京都昨今
68、あどけない笑顔の四姉妹                 【京都大学 生体実験病院】

1)
写真をみると、写真館での、撮り方と、仕上がりぐあいである。
小学生ぐらいの、中央の姉、左側で、口をあけて笑っている、二人に、右側も、あどけなく、笑っている。

昭和初期にみえる、この写真ができあがったとき、この子供たちの、両親もほほえみ、この子供たちも、わらったのではないだろうか。

わたしは、除去しようと、思っていたものを、編集をしていた、わたしの妻が、
「表情が明るく、コートの違い、ボタンなど、服装が、かわいらしい。1930年ごろので、こんな表情で、笑っている写真は、見た事がない」という。
この指摘を、受け、昭和初期、内務官僚であり、設計技術者の娘の、風俗資料として、みることができると思った。

この写真、一枚だけで、説明がなければ、わたしにも、わからない。
日本は、江戸時代から、たった50年、60年ほどで、西洋文化による、服飾から食事まで西洋式を、受け入れてしまった。

日本の、かいこ(蚕)や綿花による、絹、綿の手間はかかるが、和服の、折りたため、重ね着の、小さな文化から、西洋からの、羊毛による、高価な洋服の輸入、さらに、国内生産での、高価な機械の、輸入となった。


中央の一番年長が、わたしの母。左が、1970年3月、大阪、清水谷高校で、「日帝反対(日本帝国主義反対)」、文部省当局への責任追及、卒業式粉砕をした、イトコの母になる。


わたしなど、卒業式だけでなく、委員会はじめ、出席しなければいけないものでも、欠席をつづけ、委員の選挙でわたしの名前を書いたものとは、口を聞かないと言い、学校から強制されても、通常の委員会は、すべて拒否をしてきた。

イトコは、自分自身は、「なんにも、してないよ」と言っていたが、1969年、大阪城公園、扇町公園などでは、学生運動家による一万人との、大集会などで、名前がとおった、イトコによる、文部省教育への批判の犠牲者となった行為は、つぎは血縁のわたしと、イトコが卒業した、1970年、高校三年となった、わたしへ、文部省批判をする必要があると、義務のようなのが、向かってきた。

次女の叔母は、四人姉妹で、いちばん、勉強ができたと、わたしの母と、三女の叔母が言う。洋裁の完成度だが、縫い合わせで、1ミリも違っていたら、自分自身がゆるせず、仕事の部屋には、型片の布地や道具を置いた順序がちがったら、計画どおりにゆかないと、ドアを閉め、イトコも入れさせない。また、姉妹の中で、歪んだ権力を嫌う。

このときの、次女の叔母の表情を見ていると、わたしが知る、1950年代の中ごろからとは違い、長女の母や、三女の和子叔母に、性格が、似ていたとわかる。

日本が、西洋とアメリカの策略で、第二次世界大戦の方向へと、向かわ、させられるなか、作られた「自由主義、社会主義」とかの幹部は、成金になりたかった「左欲」だった。

働かずに得る、金銭だけに敏感な「左欲」たちに、扇動される、労働者たちによって、日本の、世の中は、より不安となった。
そして、敗戦が、母や姉妹たちの、性格をかえてしまったのかと思った。

母の右が、三女になる、和子叔母。
前の赤ちゃんが、咲江叔母である。

2)
祖父の書き物をみると、祖父は、明治天皇から昭和天皇への三時代つかえ、大正天皇からの、二年以内での、帝都復興。それが、昭和天皇の時代へとつづき、東京都と神奈川県の、橋梁設計の、仕事をしていたのかと思った。

1923(大正12)年、「関東大震災」による、社会不安といったとき、必要なのは、国家の役人に、労働者を采配できる人たちになる。震災から、「10年」という歳月が経ても、東京周辺の、町や河川は、震災から、立ち上がることができなかった。

河川に、建造物。
日本は、江戸時代末期と同じく、西洋とアメリカの、戦争兵器により、脅かされつづけた。

日清戦争、日露戦争、これらは、西洋とアメリカの策略と言って良い。
西洋の兵器をつかい、アヘン戦争で、政治の根幹を崩された、大国の中国、「清朝」に、勝てたという、予定どおりの、結果(=形相)を取らされたにすぎない。

19世紀には、中国と朝鮮半島は、日本より、先に、西洋とアメリカにより、統治への、采配が、計画され、実行された。

制度のなかで、作ると、壊せず、改革するのが、一番、困難なものは、武器をもち、体力がある「軍隊」である。

日本は、文化精神の荒廃国、アメリカ中心の、日本を、アメリカの領土化する戦略で、日清戦争、日露戦争に勝った。
じっさい、日本が得たものは、西洋やアメリカの謀略、この立て方を知らない、中国の市民からの、「憎しみ」だけと言ってよい。

つづいて、果てしもない、寒冷地、穀物が実らない、シベリア出兵の失敗。
このさなか、「関東大震災」が起きた。


日本と、中国や、朝鮮半島との、交流も、だが、韓国とは、西洋とアメリカにより、計画的な、併合条約(1910年)が生じた。
「併合」という形相で、海上交通での、「連絡航路」ができたからである。
西洋の機械を動かす、エネルギーの石炭採掘。

朝鮮半島からの、連絡航路により、九州をはじめ、全国の炭坑や、鉱山での労働者の確保ができた。
が、これも同じく、GHQアメリカとイギリスによる画策どおりの、太平洋戦争の敗戦後は、GHQアメリカの領土となった韓国、ソビエト連邦、中国の支配下となった、北朝鮮からの、日本への「憎しみ」だけで済まず、むかしの、人種学では、大きく、三種類に分けられるが、同じ民族が、南北に分断され、論理でなく、感情の誤差が、生まれ、今日に至っている。

古くは、政権が変わるごとに、侵略の形相もかわる、大帝国である「モンゴル」に、「中国」。

モンゴルと、中国の北方は、中国は、漢や明朝以外は、「遊牧民族」の北方民族が基軸となっている。

これら遊牧騎馬民族の歴史は、自分たち民族が、人口の膨張したり、また同族をふくめ、他の民族に襲われ、自然災害などにより、生活の維持ができなくなると、侵略により、相手の所有するものを、奪えば、終結する、特徴をもつ。

これは理想だが、中国大陸も、朝鮮半島からも、ヒマラヤ山脈の南の、歴史ある、インドなどを通し、良い意味での、文化を学び得た時代があった。

広大な大地のため、治安となると、手続きが難しい。が、大きな文明と思想を、所持した国家同志なので、民族の知恵で、難解な部分を濾過してほしい。
インド大陸にみる、さまざまな伝統を、省みて、忘れていた部分を、修得し、治してゆく方法が、一番だと思う。
良識ある、人々を増やし、言葉のやりとりができれば、問題解決に、近いのではないか。


朝鮮半島との関係だが、日本の、江戸時代からの、良識ある、知識人の意志としては、「朝鮮総督府」は、日本の文化の源泉である、中国と朝鮮には、「特別なもの」として、扱っている。

これらは、「京城帝国大学」(いま、ソウル)の設置の仕方や、内容でわかる。
同じく、台北帝国大学も、中国大陸での、大学機関も、とうじのは、学問をしてゆこうといった、自由な雰囲気を、発表された論文から、感じた。

東大や、京大の、歴史を追えば、日本での西洋風建物による、西洋学問は、20年、30年ほどしか経っていない。
東大も最初は、数人の学生で、10数年経った、1880年代になると、100人単位が競い、縁故優先となり、社会問題になった。そして、どこまでもが、西洋からの、借り物、模倣品の輸入で、西洋とアメリカへの、借金となった。

中国大陸や朝鮮半島で、文化の地域であろうとした、大学の維持は、アメリカとソビエトに破壊され、短い歳月で、大きな出費だけとなった。
侵略、支配という形相での、他の民族からの、「憎しみ」は、金銭上のことで、済まない。

京城帝大はじめ、台湾、中国での満州には、形式や出世主義の日本を嫌い、東京帝国大学、ないし、京都帝国大学から、追い出されたり、出て行った、学者陣で形成された。
かれらの中で、江戸時代、士族、農家の階級のものたちは、日本の町や村の維持に、西洋の機械(兵器)文化が相手では、東洋が、いかに、弱いものかを知っていた。

強引なアメリカ、イギリスなどの、侵略の商法に、対抗できるのは、西洋の学問でも、ドイツの物だった。
そのため、「ドイツ法律、ドイツ医学と、ドイツ工学」を優先させた。

日本人学者たちが、日本人、中国大陸、朝鮮半島、台湾の学生へ、黒板に書いた、覚えるべき言語は、思考力が強く、論理、段階的な、機械工業技術の修得が可能な、国際語としての「間違い難い、ドイツ語」であり、日本語ではない。

1980年代、東大図書館で、片隅に、文献と帳面類が積んであった。尋ねると、学者たちの帳面類で、廃棄、焼却するという。
複写機がない、1930年代の、無名の研究生たちによる、丹精な手書きの、万年筆での、ドイツ語、ドイツ文字をみたとき、人物を、特定できれば、良い資料になるのにと思った。

東大医学図書館には、医局、教室ちがいで、同じ文献がダブっている。空間の利用だが、いまのわたしだと、整理に、一ヶ月かからないと言っても、給与をとっている、職員は、分かっていて、だれもしないという。世界に、ひとつの文献が多いから、とにかく、4階のを、空調がきく、2階へと言っても、しない。

慶応大学、医学図書館にも同じことを言った。慶応はわたしの指摘どおり、明治、大正時代の文献を、空調がきき、書架をうごかせられる形式のを、地下に作った。

日本人もいろいろで、中国、朝鮮半島出身者の中でも、頭脳が優れ、良い日本人学者に習った人たちは、研究の意味、本質が、理解できたと思う。

日本と朝鮮半島、台湾、満州とでの、出来事であれば、ドイツ語を修得した、学者として成長する期間さえあれば、学者同士での、東洋でもない、西洋でもない、別の文化圏ができたのではないかと、思ったりした。

1960年代、わたしの級友や同窓の父親のなかで、日本人女性と結婚し、日本人名で、医師や技術者として、生活している事を、告げてくれたのは、中国、台湾からが、多かった。

3)
小説家、太宰治は、三鷹市で「毎日のやうに近所に爆弾が落ち」「三鷹の家は爆弾でこはされた」と、大空襲のことをかいた。
とうじだと、東京の中心部とちがい、三鷹は、田圃に、畑だらけの土地だった。

太宰治は、生活の場を、破壊され、幼い、子供のため、東京からみれば、田舎にすぎない、妻の里、疎開した「甲府」でも空襲にあった。 自分自身は、どうでもいいような存在だから、死んでもいい、しかし、なにもわからない子供は、自分自身がよく知っている、故郷の海を見たこともない、子供は、助かってほしいと望んだ。さらに、生まれ故郷の、東北へ行った(『文藝通信』など、1946年7月)。

太宰治は、戦中を、作家の眼で思考し、「中国との戦争はいつまでも長びく、たいていの人は、この戦争は無意味だと考えるやうになった。転換。敵は米英といふ事になつた」と書いた。

太宰の表現での、『転換』に、わたしの、意識は、止まる。
同じような顔をした民族で、知識人同志であれば、日本文化は、中国、朝鮮からの、文化の「溜まり」、「吹寄せ(ふきよせ)」での良い部分を選んで、築いていったもので、在ると、考えられただろう。

中国、インドは、世界四大文明を所持した国々である。
検証された歴史で、歳時をもった、メソポタミア、エジプト、インダス、中国の文明国家があった。
エチオピアに、アフリカ中央部、中央・南アメリカの、マヤ、アステカ文明も、これから、まだまだ、検証されてゆく、歴史があると思う。

東アジアでは、中国があり、漢字での「親字(おやじ)」を、適当にかければ、意志を流通させることが、できた時代に、一般の人々をまきこみ、殺すための、鉄砲を打っていたら、良識のある人は、奇妙な事、してはいけない事と、思って、あたりまえではと、わたしは思う。

大きな戦争に巻き込まれた、日本の大学は、ドイツ文化の修得を中心に構成された。
この1930年代、大学で、フランス文学を専攻した、太宰治は、欧米の戦法、社会の混乱方法に、気づいていたはずだ。が、日本の、悪い、学者に、軍人はじめ、大多数は、「統治」が、平安でなく、上下を示すものと理解した。

中国、朝鮮半島からの、労働と平等がいやな、人物を「高級官僚(士官)」とし、労働を知り、おとなしい人々を、より下層階級へと追いやった。

「日本は無条件降伏をした。私はただ恥づかしかった。ものも言へないくらいに」「天皇の 悪口を 言ふものが 激増してきた。しかし、さうなって見ると 私は、これまで どんなに深く 天皇を 愛して 来たのかを知った。私は 保守派を 友人たちに宣言した」『苦悩の年鑑』と太宰治は、書き、新しい思想へ、その発言には、「勇気」が必要と述べた。


東京、名古屋、大阪、姫路といった、大きな連隊に、朝鮮半島、満州、台湾などの、日本軍人となり、悪い日本人といっしょに、GHQアメリカ、イギリス、ロシア、中国のスパイ活動をした輩がずいぶんといた。

医師の日野原重明(1911年 - )、経済学の都留重人(1912-2006年)、社会学の日高六郎(1917年−)、評論家の鶴見俊輔(1922年 - )、姫路連隊にいたという韓国大統領の朴正煕(パク・チョンヒ、1917-1979年)など。
かれらに、共通しているのは、大衆、市民のことなど、脳裏にないということだ。

アメリカからのスパイ、彼等による、大衆の扇動で混乱、複雑さが、日本では、いまだ、社会問題として、続いている。

区別がつきにくい、同じ肌の、民族たちに、憎しみを、抱かせること。日常を混乱させること。
これが、西洋、アメリカ人たち、白人種たちの、「帝王学」である。

「古代ギリシア帝国」は、4000年以上まえ、”2000年”近く、インドの方まで、支配をした。
つづく、「ローマ帝国」は、”1500年”もの、西洋の支配。

これに対し、「ゲルマン民族」は、5世紀から12世紀の”700年”間、どれほどの移動、すなわち侵略の意味をかねた戦争をしたのだろうか。
「オスマン・トルコ帝国」は13世紀から20世紀もの、”600年”間単位で、支配、勢力をのばした。

西洋人が恐れた、「モンゴル帝国」も、13世紀から20世紀まで、”700年間”単位で、勢力を、西洋の方まで、のばした。
これらは、陸続きということがらに、要因がある。

4)
日本のばあい、西洋とアメリカに、仕掛けられ、戦争により、出費つづきとなった。

そこに、関東大震災という災害で、安易に賃金がもらえる仕事により、人々があつまり、これらに携わる、満州や朝鮮半島からの労働者の多さから、おきたのが、1930年代の、社会不安である。

わたしの母をふくめ、この四姉妹が、離ればなれになった。

この、社会不安を、労働者側といって、アメリカ合衆国の100万円を、日本人スパイに与えると、日本では1000万円以上、方法では10億円以上にもとなる。与えられた金額が、1億円であれば、100億円単位にもできる。
労働者の味方といって、「左欲」たちが、西洋、アメリカの指図で、平和だの、平等だの、日本人であっても、言葉のつうじない、地方からの、労働者を、扇動してゆく。

祖父は、大正八(1919)年に生まれた、長男の「正夫」が、生きて居れば、と思ったりしたのではと感じた。
母は、わたしへの、時代の嘘というか、「お父さんのせいで、働きに出て、、、」と言っていた。

父親である、祖父が、帝都復興につぎ、関東だけでも、大きな河川の、橋梁設計で、留守になると、祖母の眼がとどくのは、二人でせいいっぱいだったのだろう。
母は、今年、2008年になって、さっ(咲江)ちゃんは、祖母の、産後のひだちが悪く、「杉戸」に、あずけられてという。

この四姉妹で、咲江おばさんだけが、わたしの記憶の中で、1歳、2歳のとき、わたしの友達というか、年齢を感じさせない、子供の心がわかる叔母だった。

江戸時代につづき、明治時代にしろ、大正、昭和時代も、日本は、欧米資本による、混乱つづきだった。
右は、母が、女学校のとき、写真館に飾られていたものだそうである。

京都だけでなく、東京も、大阪も、神戸にしても、広いようで、血縁がいるものにとっては、挨拶だけで、疲れる町でもある。

1940年代、母は、次女の叔母と、現在、建仁寺そば、場外馬券、売り場のところにあった、「みまつ」のダンスホールへゆくと、同志社大学の学生たちが居て、警視庁の青年と、ぐうぜん会い、「わるい事はできませんね」との会話をしたそうだ。

作家、梶井基次郎が、「檸檬(れもん)」を買った果物屋は有名である。同じ寺町通りを下がると、果物屋があった。
御池通、「京都市役所」の、真向かえ、アーケードの寺町通り、西側の、「果物屋」さんである。記憶のある人も、居ると思う。

わたしの兄の、ガールフレンド宅で、わたしのイエにも、遊びにきていた。
1970年代、お辞儀をすると、「これ、残り物、、、」と、おばさんが、わたしを追いかけてくる。

わたしは、「ありがとうございます」と、礼だけして、去ったら、兄が、
「ワダの、お母さん、弟さん、薄情って、言っていたぞ」と、兄が言う。
寺町通りは、級友のイエや、その親戚とか、いろいろ在って、知っている所で、立ち止まると、二回目が通れないとわたしは返事したが、京都の狭さを知らない、兄にはつうじない。


写真、二列目、一番右が、洋裁学校時代の母の卒業時のものである。母の左側の人たちを見ると、とうじは高価だったと思える、眼鏡をかけた人たちが、多く、日本人の行儀や、向上心が見える。

わたしが、遺伝子だの、皮膚隆紋の分析をしていて、20代前半、歳月をとられた。
できあがってきた、1973年、神戸、「御影(みかげ)」から「住吉」を、歩いているころだった。丘陵に、と思うが、わたしの母の、婚約者、実業家の、イエがあったと思う。

母が婚約者と散歩のときは、善念寺の、千鶴ちゃん、おばちゃんが、後ろから、監視役だったという。
戦争のさなか、良い時代の、一瞬があったのだと思う。


5)
1868年、将軍徳川慶喜による、大政奉還から、「戊辰戦争」が起きた。

信州、松代藩、真田家は、名家であり、会津、桑名を治めた「松平定信」の、あとでもある。

松平定信が行った、「寛政の改革」は、人々の多くが、飢えで困っているため農業を中心とし、質素倹約を旨とした。このことは、代々、町や村を安心させる、政(まつりごと)が、役割の家系には、すぐ通じ、働きのできる、同じ、家系のものが稼動する。

信州、松代藩、だが、ここには、筆頭家老、「原本家」があり、「別家系の原」がいる。

別家系の原が、日本に、輸血の「ABO式血液型」をもたらしたイエであり、長野赤十字病院、院長の原来復(はら・きまた)の母方(旧姓、酒井たみ)の、家系の「酒井家」は、友人に、思想家、「佐久間象山」をもつ。

原来復の東大での先生、夏目漱石や正岡子規と親しい、宮本叔(みやもと・はじむ)の、「宮本家」も、同じ松代町の、佐久間象山の近所である。
ABO式血液型の知見をもたらした「原来復」には、弟が3人ほど居た。弟のひとりが医学、ひとりが薬学を専攻したと、聞いた。

東大教授、「古畑種基」たちに、ABO式血液型を、正確、明快に教えたのは、原来復の弟たちである。
古畑種基の性格によるが、原来復兄弟からの、ABO式血液型の知見、識別が、自分のものと思うようになった。

原来復の娘婿に、父親が警察官の、飯田出身の、「小西謙」学習院大教授がいて、この周辺の人物は、ほとんど、血縁といってよい。

原本家は、時代劇などでの、取材があるイエである。
1991年、ここのイエの前をとおったとき、音がしない気配から、立ち止まったが、疲れがひどく、表札を見ることなく、わたしは、帰京した。そのあとで、原本家でしょうかとの連絡をし、
「そうです。拝見、して、いただけますか」と、謙遜して言われ、やはり、そうだったのか、、、。わたしは、体調を整えるのが、難しい体でと、電話での、謝罪をした。

原本家は、信州、「武田信玄」の武田家の家臣である。名家、真田信繁の「真田家」を、支えた中心のイエで、嫁入りに婿とか、血の交換をしており、血縁になる。

6)
明治維新後、日本経済への、信州財閥の活動だが、「佐久間象山」の門弟となった、「五明静雄」がおり、この「五明(ごみょう家)」へ、婿へと行った人物に、原来復の、妻(君代)のおじ、東京で活動した、二代目、「五明浜五郎」弁護士がいる。

こういう記述だと、めずらしい「五明」って、なんだか、格好良いと、感じるのでは思う。
むかし、「原来復」の娘さんから、血縁の「五明浜五郎」を、
「ほんとに、弁護士の五明と、信州(財閥)の、悪たれ(あくたれ)どもは、明治維新後、東京で、悪いことばかりして、、、」と家系図を書いて、説明してくれたとき、明治時代が、すぐ、そこに在る、感じがして、わらった。

新選組に、「奥羽列藩同盟」が、戦いの場としたのは、東北から、北海道へと、移った。
箱館戦争での、「五稜郭」で、桑名の殿、「松平定敬」が、「榎本武揚」につかまるという、形相をとる。

これらは、西洋、アメリカに仕掛けられた、戦争であると、幕府の中枢、首脳陣は、見破っていたからである。
しかし、財力、武器など、勢力の差で、アメリカの言うまま、どうすることも、できなかった。

佐久間象山の読みだが、1980年代、地元の人たちから、「象山(ぞうざん)神社」と、言っていますと、わたしは、習った。
思想家、佐久間象山を、尊敬している、土地柄である。

長野市で、NYへゆき、エジソンの弟子になった、出自が、南部(盛岡)藩、「上杉家」のもと、関東管領となり、柔道の指南役の家系が、「苫米地(とまべち)」になる。
父親は、福井藩士の娘を妻にし、金沢警察署長となった。

苫米地貢(とまべち・みつぎ)、俊之の兄弟が、「電波」の実験をする。この苫米地だが、家系の説明で、「苫米地に嫁ぐ」の記載を、わたしは、北海道の苫小牧から、苗字ではなく、地名と判断して、調べの、手順が遅れた。

苫米地とは、青森県八戸を近くにする、「南部町」の「人馬(とま)、別(べち)」、「南部馬」の「掛り」からの由来で、「地名」との関連もある。
この「苫米地家」からの、三人兄弟での、長男、英語ができる衆議院議員だった「苫米地英俊」が居て、現在の、NHKの基礎ができた。

あれから、20年からの歳月と、思ったりするが、「象山神社」は、東京帝国大学の、文献、資料が、第二次世界大戦で、アメリカからの空襲により、燃えては、いけないと、判断され、わたしが尊敬し、わたしの先生となる人たちが、30代のとき、力車(りきしゃ、木の車)で、隠した場所のひとつである。


佐久間象山の門弟のひとりで、「榎本武揚」を慕った、歴史人の子息が、わたしの母の、婚約者とするものだった。

わたしの母が、内務省、警視庁の伯父に、預けられたことに、わたしは、「誘拐など、安全の面では」と、指摘すると、牛込の、警視庁本部長だった伯父の周囲は、刑事の官舎だったという。

アヘン戦争で、中国を混乱状態にした、西洋にアメリカは、同じような方法で、日本を侵略しようとし、日本が、中国とちがい、小さな国のため、簡単に、成功した。

母たちと、性格がちがう、一番下の、咲江叔母についてきくと、祖母方、杉戸の家に、乳児から預け、外出にあたる、学校へやらすことが、出来ない時代になった。
祖母の両親たちが、小さな、孫をかわいがったのが、わかる。

7)
昭和時代というのは、海外からの労働者で、「誘拐」、「強姦」などで、危険だった、ということである。

1970年安保反対運動という、アメリカやソビエト連邦の、手先に仕掛けられた、運動がなければ、出自が、岡山藩で、祖父が、夏目漱石の教え子、1960年代、啓光学園で、父親が、農林中央金庫で、叔父たちが中国電力専務、三井物産の顧問(公認会計士)だった、三年間の級友に、連絡がとれ、わたしの歴史調査も早かったと思える。

京都は狭い。紫野の社宅に住んでた、この級友と、1969年1月、大丸が、西陣見学なら、この人と、紹介してくれたのが、盗用ばかりの今西錦司さんと同級の「山口伊太郎」さんだった。わたしの兄の義理父は、中学と、大学で、今西錦司さんの下級生だった。

日本は狭い。母の婚約者の、出自は、岡山藩のようだ。

ヤラセ専門のNHKが、「幕末転勤伝 桑名藩」、柏崎陣屋に暮らした、勘定人渡部勝之助の日記」とかをやり、元、桑名藩の人たちが、「桑名の殿様は、どこに?」と、やっているのを、新聞の紹介でみた。

桑名の殿様にしろ、同じく、兄弟の会津の殿様は、明治時代に、複数、知事をしたり、神社の官職とか、関係者の、多くが知っていることではないのか。
しかも、わたしの家系のばあい、NHKに、勤務している家系もあるのだから、いいかげんにすれば良いのにと思った。

日本は貧しい。また、汚い。日本で、最初に放送の実験を、した人物、英会話ができ、翻訳ができても、旧制・水戸高校(いま、茨城大学)卒だからと、NHKは、賃金が少ない、嘱託扱いとした。
正直に生きようとする人々を、苦しめるのが、NHKはじめ、日本の汚いマスコミだ。

世田谷区、「九品仏(くほんぶつ)」住まいで、1964年、東京オリンピックのとき、貧しくて、原来復博士の、令嬢宅には、テレビが無かったという。
むかしに、「テレビのような、高価なもの、、、ありませんでした」と、わたしと同年の、原来復博士の孫になる、お嬢さんは言った。
偏向番組ばかりと指摘されている、ヤラセ専門のNHK。民主党、羽田 孜(はた・つとむ)、後援会長、夫人である。

8)
2000年、 京都大学病院が、「藤井沙織(とうじ17歳)」さんへ、人工呼吸器への、消毒用エタノールを注入し、死亡させた『事件』がある。

京都地裁での、裁判をうけ、大阪高裁の「小田耕治」裁判長は、2008年3月31日、看護師3人にだけ、「過失」とし、京大病院が、事故の隠蔽、意図、行動はなかったと判決した。
エライ裁判長だ、「京大病院」の調査は充分したはずと思う。不正だらけの病院の構造を、どのように考えているのか。この「小田耕治」さんとやらは。

2008年3月13日、京都府警、捜査1課と川端署が、京都大病院の医師を、送検している。

原因は、2006年3月、「肺リンパ脈管筋腫症」により、「脳死肺移植」手術を受けた、「女性(当時30歳)」が、手術失敗で、「脳障害」を起こし、10月に「多臓器不全」で死亡した事による。

送検理由は、手術中、患者の容態確認を怠った事により、死亡させた事による。これにより、呼吸器外科医(46)、麻酔科医(48)と、心臓血管外科医(44)ら、医師3人を、業務上「過失致死容疑」で書類送検されたと、報道は告げた。

「京都(きょとん)、生体実験、大学」の麻酔科医たちだが、日本のマスコミは、容疑者であっても、実名、顔を出してゆくのに、なぜ、京大などの医師のばあい、犯罪者であっても、出さないのか、わたしには理解できない。

わたしは、顔しか、識別できないので、麻酔科医(48)とは、わたしが、絶対に止めて欲しい、中止である、と言っているのに、「カルボカイン0、5ミリ」と言い、「1、0」ミリぐらい、眉毛の当たりへ、注射した、人物か? 

それとも、わたしはベテランですと、わたしの眼に、失明への、レーザー照射した人物なのだろうか?
「犯罪者」だが、とうじの医師の名札、福田和彦、白神豪太郎、廣田喜一、角山正博、古谷秀勝、正田丈裕医師たちがうかんでくるが?
万能といいながら、まったく、経験がないのに、できると主張しているのが、京都(きょとん)大学である。

発想自体が根底から、まちがいで、確率論でゆくと、「兆単位」での、組み合わせになり、100%不可能なのに、山中伸弥さんは、可能のように言っている。
ヒトラー山中伸弥さんたちを、押しているのが、731部隊の精神をつぐ、欲だけの「井村裕夫(1931年ー)」さんだそうだ。井村裕夫さんって、何歳なのだ?まだ、50歳ぐらいと思いたいが。

100%不可能な、山中伸弥さんのを肯定する、井村裕夫さんの「医療政治学」だと、1970年代中ごろから、わたしが肯定してきた沼正作さんの「イオンチャネル理論」も、本庶佑さんの「クラススイッチ理論」の否定となるが。

9)
日本の裁判だが、盗作確信犯が居て、わたしの版元の、出版社等が、盗作だと騒ぎ、わたしの住居を遊び場につかった、加害者の、「新潮社」の社員で、わたしの手首を、折ろうとした、酒井義孝さんは、わたしの住まいの、近所だった。
酒井義孝さんの、出自だが、桑名藩の飛び地の、さらなる、飛び地という。

酒井義孝さんは、大学で、「演劇」をしていた、「鶴見俊輔」さん担当の、河出書房新社の、ノブオさんと来た。

「酒井」という苗字と、「一丁、張替え(一部分だけ張替え)で、初版だけ、売らせてください」と、泣くので、気を少々許したら、二刷り書き換えで出版し、約束を破る。
「マツダさん、ぼく、池波正太郎さん、担当ですよ」と自慢し、「池波正太郎さんの年賀状、楽しくって集めていたんですけど、6枚目で、来なくなったんです。どう思います?」と聞く。

非常識なことをしたんじゃないのですか、年賀状の礼を出さないとか、と言うと、「ええっ?どうして、分かるんですか。池波正太郎さんも、礼儀がないというんですよ。でも、ぼくが、池波正太郎さんの文庫、新潮社で、最初に出したんですよ」と言う。

父親が「会計検査院」勤務で、世田谷の「三宿町(みしゅく)」で、古い世代なのに、三年保育へ、通ったという学歴から、多少、信じていたら、電話をしても、出てこない。

なぜ、出てこないのかと、自転車で、直接、京王沿線「芦花公園」のマンションへゆくと、「賞味期限六ヶ月が切れた、焼きソバを、妻と、つくっていたんです」という。

焼きソバを、3時間かけて作る?というと、これが、新潮社の、「大門武二」さんたちにかかると、わたしが、「クルマで、深夜行ったなっ!」と言い、わたし宅で、説教をしてくれた。
わたしは、「祖師谷大蔵」の道、北へあるくと、徳富蘆花の、「芦花公園」ですよと言った。

東京、JR中央線住まいの大門武二さんは、京王沿線と小田急沿線が、並び、通っていると、わからなかった、常識欠如の人であり、「部下の酒井義孝に確かめる」とか、盗作犯、「竹内さんに、一言、注意をする。もう一度来る」と、大声で、怒鳴り、わたしのイエから、去って、14年たつが、まだ来ない。

あげく、盗作犯は、新潮社の「松家仁之」さんだと良かったとか、共犯者たちは、動物学者とかの「日高敏隆」と同じく、新潮社「佐藤隆信」部長(いま、社長)は、「電通」時代、あっちこっちで、何を、見せびらかせ、数々の女とやっていたが、次期社長なので、どこで、だれと、やっても良いのだとか、わたしが嫌がる話題をもちかけた。

10)

新潮社と、わたしが版元とした河出書房新社の態度の変化など、不愉快で、裁判を起こしたが、肝心の、裁判長たちが、人権や、著作権で、法律が発達している、ドイツ語の文献が読めない、英語も読めないレベルだった。

刑事罰なのに、判決まで、3年半かかり、自分たちが、わたしが提出する、合計3500枚からの原稿からの文章で、弁護士たちは、西洋の、著作権を、覚えたようだ。

裁判所と弁護士は、わたし自身の家系、わたしのイエと、血統で、共有してくる、松代藩松平家、原本家、分家の原来復他の家系と、医学史の、仕事の過程なのに、長びかせたのである。

わたしが依頼した、小林明子弁護士とやらは、「わたしは、寒いと、体調が崩れ、動けなくなるのです」と言っても、「そうですか」と、大きな団子のような体型をした、わたしが生理的に拒絶する、気色悪い弁護士は、東京の、まだ寒い、1995年3月、暖房なしで、男への、用心か、ドアを、開放している。

「この寒さに合うと、3ヶ月以上、ベッド生活で、大変なのですが」と、わたしが、言うと、「は、そうですか」との返事。
小林明子弁護士は、ドアを閉めようとしないし、暖房など、電気ストーブでも、なんでも可能なのに、無関心の顔をする。「わたしは著作権が専門です。この、新潮社って会社は、どんな会社で、どこに在る会社ですか?知りませんので」と聞く。

犯罪は平気、デタラメだらけの「岩波書店」はわかり、めくっていた「六法全書」が「有斐閣」だったので、有斐閣はわかりますかと聞くと、「はい」と返事した。有斐閣が中華料理屋でなく、出版社との知識だけはあった。

わたしが、裁判など、体力が、半月も、持ちませんと言うと、
「この明らかな盗作、書き換え件、裁判になりませんよ」との事だった。

枯れた感じの、市民派、「松村正康」弁護士のことを質問すると、「きょうは、居ませんね」だった。
1995年に、亡くなられて、いても、肝心なこと告げない、大きな毒入り豚万を、水の中に、浸して、より大きく膨らんだ感じの、理解しやすい文章表現ができない、小林明子弁護士は言う。

わたしが、裁判へ出席するというと、「しないで下さい」、「裁判文書に、祖父の遺言での学問とかは、省いてください。裁判所ではダメですから」とわたしの両親の、家系がないと、調査ができなかったのに、命令できたのが、小林明子弁護士である。

小林明子弁護士は、裁判の熟練者風で、「西田美昭」裁判官を、1995年で、50歳代半ばのように言った。
小林明子弁護士の言い方だと、いま、西田美昭裁判官は、70歳ぐらいになる。

そして、盗作犯、竹内久美子が、一度も反論ができなかった、わたしの人権を無視した裁判が終わり、10年という歳月が、来る。
それなのに、小林明子弁護士は、いまだ、「わたし宛の手紙」など、裁判資料と提出したという、書簡などを、返却してこない。

小林明子弁護士が言った、裁判官のなかでも、極悪の、「西田美昭」のもと、「八木貴美子」「沖中康人」裁判官は、わたしの家系もだが、わたしが調査中で、関係者のイエの、明治時代からの「倉庫、蔵の文書整理」がまだなのに、「誰でも、できます」との、すごい判決文を出した。

徳川、松平、他の江戸時代末期からの、わたしの、両親たちが、読解できない、わたしのイエの文書である。
また、同じく松平定信が治めた、松代藩松平家の「原来復」のイエの人たちが、読解、できなかったことである。
わたしは、1951年9月という、第二次大戦後に生まれた。

「西田美昭」さんに、「八木貴美子」「沖中康人」裁判官は、日本の各家庭の、歴史文書の中身を、読まずに、知っているらしい。
西洋にアメリカの法律関係者、アジア、アラビア、アフリカ、中央アメリカ、南アメリカ、日本は、こんな悪党の裁判官が、ひらひら、ちゅるちゅる、のうのうと生きてゆける、悪党天国の先進国様とやらだ。

極道、西田美昭、八木貴美子、沖中康人さんたち。

あなたたちの、したことだが、裁判所という場所で、「著作権の無知」に、沈黙と、無関心さをよそおい、わたしに、時間をとらせ、西洋の著作権を、調べさせた。著作権とは、限られた生命、侵してはいけない人権だ、余儀なく譲れない精神だ、それを乱暴した。
わたしは、次の世代のため、よりよい、社会環境、医療環境のため、学問に専念している。

元・河出書房新社のノブオさんは、当方に、時間と金銭に余裕ができれば、監獄と、わたしの血縁が決めている。
ノブオさんに、何を言われたのか、依頼人のわたしに、「重役の、○○ノブオさんは?」と小林明子弁護士が聞くので、あの人、給与取り社員で、もう、辞めますよと、わたしは言った。

極道の西田美昭、八木貴美子、沖中康人さん、あなたたちも、極刑へもってゆきたい。
わたしは、いま、世界が困っているウィルス、界面論を、数論で、解いているとちゅうだったのだ。
数学は、3歳ぐらいから、連続していないと、できない。わたしには、もう、できない。

1973年、1974年は、わたしの幼なじみや、同窓が、大学を卒業して行った時期だった。
数学に、物理をしてきた友人に、生物体、宇宙など、動体には、x、y、z、、、などの、5次元レベルでも、6次元レベルでも、ダメで、わたしは、「座標軸を、取り払いたい」、別の方法が必要なんだと言った。

友人が、「まつだ、ぼくは、良い先生(小平邦彦)に習ったんだ。ぼくの先生は、まつだ、みたいに、数学が見えないと言うんだ。いま、見えるのは、世界に、ひとりか、ふたりって言うんだ。だから、ぼくは、数学は止めたんだ」と言った。
偉い、元京大の教員、「ぼくの仮説認めないのは、日本だけですよ」と言った、盗作裁判に書面で登場してきた日高敏隆さん、および門下生。国家に勤務する、とても偉い西田美昭、八木貴美子、沖中康人さん、あなたたちに任せる。

11)
日本を中心にみると、19世紀中ごろ、中国では、清朝の、アヘン戦争から、太平天国の乱。中国のあとは、日本で、戊辰戦争から、明治維新へと、アメリカと西洋は、日本をあやつった。
20世紀に入ると、ロシア革命(1917)、ドイツ革命(1918)と、「革命」ばかりつづいた。

アメリカの画策で、「第一次世界大戦」までの日本は、世界の大国、「中国(清)」、「ロシア」を破り、また、「第一次世界大戦」で、物理、化学への思考から、機械文化まで、思想に音楽、世界第一をゆく、先進国ドイツに勝利をおさめたことになった。

日本のばあい、日常は、おひさま、太陽を中心に、「他」である、あらゆるものを、神とし、祈る、「かんながら」の、考え方が基本となっている。

飛鳥、平城、平安時代から、国家を、より、安らかに、維持するために、政治家の、小野妹子が、隋の国へ「遣隋使」として、唐の時代になってからは、「遣唐使」などの、掛りをし、日本人の僧侶は中国で学び、また、中国から高僧をむかえた。

朝鮮半島からのでは、百済に新羅と、文化に先んずる国家から、知識を学び、6世紀の、飛鳥、奈良朝時代から、現在まで、保存し、われわれ大衆に、「祈り」をもって、仏像へ、相対して、拝むことをしているのが、日本文化である。

このような歴史を知る、冷静であろうとする血統の、家系には、西洋とアメリカによる、計画された「戦争」が、「避けられない情況」になったと、理解できる。

しかし、16世紀から19世紀の、一般の人々には、世界情勢など、わからない。
わかりやすい、歴史の順番でゆく。

元禄14( 1701 )年におきたとされる、江戸城、松之廊下にはじまる、「忠臣蔵」のばあい、「元禄」までの年間という、「年号」の意味の解釈が大事である。
江戸での、徳川幕府がはじまって、100年という、3、4世代ほどの、歳月である。

同じく、「禄」が付けられた、年号に、「忠臣蔵」の200年まえに、室町時代の、足利幕府の政権が、落ち着きを、亡くしたときの「永禄」がある。

文化が、争いごとでなく、平和な知恵を大切にせず、戦国時代へもどるのかと思わせた、豊臣秀吉の「文禄」年間がある。
残存する資料が正しければ、織田信長や明智光秀は、豊臣秀吉と、育ちから、性格、なにもかも、違いすぎるというか、貴族であり、両者とも、裏切り者の豊臣秀吉を中心に画策され、殺されたとも、言える。

@「永禄」(1558ー1569年)
A「文禄」(1592ー1595年)
B「元禄」(1688ー1703年)


これらだが、戦争とか、豪華さや贅沢は切りがないので、天からの贈り物である「禄」、作物を大事に、「元」へ戻そうとの年号と、わたしは理解している。

12)

「靖国神社」は、西洋とアメリカに仕掛けられた、日本の南、鹿児島から、中央部の京都、桑名、江戸、新潟、会津はじめ奥羽列藩、北海道まで、継続、日本を縦断した、「戊辰戦争」の死者を、「祀る(まつる)」ために、明治天皇がつくられた。

西洋とアメリカを原因とする、戊辰戦争による、天皇家だが、昭和天皇に、までも、責任をとられた。

西洋と、GHQアメリカに、しかけられた太平洋戦争で、「日本軍人」あるいは「日本人」となられ、亡くなられた、日本、朝鮮、台湾、中国、東南アジアの人たちの「こころ」と「精神」を集めた、ひとつの「政(まつりごと)」の、「形相」として、在る。

日本が歴史をもち、その歩み、ひとつの節目の、とちゅうであり、「おひさま」、日出づる事への軸をおいた、太陽に、神をみている国家の、形相であると、わたしは、理解している。

国家の安全と保持のため、西洋と、GHQアメリカにより、犠牲になった方々の「御霊(みたま)」、その上に、今日の、日本人および「周辺国家」の平和が、在ると考えるのが、政(まつりごと)をつかさどる者の、思考、義務である。
歴史をたえず振り返り、われわれ大衆の、手本として、正しくあるための、言動を選ぶ事が、第一である。

日本のばあい、19世紀から21世紀にかけ、150年間という、歳月、地理上、太陽光、日照時間が短い、イギリスやアメリカ東部の政治家と軍隊に、領土化されてきた。

宗教というか、人間の信仰に、「言霊」「心」、キリスト教などで言う、「精霊」を、キリスト教での「儀式」「ミサ」で抜けと、仮に、第三次世界大戦があり、キリスト教の国家が、敗戦となったとき、「精霊」抜きとか、宗教替えの命令が出たら、どうするのだろうか?

13)
日本の、江戸時代での、階級社会、城郭建築物を、誤解している人が多い。現在の国家以上に、町や村の人たちと、密着したと思える。

城は、町や村の人々を、外来者だけでなく、災害、疫病などから守る構造になっている。

災害などが起きたばあいの連絡、食糧である、米、五穀の保存。
日本の身分社会だが、町や村のため、死が覚悟で才能があれば、士族への取立ては自由だった。
町や村は、作物をつくる農家が、中心でないと、成立してゆかない。

西洋と、GHQアメリカの、教育による、洗脳で、いつのまにか、平安時代から、江戸時代の、生活のための伝統文化が、崩されてしまった。
アメリカなどの、日常、食生活に、生命、動物、植物を、大切にする文化があるのかどうか。

映画にテレビなど、派手で、極端なものが、庶民受けすると思い、より過激なものが流行し、とうとう、何もなくなったのが現実だろう。
日本、各地での、政治をつかさどる士族階級など、3%とか、数が限られている。
いちど、生活に、一番重要な、農家だけの、江戸時代の映画とかをつくったらどうか。


元禄14( 1701 )年、「忠臣蔵」で知られる、浅野長矩の、吉良義央への刃物沙汰の連絡は、「ハヤブサ(鷹、隼)」を使い、江戸城近くの、赤穂藩の屋敷からもできるが、諸藩共有の、徳川家康がつくった、東京都内の最高峰、標高25mぐらいの「愛宕神社」からも、「鷹匠」による、ハヤブサ(鷹、隼)を放てばいい。

かれら、鷹は、「歳時」、これも「『タテ・ヨコ』、人類学」だが、緯度と経度に従い、方向を、間違えず、飛翔する。

ある程度の日照があるとき、南へ向け、「棒を2本」、立てれば、歳時の一端、緯度が簡単にわかる。
また「4本」で、十字にすれば、緯度と経度など、自分の居る、正確な位置、天球での角度が、算出できる。

「風雲急を告げる」だが、低気圧の風にのれば、鷹にハヤブサは、1時間(60分)で、200、300キロ単位をとぶ。
2羽、3羽を使うばあい、1分で4キロ、5キロ。5分ごとなら、5里(20キロ)からの、空間の差が出る。
鷹匠たちは、鷹やハヤブサが、同じ時に生まれ、同じところに育ったばあいはじめ、いつも順位をしらせ、闘争など、しないように飼育してゆく。

いまの、人間、都会人にとって、4キロ、5キロは、長いかもしれないが、かれら、同じ所で飼育された「ハヤブサ(鷹、隼)」は、相手が飛んでいる空間を、察知している。

日本の、城の、別名は、鶴(白)、亀(黒)の、二色(ふたいろ)が付けられ、合図、信号を送りやすくできている。
赤穂城の別名は、「大鷹(おおたか)城」で、「白」となる。立地から、海岸からの攻撃に、準備する役目となる。

つまり、江戸でおきた事件は、2時間後には、吉良義央の名古屋に、5、6時間後には、姫路城、赤穂城へ連絡がついている事になる。

連絡へと、放たれた鷹は、しばらくして、また、戻すか、鷹匠たちが、ゆく。
鷹匠はじめ、訓練された、使いの「忍者」は、一日、二宿(80キロ)、三宿(120キロ)は、走ってしまい、日本の山、峰は、1000メートルほどの構造で、30分の単位で、登り、走破する。

14)
「忠臣蔵」とは何か。

後白河法皇すら困った、比叡山の僧兵の横暴さ。
織田信長は、室町幕府の堕落した将軍、足利義昭側である、延暦寺の宗教の在り方を、理解し難い「密教」といい、「妖気、妖怪信仰」のようになり、武器を蓄え、権威、権力、婦女子への暴力となった、延暦寺の僧兵たちを攻め、元亀2(1571)年、焼き討ちを持って、処分した。

織田信長以上の、徹底した、やり方での、天下統一をめざした、豊臣秀吉は、日本では、最後の、九州地方の征伐にむかう。

九州で、南蛮人、スペインにポルトガルによる、利益と搾取が本意である、偶像崇拝のキリスト教の脅威をしった、豊臣秀吉は、バテレン(伴天連)追放令を、天正15(1587)年、九州、筑前で実施した。

が、形式上で、九州は、異教徒、カトリック宣教師が集合し、太陽信仰の日本人には、理解できない対象である「キリスト」を神とし、偶像をもつ邪宗信仰の、鉄砲をもった大衆たち、このバテレンの九州からの、氾濫防止もかね、天正16(1588)年に、刀狩令、争いの禁止の法律を出した。

日本において、豊臣秀吉が、邪宗、キリスト教を排除しても、中国の明、李氏朝鮮では、無関心、容認の方向だった。

人間の心身をもったような、キリスト教の偶像崇拝は、太陽を中心に信仰をする、日本民族にとって、「化け物(ばけもの)信仰」だった。
豊臣秀吉は、天下統一のため、九州への影響と、勢力拡大をおそれ、明、李氏朝鮮を相手とした、文禄・慶長の役(1592ー1598年)をおこした。

日本が、中国、朝鮮をとおし得た、天竺(インド)からの、「仏教思想」は、輪廻という、自然を知る事、他力、自力でもある、大きな「はからい」に、任せることだった。
この思想は、現在のインド、ヒンドゥー教での、太陽を中心とした、多くの神々への信仰による、多神教と似ている。

また、「道教」、老荘思想は、争い事などから離れた、仙人のようになることである。
「儒教」、孔子の思想は、日常での、礼儀の教えが根本であり、ここには、偶像なぞ、存在しない。
豊臣秀吉が、徹底して退治しようとした、邪宗、バテレンには、共同に、生きるてゆくための、「自然のはからい」を、根幹にしていない。

バテレンの布教、ここには穀物を生産するような、教え、また、バテレン信仰により、生活での、対価、等価物は無い。
わたしたちが、日常、使いもしない、外国語(英語)の修得とやらで、利益が上がるのは、バテレンの国々である。

バテレンの国々は、自分たちの、言語を知る宗教人を派遣して、自国への利益を上げる。
輸出物は、「化け物、言語」に、人間を殺す「鉄砲」など「戦争道具」である。
輸入物は、かけがいの無い労働からの穀物、香辛料や、丹精な手間による労働からの衣服となる綿に絹、過酷な労働からの金属などである。

日本での、神道、仏教などは、自分たちの町や村の、血縁が、神主や僧侶となり、町や村を守ろうとするものである。

豊臣秀吉が、バテレン退治の文禄・慶長の役、この40年後には、バテレンによる島原の乱がおきる。
西洋が、キリスト教の布教、のためという、寛永14、15(1637-1638)年の「島原の乱」は、宗教という形相での、西洋による、日本の植民地化作戦、日本の「国家転覆」が、目的と判断した、江戸幕府による、キリシタン弾圧は、正しい事になる。


「島原の乱」の解釈だが、日本は、「中国の明」、「朝鮮の李氏」と、日明、日朝貿易のあと、南蛮貿易にうつり、徳川幕府による、朱印船貿易となる。
鉄砲を数多く、日本へ輸入してきた、ポルトガルを中心にした南蛮貿易と朱印船貿易により、九州では、キリスト教の広めとして、西洋からの武器、鉄砲を用意した、キリシタン大名が出現してくる。

ポルトガルにたいして、スペインは後から、さらに日本への侵出が、50年遅れる後発組み、オランダとイギリスは、インド、東南アジアの利権をめぐって、すでに争っていた。

島原の乱の、西洋式、16世紀からの鉄砲、大砲による、兵器の準備をした、計画された内乱は、徳川幕府、親藩だけでなく、外様大名の家臣、1万人単位でもっても、かなわず、10万人単位での、攻撃となった。

天皇家の守護、「京都所司代」の板倉重昌に、天皇家の家臣「第三代将軍、徳川家光」の代理、松平信綱(伊豆)が、九州での親藩、外様の関係なしに、「大・大名」での「軍陣」での闘争であっても、鎮圧に5ヶ月がかかった。

重要な視点だが、日本は、食糧は五穀植物による、稲荷を基とした、太陽信仰であり、羊や牛などの牧畜民族が所持した、偶像崇拝の、宗教の形相を、所持しない。
仏教の信仰といっても、旧仏教、鎌倉時代からの新仏教を選んだ、いまの日本の家庭での、仏壇に、「仏像」が見えるように、できていない。仏像は多くの種類があり、ごく普通の日本人は、自分のイエが、なんの宗教か、わからない人が、大多数である。

わたしは、僧侶が多い環境に育った。それでも、イエが何宗なのか知らなかった。1970年代中ごろ、京都で、学んだため、寺の名称を聞かれ、自分の父方が浄土宗、西山禅林寺派、母方が真宗大谷派とわかった程度の人間である。

イギリス東インド会社は、17世紀初頭から19世紀まで、インドから東南アジアまで、イギリス人たちの植民地構想で、その実地だった。
つづいて、日本の長崎、平戸で貿易をしていた、オランダが、東南アジアでの、確固たる、権利をうばい、オランダ東インド会社ができた。

オランダは、18世紀初頭から、ジャワ(インドネシア)で、100年あまり戦争をつづけ、ジャワ人との戦争のあと、利権をめぐり、東南アジアへの進出が後発のフランスと戦いをはじめる。

15)
元禄14(1701)年の2月、「忠臣蔵」は、赤穂藩の重大事というより、平和のため、聖徳太子の誕生以来、国家の象徴となった「天皇家」の、一時代の、将軍家に過ぎない、徳川幕府が、西洋にロシア、新興国のアメリカなど、外圧により、「日本」が、倒される、重要な事件と考えたほうが良い。

遠方の国である、白人種たちの、海外からの攻撃に対し、武士たちは、死を覚悟した、戦いの用意ができているか、徳川幕府は、参勤交代をつうじ、日本の共通語、江戸言葉による伝達を、徹底した。

日本全国へ、護岸、警備。
即座の、緊急事の、幕府への、通達が必要になったと考えるのが、正しい、ということになる。

城は、士族階級のためではない。先に、同じ、町や村の、人々への穀物の保存庫、安心した生活への、連絡の「砦」として在る。

「医師」に、英語はじめ語学の教員。物理、化学、音楽、技術。こういった科目は、日本語がうまくなくても、教えることができる。

西洋とアメリカの勢力が画策した、「明治維新」により、日本の情報伝達、生活のための財産であった「城」は破壊された。

また、日本、古来からの太陽信仰の神道と、中国と朝鮮から伝来の仏教を、多くの犠牲と精進により同じくした「神仏習合」の禁止。さらに、大衆を扇動して、仏教寺院に、仏像、経典までも廃棄させた「廃仏毀釈」。

しかし、日本の「城下町」「門前町」には、子供など、血族が残り、人間や植物を育てる、太陽をおがむ、五穀、稲荷信仰がもどり、子供を守る、地蔵信仰、「仏(ほとけ)」への信心である仏教も、20世紀になると、もどってきた。

ただ、これらも、西洋とアメリカによる、400年単位をかけた、近代兵器を用いた侵略計画で、日本は、明治維新の混乱より、大部分を失った。
第二次世界大戦で、戦争での、禁止事項、禁止条例を、ずる賢く、緻密に、計算し、民間人を殺すための爆弾での、都市空襲により、GHQアメリカとイギリスによって、先祖からの、財産、知恵を持った、老人から乳児までを、殺した。


GHQアメリカ、イギリスの徹底さだが、GHQ連合軍がした行為は、日本の、古代からの、自然を利用した、通信、連絡網の破壊だった。



以下、★、▲、●、▼、■、◆、◎、〇、☆、□、△、◇、×、*は、同じ、緯度、経度にある、外敵から、日本を守る、城の位置である。

欧米列強、とくにアメリカは、1920年代から、「旅客機」を飛ばしており、余裕だらけの、GHQアメリカは、日本中に都市空襲をかけた。
都市の生活者の大半が殺され、死者たちの、戸籍を、戦勝国GHQアメリカ、イギリス、ロシアは利用した。
日本の財産、外敵だけでなく、それぞれの地域の農作情況、感冒など病気を、すばやく連絡する、「整備」された、むかしの城下町、「伝統文化都市」と、そこの生活者、老人に、女、子供までも、殺したのである。

五稜郭 北緯41度47分   東経140度45分
松前城 北緯41度25分 東経140度06分
弘前城 北緯40度36分 東経140度27分

米沢城 北緯37度54分 東経140度06分
仙台城 北緯38度16分 東経140度51分

会津若松城 北緯37度29分 東経139度55分
新発田城 北緯37度95分 東経139度32分

江戸城●〇 北緯35度39分 東経139度44分
八丈島 北緯33度11分  東経139度79分

小田原城 北緯35度15分  東経139度09分

甲府城 北緯35度39分 東経138度34分

名古屋城(尾張)  北緯35度11分  東経136度53分
犬山城 北緯35度39分
東経136度94分
桑名城(桑名)  北緯35度03分 東経136度41分

伊勢(山田奉行所) 北緯34度29分 東経136度42分

富山城  北緯36度41分 東経137度12分
金沢城(加賀)  北緯36度33分 東経136度39分
福井城(越前) 北緯36度07分 東経136度22分

彦根城(金亀城) 北緯35度16分  東経136度15分
舞鶴城 北緯35度28分  東経135度23分

京都(二条城) 北緯35度02分 東経135度76分

鳥取城 北緯35度30分 東経134度14分
松江城 北緯35度28分 東経133度03分

淀城    北緯34度54分   東経135度43分

大坂城(大阪) 北緯34度69分  東経135度53分

和歌山城(紀州) 北緯34度23分   東経135度17分

明石城    北緯34度39分 東経134度59分

洲本城 北緯34度20分   東経134度54分

姫路城 北緯34度84分   東経134度69分
赤穂城(大鷹城) 北緯34度44分  東経134度23分

浅野長矩を主君とする、赤穂浪士たち。徳川家への名門、吉良義央の長男は、米沢藩第4代藩主、「上杉綱憲」である。

日本は、「言わずもがな」、沈黙の文化だと思っていたら、1970年代中ごろ、京都で、また、東京で、わたしは、明治時代の、初めに、生まれられ、米沢藩へ、嫁いだ人たちに会い、
「違います。違うのです。殿方(とのがた)は、言い合うのです。日本は、親藩も外様も無いのです。言い合わなければいけないのです。言い合い、議論をし、国を守る、より良い、方法を、築いてゆくもの、なのです」と、江戸言葉で、習った。

わたしは、大学とやらで、学習させられた、「江戸時代」の史学、思想学は、なんの為にあったのだろうかと思った。

欧米、ロシア列強による、中国(清朝)のアヘン戦争でわかるとおり、17世紀から、日本への、外圧がおきはじめた。

元禄14年3月14日に起きた事件は、元禄15年12月15日午前4時、吉良へ討ち入り、元禄16年2月4日、四十六士へ切腹との幕命が下る。この期間、おおよそ、2年、「20万時間」という、長い時間がある。
NHKよ、いちど、この100分の1にあたる、2000時間ぐらいの、歴史検証、連続ドラマをすればどうか。

以上、武士道というより、いかに、聖徳太子の誕生により、象徴となった、「天皇家」をまもりながら、どのような国策をすれば良いのか、議論され、国家としての、引き締めのため、藩主、浅野長矩に「赤穂浪士」と、名門である「吉良義央」たちが犠牲となったと考えるほうが、良い。

16)
GHQ連合軍により、戊辰戦争のあと、明治維新に、野蛮と言われ、取り潰された、日本の、城は、城下の人々を守るため、国家を守るため、東北から、南の九州まで、同じ、緯度、経度に、城が建築されていた。

日本のばあい、藩主と、上級士族しか、持ち得ない、江戸言葉の所持。さらに国、町や村のために、「死」を覚悟して、働いてくれる人物たちを、武士階級や、学者に取り立てた。

「天皇家」の、家臣として、「徳川家」、親藩、外様があるのに、欧米列強は、「天皇家」と対立している「徳川家」、松平家、外様大名と、歴史の改ざんを、行った。

この争わない、日本の制度を、根底から、覆すため、西洋とアメリカは、日本人と同じ肌をした、中国大陸や朝鮮半島からの人種もふくめ、日本で、開墾する努力をしらない、人々、若さからの正義感が強そうな、人たちを軸に、「勤皇志士」とやらを作った。

安政7年(1860年3月24日)の「桜田門外の変」だが、第13代藩主・井伊直中の、14男目にあたり、妾の子で、彦根藩の第15代藩主となった「井伊直弼」が犠牲となった。

資料が正しければ、ペリーによるアメリカ艦隊の、日本への来航により、凶暴な、アメリカの軍事力を知った、井伊直弼の、「アメリカとの交易」の方策が、正しい。

勝手気ままな、アメリカが主張する、「開港」を選択しない限り、日本人が、アメリカはじめ、凶暴な西洋の軍人は、日本男子を殺し、日本女性は、西洋人が持つ、野獣の性器 ”The American &The European Brute-Phallus-Tinpo”で犠牲となってしまうからである。

侵略戦争の歴史文化しかないように見える、アメリカの文化の、独創とやらは、ただただ、特大の兵器と性器 ”Huge-Cannon&PhallusーTinpo ”だけと言っても良い。

太平洋戦争での、日本の都市空襲だが、緯度と経度に合わせ作った、日本の都市破壊は、「B-29」の、全方位探知、360度の高度なレーダーで、簡単にできた。

残酷、この上ない、アメリカが、国際法違反の、「B-29」による、日本の民間人、殺戮。さらに、「B-29」による、広島への原爆、コードネーム (Code Name) 、リトルボーイ (Little Boy) 。日本名、「アメリカン・ビッグ・ボーイズ」。

アメリカの武器に性器(The American Big-Boy’s、Brute-Huge-Weapon&Phallus-Tinpo)は、日本人を実験として落下させた。
さらに、長崎までも。

岡山城(鳥城)  北緯34度39分  東経133度57分
広島城(鯉城) 北緯34度24分  × 東経132度27分

福山城  北緯34度29分  東経133度21分
萩城 北緯34度25分  東経131度23分

松山城   北緯33度50分   × 東経132度45分
高知城 北緯33度33分 東経133度31分
宇和島城 北緯33度13分 × 東経132度33分

大分城 北緯33度14分   東経131度36分

福岡城(舞鶴城)  北緯33度35分  東経130度23分
佐賀城   北緯33度14分 東経130度18分

平戸城 北緯33度22分 東経129度33分
島原城(長崎市) 北緯32度79分 東経130度37分

熊本城  北緯32度48分  東経130度42分
鹿児島城  北緯31度36分     東経130度33分


岡山から萩までの緯度、福岡から鹿児島までの経度を見ればわかるとおり、この日本の、「北緯34度」への都市空襲と、広島への原爆。「東経130度」の長崎への原爆。

これら、国際法にすべて、抵触する、焼夷弾での行為、野蛮で残忍な、武器と性器 "Americans Brute-Huge-Pistol&Phallus" だけが売り物の、アメリカ人にとって、インド、中国文明を由来とする文化を蓄積し、自分たち白人種より、賢く、知恵での、つつましい生活をする、日本人が、許せなかっただけと言って良い。

わたしは、1950年代の、神戸大で、陸軍731部隊の石井四郎門下、「正路倫之助」たちの部下に、ネフローゼ(腎臓病)を、伝染病扱いされた。

国や、町や村の安定のためと思って生きた、わたしの両祖父は、GHQアメリカのスパイだった、日本の公安の政治家と陸軍731部隊のメンバー、京大や神戸大の、「岡本耕造」に、「正路倫之助」たちにより、計画的に、殺された。

1970年代、敗戦後30年、父の学生時代の同窓会からの「封書」が、よくとどき、一通に、あと数人とあった。1977年、父が50歳を過ぎたとき、「まっちゃん、あと、4人になりました」との手書きの、ハガキがきたとき、旧制は、一クラス40人で、二クラスだと80人、三クラスのばあい120人なので、どれだけの数が、戦争で犠牲となったか、わたしは、茫然とした。

第二次世界大戦での、日本人、死者は、「2000万人」であるとは、1976年までに、わたしは、算出していたが、父の同窓だけでも、被害者の数に沈黙してしまった。

父に、加古川市駅の、「まっちゃん」と書いてきた人を、知っているのかと聞くと、「知っている」と言うので、一度、出席したらというと、「どんな顔をして、帰れる」と、怒るので、「そのままの顔」と言うと黙る。
わたしには、この言葉の意味がわからなかった。

大正時代に生まれた、父の、日本人として、正しくあろうとした同窓は、軍人として、死に逝った。また、戦後、日本の歴史を知り、抗議する、正しい日本人は、GHQアメリカのスパイに、殺されつづけてきた。

1959年、姫路日赤で、跡継ぎである、わたしの瞳孔がひらき、二度目の臨死状態になったとき、両祖父は、検診で、姫路の某病院でガンだと言われた。

この病院での、健康診断を、すすめてくれたのは、どこの出身か知らない、政治家である。わたしの叔母は、旧制姫路高等学校で、事務をしていたので、だれが学生だったか、わかる。


17)

右の写真だが、1954年初春、姫路、御幸通りの、写真館で、兄が、米田幼稚園へ入学するから、撮ったものだと思う。服装は、母の手製である。

父との写真だが、わたしの生家のまえになる。
1945年、敗戦により、陸軍のトラックが、国道2号線沿いの、わたしのイエの、この部分に、衝突してき、荒格子などを壊したところである。

1955年正月、貸切の、神姫バスで、平安神宮、伏見稲荷大社へ、参拝するまえに、叔父が撮った。
父が抱いているのが、生後7ヶ月の、父だと、不機嫌になる妹、後方が同年、米田小学校へ入学まえの兄、右端が3歳のわたしで、まえが2歳のイトコ。

写真の右側が、神戸、加古川方面で、100メートル東に、印南郡公会堂の正面、旧国道1号をまえにし、大正時代の中ごろになる1910年代、栗山のおじいちゃんは、ハーレーとインディアンを扱う、オートバイ屋をはじめた。

1945年敗戦後の秋、ハーレー・サイドカー(Harley-Davidson)の試乗会で、祖父の姉の、夫、栗山のおじいちゃんは、国道2号線へ向かうとき、GHQスパイに、カウントされた。栗山のおじいちゃんは、トラックに激突され、死んだ。
お客さんは、無事で、栗山のおじいちゃんは、死者となった。死体確認は、わたしの父だった。

宝殿の、町や村の治安のため、印南郡公会堂の、旧国道1号線がわに、設置した、「宝殿、警察」の、村の青年の警察官も殺された。
わたしの生家に、ドイツの警察犬、大型シェパードがいたが、警察犬シェパードも、つぎつぎ取られたり、殺された。

日本人は、戦後も100万人単位、殺された。
加害者は、GHQアメリカ、ロシア、中国共産党の手先の日本人であったり、中国人であったり、朝鮮人であったり、琉球人であったり、いろいろである。
わたしは、わたしの大事な血縁を、殺したり、強姦したりした、いま、政治家をしている、父親や祖父の、元官僚に、議員の幾人かは、特定できる。


母との、写真は、姫路、東雲町ので、祖父が、B−29からの、焼夷弾で、家族をまもるため、防空壕をほった、南がわとなる、裏庭である。
後方が兄、右端が、高校生で、学生運動をしたイトコである。

右下方の写真は、1955年春、兄が小学一年生になったとき、姫路動物園で、右端が祖母、後方が姫路城である。


妹が生まれても、姫路へゆくと、わたしは、咲江おばちゃんに会えると思い、「咲江、おばちゃんはー?」と、祖母に尋ねた。
裏庭の、東、姫路駅方向に、 おくどさん(台所)があり、昼ごろ、祖母は、台所の位置にいた。
祖父は、いつもどおり、床の間を背に、書見台に向かっていた。

わたしが、咲江、おばちゃんと、言うと、母は、「さっちゃん、どうしたのかしら?」と、いつも言う。
祖母は、台所から、立った姿勢のまま、「定印」のように、手を合わせ、「咲江は、どうしているのかねっ」と、まっすぐ、わたしを見て、江戸弁で、いつも言う。

2007年12月11日、母が、わたしに渡す、文書の、下に、小さく、うすい、住所録表が開かれてあった。
「伊藤咲江、戒名、『空蓮愛請大姉』、享年27歳、昭和二十九(1954)年五月十九日。千葉柏市旭町、西光寺」とあった。
1954年は、6月はじめに、妹やイトコが誕生するので、身重の母たちは、茨城県の水戸へなど行けない。


1980年代が終わろうとするとき、母もだが、叔母が不機嫌な、声を出した。
跡継ぎなのに、わたしが、本来の学問でなく、別のことをしていたため、と分かった。

わたしが、2007年12月、母に、夫が「鉄道院」勤務の、咲江おばちゃんは、どこに、住んでいたのと聞くと、「水戸の官舎」と答える。
「享年27歳」とあり、わたしは、「水戸」が理解できなくなっていた。ふつう、一度なのに、わたしは、三度、聞いた。
殺されたと、わたしは言った。咲江叔母は、自宅の風呂場で、水死で発見された。

母に、「下山、国鉄総裁、事件(1949年7月5日)」、「三鷹事件(1949年7月15日)」、「松川事件(1949年8月17日)」が記憶にあるか、どうかと聞いたら、「わからない」と言う。

この1949年1月は、神戸で、兄が誕生して、父母とも、神戸で、働いていたときになる。
作家の「松本清張」さんの名前は、分かるかと聞くと、「わかる」と言う。

松本清張さんとは、1970年代はじめ、一度、会った。独特の発声というか、「しもやま、さん」を、「しも」は普通に、「やま」で上げ、「さん」で下げる人だった。わたしは、他の学生より、いちばん近い位置にいたが、この人は、本当のことは、言わないと思い、一分で、席を立った。

母に、1953年、咲江叔母ちゃんところへ行ったかどうか聞くと、「何度か、行った」という。
わたしは、生後10ヶ月から、記憶があるが、行った記憶が無いというと、母は、「マツダのイエが嫌で、あなたを置いて、さっちゃん(咲江)のところへ、行った」という。母は兄だけ、連れ、行ったと、はじめて言う。

18)
母方の祖父が、1955年4月、兄に「小学生にもなって、商売人の子は、落ち着きがない」と叱責した理由がわかる。兄は、何度か水戸へゆき、それなのに、咲江おばちゃんの事に、関心がない。1901年生まれの父方の祖父が、1960年12月はじめ、村への責任と自殺し、残した遺言状に、跡継ぎは、よしのぶと書いた。
母は、町や村は平等の、精神がないと成立しないことが、わからなかったのか、「また、遺言を書き換えて、長男を大事にしない」と嘆いた。小学二年生で、仮退院のわたしには、意味がわからなく、祖父が、かわいそうとだけ思った。

内務省の中でも、二重、三重の構造がある。GHQアメリカに、ロシアとの対立。卑劣なGHQアメリカにロシアを、抗議していた祖父のため、叔父は、警察への、就職が、できなかった。

旧・内務省、高等官で、良識があり、最低、江戸時代はじめからのイエは、日本の町や村の、在り方を知っている。日本人独特の、「情け」というか良識で、リストラ(首切り)などできない。

咲江叔母は、夫が、鉄道院(国鉄)勤務という、職業柄、GHQアメリカの方針の、リストラの計画は、知る。
そこへ、血族が、旧内務省勤務。江戸時代から、旧家で、町や村人を大事にする、戦前から、自由主義の国会議員が集まるイエの、母が行けば、とちゅう、東京、桑名、大阪、姫路へと、リストラ計画が、発覚すると考えるのは、常識である。

戦勝国GHQアメリカ、イギリスは、計画どおり、金と地位が欲しい者には、戸籍を改ざんして、職と金を与えたのである。

1953年3月吉田茂首相の「バカヤロー解散」のあと選挙で、騒がしくなる、わたしの生家から、兄をつれ、水戸へ行った。
1954年もだが、1955年1月下旬、「鳩山一郎内閣」の解散での、票確定のため、父の妹の叔母は、加古川から、より東、親戚の栗山がいる、「土山」へ行ったときの光景が、わたしの記憶から、出てくる。

小学一年生から、二年生になるという、父のイトコの子供は、わたしの兄とちがい、賢そうだった。村々の代表があつまってきた。
「キヨちゃん、村のもんから聞いている」「多木(多木製肥所、いま多木化学)に、婿に入ったのも、すぐ、殺されたやないか」と、父と、工業学校での、同級生のことを言う。

「好太郎さんが、一生懸命にしていることは、わかる。でも、新しい加古川(=GHQアメリカとロシア)に、新しい高砂(=GHQアメリカとロシア)、新しい姫路(=GHQアメリカとロシア)相手に、どうする。好太郎さんに何かがあったら」の言葉が、わたしに、反復する。

咲江叔母の戒名から、母方の祖父の戒名、「釈正念」が、わたしの、脳裏にでてくる。
釈正念の、一部解釈は、「唯識専念、以心伝心」である。

咲江叔母と、両祖父のことから、わたしは、後見人、「佐川正雄」が、毎日新聞社勤務のあと、「東京興信所」社長になり、1977年、殺され、翌78年、副社長が、逮捕される事件があったことを言った。1970年代、だれが、公安の大臣だった?と言った。

土地、建物。学校、病院など、施設、教材、薬剤関係には、金が、非常に動く。母は、驚く。
父はいつもどおり黙ったままだった。

1970年代、角田忠信さんの、「日本人の脳」が、他の民族と違うとの説がでた。東京大学がわは、権威、権力主義で、認めてくれないとのことで、頭とやらが柔軟な、京大がわの湯川秀樹さんが、肯定する形をとった。
これを、オイルショックの、不況下、1973年ごろ雑誌『創造の世界』(小学館)に、市川亀久弥さんが掲載した。雑誌が売れないと、メーカーや印刷屋、また、各企業も困る。

湯川秀樹さんで、とうじ教育関係の出版社、大手5社とか、10社といわれたが、1社から年間、だいたい、200万〜300万円。土地、建設、機械、製薬関係からは、もっと、多い。
わたしも、角田忠信説には困った。あちらこちらの企業の、顧問をしている偉くなった60歳以上が、肯定してしまった。金銭に無縁の、若手で世の中へ、純粋な研究者は、即デタラメと、批判し、学界とやから離れていった。良い学者が、研究の場を去ったこと。このような事の集積、学者不在が、現在の世界中の大学情況である。

創造工学の市川亀久弥さんは、東京へ、よく行っていた。市川亀久弥先生は、宇宙、銀河系と台風の形、パリの地下鉄網と蜘蛛の巣、「ほらっ自然と人工のものは、似てる、でしょ」と、楽しく講演をされていた。等価変換理論、何にでもあてはまる、万能理論といい、「土地売買」など、これには、企業がからんでいた。

母には、1970年代、文部省、「臨教審(臨時教育審議会)」が連続していたことを言った。
わたしの事を心配してくれていた、灘高、勝山正躬校長は、「臨教審」で、「詰め込み教育の元凶」と、京都府教育委員長だった、どこかの顧問をしていた山田忠男先生と、評論家の江藤淳さんなどに、「タヌキ寝入りばかりして」と、わたし父方のイエの、僧侶、勝山さんによる灘の勉強方法を、批難していた事など言った。

これにたいして、わたしは、灘高の教育方法は、僧侶が経典を、覚える、反復の遣り方で、どこが悪いのかと言った。
それに、なぜ、こんなに、金、金といい、同志社の退職金はどうしたのですかと聞くと、「戦後、配給の米との引き換えに、前借して、、、、」と言われた。

西洋にアメリカは、牧畜と、寒冷地域でも実る作物を開発し、自給自足できる。が、日本はできない。
農業専業100人は生きていける。帳面専業100人は生きてゆけない。







■「新日本石油」とやらの、渡文明、西尾進路、杉山暎一さん、貴殿たちの道徳感は、どうなっている?強姦魔で乱暴な前田博司さんで、わたしのイエは、大混乱なのだ。

▼祖父は、内務省土木局へ、設計技師で入り、官吏から、高等官、土木局長まで、橋梁が専門で、わたしが幼児のときも、製図道具を、数々のペン先は、一寸(3センチ)角の、木の枠箱に分類し、置いていた。
婚姻届だが、大正時代も、江戸時代と同様、日本は、保証人の墨での署名に、印鑑といった、紙(和紙)が中心の、文化だったと分かる。

▼祖父、前田正の母、「とよ」は、嘉永三(1850)年11月26日生まれとある。
1960年、桑名別院での、祖母の、先祖代々の「石板」の説明によるが、江戸時代最後になる、祖父の祖父らしい、前田岩衛門忠正は、天保二(1831)年7月12日、享年70歳とあり、これらは、わたしへの家系図が、在るので、調べることができる。
「GHQアメリカ」のB−29による、戦争違法行為、東京への空襲、桑名への空襲、姫路への空襲がなければ、多くの人命も資料も、残っていた。祖父、28歳の字筆。
▼以下は、仕事で、移動ばかりする、祖父が、長男正夫の出生届け。1919(大正八)年、桑名「飯田一畝」町長、への提出、認証。
前田六三郎の子、長男は司法省裁判官、二男の前田二郎が内務省警視庁本部長。祖父、設計技師、前田正は三男で跡継ぎとなる。
大正八(1919)年、桑名、前田の跡継ぎとなる「正夫」が誕生したので、桑名、佐川を継ぐため、愛知、岡崎、前田忠三郎の二男、前田正雄は、同年7歳のとき、本籍、愛知県、額田郡岡崎町から、桑名町の屋敷、「佐川恒三郎」へ養子にゆく。
▼以下のものは、祖父が、内務省の用紙に書いた血縁、戸籍など。江戸時代の住居は、桑名市史他で、確認できるだろう。
祖父、没後、わたしの後見人となった、佐川正雄(旧姓、前田)は、大正元年(1912)9月15日生まれ、毎日新聞社中部本社勤務のあと、東京興信所社長となった。祖父の自筆による、認証、「戸籍吏」の、「千賀又市 」(初代、岡崎市長)。
▼祖母の性格が理解できなかったと、母たち姉妹が言い、「あなただけ、なぜ、口論も、しないの?」と1960年代から、良く聞かれた。わたしは、性格がわかっていたからと言った。祖母の母が「てる」と、成っている。
兄の名前はここからと聞くと、「そう」と言うので、このひい祖母さん、気が強かったはずと言うと、「そうよ。お祖父さんが養子で、わたしは、孫なのに、行儀や姿勢が悪いと、『煙草盆』の『キセル』で、(手に)コツンだもの」と言う。
わたしは、「杉戸」へ行っているけど、このひい祖母さん、記憶にないというと、「そりゃ、亡くなっていたもの」と言う。

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2008-05-05