月、神戸三越での、仕事のとき、いっしょになった、美人女優さんの、ボボを撮った件。
合計30人以上の医師が、ボボと言い、触って、写真をとり、生体の女優さんを、実験台にし、精神疾患に追い込んだことを、公開する。
いいかげんにして、警察に自首しろ。家裁へ、「宮地ボボ
キ」って、改名しにゆかれよ。ほんとうに、業績がない、京大病院に、サル研だ。

国民の税金を、盗賊し、「アイ」が、言葉を覚えたという、松沢哲郎さんとやらも。
ふつうのインコ。中型のオカメインコ、ボタンインコは、言葉を覚える。わたしが飼っていた、ハルクィンも話すし、仰向けになり、脚を上げて寝る。演技もする。色を識別し、ウリ科のスイカは見ただけで、逃げる。

何の業績があるのか知らないが、「霊長研」の「松沢哲郎」さん。もし、霊長類に、ゴリラしか居なかったら、ゴリラに、アイちゃんと名づけ、ゴリラの「アイ」って、抱き上げるのか。背負うのか。

学問は考えてからするべきである。わたしから見ると、松沢哲郎さん、あなたには、業績などない。とにかく、いままでの、給金、返還しろ。

さらに、2008年5月31日(土)、『日本の霊長類研究60周年』で、オラウータン似と、京都帝国大学時代の、理学部OBたちに言われ、河出書房新社のノブオさんに、
「サルのフイルムの返還、、、」モジモジ、と言い、戻ってきたとの、河合雅雄(84歳)さんは「動物にも社会構造があると考えたのが、今西錦司さんの独創」と、講演したそうだ。

湯川秀樹、市川亀久弥先生たちを、さんざん利用したのが、河合雅雄さんたちだ。
感性、表現力がないと言われながら、「小学館」から童話までの、すごい、著作集を出している。

「動物社会」は、夏目漱石が、『吾輩は猫である』(1905年)に発表しているではないのか。
名前が無い吾輩は、となりの「二絃琴」(音楽家)の、雄猫とは相性がいいが、主人が「代言」(三百代言、弁護士) 。「白君」は主人が軍人。大柄の黒猫は主人が「車屋」で、雄で力は強いが教養がないと、近所の猫社会をえがいて、吾輩の主人は「教師」だから、まだ良いと、人間社会も観察して、表現している。

4)
東京の多摩動物園は、サファリのような造りというか、集団となったライオンを見学できるライオンバスは苦手だが、昆虫園は蝶たちが複数、わたしの衣類へ止まりにくる。
アジア圏内では、孔雀が自由に飛んできては、わたしの前で、羽を広げる。オーストラリア園のコアラなんか、だいたい睡眠の時間で、動物たちが、自由にされている。

1970年春、わたしは、八幡市の、石清水八幡宮へゆくとちゅう、「山犬(やまいぬ)注意」との手書きの、看板が、幾箇所もある、その看板の意味を無視して、ゆくと、七匹に囲まれた。
男山の開発が、部分はじまり、道などなく、竹薮、樹木だらけのときである。

全身が黒く痩せ、はじめ、日本オオカミかとおもった。わたしが見たことのない眼だった。が、囲まれたとき、春の山を知らない、わたしが、うかつだったと思った。

襲われたら、死ぬのは、わかっていたので、姿勢をそのままにし、右手を、わたしは攻撃をしないという意味の、心臓から左腹部の位置へ当てた。
リーダーの山犬との、眼での意識交換が、長くおもえたときだった。山犬たちは、わたしから、離れて行った。
「日本オオカミ」ではと思い、山を降りたとき、山を管理する人に聞いたが返事がない。オオカミの展示品などで、確認してゆくと、体型は、オオカミだった。1997年初夏、男山の、農作業の老人にきくと、
「もう、居なくなりましたなぁ、、、」だった。

東山では、野生のサルの被害が、2004年ごろから、マスコミに流れた。
去年の秋、東山、南禅寺から山の方へ、行った。いつもの仕草だが、わたしは、右手を、空へ上げる。
サルがでてくるのは、10分ぐらい必要と思ったが、この日は、10分で、現われてこない。

きょうは無理かと思ったら、40分ほどしてから、サルの家族が、出てきてくれた。
これまで見たサルでは、いちばん大きいと思える、毛並みの良い、雄ザルの背に、これまで見たサルの赤ちゃんで、いちばん顔がきれいで可愛いと思える、生後3ヶ月ほどのが、ちょこんと、父親の背に座ってくれた。

わたしは、感動の、「ふーっー」というような、深呼吸を、唇をうすく開け、音がしないように、してみせた。
合計5匹の群れ、雌ザルは、雄ザルの気持ちにあわせ、雄ザルの後方から、二匹の子供ザルは、わたしのそばへくる。
わたしの心身が、伝わったのか。わたしに、涙がそうな感情がうごく、この、わたしの眼で、かれら、サルの家族を見た。

いちばん小さな子猿は、わたしとの眼を、離さない。あたたかな時間と思っていたら、
「もうー」「こらっー」「こーらっー」と、作務衣の、お寺さんたちが、ホウキなどをもち、わたしの方へくる。
わたしは、わたしを叱っているのかと思った。

「檀家さんに、何かあったら、、、」「きょうは、ファミリーで来て」と、寺の方々は、声を上げる。

「ファミリーで」という表現に、微笑んでいると、雄ザルは、「山へ戻りますけど、、、」と、言った眼と、走る仕草を見せ、背中の子猿は、悲しそうな眼を、わたしに向けたまま、父親の背中にしがみつき、山へと消えた。

猿を追い払った、お寺さんが、「お怪我がなくて、、、」と言う。
わたしは、お辞儀だけをして、東山から、下りることにした。

写真は、1964年夏、箕面公園での、記念写真である。
わたしが、夏休みの課題として『雲の観察』をつづけ、妹が、夏休みの絵も描けないというので、箕面まで行った。


箕面のサルは、ロバのクルマから、馬車へ変わった、1963年は、まだ、大人しかった。

ところが、東京オリンピックをむかえ、観光客が増えた、1964年は、人を、襲うサルが、ずいぶん出てきて、社会問題となった。
「サルの眼をみてはいけません」「母と子のサルは、危険です」などの看板が、あちらこちらに見えた。


母が用意してくれた、南京豆があったので、子猿にあげようとすると、まず雄ザルが取りにくる。わたしは雄ザルを睨む。大きな雄ザルたち三匹が、それぞれ、わたしの気配がわかったようだ。岩山へ、登っていった。

それでも、「だめ、だめ、あぶない」と、周囲にいる、女性の案内役が、注意をする。
雌が取りに来るので、「子ザル」といった風の視線で、雌ザルを睨むと、係りは、「子持ちの雌ザルが、一番、危険」と教えてくれる。

わたしの母までが、「あぶないから、、、」と言う。
加古川市立川西小学校のとき、ウサギの飼育ばかりしていた様子をしる、わたしの妹は、わたしの背の方に、黙ったまま居る。
わたしの行為は、わたしの眼と、手による、黙ったままでの、小さな子猿から順番、と言ったものだった。
写真での後方は、わたしと親しくなったサルたちである。右端は画板をもった母。

5)
東京、上野動物園へいったら、わたしは、人ごみの、パンダ舎は遠くから見て、シマフクロウが居る、北向きの暗い籠のまえにゆく。
1977年に仕上げた、シマフクロウの詩と、絵本のデッサンの、確認のためもあって、何回もゆく。
その後は、友人の役者たちが、幕と幕の間、休むといっていた、ゴリラのところへゆく。

2008年6月27日、寒冷地の動物、アムールトラがいる、『釧路動物園』へ連絡を入れた。
電話に出てくださったのは、東京築地出身、井上雅子(千葉大学、理OG)学芸員だった。
5月24日、「大河(タイガ)」と、「ココア」が、赤ちゃん3頭を、誕生させた。

わたしが、爪切り、どうされていますと、尋ねると、「硬くって、、、」と井上雅子さんは、言われる。

アムールトラの、行動と餌をきくと、とうぜん、雪の中も元気で、「牛肉」を、毎日、「5〜7キロ」食べ、担当は中心が一人で、後は補助一人と言われた。

熱帯の象は、冬どうされていますかと質問すると、「出して欲しいときは、鼻を出して、声をかけてきますから」と言われる。

熱帯のキリンは、ふつうのキリンではなく、アフリカ南部棲息の、縞目が、焦げ茶と、くっきりしている、一日の食餌「15キロ」の「ケープキリンSouthern Giraffe」が1頭とのことだ。

キリンは、かしこく、やさしい。ケープキリンを聞き、シマフクロウも居る、釧路動物園へ行きたくなった。

動物園の飼育係のひとに、一番好きな動物は、なんですかと、わたしは良く質問する。
「キリンです。眼が澄んで、きれいからです」と返事してくれる。
日本で、ケープキリンが居るのは、釧路動物園だけである。

わたしが、井上雅子さんに、いちばん好きな動物はなんでしょうか?と尋ねると、「シマフクロウ」ですとの返事だった。
それで、わたしは、厳しい冬をむかえる、シマフクロウの詩を、1977年につくり、絵本にするため、上野動物園へゆくと、パンダ舎は、素通りで、北向きに置かれ、誰もゆかない、「シマフクロウ」の小屋へゆき、いっしょの、時を、送り、帰るとき、「ボォー」と言うと、「ボォーッ」と、眼を閉じたまま、小さく啼いて、応えてくれましたと言った。

井上雅子さんは、「そのシマフクロウ」「『しのぶ(♀)』は、1993年、釧路動物園にきたんです」と言われ、「隣が雄(♂)で、互いが、ボォー、ボォーって啼き、1994年、卵を産んだんです。飼育係、みんな、動物だって思いました。でも、無精卵でした」と、答えて下さった。

わたしが上野動物園で、知り合い、同じく生きる、友とした、シマフクロウは、釧路で、『しのぶ』と名前をつけられ、先に、雄(♂)が、1999年逝き、『しのぶ』は、2005年、43年間の生命を、おわりとしたという。

6)
6月27日、東京、『上野動物園』へ、約束の時間に電話を入れると、3回目の連絡なのに、飼育担当はじめ、小宮輝之園長たちは、出られないという。
アルバイトの古橋さんに、適当でいいですからと言っても、アルバイトは、返事をしては、いけないとのことだ。

東京、『多摩動物園』も、やっかいなところで、返事がきけない。飼育担当も、土居利光園長たちは、ずっと、会議中だそうだ。あまりにひどいので、4回目、「個人情報」だという香坂女史に、東京都へ連絡するというと、山本殿があらわれ、外国からの冷凍「馬肉」、一日「6キロ」。ニワトリなど。週に2、3回、餌がとれないときを想定し、食事抜きとのことだった。

名古屋市の、『東山動物園』に連絡をいれると、ここも、質問に答えてくれなく、ぐるぐる回り、ようやく、「中村あきら」殿、という、同一人物が、「ぼくはの歳は48歳かな、、、?」と言いながら、アムールトラは、冷凍の「馬肉」解凍し、月曜日を除いた、週6日、「およそ3キロ」ほど与えるという。

京都市立動物園へ、エサのことの、質問だが、長谷川淳一園長、秋久成人副園長はじめ、みなさん、講演とかで、約束など、守らない。
わたしでは、ダメとおもい、他に連絡させ、やっと、聞いたのが、月曜日は、トラ1頭につき、「実験用、生、ウサギ、4キロ」。火曜〜日曜日までは、冷凍「馬肉4キロ」「ニワトリ2キロ」と、ぜいたくである。

場所がすぐわかる、『天王寺動物園』へ電話をいれると、獣医の「市川久雄」さんが、中央保健所勤務のときは、犬の苦情で、捕獲に行かれた事を言ってくださった。
トラの餌、春と夏は、トラは、動かなくなり、汗腺が、口腔の舌と、足のウラの肉球だけなので体温が上昇し、肥満になるので、牛肉1キロ、鶏は1キロ、冬場になる11月から2月は、寒さ対策に、脂肪が必要になるので、牛肉2キロ、鶏の胴体2キロで、月曜が絶食の日、と答えてくださった。

明るく、吹田市出身といわれ、冗談がきくので、日本産の牛肉、但馬牛のロースですかというと、「そんなん。それやったら、わたし、食べたい」と言われ、大阪の水どうですか?と聞くと、「みんな、大阪の水、まずい、と言うんですけど、わたし、おいしいんです」と言われる。

それで、大阪の水、濾過機が、大阪城内にあることを告げ、中央区は、わたしの父が、大阪府庁、府警をはじめ、官庁街で、「仕事に疲れたとき、偉い人が、そのまま、口にしても、いいよう、ワシがした」と、わたしの父の事を告げると、「えっ、わたしなんか、勉強嫌いで、偉くないんですけど、、、」と驚き、喜んでくださった。

神戸の『王子動物園』は、「石川理(おさむ)園長」がでてくださり、トラやライオンは、加齢と、運動量の関係で、一日馬肉5、6キロで、休園の水曜日が絶食と言われ、諏訪山の動物園は、1950年の神戸博覧会のとき、残った、象やサルが行ったことを告げてくれ、わたしの記憶にある、1歳ごろのが、確かだと分かった。

「動物の匂いがする動物園が理想です」といわれ、キリンが好きな、福岡出身の、石川園長に、好きな動物園は、どこですかと尋ねると、「『平川動物園』です、桜島のある景色がいいんです」と言われた。
わたしは、火山灰も自然のひとつで、磯公園もですが、桜島の、やわらかく、まあるい、感じが、優しく良いです。動物の心も落ちつくのでは、ないでしょうかと言った。

日本の味覚文化について、鹿児島から福岡、九州の文化都市は、塩が基本に、海と山の、新鮮な食材による、味付けが完成されていると、1970年、1974年のとき、感じましたとも、石川理さんへ、言った。

鹿児島の『平川動物園』へ連絡すると、獣医の桜井普子(ひろこ)さんが出てくださった。王子動物園の園長さんが、平川動物園が良いと言っていたことを告げると、神戸や京都が、鹿児島より、都会にかんじられるのか、感心してくださる。

わたしが、最近の「桜島の噴火」で、動物たちは、どうですかと質問すると、「はじめ、ドカーン、ドカーンと音と地響きには、おどろくんですが、すぐ、慣れてきました」と言われる。

桜井普子さんも、釧路動物園の井上雅子さんの声も、日本の、北と南なのに、動物を好み、いっしょに生きていることを実感されている人たちの声は、わたしへ、また、すぐそばの動物たちへ、話しかけているような感じがして、わたしを感動させる。

いちばん、敏感な、動物はなんですかときくと、「フラミンゴです、でも、いまは、噴火に、慣れました」と答えてくださり、ベンガルトラには、血抜きをしていない、ブロイラーを2キロ、3キロ、馬肉はおやつ程度と言われ、「北極グマ」は、夏冷房室で、善意の「氷柱」の贈り物があるという。

自然現象に敏感な、フラミンゴから、『わんぱーく、こうちアニマルランド』へ連絡をいれると、若い世代の、吉川さんが、アムールトラには、他の、大半の、動物園と同じく、ブラジルやアルゼンチンの馬肉5キロ、鶏はブロイラー1、5キロと言われる。
台風のとき、どうされてますかと質問すると、「いつもと、同じです」と言われるので、えっ?と思い、台風好きの動物いますか、と聞くと、「いえ、それは、いません」と、真摯に答えてくださった。

「こうちアニマルランド」には、フラミンゴがいるので、愛媛県立、「道後(どうご)」のフラミンゴ、どうしましたかと質問させていただくと、砥部です、県立とべ動物園へゆきましたと教えてくださった。
それで、1970年代、道後の、飼育係のおじさんが、わたしの鳥好きがわかるのか、「屋舎」を開けてくれ、100羽から、出してくれたことを言うと、「100羽!?」ですかと驚かれる。


道後の動物園は、水辺があり、150羽以上が、わたしの前へ、長さ100メートルから、幅が50メートルで、バレーでの、舞台のように来て、交差するように、踊ってくれ、あのときの感動は、まだ、わたしから消えていない。

わたしは、東京では、秋に倒れる。
1985年の秋、世田谷で、重体になったとき、500坪ぐらいの庭、一面に、野鳥が来て、わたしの家族のまえには、現われたことがない、オナガたちが楽しく、波長や、放物線のような、舞をみせてくれた。

7)
姫路動物園は、偉い姫路市会議員全員が、動物園、大改修の、見回りだとのこと。それで、幾ら説明しても、文化に関係のない、マツダのような人間を相手できない、何の用件かわからない。そのため、電話になど出られないと言う事だった。市役所の市議関係へ、電話をいれると、わたしの電話番号をきき、返事がない。

姫路動物園と姫路市が、8回連絡しても、なんの「答え」も、してくれないとき、わたしは、『姫路セントラルパーク』へ連絡をいれた。
わたしが、姫路のサファリは、開園のときは、大阪から、ずいぶん行ったのですが、この10数年、わたしの友人たちも疲れて、行っていません、経営状況は知っていましたと言った。
こういった、わたしの発言からか、飼育係の奥田さんは、緊張され、真面目に、エサは、夜、1頭づつ、給餌の小屋に入れ、牛と馬肉を、一日おきに、5キロ前後あたえていますと、返事してくださった。

つづいて、「秋吉台、自然動物公園」へ連絡すると、飼育担当の池辺さんが、ベンガルトラには、鶏を、4キロ、5キロ、3頭いる、ホワイトタイガーには、牛肉を、5キロ、6キロ。鶏は、少しと、丁寧に、答えてくださる。
京都市立動物園での事故をつげると、「トラと人間は、別の世界ですから、、、」と言われ、「トラなど、野生の動物には、厳しく接します」「生育すると、良し、良しと言った、犬などにする、雰囲気は見せません」と、物静かな声でいわれた。

この、ゆるやかな、池辺さんの言葉の発声に、わたしは、教えられることを、多く感じた。
池辺さんの言われるとおり、自然の中で、人間が、唯一、番犬であると、人間の生活を守ってくれる歴史をもつ、犬以外の動物に、良い子だと、擬人化した、接し方は、根本から、まちがっている。

この犬でさえ、2007月1月、福岡県、筑紫野市で「土佐犬(♂)」による、害が報告されながら、12月1日に、安武トモエさん(85)が、大型のクルマに轢かれたのかと思える、損傷で亡くなられてから、警察が動いた。

2008月6月23日福岡、水巻町、同町勤務の、永沼良(57)さんが、飼っている、檻の中で、土佐犬(♂)4歳にかまれ亡くなり、助けようとした、父親(81)も、腕をかまれ重傷となり、近くで建設作業をしていた、2人に助けられたという。

2007年7月30日の、とても暑い日、中国、江蘇省の「人民公園動物園」で、飼育員が、餌付けで、飼育舎に入ったら、妊娠中のライオン(♀)に、かみ殺されたという。

非常識すぎ、日本だと警察で逮捕だと思うが、2006年9月19日、「北京動物園」で、ビールを飲んだ男が、檻をこえ、パンダの「古古」に触れたので、男の右足をかんだ。男は、「古古」を蹴って、背中にかみ付いたという。中国の新聞は、多くが、この闘いを、笑ったとある。

池辺さんに、どこからの客が多いですかと質問すると、「近辺ですね」といわれる。
わたしは、30年前は、「秋芳の鍾乳洞」とのセットで、大阪、京都からも、ずいぶん行きましたよというと、「えっ、えーっ?そうでしたか」と、驚かれる。
秋吉へは、わたしの埼玉県杉戸出身の、祖母も、行き、感動をしていた。

マラソンで、従来にない走法をした、「宗茂」さんをの言葉の響きを感じさせる、池辺さんだが、飼育員のブログをみると、「雨の日も動物たちは元気です」 6月18日(水)に、池辺祐介さんは獣医師とある。

双子のランナー、宗茂、宗猛の兄弟は、有名である。宗茂さんは、五輪、3大会に選ばれ、メダルかと言われた、「1980年、モスクワ大会」で、日本は、政治の考えを入れ、ボイコットした。
わたしは、五輪をめざし、長く鍛錬してきた、選手の心身を、政治で無視されてしまった人格を、何と考えているのかと思った。

最後の、問い合わせ先と思ったとき、埼玉の杉戸は、『東武動物園前』なのに、連絡をしていないことに気づいた。
杉戸に近いところの出身、「須釜(すがま)」さんは、トラのエサは、アムールトラ、ホワイトタイガーも同じで、馬肉4キロ、鶏肉1キロの、トラの体調によって5キロから10キロを毎日といわれる。

ゾウは、干草、イモ、にんじん、りんごなど、一日20キロといわれ、予算から、いま、動物園の案内など、「手書き」ですと言われるので、それが一番ですよ、種類が多いのに、動物園への入園は1500円ですか、安いですが、と言うと、
「はい。親会社の東武鉄道から離れ、独立採算制になりましたが、1500円です」
「赤字経営が、2005年、2006年、2007年」、工夫に、努力と計画性で、黒字になったと、言われる。

須釜さんの、トラは野獣ですとなど、言葉が明快で、動物好きとわかったので、日本オオカミと思えるのとの遭遇をいうと、「絶滅していたのでは?」と言われる。
京都では、動物、植物科専攻だけでなく、医学部の研究徒も、日本オオカミへの関心がつよい。
このときの反応で、須釜さんは、動物の歴史も好きとわかった。

それで、「ええ」、1970年春、それ一回で、そのころは、京都府男山、丘陵から枚方市の「山田池」の南まで、広大な森だらけの、丘陵がつづいていたことを言った。
1970年代はじめまで、わたしの、同窓たちのイエは、山田池の周辺に、大きな牧場を持っていた。

8)
妻が、むかし、「イリオモテヤマネコ(西表山猫)」の、発見のきっかけを作られた戸川幸夫(1912-2004年、92歳)さんへ、取材をしに行くと言う。それで、戸川さんに、家猫から、教えてもらいたいことの、ひとつに、山猫の好きな食材屋さんを、聞いてきて欲しいと頼んだ。
戸川幸夫さんは、東京の「大丸地下」と教えてくださり、じっさい、そうだった。

杉戸町へ電話を入れたと、母に言うと、母のイトコが、杉戸へ、動物園が来るように、東武電鉄に願ったそうだ。

上野、多摩、京都、姫路は、非常に不愉快なものをかんじた。名古屋も、日本モンキーセンターはじめそうだった。

同じ 公立動物園でも、『釧路』『天王寺』『王子』『平川』『こうちアニマルランド』への取材は、動物園の人たちが、ほんとうに動物好きで、心があるとかんじた。

民間は、どこも、即座に、丁寧に、答えてくれた。なぜ、こんなにもの違いがと思う。
が、日本は、国公立と、民間の差が、あまりに、大きい。

動物園に関しては、公立は小さな規模にして、小学生までは家族と、中学生ぐらいからは、ひとりで何度も行け、危険性のない、動物だけにして、動物園を、より身近なものにする事。

20世紀の、日本のサル学など、無意味に近い。他人の研究を自説風にした、今西錦司さんだが、どのサルが、人間になるというのだ。ムダな学説づくりをしたいだけの、飼育系統に、学芸員、研究員とやらの名称をつけるところは、すべて無給にすれば良い。

大きな規模のを、公立、民間とのバランスを、たとえば半分ずつと考え、エサ代など、維持費が大変なところは、理解ある民間からの、援助があればと思った。
現状は、民間の飼育係のひとたちは金銭と体力に疲れ、公立のひとたちは役所との関係に気疲れしている状態である。


9)

犬のことだが、わたしの兄は、1962年暮れ、近所の、級友の高見君宅で、家庭教師による授業を受けていた、夜8時をすぎた帰り、超大型の猟犬、グレートデンに噛まれ、宙へ持ち上げられ、振りまわされた。

駅前は「相撲取り」の料理旅館「荒熊」があったところに、来られた、「曽爾(そじ)医院」の先生は、母に、兄の胸部のレントゲンをみせて、あと一センチで、肺に到達していら、死ぬところでしたと説明した。
犬だが、1頭ずつ個性が違うし、環境の動物である。

兄が助かったとわかり、高見君の母親は、「(神吉の)ミキちゃん、(山本の)ノブちゃんは、ジッとしていたのに、テッちゃんだけ、走ってにげたから」と言い、「味覚糖」の丸い缶をもってきた。

わたしの祖父は、戦前は、戦争反対。戦後は、日本を占領し、大阪から岡山、堺、尼崎、神戸、姫路の、「町や村からの、青年警察官を殺す、GHQアメリカの方針」に、抗議していた、イエだった。
それで、グレートデンに、殺されかけた、詫び、見舞いは、「飴」、それだけでよかった。

父が会社からもどってきたとき、母が、もう少しで、死ぬところだったけど、助かってと言ったとき、父は、「言うことを聞かん犬飼って、なに、考えとる」と、播州弁で一言、大事な我が子を、食い殺す、猟犬を放つ、イエのことを、怒った。

わたしのイエの犬だが、1959年8月、姫路日赤で、何回目かの、危篤状態から、脱して、仮退院していた、ふつうだと、小学二年生の歳だった。

祖父が、不機嫌な顔でもどってきて、「飯(めし)」と、祖母にいう。
不機嫌なとき、祖父は、祖母に当たるので、母は、小声で、わたしと妹に、祖父が食事をとる、奥の部屋へ、行きなさいと言う。
この1959年夏でもって、新しい加古川市は、日本毛織のある印南と、日本毛織の仕事をする、西神吉と志方町を新しい加古川市へ合併することになったようだった。
そして、印南郡、米田町、単独独立。また、高砂市との合併が、不可能となった。

町や村をまもるための、政治は金がかかる。いま文部科学省大臣の父、渡海元三郎さんを、国会へ送るまでの、費用、町や村の会議での、食事代から、すべて、わたしのイエが、とうぜんの事として、もった。
会議での、食事だが、駅前の、「うどん屋」さんが、「すし屋」になる。

夜の、会議だが、阿弥陀の代表のひとつに、父の弟が阿弥陀小学校で同級だった、火薬を扱う、旧家の「松本」があり、「田中」がある。米田の代表のひとつに、父が米田小学校五年生のとき、ひとつ上級、六年生だった、旧家の「今竹(いまたけ)」に、「中川」がある。「今竹」は、祖父が気を許せ、行き来するところだった。
この印南郡での、旧家とは、1000年単位のイエになる。

わたしは、縁側を背に、正座をして、すわった。米田保育園へ通園していた妹も、わたしの右、居間が近いほうへ、来て、正座をした。

祖父の、膳へ、祖母は、大きめの焼いた鯵を、皿にのせ、かがみ、持って来る。
上は焦げすぎ、下はちょうど良い鯵が、わたしの眼にはいる。

上下、反対にすれば良いのに、思いながら見ていた。祖母が、膳の上においたとたん、
「こんな物、食べられるか、焼きなおせ」と祖父は、祖母に言い、皿の鯵を、庭の、ジョンの方へ、ほうった。
祖母は、わたしが居るせいか、わたしと妹に、祖父が怒ったと、笑った顔をみせ、おくどさんへ行く。

焼いた鯵は、大型シェパード、ジョン(♂)の前に落ちた。ジョンは、定位置で、「お座り」の形を、崩さないのに、体に力がなくなり、両足を、前にのばし、地面へ、伏せた形になった。
いつも、黒の毛の、背中を張り、姿勢のよい、大型の警察犬が、こんなに、小さくと思い、かわいそうになり、
「ジョン、食べ!」と、わたしが、許可をした。

わたしが、犬や猫に、命令するような言葉は、これが始めてだった。
ジョンは、わたしを見て、「クゥーン、、、」と泣き、より、小さくなり、食べようとはしない。
祖父は、動物に、命令をしたことがない、わたしの発語と、ジョンの悲しげな声を聞き、自分自身が悪い事をした、落ち着きのない表情になった。わたしは、こんな表情の祖父をみるのは、はじめてだった。

10)
2008年6月8日の12時30分すぎ、東京、 秋葉原で、7名が死亡、10名が重軽傷を負う、「無差別殺傷事件」があった。犯人の加藤智大(25)は、トヨタ関連の「関東自動車工業」の派遣社員で、取り押さえようとする警官さえ、刺し、また別の警官の左胸を刺そうとした。

被害者に、19歳の学生はじめ、20歳をすぎたところの若い世代がいる。ひとり東京芸大、音楽の女史がいて、秋葉原の電気店で、アルバイトをしていたという。
被害者べつに、感情をいれないようにしようと思っても、東京芸大生が、なぜ、と思ってしまった。担当の教員は何をしていたのだろうかと思った。

わたしたちの時代、東京芸大、器楽クラスは、録音、伴奏、アルバイト、一日拘束、3万円〜5万円だった。これは、各器楽科、学年ひとりぐらいの難しさがある。

バイオリン、一日すると、弦の代金、一万円は無くなるし、フルートなどの管楽器だと、プロの音だと、管のピッチが狂ってきて、修理に、数万円単位かかる。ハープなど、アルバイトはないが、とうじ、弦の一セット、8万円だった。

秋葉原の万世橋は、戦前は、ゲタをはいた、東京帝大はじめ、中央、明治、専修などの大学生が、故郷からの、米など荷物を受取りに、また不要になった都会生活の物を、実家へ送る、バンカラがあつまる場所だった。

わたしは、1980年代中ごろ、日本にABO式血液型の知見を、もたらした原来復の先生宅を、探しに行った。

電気関係では、「石丸電気、本館」が、各社の、スピーカーを聞き比べられるので、店が閉まるまえ、数度行った。店員が親切な店だったけれど、東京がバブルと言い始められたころ、若い店員による、カタログ中心の説明となった。
スピーカーからの、実際の音を聞き比べれる、わたしの耳と、メーカー側からの宣伝を信じる、若く、おとなしい店員とのズレをかんじ、「新宿MY CITY」にあった、年配の店員が多い、石丸電気へ、直接ゆくか、電話での、注文だけをしていた。

秋葉原は、1980年代後半から、おとなしい若者の町となった。今回、6月8日の、無差別殺傷事件を誘引する、一番原因は、トラックでの殺傷だろう。
良識ある、内閣府は、ナイフなど刃物の所持規制強化の検討をしていると言う。おそらく、トラック販売の中止も検討しているだろう。

石原慎太郎都知事(75)は、「未然に防げない」と言い、6月13日の、定例会見で、「一種の、、、半狂人、精神異常をきたした人」と言ったらしい。
国会議員のとき、「もう、政治家などしない」と言って止め、知事ができる人の精神は、正常なのだろう。

「ホコ天」禁止だそうだが、「歩行者天国」とある「道路標識」を、『車両禁止』『歩行者優先』と表現しておけば、予防できたのではないか。

この秋葉原では、2007年から、自称ポルノ女優が、活動する行為があったそうだ。それが、2008年4月25日、東京都の迷惑条例とかで、逮捕されたという。
利益があがったのは、デジタル撮影機器を扱う、カメラ電器店だったのだろう。その収益が減り、警視庁から、逮捕しても良いとの命令がでたのだろう。
公称、22歳のポルノ女優の年齢が、31歳とわかり、オタク族は、ショックとの事だが、その31歳も、デタラメで、もし、16歳だったら、45歳だったら、どう考えるのだろうか。

どこか、価値観の本質が狂ってしまっている。
わたしは、中学生のときから、ゴッホが描いた、年老いた郵便屋さんルーラン(Roulin)夫妻の絵、ガシェ博士の絵に、見とれるし、ゴッホを尊敬した、佐伯祐三の晩年、「郵便配達夫」の一作に、高校生のときから、救われた気持ちになり、年齢が行った、いまも変わらない。

警官が、犯人を、取り押さえた場所だが、海外メディアは、「ソフマップ」を映した。
わたしは、犯人の細い顎をみて、歯は上下7本の対、合計28本だろうが、この人の、食生活は、どうなっていたのだろうと思った。

多忙のなか、犯行現場で、追悼され、非常に理解ある、優しい父親に育たれた、福田康夫、総理大臣の歯は上下8本の対、合計32本に見えた。
人は環境の動物でもあり、犯人との違いは、ここにある。

福田康夫、総理の、呼吸器、心臓への負担が大きくなり、弱まってきたのは、春ごろで、この国の内閣府、与党・野党の国会議員は、どうなっているのだろうかと思った。

1991年に、ドイツのコール首相が、統一後の大混乱と、不況で、市民に、タマゴをぶつけられ、
2004年5月は、シュレーダー首相 が失業中の男に、平手打ちを食らった件がでてきて、危険だとかんじた。

海外メディアの文体だが、おとなしい人物たちが集合する、秋葉原をしっているせいか、なぜ、このような事が、信じられない、悲しいといった文言があった。また、日本をしっている海外メディアは、犯人を「ヤクザ」と、特定したタイピングに、気遣いをかんじた。

石原慎太郎知事は、定例記者会見で、都が出資の、『新銀行東京』の件で、「(都政では)、これだけが、目算が狂った」と言ったらしい。
また、石原知事自身が、銀行家だったら、成功したとも言った。おそらく、現在の世界思想、文学、芸術不毛現象は、「もし、ぼくが、作家だったら、
良い作品を書くね」と言うだろう。

石原さんは、自身が選んだ、副知事、「猪瀬直樹」
さんを、かばう発言をしているが、この猪瀬直樹さんによる、「三島由紀夫」の記載は、どうかならないのか。
とうじ、播州には、「馬力(ばりき)屋」「車力(しゃりき)屋」「天秤(てんびん)屋」があった。

野坂昭如さんの、デタラメ本が、元だろうが、猪瀬直樹さんは、加古川市駅、宝殿駅、志方の標高に、地勢が、わかっているのだろうか。宝殿駅の北には出入り口はなく、水田を沼地にして、1960年ごろも、すべて、水田地帯だった。
三島由紀夫が幼少の、1930年ごろには、まったく無い職業を、どうして在る事にできるのか。

原因のすべては、『仮面の告白』を担当した、河出書房の「坂本一亀」さんだろう。三島由紀夫の文体と、河出書房の編集者の文体のちがいは、河出書房を辞めた編集者の文章表現を、比較すれば、わかる。

11)
政治経済、分裂の時代とも考えられるだから、仕方ないとも言えるが、日本の内閣は、2008年6月6日に、参議院と衆議院で、『アイヌ民族を先住民と認める決議』を採択したらしい。

2007年4月から、18代目の文化庁長官は、文化人類学の宗教専攻で、業績がわからない青木保(1938年- )さん。元、民博の佐々木高明(1929年 - )さんが、発言している。

戦後の混乱期、立命館の学生時代で、何を学問されたか聞いたことがない、佐々木高明さんは、山田忠男先生の後輩で、軍部に協力した、「中尾佐助」さんと、東南アジアの植生を、考察されたらしい。

佐々木さん、あなたは、もう、80歳近いのだから、大人ではないのか。梅棹忠夫さんどうよう、いったい、何の学問をされた。アイヌ民族文化を言うのだから、20歳代ぐらいに、調査へゆかれたと思いたい。論文類を、出されよ。
1950年代から、アイヌ民族研究をされたのか。まさか、アイヌ民族に関与する文化団体などへ所属などしていないと思う。

わたしは、1974年、北海道に若者の「カニ族」発生というとき、アイヌ(東大の形質人類学者、長谷部言人の主張では、正確には「アイノ」)民族の動作を、自費で、調査へ行った。

洞爺湖、支笏湖周辺の、胆振、日高アイヌにはじまり、旭川、大雪山から十勝、そして阿寒湖、摩周湖から、釧路のほうまで。大雪山あたりから、稚内へゆくつもりが、1974年、旭川周辺には、三菱、三和、住友銀行などがなかった。

友人、男子三人分の費用がない。それで、いちばん近い、金融が、「帯広」の「商工中金」だったので、東京の叔母へ連絡を入れ、帯広へ、金を、受け取りに行った。
1974年度の、調査旅行で、ドイツ・ギター、1972年製、「ハウザーV世」の高級品、50万円が、買えなくなった。

アイヌ民族の、民芸品は、日本人のものより、2倍、3倍しても、売れていた。アイヌというだけで、貴重品だった。これが差別なのか。
動作だが、どこのアイヌ民族も、いわゆる日本人と同じだった。

アイヌ民族へは、国文学者、金田一京助さんたちの、「このままだと、アイヌ民族は、性病で絶滅してしまう」との指摘で、北海道帝大の、内村鑑三の子息、内村祐之医師たち、各・帝大の医師たちが、淋病をふくめ、性病根絶のため、救出に行った。
これらは、わたしの『改訂版 血液型と性格の社会史』(1994)、「脚注、P44〜46」に、論述してある。
これの読解には、梅棹忠夫さん、佐々木高明さんレベルでは、無理なのだろう。

このときの、調査で、アイヌ民族の血液型分布がわかった。
音楽の調査も行われたのか、『京都昨今 63』で、「柿木吾郎」さんに、1980年までに、2度質問をしたのは、アイヌ民族音楽調査の、原典(出典)だった。柿木吾郎さんが、文献名を提示してくれたなら、アイヌ民族音楽の地域別、音楽特性を論述できた。

12)
困ったひとりに、「萱野茂」さんが居る。1975年、平取町の議員になってから、どんどん、偉くなったのか、奇妙な方向へゆきはじめた。

北海道地方に残る、アイヌ民族が、それぞれ、ちがうアイヌ文化をもって維持しながら、アイヌ民族というのであれば、まだ、理解できる。
が、日本民族と違うという、決定的な、遺伝要因はない。
1970年代、わたしが、ABO式遺伝子と民族音楽の論文をかくまで、
@土人
A土着民
B原住民
C先住民
D自然民族
の表記があった。

京都帝国大学、理学部、医学部OBたちが、世界で、わたしの次につづく、遺伝子学者を前提しての論文という。
それで、わたしが、表現上、差別に思われるのが嫌なので、「先住民」と「自然民族」の、2つに、統一してしまった。

@アメリカ大陸の先住民は、白人種でなく、黄色人種のアメリカインディアンである。
この立証は不可能である。同じく、アイヌが先住民族であること。この立証も、不可能である。
たとえば、顔の彫りが深い東北の作家、「太宰治」。政治家、石原慎太郎さんの、子息で、俳優と気象予報士の「石原良純」さん。太宰治どうよう、顔の彫りが深く、アイヌ民族の衣装を着せると、そのまま、アイヌ人以上のアイヌ人になる。これを、どのように、反証する。

Aアイヌ民族の、名誉と尊厳。
1970年代、わたしたち若者の、誰が、アイヌ民族を差別していた。日本人やロシアなど海外へ、抗議し、戦う精神がないと、アイヌ民族を、差別していたのは、「萱野茂」さんではないのか。
しかも、肝心の、アイヌ語だが、萱野茂さんは、文法の一定基準をつくって、話し、表現できなかった。
萱野茂さんは、金田一京助さんの、辞書をまちがいと言った。
否定するのは、簡単だ。しかし、1970年代の、萱野茂さんは、いざというと、地域別のアイヌ語を採集、編纂、整理する気持ちもなかった。
現在、アイヌ先住民と主張している人たちに、言語としての、アイヌ語の整理、応用ができるのかと、わたしは、念を入れたい。

B日本政府へ、先住民族の認定。
これをすれば、九州人が、われわれは日本人の祖先、「邪馬台国」、「卑弥呼」は九州と主張されると、否定などできない。九州人が、不況の折、この原因は、関東人にあり、われわれは共和国として、独立するから、費用といわれたり、「九州人、世界の国々、人間国宝」などと、主張されると、日本政府に世界も混乱してしまう。
さらに、琉球列島の言語は、1970年代、島々、かなり違った。

第一、これまで、自費で、わたしがしてきた学問への姿勢、すべてがムダになる。
いまの世代もだが、日本人として暮らし、次の若い世代が、アイヌ人としてではなく、ふつうの日本人として、静かに暮らしたいと、望むひとたちがでてくれば、アイヌの先住民を主張する、あなたがたが、差別を生む原因となる。

わたしの血縁にあたる、伴侶は、アイヌや、琉球の民族たちが、指摘する事項を、受け入れれば、被差別者との結婚生活になってしまう。わたしは、これへ、強く、抗議をする。

13)
現在の実情は、形質人類学は学問の連続で、学問嫌いの、京都のチンチン電車の梅棹さん、江戸時代、西陣の織物屋で、明治時代に商売替えで、書店を開業した、代々、良いところの子、夜中に部屋の電気が消えていると、本が読めないという、梅棹忠夫さんにある。
梅棹忠夫さん、子息や、お孫さんたちを考えて、最後は、きれいにされれば、どうなのか。

日本の、言語状態だが、1960年、父方の祖父が逝き、二日目の葬儀に来た、老人の言葉が分からなかった。
「はい、はい」と頷いている、妹に、わかったの?と聞くと、「わからない」と言うので、父に、あの人に写真を撮られたと言った。
父は、「親戚や」と言う。言葉がわからなかったというと、不思議そうな顔をして、印南郡の、同じ西神吉(にし・かんき)でも、200メートルほど北になるけれど、学校の先生と、言った。

この日本の地域差だが、 徳光和夫さんを主に、司会進行する、『ズームイン!!朝!』が、1979年開始したとき、はじめに、「紀州、田辺」があった。どうなることかと思ったら、案の定、練習どおりゆかない。

叔父の故郷であっても、叔父は標準語だし、わたしたちには、紀州の言語の理解ができなかった。

わたしが、「アイヌ斑点」「アイヌ発毛」と呼んでいるものは、「琉球斑点」と同じで、1970年代、東北、信州、琉球列島の諸島に見られた。また、本州では東北、九州では薩摩地方の山岳部に残っている。

1980年まで、早めの調査とおもいながら、梅棹忠夫さんたちのおかげで、不可能になったのは、九州、甑島(こしきじま)列島の調査だった。同じく、台湾の、南部の、「先住民」部族は調査にゆきたかった。すべて自費のつもりが、山田忠男先生、古希パーティ用、ABO式遺伝子論文の出費で、予定が、消えてしまった。

民族というのは、「純血種」の定義が、三世代としている、イギリスに倣えば、50年ほどで、先住民(土着民)ができあがる。反対に、壊れるのは、10年、20年。二世代もかからない。


14)
アメリカ、ジョージア(Georgia)州、アトランタ)(Atlanta)市に、2008年3月14日、金曜日、午後10時ごろ、竜巻Stormがおきた。週末を楽しもうとした、30人ぐらいの、被害者がでた。

5月上旬から下旬にかけては、アラバマ州からシカゴ郊外を、イリノイ州、アイオワ州に、大雨と、巨大竜巻発生し、オクラホマなどでは、20を超える竜巻が発生し、死者をはじめ住居を壊すなど、大きな被害をもたらせた。

ブッシュでも(USA 43rd President 、George Bush )、これが、テロとは、いわないだろう。
いまのアメリカには、日本の、子供の心も、なぐませてきた、映画も音楽も、なくなった。

アメリカに、昔のアメリカを、思い出しなさいというのか、わたしの脳裏には、メリー・ポピンズ(Mary Poppins)の音楽が流れる。
「♪ Chim chiminey, chim chiminey,chim chim cher-ee! A sweep is as lucky, as lucky can be(1964年)」
チム チム リー チム チム リー、煙突掃除。ぼくの、人生は、これでだけで、楽しんだよ。
 
「♪ In ev'ry job that must be done there is element of fun、、、That a spoonful of sugar helps the medicine go down,the medicine go dowwown,medicine down. 」 
どんな仕事でも、考え方しだいなのよ、、、。小さじ、いっぱいの、砂糖。これだけで、わたしには、嫌な事がなくなるの。そうでしょ。

侵略戦争と、奴隷経済以外、巨大な夢をの実現が不可能となった、アメリカには、メリー・ポピンズ(Mary Poppins)のような、歌と詩、また、「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」(1965年)なども製作できなくなった。

理由は簡単で、医学で先端をゆき、広告用のポスター、実験心理に哲学が発達し、音楽の都、偉大なドイツを東西に分割し、第二次世界大戦まで、模倣に模倣した、独創の国、ドイツを、経済破綻させてしまった結果である。

第二次大戦後、侵略国家、労働者の移民(輸入)国家は、これだけ覚えれば良い、歌を用意した。
歌唱とダンスの天才、プレスリー (Elvis Presley)は、”CAN'T HELP FALLING IN LOVE”を歌った。
♪ Wise men say Only fools rush in  But I can't help falling in love with you
偉い人が、言うんだ、恋する奴は、バカだって。でも、オレは、オマエに、いかれてしまったんだ。

イギリスからは、クリフ・リチャード( Cliff Richard) が、”Summer Holiday”で、
♪ We’re all going on a summer holiday. No more working for a week or two.
ぼくらは、夏休み、どっかへ、ゆくんだ。一、二週間、仕事は無いんだよ。

この、二曲の、「恋」に「休日」の歌詞があれば、日常「英語」は、大丈夫である。

15)
英語による教育が重要だと言う人がいる。どの国の言語も習得できるに越したことはない。

日本も、市町村、各自治体によって、英語、ドイツ語、フランス語はじめ、アジア圏、インド圏、アフリカ圏、南アメリカ圏の、言語を選ぶ自由があったら、悪い、政治家たちの、利益追求だけの、文化の現象が変わってくるだろう。

四川省での地震により、現地の人が、我が子を失われた人たちが、政府、監督庁へ、抗議されている。
中国語(北京語)は、漢字による、一つの表記が、音韻では、二つ、三つに分かれる。この音韻での、分化は、日本語での、格助詞、「ひらがな」などの音韻に通じる。ハングル語も同じ現象をもつ。

北京語は、明確な方だが、上海、香港は、立地と経済政策から、北京語と広東語はじめ、複数の中国語がまじり、「中国語、会話」が成立している町だ。

上海、香港は、1970年ごろの大阪というか、東京での標準語に、関西弁で、大阪語(河内弁)と同じく、わたしには、聞き取りもできない。
四川省は、繰り返し、聞いても、感情の一端ぐらいしか理解できない。

植民地政策の一環、「侵略政策、英語教育」は、GHQアメリカ人の言語、知能程度を知るには、われわれ、被植民にとって、好都合である。

GHQアメリカにとっての、戦争英語だが、世界的な、「帝国主義、従軍慰安婦」は、ドイツに生まれ、育ちながら、自分の意思で、アメリカに買われた、第二次世界大戦での、「マレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich)」だろう。

ディートリッヒは、アメリカでの市民権を得て、「ウソ USO」(The United Service Organizations )で、活躍した。
アメリカは、戦場にいる若者へ、M、ディートリッヒの、実際の年齢をごまかした、「ウソ USO」の画像と歌を、経験させた。
フィルム、写真、音楽に、慣れてなく、声色(こわいろ)と、化粧を知らない、軍人たちは、若い世代だろう、自分たちの行為が正当化されるものと、信じた。実際の、40歳以上だと、軍人の、母親の年齢だからである。

ディートリッヒが敵国アメリカのシンボルとなった、ドイツ側としては、不愉快で、戦争中、気持ちが散ったと思える。

16)
音楽の国、ドイツに生まれ、音楽を鍛えられた、M、ディートリッヒの効果のあと、アメリカは、セクシーな声に、容貌があれば、映画でもって、1人で、100万人単位の、従軍慰安婦の代わりとなる、実験心理から、マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)に、M、ディートリッヒの発声を、真似を練習させ、使うことにした。

若い軍人への性への、高まりとして、マリリン・モンローを、スターにし、軍人の青年への脳裏に、お色気の「マリリン・モンロー」の顔と体、声を、「セックスへ」の、あこがれの対象として、記憶へ刻み、刷り込んだのである。
『イヴのすべて(All About Eve)』(1950年)などを見ればいい。

「朝鮮戦争」(1950ー 1953年)時代は、計画どおり、領土化した、日本で、町や地方の日本の女性ばかり、レイプし、また、朝鮮半島でもしたい放題にやった。

音楽と映像で、野生の動物精神を亢進させ、アメリカ軍人は、東洋の人間らしき動物を、アメリカ軍部の政策どおり、マリリン・モンローと、やっている気分になり、自分たちの、偉大な Ultra-Big-Phallus人生が肯定できた。

アメリカ軍人の青年たちは、マリリン・モンロー Monroe’Venus としているような気分で、日本や朝鮮半島の女性をレイプして、「アメリカの子供(細胞)」が増えて行った。
結婚していても、アメリカは、フリーセックスの国であるとは、マリリン・モンローの『ナイアガラ (Niagara)』(1953年)を見ればわかる。
主人が、朝鮮戦争へ行って、留守のときに、妻のマリリン・モンローは恋人やらをもつ。

時代の変化は、オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)の起用でわかる。

アメリカの仕掛けは、同じ発声ができる人物をヒロインとした。
『ローマの休日(Roman Holiday )』(1953年)などでの、オードリー・ヘプバーンだが、彼女の「発声」、そして、彼女の「眉毛」である。
ドイツ語と発音が似る、オランダ人を母にもつ、オードリー・ヘプバーンのばあい、ドイツ人のM、ディートリッヒの発声は簡単だった。


Sex Symbol、セックスのシンボルとは、良い表現だ。「ボボ・フレンド」「オマンコ・ガール」とでも活字になっていれば、純粋バカな日本人でも、これは、奇妙だと気づく。

マリリン・モンローは、”あほ?”、と思わせる「の」に似た「へ」の眉毛で、運動のためか、腰をゆらして歩く。
オードリー・ヘプバーンは知性、純粋な少女を感じさせる、漢数字での、濃い「一」の形で、まっすぐ歩く。

30年間という、長い、ベトナムでの戦争(1945ー1975年)だが、熱帯という、「年中栽培地域」であり、肉食に、酒など、興奮しやすい食べ物を摂取し、子供殺しと、レイプだけが得意の、アメリカ軍人の頭が、モンローボボ Monroe’Venus だと、戦争中も、年中、常時、Big-Phallus 男根になる。

アメリカの駐留軍が、京都大学派、今西錦司、梅棹忠夫、和崎洋一さん得意な、民俗芸、名物のチンチン電車状態になる。
チンチン電車状態は、戦場にはふさわしくないと、「恋愛への憧れ」と、 「文民統制」、Control Military Big-Phallus-Tower のため、オードリー・ヘプバーンを起用した。

17)
サンケイ新聞電子版(7月4日)に、コオロギがいた。
「日本人の脳は、欧米はじめ、他民族と、違う」との、論理外の説を、東京医科歯科大の角田忠信さんが、1970年代言いはじめた。外国人には、コオロギの鳴き声などが持つ意味が、わからないと言ったのである。

この意味、風情がわかるのが、日本人の脳といい、「ほんまやろか、そうかも、しれへん」と、湯川秀樹先生は肯定させられてしまった。
とうじ、日仏、ドイツ会館、イタリア会館はじめ、欧米人が、身近にいた、京都大学周辺では、新たに来る人たちに、「コオロギの鳴き声」の認知といったとき、生活圏に鳴くコオロギがいない、欧米人は、コオロギが、欧米にもいる鳴かないバッタの事と理解するまで、何のことかわからなかった。

1949年ノーベル賞をもらった、湯川秀樹先生は、「40歳をすぎたとこで、あんな大きな賞をもらって、どうしはるんやろ、、、」と京大理学部教授に夫人たちに言われ、大学への講義に行くのも、苦痛の日々がはじまったという。
角田忠信説とやらで、1973年から、湯川秀樹先生は病床の日々となった。

なのに、この意味がわからない、山田忠男京都府教育委員長は、『創造の世界』掲載の角田忠信説を、同大だと30円だから、京大前、10円コピーで、いっぱいコピーし、自分で、ホッチキスで、閉じ、「これが研究です」と言い、配っていた。

掲載した責任者の、市川亀久弥博士など、マスコミ、似非学者、学生が嫌いだから、わたしには角田忠信説など、一切言わず、わたしと歩くときは、人通りが少ない、静かな道を、疲れられた表情で、ぽつり、ぽつりと話された。

角田忠信さん、あなたが、真理の説をだしておれば、専門外の湯川秀樹先生より、世界の大脳生理学者を納得させるまで、努力するのが常識ではないのか。ひとつの、「科学としての手の現象」の、わたしの学説ができたのは、1969年夏から秋である。

引越し先の東、男山の麓は、桂川、木津川、宇治川の三つの川が合わさり淀川となる。夏には夏鳥、秋には秋鳥が。
西は乙訓郡、大山崎の離宮八幡宮は、1969年度に風紀係となるまでは、勉強が嫌いな生徒にも、いちばん信頼された、津田彰先生宅が在った。
わたしの、読書の時間が、散歩の時間へと変化した。

角田忠信さん、あなたの説がなければ、わたしの、言動範囲は、そのままだった。
たとえば、事実として、中国の南部には、農耕作の才能に優れた、少数民族が居り、インドでは、東西南北にも、農耕作に優れた民族が居て、かれらは別の言語を、大きく20単位で、もっている。
これら民族の「大脳」の分析もしないで、学説になるのか。

京都には、中国、インド、アラビア、エジプト文字研究を、生涯の課題とされる、学者が、身近にいるところである。わたしの、この指摘で、角田忠信説は、検証が必要となった。

18)
「コオロギ」こと、綿貫民輔 (1927年 - )さんの、左手だが、綿貫さんは、慎重にしていながら、つい、身近な人物たちに優しくしてしまい、裏切られる人生の連続だったのかと思ってしまった。

わたしは、目先の10円という、表現を良くする。東京を中心に、バブルとやらの1980年代、踏み切りの、線路に、100円硬貨が落ちていても、拾わない時期があった。2002年以降、現在は、10円でも、人の心身が動く価値観の変化が来たようだ。

北陸と中部圏内を結ぶ、新しい道ができたようだが、これも、日本の他の、観光地と同じく、中国、台湾、韓国からの旅行者たちが、一、二度、利用して、終わりをつげるだろう。

京都のばあい、観光客が多いとなっている、清水寺では、2002年、03年の段階で、「客が、店に入って来ない」と、相談され、この現象の意味が、わからなかった。

集団をなす、観光客といっしょに歩き、広東語か、ハングル語かと思い、理由を告げた。
中国に比べると、日本は小さく、商いの仕方が、「のれん」といった、安く、軽いものなので、店先にある、紙を中心とした品物が、無料にみえるらしく、「みやげ物屋」の経営者たちが困っておられた。

綿貫民輔さんの、幼児の家庭環境だが、基本的に、ゆったりとした育たれており、20代、30代は、まったく、手のライン構成がちがっていたはずである。

現在の手の皮膚隆紋だが、アトピー性皮膚炎状態にみえる。これらは、洗濯や食器洗剤の使いすぎなのだろうか。
写真でだが、綿貫民輔さん手の動作は年齢より元気にみえる。が、じっさい、朝、起き上がるのに、手をついたとき、手首が折れるのではないかと感じる、とても辛い日々と思える。それぐらい、疲労の重なりがみえる。

綿貫民輔さんは、いまの政権を、「小泉流の直接統治型の政治
」「筆頭格は中川秀直
元自民党幹事長なんだろう」と言われている。批難されている中川秀直さんも、顔の表情から、同類の手のラインだが、「一」」に「1」を加えると「十」」の形になり、「二」に「1」を加えると、「土」のような形になる。

中川秀直さんの、手だが、国会など、答弁での発声言語を、分析するかぎり、ヨコの「三」に、タテの「川」を加えると、「田」の形になるように、個性というか、人格、才能とも、まったく違う。
中川秀直さんは、綿貫民輔さんより、格段、慎重に、着実に、物事をすすめようとされる。

写真雑誌に、ヤクザと居るところを撮られたらしいが、このときの「S会」は、この写真雑誌の発行元、新潮社が、1960年代〜80年代、いちばん利用した、類似の組織ではないのか。
わたしは、「日販」の重役、高橋五郎さんに、1985年秋、いま、どこですか?と聞いたとき、高橋五郎さんは、即座、「S連合」と返事してくださった。

GHQアメリカによって、敗戦後の日本は、町や村を中心にした、ゆるやかな警察社会が、壊された。戦前からの人で、1970代から、東京の町で、公安の仕事の役割をしている人に、現在(1980年代)の取り締まりは、戦前どころではありませんと教えられた。

悪い外国人と悪い日本人による、犯罪、このような不正が多くなった社会に、日本の本来の警察、町や村からの青年による、他者がわかる警官がいなければ、社会がつぶれ、会社も潰れる。

19)
大不況で、
日常生活にも、ヤクザ組織をみるようになった。この弊害を、取り除こうとしている途中が、いまの日本社会なのだろうが。

朝日新聞などの、電子版にあった、バラック・オバマ(Barack Obama)氏、オバマ氏の右手と左手だが、オバマ氏はじめ、欧米の政治家には、なぜ、こうも、確固とした、社会が、世間=国家が、あるのだろうかと思ってしまった。

日本でも、1930年代の大不況のときの政治家たちの手は、オバマ氏に似た人が多かった。
が、1970年安保反対運動のあと、表舞台から、消えて行ってしまった。

ふつうの手相診断の人に、オバマ氏の手のラインと、日本の第90代総理の安倍晋三さんの手のラインと比較してもらったらどうだろうか。

舞台で言う、「素(す)」だが、素が開いてからの、オバマ氏と、安倍晋三さんの、反応である。
国家を背負った人物どうしとして、どのような言語表現を、されてゆくだろうか。作家の大江健三郎さんも、このラインだが、構図が違う。

アメリカの計算では、この不況を、乗り切るのは、難しく、騙そうとおもっていても、日本自体が貧乏なので、兌換価値のあるものに、成らないとの、考えもあるだろう。

オバマ氏が、失敗したように取れたとき、「やはり、有色人種には、、、」との判断になるだろう。

第一次世界大戦の発端となり、指示を出したといわれる、ドイツ皇帝で、プロイセン王の「ヴィルヘルム2世 Wilhelm II」は、残っている資料が正しければ、
綿貫民輔、石原慎太郎、ブレア Tony Blair 英首相、系統と同じである。

プロイセン王の「ヴィルヘルム2世 Wilhelm II」と、同じ系列の言動をとる、クリントン Bill Clinton、42nd Presidentは、
「ぼくは、最初から、オバマ氏、君が大統領になるべきと、妻に言っていたんだ。妻ヒラリーも、そう思ったりすると、返事していたこともあったんだ」の、セリフが、用意されているのだろう。

より自由で、より平等な、新しい世界への改革へ、オバマ氏は、ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)、ミハイル・ゴルバチョフ(MikhailGorbachev)さんたち、思考の時間をとり、考えられる方々と、思想のちがいとかで、戦争にあけくれた歴史の本質は、なんなのかを、ともに学問する会談を、公開してくれることが、われわれ市民にとって、一番、安心できることではないかと思う。

武器商売の、戦争を求めるなら、いっそ、非常にしっかりした、ブッシュ大統領に、日本からの希望として、あと、4年大統領をして欲しいと言い、これが、アメリカで通ると、ブッシュ氏は、日本に拉致して欲しいと、願うかもしれないが。

ブッシュ大統領への批判が、アメリカ国内でも、でてきたというが、このブッシュ大統領の手のライン、皮膚隆紋をみるかぎり、自国への利益誘導を優先する、そのための帝国主義国家を代表する、アメリカの大統領というものを、よく理解しているといえる。

アメリカの政治家でなく、豊かな国での、一個人であれば、皮膚隆紋も、日本でいえば明治時代人であり、明確であり、極めて中立な人格をもっている。

世界の覇権を握る国家の大統領は、ここまで、自国では、非常に中立に働こうとし、本来、寡黙が好きなのに、雄弁になれる、政治の指導者が居る国、それが、アメリカであると思ってしまう。

エリートであり、本来、混乱を嫌う、ブッシュ親子の悲劇は、アメリカが、救えない、大不況へ、突入したということだけによる。しかし、このことは、第二次世界大戦への道をたどった、アメリカの政治家の配置と似ている。

20)
アメリカは、1998年の段階で、不況に入った。日本のマスメディアは、この事実を、しっかり伝えるべきだった。

このとき、アメリカが正しければ、わたしの血縁、NHKの解説委員主幹、「長谷川浩」(東大法OB。出自、桑名藩、没55歳)も殺されることはなかった。
遺伝形質だが、長谷川浩の眉は、わたしの兄の眉毛と同じ、前田の眉である。

似非共産主義者の鶴見俊輔、日高六郎、小田実たちの活動で、日本の、治安、公安状態が変わった。

わたしのイエでの法要後、だったとおもうが、新聞で、町村金五、渋谷直蔵後藤田正晴さんなど、「旧内務省」経歴の表面だけをみて、
後藤田正晴って言う人、おじいちゃんと、似ているのか、、、」の、わたしのうっかりした言葉に、「このような人と、お父さんと比べて、、、」と、ひどい剣幕での、叱責があった。 


1970年代、母は、仕事での関係から、三木武夫派の、「北川石松」さんを応援していた。
議員なんかならないと言って、国会議員におさまった、ウソつき後藤田正晴さんの出自は、後藤田さん自身担当した、公安の日本人が調べたようだ。


NHKにわたしの血縁は、もうひとりふたり居るだろうが、「長谷川浩」が、”Co-Incide NY9.11(2001)”、に気づいたのは、わたしの両親同様、銀行勤務の、犠牲者が、テロップに、映し出されたからだ。冨士、東海、住友、東京銀行など、、、。
長谷川浩およびNHKメンバーは、当日、遅れて出社し、無事だった「ゴールドマンサックス」への疑問だったが、わたしと、当日、NYの、その場所にいたイトコとの会話は、リストラをしたくって、犠牲者を出した、アメリカの別の会社を問題にした。

21)
母たちは、被害ばかりに合う家系だと、長谷川を、家系から外したので、社会正義のための犠牲がなぜ悪いと、わたしが戻すといった。が、嫁ぎに来た、いまの世代には、正しさを主張する、血統が理解できず、恐がっていると言うので、自由にすれば良いといった。

2008年6月、わたしは、母に、「伊藤博文」たちは、欧米から資金をもらった、スパイにすぎない。が、
「この二人は、両親が同じで、兄弟だ。日露戦争が仕掛けられたものと、父親から教えられた、おじいちゃんが、額田郡岡崎町を本籍と居場所にしていると、東海道本線のとおり道になり、岡崎の前田のイエだと、危ないので、代々の桑名へ、本籍を、移させ、面倒をみたんだ」と説明した。

同志社大を辞した、30歳ぐらいの子供、古田佑紀(1942年 - )最高裁、裁判官さん、わたしの論文を持って逃げた川島秀一さんの子分、第17代総長大谷實さんが、困っているのに、助けてあげたらどうなのだ。

極道の、「西田美昭」、「八木貴美子」裁判官たち、わたしの両親でさえわからない、家系を、わたしが調べている途中だと主張しているのに、誰でもわかって、誰でもできるの判決をだした。これが三年半かけた下級審の判決か。

ひい爺さんの、六三郎は、跡継ぎを、長男の司法省裁判官だと、町を平等にできないと判断し、三男の前田正にした。祖父、前田正は、23歳のとき、第一次世界大戦、橋梁設計の出兵との勅命で、跡継ぎを、13歳の甥へ託した。
世の中は、金と地位だと、ぴょこぴょこ、ぐぐぐぐ、ぐーい、の「古田佑紀」最高裁、裁判官、年齢を自覚されたらどうだ。

だれでも、血縁の死、自分の子供の死には、敏感である。NHKの「海老沢勝二」さん、ヌメヌメぴっかり頭で、頭突きをした、ブッシュに似た、実行、指揮犯の、NHKの光井正人(京大、法OB)さん、どう感じられる。

22)
日本のマスコミには、正しさがないのだろうかと思った、ひとつに、2002年9月9日午前3時の、大阪、「中座」火災がある。ふつう、法善寺横町の火事で、通じる。
読売新聞に、火災の原因は、「西原衛生工業所」の、工事現場見回り、不十分と出た。

1982年か83年の冬、京都市中、大凍結、水道管破裂があった。
偉い京都市水道局に命令され、「天皇家御用達」の西原衛生は、京都市全域、無償工事で、経営が傾く、という論述はなかった。

父は、困った風に、食堂のテーブルの付近を歩いている。
父が「1977年、肺ガン」と宣告されたとき喜んだ母は、「宣伝、宣伝」と手をたたき、赤のラインを引いている。
朝日新聞などにはない。

業界の子供というのか、わたしは記事を読み、「これ、大阪ガスの、内部犯行」と言うと、「、、、そうや」と、父は元気がない。
母は、「でも、宣伝」と言うので、「地味に働く会社に、士気がなくなる。倒産する」と、言うと。父はうなずいた。
二週間後、「五千万円がありません」と言う、通知が来た。
いつもと違い、1955年ごろの、役場みたいな封筒だった。

わたしは、「(会社経営者には)一億は、金ではない」と育った。五千万円が無いというのは、暗喩、符丁で、危機を乗り越える、人材が居ないという意味だった。
弟だった、大阪本社は倒産し、翌日、東京の兄会社から、人材が入った。

読売新聞は、わたしのイエだけでも、複数とっている。
このとき、血縁、級友に連絡し、どこの人間かわからないと言われている、右欲、左欲の「渡邉恒雄」へ抗議、全社員「読売新聞」の購読を中止、合計50万、100万人単位が、購読中止を呼びかければ、読売新聞社は、実際に、倒産するので、やろうかと思った。

「欲欲」の渡邉恒雄と同級生の、氏家齊一郎さん、1990年代終り、貴殿の、日本テレビ社員が、著作権侵害箇所を列挙せよというので、7日ほどかけて、書き上げた。返事は、どうなっている?
渡邉恒雄さんとやら、「読売のINA組」を使うか。あなたは、どこの人間だ。読売新聞社をつぶす気なのか。

23)
「三島由紀夫」が、一日で、表現できたことが、一生かかっても、明確に表現できない、口やかましい、両親にそだった、卑猥な、骨格は南方系、眼は北方系の、大江健三郎さん。日本は、タテ社会か?悪のヨコ社会だろう。
公立の動物園のトラの飼育の仕方、エサをとっても、これだけの違いがある。まして仕掛けられた戦争で、混乱期の、軍隊の司令など、さまざまと考えるのが常識ではないのか。

自衛隊は違憲であり、現状のまま、海外派遣は、問題がある。まず、自衛隊員の意見をきき、「機動隊」の別の形をつくり、絶えず「国際連合」と情報をやり取りし、アフリカはじめ、南アメリカで、紛争など、問題があるとしたら、徹底して文民での、平和組織であることを、明確にさせておくことだ。

関西の、安保闘争は遅く、1968年12月に、京都大学からはじまった。同志社に、大江健三郎さんと知己の「鶴見俊輔」さんという、欲だらけが居て、「アメリカ人に平和の心を!」だとわかるのに、「ベトナムに平和を!」とやった。

多感な18歳、19歳の、京大や同志社の学生たちへ、鶴見俊輔さんは、
「野蛮な日本軍国主義。太平洋戦争で、日本人自身により、殺され苦しんだ人が、数え切れなくいる。天皇の御所がちかい、同志社の学生、京大生も同じですが、、、」と言って、アホな同大生の心をくすぐり、
「諸君は、平和ボケの中にいる。南京大虐殺、これはひどいんです。知人から聞いたのですが、目の前で、一人の女性が、野蛮な兵隊に犯され殺された。、、、この女性は世界平和という大きな希望をもっていた。世界には平和主義者が40万人は、絶対います。ですから、南京大虐殺は40万人なのです。これがわからないので、ぼくは、諸君が、平和ボケの中に、居るというのです」と、若い学生の知性を、全面否定する。

この日本軍人、日本人否定の、歪んだ論理のまま、
「戦争体験のない諸君たちには、わからないでしょうが、ぼくは、経験者です。南方の戦場で、欧米の捕虜を、銃で殺す日本兵がいました。この欧米人と、わたしは、会話をした。かれは、欧米も日本人もない、戦争に参加している軍人500万人、すべてを救いたい、平和を願う、と言ったのです。その彼を殺した。ですから、日本兵は平和を願う、500万人殺したのと同じです」とやる。この中に「鶴見俊輔」はいない。
わたしの父(1926年ー)、より4歳上の、鶴見俊輔(1922年 - )さん、あなたは、何故、生還できたのか。

さんざんアジって、KGBロシアと、CIAアメリカの手先で、何人かわからない、鶴見祐輔の子の鶴見俊輔さんは、同志社大学を辞めた。鶴見俊輔さん、わたしだと、その日本兵の銃を奪う。しかし、本当の話なのか。祖父の士族でもなく、半年ほど看護の本をよんで、医師とやらの、何人かわからない「後藤新平」が、自慢らしい。

わたしの祖父たちは、掛りでは、関東大震災復興局で、この、水沢の大風呂敷のホラ吹きと言われた、後藤新平の下になる。が、わたしの一族で、後藤新平の話など、でたことはない。

24)
このあとも、鶴見俊輔さんの、外からのヤジで、機動隊と警察官の区別がつかない、地方からの学生たち、同志社、布哇(ハワイ)寮の学生は1974年度生までで、80%が、凶器準備罪により、長い拘置所暮らしとなった。同志社の北にある寮は30%。岩倉の大成寮の学生も拘置所へ行った。

このとき学生が用意していたのは、杉の木の角棒。薬屋で売っている、薬品だった。この論理だと、材木屋に薬屋は、凶器準備罪で、全部閉店だ。

同志社の学生寮の、かれらは、黙って、自分たちの行動は、自分たちでした、と反省し、「琉球返還」「日本帝国主義反対」の信念をかえず、手や足に体を、切断をふくめ、傷つけられ、拘置所での生活をつづけた。
もう、かれらに、60歳という年齢を過ぎた、人たちがいる。

2006年秋、京都で、「戦後すぐ、神戸に上陸し、大和人(ヤマトンチュー)をつぎつぎ、殺してきました」と言う、琉球列島からの、70歳代後半、男性の自己紹介の言葉に、驚いたが、「あら、よくやったわねー」と、誉める、新聞に、ときどき出るとかの、高齢の女性の言葉に、おどろかされた。
普通の日本女性(ヤマトンチュー)を犯すのも、琉球列島からの出身者の、成果らしい。

同様なのは、ブッシュ大統領と、似た手のラインの、日高六郎さんで、胸元から、講演依頼の、赤い消印だらけの速達封筒を出し、「父は、外務省勤務でした」「外務省は、日本政府の言いなりでないと、出世できない」が売りの文言の輩である。
1985年の段階で、共産党系の書店から、著者リストから、外れてしまいましたが、わたしが、日高さんを省くなってと言ったのです、と言われて、ぺこぺこ、していたのが日高六郎さんだった。

この「速達、赤消印」手品師の手法は、手のラインでは、日高六郎さんと同じ分類になる、作家の、野間宏さんも同様だった。

似非共産主義者、ゴロツキ悪党の日高六郎さん。旧華族、上級士族出自で、出世しないで、黙ったまま、日本国と相手国につくす、人たちがどれほどいたか、調べてから、発言しなさい。
また、「1933年に京大、滝川事件での思想弾圧、1935年の天皇機関説による美濃部達吉教授追放」とやる。日高六郎さん、これらは、あなたの、汚ならしい歯を、口を、喉を、胃を、歯磨き粉で磨き、洗剤や水で、よく洗ってから、末川博先生が生存中に言いなさい。

日高六郎さん、あなたもだが、美濃部達吉さんの両親は、日本人なのか?江戸時代、「美濃部」姓など、高砂市荒井になかったと聞いている。
熱海海岸を散歩したのは、貫一と、お宮だが、熱海の海岸、海中に、実家があったという人物が、存在するのか。

25)
ここへ、アメリカの計画どおり、日本、イタリアも、連合国側へ参戦して行った。これにより、日本は、世界でも、例のない、民間人、大量虐殺にあった。

わたしには、ドイツが作り上げた、文化を壊す、選択をした、ヴィルヘルム2世を、誰が、政治の舞台に登場させたのか、疑問が長くある。

第一世界大戦での、アメリカとロシアを中心とした、計画的戦争で、西洋の文化都市は戦場となった。
ドイツ圏から、オスマントルコなど広大な同盟国に対して、同盟国をはさんだ、東西国家となる、イギリス、フランス、ロシアが、連合国となった。

敗戦後、ドイツでは、市民主導の共和国、1920年代に「ヴァイマール共和国」をつくる。
が、これは、アメリカにとって、社会主義が氾濫して、ドイツとロシアが、合体したら、アメリカ国民が、より自由を求め、革命が起き、アメリカが分裂すると気づき、ヴァイマール共和国を、内部分裂、崩壊させることにした。

非常に不愉快になる人物の手のラインが、イタリアの新聞にあった。閉鎖された社会では、芝居をこえた芝居ができ、自分自身、パラノイア絶頂の境地になれる人である。権威、権力をもてば、最強のようにみえる。

「天正遣欧少年使節」の 「千々石ミゲル」風といえば、夢をかんじる。が、高齢にして、両生類が、悪党の印の、白ターバンを、巻いたのかと思わせる、奇想天外な洋装が好みのようだ。

”Corriere della Sera” mercoledi 25 giugno 2008 に、手の写真がのっていた。平和を求める、人類の敵という手をしている。若いときは、ヒトラーユーゲントだったそうだ。

わたしだと、抗議のまえに、沈黙して、去る。が、わたしの啓光学園時代の恩師、サンチェス神父、ブルネット神父は、こんなのと、バチカンでの、議論、抗議し、神父職を辞められたのかと思い、正しかったのではと感じさせる。
アンドレ・ ジイド((Andre  Gide,)の、手のライン、皮膚隆紋とまったくちがい、「法王庁の抜け穴 Vatican faille 」の精神の対極にある人物だ。
世界のカトリック教徒、たまには、インドからの「仏教」に、信仰変えしたらどうだろう。

アメリカの実情だが、自称白人種、自称ユダヤ系直系は、アメリカへ侵略してから、10数代、ずっと、血族を守っている。これは、イギリスなども同じである。
結婚の不自由さから、同性愛へとゆく人たちもいる。

夫婦愛を大切にする、アメリカだが、2008年3月11日、プリンストン大学 Princeton にハーバード大学 Harvard でも、「お勉強」した、現職のスピッツァー Eliot Spitzer (1959ー) ニューヨーク州知事が、一回、10万円〜50万円、高級売春クラブの人と、やって、さらに、売春クラブへ、不正送金(マネーロンダリング)をしたとかで、問題となった。
会員番号9番 "Client 9" 、ホテル・メイフラワーの871号 「Renaissance Mayflower HotelーRoom 871」。

米連邦捜査局(FBI)が、スピッツァー Eliot Spitzer を、計画的に、逮捕したと言い、アメリカ紙は、知事の夫人を、スターのように撮っていたことから、はじめ、これは、第2の、ウォーターゲート事件(Watergate Scandal 1972年)かと思ったら、違った。

「高級売春婦」の定義は、何だろうと思っていたら、歌手希望の「Eliot Spitzer Call Girl 」と呼ばれるようになった女性とのことだ。

売春婦に800万円以上使った、スピッツァーは、「第一に、家族へ謝罪する、次に、市民へ謝罪する」と弁明した。

大不況の、ドイツのメディアは、「また老人のユダヤだ!!」、50歳がくる、アメリカの知事は、「ユダヤ系オーストリア人夫妻」の間に生まれ、妻と三人娘に、年老いた、父さんの、あれ、Middle-Phallus がすべて悪いと謝り、哀れな老女のように知事夫人を、映していたので、これは芝居なんだと思った。

「ユダヤ人」の成立は、当人がユダヤ人といい、周囲が「あの人、ユダヤ人らしい」と言ったとき成立する。それだけなのかと言われると、わたしの人種学(人類学)では、それだけである。

このように「ユダヤだ!!」と書く、純粋のゲルマン人だと思っているドイツ人を、遺伝子レベルで検査すると、ユダヤ人になる。
現状は、失業率が高く、大不況下、ドイツは違法だった売春を、2002年、政府公認とした。
ベルリンの「HYDRA」(ヒドラ)という「売春労働団体」の歴史は1980年から。「売春宿」(Bordell Eroscenter )は、Berlin 、Bonn、Koln、Leipzig、Frankfurtなどの都市に、合計、万単位あり、「セックス税」が加算され、政府へ行く。

性の開放は、1970年まえ、スウェーデンからだが、ストリートガールを公認し、公安警察から、買春をした家族のいる男子へ、通告がゆくことから、社会活動が成立しにくいとの理由で、1999年に、売春は、人身売買に通じ、 犯罪であるとした。が、この方策も、買春を地下の犯罪組織化へもってゆく、必然とした、危険性がある。

2008年、北京オリンピックのことで、中国が、ハンセン病患者を、入国させないことへの、国際非難があり、中国は、自国は、ハンセン病など、理解がおくれていると報道した。

が、1930年代をとれば、日本の医学者たちは、中国は、ハンセン病患者、身障者への差別などない、日本は、なぜあるのだろうか、と論文に記載していた。

これは、江戸時代をとれば、日本は、遊郭の存在、江戸での銭湯、遊郭の存在、ハンセン病を患者として隔離しない、衛生観念のなさ、障害者の放置は、安心した社会への優生学の考え方がないと、欧米から、強く指摘され、欧米方式を真似た。

26)
欧米の思想にふりまわさせられすぎの、日本という国のマスコミは、どうなっているのかと、つくづく思う。

1990年代、旧ビルのとき、保証金が億単位で、一階の賃貸は、1100万円と聞いていた、ビルに事務所がある、伊吹文明幹事長が、7月5日、33度以上の暑い京都で、
「北朝鮮とは、拉致被害者の再調査してはっきりと分かるまで、経済制裁を緩和してはいけない」「北朝鮮が、(援助を)頼るのは日本です。いまの、主権が侵されたまま、皆様からの、大切な税金を、差し上げることは、決して、できません」と路上演説をされた。
先週は、
「大統領選挙が、近づくと、必ず、こういうことが起こる。クリントン政権も、オルブライト長官を、派遣し、仲直りしようとしたが、うまくいかなかった」と事実を指摘され、「自民党の中で、副総裁をやった人と、そのとき、幹事長として仕えた人が、お互いに言い合いなんかしちゃだめ。一致協力してやるんです」
と述べられた。

6月下旬は、マスコミ勤務のとき、著作権の考えがまったくなく、批判された、「田原総一朗」さんとの対談番組の一部が、インターネットで流れていた。どこまでの脚本か、わからないけれど、 
「平成の埋蔵金なんて話、、、」を、田原さんが質問すると、伊吹さんは、
「いやあ、はあ、ははっ(、、、中学も、高校も、勉強さぼったバカ男)」と遠慮ぶかく、頭を少しさげ、お辞儀をし、笑む。
「ありましてね」と司会者はいいながら、つづけて、「伊吹さん、何兆ぐらい取れると思う?」と、失礼な口調で質問をする。

「ウーゥ、ウッ、、、(しまった。この顔を、まともに見た。、、、衆議院、食堂で食べた、カツ丼、吐きそう、、、)」、伊吹幹事長は、声を少し、つまらせ、 「例えば、、、(君、これ自民党からの、1000万の現金、いる?)」というと、
「うん、うん(伊吹先生、それは、この番組が終わってから、、、)うん、うん」と田原総一朗さん。

「外国為替」と伊吹さんが、それに、「うん、、」「うん、、」と田原さん。

「資金特別会計などは、、」
と伊吹さんが言うと、「うん、、」「うん、、」が田原さんで、
「市場の状況、、、(ウチの会社も、「からすま京都ホテル」の、コーヒー屋も、調子が悪い、らしいし、、、)を、見極めてやらないといませんからね」と伊吹さんが言うと、ああっ」「うん、、」「うん、、」が田原さん。

「まあ、10、10兆円から15兆円ぐらい(を、造幣局で印刷して。足りないときは、大日本と凸版で、30兆円印刷すれば、わたくし、伊吹文明は、「何罪」に、なるのでしょうか、、、)」とゆっくり、伊吹さんが言うと、
「15兆ぐらいは、取れる」と田原さんは、上限を取る。
「ぐらいでしょうかね。ふ、篩(ふるい)にかければ、、、。消費税の引き上げの前、に議員定数の削減、、、(それより前に、こんな、妖怪。田原のような司会者の番組、すべて溶解、削減、終了)でしょうかね」と伊吹文明さんは、言われていたような気がする。


2008年5月23日の出来事で、「鳩山邦夫」法相が奇妙な縫いぐるみをきている。「サイバンインコ」(裁判員+インコ)だそうだが、わたしには、この意味が、わからなかった。

わかるのは、「鳩山邦夫、先生、裁判制度のPRのため、よろしく、お願いします」類のメモ等が、秘書から見せられ、鳩山邦夫法相が、自分自身の子供の世代になる、スタッフの人たちの、甘えと、頼りなさを、考え、縫いぐるみを、着たのだろう。
社会問題への端緒は、朝日新聞、6月18日、夕刊のコラム「素粒子」だった。「永世死刑執行人 鳩山法相。「自信と責任」に胸を張り、2 カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」と表現した。

これへの抗議だが、鳩山邦夫(1948年 - )法務大臣は、自分自身のことではない、「被害者たち」の心身のことにあると、代弁された。

鳩山邦夫(1948年 - )法相へのインタビューが、新聞に特集されている。「刑場は見に行った」(2008年7月4日、毎日新聞、夕刊「特集ワイド」)で記者が、作品『冷血』の小説家、トルーマン・カポーティは、小説のモデルの男が、死刑されたのを見てから、アルコール中毒になり、作品が書けなくなったが、「大臣は執行後に何もないですか?」、鳩山法相自身「地獄に落ちるかもと?」と言ったようだ。

この記者は、カポーティに文才があると思っているようだが。カポーティ(Truman Capote)は、好く書ける、記者の文章レベルまでもない。元から書けなかった人だ。

鳩山法務大臣が、「失礼だな。私は地獄に落ちると思っていない。死刑囚は普通天国にいかず、地獄に落ちるでしょうから(死刑囚を)導いてくれ、ということ。私自身のことじゃない」と答えられている。
読者を不愉快にさせるのも文章術のひとつといえるが、これは、大手メディアとして、いまの大不況下、良識を逸脱している。

27)
2008年2月19日午前4時7分ごろ、千葉県、野島崎、南、約42kmで、イージス艦「あたご」は、勝浦市の、漁船「清徳丸」と衝突し、親子を、スクリューにまきこんだ。仮に、親子の体重が、一人、60キロとして、二人分合計120キロで、10キロからの血液が海面に流れる。スクリューで刻まれた120キロ分、これら肉片の量。

勝浦の漁船群たちに、血で染まった、証拠を見られるのを懸念して、座礁、衝突のようにみせかけ、スクリューが巻き込んだものを散らすため、後進したのだろう。

2月19日は、晴れである。しかも、北半球では、『冬の大三角形』と呼ばれる、オリオン座、おおいぬ座、こいぬ座が在り、一年で、いちばん星座が輝く、時季である。そして、「月齢(げつれい)」である。
北半球の、天球には、満月に近い、月が、水平線あたりに、残っていたのではないか。この月の光は、波間へ反射してゆく。
京都は満月に近かった。京都より、朝が早い、関東、千葉県沖合いは、三日月だったのか?

さらに、東からの、朝をしらせる、空や波をとおし、「輻射光」が入ってきて、自衛隊の、赤外線、双眼鏡では、漁船「清徳丸」など、2キロまえ、かんたんに、認知できる。

このことだが、1967年わたしは、東京、箱根と、修学旅行で、行った。同じ夏、兄が友人と、芦ノ湖で泳いでいるとき、モーターボートが、一人の男性遊泳客を、スクリューに巻き込んだ。芦ノ湖のため、血は漂って、なかなか消えなかったという。
なぜ、正直に、言えないのだ。
海上自衛隊員の気のゆるみは、もうすぐ、横須賀基地で、横浜へ遊びにゆける、という事からだろう。


28)
わたしたちの世代、「筑波大学」、「防衛大学」は、良く似た意味をもち、極楽な身分をもらえると理解した。

また、1972年度からの、自治省(総務省)が設置の「自治医科大学」(栃木県下野市)は、全寮制で、「9年間地域医療」僻地、辺地医療を義務にする、これで、無医村は無くなると、1969年ごろ、わたしたちは、聞いた。

医療従事者の金は、すべて、まじめに労働をするだけの、労働者の、汗と命の引き換えだった。

マデレーン・オルブライト(Madeleine Albright)の出身校、ジョンズ・ホプキンス大学(Johns Hopkins Univ.)からだったと、記憶するが、1980年代、「タイプA」「タイプB」という分類が、流行った。緊張方型、非緊張型の分類だったと記憶する。
これを、日本のマスコミで、O型がないのに、アメリカでも、血液型と性格がさかんと報道するところがあった。

アメリカの医学の考え方の典型として、日本に消費税がなじまないとして、廃止されたころだったと思うが、遺伝学の雑誌に、「犬猫(ドッグ・キャット)発見」というのがあった。しかし、どうも、猫なので、この尻尾がないのは、日本人が残酷だからと考えた。
飼っているのが、東京では、芸者が多いことから、芸者の引きずって歩く着物の生活には、尻尾のある猫は、不潔なので、残酷な芸者が、ハサミで、猫の尻尾を切っている、と報告した。
このあと、どうもこれは、遺伝とわかり、「ボブテイル (Bobtail)」と命名し、アメリカ様の発見となった。

日本の人類学は、KGB&CIAのスパイ、旧制一中は勉強ができず、旧制三高は授業なし、同じく、京都帝国大のときも、授業なしで、勉強を知らない、国立民族学博物館の「梅棹忠夫」などにより、本来の人類学の構築が不可能になった。人類学には、「社会の治安、平和」の領域があり、「梅棹忠夫」のような犯罪者を、識別できる学問だった。

が、悪党、梅棹忠夫を中心に、文化が大事とかで、「京都のチンチン電車」「花電車万歳!」の文化人類学という、雑貨屋の集団、数年先は、ゴミの、小学生の、絵日記以下の、生活発表会が、学会とやらに、なった。

靴下も満足に履けない、パンツは秘書に履かせてもらっている、還暦をすぎて、前髪を目元まで、ペタッとのばした梅棹忠夫さんとやら。わたしに、「横顔」を見せたのが、致命的だったのだ。親の代で、伯爵位を売った、和崎洋一さんとやらもだ。

日本は、欧米GHQにより、計画された、1894年(明治27年)の日清戦争、1910年韓国併合へ、持ってゆかされた。これらにより、日本人と、悪い中国、台湾、韓国(朝鮮半島)の人間が、混ざってしまった。

29)
「APF通信社」の契約社員、長井健司(50歳)さん殺害事件だが、長井健司さんは、パレスチナ、アフガンなど戦場を取材された方で、タイから、2007年9月25日ミャンマーへ行った。27日午後、ミャンマーの都市ヤンゴンは、静か、と報告した。

わたしには、ミャンマーの言葉、ビルマ語がまったくわからない。
まじめな仏教徒が多く、国家としては、比較的落ち着いていたのに、日本でいえば、1969年の東京や京都の学生運動ように、デモ騒動がおきた。軍部は治安のため、政権の主導権をとった。9月27日の、軍部による、デモ鎮圧で、9人が死亡、11人が負傷したという。
長井健司さんの悲劇だが、長井健司さんは、背中の方(後方)から、撃たれている。

分析すると、長井健司さんは、軍部の兵士の、散弾銃のように銃弾が広がる、小銃の銃口を、左腰のベルトの位置に差し込まれ、突き上げられるように撃たれた。内臓は破裂する。

路上へ、正面のまま倒れた、長井健司さんは、しばらくして、仰向き、右手でのカメラを
まわしていた。
最重要の、留意点だが、長井健司さんが、スリッパ着用という点である。
だれが、スリッパを履き、危険地域へ、背中を向けて走り、取材をするのだ。
長井健司さんは、デモ側ではなく、安全というミャンマーの
軍部側からの、取材をしていた。

長井健司さんが持っていたビデオカメラには、軍部の人との、雑談がうつり、「
あの、お姫さま、外国で、牛肉の味をおぼえ、このあいだ、太ったから、ダイエット用の器械、運んだんだよ」の笑い顔がはいっていた。
そのため、長井健司さん殺害現場を、偶然、写したという人が、必然、用意された。

非暴力、民主化運動の指導者という、お姫さま。あなたは偉い。

自民党、伊吹文明幹事長が、「大統領選挙が、近づくと、必ず、こういうことが起こる」と言われたように、理解しにくい事件が連続しておきたのが、1985年の日本である。

このとき、京都に「アウンサンスーチー」さんが、京大、東南アジア研究センターへ客員教授としてきている。
東南アジア、タイやビルマ研究で知られる、「矢野暢」さんが教授のときである。
矢野暢さんは、祇園、花見小路にあった、高級クラブ、『アン』へ、京セラ、稲盛和夫さんと行かれた人だ。

なにか知らないけど、八幡市にある、「円福寺」の托鉢僧は、「三途の川は、あんな人の、ためにあります」と言った。
むかし、わたしの妻が下宿していた叔父は、「東南アジア研究センター」となった、左京区吉田の「京都織物会社」へ勤務していた。倒産は1977年だっただろうか。

同じ1977年、中京区、室町、「鯉山町」を出自とする、兄の義理父のイエが、町衆にあわせ、鯉山を引き払うというので、「最後の、お披露目」に、来て欲しいというので、鯉山へ行った。
1971年は、稚児さんが乗っていて、生粽(なまの、ちまき)を投げていた、「菊水鉾」と「月鉾」の町にも、わたしの同窓がいて、1977年は、「もう、やっていかれへんから(経営、生活ができないから)」という時期だった。

わたしが、それぞれの町の人に聞いたのは、「京都、1960年代、ゴミ出ていました?」だった。
「あっ、そや、出てへんかった」「庭で、カンカンで、燃やして、燃えへんもん、小さして、埋めてた」「ゴミ箱なかった。なんで、こうなったんやろ」と、どの町の人たちも言った。

京都市の明りが、いま、ずいぶん暗くなったと思える2008年の、三分の一ぐらいのときで、どうにか、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』が、味わえるころだった。

30)
1985年の豊田商事事件だが、「デンソー」(トヨタグループで、旧・日本電装)へ中学を卒業し、集団就職をした、永野一男さんが、悪徳商法と言われる「豊田商事」をつくった。1985年6月18日、MBS(毎日放送)へ、各社より、先発の、「今日、逮捕」という連絡があった。それで、MBSのカメラクルーが、自称右翼の男二人のあとにつき、部屋へ入った。このとき、恐いといわれていた永野一男の部屋、怖ろしい犯人者たち二人のあと、勇気があったのか、部屋へ入って行けたのは、MBSだけである。

TBS(東京放送)の報道へは、昼すぎからの連絡。上司からの、命令は、とにかく、時計をカウントして、18時、丁度に、「MBS」配信のボタンを押せ、というものだった。
ボタンを押したのは、同志社の哲学、片山寿昭ゼミ出身者だった。
この、計画された、ニュース原稿を、12月のトナカイでもないのに、鼻を赤くして、懸命に読むことができたのが、いま、大阪市長の同志社出身、平松邦夫さんだ。

平松邦夫さん、良い人柄とは、分かる。天王寺動物園の、市役所勤務の人たちも、良い人と言っていた。そういうので、空いている、檻があったら、日曜日だけでも、平松市長、入れたら、見物客が増え、財政が救えると、わたしは言った。

人脈のからみが不明となった永野一男さん殺害事件のあと、1985年8月12日は、グリコ森永事件、「くいものの会社いびるのもうやめや」と、1984年3月18日、「江崎グリコ」の江崎勝久社長、誘拐事件を発端に、ハウス食品工業、不二家、ジャスコ(イオン)など、食品メーカーへの脅迫がつづいた、「かい人21面相」が終結宣言をする。

日本航空を民営化への、同じ、1985年8月12日、日本航空123便
墜落。相模湾の上空、7000mへ、上昇中。
伊豆半島、下田、東の海、東経139゜06’北緯 34゜44’ぐらい、1000メートルぐらい低空からの、戦闘機二機が、日航123便の速度にあわせ、上昇し、左翼がわに付く。
機内にセットされた「時限発火、起爆装置」が、爆発。

「高浜雅己」機長は、同僚たちと、仕事継続での、注意を相談していたが、東京航空交通管制との、緊急の会話で、じっさいに驚きながら、機長は、羽田へ戻ると言い、羽田へは遠くなる「右回り(右旋回)」をする。

左回り
の進行だと「海」になり、場所、救助法がわかり、生存者も多く、証拠が残る。それで、左旋回と言いながら、右旋回にあたる山の方へ、とらせた。
某国の戦闘機二機、誘導。墜落時、乗客の30パーセント以上。アメリカにも知られる、歌手の一人も、生存。
123便が墜落し、火をふいたので、某国の特殊部隊、それらの明りをもとに、ヘリ、落下傘で降り、飛行機用の油を乗客にかけ、証拠隠滅。

理解しにくいだろうが、1985年8月13日 「三光汽船」倒産。オーナーだった、反・中曽根康弘氏の、三木武夫派「河本敏夫」国務相が辞任された。

つぎは理解しやすい、1985年8月15日 「ロン・ヤス」関係の「中曽根康弘」首相、靖国神社へ公式参拝。官房長官は後藤田正晴。防衛庁防衛局長は、「海原治」から「矢崎新二」へと、なっている。
これら、時系列犯罪を、大手メディアは、追及しないのか。このあと、関西の経済界を代表する方が、若くして、亡くなられた。いちばん、たかっていたのは、宮澤喜一さんと聞いていたが。
ブッシュ氏と、同じ手のライン、皮膚隆紋の中曽根康弘さんとやらは、まだ、生存中ではないのか。
関西人には理解しにくいが、関東での変化をみると、1985年までは、アメリカ兵の遊びの範囲が、横浜の馬車道から山下公園、本牧までだったのに、横須賀近辺と、なったことだ。

31)
若い世代へ、東山にしろ、嵐山にしろ、観光の町であっても、町を形成するのは、20歳前後の、若者の言動による。短く去る、青春という時期、背筋をのばし、歩き、快濶な表情と、言葉を町の人たちに、あらわし、古い文化がつづく、京都で、新しい世代である、20代の、自分自身はなにか、心身で、応えて行ってほしい。

決して、金などで、交換できない、若さでもって、文化知識を、吸収し、将来、自分自身に、役立つ、建設への弾みゆく行為の、反復を、行うことが、次の世代に役立つことだとわたしは考える。

青年たちによる、積極的な好奇心からの、活動で、古都とは、若さで、美化され、有意な新しさが、加わり、若者自身も、成長してゆくものだと、わたしは、思う。

しかし、このような事が現実としてある。京都は、どのようなところか、21世紀になり、京都は、ヤクザが、市民に、「殺すぞ!」という、不法で、乱暴な地域になった。被害者は、このわたしである。

NECの責任者、2003年のことを、直接、書く。事業活動によるイノベーション(革新)で「社会的責任」を唱えるのなら、「わたしたちは、めったに人殺しはしません、けど、、、」を加えればどうだ。
証人は、10人単位いる。NECの「佐々木元」、「矢野薫」さんたち、犯行の原因は、NECの株主で、代表権があった人物たちだ。
東山署は、刑事2人、警官3人で、現場検証などをした。

2008年3月20日は、「ダイキン」様である。
1967年寝屋川市立第一中学で、「ダイキン」の日雇い労働者の子弟がずいぶん居て、わたしには、一間に大人、8人が暮らす、生活の、意味がわからなかった。
このダイキンやらが、大きくなって、2002年から、わたしを苦しめる。つぎつぎ、計測ちがい?型番のちがい?メインテナンス?とやら、金銭せびり、時間をとりに来るのだ。ダイキンの、井上礼之 、岡野幸義さんとやら、社員教育をなんと、心得ている。
わたしが、NECの関連に、殺されかけているとき、来ない、京都府警が、「ダイキン」のことで、「五条署です」と、管轄外なのに来る。
誰が通報したと注意すると、「通報者の名前は言えません」と言う。

公安が来たので、黙っていたら、「事情を聞く」と言う。それで、府の管理は、知事だと、実際を書いたら、「それ、わたしに、、、」と、何時もの手法をつかう。それで、山田啓二知事宛てに、3月20日、普通郵便で出した。


1970年代はフランスだったが、1980年代になり、日本人はイタリアに夢中になった。
2008年、イタリアの人口は、6000万人で、このうち、10%が貧困といいながら、ローマ、ナポリは24時間営業の店のおかげで、牛乳やチーズ類、卵に肉類などのゴミが全体の40%で、つぎにパン、野菜、果実などの生ゴミがローマやナポリで増え、ゴミ戦争とまで言われ、ゴミへの抗議の現象まで起きるようになった。
イタリアが年間産出する、生ゴミの量は、アフリカ大陸全体が、年間輸入する食糧の、半分という数字だそうである。

6月下旬、イタリアの世界遺産、フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂へ、イタリア人はじめ旅行者たちが平気でしている、落書きを、日本の、学生や教員が落書きをしたと、日本のマスコミはさわいだ。

このことから、学習できるのは、日本と同じ、第二次世界大戦で、日独伊三国同盟の国家のイタリア、ドイツが、戦争の発端をつくって、日本は後から、迷いながら、参加させられた国なのに、なぜイタリアやドイツには歴史建造物が、そのまま、在るのか、ということである。

右の写真は、1965年1月、豊中市立庄内小学校、六年生のとき。近所のナオズミちゃんが、乳母車に居る高さが自分の身長だと思い、幸町の児童会の、小学一年生、二年生がしている、縄跳びの方へ、連れて行って欲しいと、言っているときのものである。
この、みすぼらしく見える光景が、第二次大戦敗戦後、20年経った、日本の、新しい町だった。


貧しい日本を知っていて、たかりにくる西洋列強に、アメリカを中心にしたサミット様やらだ。

2008年6月になると、サミット一色で、京都の市民生活は、マラソン大会や、駅伝大会と、同じく、ほとんど止まった。

忙しそうなのは、警察様だけだ。なのに、ブッシュ氏とやらは、「病気の牛肉を買え」、「穀物によるエネルギー」と主張している。

わたしの、曾婆さん、直系、「つる」は、1800年代後半、血縁の造り酒屋の息子と、駆け落ちをした。
江戸時代後期の人、松田與兵は、百姓が手間をかけた、穀物。大切な「穀(ごく)」、これを、つぶす、「ごくつぶし」のイエは、身分違いと、子供を孕んでいた「つる」に、血縁の、おとなしい、松太郎を選び、夫にさせた。

わたしの祖父、また、父も、太陽のもと人間上下なしと、與兵の判断を、生木を引き裂く行為とし、詫びから、江戸時代から銘柄に「鶴」を持つ、大手酒造の酒を飲みつづけた。

わたしは、この2008年6月になって、わたしの父が召集されたのが、19歳と気づいた。わたしの妻はじめ、級友たちの父も、大正15(1926-)年生まれで、戦争へ行ったというので、小学生のときから、何も考えなかった。
父に、19歳で、兵隊?と言うと、「ああ、兵隊、足らんようになって」と言う。


このように、日本人の成人の大半は、戦死した。
これが事実であるのに、なぜか、兵隊の年齢なのに、戦場とは縁遠く、びょろびょろ、のーの、のー、たらーんたらーん、脳がタラン言葉で、日高六郎(1917-)、加藤周一(1919-)、鶴見俊輔(1922-)さんたちは、純粋な若い世代を、洗脳してくれる。

戦争慣れした、GHQアメリカ、イギリスの計画どおり、1940年、人口8000万人の国家が、中国大陸につづき、東南アジア、広大な、太平洋海域まで、兵隊を推し進め、日本、本土は、若い成人がいない、空洞状態になった。その結果、日本の人口は、1945年ごろ6000万人となった。2000万人が死んでいるんだ。


ブッシュ氏たちで、何がなんだか理解できない。6月26日につづき、6月27日は、早朝から、厳重警戒態勢で、何事かと思って、東山、蹴上のホテルの方へ上がると、「あれがライス、ライス、ライス」「これが最終」と、警官が言っている。偉いもんだ、日本の警察のクルマに囲まれたライス様とやらは。

偉い高村正彦外相殿様に、偉い偉い偉いメタボボの山田啓二知事、偉い門川大作京都市長、偉い村田純一さん、偉い立石義雄さん、貴殿たちは、平安時代の皇族か。

わたしは、2002年から、京都市民だ。「府民より 自分が大事の 山田です」。そうだな、めでたい山田さん。


▼京都大学、外科「中山富貴」医師による、診察は、6分。わたしが沈黙のままなのに、手早く、法医学、鑑定ができる技量をもたれた、すぐれた外科医である。「傷病、左大腿部打撲。2003(平成15)年9月3日、受傷。約2週間の治療期間を要す見込みである」。受傷2週間とは、治療3ヶ月を必要とするものである。これが在り、現場検証をし、犯人、特定でき、京都府警は、相手が「NEC」などのため、動かない。

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2008-07-08