京都昨今 |
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67、祈りこめ 清白みのり よろこびを 【新日本石油 天上論2】 | ||
▲知恩院 頭塔 「信重院」の、野菜が成る庭 第一章 [祈りこめ 清白みのり よろこびを] 1) 白川から、茶色がまじる、小さな黄に茶色がまじったセキレイが、チッチッ、チッチッ、と高い声で啼きながら、わたしの、頭上を、足元を、飛び、ついてくる。 知恩院へ、ひさしぶりに、華頂へと、ゆっくりとした登りを、行っているとき、ひとつの、淡い香りに、気づかされた。 黄色のカリンと思える実がなっている、庭に近づくと、頭塔とは思えない、乱雑な風光に野菜があり、左手、北の方は、朱の柿、丹の南天があり、右手、南のほうに、柚子がある。 黄色の柚子が、朱の柿と、丹の南天の、下にくれば、なお良いと思ったりする。 1970年ごろであれば、北山の、奥へ散策すれば、農家の庭先に、見かけることができたと思えば、思える、日常から、近い、風物であった。 ご子息になるのか、見送りに、頭塔から出て来られた、奥様に、カリンですかと、尋ねると、「ええ」と答えてくださり、「ゆすれば、落ちてきますよ」と言ってくださり、すぐさま、でこぼこな、地面へ向かい、じっさいに、ゆすり始められた。 わたしは、この純粋な、光景におどろき、もし、頭にでも当たったら、大変と思ったので、 「止めてください、地に落ちているもので、かまいません」と言った。 カリンは、長さ4寸(12センチ)ほど、直径2寸(6、7センチ)ぐらいのものにも、重量を感じる。 地面のカリンを、手にもてば、パイナップルを、淡く、うすくした、香りがする。 桃源郷という言葉があるが、わたしは、桃がなる光景を見たことがない。 カリンも、数本あれば、庭中、パイナップルを淡くした香りでつつまれるものと思った。 人の動作を学問してきた、わたしは、ご夫人に、カリンをゆすられていたときの、手の甲の、ヒフと血管から、 「どこも、悪くありませんから、病院へは、ゆかれないようにしてください」を、礼の言葉とした。 「あらっ、そうですよ。わたし、これまで、病気にかかったことが、ありません」 と、驚き、明るく言われる。そして、 「このあいだ、はじめて、日赤で、定期健診とかで、『悪玉コレステロール』が、、、」と、指摘されたと、おっしゃるので、 「医師は、患者をつくらないといけない、商売ですから」と答えた。 日本の臨床医は、わたしが、高校生の1968年ごろ、1970年代になると、内科医は、食べてゆけないと、医師の子弟は、言っていた。 臨床での、時代の先端は、脳外科になり、医学界では、1980年ごろには、80%近く、外科の専門分野が占めると言われていた。地味な利益は、耳鼻咽喉、眼科と言われていた。 産科医は、食べてはゆけるが、昔から、24時間、待機の職業で、良心的な医師だと、まず、倒れるので、選択などなかった。 1968年の暮れ、この事実をきいたとき、見得がない、ゆるやかな「村社会」の構築と、「産婆制度」の復活をと思った。町や村の女性は、女性が守る、東京をはじめ、大都市には、この精神がない、医師が多い。 それで、わたしたちが高校生のころ、イエが病院や医院経営のばあい、跡継ぎが、二人、三人としたら、「腹痛は我慢するけれど、歯痛は我慢できない。金額請求が自由」とのことで、兄弟の、だれかが、入試の簡単な、歯科大へゆく時代だった。 ところが、この歯科大も、わたしの、同窓たちが卒業する、1980年ごろには、過剰となり、大阪の中心のターミナルで、3人、4人とグループで、開業しても、客が、来ない時代になった。 2) 1月7日だが、2008年の、今年、京都は寒く、知恩院の、頭塔の周辺は、静かである。 1月で、寒い日は、わたしのばあい、わたしに会いたいと言って下さっていた、中国思想の研究家、塚本善隆先生が、記憶が出てきて、脳裏をしめる。 1980年1月の末、塚本善隆先生が逝かれた日、わたしは、同志社大学の、山田忠男先生宅に居た。 一時間おきの、時間で、寒さが、厳しくなってゆく日だった。 知恩院、頭塔 「信重院」は、ちょうど前に、高校から音楽部のある、「華頂短大」があり、70歳代に感じた、ご夫人の年齢から、「塚本善隆先生は、ご存知でしょうか?」とたずねた。すると、 「主人の先生にあたります。先代は、塚本善隆先生の仲人でした。主人の小冊子を、いただいて、くださいますか、どうぞ、中へ」と言われる。 わたしは、会うことがなかった、1980年1月の末、亡くなられた、塚本善隆先生のことを、短く言い、父方が、浄土宗の西山禅林寺派であることを言った。 貴族の生き方が、肯定され、権力、権威化され、庶民を観ることがなくなった、平安後期の仏教に対し、鎌倉時代、新仏教として、「浄土宗」があらわれた。 浄土宗はじめ、鎌倉時代の新仏教、貧困に、飢饉や病気、強盗など、現世である此岸には、安らぎの、ひとつ、救いのない毎日に苦しむ、庶民にたいし、死に逝くまえ、念仏など唱えていれば、「彼岸」、そこには、天国があるとした。 短い、念仏を、唱え、仏に対して、手のひらを合わせる、このような「印」によって、往生できるとした。 宗教など、難しく、分からないという、知識人ともいえる、権威や権力を求める、悪人たちに、ふりまわされ、生きることに、苦しみ、疲れた、上流階級へも、「彼岸」へは、「南無阿弥陀仏」と、称名念仏を唱えることで、安心を覚えゆけると、法然たちは、権威、権力者たちに、立ち向かいながら、説諭した。 白人種の歴史では、十字架による、「十字軍 Crusades」の精神が、純粋で、平和なようだ。 この白人種の論法だと、日本のばあい、インド大陸や中国大陸から有志、10億人集め、「数珠(じゅず)軍 Rosary’s」を構成して、新宗教旅行、旧制度改革、「経典8万巻」、日本語、中国語、インド語を学習させる会、「アメリカ大陸一周」とでも、やれば、世界一の戦争テロ国家、アメリカ合衆国も反省するのではないか。 3) 「信重院」の、表札に、「藤堂(とうどう)」と在る。 わたしが、「伊勢ですか」と言うと、「ええ、先代は、津でした」と答えられる。 幼児から、寺や、寺の傍に、育った経験から、庫裏(くり)をくぐらせて、いただき、寒さに、驚かされた。 建暦2(1212)年に、浄土宗の開祖、法然が、生きて居てくれれば、いいのに、逝った。 それで、浄土宗、総本山、知恩院がある、東山では、法然上人没後の「八百年、大遠忌(おんき)」が、平成23(2011)年に、執り行われる。 この大不況下、「頭塔」などとは、血縁になる、数軒の、良い檀家さんの、倒産などの離脱で、寺は、非常に苦しい。 とにかく、浄土宗、真宗関係は、昔から、寺の造作でわかるが、地味で、この不況下、もうー、寒すぎる、死ぬ、 「小坊主や 火鉢かかえて どこへゆく」と、言いたくなるほど、質素倹約をしている。 ご夫人は、福岡、八女市から、嫁がれた。茶で知られる、八女(やめ)のときは、「棚田(たなだ)」を所有しており、小学五年生ごろから、天秤棒で、肥をかつがれたという。 棚田(田毎、たごと)は、村の防御と、稲作での、重要な知恵がある。 高所からの、肥が、低地へと、順番に、流れ、肥料が分散する。 わたしが庭の、黄色く、実ったなった柚子(ゆず)を言うと、 「大根が、2本なりましたのよ」と、喜びをおっしゃる。 わたしは、白菜(はくさい)を取ったあとにしては、おかしい形なので、何だろう?葉っぱから、大根(清白、すずしろ)と思いながら、大寺院、知恩院の頭塔の、小さな庭に、野菜が、と思いながら、木々と、庭の色合いも含め、10分ほど、考えこんでいた。 国際政治が混乱している。社会の大きさ、マスコミ報道は、できるかぎり事実、複数の、物の見方を、とらないと、われわれ市民は、混乱する。 祭り事、政治の基本は、大根が2本、実ったのなら、それにより、争い事が起こったらいけないので、共同作業での、「実り」を、分配してゆくことにある。 わたしは、障子170枚とうかがった、信重院の、ご夫人に、「総本山、知恩院」はじめ、理由など、わからない状態で、大変なことを告げると、奥様は、 「わたしは、いい加減な性格ですが、主人は、障子貼りも、裏など見えないから、適当でいいのに、きちんとする性格で、、、」と言われたので、わたしも障子貼りのたぐいは、同じですがと、笑って答える。 「息子が小さいときは、背負って、障子貼りなどしていました。、、、(親の苦労が)わかるでしょうか」と、冷えた、庫裏の板の間に、日本人の、独特の動作というか、体を、折り、たたまれ、おっしゃられた。 わたしは、わかっておられると思います、育てられ方が、わたしなどと違います。わたしのイエも、一見、放任主義ですが、まったく違い、ご両親による干渉など、ほとんどない、ゆるやかな、育ちをされたと思いますと、わたしは言った。 80歳を超えられた、ご夫人からいただいた、冊子によると、ご主人、大本山「増上寺」、八十六世法主、「藤堂恭俊」、仏教大学名誉教授は、出自が、紀州、田辺とある。 わたしの叔父に、紀州、田辺、生まれがいる。 藤堂恭俊台下は、大正七(1918)年に生まれ、平成七(2000)年12月に亡くなられた(享年八十二歳)。 明治、大正時代、日本は、さまざまな伝染病が流行した。 西洋医学の導入で、遺伝では無く、伝染であると分かったが、処置法が無かったものばかりだった。 藤堂恭俊さんが、誕生された、1918年も、「インフルエンザ」が、日本全体へ流行し、死者が増えた年である。 紀州の田辺、「浄土宗 龍泉寺」の、母親がインフルエンザにかかり、藤堂恭俊さんは、京都、信重院、藤堂祐範伯父宅へ、跡継ぎの、子供として、迎えられた。 藤堂恭俊台下の、長兄は、博多の「善導寺」の大僧正であり、この関係だが、藤堂恭俊さんは、信重院の、ご両親を、実の両親と思われ、育てられた。 夏、紀州の龍泉寺へ、「施餓鬼会(盂蘭盆会)」を手伝いにゆくと、近所の人が、京都では、「可愛いがってくれますか」と言われたという。 このことを、龍泉寺の生みの母が、無駄なことを言った人物へ、「誰が」と、怒りの気持ちを、言われたとある。 藤堂恭俊台下、自らが、仏の「たなごころ」にある、浄土宗での「他力(たりき)」の文言は、ご自身の、人間関係を、年齢がゆき、小学校の上級生になるころ、「ぽつぽつは わかって きました」の、物事が、自然からの、雨露のように、「ぽつぽつは」と言われた、表現でわかる。 藤堂恭俊さんの、これら文言は、『浄土宗新聞』(平成五年八月一日号)にある。 藤堂恭俊さんは、日本が、太平洋戦争において、多くを、亡くした、世代にあたる。 藤堂恭俊さんの次兄も、戦死されている。 わたしの、活字の追い方は早く、藤堂恭俊さんが、昭和16(1941)年10月、東京、大正大学の学生のおり、徴兵検査があり、ひとり「丙(へい)」と下されたという箇所に、わたしは、眼が止まった。 「『丙』、すなわち、結核(けっかく)」と、わたしは思った。が、ちがった。 藤堂恭俊さんは、片方の眼が悪かったとあり、徴兵検査官から、 「兵隊に行くだけが、お国のためじゃない」と慰め、言われたとある。 片方の眼が、不自由の中、法然上人の、思想と文献学の研究に専念された、藤堂恭俊さんにも、昭和19(1945)年3月、徴兵が来て、はじめ、大陸の「平城」へゆく。 平城から、「漢口」、そして「長沙」まで、歩いて、「馬」を運ぶ、兵隊の役目をさせられ、労働の厳しさ、強さからだろう、黄疸(おうだん)にかかられ、病院生活に、なられたとある。 中国、朝鮮とも、これらの都市は、GHQ連合軍による、大空襲があった土地である。 「黄疸」 Jaundice のばあい、肝臓(かんぞう)、胆のう、十二指腸(じゅうにしちょう)など、ヒトの臓器はじめ、それぞれが原因であるとされ、藤堂恭俊さんのばあい、失明を、観念されたと思う。 藤堂恭俊さんは、終戦を、 「武漢」 Wuhanで向かえられ、「揚子江」から、「南京」へとなり、捕虜として、「苦力(クーリー、奴隷)」をさせられたとある。 捕虜、奴隷での、食事は、米だけで、菜っ葉はじめ、おかずがなく、同じ、捕虜の日本兵には、道草にある、植物が、「毒草」とわからず、煮て食べ、死んだという。 捕虜で、居場所を、日本に、書くことは禁止で、中国が、戦乱ばかりの、「三国、六朝(りくちょう)」時代、南京を「健業(けんぎょう、けんこう)」と名称したことから、「現在 健業」との、文面を、京都へ、書かれた。 これを、信重院の父がわからず、上京区の「清浄華院」、「江藤澄賢」法主が、気づかれ、南京に居ると、手紙を読解された。言葉とは、文章とは、このような、複雑が在り、修得したものには、記号として使える。 手紙のあと、南京で、京都の父が、1945年、7月2日に、逝ったという、訃報の書簡を、受け取られたとある。 捕虜、奴隷となられた、藤堂恭俊台下の、日本への、引き上げは、昭和21(1946)年5月とある。が、藤堂恭俊台下の表現に、中国での、扱いの中に、批判、染みた、気持ちを、再読しても、わたしには、感じられない。 4) 京都市中では、1970年代、オーディオ・ブームのときの、四条寺町、下がった通りの、高橋電気の「高橋初造」おじさんが、記憶にある人がいるだろうと思う。 後を継がれている、高橋進さんに、以前、初造おじさんの、「シベリア抑留、3年」という単位をきき、下士官と思ったわたしは、学歴が上ではと、聞いた。少尉で、 「一商(いっしょう。旧制、「京都市立第一商業」)」との返事で、わたしは了承した。 わたしの父は、旧制、「加古川市立商工実習学校」を経ている。 戦争が激しくなるまえ、大阪、京都など、商業の町に必要なのは、実業である、商売での、実践を学ぶことだった。 1940年ごろまで、家業が、水田をもつものは、農業学校へ進む、会社や商店をもつものは商業学校で、充分の学歴だった。 敗戦後、欧米風、父親が、旧制のナンバースクール出身を、自慢する時代が来たが、成績は、順じていない。 西洋文化を取り入れさせられ、東京帝国大学が、唯一でき、明治時代のはじめ、各学部、ひとりとか、数人だったのが、10年ほどたった、1890年ごろには、西洋文化への洗脳により、競争となってしまった。 生活のすべ(術)である、水田、畑、山林、漁業権が無いもの。家業が、商店など、経営業でないものが、立身出世背のため、進学することになった。 競争激化は、医学部で、東大に入学できないものは、京都帝国大学へとなり、欧米の帝国、侵略主義の精神に、はまってしまった。 5) 昔々、アダム Adam と イブ Eve が居ました。 鉄砲づくりの名人、アダムはケンブリッジ大学 Cambridgeで物理を勉強し、核爆弾を作り、神様から、ご褒美をいただきました。 イブ Eve は、ハーバード大学 Harvard で、医学、薬学を勉強し、負傷兵への輸血に、「赤チン」Mercurochromeを、あとで、「無色チン」 Hydrogen peroxide を考案し、無農薬野菜を耕作し、商売上手と、神様は、ご褒美をあげました。 夫婦喧嘩のとき、アダムは、小さな拳銃で、イヴを撃ちます。核爆弾だと、イヴが死ぬからです。 イヴは、仕返しに、アダムに、防腐剤をまいたり、クワやカマなど農機具で、攻撃したりします。「毒りんご」だと、アダムが死ぬからです。 これが、欧米、帝国主義の思想である。 侵略戦争の熟練、帝国主義、欧米による、計画的な、結果が、太平洋戦争での敗北である。 ロシアは、日本の人格ある、下士官などは、部下がおり、また、連隊同士での、相互、個人認識の連絡があるので、殺すことはできなかった。が、心理、生体反応の実験台につかい、労働者として使った。 「一兵卒」のばあい、部下たちが居ないので、ロシアは、生理、生体実験したあと、寒冷の地、シベリアで、外に放置することをした。この人員、「50万人」である。 ロシアへ。日本人の希望はつつましい。たとえば、北方領土問題は、春まで、放置してよい。小さな願望だが、シベリアで、生体実験のあと、殺された、日本人として、戦争に加わり、捕虜となり殺した、日本人、朝鮮、台湾、中国の、「一兵卒」、一人でいいから、帰せ。 「亜米利加」合衆国(利益の追究、追加だけを考える国だから、以下、「利加」国、「利」国)も、太平洋戦争中、「利加」国へ、渡った、日本人を、捕虜にし、奴隷にし、反抗するものは殺した。 人口論だが、日本は、世界一の「100万人」都市、江戸を持った、江戸時代後期で、「3000万人」ほど。 「欧利」指導による、富国強兵政策、大正時代に「6000万人」を向かえる。 「欧利」の精神で、従来のは野蛮であると、洗脳し、人口が増えれば、それだけ、欧利の品物が必要となり、欧利は自動的に利益があがる。 欧利式の、ハイカラ・モダンの侵略国家となった、日本は、1940年代、統計学では、「8000万人」を向かえる。 1940年ごろの、「数理統計学」とやらでは、この調子だと、1960年代には、「10,000(1億人)」となるとあった。そして、じっさい、1964年、東京オリンピックの年、もう少しで、10,000万人と言い、実現した。 数理統計学が正しかったのかというと、そうでは無い。 欧利の、古い武器はじめ、医療機器なども、高く買わされた日本は、太平洋戦争で、「2000万人以上」もの、生命を、犠牲とした。 この中に、日本が、侵略した、朝鮮、中国、台湾の人々もいれ、一般の、朝鮮半島、中国大陸、台湾、「大東亜圏」、東南アジアからインド、インドネシアの人々を入れると、より大きな、犠牲者を数えることができる。 また、日本には、見えない犠牲者が、無数と言ってよいほど居る。 男子が必要な、戦争時代、田畑や山林をもつ、農家のばあい、妻たちは、女子が生まれると、仏教での、教えからの、「灌仏会(かんぶつえ)」を行った。 水田や、棚田、段々畑で行われた。 農家だけでなく、商家も、妻たちは、孕んだ子供が、仏となるよう、水田などに引いた、畦と畦との、水の流れで、女子は戦争の役に立たないと、自分の子を、自分の手で、殺す、「水定(すいじょう)」での「灌頂(かんじょう)」を行った。 物理、化学、生物学、医学などは、完全、十全な学問ではない。 しかし、社会科学は十全に行われる。 日本に、いまの、お茶の水大学教授、古川竹二による、「血液型と気質説」が流行した。 古川竹二が、この仮説を出した背景だが、とうじが戦争の時代で、内閣府、文部省、東京帝国大学からの、指導、指示があった。 「A型は、保守、消極的、神経質」とか、古川竹二自身がA型で、仮説に、自己批評をこめていたが、農家が大半で、内閣府に軍部をとおし、地方へ伝わったとき、偉い方々の、科学による考え方として、A型の子供が、誕生ともに、排他され、灌頂された、悲惨な歴史をもつ。 第一次世界対戦から、シベリア出兵などの時代の1920年代、O型は、どんな血液型にも輸血できる「万能血液型」だった。そのため、勇気があり、大胆と、社会評価された。 わたしが、このことに、気づいたのは、1970年代はじめ、北山の京都府資料館、大阪中ノ島図書館の文献からである。 自然に厳しい、北陸、東北から提出された、「志願兵」の血液型頻度からだった。 あまりにも、O型、B型が多く、怪訝になり、聞き取りの、調査をはじめた。 6) 日本は、1964年秋のあと、オリンピック不況がきたので、固定資産税など、税金をかけ、道路作りに励んだ。 わたしなど苦手のサッカーなど、「スポーツ万能」で、名家出身でとかの、石原慎太郎さんはじめ、文化人、政治家が、日本では、「1989年からの『消費税』」が、最初 」と、言っていた。 しかし、日本は、太平洋戦争まえに、一度、実施している。 続かなかったのは、日本では農業での、「稲作万能」の経済で、就業人口が、圧倒的多数の、農家には、必要がなかったからである。農業中心の、日本の農家の集落では、米と、塩、醤油など、必要なものは、物々交換という事をしていた。 妻の出自となる、福井市では、中心部から、10キロ単位離れた、農家では、「塩屋」さんがあり、妻の家は、「醤油」が担当だったという。 妻の祖母方は、嫁入りの適齢期に、出火をし、ほとんど血縁の、「村の掟」として、嫁入りが遅れた。 福井の、妻の祖母地域は、火を出したイエは、「3年間、祝い事の禁止」で、祖母は、結婚が遅くなり、良家へ、嫁げなかったそうである。 福井市では、播州どうよう、いまも、日常、「部落」という言葉をつかい、福井市に被差別地域は、ほとんど無いと聞いた。 これを、警察学校教官だった妻の父に、祖母、ナツイは、 「福井は〜ぁ、松平様が、治めた〜ぁ、土地やさけ〜ぇー」と、福井弁で、自慢していた。 わたしは、このような事を、「誇り」に思って、生きてゆく、人たちがいるのかと思い、大学の教員たちに教えられた、わたし自身の、出自を言えなかった。 妻の祖母は、人間の、数え方だが、「ひとり」「ふたり」「さんにん」、「よったり」と言っていた。 妻などは、西洋の教育により、洗脳されているので、この「よったり」良くない響きだったというので、相撲では、「東西横綱、四つに、組みました」で、技の力量の発揮となるのではと言い、「2」は10進法、「2」「3」「4」は12進法で、要(かなめ)となる、非常に、大事な数字であると説明した。 日本の民族の知恵、「言葉」は、GHQ連合軍により、支配されてしまった。 わたしは、組み立て体操もだが、「人命救助」のとき、柔道や剣道では、2人のばあい、手、腕を、交差させ、菱形(ひしがた)へ持ってゆき、4人のばあい、より、空間があり、しっかりした、「組み手」を作ることができる。 それで、梯子や、また、厚手の風呂敷や布地をつかい、トランポリンのように、女、子供を、緊急のばあい、腕や布地にのせ、安全な方向へ、放り、飛ばす、形をとると、教えた。 「緊急避難」だが、これは、寝屋川市立第一中学校の、体育で保健担当の、「村上礼郎」先生が、1966年12月、2年の期末テストが終わったあと、「冬場になり、火事などのとき、女子でも、男子を助けられる、担ぎ方を、教えます」と、生徒を講堂へ集めた。 「まつだ君、上に、あがってきてください」と、モデルは、わたしで、全校生が笑う。 体格の良い、村上礼郎先生は、柔道での、「双手刈(もろてがり)」から「肩車(かたぐるま)」を、かけ、ひょいと、わたしを肩に乗せた。 「このように、腕と、脚を持てば、女子でも、男子を、助けることが、出来るんです。落とさないようにするには、より、太もも近く、股座(またぐら)を、ぐっと、強く、握るのです」と言うと、女子が、大きく笑った。 見世物で、犠牲者のような、わたしは別にして、生徒がなごみ、良い授業だったと、思い出になっている。 この、体育の村上礼郎先生が、わたしを呼び、指名したのは、1965年秋、転校したとき、毎日、大阪府一位の、剣道部から落伍したり、成績が落ちたとかで、喧嘩ばかり、売って、かかってくる連中と、わたしを見ていたのだろう。 わたしは、両手をつかい、腰から落とすと、危険なので、職員室が前にある場所まで走り、右腕だけの、背負い投げ、みたいなのをして払っていた。 柔道は、父の末の弟、ケンぼん兄ちゃんが、1956年5月、「加古川東高校」の一年のとき、「よしのぶ。中間テストと期末テストの間、一ヶ月あるから、初段とって来るねん。あとは受験勉強やし」と言い、4歳の、米田町立キンダースクール、保育園児で、読書中の、わたしを練習相手にした。 1956年4月下旬、母と妹が、国鉄三ノ宮駅から、突き落とされ、入院、治療のときだった。 ケンぼん兄ちゃんは、ダンベルを買ってきて、床机に寝て、腕をきたえ、腹筋を訓練しはじめた。 このあと、わたしに、受身を、教えた。 「よしのぶ、上手や〜」の言葉で、わたしは、足払いの、練習台にもされた。 足、痛いというと、「そーか。我慢し〜」と言って、なんども、された。 ケンぼん兄ちゃんは、6月、初段を取った。ケンぼん兄ちゃんは、村一番の秀才と言われているのに、母が病床で、わたしの子守のせいか、柔道のしすぎか、期末テストは、国語だけが悪く「67点」で、返却の答案を折り曲げていた。恥ずかしいのか、ほんとはアホなのかと思った。 豊中市立第六中学校では、教室の階下が、柔道部で、わたしの国語担当の、小柄な山本先生が、顧問だった。 詩の朗読を好む、山本先生は、柔道部へ誘い、顧問は同じ、宮田先生のハンドボール部から陸上部へかわった、わたしを、廊下でつかまえては、「肩車」「背負い投げ」、一本と、道場へ投げ、周囲が喜び、わたしが不機嫌だと、楽しそうにする先生に、少し習った。 柔道は、順を追って形を、覚えてゆく、人助けの、修行のものと思っていたが、「オリンピック」のおかげで、技から、逃げ、ひっぱりあう運動になってしまった。そのため、見ることはない。そんなに、引っ張り合いが好きなら、不参加か、故意に負けてやるか、綱引きでもすればいい。 「消費税」だが、日本が、外国人の旅行者、学習者、定住希望者を、許諾する、国際人交流、国家であるりたいのならば、旅行者たちも、日本の町の、公共部分を、利用し、消費してゆくのだから、10%、20%かけて、とうぜんという事になる。しかし、いまかけると、死ぬしかない人たちが多い。 公共事業、公務員などへの、予算、経費出費問題(歳入)では、不況だからするのではなく、合理的の追究のため、実地して、当然である。 アメリカに各省庁、公務員が多いのは、世界を奴隷化、植民地、コントロール化している、その弊害の一つの現象である。 7) 今年の京都など大変で、新町、室町通、西洞院に、寺町はじめ、道はきれいが、良い店の、閉店、ばかりになっている。 知己の、経営者たちが、わたしに、「ほんまにぃ、政治が、なっとらへん」というので、わたしは、日本の、嵩(かさ)ばらない、折りたたみ文化を言い、 「道できて 春の西陣 人はなし」 「伊吹山 雪は凍てつき 京児(けいじ)泣く」 「どこ自由 文明開化 梅咲かず」と、詠んだ。 ご主人に、女将さんたちは、「そや、そや。ビールのラベルみたいなもの、言うてはったから、西陣や織物、染色会館の、このポスター看板、もう、いらんのちゃうか」と、あまりにきつい。 わたしが、着物が、似合う方ちがいますかと言うと、 「ほや。なんで、わたしらみたいに、着物、着ぃはらへんねやろぉ」となった。 忙しいときは、「作務衣(さむい)」。外出は、ふつうの「直衣(のうし)」。 所持していた民族が多いが、日本文化は、衣服でも、「やり直し」が効く、「お直し」(寸法、柄、刺繍など、直し、ほどこし)、丸洗い、染め替え、洗い張りの文化がり、「重ね着」の文化がある。 頭髪も、年齢が行っても、見栄え、工夫ができる、「月代(さかやき)」文化を、成立させた。 「月代(さかやき)」文化は、中国、「清朝」の、体裁だけで、金が必要となる、「辮髪(べんぱつ)」文化とは、まったく違う。 次期、国会から、女性議員は、十二単(じゅうにひとえ、〔12進法〕)に、してもらったらどうか。京都の撮影所で、着物や「かつら」を扱われている、東山区、三条大橋、東、『時代や』の、ご主人、「中川喜照(よしてる)」さんに、時間をきくと、「30分で、できます」とのことだった。 8) 西洋の、植民地、帝国作りは、15世紀のポルトガルが、一番だが、後を、イギリスが追う。 ここで、中国大陸はじめ、朝鮮半島にかぎる、西洋の、近代兵器による、殺戮、侵略は、どのような経過だったのか。 17世紀、イギリスはじめ、西洋列強が、インディアンを殺しつづけたが、西洋の、純粋なキリスト教精神がわからない、インディアンは、どこまでも、戦う。 先住民で、太陽だけ拝んでいる、日本人と同様の、野蛮な黄色人種、インディアンの男子は銃器で殺し、これは美人な女と思えるのは、徹底、犯してから、殺した。 18世紀、キリスト教精神の布教のなか、定住した西洋からの、まことに、すぐれたキリスト教のアメリカ人と、本家キリスト教のイギリス人に、総本家キリスト教フランスにスペイン、オランダ人たちが、キリストの精神がわからないのかと、略奪、殺戮の、「アメリカ独立戦争」 American Revolutionary War が起きた。 広大な、新大陸は、「新アメリカ」のもので、インディアンを殺したあと、イギリス、フランス、スペインなどは、アフリカ、奴隷海岸 Slave Coast をつうじ、黄色人種同様、野蛮な人種、黒人種を、奴隷にした。 黄色同様、黒人の女性も、犯したあと、殺した。 すばらしき夢がある、西洋のキリスト教、巡礼者 「All of Christian MAN-POWER 」は、殺したり、犯したあと、「アーメン」といえば済む、実に、合理的な精神で組み立てられている。 戦争がつづいた、西洋は、財力が足りなくなってきたので、新しい財源と認定した、中国(清国)から、財産を奪い、領土化することにした。 アヘン戦争 Opium Wars(1840〜1842)は、黄色人種の中国の「清朝」と、白人種によるナポレオン戦争と、アメリカでの戦争で、大不況に陥った、「イギリス帝国 Great Britain」 との戦いである。 「南京条約」で、清国の多くの人民、兵隊は、殺され、女性は犯され、清国は、イギリス帝国の隷属化となった。 1800年代、フランスは、ナポレオンによる、侵略戦争「ナポレオン戦争 Napoleonic Wars」で、西洋全体から、ロシア、トルコ、アフリカ圏まで、侵略をすすめた。 ナポレオンが育てた、軍人たちは、着々とした、陣取り戦略をすすめ、これには、兵器、重工業が発達した、イギリスもかなわなかった。これに対し、西洋は、ドイツ&イタリア、ドイツ&ロシア大連合でわかるように、対、フランス「大同盟」を、何回も組んだ。 アロー戦争 Arrow War(1857〜1860年)だが、中国へ、侵略国家イギリス、フランスが来て、中国人を殺す戦いだった。 どちらも、武器類が豊富な、イギリス、フランスなどが、計画的な、勝利国となり、中国の財産を奪い、「九龍半島、香港 、新界」をはじめ、領土化して行った。 これらの計画的な、殺戮、略奪で、イギリスもフランスも、1860年代のアメリカでの、南北戦争 American Civil War を起こす。 連続して、中国では、欧米のキリスト教精神の、画策により、1860年代「太平天国の乱」が起きる。 このとき、イギリスとアメリカ合衆国が、支配、領土化したのは、「南京」である。 南京は、長江(ちょうこう、揚子江)をつかい、 財産の運搬の貨物船に、軍艦の出入りもできる。 これらをしたのが、「100年単位」で、アジア、アフリカ、北アメリカ大陸、南アメリカ大陸の、人間を、奴隷、強姦、殺人 Genocide してきた、輝やかしい歴史をもつ、イギリスに、「利加」合衆国である。 9) 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で、西洋と、アメリカに仕掛けられたと、わからず、どんどん、侵略戦争に突入し、中国大陸、朝鮮半島に、日本の国費と、中国と朝鮮人を労働者として、使い、日本帝国の、証(あかし)の、建造物を、多く建て、アメリカ主導の、太平洋戦争によって、財産と、国民の生命の多くを、無くしてしまった。 歴史の復習なのか、日本は、歴史上、アメリカとの手続きにより、「専守防衛」が決まりだった、日本の自衛隊を、海外派遣している。迎撃ミサイル ANTI-Ballistic MISSILE の訓練もさせている。 レーダー(Radar Set)が役立つと思っている。 日本のばあい、「利加」合衆国によって、原子力を動かし、東海村はじめ「原子力、開発機構」が許可されている。また、ロケットも許可されているのであるから、計算により、アメリカ合衆国の、レーダー、及び、迎撃ミサイルの効果をなくすることができる。日本の技術をもってすれば、ロシア圏内も、かんたんな事である。 西洋の概念で、ジンギス・カンを中国にふくむのであれば、中国による、西洋侵略はあったことになる。 しかし、一般の歴史概念では、中国や、日本が、「ジェノサイドの総本家イギリス帝国」まで、侵略したことがあるのか。 21世紀という時代、一度、イギリス、「利加」合衆国、および、西欧列強は、インドからの「仏教」「ヒンズー教」、中国からの「儒教」、アラビアからの「イスラム教」にでも、改宗したらどうか。 次期、アメリカ合衆国大統領は、「般若心経」 Buddhism ぐらい、暗唱できるぐらいの、能力のあるものにさせたらどうか。 アメリカ合衆国とやらは、2005年のハリケーン災害での被害者、国際都市のNYでホームレスたちが、凍え死んでいても、イラン、イラク戦争に疲れ、アメリカの、若い兵隊が自殺していても、どのような余裕の精神構造か、大統領選挙という、見世物をしている。 サブプライムローン Subprime Lending などを、大きな失策、負債とかやっている。 サブプライムローンなど、アメリカ合衆国の、「上流階級 Extra-First-Class 」が、社会の上流は、大多数の中流、下流社会の成立で可能であることを自覚し、 ブッシュ大統領、特権命令 USA 43rd President Charge-Order として、過去の大統領経験者はじめ、政治家、実業家たちが、全財産の9割寄付すれば、かんたんに終止がつく。 しかし、どうかして、日本から、搾取しようとしているのが、「利加」合衆国である。 「利加」合衆国の経済回復、最良の手段は、第1次「東・西・南・北」『利加』合衆国戦争」を、自国の、中央部の適当な場所ですればいいことだ。欲張りな自称白人種、1億人が死ねば、「利加」合衆国の経済は、復活する。 NY州から、カリフォルニア州へラインを、WA州からフロリダ州へラインを。×になった「カンザス州」での、決戦。 北はイギリス、南はスペイン、ポルトガル、東はドイツ、イタリア、西はフランスで、は第1次「東・西・南・北」『利加』合衆国戦争」を行い、中距離弾道ミサイルで、自称白人種、1億人が死ねば良い。後方支援はロシア。 観客席は、上空から、有色人種の富裕層にして、一回、「1億ドル」の入場料を取れば、「利加」合衆国の経済は、復活する。 10) 父が、2007年12月11日、 「おまえ、お兄ちゃんって、いっとるけどなぁ、、、」 と、食堂で、二人のとき、言う。 わたしは、父が、どこの、お兄ちゃんのことを、言っているのか、わからない。 「よう、来(き)よった(イエへ何回もきていた)、けど、、、」 この言葉使い、播州弁の抑揚で、政治家の渡海元三郎さんと紀三朗さん、親子とわかった。 が、何が言いたいのか、わからないので、わたしが黙っていると、 「もう、ええ、年(良い年齢)やで、、、」と言う。 沈黙のあと、わたしが、なぜ、わかる? と聞くと、 「テレビに、出とん、がな、、、」と播州弁でいう。 ここでの、播州弁での、「がな」は、断定で、抑揚が下へとゆく。 父が、困った雰囲気になったので、ずいぶん前、インターネットで、ホームペイジを、一度、見たときの印象、 「お兄ちゃん、知らんあいだに、お爺ちゃんになっていた」と播州弁風に、言ったら、父が笑う。 11) このあと、インターネットを見ていると、「渡海紀三朗」文部科学大臣が、誰かに、 「、、、、がんばってください」と、2007年12月、言っている。 渡海、文部科学大臣が言っている相手は、京大の、「万能細胞」とやら、再生研究所の「山中伸弥」さん、と言うことだ。 渡海大臣は、早稲田大学OBだそうだから、秋葉原の「ネギでも、ゴボウでも、鉄筋でも切れる、万能包丁」の知見はあるだろう。また、浅草へゆけば「ビルの設計も、手術台にも、バクチの場にもできる、万能デスク」の知見もありそうだ。 一見、平和、永世中立国とやらの世界の金庫、スイスはじめ、西洋、アメリカの大学と、製薬会社に金がなくなったから、日清、日露戦争のとき同様、つつましい日本に依頼したと、取れる。 資料が正しければ、「ヒトラー Adolf Hitler 」に、良く似た環境に育ち、それを、選択してこられ、ヒトラーの「クローン」とも言える、「山中伸弥」さんとやら、東南アジア、および、アフリカ、中部・南部アメリカの人間を、実験台にしてきた、実験事実、次の世代への、「薬害」や「技術」での、責任問題も、自覚されていることと、思われる。 山中伸弥さんとやら、「早期実現」を、期待する患者さんたちに、どのように責任を取られる? 基礎学問など、労働により、それぞれの職種の知恵を見て、金銭を得て、静かに、進めるのが、基本とわたしは、考える。 まさか、神戸の「先端医療センター」か、 さんざん、国家の予算を、強盗と同じぐらいぶんどった、京都、木津川、高等研(国際高等研究所)の、誰かさんたちに、押されたのではないだろう? これほどの大騒ぎ、結論だが、細胞研究には、45歳を越え、昔だと、大学からしりぞいても良い、すごい年齢の、山中伸弥(1962年 - )さんが、将来の職業を約束できる、20代の、有能な助手、2、3人の経費で充分である。 「万能細胞論」だが、山中伸弥さんとやら、ネズミや、猫や犬レベルの、「クローン」ぐらい、海外で、実践成功されてきた方と思う。 同じく、「おたまじゃくし」を「なまず」か「くじら」に、「どじょう」を「うなぎ」か「大蛇、大(おお)アナコンダ」ぐらいへの実験はされたと思う。 わたしが知る限り、東大医学図書館、国会図書館などになく、京都大学医学図書館にしかない、1900年ごろの、西洋の発生学論文、文献類は、熟読されたと思う。 読解には、10年以上の単位がかかる。50歳が、やがて来る、すごい年の、山中伸弥さんの、年齢からゆくと、1980年代から、大学図書館に、こもりっきりで、学問をされたのだと思う。 確率論で、ヒトの遺伝子を、仮に、「2万個 」として、どの「遺伝子座」を選択し、「高分子の、塩基配列、連鎖」を、「傷、無く」、どのように「抽出」し、どのように「保持」し、どのような「組み合わせ」をし、「培養」されたのだろうか。おそらく、無類の、万能頭脳、万能技量の持ち主なのだろう。 山中伸弥さんは、ヒトと、植物の細胞は同じとも言える。電子顕微鏡のまえに、光学顕微鏡で、細胞の特性把握に10年単位で、実験をされたのだろう。 ヒトには、交感神経、副交感神経があるとされ、これらには、とうぜん、「神経細胞」がある。 山中伸弥さんは、体細胞と、神経細胞の「界面」だが、この「界面」を、どのように把握され、交感神経、副交感神経間の、「神経-連絡-細胞」なども、どのような考察研究、発表されてきたのかと、思わさせられる。 ヒト、個人の特性、「骨格細胞-神経細胞-体細胞」、これらの違い、これらの「界面表現」と「界面実験」。 また、「界面」からの「輻射」と「帯磁」などからの「発生熱問題」での、「連絡網」を、万能細胞論で、説明されただろうと思う。 これらがなければ、「空気、水分、温度の各設定」が無理であり、「神経細胞、構築」へ至る、大きな培養などへは、100%不可能だからだ。 12) 2008年1月、ブラジルの首都では、黄熱病 Yellow Fever(黄熱ウィルス)やマラリアを、媒介する「蚊」を駆除するため、軍隊まで出動したという。 「ロックフェラーグループ The Rockefeller Group(ハーバード大学)」のばあい、私企業で、慈善風に、金銭集めをしてしまう組織である。ブラジル人を、実験台と考えているのか、ワクチンで、銭もうけ、活躍中とある。 「国際赤十字」は、原因を、たんに気候変動とか言っている。 「万能頭脳細胞」を、お持ちのような、山中伸弥さんたちには、「蚊」が媒介する黄熱病 Yellow Feveでの「原因」がわかっているのではと思う。述べて欲しい。 神戸、先端医療、再生科学センター、発生論専門とやらの「西川伸一」(京大、1948年ー)さん、あなたでもいい。まだ、20代後半ぐらいの方と思いたい。 西川伸一さんとやら、まさか、50歳を越えていないと思いたい。科学、医学は10代で、先が見えていないと、遅い世界だとは、科学者の大半がいう。 西川伸一さん、自ら肉体労働をして、若い世代に、研究費をあげなさい。マスコミで宣伝している、責任は大きいのだ。国家の金は、大勢の労働者からの、血と汗の、命の、搾取の結晶だと、自覚にあるのか。 マスコミ好きと聞いている、京大、皮膚科、「宮地良樹」さん。蚊による、ヒフからの感染症だから、あなたが、答えられても良い。すぐ答えられると思いたい。 いや、2007年2月15日、通信社、新聞社など、世間を、騒がせている、マスコミの、判断力欠如の、責任が一番大きいのだろう。 海外の、科学マスコミ、アメリカの「サイエンス」に、掲載されたとかだが、責任はある。 ヒフからの「万能細胞」が、つぎは、肝臓に、胃の細胞からもできる、ガン遺伝子をマウスの細胞に、しかしガン化しなかったとあるが、このマウス実験は、一体、何の関係があるのか。 コッホ Koch の、結核への、免疫、「ツベルクリン反応」も、本当の免疫になるかどうか、基準の決定までに歳月がかかった。「北里柴三郎」は、1880年代の、栄養、健康医薬品関係、「牛乳屋」の、血縁、「松尾臣善」(日銀総裁)の娘と結婚し、「内務省」に就職でき、留学できた。コッホ研究室へ入門できた、北里柴三郎により、「破傷風菌への、血清療法」ができた。 「山極勝三郎」博士は、コッホKochの、ツベルクリン反応を研究してから、「細胞病理」、解剖の、ウィルヒョー Rudolf Virchow へ入門。ガン発生は、遺伝か、環境かで、ウサギの耳へのコールタールを塗布実験し、成功した。 これは、西洋からも、高く、評価されそうになったが、黄色人種の日本人だからと、放置された。 本郷の山極勝三郎博士の自宅で、死を看取ったのは、東京帝国大学に、自ら、停年制を取り入れた、「入沢達吉」博士だった。 これらの研究は、「破傷風菌」。炭坑夫などの病気の症候へ、実験台としての「ウサギ」に、石炭からのコールタールという、「実際の物」を、検査、検証してゆく作業である。 1961年、わたしが、加古川市立川西小学校での「ポリオ」と「BCG」を受けたいと言うと、母は、姫路日赤、小児科の山本又一先生へ、何度も、相談に行った。「BCGだけは、しないように」との返事は、ずっと同じだった。 1963年、転校し、小学校からの宣伝文章で、「結核」は、嫌だと思ったわたしは、また、「BCG」を受けるというと、母は、山本又一先生の、親友、「済生会中津」の浜本芳雄先生へ相談に行った。 浜本先生も「BCGは、必要がありません、ダメです」だった。 1964年、また、小学校からの「知らせ」で、わたしが「BCG」と言い、母は、「済生会中津」へ。浜本先生は、「必要ありません」と言われ、わたしが、もう、6年生だと言うと、母は、また、「済生会中津」へ。 姫路日赤の山本又一院長は、「(ポリオや、BCGワクチンなど)そんな事より、1959年から会っていないから、一度だけでも、顔をみせに、来て、欲しい」と、何度も、母に言った。 が、わたしは拒否し、小学校が勧める「BCG」を接種し、発熱し、倒れた。 加古川市での、ポリオのときは、小学生全員、消毒しない、同じスプーンだった。 豊中市での「BCG」も、同じ注射器で、連続で、学校医の、不清潔さに、驚いた。 わたしは、いつも、小学校の、保健室担当の、医師に、「予防接種をしておかないと、小児マヒにかかります。結核にかかります」と言われつづけた。 子供の、心身を、簡単に、傷つける、文部省認可の、「学校」とは、いったい、どこからが、信じることができ、責任をとる人物がいる所なのか。 わたしにとって、名医の、山本又一先生、浜本芳雄先生(2人とも、1907年生まれ。京大OB、学位も、1939年京都帝大で、兵庫県出身)の名前を言わせ、戦中の混乱期、数日か、3ヶ月か、入学随時の講習会の、専門学校へ通い、医師になった保険医は、いつも「そんな医者、聞いたことがない」と、蔑んで言った。 13) 昔、京大出身の、国立遺伝研の木村資生さんによる、「中立進化説」というものが在った。 遺伝は、ダーウインの進化論のようでは無く、中間のものという、湯川秀樹さんの、「中間子論」に、乗っ取ったものだった。 湯川さんのは、実際の物質での、分析論だが、木村資生さんのは、実証として、ただの数字の上に、数字という、実際の物質が無いところでの、主張だった。 単なる、騒動の、イギリスのドーキンス Richard Dawkins の、ダーウインの「進化論」と優生学に類似した思考、「利己的遺伝子」説を、流行させたのも、京大からだった。 この経由、きっかけだが、京大、理学部出身の、「垂水雄二」(思索社→平凡社)さんと思う。 垂水雄二さんは、わたしが、山田忠男先生が知己の、国立「民博」の「垂水稔」(大阪市立大OB)さんと、まちがえ電話連絡したとき、イトコと、言われていた。 わたしと、垂水稔さんとだが、山田忠男先生から、紹介されていたけれど、わたしが忙しく、1979年秋、「民博」のコピー室におられたとき、お辞儀をしただけの、関係である。 垂水雄二さんが、慶応大の「岸由二」さんに、 わたしには、単なる、優生学の主張をしているに見えない、著作の翻訳を、依頼したのだろう。 岸由二さんは、一目だと、優しさのある人物かなと思ってしまう。が、山中伸弥さんと似た、ヒットラーに似た、思考、感情をされる人物である。1982年6月、 「ぼくが、こんな、慶応大の、経済に居るんですよ」「横浜市立大、都立大の理学です。あなたは、文系だ。文系が、理系の学問に、首を突っ込むな」「 ぼく(思索社)の訳本、学歴が自慢の、編集者(垂水雄二)に、厳しい条件をつけた。それが、できるか」と、勢いこんで、言った。 つづけ、岸由二さんは、「あなたの研究は、すべてダメだ。許せない。ぼくは貧乏に育った。こんなもの、自費出版して」と、わたしの『ABO遺伝子と民族音楽』の、中身を、理解せず言い、東横線、「武蔵小杉」だったと思うが、「ぼくは、こんな駅で乗り換える、貧乏人だ」と、わたしには、意味不明の言葉を言われた。 最後は、「マスコミに登場してくれば、あなたを、叩きに、叩き、潰す」と言われた、人物である。 岸由二さんは、厚い本を、共同翻訳され、自画自賛されていたが、形質人類学の部分、資料は、1920年ごろ、行き渡った、古いもので、ヒトラー Adolf Hitler が、好きなのかと、改め、思った。 民主主義と思われる、慶応大学からは、一円の、賃金も、取っていないと思う。 14) 東大も、京大も、阪大も同じだが、これら、旧帝大のガッコウは、正しさを持つ学者を追い出す、奇妙なところだ。 愛知県犬山市、霊長研だが、人類学の「岩本光雄」さんは、研究調査といい、女学生たちの、性器に、岩本光雄さん、ご自身の男性器を、つぎつぎ、挿入していった。この事件、河合雅雄さんたちが、ご存知では。 「京大、霊長研」の「指紋のデーター」は、同志社の学生である。 同志社大学の、山田忠男先生が、採取され、わたしが、使い物にならないと、判断したものである。 指だけで、ヒトの細胞は、外から、だれでも分かることに、指紋のある手のひら側、指紋、手の甲には皮膚隆紋がなく、別の組織体である。また、爪の細胞も違う。 この手だけでも、複雑に、皮膚だけの、細胞組織体で、できている。 万能細胞とやらの、山中伸弥さん。あなたは、外科もされたそうだが、わたしは、少しの傷、あるいは、手や顔など、女性が気にする、体内の患部手術は、細い、彫刻刀類を、磨きに磨き、傷跡なしにする。メス類は、傷跡が残るからだ。実験台は、わたしであるし、わたしの家族が緊急のときである。 1970年代、京都で、外科というと、左京区の「石野病院」、中京区の「革島外科」だった。良心があり、70年代から、レーザーをつかい誠意をもって処置してくれた。同じく、「万波整形外科」も、リウマチ治療では知られる。両方とも、わたしの家族がかかった。 かれら、在野になるのか、市民が紹介状なしに行ける、医師たちとちがい、日本の、大きな建物にいる人種は、どうなっているのか。 霊長研、「松沢哲郎」所長、愛知はじめ、不況の、全国の動物園で、日銀の「福井俊彦」総裁と、ノーパンで、「反省するサル」でもしたらどうだ。ついでに、まえ京大病院の、福井次矢さんも加え、老人同士、おまけ「W福、ふくふく、ノーパン」で、全国、巡業されると良い。 東大もだが、京大には、不必要なものが、はびこりすぎる。 問題として、80歳をとっくに過ぎた、キリスト教、バレテン・日野原重明(1911−)さんが、2000年ごろ、なぜ、京大、旧、産科病棟にいたのだ。 この大悪党、バレテン・日野原さんとやらは、音楽療法などと言っている。 クラッシックの器楽奏者は、同じ曲を、10年、20年単位で、練習し、ふだんは、自分自身の得意曲 Repertory など、聞きたくない。何も聞きたくない状態が多い。 コンサートマスターのバイオリン奏者が、「万能奏者」といい、良く似た大きさだと、次の日は、ヴィオラにチェロ、コントラバスを演奏するなど、わたしは知らない。 かれらの頭脳は、高音の弦のピッチが、演奏中ゆるまないか、ペグ(ギア、糸巻き)は大丈夫か、弓の毛の束の状態に、最初の音に、ボーイング(動作)を、練習時のときと、同様にできるか、実際の演奏中は、自分自身の指の動作の間違いは許されないし、指揮者はじめ、オーケストラ全員の体調はどうかなど、気配りはじめ、多くの事柄ばかり、考えている。 個人識別の、皮膚隆紋、指紋だが、音楽関係者は、変化してゆくように見える。 弦楽器で、右利きのばあい、左指、小指は、右より、ずいぶん長い。 わたしのばあい、クラッシックギターの修得は、22歳のとき、朝から夕方まで、3ヶ月ほど、集中すると、これまで、4ミリ差だったのが、7ミリ差になっていた。コントラバス担当では、10ミリ(1センチ)の差がある。 個人識別に、怪我や運動、体重で、すぐ変化する、手の「静脈、動脈」など、用いられない。 「金脈」だと、識別が、可能かも知れないが。 15) わたしと、良く似た年齢と聞いているが、「万能診療」みたいな、「総合診療」とやらだった、悪党老人・福井次矢さん、どういうことだ? 日野原重明さんが、産科は辛いので嫌、でも平安神宮への、「参道」でなく、美人の女優さんの「産道」が大好きだとは、聞いたが。2004年3月、4月、わたしへの出来事を、責任者として、どのようにされる? あれは、京大の医師からの、計画的「感染」とも言える。わたしは、まだ、公言していないが。 点滴を忘れ、わたしの患部を、部下に、デジカメで撮らせた責任者、皮膚科の「宮地良樹」さん。千葉大学から赴任の皮膚科の「宇谷厚志」さんが、「相談」へと言われ、わたしが相談と言っているのに、勝手に麻酔をかけ、さらに、わたしが拒否しているのに、左目へ、失明の、レーザーをかけたときの責任者、麻酔科の「福田和彦」さん。 宮地良樹さん、福田和彦さんたちだが、わたしは時間をかけ、「終身刑」へ、持ってゆき、「網走」か、「加古川刑務所」に入ってもらう所存である。 同じく、根本の悪党老人・福井次矢さんもだが、わたしは、わたしが一週間かけ、医学論文の文章をわかりやすく表現した、渡海大臣、近くの、高砂市「白陵(はくりょう)」出身のS医師とは、長く、会っていない。 いまだ、眼科では、見えなくても、「矯正視力」という、言葉を使ってくれる。 金のありそうな、老人だけが、まだ、集まる眼科だが、「角膜再生」とか言い、失敗のばあい、「お年のせいか、回復力など、体力が、、、」とか言う。 角膜再生の万能細胞論だが、大昔の、「銅鏡(どうきょう)」や、「万能合金ステンレスミラー」と、「体細胞-神経細胞」とは、まったくちがう。一枚のカガミで、ビルが建ちますという、建築家が、どこに居る。 眼科の医師は、「どうして、(視力低下に)気づかれたのですか?」を、二度ほど言ったが、1970年ごろの、妹の、友人の、父の眼球を取り、死へ至らせた、京大眼科とは、ちがうものを多少感じた。 けれども、麻酔科、「福田和彦」さんの門下など、「わたしも、はじめての実験でしたけど、眼、どのようにして、見えるように、治したんですか?クスリ名と、方法を」と、ふざけた事を言う。 わたしは、いまだ、自分自身を実験台にしている、治療薬と、治療法など、言える訳がないと言った。 それより、福井次矢さん、あなたの書き物は、何なのだ。大悪党、バレテン・日野原さん同様、研究になっていない。 あなたたちは、日本語学習に、小学校から、行きなおした方が良い。また、良心を学びに、比叡山中で、座禅、「即身成仏」を、願う。 いま、文部科学大臣が、わたしの、1歳のときからの知人なので、大学院大学など、わけのわからない箇所の、能力がない、教員の再教育の場として、全国にあまっている、大学などの施設を、デイ・ケア用、「大学院大学教授向け、老人、小学校」にして、欲しいと、ここに希望をタイプしておく。 16) 京大で、再生医学の、第一人者として、わたしは、「山本悦生」先生を挙げる。 1980年代、妻の母が、昔、海水浴からの「中耳炎」で、耳が聞こえないということから、東京での、医学図書館の論文等から、山本悦生先生(いま、大阪、和泉市、山本中耳サージセンター)を、見出した。 「鼓膜再生」の方法は、破れた障子の、修理と似ており、人事扱いの悪い京大のため、とうじ「講師」とあり、論文の表現が明快だったので、紹介状などいらないから、妻に、直接、行って欲しいと指示した。 妻は看護のため、東京から京都へ。 それで、1980年代、山本悦生先生が、執刀してくださった。 妻の母の耳は、どうにか、聞こえるようにまで、再生となった。 二度目は、わたしが子供のとき、「神戸市民病院」は、山の手に在ったと記憶するが、「神戸市立、中央市民病院」まで、妻を東京からゆかせた。 渡海大臣の声だが、パソコン内臓の、スピーカーだから、わかりにくいが、鼻濁音の発声に、聞き覚えがある。 日本語は、関西などでは、京都より、歴史ある、大阪や奈良では、明治時代も、鼻濁音のある、より複雑な大和言葉が残り、1940年代生まれの、アナウンサーは、たいてい、できる。 「渡海紀三朗」文部科学大臣の、播州弁の鼻濁音だが、咽喉から口腔、舌の下部から鼻腔で、「@」のように、渦巻いて、発語は、口腔の流れに、まかせている。 誰かに似ている、身近な人間と思ったら、父の弟、ケンぼん兄ちゃん(AB型)だった。 パソコンの画面は小さいが、渡海大臣の、手の形質からの、動作は、ケンぼん兄ちゃんや、わたし(AB型)と同じだ。 この形質の発生、原因が、わたしには、わからない。母方の祖父の遺言で、ウィルス発生論、細胞論をしてきたが、わからない。もう、この発生を考え、40年以上経っているが、わからない。 1961年、わたしは、宝殿の、近所へ、遊びに呼ばれたとき、このイエは、朝の食事中だった。 女中さんが、緑の「水菜(みずな)」を細かく切った漬物を、白いご飯の上にのせ、食べてたので、視線が行った。 小学三年生の、わたしは、ネフローゼ症候群の、仮退院の身だったので、塩分は禁止で、食欲が無い、体質だけど、このとき、食べたいと思った。 このとき、ガラス戸越しに、見ていたら、ここの、おばあさんが、女中さんの名前を呼び、 「よしのぶちゃんの、見ている前で、行儀が悪い」と叱った。 この女中さんは、「股関節脱臼」症候の人だった。 学問をしはじめ、わたしのせいで、叱られた、女中さんの、病気を、治すことができない医学と、自分自身にも嫌気がした。 女児に多い、股関節脱臼は、私鉄沿線の駅、ひとつに、一人二人、見ることができた。 わたしにできることは、級友たちからの、誰ができるか、その情報集めだった。 1970年ごろ、奈良にひとり、どうにか、できる、医師が、居ることがわかった。 ところが、2002年、福井市出身の妻の、中学での下級生、京大教授夫人が、股関節脱臼だったという。 1歳のとき、近所の、「小林外科」で、治療を受けたときの記憶は、鮮明だったと言われた。 これを耳にしたとき、かなりの痛みだったのではと、思った。 妻も「小林外科」を知り、二人で、「元、軍医さん、軍医さん」と言ってたとき、なぜ、それほどの名医を、東京や、大阪など、中央に呼ばないのか、この国の、医学界はと、思った。 医師に大事なのは、患者を、治せる、能力があるかどうかである。 重要なのは、その後である。人体の骨格細胞での、「水分様(ゲルgel)」と、学問上は、固体扱いの「物質様」と、神経細胞「神経様」の関係である。 クッション Cushion、スポンジ Sponge となる「緩衝細胞」と言えばいいのか、これの維持である。 どのように、されていますかと質問すると、県立、福井商業のとき、陸上で、ハードルと聞き、短距離ランナーのわたしは、「足、膝、股関節の負担が大きいのに、わたしは不得手ですと」言った。 2002年、冬、年齢が行った、いま、どうされていますか?と聞くと、足首を持たれ、後方へ折り曲げる、陸上での、柔軟体操をしていますと言われる。 「再生」とは、これぐらい、難しく、また、当人の努力が、必要になる。 17) 1969年、東大入試中止など、必要でないものだった。 東京での、大学生、希望の誰もがわかる、「神田」には、中央、明治、専修大学など、があり、授業も、医学部のばあい、専門でも、東京医科歯科大学を借りれば、すむことである。 本郷の、より、近所であれば、野口英世が学んだ、日本医科大学でも、できる。 複雑な、1970年7月、わたしが紹介した、級友同士が、淀川、木津川周辺の、土道の堤防で、後方からのダンプカーに追い上げられた。 京都で、ガソリンスタンドを経営している級友は、体力があり、避けた。が、医師の子弟がオートバイで、転倒。 ヒフ、80%ほどの、全身火傷、致死に至る、との連絡だった。 が、内科の父親の教え子、京都府立医科大、外科、20人体制。「日赤」をつかい、臀部、太ももなど、ヒフ、皮下細胞が残っている、箇所、10センチ、一枚から、10枚に分離、貼り付け、このような反復で、治癒した。 この手当て、処置で、当人の皮膚が、火傷部位に、くっつくかというと、離れたままの状態である。 良いガーゼのような、役割をはたし、皮下細胞の内部から、新しいヒフを、「呼び出す」ような、役割しかでない。父親が付きっきりで、病人となった、我が子を、熱心に、生き返らせた、ということである。 同じく、同窓だが、とうじ、石や、レールだらけの、踏み切りで、転倒による、歯の欠損。この再生も、歯科医の、父親が、現在でも、我が子にしかできない、長時間の治療法で、再生させた。もちろん維持にも注意がゆく。 医学とは、政治と同じく、学歴ではなく、実践してきた能力と誠意である。ここが、非常に難しい。 18) 渡海紀三朗、文部科学大臣、「万能細胞」への資金援助、これが、「神戸」からの、要求であれば、近隣の、加古川や高砂の「地元票」確保のためと、勘ぐられても、仕方がない。 いまの、医学に必要なのは、既存の方法により、できるかぎり、現在の患者を、救うことであると、わたしは考える。 2001年6月の、大阪、「附属池田小事件」だが、緊急時、文部省や厚生省からの、指令がしっかりされていれば、重症を拒んだ、特殊外科にすぐれた「大阪大学」だけでなく、自衛隊のヘリなどをつかい、手術用意と、大阪大学、外科出身者へ号令し、「京大ー神戸大」など、「私立大学病院」「日赤」など、遠方では阪大系列の「徳島大」とか、傷ついた子供たちを、分散搬送すれば、半分、命が助かっていたのではないか。 教育の基本、町や村の基本、小学校から、結晶作用で、「核」となる、しっかりした、子供たちを、「国立大、附属」や難関の「私立」へ行かせることが、社会問題を起こす、原因になって、いるのではないか。 それと、大阪大学。1970年代の、「レーザー研究所」以上で、すぐ出来上がるといっていた、「メーザー」の「メーザー研究所」は、どうなった。哲学がほとんどできない、同志社大の川島秀一さんが、弟子だよ、これからだよといっていた、「鷲田清一」総長、どうする。 メルロー・ポンティ専攻との、鷲田清一さん、あなたは剃髪されているが、僧侶の、お子さん?京都の無料の寺を散策とか言っている。良し。万能細胞、界面論を解き、阪大を、無料で学べる大学にされると思う。 とにかく、「万能細胞」援助資金は、内閣府命令で、返還させるべきである。 「万能細胞」とやらで、動いているのは、文部科学省の、役人と思う。 この『京都昨今 No53』で、「わたしは、いまの与党の中で、世情を混乱させる奴と、ひとり、「×」をつけた」とタイプした。これは、「久間章生」衆議院議員である。 防衛省の次官、「守屋武昌」(1944年ー)さんの人物など、老人の官僚名など、知らなかった。 日本は、1945年7月に、降伏と、明確に宣言している。これぐらい、久間章生議員の知性は、知っているはずだ。 2007年、広島、長崎への原爆投下を「しょうがないなと思っている」の発言。 後日の弁明だが、あまりにも演技が、下手すぎ、驚いた。久間議員が、涙もろいぐらい、わたしは分かる。 しかし、同情しやすく、涙もろいとかと、権威、権力好きとは、まったく違う。日本を代表する、閣僚のひとりであり、いまも議員ではないか。特権階級による、無知の演技などを許す、この国の、道徳観は、どうなっている。 内閣府、久間議員と、同じ手のライン、良く似た、動作をする、「文部科学省官僚」を、探せば、すぐわかる。歴史の反復で、また、官僚たちは、悪いことをしはじめた。 もう、わたしが、文章を書いているとき、話しかけてこないで欲しい、と言ってるのに、「(敦賀)原発で、ぶんどう(高木文堂)、だまされた?浜田から、、、カリウム」、なに?オバマ Barack Obama から電話?「ちがう、浜田幸一、円降る」、原発弁当か?前の市長は、カンレノ酸カリウム使いすぎ?久間は一兆円、点滴、弁当?円が降るぐらいって、エンフルラン enflurane だろ。「久間、福井で1億。自民、大野功統(よしのり)。国民新党、糸川正晃(まさあき)、あそかのコオロギ」なに?久間とコオロギって?大阪の「飛鳥会」の小西邦彦?「ちがう、東京の、老人ホーム『あそか会』」。 政治も学問とやらの世界といしっしょで、能力のないのが、力を持つ。 類似は、湯川秀樹、市川亀久弥さんを利用した、ウサギの個体識別もできない、京大、霊長研の「河合雅雄」さん。飛んでいる蝶が、飛んでいるに過ぎないのに、「蝶(ちょう)は何故飛ぶ」とかの、盗作手伝い専門屋の「日高敏隆」さんたち、これらは、動作が、いっしょで、すぐわかるはずだ。 最終的には、渡海紀三朗、文部科学大臣、あなたの、責任となる。「薬害C型肝炎問題」どころではない。 渡海紀三朗さん、ご記憶にあるかどうか、わたしの父は、「アスベスト肺」だが、国家から一円でも、もらおうとするような性格ではない。 父は、いまだ、「税金」を納めないと、国が潰れると、時給、300円ぐらいで、労働をしている。90歳がこようとするのに、母は、ずっと、無給で、働いている。 わたしなど、河出書房新社の、偉い方々に、「川向こう」と言われ、「この本、復刊したいんだ」、と言われ、著作権のわからない、東大の図書館の人たちを説得して、全コピーをして、労働費、交通費なしで、コピー代金をみせると、「おつりの、40円、これ、とっとけよ」と言われた。サイマル出版会の、「薬害C型肝炎」の「田村勝夫」さんも、わたしを奴隷以下に、扱った。 何?原稿をかいているとときは、話かけないで、、。え?「C型ヤクザ」の、田村勝夫さんが、逝った?ずいぶんまえ、若いときは、「結核」、教員だから、タダで、清瀬で手術を受け、深夜、仕事で溜まると、「生田栄子」さんと、タダでやってきたと自慢して、裁判が公平にと、高砂市へ渡来してきた「美濃部達吉」の権力で、東大から、最高裁へとなった「田中二郎」裁判長と親しかった、田村さんが、ふーん。 これら事実を、どう思われる。 反証の、具体的な例として、渡海紀三朗文部科学大臣、あなたは、建築関係は専門分野と思われ、普通の人より、周知の部分があると思う。 現在、大阪、梅田、「阪急百貨店」の、営業しながらの、新装建築がある。あれは、41階。 失敗は許されないので、京阪沿線、枚方市「くずは」駅前で、先に「竹中工務店」が、41階のマンションを建築。つづいて、同じく、「大林組」が、41階のマンションを建築。 これは、1990年代、開始。どのような、手続きだろうと、見ていると、先に別の場所で、組み立ててくる、ユニット形式とわかった。こんな用心深い、手続きを経ても、工事現場では、事故が起きる。 工事現場で、許されないのは、他者への危害である。渡海大臣には、すぐ理解できる事項だろう。 大阪のばあい、地盤の陥没を絶えず、考慮しなければならない。 渡海文科大臣。ボーリングなし、土台となる基盤なしに、「親筋=DNA概念」だけを説明され、親筋ができました、こんなのが、10センチ、3、4本で、ビルが建つという人物が、建設業界にいますか。 地質と、海のものか、山や川からの「バラス(砂利)」が、わからず、セメントの出来と、水分との混合割合と、発熱がわからない連中に、「これが、ワシ等の、万能、ビルでんねん」と言われて、「がんばって下さい」と言う、文科大臣などがいますか。 設備で、この「換気扇の研究」を、時間をかけると、飛行機は、まだ、理解できる。しかし、この団扇(うちわ)、2枚をバタバタさせると、「万能飛行機」になりますという人物たちに、金がない財政から、10円でも、出すべきでない。 もし、これが、「万能細胞」にかかわり、団扇(うちわ)で、飛べないのは、あなたの体力、財力のなさと言われ、その方便で、1960年代どうよう、「眼科」を先に、失敗例ばかり集まり、日本政府へ、公害、過ちで、裁判がおきればどうされる。 渡海紀三朗、文部科学大臣はじめ、「建築、設計家」。一、二階や地下なしに、「月面宙返り」と同じく、何階でも、窓の外からも、出入りができる、宙に浮いた「万能建築物」の設計、建築、依頼があれば、どうされる。 加古川市立「川西小学校」での、わたしの担任だった、村津末雄先生の、「実兄」が、1970年代からの、加古川、「中田敬次」市長というのは、実際であっても、ふつうの人には、わからない。 しかし、村津末雄先生や、ご家族は、すぐわかる。 医は仁術である。ところが、自称学問とやらの世界は、確信犯行われ、被害者が、除外され、自分たちだけの利益優先で、動く組織になっている。 時代は、もどり、1977年ごろ、御堂筋にある、大阪の日銀の前では、沢田研二の「勝手にしやがれ」がヒットし、路上で、音楽ともに、青年が踊っていた明るい時代になった。 「祝、渡海元三郎、建設大臣」と、オリンピック出場に似た、垂れ幕が、梅田のビルの、窓から、2本、飾られた。イエに来た、叔母に、恥ずかしいというと、「ええねん、皆、よろこんでるねん」と言った。 1970年ごろ、「万能金属」と言われたものを使っている、曽根崎警察署の前、奇妙な「オブジェ」に気づき、兄に、変なものと言うと、沈黙する。 3ヶ月おいて、わたしが、変だ、こういったデザインだとわかると、「門松」を切った形を、デッサンすると、兄が、ようやく、「うん」と、消極的に首肯したとき、父が、 「あれ、ワシや」「おまえら、あれ、何のために、在ると、思てる」「通風孔や。あれ、無いと、地下の人間、皆、死んでしまう、どぉー」と、播州弁で、言った。 わたしが、デザインというと、父は、「曲がらんのや、公害の酸性雨に強い、ステンレスは、硬(かと)うて、発注するたびに、硬度がちゃうし、何回やっても、パキンって、折れるんや」「おまえらには、実際の、芸術が、わかっとらん」と言った。 2002年暮れ、歳月をかけ、より、「万能金属」になっている、と思っていた、ステンレス線を、わたしが編んでいた。父が、「ビルは、そうやって、編んで、作るという」と言う。 「2001-NY.911テロ」のことから、「実験しているけど、ステンレスって、熱に弱い金属?」と言うと、「そうなんやぁ、、、」「それに、誰も、気づかへん、かったん、やぁ、、、」と、情けなそうに言った。 19) 印南郡、曽根出身の、渡海紀三朗大臣クラスだと、 @ブラックホールBlack Hole Aホワイトホール (White Hole) を聞かれたことがあると思う。 わたしは、Bイエローホール(Yellow Hole)を、遠近両方は、高価なので、近視専用の「万能メガネ」で、発見した。 「メビウスの帯 Mobius Band」 を、折り紙で、作る。 「メビウスの帯」と言えば、学問っぽいが、日本の、どこにでもある、小さな商い、「暖簾(のれん)」を、上にあげ、折った形を想像すればいい。 「宇宙における、暖簾(のれん)、仮説」。これは、ブラックホールが吸引する、太陽の36倍以上の、巨大な質量と、ホワイトホールが反射、マイナス36倍以上の巨大な、リバウンド運動する質量、どちらも兼ねている。 これが、「イエローホール(Yellow Hole)」。 ふつうの、人たちが、出入りできない、高等な施設では、「@ブラックホール」などの、言い分、言い訳は、少量の知能があればすぐできる。 もうひとつ、イエローホール(Yellow Hole)の、認識により、「新彗星」の、地球への衝突、歳時、進路を計算する、「注連縄(しめなわ)理論」を、わたしは考えた。 地球への、しかも、「日本」近くへ、衝突する方向性だが、確率論を含め、太陽を中心に、仮の軸をとると、53年後、2061年9月17日、AM08時01分、北緯27度と、55度の可能性はあるが、東経は145度地域と、計算できた。 これらの算出は、「6次、複雑物体、 空間移動、基礎定理方程式」だが、 F(a-f)-6/f(G)a~f=α(a-f)/ζ(a-f) によって、正確に、算出できる。 a-f は、6次空間、Fは、Σの総合、偏差数値も、含むこととして、Gは「イエローホール Yellow Hole 暖簾(のれん)」6次、歳時、空間理論による、「総質量」を意味する。 以上の数値だが、花札などの「おいちょかぶ」の「合計だいたい9」を基本とした。 アインシュタイン Albert Einstein が大悪党だったかは、数学と物理のできる、後世が証明してゆくだろう。 京大への研究予算、「万能細胞」は、返還の義務がある。 だいいちとして、どれだけ、「国費」、労働者の汗と命の「金」を使ったか、わからない、「地震、防災研」の、京大総長、「尾池和夫」(1940年ー)さんが、推薦している。 「古希」がくる、尾池和夫さんとやらは、「夏星や 歴代の王 ふしあわせ」と、俳句など詠んでいる。 詠むならせめて、「研究生 わたし(尾池)のために ふしあわせ」の、川柳にすべきだ。 この無責任、痴呆老人を、特注、「震度8.5」が可能の「地震体験車」に、 乗せ、60分ぐらい、体験させたい。そのとき、 「遊園地 地震車で 大繁盛」 「角々で 頭ぶつけ 星だらけ」 「いい地震 尾池ころころ ころんでる」 などの川柳を、わたしは詠む。すると、不況の遊園地でも、一度は、観客いっぱいになるだろう。 1995(平成7)年の関西大震災だが、「皆様のNHK」が、仕掛けた、神戸、異人館のドラマ(1977)からの流行で、計画性なしの、整備により、町の作りが弱くなった。 30メートル単位の、充填ボーリング(Boring、鑿井 さくせい)を、地盤層の弱い所へ、していれば、まだ、防げたはずである。 さらに、1981年、「神戸ポートアイランド博覧会」のとき、岩盤が弱い、六甲など、神戸の山々を、削ったことにも原因がある。そのため、「山の手」は、市民病院はじめ、「北野」の異人館周辺は、「城」と、同じく、「岩」で、防御の、「城砦」建築方法をしていたのである。 尾池和夫さん、これぐらい、1980年、地震予知学会で、指摘されてから、京大、総長をされたらどうなのか。給与、全額、返還するのが、教育現場の者の、最後の、誇りではないか。 「あっちゃん」からの手紙類が、でてこない。医学部長だった、なんの研究だったか、もう忘れたが「本庶佑」さんを、基礎研究(遺伝子)の道へ、進ませる動機となり、学問は宣伝という、そろそろ、90歳と、若い人のを、探しているが、見当たらない。 京大にしろ、各大学も、経費(歳入)削減のため、不必要な金は、国家に返還すればいい。 なんでも消化する「万能内臓」が無さそうな、渡海さんの表情を見ると、貧血か、貧困状態みたいなので、「曽根天満宮」に、もうひとつ、「賽銭箱」を、置いてくれないだろうか、と思ったりする。 歳入削減のおり、京大はじめ、大学から返還させ、NHKからも返還させ、渡海さんに10億円、1953年のお兄ちゃんは、2007年お爺ちゃんになったけど、周りに嫌われると、かわいそうなので、与党、野党の議員にも、10億円ほど、全額、国会議員に寄付したいと思ったりする。 いまの、日本の政治は、与党も野党も、あまりに、限られた、地元民への、気遣いに、金がかかりすぎる。 福田康夫首相など、「これ以上、わたしを、責めるのですか、わかってますよ、総理の器でないことは、だから成りたくなかったのに、亜米利加のせいで、全国だけでなく、地元の人たちの、自殺、家族殺人事件、わたし、わたし、わたし、もう、限界ですよ。泣きますよ。京都の、御池(鴨川)に、飛び込んでも、首を釣ってもかまいませんよ」と、でも言いそうな、表情の日々みたいに見える。 英語はじめ教育問題だが、福田康夫首相の、父、福田赳夫さんが首相のとき、総理府で、 国立公文書館にも勤務された、「坂東眞理子」さんは、英字新聞に雑誌類を持って歩いている、わたしの妻に、英語のことで、話しかけてくださった。 妻は、同志社で、哲学と、英語学をしたけれど、小説、社会学、免疫学、どれも使いものにならないので、わたしが、教えた。 この坂東眞理子さんだが、わたしの妻に、「まつださん、、、読めるの?」と、慈悲深く、聞いてくださった。 ほんとうに、すばらしい女神のような「女性の品格」を、お持ちの方だが、一度、国会の質疑で、海外生活豊富な、坂東眞理子さんに、 「アナタ(貴女)は、エイゴ(英語)を、シンジ(信じ)ますか?読め、話せますか?ふつうの生徒、学生に、必要と思いますか?」と、聞いて欲しい。 ふつうの東大や、ハーバード大、ケンブリッジ大の、英文の教授レベルに、英語の必要性などない。 かれらの英語力、日本語力とやらのおかげで、日本の言語教育は、根底からダメになってしまった。 日本の学術文献が、きちんと、翻訳された作品があるのか。 英語だが、パクリと言われた「進化論」のダーウィン Charles Darwin は、非常に下手である。ダーウィンのイトコのゴールトンFrancis Galton など、ほんとうにイギリス人か、と思わせるほど、下手どころではない。 ゴールトンは、インド人、日本人など、黄色人種が個人識別に使っていた「指紋」を、盗賊的大発見し、優生学 Eugenics を普及させた人物である。 イギリスと「利加」合衆国は、一度、日常はフランス語、学術論文はドイツ語を、標準語にしたら、どうか?そうすれば、もう少し、思考力、表現力がつくと思われる。 20) 渡海さんのことだが、記憶では、わたしが2歳の、1954年の、秋のころの印象が、大きく、このときは、母がいた。 おじさんは、良い身なりの、アッシュグレイ系の上下、鉛筆みたいに細かった、お兄ちゃんは、長袖のシャツだった。 いつものように姿勢よく、背筋をのばされ、やわらかに、ほほ笑む、渡海のおじさんは、キャンディー製造機のある、神戸側方面に立たれ、右手で、お兄ちゃんの手を握っていた。 一年前の、1953年の晩秋は、帰宅してきた、祖父が、土間から、奥の、仏壇の間に机を置いている、宝殿中学一年生の、叔父の名前を呼び、 「ラジオ、消さんかー」と、大声で怒鳴った。 わたしの記憶では、祖父の、このような発声は、はじめてだった。 父は仕事場にいたのだろうが、衝立のある、居間へは、わたしが行った。祖父は、1950年代、アメリカンポップスが流れている、仏壇の間の、ケンぼん兄ちゃんの、ラジオを消した。 母は、兄をつれ、何度目かの、家出中だった。 宝殿中学一年生の、ケンぼん兄ちゃんは、庭で、技術工作の宿題か、これまでは「60W」が常識だったそうだが、「100W」の方が暖かいと、電球をつける、祖母向けの、こたつを作っていた。 わたしが、大きな、「おこた」というと、「よしのぶ、子供やから、大きく、見えるんや」とケンぼん兄ちゃんは言った。 まだ、40代後半の、祖母は、風呂場の方で、祖父の場所からは、20メートル以上離れていた。 印南郡の合併問題が、こじれはじめたときだった。 夕方になり、阿弥陀の社会党の「田中武夫」さんが、来て、 「大きくなったら、何になりたい?」と、いつもの質問をしたとき、2歳になっていた、わたしの希望は、変わっていて、 「えい、空手チョップ、力道山」と言って、衝立の前を飛ぶと、田中のおじいちゃんは、笑って、喜んでくれた。 1953年は、連続していたが、祖父と、明石市の社会党(→民社党)の、「吉田賢一」さんは、仏壇の間で、聞き役となり、社会党の田中武夫さんたち、村の代表や、村長たちが、誰を国会に送るか、決定の議論をしはじめる、いつもの光景が、はじまり、わたしは、祖母と、となりの居間にいた。 村々の意見との、挨拶を、祖父は、わたしを連れ、姫路の競馬場の、一番階上などでも、よく、していた。 祖父は、笑顔で、お辞儀ばかりし、わたしから、どんどん、離れてゆくことばかりだった。 観客が少なくなったころ、わたしがわからない、競馬場の人に、二、三度、迷子扱いされた。 社会党の、吉田賢一さんを軸とする、この村々の、何回もの議論は、静かだった。 吉田のおじいちゃんはいつも静かな人だった。 「人間、太陽のもと、上下なし」「ワシは、渡海と、する」と、祖父が、若い渡海さんと言い、その責任は、自分自身であるとの、一言で決まった。 21) 「力道山」、姫路公演には、母も兄ももどってきて、家族そろって、出かけた。 が、渡海元三郎さんを、国会へのとき、井戸を前にした庭での、1955年の正月の「とんと」がおわった、「小正月」ごろ、母は、叔母と祖母に、食卓で、いじめられていた。 夜、母の泣き声が聞こえる。わたしは、2階から、食卓のある、1階へ降りてゆき、障子をあけ、「お母ちゃんをいじめるな。おばあちゃん、キヨちゃん、お姉ちゃんのバカと言って、叔母に体当たりをした」。 翌日、わたしが、目覚めたとき、階下へゆくと、「小正月飾り」がある、衝立の間へゆくと、木の細い枝の、紅白の小さな餅は、兄と、取ったりして、遊ぶときは、楽しいのに、母と兄がいなく、淋しさと、悲しさを、わたしに、おこした。 母は兄と妹をつれ、家出をしていた。 食卓の叔母、キヨちゃん姉ちゃんの、ところへゆくと、祖母は、庭から、 「とかく、中子(なかご)は、憎まれる」と、わたしを、あわれむ、一言をいった。 母は、また、母をかばう、わたしを置いて行った。 母と兄たちがいなくなった、1955年1月、「鳩山一郎内閣」が解散するから、とのことで、叔母は、祖父に指示されたとおり、若い渡海さんを知らない、古い加古川の村へ、「票割」の「票、確定」のため、電話をかけていた。 GHQ連合軍によると、日本人の識字率は100%と言うことだった。 が、1950年代、漢字、ひらがな表記のできない人が多く、「渡海(とかい)」の漢字が読めず、「元三郎(もとさぶろう)」も、書けない人たちが多かった。 叔母が、「こらっ、加古川、また、切った。村の大事が、わからんのか」と電話で、叫ぶ。 とうじの電話は、古い蓄音機のように、ぐるぐる回し、耳もとと、話もとが離れている、二双式で、わたしのイエでは、叔母か母しか、電話を使っているのを、見た記憶がない。 電話債券が、高い時代で、わたしのイエを中心に、いまの、姫路、加古川、高砂の一部までは、無料の時代だった。また、電話を使うことなど、急な用事以外、ほとんどない時代だった。 加古川の電話局の、当番の女性が、「御不浄(ごふじょう、トイレ)へ、行ってまして」と、責任者の男性と謝罪にきた。 古い加古川の、連絡先は、電話機のジャックをつなぐ、一番上、左端、机から、一メートル以上の、高さにあり、交換手が、手を離すと、落ちてしまうとのことだった。 わたしは、叔母のキヨちゃん、お姉ちゃんといっしょに、加古川の「電話の、交換台」を見学に行った。 10センチ角の箱みたいなのが、縦5つ、横20個ぐらい並んでいた。 女性3人、責任者の男性1人の時代だった。 シールドをつかい、ジャック接続方式となっている、電話交換台は、小さな箱のような形態になっており、本当に一番上で、ジャックとシールドの重さで、離れ、落ちてしまう、位置だった。 叔母は、古い加古川の、代表のイエへゆき、「こうや」と、言い。紙に、手書きで、「渡海元三郎」と書き、「まちがえたら、村の恥やからなっ」と、漢字を教えていた。 社会党の田中武夫さんの、大きな声援と、配慮で、「渡海元三郎」さんは、国会へ進まれた。 1955年、渡海元三郎さんが、当選したとき、田中武夫さんたちが、先にきて、待っており、渡海元三郎さんは、後から、印南郡、別所や、曽根の村々のひとたちと、一番後から、来られ、村々の代表の、後方、キャンディー製造機の、姫路側に、静かに、立っておられた。 わたしと叔母は、仏壇の間にいて、「渡海さんが来た」という、報告を、叔母が祖母にして、祖父は、仏壇の間への、襖をあけた。 羽織と袴の、50代半ばがくる、祖父は、仏壇の間に、やや、かがんで現われると、黙ったまま、ほほ笑み、節分の、豆まきのように、右腕を、腰の位置から、上へと、ゆっくりあげた。 わたしの眼に、祖父の、羽織の、白く光る裏地が見えた。 「無礼講(ぶれいこう)」の、印(しるし)で、田中武夫さんたち、阿弥陀、曽根、別所の村々の代表が、酒盛りをはじめた。 国会議員をするには、金銭が多くかかり、この1955年ごろ、わたしのイエの血縁、幼なじみの、「神姫バス」をとおし、地下に、ガソリンプールがある、池沢のケンちゃんとこが、必要とするものだけの収入では、無理なのではと思い、父に、1950年代、村の光景だけを、教えてもらった。 「姫路合同」と「播州貨物」のトラックが、「志方」から、大阪へ、米田町「平津」から、「日本毛織」のトラックが、1号線を利用し、コンクリート道路の、2号線をとおり、大阪方面へ、向かっていたという。 渡海さんのところの、家業は、渡海さんの家族と、使いが、昼夜、働けば、大きな収入となるものだった。 国会議員の選挙は、村の意見どおりになったが、1955年3月はじめ、羽織袴の、祖父が、元気が無く、帰ってきたとき、 「おじいちゃん、なぜ、元気がないの」と、叔母に聞くと、「がっぺい。米田、負けたんや」と、言うので、どんな字と聞くと、「ハァー」と、イエの出入り口の、飴色まじりのガラス窓に、息をかけ、「合併」と、指で、書き、「わけたり、あわさったり、することや」と、説明してくれた。 兄の小学校入学で、母がもどってきた、1955年春は、わたしが、医師から、「今年いっぱい」と、死を、宣告された年だった。 第二章 [天下り 親戚中が おおわらわ] 1) いま、日本では、「天下り」が、最大の、公害の問題になっている。 かれらには、高齢、無人化する、山村開拓、稲作ができる「棚田(たなだ)」「田毎(たごと)」をあげれば良い。 そして、町や村を守ること、それらを善意でする役割を与えればいい。 学歴、経歴が抜群の、官僚や教員に、公務員は、知識人なのだから、稲作がどれほど、大事か、直ぐわかるだろう。五穀、「稲荷(いなり)」信仰がわかるだろう。 人生50年。50歳以上の老人は、「棚田(たなだ)」「田毎(たごと)」での稲作づくり。 50歳は、まだ若いというなら、なお結構。若い間に、鋤(すき)や鍬(くわ)で、体を鍛錬すればいい。 宮本武蔵の剣術訓練がわかる。村の力は、日ごろ、鋤や鍬で、体と腕を鍛えた、百姓により決まる。 山林の「植樹」と手入れもわかるだろう。そうなれば、「川魚文化」も復活する。 無駄なものを輸入しなくて済む。米の、良質なタンパク質は、10〜15%もある。毎日3食、米食にすればいい。 小麦も自家栽培してゆけば良い。 「食物」が社会問題になっているが、わたしの思い出は、蕎麦では、女優の「浪花千栄子」さんが経営されていた、嵯峨の「竹生(ちくぶ)」が良かった。 入店すると、料理人が、出てこられ、蕎麦打ちから、してくださった。食べるまでに、40分はかかる時間が、良かった。 福井では、永平寺の、道路ぎわで、外のクルマをみながら、食べた、嵯峨の「竹生」より、うどんに近い、蕎麦の味が、思い出となっている。 うどんでは、1973年と76年、マスコミの経営者たちが、「うどんは讃岐」と言って、大阪から、四国へ行き、四国を半分案内してくれた。 1973年で、天ぷらうどん、850円から、950円した。道路ぎわで、食べたのは、安かったのではと思うが、これも、ゴムの親戚かと思う、讃岐の、小麦のうどんの味が、思い出としてある。 農村から、若い世代が消えてゆくのは、交通の便もあるだろうが、テレビなど、マスコミの発達で、立身出世をした人物でさえ、地方は、受け入れてくれない。 しかし、この現象は、大昔になるのか、江戸時代も、同じ構造を、日本は持っていた。 日本では、女工哀史ばかり、語られる。 父が昔の播州の光景として、1930年ごろ、現在だと、子供になるが、農家の次男、三男坊以下にとっては、どのような労働にでも、ありつければ、よく、早朝から、ひたすら、走って、行っていたと、言う。 小学生を終えた、10代前半が、「にちもう」(ニッケ、日本毛織)で、働かせてもらうため、土道の、国道1号の、「神爪(かずめ)」あたりから、10代の、青年たちが、朝、走って行った事を言う。 昼ご飯用に、弁当箱を、腰ひもや、日本てぬぐいで、腰の位置に、弁当を結び走って行ったという。 おかずには、梅干、かつお節がかかっていれば、充分、ごちそうの時代で、これを、「腰弁当」と言うと、わたしは聞いた。 この光景は、東京、大阪といった、大都市でも、同様だったという。 大正時代前半に生まれた、かれらの、すべてと言って良い人間が、太平洋戦争で、兵隊となり、犠牲となった。 2) 1984年、わたしは、療養をかね、妻方の福井市の、田畑がある、世間が言う、田舎へ戻ろうとした。 が、妻の祖母に、百姓を習おうとしたが、拒絶された。 また、京都の南部、加茂町(いま木津川市)はじめ、山水の風景が好きな所へ、引っ越し、と思ったのに、拒絶された。 1980年代の関東では、神奈川、埼玉、千葉は、不動産屋さんに、わたしのような、自由業は、無理ですと、拒絶された。日本の田舎は高等な学歴、経歴があり、しかも金持ちで、二、三日泊まり、「金」だけ、置いて、帰ってくれる人物が、良い人物とわかった。 妻の祖母が逝ったとき、欲しいものと、妻が聞かれているので、「石臼、大・中・小3個」というと、福井弁の特徴に、間延びがあるが、義姉は「うす!?」と、極めて短く、「す」だけを上げる抑揚で否定する。 わたしに、こんな人物たちが、国会の運営をすれば良いと思った、義理の祖母の、手のラインと動作が、記憶にあるので、電話にでて、「臼の減っている、部分を見て、小麦粉や、蕎麦粉を、勉強したい」と言ったら、「そんなぁ〜あ、誰もぉ〜お。欲しがらんもん〜、もの、おぉ〜お」と、福井弁をこれから、「牛弁(うしべん)」と呼びたいほど、「もぉ〜お」で、すべて、否定してくれた。 祖母の名前が、ナツイなので、夏生まれ?と、妻にきくと、「そう、そう」と言い、生家の、井戸の位置を知りたい、大事だと言っても、わからないと言う。 3) 就職先が決まる、京大、総長だった、平澤興先生は、瓜生短大(京都、芸術短大→造形大)の学長室で、何度も、待たれて、いて下さっていた。二度、学長室のまえまで行ったが、ノックができなかった。 わたしへの、「解剖」の学位の課題は、平澤興先生の、教え子にあたる先生たちが与えてくれることだけれど、わたしは自分自身に、民族別、まず、日本人からの、 @日本人の発声、音声にかかわる表情筋(顔の表情を形成する筋肉、神経細胞)の分析、 A歯の形質も加え、発声にかかわる、口腔の分析、 B発声にかかわる咽喉形質の分析だった。 これらは、とうじ、誰もしていないとの事だった。 1951年9月に生まれ、還暦がこようとする、2008年2月の、わたしには、とうてい、できる事でないので、若い解剖学者が、課題として、されるのであれば、して欲しい。 東大の医学部、理学部の教授だったひとたちには、すぐ理解できるが、大学には、「予算」があり、わたしが専門とする、解剖(医)、形質人類学(理)は、東京大学しかない。 そのため、教壇は、東大を中心に京大の、掛け持ちと、言われた。 予算がわかり、その配分となると、平等に分ける、自信がない、わたしは、過去、肉体労働の日雇いばかりで、一度として、給与というものを、受取ったことがない。 これを、妨害したのが、「前田博司」さんたちである。 2007年10月27日の、1954年秋生まれの、前田博司さんからの電話は、「マツダ、おい、おまえが、東大か、おい、家系は本当か?」と乱暴に、高齢な前田博司さんの母と、ともに言っている。 この、西洋からの、「学歴コンプレックス」の刷り込みは、どうにか、ならないのだろうか。 日本には、「藩校」「学問所」「寺子屋」という、全国中、お国自慢できる伝統があった。 が、学問を商売とだけする、西洋人たちによって、日本人の頭は、洗脳されてしまった。 1980年ごろ、亜米利加合衆国へ渡り、医学をしていたら、すぐ、成功して、教壇や講演や、「学界」が待っていただろう。しかし、わたしは、亜米利加、主導の、世の中に、加担する気持ちがなかった。 平澤興先生はじめ、とうじ、高齢だった諸先生たちの好意と、医学の発展を考慮すると、わたしにも、表現のしようがない感情がおきてくる。だが、正直、いつも、かれらの言動の奥に、汚い政治の観をうけた。 が、日本には、現に、詐欺、強姦の新日本石油の「前田博司」さん、高槻高校74年卒、金山工務店の「中野逸人」さんたちに見る、悪党がいる。責任者の、新日本石油の、西尾進路、杉山 暎一さんのところは、部長、課長クラスが、電話にでてこない。 4) 親族そろって、「新日本石油」勤務で、加賀前田直系、おじは陸軍石山中将、大伯父は陸軍古賀大将、財閥の御曹子という、前田博司さんである。 この「新日石」の前田さんが、就職の説教をしてれたのは、写真の、旧制「姫路高校」から、制度変更、3日以内では、「紀州、田辺」からの、「戸籍謄本」の用意が無理で、新制「神戸大学」へ、進学した、叔父夫婦である。 1970年代はじめの、わたしのときで、播州、加古川市での、戸籍謄本は、遅いと、半月以上かかった。 「商工中金」勤務だった、人たちには、叔父の顔、『京都昨今57』で、下の写真、前列左、二人目に、記憶があるひとが多いだろう。 1970年ごろ、面接に来た、東大の女学生に、「こんな、(裏表のある、よごれた)職場、あなたのような女性が、働いてはいけません。結婚をすすめます」と、真面目に言い、面接、一同、爆笑させた。 同じころ、わたしのイエで、叔父は、正座して、 「お兄さん。アドベンチャーといい、女性の、社会進出の時代になっていますが、わたしは反対です」と言った。 腕枕で、寝ころんでいた父は、左脚の上の右脚をゆらし、「ワシゃ、難しいこと、わからん」と言った。 わたしは、兄を可愛がってくれた、叔父が、かわいそうと思いながら、あとで笑った。 母は、東京オリンピックがすぎたころ、桑名別院での法事のとき、「ちょっと、長谷川さん、クマオさん、38歳で、横浜支店長よ、偉いでしょう。商工中金、はじまって以来よ」と言った。 年上の長谷川が、母へ、「はい。姉さん、すごい、ことです」と、返事したとき、叔母が、「ああっ、姉さん、長谷川さん、東海銀行の頭取なの、やめてーっ」と言ったら、母は、「カズちゃん、なに言ってるの、実力でなった方が、偉いの。ねっ、長谷川さん」と言ったら、「はい、とうぜん、そうです」が、長谷川だった。 5) 1969年正月休み、東京の、牛乳屋近所、国立なんとか付属小学校、六年生の、イトコのケイは、紀州、田辺の、おじいちゃんの方言を、SONYで録音してきた。が、発熱し、寝屋川市の、わたしのイエに来た。 このときは、わたしと同年の、清水谷高校のイトコもきて、「小学生なのに、えらいね」と言い、互いに、学生運動のことなど、いっさい、触れなかった。 1969年、高校2年になった春、ジュリー、沢田 研二で知られる、「ザ・タイガース」の『青い鳥』が、大ヒットした。 わたしは、東京芸大音楽、指揮科への、推薦入学の話などは、両親はじめ、誰にも言っていなかった。 大阪音大のある、豊中市立第六中学校では、男子では全校1番だった。なのに、「1967年、日本刀乱闘、冤罪事件」をかけた、寝屋川市立第一中学校の、音楽は、10段階で「6」の成績だった。 東京芸大、指揮科へを、どこから、誰に、聞いたのか、わたしが、2階へ上がろうとするとき、母が、 「音楽に詳しい、あなたに、相談したいのだって。近所のひとの紹介で、西条凡児さんを、知っているとか、、、」と、わたしに、遠慮して、言う。 「西条凡児」の名前ぐらいは聞いたことがある、わたしは、廻り階段に止まって、 直径2メートル、高さ3メートルからの、シャンデリア越しに、相手を見た。 ふつうの人には、派手に見える、赤い絨毯に、金色の真鍮が、輝く階段は、わたしが、「万能研磨剤」の「ピカール」を使って、磨く、役目だった。 金、銀、抹茶、赤に白の「玉石」も、兄は、まったくしなく、わたしが錆びない、万能、ポリ・バケツに入れ、洗わないといけない役の、辛いイエだった。 50歳ぐらいの、見知らぬ、女性は、梅田の高級音楽クラブ、「紫苑(シオン)」で使っていた、1960年ごろで、10万円ほどの、ガラスの中に、織物が入った、わたしのイエの、ドアに、立っていて、 「『青い鳥』、あれ、息子の作品です」と言う。 わたしが、「契約は?」と聞くと、「10万円、もらっただけです」と言う。 わたしは、「10万円は多いです。グループサウンズをつくり、彼等の、衣食住の世話に、曲のアレンジ代、振り付けの人件費、ヒットをさせるのには、1億円単位が、必要で、売買契約をしている以上、無理です」と言った。 「でも、ザ・タイガースは、もっと金をもうけている、、、」と、叫ぶ。 わたしは、関係がないので、母を睨み、返事をせず、自分の部屋へ、入った。 4) この、日本人の、表面だけの、芸能人や有名人好きの、頭は、ほんとうに、教育で、どうにか成らないのかと、思う。 世田谷での、マンションの「借り賃」が、前や階下と、同じと思っていたら、月々、5〜7万円違う。 前の、302号の10歳ぐらい下の、夫妻宅は、泥棒ばかり入っている。 AM3時すぎ、「ドロボー」の声で、眠っていた、病人の、わたしが起き、わたしのダッシュが早い。このとき、301号の妻は、危ないからと、泣き叫んで、わたしを止めた。 302号は、ISETAN、ラガーで、大阪体育大0B、奥様は、高倉健ファンの、「坂東英二」投手が来て、ご令嬢とのことだ。騒ぎにさわぎ、鍵を取り替えさせても、家賃が5万円安く、また、泥棒で、挨拶なしに引越し。 大昔、高倉健さんが、神戸を舞台とした、映画での「ダボか〜」の抑揚は、播州弁になっていない。 が、「任侠」シリーズで、怒り、相手を投げた、肩から背中の動きをみたとき、はっとした。 16歳のとき、人間魚雷「回天」に志願した、父のすぐ下の叔父が、特攻帰りで、戦後の「姫路」の治安を乱す、相手を投げつけていた、その形と同じだったので、叔父がモデルかと思った。 写真は、テレビ「雪印のチーズ」のCF、「オンワード」のカタログにでていた、イトコのチャコである。 1970年夏休み、大阪万博では、松川道哉大蔵省の令嬢といっしょだから、「VIP」で、「三菱未来館」へ、裏口から、入れたそうである。 同じとき、弟のケイは、わたしのイエへ、多摩川の、世田谷区がわ、「二子玉川(ふたご・たまがわ)」あたりから、「武蔵工大」のある土地、全域を所有していた、「東芝」の経営者の、しずかなW君と泊まりにきて、 「庶民の子供は、万博の人気館、どっこも、入られないやぁ〜」とケイは嘆き、「将来、作家になるんだ」と言い、わたしに、「本は?」と聞く。 わたしは、ケイの言う意味がわからず、何の本?と聞くと、「小説とか?」と言ったので、押入れを開けると、洋書ばかりで、驚いていた。 この、姉の方のチャコは、寝屋川市の大手前高校OBと結婚した。が、そのまえ、女子大のとき、金沢、「白雲楼ホテル」に泊まり、「VIP」の松川道哉さんの令嬢といっしょと言う事から、護衛の、黒塗りのクルマが、付き添いだった。 京都の歴代の、政治家を2007年にみて、級友の、TO君ところの、お爺ちゃんかと思った。 血縁が、寺に酒造会社を所有しているところだが、庶民の子、わたしたちは、1971年初夏、京都府警のパトカーに付き添われ、「前のクルマ。前のクルマ、路肩に、停車!」と、大きくアナウンスされ、わたしたちが行き先の、七条、国立博物館の、手前で、止めらさせられた。 「車検書を、出して!」と命令され、級友は、しょぼんと、出した。偉い警官が、「このクルマの、持ち主との、関係!」と言い、「お父ちゃんのです、、、」と泣きそうにいうと、「まことに、失礼、いたしました」と、敬礼して、下さった。 わたしたち庶民は、すべて労働なのに、この国の、官僚とかの、子供は、企業から、留学に学習費まで出させ、防衛省の守屋武昌、幸子夫妻は、国民が貧しく自殺している時勢、ゴルフとかだそうだ。 同じく、「ノーパンしゃぶしゃぶ」のメンバー近藤純五郎、小田清一さんなどは、衛生観念のある、厚生省勤務だったそうだ。 5) 1970年5月、中間テストが終わったとき、淡路、洲本を父にする、清水谷高校OBの、枚方市駅の、イトコのイエへ行った。が、イトコの反応がない。 叔母が、「いま、クラリネットしているの」と言うので、「上がるよー」の声をかけると、「うん」と言う。 イトコのヒサ坊は、1969年と違い、おとなしくなり、クラリネットの「リード(うすい、木片。草笛の原理)」を、1960年代は10円で、豊中市では使用禁止だった、柄がプラスチックで、二つ折の、20円ぐらいの、鉛筆削りの刃でつくっている。どれも、でこぼこだった。 わたしが、一枚つくると、「よしのぶちゃん、なぜ、上手なの、もう一枚つくって。お母さんー」と、昔は、ママだったのが、叔母は、お母さんと呼ばれるように、なっていた。大阪教育大学の、教員向けの、音楽へ進むというので、「学生運動をしたから、無理」と言ったが、「もっと、作って」とリードの事を言う。 2階へきた叔母も、わたしのリードをほめる。8枚ほど作った、わたしは、「ぼくの、彫刻刀だと、もっと、調節ができるけど、国立と、有名私立は、どこも無理」と言うと、大阪教育大の、音楽の教官二人に習っていて、「大丈夫なの」と言う。 わたしは、1970年春、京大の教授室へ、呼ばれ、文部省からの通達で、「内申書」時代に入り、学生運動を止めた、わたしでも、無理な可能性があると説明されたことを、言い、クラリネットにピアノはじめ、時間が惜しい、騙されていると説明した。 イトコは、落とされた。 7) 1972年、万博のとき泊まりにきた、イトコのイエへ、行くと、「なによ、ケイ」「うるさい」、バチッ、ボカ、ドテン、「ママ助けてー」の声があっても、状態がわからない事を、きょうだい、でしている。 叔母にきくと、「ケイが、キックボクシングで、チャコの、顔を、蹴ったのよ」と言う。 わたしには、ケイの精神状態が、理解できない。数日後、チャコが、玄関のドアをあけ、「ケイ、落ちたの」と言う。 高校受験だそうで、ケイの家庭教師は、1971年、慶応、医学部一点違いの、補欠入学と、慶応が金儲けで、よくやる手順で入学できた、まじめすぎる西村さんだった。 残っているのが、滑りどめで、私立は、「海城(かいじょう)」、都立は学群制度で、東大20〜30人入学という「青山高校」と言う。 わたしは、東京では、「麻布高校」ぐらいの知識しかなかった。 レベルを知るため、ケイに、二年生の教科書に、模擬テストと言うと、「古いのは、捨てている」という。 最近のテストを見ると、英語など、5教科とも、基本がおかしい。 それで、授業の帳面といい、見ると、国立、牛乳屋近所、付属中学の、教員だが、関係詞、そして形容詞句、副詞句など修飾語の理解能力がない。 都立まで、30日あるので、数学、理科は100点、英語、社会は90点、国語80点で教えた。 「ママー、西村さんより、わかるよー」と、一日目が終えると言う。 わたしを、比べるのかと思った。高校入試から大学院まで、わたしは、本番では、全受験生トップか、トップクラスに近い点数を取ってきた。が、内申書や論文で、ひっかかってばかりだった。 イトコのケイは、両方受かった。都立は、第二外国語の選択がある。ケイが「ドイツ語」と言うので、時間が惜しいから、英語に専念と言った。 1972年3月、チャコの、期末テストまえ、張りのある声の電話があった。東大、早稲田などのあと、上智と「合コン」をする、「熊」を見に行くと、松川道哉さんの令嬢からだった。 わたしが、熊って何?と聞くと、「ウチのパパよ。名前に、熊があるでしょ。ふつうの人間って、言ってるんだけどね」と言う。 夜10時、わたしの妹とちがい、台所を整頓している、チャコの数学UBと、物理UBをみた。 ニュートンや、フレミングの法則などが、わからない状態だった。 叔父も、ホームゴタツへ来、数学の問題をみて、黙って、うつむいている。 学校の、帳面というと、数学、物理とも、教員が10、12進法に、北南半球(2)と、東西南北(4)を、理解していない。 磁界(じかい)の理解を、磁石(じしゃく)から言い、時計まわり、右回転が、気象の「高気圧」。 「父と、子と、精霊(せいれい)の、御名(みな)により、アーメン」の、十字架で、父(作用、動力)が親指、中指を「小指」にして胸にあてること。 「子供(電流)」は「親(動力)」のもとで動く、これの理解。 祈りでの、父は、額(ひたい)の「頭」の位置、子供は心がある「胸」の位置。精霊は「左肩」で「他者」の「ひとさし指(磁界)」が磁気、磁力の差が在るもの。御名は「右肩」で「三位一体」。この左右の方向、すべてを総合したものが、「世界」という、訳がわからない、謎だらけのもの、それら、変化するもの。 「ひとさし指(磁界)」は、他者で、不安定。そのため、不安定な電流が生じる。 「父(労働力)と「子(発育力)」の関係は切れない。が、「精霊(精神力)」という、より大きな、「磁界(難しい物)」との関係も切れず、この3つは、「一体」で、影響しあい、物理現象の、理解への、単に分けた説明であること。 が、日本女子大付属もだが、わたしの、高校の友人たちも、理解しにくかった。宝殿中学の生徒は、わたしのイエの、磁石やモーターをつかい、皆で、あそびながら、応用物理、電気を理解していた。 お茶を持ってきた、叔母に、このころ、「日経」連載、原稿料、10万円だった、叔父が、何を考えているのと、聞くと、 「パパは、姫高のとき、数学と理科が得意だったのよ」と言う。 わたしが、時代がちがうし、説明ができていない、教科書に、教員が悪い、と言うと、 「どうしてよ。日本女子の、先生、(生徒に手を出さないよう)皆、既婚で、良い先生よ、採用、厳しいし」と言うので、わたしは、採用が厳しく、既婚という点が、女子の学校では、一番大事だから、それで、いいねと言った。 午前1時、チャコに、明日、通学中と、試験開始まえに、見て、とにかく睡眠と、言った。 翌朝、病気ばかりの叔母(AB型)が、チャコは徹夜したというので、なぜ、そんなにがんばるのと聞くと、「チャコ(AB型)は、がんばるのよ。パパ(B型)といっしょで」「幼稚園のとき、わたしが、床でしょう。看護の女中さんが、気がつかなく、チャコ、(汲み取り)の、トイレに落ちそうになったのよ」「ママー助けて、の声がしたから、トイレへ行くと、チャコ、ぶらさがっていたのよ。わたしは、ダメだけどね」という。 チャコの誕生は、和歌山県で、チャコの劣等感の、ひとつと言う。こういった事の理解が鈍い、わたしは、田辺は、路面電車の、山側でと、イエへの地理と、図面をかくと、叔母は、「ちょっと、あなた。姉さんが、突然にきた、あのとき、むつき(おむつ)して、一歳になって、いなかったじゃない」と言う。 母の家出から、わたしが、放置されるのは、この、記憶にあった。母は、東京も、埼玉へも、どこでも、家出をして、ハイヤーを使った。 これを、父の妹、キヨちゃん、お姉ちゃんが、質問したとき、わたしは、正直に、行った順を、すべて言う。2歳からは、姫路東雲町の、祖父宅では、夕食後、母が、古新聞を、半紙の大きさにし、正座で、書道をさせられた。 これが原因で、字がかけた。ここから、母の使う、金額がわかり、叱られて、また、家出をしていた。 わたしは、チャコの部屋に飾ってある、「A5」サイズの、暗い画学生が描いたレベルの絵を、なに?と聞くと、「パパ騙されて、10万円で買った絵なのよ、でも、勉強になったのよ」と叔母は言う。 時期が、母へ「姉さん、電話代、10万円、貸して」と、わたしたちが、豊中市のとき、わたしたち庶民は、電話をひけず、とうじ、叔母に言うと、「商工中金は、『半官半民』の、支店長就任だからよ」と言ったのが記憶から出てきた。 1973年、春行くと、叔母は、チャコが、胃穿孔で、倒れているという。胃潰瘍になる体質ではないと言うと、「どうしてよ?」と聞くので、何にも考えないようにする性格だと指摘すると、「『野田岩(のだいわ)』のウナギを、一匹食べたのよ」と言う。 わたしは、20歳を越えても、なかなか肉や魚を受け付けない、体質をしていたので、一匹って、全部?と質問すると、「そうなのよ。あの子は、それで、病院よ」と怒っている。 なんだか、すごい、野蛮な人種と思ったとき、「本社」人事勤務の、叔父が、急ぎで、帰宅してきた。横浜、白楽から、引越してきたところなのに、自由が丘、140数坪の社宅を、空けないといけない、と言っているようだ。 突然の原因をきくと、大蔵省か、なんかの偉いさんが、「商工中金」へ、天下りしをしてくるという。 わたしは、その人たちの時代の「東大」は、学歴ではないというと、「仕方ないのよ」となり、ケイたちは、井の頭公園が、赤トンボに、蝶だらけのだった時代、「荻窪」への引越しとなった。 1970年代後半、天下り、第2弾、チャコの友人、大蔵省、松川道哉財務官が、「商工中金」本社への天下りで、「雪の八甲田山」勤務の、状態にさせられた。叔父は、「商工中金」の、函館と青森支店長を兼務することになった。 わたしが、暖かい、紀州、田辺生まれ、播州育ちを、北海道に東北など、死んでしまうと言うと、父も、「体があって」と、一言いった。 「パパにがんばってもらわないと、わたしたちの生活と、ケイの大学が」と叔母が言う。 1977年、ケイが、同志社大学の講義登録の仕方を、わたしのイエに来たとき、受験勉強の仕方は、高校受験で教えたのに、浪人をしていたので、「なぜ?」と一言、聞くと、「うーん、イエが嫌だったのか、山の手線で、ぐるっとまわっていると、落ち着いたんだ」と、叔父に似た、響く声で言う。 登録は、第二外国語は、同志社のばあい、金儲けのため、ドイツ語、フランス語の履修は失敗しやすいから、中国語、スペイン語にしてと言ったが、「ドイツ語にしたい」と言う。わたしは1976年まで、ドイツ語は7冊辞書をつかい、ドイツ語なら、初心者に、一番わかりやすい、「同学社」ので充分と言った。 わたしたち、イトコ同士の会話はこれだけだった。 1984年、夏、杉並区、荻窪のケイのところへ行くと、マンションのそばを、「環状8号線」の「高架」が、走っている。 環状8号線の工事は、経験していないと、まったく、わからない。浪人の原因は、天下りと、道路だったのか、と思いながら、わたしは、叔母に、「マンションの価格、下がったね」と、わかりやすい、一言をいった。 6) 写真は、若築建設(わかちく)のゼミョーと、博多、中洲の、「ノーパン」か、「ソープ」かにいった、新日本石油の前田博司さんに、鹿児島特産、紫芋での、犠牲、被害者の、わたしの妻である。 1977年、入試制度がかわり、希望大学への進学が失敗したケイが、同志社へ来た。第二外国語をドイツ語にするというので、「中国語か、スペイン語」とわたしが言っても聞かない。 このケイが、わたしのイトコと知り、東大を合格し通っていたという、前田博司さんが、説教してれた。 1980年夏、京阪沿線が理解できない、前田博司さんは、わたしに、妻の祖父の葬儀があるのに、「まっていろ」と、呼びつけ、駸々堂の京宝店で、待たせた。 わたしのそばには、偶然、京阪沿線からの、1979年、80年度、京大の入学生がいた。 いきなり、「マツダ、梅棹(忠夫)って、どんな人だ?」とか聞く。 京大生たちは、「梅棹さんって、誰ですか?」と聞く。わたしは、知らなくても良い人と言った。 あまりに前田博司さんの言及が強いので、わたしは、啓光学園で、同級の、岩田の父親が、ジュリー、沢田研二が通った「鴨沂高校」で、教員をして、梅棹か竹棹か、誰かの子、教えていたそうだ。先祖が、ジンギス・カンだったか、西陣、美人局、重役だった、そうらしいけれど、知らないと言った。 1980年10月、新日本石油の前田博司さんに、就職の説教をされた、イトコと、同志社の図書館であった。 加賀前田、直系という、前田博司さんの暴言の、詫びに、就職先の希望をきくと、とうじ業界No.8の「松下貿易」と言う。 京都だと、わたしが、保証になるけれど、と言うと、「オヤジの仕事をみて、小さな金額で、動いているのが、嫌だから」と言う。 わたしの妹は、「金蘭会」から「金蘭千里短大」。就職先は、学校推薦の、「長瀬産業」採用一人の、社長たちによる、異例の、三次面接、二回。 肝心の、父が、許可しないので、また学校教員つきそいで、推薦で、「冨士銀行」に決めた。 こんな父に、「松下」のことは、頼めないので、長男((同志社→阪大、院)の方が松下電器産業の、山田忠男先生に相談した。 そして、面接をしてくれるとのこと。紹介料金は、手数料として、初任給年額の半分、入社できると初任給全額、だいたい150万円ほどだった。紹介、手数料の60万円は、わたしが持つ、つもりをしていた。 これを、叔母につげると、しばらくして、ケイ、同志社の先輩からの紹介で、自分で、見つけたからの連絡があった。 湯川秀樹先生は、安井信雄院長の「安井病院(いま第二中央病院)」だったと記憶している。地味にされ、入院先は公言しないようにだった。 1982年8月下旬ごろから9月上旬、山田忠男先生は、左京区の「石野病院」で、胆石手術を受けられた。このとき、理学部の、助手の女史二人が、病院まで、「まつたけの土瓶蒸し」を持ってきてくれたと、配慮に、喜ばれていたそうだ。 このことを知ったのは、妻の父が、進行性ガンと、わたしが、眼で判断し、権威、権力を信仰する、地方の家族を、納得させるのは、70歳を越えた、偉い先生たちが入院する、石野病院か、安井病院しかないと判断し、交通の弁が悪い、京大の周辺の、恩師たちのイエを走りまわって、探した。8月の夏休み期間で、どの先生たちも、休暇中のようだった。 妻の方は、福井は、偉い、松平様が、治めた、土地がらで、どこの誰か、わからない者に、娘をやれる、親がいるかと、義理兄などに言われ、結婚を断わられていた。 このことが、わたしの出自を知っている、山田忠男先生は、不愉快だった。 山田先生の、良いところは、美男で性格も良い、長男の方の、お嫁さんが、「大阪、大空襲」で、ご両親を、亡くされた方という事、一点でも、わかる。 こういった、家柄を問う、妻方に、山田忠男先生から、「まつだ君の、お父さんだと、紹介します」と、断わられた。 1980年代中ごろか、京都のチンチン電車だったか、梅棹忠夫さんの、入院先に、「赤チン」2本だったか、知らないが、「先生、初もので、、、。まぁ、先生のような、偉い方は、慣れて、おられていると、、、」と、「まつたけの土瓶蒸し」を持参し、「美人の、女将さんの顔、見えへんよう、なってしもた」と言われた女性は、2007年、「高砂の穴子(あなご)」など、産地偽装で、追究された、「吉兆」の「湯木佐知子」さんだったのではと記憶する。 父に、昔、高砂は穴子?と聞いたとき、「穴子は、下村(しもむら)や、決まっとる」だった。 わたしは、幼児のとき、姫路駅前、北の、駅前市場に、積んである、穴子を、ヘビの親戚と思っていた。それで、イエに、たいがい在る、下村の穴子を、20歳すぎても、口にすることができなかった。 7) 軍事問題で揺れる中、最新、イージス艦「あたご」(全長165メートル)が、民間の漁船を破壊させ、沈める事故ががおきた。 1988年の、潜水艦、「なだしお」と、問題が違う。 東京湾近くは、全長200〜300メートル級の、石油など、貨物船などに、原子力空母などが、近づくところである。 千葉、勝浦からの、「清徳丸」一家は、2008年2月19日、01時ごろには、妻たちが起き、男たちは、02時ごろには起き、太陽の加減、海の気象をみてから、八丈島まで、マグロ漁へゆかれる。 生命をかけ、捕れるか、とれないかの、世界に、かれらは生きている。小さな船(12メートル)には、水深、300メートルは察知できる、魚群探知機は搭載している。 イージス艦「あたご」のレーダー、ソナー探知は、50キロメートルから100キロ可能な、360度の全周。イージス艦「あたご」は、10キロ先で、双眼鏡など、眼で、探知できる。進路を、急遽、北西(右)にとれば、この悲惨な事故は起きていない。 イージス艦「あたご」は、舞鶴所属。まず、「若狭湾」の人々は、「原発」と海上自衛隊には、逆らえない。 昔の精神で、生活する、漁師の人は、被害にあっても、親戚を考え、黙っている。 日本海の海流は、「対馬海流」、宗谷、津軽海流とも、右回りの、ゆるい海流。 それに対し、太平洋がわの、「黒潮」は右回りの、速度があるもの。九十九里の「親潮」は左回り。 イージス艦「あたご」の右への進路で、「あたご」自身は右であっても、「清徳丸」を吸い込む、左回りの「渦」ができる。 イージス艦「あたご」の事故は、自分たちは、大きな船に乗っているという、余裕から、「確信犯」とも言える。 また、防衛省にあたっては、今回の、事故で、すぐさま、陸上自衛隊へも、連絡し、救出の、戦闘機を発進すれば、30分後到着。事故現場の、「海水温」18度前後であれば、人命救助、できた、可能性がある。 漁師、吉清(きちせい)治夫さん(58歳)、長男哲大(てつひろ)さん(23歳)。吉清さんたちは、漁業の道具、ひとつ買うのに、経済上、1万円、1000円単位で、考えに、考えられた、生活をされてきたと思う。また、これを支える、妻たちの気苦労を、どのように説明、解釈する。 石破茂防衛大臣。防衛省の増田好平次官、小島康壽(やすとし)参事官。海上自衛隊の吉川栄治、山崎郁夫幕僚長。河出の昔のノブオさんに似た河野克俊さん。それに、鍜治雅和、清水利広さんたち。 石破茂、増田好平、吉川栄治、山崎郁夫たち、若いんだろう。スキューバダイビングでもって、自ら、吉清(きちせい)さん親子を、救出に行くのが、義務ではないか。 官僚に、自衛隊も警察も、政治家も、「偉いさんごっこ」を、止める時期だ。 大きな建築物好きな連中により、小さく「誇り」で生きてゆこうとする、人たちが犠牲になる、不祥事だらけではないか。 閣僚もだが、防衛省の官僚は100人単位、海上自衛隊の責任者は1000人単位、辞職すべきである。 8) 写真は、前田博司さんの猥褻行為を友人同士で認識し、「1988年暮れ」、河出書房新社に、原画をかくされ、わたしが、祖母の葬儀にでることができなかったとき、代わりをした、イトコのチャコと同じ年の、妹である。 わたしの妻と、いっしょに暮らす約束をした、祖母の生活はつつましく、テレビなどなし。新聞は夕刊だけ、とっていた。 原画を所持していたのは、内藤憲吾(内藤龍、京大)さんの持ち物にあり、恩師が、京大、人文研の、多田道太郎さんである。 インテリアの美学かなんかで、好色男、多田道太郎さんは、わたしの妹と知らず、誘ってばかりいた。 渡海紀三朗、文部科学大臣閣下、2007年の暮れになっても、わたしの両親は、わたしの記憶を試す。 祖父、松田好太郎の、通夜、葬儀に、わたしが出席していないと、母は言う。父は、少し、おかしいと母に言う。 そのため、わたしは、通夜式での、席順を描いた。 1960年12月上旬、祖父は、仏壇の隣の居間、頭は東向き。米田がある前には、若いときから、東芝テレビ部門工場長だった、ケンぼん兄ちゃん。となりが、山下汽船につとめ、70年代なかごろ、ミス神戸とかの、イトコで、そのつぎが、祖母。 北、神吉、大国への、席順は、父、ついで、遺言どおり、わたし。右は、母に妹、兄。 ケンぼん兄ちゃんは、イトコに、「よしのぶや。賢いぞ〜」とイトコに説明をする。祖母は、わたしや妹をみて、黙ったまま、ほほ笑んでいた。 父は、祖父の、死の原因を、キヨちゃん、お姉ちゃんに説明されていたので、わたしに遅れ、先頭の席へきた。 父は、合併問題の経過を忘れており、膝を立てたまま、祖父の、顔にかけた、長四角の、白い布をとり、 「勝手な事を、して」と、怒った。 経過が記憶にある、わたしは、祖父の死んだ顔をみて、わたしの方が、先に逝くはずだったのに、好信の病気が、少し良くなったと聞き、実行したのかと、かわいそうにと思った。 兄は、いつも大事に可愛がってくれた、キヨちゃん、お姉ちゃんに、仏壇の間によばれた。 「テルミツ。来年は、宝殿中学やから、おじいちゃんが死んだ理由を、言うから。神戸大学で、ガンの手術受けたんや。でも、村の使い物にならん体になったからと言って、自殺したんや」 兄の顔色がなくなった。 次の日、野辺の送りは、朝から、夜までかかった。 わたしのイエは、両墓での、野辺。水田の中に、「一家系一家名、松田」の墓。 イエの墓地は、太平洋戦争まえから、戦争反対と、自由主義をとなえ、敗戦のため、GHQ連合軍により、皇族たちと同じく、逆賊になった。墓地は崩され、西(賽、さい)へ、背を向けた、墓は、上下が好きな、血縁による、強い力か、右から左へと、割られていた。 9) 2007年、暮れ、父が、わたしの、きょうだいで、菩提寺の裏から、入ったものがいると、怒っていて、どこか記憶にあるか?と質問する。 わたしは、わたしが、2歳のとき、米田幼稚園の兄が登って、叱られた、大きな柿木があった、イソノの方かというと、黙る。 一家系、一家名の墓地がどこにあったとも、聞く。 わたしの育家と、宝殿駅を直線で結び、その中間、県道43号から、直線で、西へ進んだ方向と言った。 父は、「おまえほどの、もんは、おらん」と言った。 さらに、両親には言っていないが、生家は、「新撰組」の「階段落ち」のような作りの階段があり、おくどさんがある。 葬儀のとき、村からの願いで、戦争や病気で、父を亡くし、嫁に行けなかった人が、祖父の妾となり、先祖からの、わたしの育家に暮らした。 その方が、おくどさんの位置から、「ご焼香だけでも」と、男の子をつれて、やってきた。 立ち合いは、小学校二年生のわたし、直立。後方の、父は、腰をかがめ、仏壇の間へ、手まねきをする。 母は、正座をしなおし、「一番前に。お席は、ご用意、させていただいております」と、言った。 祖父の遺言どおり、村は、権力によわく、生きにくいため、この親子が生きてゆけるよう、都会の血縁の会社へ、身をあずけた。 ▼新日本石油、渡文明、西尾進路、杉山暎一さんの部下、自称、加賀前田直系、前田博司さん、新日石家族に、就職の説教をされた、イトコのケイの、母の種痘届け。第一期は、「徴兵」の赤紙と同じ色で、昭和二年(1927)年、5月13日、横浜市長、「有吉忠一」。第二期、昭和十(1935)年、5月15日、埼玉、粕壁町長、町田丹作、認証。祖父前田正の自筆。 ▼シベリア出兵からもどってきた、内務省土木局の設計技師、祖父、前田正は、帝都、復興局、「官吏」となり、「寄留地」を、神奈川県、橘樹郡、鶴見町、生麦、1953番地の官舎に。 叔母、前田和子の出生、大正十五年八月三十日午前一時(1926、8、30)。 ●わたしの出自を詰問した、新日本石油の面々、 父方の祖父、印南郡、西神吉、米田町、大国、「宝殿」 父方の祖母、印南郡、別所北宿(姓、荻野)、「御着」「ひめじ別所」 母方の祖父、桑名郡、桑名、「桑名」 母方の祖母、北葛飾郡、杉戸、(姓、高田)「東武動物公園」 すべて、血縁は、現存している。 大会社とやらの、新日本石油の責任者、1000年とは言わない。500年まえの、4家系、すべて、公開せよ。 新日本石油、アラビア半島への、「戦争参加」で、死者となった、子供、ひとりの、生命をかえせ。 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2008-02-19 |