京都昨今 |
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66、紙芝居のおっちゃんの左手 | ||
▲東山区、東三條社、「大将軍神社」の荒熊大神 ☆ 「アメリカ人による戦争教育方法」 日本は、1941年12月、昔は、日本人とおなじ、黄色人種がすんでいた、ハワイへ、戦闘機で、攻撃をかけた国といわれ、アメリカ合衆国に、突然だと言われ、大きな戦争がはじまったことになっている。 なんでも自由という、教育が大事というアメリカは、1850年代、「鯨捕り Whaling 」の名人、ペリー Perry が、黒船から、江戸湾などに、大砲を、いきなり、撃った。 アメリカは、自由への再教育も大好きで、太平洋戦争のときは、東京、大阪はじめ、都市という都市の、子供たちへ向け、大きな飛行機で、爆弾落として、子供を、焼き殺し、戦争を教えてくれた。 古い大陸にいた、先住民のインディアンの子供のほとんどを殺し、新大陸と名づけた。 武器による、侵略戦争が得意な国、西欧各国から集合した、アメリカの「合衆国人」は、他の国の、子供は殺し、女性は犯すことだと、常に、日本人へ、再教育してくれる。 日本にも同様で、子供は、ほうっておくと、大きくなり、野蛮な、日本の軍人になると言い、殺してくれた。 10万、20万、30万人殺しても、子供を殺すのも自由、子供を殺すのも教育に躾(しつけ)と、アメリカ合衆国は、日本の子供を、爆撃で、何百万人も殺してよいと教えてくれた。 北海道から、琉球、日本が侵略した朝鮮、台湾、中国大陸の都市の、子供たちも、殺してくれた。 北海道から、琉球、朝鮮、台湾、中国大陸の、町に住む人たちは、より、田舎へ、山奥へと、集団疎開して行った。 それでも、アメリカ人たちは、日本人となった、朝鮮、中国の子供も、子供のうちに殺しておかないと、大人になると、攻撃してくると言い、殺してくれた。 日本の女性をみると、東洋の異国人といって、犯してくれた。 アメリカ兵による、日本女性への強姦の教育は、太平洋戦争後は、毎日で、2007年も、よく、被害が報道された。 子供殺し専門、飛行機会社 Children Killer Company の「老舗」、ボーイング社 Boeing の、特大の、B29は焼夷弾を落下させ、グラマン社 Grumman の戦闘機は機関銃で、日本の子供たちを殺してくれた。 戦争の、意味がわからない、子供たちを、その無知が、大きくなると野蛮にさせるといい、殺してくれた。 1943年、イギリスの女王は、ピラミッド Pyramid など理解できないものを作る、日本人と同じく、戦争が好きで、野蛮な、歴史があるエジプト Egypt の子供たちを、いっぱい、殺してくれた。 イギリス人は、エジプトの女性をみると、アフリカの異国人といって、犯してくれた。 ライオンのようで、怪物みたいなスフィンクス Sphinx など、歴史のないイギリスだから、学習しようと、イギリスの博物館で研究をしましょ、と女王が言って、人類、最大の歴史のひとつ、エジプトのカイロ Cairo で、アメリカとイギリスが、中国と、なかよく、科学に美術のイタリアを分裂させ、科学と音楽のドイツも、神社仏閣に、城は戊辰戦争で破壊したが、また農耕により、町を作り、神社を建築した、日本も降参しているけれど、考えようと、会議をしてくれた。 1945年2月、クリミア半島のヤルタ Yalta で、アメリカとロシアたちは、ポーランドは、ロシアにあげるけど、ドイツは、誰の物か、言葉が通じないから、時間をかけて議論をしてくれた。 1945年7月、過ごしやすい季節になった、ドイツのポツダム Potsdamで、戦争は、すべて、計画どおりに行ったけれど、黄色人種の日本は、どこの国の領土にするか、ドイツの白夜(White Nights)も良い、北極へ行って、オーロラ(aurora)も見たいと、アメリカが中心に言い、長い議論をしてくれた。 アメリカは、白夜をみながら、強姦の教育を考えていた。 犯されたことを言わない、日本の女性を、何人、犯すか、その反応も、教育の一貫だそうだ。 日本の全権大使、近衛文麿首相が、ポツダムで、降参 Surrender 、敗北 Defeat、辞めます Stop と言っているみたいだけど、日本人の英語は、わかりにくいし、騙されたら、損だから、慎重にしたいと、ユダヤ系アメリカ人がいい、時間をかけ、戦争をつづけてくれた。 アメリカの参謀は、日本にいる、日本人スパイが、日本は、盆がすぎるまで暑いと言っているぞと言った。 それに、日本には、子供がいっぱいいるから、まだまだ、教育が大事で、中学生でも解ける、二次方程式、因数分解ができない、日本人の、湯川秀樹さんというひとに、カンニングも、才能ですと教え、なんか、わからへん、あいまいな、中間の理論を、書かせた。 じっさいは、ドイツ系、東欧系のアメリカ人たちが発案、開発した、原爆だが、これは、日本の盆まえに、「ボンボン Bombe」 と、ウラン型のとプルトニウム型の二種類、落として、日本人に原爆を、世界で、初体験させてくれた。 東京帝国大学の教官だった、哲学者の出隆(いで・ たかし)、吉川英史(きっかわ・えいし)先生たちは、原爆が投下される可能性があった、東京帝国大学が焼夷弾で燃やされたら、消火しようと、お二人で、居たけれど、湯川秀樹さんたちは、爆弾に当たると、死ぬからと教えられ、居なかった。 アメリカは、日本の都市、東京にある、外国大使などとの、約束の公文書を、ゴミとしてくれた。 落下の都市は、外国船との、貿易など書類がのこる、広島へは、8月6日、ウラン型。長崎へは、8月9日、プルトニウム型にしようと言った。 日本は、17世紀、漂流してきた、オランダ Holland の船、リーフデ号、De Liefde を救った。 日本は、交易のためという、オランダの言い分をきき、平戸などに商館をつくらされた。 が、オランダ人は、恩を知らないのか、白人種のオランダが侵略した、黄色人種の東南アジアの国々で、黄色人種の日本人に、犯されたと、正当化し、日本人兵士に、嫌悪を持っていると、日本人を教育してくれている。 たしかに、日本人には、悪党が多すぎる。 東山の子供、10人集まってもらって、指で勘定しはじめたら、足りなく、京都の子供、全員が必要と思うぐらい多くなった。 異国風の町、長崎には、オランダをはじめ、各国の、貿易での、書類が残っている。 19世紀はじめ、オランダ商館と密約したドイツ人のシーボルト Siebold は、日本人女性を犯し、日本人学者を騙し、日本地図を、計画して盗んだ。 このおかげで、日本のすぐれた、天文学者たち10数人が、獄中死させられた。 侵略と詐欺と強姦が好きな、白人種の悪行が、幾つも、見破られるので、広島と同じく、長崎にも、原爆実験をかけ、広島、長崎の子供たち、10万人以上を、原爆で被爆させ、一瞬に、焼き殺し、輻射光での、原爆による、白血病は、2世、3世と代々つづくものと、教えてくれた。 アメリカ合衆国のおかげで、日本は、とても平和になって、原爆は、京都の湯川秀樹さんの発案ですよと言い、おめでとうと、西洋の賞をあげた。 アメリカ人は、より、ごまかそうと、血縁の長崎の古川竹二(ふるかわ・たけじ)さんが、「血液型と気質」を、発案したと言われたとき、血液型と気質は、絶対関係があると信じていた、微分が理解できない、朝永振一郎さんへも、日本人は、おりこうさんねと賞をあげた。 [ 紙芝居のおっちゃんの左手 ] (1962年、秋、11月、印南郡公会堂) 1) 紙芝居が、姫路のほう、神爪(かずめ)をとおり、やってくる。 古い、土道(つちみち)がのこる、旧国道1号線を正面にして、印南郡の公会堂へ、黒の自転車でくる。 難病ばかりの、わたしは、強い日差しの日、体を冷やす雨の日、外出は禁止されていた。 紙芝居屋のおっちゃんが、麦わら帽子をかぶって、やってくる季節が過ぎた。 薄いセーターが、必要と感じる季節、わたしは、紙芝居を見たいと思った。 紙芝居屋のおっちゃんは、紙芝居のはじまりを、左の白い軍手をしている手に、拍子木もたせて、右手での拍子木を、当て、カンカン、カンカン、火の用心と、同じ音で、紙芝居のはじまりを知らせ、子供たちを集める。 木造の屋根と、桟のある、印南の公会堂の、自転車置き場のような所に、20数人ばかりの子供が、寄ってくる。 紙芝居屋のおっちゃんは、駄菓子を買わない子にも、「近くへ来て、近くへ来て、来て」と、右手で仕草もして、言う。 1962年の秋、少し元気なとき、わたしは、母に、公会堂に来る、紙芝居を見にいってよいかと、聞いた。 紙芝居を見るには、1回、5円ほどの、駄菓子を買わないといけないので、駄菓子が禁止で、幼稚園児から、姫路日赤病院へ入院していた、わたしは、紙芝居を見たことがなかった。 母は、わたしのイエに置いてある、水あめと、練乳付きのは、食べても良いと言った。 水あめ5円、練乳も5円、合わせて10円。 紙芝居屋は、駄菓子の他に、当て物のゲームがあり、はじめて行ったときは、1回10円の、「宝島」。 トランプのカードの大きさで、紙は神社の占いのような、うすいものに、いくつもの島の模様があり、楊枝で、2、3箇所刺す。 そのあと、水につけると、当たりの位置に、赤の丸がでて、当たりの数で、5円、10円、20円となってゆく。 わたしは、3回して、外ればかりだった。 外れだと、5円分の駄菓子で、わたしは、5円の水あめを3つ。 紙芝居のおっちゃんは、割り箸を半分に折った、10センチほどの、大きさの木の箸に、水あめを巻いてくれる。 冬の陽になった、2度目、行ったときは、白雪こう(はくせっこう)を、固めたような、うすい桃色のような形、タテ3センチ少し、ヨコ3センチ少し、幅3ミリぐらいの、干菓子(ひがし)に、穴をあけ、硬貨をくぐらせるゲームで、一回10円。 紙芝居屋のおっちゃんの説明は、5円、10円、50円と、硬貨の大きさ順が、ゲームだという。 50円玉など、大きくて、割れてしまい、絶対に、無理な、大きさの、干菓子、だった。 10円を渡すと、紙芝居屋のおっちゃんは、干菓子に、5円か、10円かの、円を、つま楊枝で、描いてくれる。 母の、手編みのセーターを来た、わたしは、10円をわたし、一番小さな、5円玉の線を、描いてもらった。 干菓子への穴は、つま楊枝に、ツバをつけ、ゆっくり、あけてゆく。 わたしは、紙芝居屋のおっちゃんの前で、失敗しないように、開けて行った。 5円玉など、通りそうにない、ギザギザの円しか、できなかった。 失敗と、わたしが、言うと、紙芝居屋のおっちゃんは、 「ここと、ここと、少し、開けて見たら」と、笑顔で言った。 紙芝居屋のおっちゃんの言ったところを、楊枝で開けると、おっちゃんは、 「ここのとこやと、5円玉、通るなぁー」と、干菓子を、斜めにして、通し、「お菓子は?」と聞いたので、わたしは、少し遠慮する、気持ちになりながら、「水あめ」と、返事した。 失敗だと、水あめだけの5円。5円玉が通ったので、練乳5円付きの10円。 近所の大学生が、小学生三年のイトコをつかい、紙芝居屋のおっちゃんに、50円玉の、輪郭をひかせた。 三年生は、イトコの大学生のイエへ、干菓子を、もって帰った。 大学生は、家業の、菓子用のコテと、火鉢の箸に、火をあて、わたしが見ているまえで、50円玉の、大きさを、ぐるりと、熱でとかし、そのあと、楊枝でしたように、ジグザグ模様にした。 わたしが、三年生といっしょに、紙芝居の、おっちゃんのところへゆくと、おっちゃんは、 「よー、こんな、大きく、きれいに、開けれたなぁー」と、干菓子を、青い空に向け、笑顔で、言い、「ほなら、50円」と、また、笑顔で、三年生の男の子に、わたした。 2) わたしは、このことを母に言って、次の紙芝居は、二年生の妹と、幼稚園のイトコたちを、連れて行ってよいかと、聞いて、100円もらった。 黒色が中心で、B4の、大きさのボール紙に、絵をかいた、紙芝居は、剣豪のチャンバラ物、子供が活躍する冒険物、怪人物、探偵物などがあった。 「浦島太郎」や「因幡の白うさぎ」などの「昔話」もあったが、これは、子供が興味をしめさなかった。 紙芝居屋のおっちゃんは、話の、効果を出すため、義手の左手で、紙芝居を持ち、話のとちゅうや、右手で、紙芝居を一枚めくるとき、左の義手で、コツコツ、ゴンゴンと、木製の、自転車の、駄菓子入れと、紙芝居入れの、物置を叩く。 わたしには、紙芝居を立てる、物置が、舞台に見え、紙芝居のおっちゃんの、左の義手が、おっちゃんの、もう一人の役目を、しているように感じた。 浦島太郎のような昔話のない日で、妹たちを前にして、冒険物、怪人物など、紙芝居の話の、説明を、しながら、聞いていた。 妹やイトコたちが、関心をしめすものはなかった。 妹たちとは、夏向けだった、ゲームの「宝島」をした。 幼稚園のイトコたちのは、イトコたちが言う箇所を、わたしが、楊枝で開けた。 わたしたちは、失敗ばかりで、紙芝居屋のおっちゃんに、恥ずかしく思った。 紙芝居屋のおっちゃんは、妹のにも、イトコたちのにも、「はい、10円」と、10円分の駄菓子をくれた。 わたしは、妹たちに、水あめの、他のも買った。 丸い、直径10センチもない、ウエハース2枚5円に、イチゴのジャム5円をはさんで、合わせて10円。 ウエハース2枚5円に、チョコレートのペースト5円をはさんで、合わせて10円。 松の木陰が多い、印南郡の公会堂での遊びは、兄たち、戦後のベビーブームの世代は、ビー玉、ベー独楽、石けり、缶けり、メンコ、鬼ごっこ、かくれんぼ、木のぼり、縄飛びなど、いろいろな遊びをしていた。 わたしや、妹たちの時代は、アメリカの教育のおかげで、トランプから、野球ゲーム盤、ABCゲーム、バンカースに、音楽を習ったり、青い眼の、着せ替え人形の時代になり、外で遊ぶ子供が、少なくなっていた。 妹たちが買ったあと、まだ、ポケットに、10円残っていた。 わたしは、紙芝居屋のおっちゃんに、また、頼んだ。 水あめ5円、練乳5円、合わせて10円。 国鉄、宝殿駅すぐ、印南の公会堂のあと、紙芝居は、米田小学校のそば、米田天神社でするらしく、紙芝居の同じ話を、2回、3回聞くという子供たちは、紙芝居屋より、先に、米田小学校の方へ、走って行く。 3) 紙芝居のおっちゃんは、おっちゃんが手作りした、紙芝居の道具を、右手で、片付けながら、 「おっちゃんなぁ、日本の、すごい、南の方へ、戦争に行ってん。日本、貧乏やろ。戦争相手の、アメリカは、大金持ちで、機関銃やねん」 「おっちゃん等、日本兵、スコップで、洞穴(塹壕、ざんごう)作って、一発ずつ大事に、村田の三八銃で、撃たなあかんねん」 「機関銃と連発銃をもった、アメリカ兵が、出てきたとおもったら、おっちゃん等、来たなと、用意して、一発で、倒さなあかんかってん」と言った。 日本への、アメリカ兵たちによる侵略の跡は、1960年代まで、大阪、神戸、姫路だけでも、大きく、工場地は、錆び色の土、錆び色の建物が目立っていた。 紙芝居屋のおっちゃんは、 「日本、貧乏で、毎日、毎日、戦争の道具がなくなって行って、三八銃の弾も、20発から、10発になって、勘定しながら撃つねん」 と言って、ライフルを持つ姿勢をしてくれた。 「おっちゃんなぁ、今日は、あと、6発しかないから、ジィーと、洞穴で、堪えに、堪えて、アメリカ兵、一人でも、倒してから、味方の方、帰ろうと思ってん」 「そいで、来たなと、思ったから、洞穴から、そおろっと、音を、ささんよう、左手で、銃口を出したとき、ダダダダッと、機関銃の音がしてん、、、」 「おっちゃんに、油断が、あったんやろなぁ、、、」 と、痩せぎすの紙芝居屋のおっちゃんは、自分自身が悪い事のように言った。 「ダダッ、ダダッと、機関銃の音がしたと思たら、おっちゃんの左手、後方へ、ヒューンと飛んで、消えたんや」 「おっちゃん、アメリカ兵に捕まると思たから、あわてたら、あかん、捕まったら、恥やと思て、右手で、雑嚢(ざつのう)の中に、ひとつ置いといた、自決用の、手榴弾(しゅりゅうだん)探してん」 「でも、日本の手榴弾の引き金、細い針金になってて、右手だけやと、針金、引かれへんねん」と言った。 空襲のひどさは、名古屋、桑名、大阪、神戸、姫路と、わたしの血縁の土地でも、ずいぶん、見てきた。 紙芝居屋のおっちゃんは、 「あかん、あかん、がんばらな。アメリカ兵が来る。アメリカ兵が来ると思て、足で、手榴弾、はさんで、アメリカ兵が来たとき、いっしょに、死んだろ思てん。うまいこと行ったら、アメリカ兵、一人は、やっつけれる。アメリカ兵やっつけよ、思てたけど、気絶してもてん」と言った。 「その後、アメリカ兵たちが、攻めて来たらしいねん。手首がない、血だらけの、おっちゃん見て、死んでる、思たんやろなあっ。夜になって、味方がきてくれてん。日本兵、日本兵や、姫路や言うて、皆で、運んでくれたらしいねん。ありがたいけど、情けな、、、と思て、、、」 「そいで、こんな、義手の左手になってん。おっちゃん、注意していたんやけどなぁ、、、。油断があったんやろなぁ」と言った。 わたしが、アメリカの機関銃って、そんなに、すごいのですかと聞いたら、 「すごい、すごい。すごいんや。日本とちごて、100発、200発が、バババンって、いっぺんに、出てくるんやから」 「日本の兵隊、勇気はあるから、三八銃の弾が無くなると、スコップと、自決用の手榴弾もって、肉弾攻撃で、アメリカ兵に向かってゆくねん」 「アメリカの機関銃は、日本兵のヘルメット飛ばすし、肉弾攻撃の、日本兵の、体、頭も、胴体も、皆、バラバラにしてしまうねん。そいでも、日本の兵隊、勇気や、勇気やって、がんばって、手榴弾握って、肉弾攻撃してゆくねん」と言った。 わたしは、ぼんやりして、紙芝居屋のおっちゃんが、木造の道具箱を、黒のゴムベルトで、巻き、仕舞い、宝殿市場から、米田小学校の方へ行く、紙芝居のおっちゃんの姿を見ていた。 「日本、貧乏やろ」「おっちゃん、一発で、当てよと、思てん」「油断があったんやろなぁ、、、」「自決用の手榴弾握って、肉弾攻撃してゆくねん」と言った言葉は、いまも、わたしの脳裏に反復している。 2007年暮れ、姫路連隊だった、父に、公会堂に来ていた、紙芝居屋のおっちゃん、知っている? どこの人と聞いた。 「顔は知っている。紙芝居は、志方(しかた)。ワシが子供のときから、決まっとる」 と、小学四年生まで、祖母の、印南郡、別所(べっしょ)の方、阿弥陀(あみだ)で育った父は言った。 ▼京都南座、顔見世、2006年12月 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2008-01-26 |