京都昨今 |
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65、人権侵害、強姦、殺人予備「西尾進路」の部下たち 【天上論】 | ||
☆ 京都の町にも、クリスマスのイルミネーションが見える、時期になった。 1970年ごろは、大阪はじめ、楽しくかんじたが、21世紀からの、クリスマスの飾りは、さびしい。 上の光景は、京都ホテルので、わたしが、用事で、行っていたときだ。 妻が父に、わたしが京都ホテルと、言ったとき、昔の木造のアンティークのころ、「少し建設に、かかわった」と言ったそうだ。 1) アメリカの大統領選、2008年に向けた、候補者の演説は、大衆以上の、制御の方法がわからない群集となった「大きすぎる市民」を、意識しすぎ、賞味期限切れの、使い古した言葉ばかりの連続である。 どうせ、大胆な、演劇の国、ハリウッドとブロードウェイのつづきの結果は、見えている。 ニュースでの記憶だが、聞いたことのある声の人が怒っていた。 カリフォルニア州のシュワルツネッガー知事 Schwarzenegger 38th Governor of CA.だ。 頼もしい知事は、 @2005年12月凶暴な、ギャング団の死刑囚を、弁護団希望の減刑をせず、死刑執行。 A地球温暖化の対策法として、カリフォルニアの、温室効果ガス排出量を削減。 B2005年から、自身の、映画界での経歴を謝罪し、次の世代のため、超暴力的なゲームへ、自粛要請。 アメリカだけでなく世界の俳優ともいえる、シュワルツネッガー知事の抗議だが、もし自由な国を主張しつづけたいのなら、今回の不況時、「特例」 SP Urgent Case とし、憲法を変え、シュワルツネッガーは、名前のとおり、有色との、混血でもあるし、大統領選に出させ、白色人種主導だった、政治の変更の機会として、選挙をして見せるのが、アメリカではないのか。 シュワルツネッガーは、「オレが、大統領なら、こんな事態になってるか」と、彼の意思は、あまりにも、正しく、力強い。 2007年11月の抗議だが、10年まえは軍艦で、11月7日は、香港の貨物船が、ベイブリッジにぶつかって、油がいっぱい流れたじゃないか、とかだった。 この調子だと、近い将来、「霧じゃなく、油のサンフランシスコだい」って、わたしが、彼の友達なら言ってもらい、歌ってもらう。 ♪ I Left My Heart In San Francisco、、、The morning fog may chill the air someday Nuclear-Powered Ship Crash、I don't care、、、。 次期大統領は、シュワルツネッガー。 副大統領は、まえ、カリフォルニア市長 CA. Mayor の、正義を求める、日本の青年や子供たちの、大半があこがれた、クリント・イーストウッドClint Eastwood 。 彼に、アメリカの悪党をつぎつぎ、やっつける、「ダーティ・ハリー」Dirty Harry か、「夕陽のガンマン」Per qualche dollaro in piu の役柄で、ブッシュ親子 Bush &Son に、クリントン Bill Clinton を、撃つ役でも、してもらい、財産の大半を、カリフォルニアと、フロリダの被災地に、寄付してもらおう。 そして、「ローハイド」 Rawhide の役柄で、自然な牛の飼い方をしてもらったら、アメリカンドリームの再来となるだろう。 生物農薬の代表に、テントウムシ(天道虫)が知られるが、もう一方にミツバチたちがいる。 アメリカの、大変な環境変化は、シュワルツネッガー知事がいる、カリフォルニアで起きている。 人工でのスモッグか、地震か、ハリケーンなどか、いまの大統領ブッシュが悪いのか、樹木の花へ、受粉させる、ミツバチまでも、アメリカからの逃避か、少子化現象を、おこしてしまった。 これだと、アーモンドが、まったく無理だし、レモン、グレープフルーツ、リンゴに、タマネギまで、栽培量が極端に減り、1兆円単位以上の損失となり、将来が、見えないと、現地のマスコミは知らせる。 「ミツバチも、アメリカなんか、大嫌い」と、意思表示されたみたいではないか。 2) 18世紀からの石炭の時代、20世紀となり石油の時代、そして、21世紀は太陽電池の時代から、さらに風力発電によるエネルギーの時代へ希望をかけるように、エネルギーの形相が、変わってきた。 このため、埋蔵量と生産量で、石油が、世界中、あまりに、あまることから、将来を心配する、産油国が、産油国アメリカの脚本どおりに、見える演技で、石油を高騰させてきた。 日本の、市民がすぐわかる、ガソリンスタンドでの価格はじめ、石油を、エネルギー源、材料とする企業が、会社の維持に、大変な情況である。 自分たちだけが良ければいいという現象は、2007年11月10日にあらわれた。 チリでの、「イベロアメリカ首脳会議 Cumbres Iberoamericanas de Jefes de Estado y de Gobierno」である。 ここで、産油国、お金持ちの、ベネズエラのチャベスHugo Chavez 大統領が、日常語で、スペイン、ポルトガル、アメリカなどを、先進国、侵略国だと批判しつづけた。 連続する批判は、アメリカとイギリスのイラク戦争を肯定した、スペインの前首相、ホセ・アスナール Jose Aznar は独裁者だと、まで言い放った。 このとき、首相のサパテロ Jose Luis Rodriguez Zapateroは、「違う、聞きなさい」と、何度もいい、前首相ホセ・アスナールは、選挙で、選ばれたんだ。そんな人物ではないと注意した。 サパテロ首相の発言を、制止、ヤジのような言葉ばかりのチャベス大統領に、 南米を植民地として持ちながら、西洋はじめ、先行きの経済に混乱をかんじ、両者はじめ、周囲の意見を聞いていた、スペイン国王の、フアン・カルロス1世 Juan Carlos I は、「礼儀」を、外していると、 「?Por que no te callas? (口を、つつしめないのか!)」と、厳しい発声をした。 共通言語が、侵略国家からの、スペイン語であっても、伝統という、堅苦しくも見える、道徳を維持し、国民の指導者でもある国王に、文化の気品をもたれた人物へ、日常語が言え、また注意ができる社会の光景に、「言語」とは、「階級」とは、何かと、考えながらも、日本人である、わたしは、うらやましさを感じた。 日本の語学教育だが「英語」に偏りすぎた。残念に、一流大学の、英語の教授レベルも、理解ができていない。 英語も、他の外国語も、日常の、中学レベルで止め、普通の学力の人は、反復だけで、難解なものは専門家にまかせること。 あとは技術、家庭、医療など、理解しやすい実践の知識を、中学までに吸収させ、社会参加させれば、若い世代に、本当の学問とは、人間の社会生活にとって、重要なことは、何かがわかり、心身の負担もなくなる。 産油国、サウジアラビアのアブドラ国王 Abdulaziz にしろ、ベネズエラのチャベス大統領、アメリカの軍事攻撃にあう、イラン大統領アフマディーネジャード Ahmadinejad にしろ、すべて、いままでの、国家代表とちがい、明日の生活を考えたことがない、中産階級以上、富裕層の出身である。 唯一、市民という、大多数、いや、国家という枠組みを越え、「他者」を考慮し、われわれ大衆の理性を抑え、感情的になりやすいように、危険とも思える、鋭い発言をしているのは、イラン大統領におもえる。 悲しいことに、「他者」のためなら、自分自身を犠牲にしてまで、発言をし、思考力のある、イラン大統領 Ahmadinejad に、欧米はじめ、アジアの資料を、渡しても、自国のイランをふくめ、世界情勢の、理解と協調、その方法の提示となれば、無理という判断になる。 あまりにも、国際社会が、大きく、複雑になりすぎた。 ただ、これらも、われわれ大衆の多くが、冷静になれる、正しい情報が、整理され、並び、何が正しいのか、どれが良いのか、判断できる、時代の形相に、なってきたとも感じることができる。 いつも勝者でなければならない国家となったアメリカは、不況の打破のため、イラクは独裁政権であるとか、化学兵器を所持しているとか、NYの「911」テロは、イラクであると言っていた。が、アメリカは、実証が、できなかった。 産油国のイラクの、サッダーム・フセイン 5th President Saddam Hussein は、2006年12月30日、絞首刑にされたと言う。 フセイン Hussein は、20世紀のはじめから、日本を応援していた、トルコ Turkey と同じく、「アメリカに、侵略され、領土下されたような、日本はどうしたのだ。日本よ、日本は、アメリカと戦える技術があるではないか、わたしは戦う。日本人に、わたしの言葉が、意思が、通じないのか」と、述べていた。 21世紀を向かえ、アフリカの、第一次産業、従事者たちが、「いつまでアメリカの奴隷だ」と抗議を起こし、南米、ブラジルも、同じく、一揆を起こした。 これにより、アメリカ人にとって、大事な穀物、食用の白トウモロコシが高価になった。 また、家畜の餌向け黄色トウモロコシでさえ高くなった。 石油の次の産業、コーヒー豆では、インスタントコーヒー用のロブスタ種でなく、香りがあり、柔らかな味の高価な、アラビカ種 Arabika を燃やすという、抗議に出た。 コーヒー豆は、この10年で、2倍から3倍、価格が上がっている。 これが、物価高に拍車をかけ、現在の経済へ、懐疑を、突きつける形となった。 現在の情況だが、牛などの畜産も減り、ミルク関連も生産が落ちてきた。 牛海綿状脳症(BSE)、羊のスクレイピー(Scrapie)など、すべて、肉食が原因の、「蛋白(プリオン)異常」の病気が、これまでの先進国とやらの、奴隷経済主義が、「世界破壊」へ、近づかせたといえる。 今回の大不況の原因は、アメリカだが、キューバの、革命家の象徴だった、カストロ Fidel Castro にも、大きな責任がある。 カストロ、自分の家族だけが良ければ、いいのか。 キューバの空はクリスタル El Cielo Cubano es Cristalino なのか、政治は市民のためが基本ではないのか。 3) 日本は、15年戦争(太平洋戦争)中にも、兌換制度の変更を強いられ、1945年夏の敗戦後、GHQ連合軍により、兌換制度を、複数回、変更させられた。 昔の、「金本位」、銀本位制度であれば、実物を、眼にして、経済が動く。 ところが、欧米、ドルやポンド主導の、経済理念は、「紙幣」という、印刷機械があれば、何倍にも、なるものに、変化させられてしまった。 国民の思想や、芸術のあらわれ、それらの程度は、表現であるから、欧米文化に、主導をにぎられた、日本の、思想家たち、芸術家たちにも、理解できる。 現在、形式上は、アメリカが、兵器、エネルギー問題で、主導をにぎっているように見える。 アメリカでの才能は、政治や実業へ行き、文学、哲学など、思考する文化は、乏しい。 1970年代から、アラビアを基軸とした、オペック(石油輸出国機構、OPEC)での、富裕層による、一番の問題は、石油にかわる、エネルギー開発による、自分たちの、将来の経済生活の、「在り方」だった。 いま、これが、変化してゆこうとしている。 「トリック経済 Trick Economy.」と言う方が、正しいのだろうが、アメリカは、識字力の弱い民族に、さまざまな、仕掛けをしてきた。 日本のばあい、昔の「銭」の単位でゆけば、1ドル=1円と、いうような計算ができ、これだと、子供にも、計算ができる。 一ドル=360円以上という、変動単位での、換算だと、銀行員ぐらいしか、さっと、計算できない。 先物取引の代表、石油だが、これは、生産量が「10」あるとしたら、使用に応じて、「7」になったり、「8」になったりする。 これだと、産油国や日本も、困らない。 ところが、テキサスはじめ、産油国であるアメリカは、1970年代から、「10」を、「100」ぐらいにし、先物取引をしはじめた。 とうとう、その、100倍、「10,000」というような単位の、兌換紙幣(ドル)を、印刷してしまった。 「10」に対する、対価、等価は「10」であるが、アメリカは「1000」以上を等価にした。 インド洋での給油活動だが、これをすれば、日本政府関連の、ほんの一部企業だけが利潤を上げ、日本企業の大半は、より不況下になる。 1000−10=990であるが、この実際の、「マイナス990兆円」ほどの、多少が西洋、残りは、植民地か属国である日本、アジア、中南米、アフリカが負担している。 彼等が使うのは、2、3年間ぐらいの歳月である。 4) こんな状態になれば、いくらバカな日本人でも、おかしい、このドルは、子供銀行券か、価値のない紙幣、間違ったインフレと思い出す。 この世界、経済構造は、資本主義ではなく、奴隷主義である。 わたしが指摘する表現は、「皆様のNHK」では禁句だった。 わたしは、浅学のため、「ノーパンしゃぶしゃぶ」など知らない。 庶民の娯楽の「JRA(競馬)」、わたしは、1986年ごろ、東京、世田谷の電気屋のテレビで、「京都競馬場」というのが、イエの近所の、淀競馬場と知った。 無教養のわたしは、いまだ、◎○▲△☆、が、何の意味か知らない。 京都では、近所だし、著名な騎手の夫人とは、わたしの妻が、会釈、丁寧語で会話したことがある。が、どこかの常識知らずの元官僚かが、劇的、突出した才能の、「武豊(たけ・ゆたか)」さんに、お辞儀をさせている。 どこにでも居る、いまの元官僚など、武豊騎手が歩いたあとを、箒(ほうき)か、雑巾がけで、掃除するのが常識というものだ。 日本中央競馬会(JRA)を、まったく、大不況にしたと言われる元凶、「ノーパンしゃぶしゃぶ」メンバーで、農林水産省次官だった「高橋政行」さんとやら、こんな不景気のときは、政府、「大出血、奇妙なサービス、でもいいわ」の、「大穴」ばかりを作ればいいんだ。 年末、年始の大レースは、元・次官さんたちが、ノーパンで、馬を背負い、走ってくれれば、20代のカメラマンだと悲劇だが、不況のマスコミが活気づく。 ついでに、「洞爺湖サミット」 G8 Hokkaido TOYAKO Summit 2008 は、温泉で、裸になって、してもらったらどうだろう。 そうなれば、シュワルツネッガーだけが、カッコウ、よくて、おもしろい。 日本に、必要なのは、次世代の子供のため、日銀の、「福井俊彦」総裁を、国会喚問 にかけることだ。 子供による、喚問だと、「視聴率」が上がる。 @「おじいちゃん、ノーパンしゃぶしゃぶって、何ですか?」 A「ボボ Boboや マンコ Manko オーソソ O-Soso が、見えるのですか?」 B「ボボ Boboを、何万固、見ましたか?」 C「わたしは、女の子です。わたしが、日銀の総裁になったら、いっしょに、見るのですか?」 だったら、福井俊彦総裁、および日本経済の、主導者である、脳の蛋白質が、治療法の、見えにくいプリオン状態だと、「NHK教育」をとおし、世界、中継物になる。 欧米はじめ、アフリカや、中南米の人たちは、ときどき何も考えず、「馬」や「鹿」の肉を食べる習慣のある、日本人は、ほんとうに、「馬鹿」な、東洋の国の人、と思うだろう。 福井俊彦さんの顔だが、エッセイなどの「泉麻人」さんに似ている。 千枚着けは、水出しをするが、福井俊彦さんは、水に付けたまま、万-万固 Man-Manco枚漬けにしたような顔だ。 学問ができる男、スポーツもでき、農耕をする男たちが嫌う顔だ。 学生時代というのか、「豊かでないので、慶応時代、友達がいなかった」と、書いていたのが記憶にある。 泉麻人さんの、文章に、正直さを、かんじた。 内閣府、偉い経済人が、いっぱい、いて、なぜ、不況を打破できないのだ。大学は、何のためにあるのだ?大学の教員は、何を、「お勉強」してきたのか?いったい、何が偉いのか? 日銀のメンバーなど、本当に、国民への経済を考えることができる人たちだと、5分の1で、充分ではないか。 いまの、福井俊彦総裁以下、日銀にたくさんいるメンバー、それに、アメリカのブッシュさんたちに、牛海綿状脳症(BSE)にかかった、牛肉での、しゃぶしゃぶを食べてもらったらどうだろう。 互いに、もともと、病気にかかったような、「睾丸無恥(こうがん・むち)」の表情だから、問題はないだろう。 内閣府、福井俊彦さんを、アメリカでの、「炊いた、肉、丼(牛丼)」、FCチェーンの、徒歩での営業本部長、兼、総督に、就任、「天上り(あまのぼり)」させたら、どうだろうか。 FCチェーン名、深い海底へ沈んでゆく、アメリカの象徴、「タイタニック丼 TITANICーDONBURI」。 キャッチコピー、「めでたいね(稲) 年寄り生きて 子供死ぬ」 5) 「ノーパン喫茶」の歴史検証。発祥だが、だが、これは、1980年、春の京都、金閣寺近くだそうである。 臨済宗、天龍寺派大本山の管長が、いろいろ坊主の、関牧翁(せき・ぼくおう)さんのときだった。 関牧翁さんは、慈悲深く「等持院」に、禁止の庵主さんを、配置させた。 「ありゃ、慶応の医(臨床)ですから、、、ね」と、京都の医学博士たちは、いっていた。 「仏(ほっとけ)」のような、関牧翁管長にはあわず、平田精耕和尚と、わたしが哲学を談義したあと、帰り、いま、京都信用金庫の副理事長、「増田寿幸」さんの同僚の、カンジャ君、イタロー君たちが、行ってきたと、1980年秋、クルマの中で、話していた。 わたしが、「ノーパン喫茶」って、何ですか?と聞いたのに、笑って、答えてくれなかった。そのため、わたしは、いまだ、無知である。 彼らとちがって、親切な、女子社員の愛称タヌキ、増田寿幸(京大、理OB)さんは、わたしと同年になる。 1980年、NY、ハーバード大学への留学と言われていたとき、わたしのイエは、代々、眼の虹彩(こうさい)が、淡茶色で、わたしは髪が濃い茶色 Brownに、ウエーブ Waveですから、白人社会に、困らないのですが、妻には、NY、が危険と思って?と言うと、「ソフィスティケイト(sophisticate)、されていますよ」と言った。 わたしが、「ソフィスティケイト」には、「あざとい bad flash」 の意味が大きく、使って良いのですかと言うと、「いま、NYは、日常、良い意味で、使ってますよ」と言った。さらに、 「ぼくは、伊谷純一郎(京大、自然人類学、生態学)先生でしたけど、伊谷先生に会われたら、どうですか」と言ってくれた。 わたしは、山田忠男先生から、先に、「伊谷君レベルでは、どうにもならない」と言われていたことを、四条通り、「京信」本部、東にあった、「東京海上火災」の、ガラス張りが、主の、喫茶、「アクアマリン」で、答えた。 6) 全国の地銀や、信用金庫など、金融庁や日銀のからの監査を、非常に注意を払う。 今回の大不況は、1980年代の、日銀、都市銀行によると言っても良い。 原因は何で、誰が犠牲となったか、この社会構造を、指摘できるのか。 内閣府、および、自称、経済人。 このままだと、全国の、地銀、信用金庫など、すべて破綻してしまう。 京都信用金庫と、わたしのイエとの付き合いだが、新入社員が、「どこも、まつださん、ところのように、初対面で、預金、してくれません」と、わたしにいうので、「ここの、若い世代、ほとんどが、住宅ローン」というと、「えー!?」といったので、「ウラ(大阪歯科大教授、京大・理OB)は30年」、と言ったら、「30年〜」と驚き、玄関マットの上に倒れた。 そして、母が、一番はし(龍谷大学教授)は、大丈夫と言い、近所を、回ってあげた。 このあと「住友銀行」の、東京、六大学出身の社員が、1970年代、「なぜ、あんな、信用金庫、、、」と、わたしの母に言った。 このような発言を嫌う、わたしは、「あなたが、住友をつくったのなら、言いなさい。二度と、イエに来ないで欲しい」と母がいる前で、言ったが、住友はくる。 それで、京信の枚方市への営業は、わたしが、京阪沿線の、イエが実業の、級友たちと、会ったときに言った。 金融と兌換だが、景気回復の方策として、印刷、増刷の大振る舞い、今年、いまだ、わたしへ、連絡がない、河出書房新社、その株主、「凸版印刷」にでも頼んだらどうか。 2007年10月、「凸版(トッパン)印刷」などは、自動車保管場所標章を、警察からの天下りの言うまま、印刷し、「交通安全」のためと市民に買わせ、天下り連中の、家庭の財布だけを、安全にしている。 「福沢諭吉(一万円)」をいっぱい刷って、河出書房新社の株主のひとつ「三省堂」で、「夏目漱石(千円)」と交換セールをやったらどうだろう。 年末セール、三省堂の本を、夏目漱石で買えば、福沢諭吉のおつりがいっぱいとでもやればいい。 読者が、本好きが、倍増して、大学生の学力も上がる可能性があるかもしれない。 この行為で、タンス貯金の保持が小さくなる。 デフレ、インフレの責任は、とうぜん、内閣府(財務省)、日本銀行である。 つぎに、「ドル」をいっぱい刷って、NYや、フロリダ湾岸のアメリカ市民へ、「人民のため、これはインフレではないよ!」と、リンカーン Lincoln Jap's $ 5 だと、近くの銀行で、フランクリン Franklin US$ 100 になりますと、空から配ってあげれば良い。 立派な開拓精神(インディアン虐殺精神)をもつ、アメリカ政府も、「正しいインフレ」こそ、将来のアメリカを建設してくれる市民を助ける方法なのかと、喜ぶにちがいない。 7) アメリカは、兌換である、「対価」、「等価」の石油を、テロだ、戦争だと言って、つかったふりで、アラビア(=アメリカ=ブッシュ家)から、石油を買わなければいけない、日本に、石油での、「後方支援」だの、言っている。 後方支援、与野党、相互の議論で、「水入り」に見せるのかと思ったら、やはり、日本政府は、政府から、アメリカからの、高いガソリンを買い、灯油が必要な地域に援助、高速道路代金を割り引くとか、結局は、日本国民の税金をつかう、トリック経済 Trick Economy を演じてくれている。 日本、内閣府、するのであれば、徹底した「前方支援」が良い。 第一の先陣は、「新日本石油」の、偉いさん。 渡文明、西尾進路、杉山暎一、津田直和、佐谷信、小林俊和、松村幾敏、中村雅仁、平井茂雄、上野観、一色誠一、木村康、神野康夫、孝橋純一、田渕秀夫さんたちを、「天上り副大臣」たちとして、向ける。 第二陣は、石油関連はじめ、武器作り専門会社の、お偉方を、「天上り、副閣下」として、向ければいい。 「日の丸」のヘルメットをかぶり、「新日本赤十字」を組織し、戦争で負傷したひと、病気で倒れているひとたち、アラビア、アジア側、アメリカ側を問わず、「従軍医療団」として、派遣をさせればいい。 日本は、絶対なる、日米安全保障条約を守る、GHQ連合軍が作ってくれた、キリストからの思し召しのような、日本国憲法第9条、戦争は恐いから、戦争はしませんを、どこまでも、守る。 この大切な憲法を下さった、アメリカを守るため、よぼよぼになった、アメリカが、他国に攻められたら、心配なので、いまの原子力発電所の設備を、至急、再構築し、「横須賀」や、「沖縄」に、アメリカのための、射程10、000km超が、飛行可能、NYを守る、大陸間弾道ミサイル、「ULTRA--ICBM」、日本名、「お肉タイタン、Beef &ChickenーTITAN」 を作ってあげればいい。 管理は、日本の、各省庁の、次官クラス、警察官僚、また地方の上級公務員の、停年組み、政治家の親戚たちに、「天上り、副大統領」に、させればいい。 こういった、良い行為をすれば、アメリカも、我が身が、これまでしてきた行為を、振り返り、真似をするだろう。 中国の詩人、「杜甫」は、「国破れて山河在り(国破山河在)」と、詠んだ。 いまのような都市開発だと、中国やインドは、「国勝って山河無し」に、なってしまう。 この手本だが、先に、日本が、なってしまっている。 中国経済は、「雲南ー広西ー香港」の、緯度を考え、自然環境での、「栽培」により、変わる。治水工事の必要性だけがあり、ゆっくりとすれば、いいことである。 「中国」の、植物群、棲み分けが、あふれる群生は、東京帝大、早田文蔵博士が、大正時代に発表されてしまっている。早田博士は、実験室用の顕微鏡を、かつぎ、ひとり、日光から東北の山々の、植物細胞研究を、朝と晩、研究された。 そして、1917年、フランス領土インドシナ、イギリス領土香港へ行き、2、3歩あるいたら、20種類以上の、植物種があり、香港だけで、数千もの植物種があるというのは、有名なことだが、あらためて知った。 この研究だけに、生涯をささげられた、早田文蔵博士は、『台湾植物誌』(1911−21、全10巻)、「減数分裂についての或解釈」などを、1933年、8月7日、パリ学士院 L'academie de Paris で、発表した。 そのときの表現だが、現在での、遺伝子DNAより深い意味での、遺伝因子の要素、さまざまに変化する形相は、わたしの独創ではない、植物には、さまざまな個体があるけれど、その本質は、総て同一である、などとのべ、わたしは、ただ、これまでの考え方に、植物という、「着物」を、きせただけであると、謙遜されのべている。 太平洋戦争さえ、なければ、早田文蔵博士の研究を、考察できる、学者がでてきたはずである。 同じことは、インドにも言える。重要なのは、治水工事である。インドは先人の知恵が在りにある。 植物を中心にした、経済政策の、転換が、いくらでも、できるはずである。 インド・パキスタン戦争での悲惨のあと、2005年10月、パキスタン地震M7.6が、襲った。死者10万人単位、倒壊家屋100万単位である。 国家が乱れているとき、イギリスは、2006年に、マフィアのような「アルカーイダ」が原因と、軍隊を出した。 いま、2007年12月、パキスタンの人々は、物価高で困る、しかし、それを言う、気力もない、皆、あきらめ、何も言いたくないと、日本人記者に答えた。 8) 2007年10月、有名な総理大臣の孫、鳩山邦夫法務大臣が、「友達の友達はアルカイダ」と発言し、問題となった。 まあ、「祖父の、友達の友達が、アル・カポネ Al Capone」と言っても、それが、なんだ、「そんな事、あるかいな」と思われ、本論は、死刑執行の役割の苦痛に、アラビア圏での戦争、国民の大半が、大不況で、不安な歳月を送っているので、年内の「大晦日、除夜の鐘、解散」、年明け、2008年、商売繁盛の、十日戎「えべっさん解散」にあると、わたしは思いたい。 日本は、シベリア出兵で、疲弊したとき、関東大震災 1923年(大正12)9月1日、が、昼前に発生した。 わたしの祖母は、長男、「前田正夫」を、亡くした。祖父はシベリア出兵のあと、利根川から江戸川の治水、橋梁設計の担当になった。 火の海となった、東京で、祖母は、1歳の母を抱き、被災者たちの逃げる方向にあわせ、隅田川へ飛び込んだ。住居が、東京、葛飾区亀有(かめあり)だったので、被災場所は、亀有の神社だったという。 シベリアからもどり、関東大震災に遭い、帝都復興のため、部署の変更との、勅命で、祖父は、復興局勤務となった。 多くの知識人たちは、東京が元通りになる可能性がないと、関西へ移動した。 祖父は、都心部を2年以内に、復興へとむけた。 帝都復興に、政府の財源を使い、昭和時代になったとき、東北はじめ、不作がつづき、食糧に困ってしまった。 国家の、貧しい財政をしる、内務省はじめ、各省庁の、華族、上級士族出身者は、給与を、自ら、激減し、生活苦に陥り、娘を、売りに出す時代になった。 1927年、日本は、「昭和金融恐慌」に襲われ、1929年10月24日、生産過剰のアメリカ、NYで、増えた軍人なども原因になる、大恐慌 The Great Depression が、起きた。 現在と同じような、大不況下、1933(昭和8)年、発端がわかりにくい、京大、滝川事件が起きる。 同じ年、長崎医科大学で、「血液型と気質」関連で、事件がおきた。不況を、事件で、隠す行為だった。 このとき、時の、文部省、鳩山一郎大臣は、京都での出来事が、何なのか、長崎医科大学でも、何がなんなのか、理解できなかった。 理解していたのは、事件を、仕掛けた連中だけだった。 新聞記者たちは、これは連続の記事ができるから、より大きな事件にしたい、との希望だった。 鳩山一郎文相は、文部大臣室に、記者か市民か誰か、わからない、文部大臣室への『糞壷(くそつぼ)』抗議があった。これは、大手新聞に、「アラビアの魔法の糞壷」の写真が出て、爆笑となった。それで、なんだか、臭いがする、不況との関係がありそうな事件にしておくかと、理解したぐらいだったそうだ。 新聞紙上での記載も、国会議事録からは、削除され、事実など、直接の、関係者にも、断片の記憶にない。 1936(昭和11)年2月26日の事件は、明治維新の、混乱期に、成り上がり、華族の階級を金で買い、上級士族の階級を買った、欲だけの、人間たちに、青年将校たちが気づいたからである。 軍人とは、国民のために戦うのが義務であるのに、権力が自在の政治家へと転身し、大企業と癒着し、金銭を求め、さらに勲章がのぞみの、悪い人間たちの集団を知った、青年将校たちが、天皇を中心とした、正しい世の中へと、決死の、抗議の反乱を起こした。 青年将校たちの近衛歩兵連隊、野戦重砲兵連隊が、「帝都」を、襲った。 第一子、前田正夫は、大正8(1919)年12月11日に生まれ、南埼玉郡で、大正10年6月2日、急性腹膜炎にかかり、6月12日7時に、死亡。死亡診断書は、埼玉の「山口静衛」医師による。 香典の額面、血族、親族、三十人、いまの額面で、10億円ほど。 前田正は、跡継ぎの男子と思い、正夫をふくめ五番目になる子を、望んだ。 これが、1952年、生後7ヶ月の、わたしを、姫路城公園で、笑わせてくれた、「咲江」だった。 9) シベリア出兵のあと、関東大震災、アメリカからの世界大恐慌で、国家を知る、官僚は、給与が取れず、困窮がつづき、1935年、祖父が45歳のとき、母は、女学校を休学の形とし、祖父と同じく、伊勢、桑名、前田六三郎を父、「とよ」を母とする、警視庁の伯父前田二郎のイエから、東京、京橋の「明治製菓」へ、働きに出た。 1936年2月25日、夜半、雪は降りつづいていた。雪の中、「事件発生」との、緊急、伝達が来た。 牛込の、内務省警保局警視庁の、二階建ての小さな官舎での、伯父、前田二郎のイエにいた、15歳の、わたしの母は、沈黙のまま、伯母たちによる、1879 年1月6日(明治12)生まれの、57歳になる、前田二郎の、仕度を見ていた。 二度、三度となる、天皇には事件とだけの知らせ、皇后、幼い、第一、第二皇子、皇族の、守りの隔離の準備。整いへの「勅命」の通牒が、かさなった。 大きな雪は、シンシンと、警保局警視庁、小さな官舎の玄関から、庭、すべてを、囲み、積もった。 深夜、「午前2時」、宮城、「天皇」警護の、「指揮官」との「勅令」になり、前田二郎警視庁本部長は、沈黙のまま、ビュー、ビューと、凍ったような、強い雪風が、音をたて、積もり、つづける中、出かける。 母たちは、「天皇」警護のため、死は、とうぜんの覚悟とし、小さな官舎から出てゆく、伯父を見送った。 「2、26事件」で、おかしいと思ったのは、1994年春、母が、大事に育てた、わたしの妹で、嫌な事がつづき、わたしが、江ノ島を、案内したときである。 「やさしい警視庁の、伯父さんに、連れてきてもらったときと、同じ、光景」と母が、言い、「あなたは、こんな、お婆さんになった、わたしと」と言った言葉に、わたしは、「お母さんは、いつまでも、お母さん」とだけ、答えた。 つぎに、妻と、いっしょの、とき、わたしは、はじめての、千鳥ケ淵から、宮城へ、そして、「ここが、近衛師団(このえしだん)」と、わたし自身、初めて見る、建物を指し、言ったら、母は、「こんなところ、わたしは、知らない」と、眼を伏せ、通りすぎて行った、仕草による。 10) 2007年12月、母は、祖父が、わたしへと遺言した、前田の系図でなく、「戸籍謄本」を見せ、「あなたの言っている事が、違っているわ、家系と、家名が」と、父と、謄本を見て、確かめたという。 わたしは、ペン字による、一枚目を開き、「合っている」と言い、二枚目を見て、この京都昨今『23』、「きめた ところは ないんです」での、「治承四年卯月のころ」の、1180年、源頼朝の挙兵に対し、追討大将軍の平維盛(たいら・これもり)の、「富士川の戦い」を言った。 桓武天皇からの血統でもある、「桓武平氏」、「平維盛」は、祖父、「平清盛」から、富士川での敗戦に、叱責された。 一ノ谷の戦いでも、破れた、平維盛は、伊勢の平家になる、熊野、「清水清左衛門」の娘、婿になる。 1872(明治五)年、伊勢桑名、清水清左衛門の次女、「とよ」は、前田のイエに入り、前田忠三郎を生み、妻「せん」(父は、佐川寿一郎、兄は佐川恒三郎の妹「せん」)は、1902年、前田忠雄を生んだ。 同じ、姓名を、続けるのは、一方が、戦場へゆくとき、分家とし、残る方へ、家系をわたし、血統を、混乱させないためである。 わたしは、1960年、桑名での祖父の法要のあと、気を失ったあとは、毎日新聞勤務の佐川正雄(旧姓、前田)のイエでなく、気さくな前田忠雄のイエと言い、休んだ。 埼玉県との関係の、ひとつだが、前田忠三郎と「せん」の三女「トク」は、1904年(明治37)年に生まれ、埼玉県、草加、大川憲治の弟、大川勇と結婚している。 わたしの祖父、前田正は、1891(明治24)年5月13日に生まれ、忠三郎の弟、前田六三郎を父とし、橋梁設計と、戦場への「勅命」がくる。 祖父、前田正、23歳の、第一次世界大戦のときは、12歳になった甥の前田忠雄にあて、遺言を書いた。 27歳を向かえる、シベリア出兵(大日本帝国、1918−24年、大英帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリア各国が連合軍)のときは、司法省勤務の長兄か、次兄の警視庁勤務の「前田二郎」に、急ぎ、ペンで、書いていた字が記憶にある。 母が、自分の祖父を、「六三郎(ろくさぶろう)」というので、「りくさぶろう」と、わたしが訂正した。 また、佐川のイエって、関係は?と言うので、「前田、佐川、長谷川」は、松平家が在ったところ、多くに、見られ、家名順位は、変わらないと言った。 「なぜ、記憶にあるの?」という母に、「佐川も、なかなかの、イエでね」と祖父が、わたしが1953年正月、数え3歳(満1歳4ヶ月)のとき、わたしに、子供がいない、「佐川」から、跡継ぎの話が、きたとき、母が、断わったとき、言われたことが記憶にあり、それを言った。 前田のイエのことは、「一度しか、言いません」と、1960年7月、桑名別院で、祖母が、室町時代からの、家系を、説明してくれ、祖母は、日光東照宮への「宿(しゅく)」、「杉戸」から、嫁いできたため、江戸っ子弁だった。 祖父の父は、1906(明治39)年1月、享年61歳、「りくさぶろう、様です」「影現院、様です」と言ったといい、祖父は、墓への戒名を、わたしに、疑問をもたせる、文字にしたと言った。 争いが禁止の、動かない、父方のほうの、播磨、大国(おおぐに)は、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『播磨国風土記』でも、たどれる。 また、神戸のボンクラ高校、灘高の校長だった、浄土宗、西山禅林寺派の、勝山正躬、大僧正が、生きておられたら、かんたんに、説明してもらえた。 これを、書いているのは、新日本石油、西尾進路、杉山暎一社長のもと、人権侵害を言った秘書「浦野」さん、強姦部下、前田博司さんの母と、そろって、「ほんとか!」と言ったからである。 いったい、他人の、わたしの家系が、新日本石油と何の関係があるのだ。 わたしの、本来の、仕事は、ウィルスの構造、その発生と対策を、構築する、「界面論」なのだ。 日本経済の指導者とも言える、新日本石油、渡文明さん、あなたたちの責任は大きい。 「沈黙をする性格の被害者」が、27年間、日本石油、新日本石油の連中に苦しめられたのだ。 事件がおきた1978年からだと、もう、30年という歳月だ。 そして、いま、西尾進路社長はじめ、わたしの一族を、侮蔑、人権差別の言動の多い、新日本石油の社員の事、すなわち、あなたがたに、強く、「責任」を、問う。 内閣府、各「新日本石油」の、仕事にかかわる、担当省庁、指導を、どうしていたのか、その怠慢を、問う。 11) 主食となる、「米」が、重要な時代から、いつのまにか「石油」となり、産油国、アラビアの周辺国家は、石油と、自分たちの、信じられる、価値ある兌換、等価での取引を、ねがっているという、当然の主張をしているだけである。 日本の国会では、インド洋での、海上自衛隊の補給活動は、テロ対策の、特別措置法の、保持が必要と言っている。 日本は、どんどん貧しくなり、21世紀にはいってから、親族による、尊属殺人(そんぞくさつじん)まで、増えている。 頼みは、中国かインドかと、思うのは簡単だが、両大国とも、日本に、「われわれは、実際の、経済勢力、機械技術がない、日本にまかせたい」で、日本は、より、貧困になってゆく。 アメリカの政府、思想家、経済人、しっかりしろと思っていたら、2007年8月、ミシシッピ川 Mississippi に架けた、ミネアポリス Minneapolis の大きな橋が老朽化で、落下した。 ミシシッピのそばに済んだ、マーク・トウェイン Mark Twain を、わたしは、1965年、中学一年生のとき、全集を読んだ。 こうなれば、トム・ソーヤーTom Sawyer でも呼び、大工の仕事でも、してもらうしかない、状態になったようだ。 京都の橋も老朽化が目立ち、鴨川に「御池大橋」という、小さな橋があるが、観光バスが、3台、4台と、双方向に行き来するときの、「ゆれ」が大きい。 この御池大橋のところ、市役所に、「Zest 御池」という、「第3セクター」の地下商店街があるが、「第3セクター」の意味を理解せず、ここで商売をしはじめた会社が、21世紀にはいってから、相談は、弁護士へゆけばいいのに、わたしへ無料相談に来る。 地域振興とかの名目で、「第3セクター」とかの、「新しい名前」をつくり、日常会話の、できない町にしたのだ、ほんとうに偉い、京都市は。 昔の名前へ、どれだけ歳月をかけ、戻すのか。 12) 日本の破壊状態だが、石油会社勤務、強姦、詐欺、殺人予備罪の前田博司さんについて、2007年9月7日、「新日本石油タンカー」の杉山暎一社長の秘書、45歳で若い世代ですという「浦野」さんは、わたしに、厳密に、調べて、報告しますと、明言した。 指示は、「新日石」の上部だろうが、わたしの、住所などから、すべて、個人情報とやらを、聞き出した。 その、杉山暎一さんからの、回答を、まっている。が、なかった。 それで、10月25日、電話をすると、「ええー、あのー、明日、26日、総務部のNAから、電話をさせます」と、横浜の浦野さんは言う。 10月26日金曜日、わたしは、強姦、詐欺、恐喝をする前田博司さんの行為を知る、高齢な、わたしの母に来てもらった。が、新日本石油、「西尾進路」責任者の下、杉山暎一社長の部下からの、電話はなかった。 西尾進路、杉山暎一さん、上司による「共犯」「教唆」なのか。 10月26日夜、息子さんの関係か、鹿児島ラサール高校近くの、前田博司さん宅へ電話をすると、不在だった。 唐湊(とそ)の、高齢の母宅へも、行くといっていたので、夜9時34分、前田博司さんの、実家へ電話をした。 人間は、「環境の動物」と言われるが、「いま、わたし風邪を引いて」と言う、母親は「そんなー?」「ほんとー?」と、とにかく長く、しつこい。謝罪がない。 @「ほんとーですか」「あの博司は、鹿児島大など、行っていません」 A「浪人して、東大なんかも行っていません」 B「主人は、九州帝大ではありません」 C「主人は、日本乾溜の重役ではありません」 D「石山は、わたしのおじで、中佐です」 E「古賀は、おおおじで、古賀(峯一)大将ではありません。森鴎外の知り合いではありません」 F「偕行社(かいこうしゃ) って、何ですか?」 G「加賀、前田ではありません。霞会(かすみかい)、霞会館って、何ですか?」 H「薩摩藩の重臣ではありません、薩摩藩とは関係がありません」 陸軍の中将クラスであれば、国家のために、軍人としての役割をつとめた、「偕行社」は、知っているとおもった。 加賀、前田直系だと、霞友会も、同じような事柄である。 なぜ、こうも嘘だらけなのか。 13) 10月27日、土曜日、とても尊大な前田博司さんから、大声での、電話があった。 「おい、おまえ、子供のケンカに、親は出るなというけど、マツダ、おまえは何だ、これからは携帯と言っただろう」と言う。 わたしは、あなたは、どなた様なのか、挨拶はどうした。小学校で何を習ったときいた。 わたしが2006年送った、「原稿350枚」の、腹が原油色の、前田博司君の、薩摩紫芋CHINPO(さつま・むらさき・いも)の行状、クロネコヤマト便が、ついていないと言ったではないか、と言うと、「着いた」と、悪党は、今、言っている、と言う。 この前田博司さんは、窃盗、詐欺の常習、金山工務店の中野逸人さんと、京阪沿線の「香里園」で、1979年、同居していたが、それを記憶にないと言い、博司さんの母親も、「中野さん、知りません。鹿児島へ来た事はありません」と同じことを言っていたのに、「来た事はある」と、それだけ、言った。 この母親の、執念深さだが、わたしのイエの、家系の質問を、「ほんとうかどうか、たしかめて!」と言っている。 謝罪より、わたしの身元調査が、大事なようだ。 前田博司さんの携帯番号だが、わたしが知らないとき、前田博司さんが、妻へ、「これから、携帯」と言ったそうだ。妻は、なぜ、こんな、人間のゴミ、猛獣、前田さんの、声を、これからも、きき、時間をさかないと、いけないのか、と思い、肯定しなかったという。 それなのに、新日本石油への勤務の前田博司さんは、これから携帯の番号をいうから、かけて来いと言えるわけだ。 1983年は、わたしの、物干し場の、妻のストッキング他、靴下をさわり、マンションのクロス他をこわした。「日石は、マツダのようなマンション、廃棄だよーん」だ。 1984年ごろ、京都の、良い地酒を教えろ、「日石、喜入、大開(おおびらき)ハウス」で、フランス語が堪能という前田博司さんが、日石の社員をあつめ、詩人コクトー Jean Cocteau のLe Grand Ecart を朗読し、女子社員の股をひろげて、Satsuma CHINPOを、入れ、「喜入ボボ」にするのだという。 わたしは、小さな造り酒屋さんだから、次の注文を期待されると、困るから、「日石」の名称をつかわないようにと言ったのに、日石の名前で、6本単位、注文したら、カタログはじめ、いっぱい送ってきて、日本石油の社員は、集団で浮かれているという。 1986年ごろは、「マツダ、日石の令嬢、文子と結婚だ、披露宴は、京都だ、来い」 1988年ごろは、「日石の、義理の兄が、ソウルオリンピックに出場するので、代々木での、予選を見に来い」という。 100メートルに、走り幅跳びなど、陸上の天才、アメリカの英雄、カール・ルイスCarl Lewis は日本石油所属だったのか? 2000年秋は、京都、月桂冠、「かつら」が、企業貸しきりで、オーナーの大倉さんが、挨拶とレジを担当されているとき、 「ぼくは日石だ」で、酒を説明させろといい、また、「かつら」で、橘女子大の、細身の四年生が、アルバイトで、就職先が決まらないというと、いつもの説教風ボボ話をする。 14) これだけの、大企業だからできる、わたしの、わたしたちの、人権を犯す犯罪は、すべて社風、教唆ともいえる。 渡文明、西尾進路、杉山暎一、田元賢二、玉置均さんたち、どう、弁明する。 この会社は、どうなっているのかと思い、新日石の本社、総務部長の、旧・桑名藩の飛び地、原発の柏崎へ行ったりしている、「川田順一」さんへ、電話をしたのに、出てこない。 前田博司さんが言うのに、年末は、新日石の社員の大半が、不潔な原油を落とすのため、温泉通いで、忙しいそうだ。 10月30日、新日本石油、横浜の、秘書の浦野さんに、 「なぜ、10月26日金曜日に、NAから、電話をさせると言い、なかったのですか?」と言うと、 「ええー、ええー、じつはー、その、前田博司さんが、電話をしなくて良いと、用件は、前田社員と付き合いたくないということで、、、えええ、えええー」と言う。 西尾進路、杉山暎一さんたちの子分、新日石社員、前田博司さんとは、付き合ってはいないことを言い、付き合いは、強姦、恐喝、殺人予備をふくめ、被害者と加害者の関係のつきあいは、切れないので、「嘘付き、強姦魔の前田博司」さんの、言辞を、なぜ、信じるのか、「当方に、確かめる、電話が必要ではないか」「これは、日本の、大企業がもつ、教唆、共犯になり、世間では『連座』の考え方をつかう」と、わたしは言った。 わたしは、わたしの、発言の言葉を、電子辞書や、パソコンで調べ、揚げ足ばかりとる、「新日石ヤクザ連合」の社長秘書、自称若者の浦野さんに、あなたは、槍魔栗三助(やりまくりさんすけ)の声に似ている、というと、 「わたしは、テレビを見ません」と言う。 あきれて、「劇団、卒都婆小町(そとばこまち、スツーパ stupa)のときのことだ。若者による文化だ。京都まで、見にきなさい」と、わたしも、浦野さんの、からかいに、声が大きくなり、体調が、急変した。 わたしの病状をしる、妻が代わり、「なぜ、そんなに、まじめに生きている、人間を侮辱した、言葉が言えるのですか」と大声で注意し、こんな礼儀をしらない卑猥な声、槍魔栗三助と、比較しないでと言い、妻も、倒れた。 15) この加賀、前田直系という、前田博司さんは、1978年「淡交社」へ、就職するという。 15代目の千宗室(千玄室)さんの知己でも、ダメだと言っているのに、「入社できるんよ〜ん、加賀、前田だも〜ん」と言って、落ちた。 「同志社、就職、募集」の部屋へゆき、わたしが、「1979年、『ポパイ』、創刊、50人募集」とあったので、同志社の周辺にいる、先生たちへ行く。先に、面接してもらい、紹介状をかかせる」と言ったら、この前田博司さんは、 「マツダー、おい、オレを、バカにしてるのか!」と、キャンパス中ひびく、大声で言い、「思文閣へ行くよ〜」と言って、落ちた。 とうじだが、先に、「アンアン anan」が、成功し、つづいて、趣味が洗練され、営業には、厳しい雑誌とかんじた「クロワッサン」だが、1977年、平安神宮そばにあった、京都市立大学の音楽部の女子たちが、岡崎から、二条通りに、また、仁王門通りを、先行した宣伝どおり、中央でまげ、手や、脇にはさみ、三条の十字屋まで、歩いていた。 わたしが、あまり、山田忠男先生のことをわからず、「京響」のつぎの、常任を、小林研一郎さん、手塚幸紀さんにして欲しいと言って、返事をしてもらえなく、「最近、わたしも、有名になりまして。この間、タクシーの運転手が、先生が、あの、指揮者の、山田一雄先生ですか?と、言うので、そうですがと、答えてやった」という時期だった。 「まつださん、ウ、チ、の、社、長、立教ですよー」と言われた、マガジンハウスの、「秦義一郎」さん。 1979年度、『ポパイ』の、募集要項、アホでもいい活気があれば、嘘つきはダメでしたでしょうか、だいたいの記憶ですが、かなりの、人数だったとおもっています。 どうした大学は、わたしが、この前田博司さんはじめ、8人、卒業論文はじめ、修得させ、卒業させた。 前田博司さんは、ほとんど、勉強していない。前田博司さん、中野逸人さん、大阪府、枚方市法務局での、A社「役員」の、証書は、どうする。 また、これらの事は、京都の法務局、公証人に相談している。毛筆での、書類、本社機能を、「京都市」において欲しいとの、指導で、2002年以降、京都、法務局にあるが、どうする。 強姦、背任、詐欺、殺人予備罪、適応の、前田博司さんは、さらに、わたしのこの『京都昨今』に、因縁(クレーム)をつける。 どこがときくと、まず、「スネークマンショー」だと、怒っている。「いやらしいのだ」と鹿児島弁でいう。 わたしが、「スネークマンショー」って、東京のラジオの番組名だというと、「ええっ!?」といったん、驚き、すぐ、「いや、違う、上品でない、スケベ」という。 悪バカだから、仕方がないと思って聞いていると、どうも「スネーク Snake マンコ Manko ショー Show」と思っているようだ。 石油バブルのとき、「スネーク・マンコ・ショー」が流行し、渡文明、西尾進路さんたちはしたらしい。 12月13日木曜日、「新日本石油タンカー」、横浜は、「ええー、あにょーん。浦野は、出張で」と女性が言い、杉山さんと言うと、「ええー、あー」「ビー、ビー」「ぴーー」「しーん」となり、逃げ出した。 ふーん、新日石タンカーは、2、3回目の倒産で、「B、P、p−、l、c−」にでもなり、原油などの運搬は、イギリス資本の、メジァー「BPマリン」へ、移ったのかと思った。 ガソリン買うなら、アメリカ資本の「エッソ Esso」、オランダ資本の「シェル Shell」にして、原油運搬はイギリス資本の「BP」にする。 そこへ、新日石の、正直で優秀な社員を、雇ってもらえば、日本の公害、排気ガス問題など日本語で質問できるし、「欧米にだけ」責任を、問えるので、今後、世界中の公害大訴訟が起きたとき、問題がない。 16) 前田博司さんは、1980年夏、スコッチのバーで、オイルサーディン Oil Sardine を注文していた。 油売りが、専門のせいになったせいなのか、鹿児島、喜入、新日本石油あたりでは、薩摩芋や大根を、オイルでいためる料理があり、年末は、宮崎のソープで、杉山暎一社長ほか、オイル男根 Oil -Dankon (Jap's Little Miniature Penis)遊びで、忙しいそうだ。 日本石油の時代、観光地の温泉とかで、スネーク・ショーが流行し、女性が、スネークと踊ったのと、勘違いしている。 わたしは、見たことがないので、わからないから、新日本石油の西尾進路社長にでも、国会答弁で、我が社は、バブル崩壊後、倒産状態になり、「スネーク・ショー」を見ることもなくなりましたがと、説明して欲しいものだ。 強姦、詐欺を肯定する、新日本石油の、この悪党連中だが、喜入を、ボボ喜入と呼称すると、この地を、喜入とつけた、人に悪いから、「悪入(わるいれ)、悪乗(わるのり)」という地名の、新埋め立て地が必要な時代ではないか。 17) 日本には、大手2社ビール会社があるが、このうちのひとつで、女性社員が、渋谷のラブホテルで、男性社員に、強姦され、ショック死した事件があった。 両親たちが、「ウチの娘は、ラブホテルへついて行くような、性格ではありません」と、葬儀で、泣き、叫ばれ、学生時代の友人たち、同僚の女性たちも、証言した。 が、日本のマスコミ、「皆様のNHK=ぼくとわたしのNHK」など、報道したのだろうか。 また、東京の某放送局だが、この、クリスマスのころ、20代前半の、女性スタッフを、5人が、「輪姦」する事件があった。 さまざま評論家の「岡庭昇」さん、なんと、スポンサーが「日本銀行」のときは、ヒゲをそり、ネクタイをしてゆかれる、軽業師。 伯父が京大卒で、お偉方の、岡庭雅、三井製糖社長。叔父が京大卒、岡庭益男、住友倉庫社長。(略)。 父が九大卒の、三光汽船社長、「岡庭博」さんだった、岡庭昇さん。 岡庭昇さんの、性格と、大江健三郎さんとは、共通項がある。権威権力に、弱い言うところである。 伯父に父、叔父たちが、大手の社長へとの、社会階級の選択、環境が大きいだろう。 わたしが、偶然、昼、出会ったとき、恥ずかしくなる、夜の風俗嬢の案内「ビラ」以下の、大江健三郎さんとの違いは、父親たちと、感情が、理性が衝突しながらも、他人には、口論のように見えても、自分自身をもふくめ、世間を、醒めて見る眼がある。しかし、岡庭昇さん、輪姦は、あなたの引越しを、手伝ったメンバーなのだ。 下半身のことは触れるなといいながら、女性脚本家の下半身を触る、岡庭昇さん、もし、彼女が、自殺をされていたら、どうされる。彼女の出身は、わたしの、室町時代からの、血縁と同じ地域だ。 犯行現場は、「Gスタジオ」の、となり、3つ置いた部屋だ。 アカバネ君や、1982年6月、わたしに親切だった、鈴木治彦さんや、宮崎総子さんが知ると、表情に出る。 正義感があり、妻も、世話になった「藤林英雄」さんが、知ると、抗議に出て、「原因は、岡庭昇が、持っていたと思われる、ポルノビデオを、深夜、当局で、加害者5人が、被害者とワインを飲み、見て」と、報道しようとし、藤林英雄さんは、首になるので、止めておいて欲しい。とにかく、被害者を、見守っていて、欲しいと、わたしは言った。 映画、「シェーン」(1953) Shaneは、他人の子供、Joey が、You, I hate you.と言ったあと、 Shane I'm Sorry.と言い、Shane 、Come Back! と叫ぶ。ところが、岡庭昇さんの場合、実の子、二人が、テレビ局の坂道で、「パパ、戻ってきて」と泣いていても、戻らない。 「なぜ、岡庭さん?」と言われた、集英社の、細身の永田仁志さん。わたしは、下半身優先の、この男の、首を、両手で、絞めてやろうと思った。が、じっさい、岡庭昇さんと会ったら、顔の下がすぐ肩で、首がなかった。 前田博司さん、あなたも同様だ。あなたが言いつづけた女友達と、岡庭昇さんのスタッフ5人による、輪姦の被害者は、同じ、名前だ。 もし、彼女が、自殺を選んでいたら、どうする? 甲南高校から、鹿児島大学理学部へ1973年春、現役合格。 もっと偉い、前田博司さんの兄さんは、「鶴丸高等学校」へ進学予定が、甲南高校での東大現役合格を増やしたいため、甲南高校の教員たちが来て、甲南高校へ行ったそうだ。 わたしは、この話を、1975年5月、立命館、広小路学舎できき、鹿児島では、公立の学校でスカウトがあるのかと思った。 自称、知能指数が高い、前田博司さんは、東大へ進学があきらめられず、理系へ進学、しかし、東大が嫌になり、同志社へ来たとも言った。 18) わたしに、明治時代から昭和初期までの、軍医の調査が必要になった。 これは、前田博司さんが、1987年、新橋の、日本石油へ勤務のときも言っており、わたしは、陸軍と海軍の、少将以上の、年鑑を所持していたが、記載がないので、「偕行社 」へ、質問をした。 わたしが、本当に、申し訳ありませんと、礼の、言葉を反復するせいか、「中将の、記載もれは、ないのですが、、、」と彼等の言葉は、きわめて、慎み深かった。 福井市で、わたしの妻の、母方の優しかったときく、長男、次兄の二人を、志願、出征させ、亡くなっている。 部下もなにもなく、ただ沈黙の、二等兵のため、報告は病死だけ、遺骨などない。 わたしの、日本の軍隊の、徹底した調査だが、東北、北陸が最初となった。 関西でも、平家落人伝説のある、雪でおおわれる山岳の地域は、村々の、血縁の眼があるため、義務と思って、息子たちを、差し出した。 妻の、祖父の伊藤清は、戦後、「奉仕の町会議員」で、戦中は、軍隊が行進する、街道沿いに、イエがあるため、義務とおもい、休憩場所と風呂も、貸したという。 このことは、わたしの父方も同じで、16歳で、海軍へ志願した叔父は、17歳のとき敗戦をむかえ、「人間魚雷、回天」の生き残りとなり、それを恥とした。 わたしが記憶するだけでも、松林だらけだった、印南郡の公会堂が、陸軍、加古川連隊の駐屯所となったと、学生時代、軍属が長いのに、1945年、二等兵で徴兵された父は言う。 2007年、父に、軍隊用の、便所はときくと、「(イエの)裏にあったやろ」と言う。 わたしは、公会堂の、形を、思い出していた。 わたしは、日本の、太平洋戦争での、軍楽隊、慰問団の作詞、作曲家、指揮者などとは、一切、言葉をかわしたことがない。山田忠男先生と親しい、朝比奈隆さんもである。 19) 「新しい教科書をつくる会」とかがあり、ここに、作家、元海軍兵、阿川弘之親子の名前があり、新日本石油関係の人物もある。 1989年1月、千駄ヶ谷の、いまは無い、洋風居酒屋、「ぺーパー・ムーン Paper Moon」で、酒がはいった河出書房新社の、小池三子男さんに、 「マツダさん、阿川(弘之)の娘、なにもなしに、3万って、高いですよ」と、ビールの白い泡をつけ、細めの、ガラスグラスをもって言う。 わたしが、「三子男さん、『啓光』の宗教の教科書、『栄光』のでしたよ」というと、「ぼくは、横浜の、『聖光』、なんど言っても、忘れるんだから、、、」と、ビールを、ぶくぶくさせて、怒る。 これらの言葉から、「潜水艦」の潜望鏡での、認識のような、1988年7月に起きた、横須賀港での、自衛隊、「なだしお」と、民間の遊漁船「第一富士丸」の、衝突事故かと思った。 民間の船は、商売として、懸命に営業をしており、釣りを、たのしみにしていた、「30人が死者」「17人の重軽傷者」は「絶対なる被害者」であるし、海上自衛隊の行為は、「海岸防御」をする国家に尽くす、国民のための方策で、義務のため、悲劇としか判断をするしかなかった。 山下艦長を「艦長は高卒」とは、週刊「文藝春秋」の「表紙」にあったと記憶する。 団塊の世代、山下艦長の出身は、大阪府の南部、堺市、三国ヶ丘高校で、とうじ、大阪府は全学一区制で、北野、天王寺、三国ヶ丘は、難関だった。 東京大学だと、下宿代金に、故郷への、行き来の交通費が、京都大学でも、下宿生になり、金がかかる。また、通学可能な大阪大学ぐらいの、レベル入学なら、親の言う、生活が保証された、公務員になれない。 それなら、高校まで行かせてくれた、親への、恩返しのため、給与をくれ、親へ仕送りができる、公務員として、学歴主義の警察より、実力、才能を重視する自衛隊への勤務を選ぶ人たちがいた。 国会では、「週刊新潮」の、揶揄も、取り上げられていた。 和製、ポール・ニューマン、「ハスラー The Hustler」といえる、雰囲気の、海軍出身、自称、千葉、市川の田舎住まい、沼田六平太さんは、わたしとの最初の出会いのとき、 「なぜ、はじめに、あらわれてくれないんですか。この作品群、広めて、売らないといけないんです。奥様に、訪問させていただくと、何度言っても、主人は、そういったことが嫌いでと、言われるんですよ」と、言われた。 「世の中には、自分のことを言わない人がいて、困るんだ。自費出版したいという、大久保さんと言う夫人がいて、話をきいていると、『大久保康雄』さんの、奥さんなんだ。ウチで出しますよ、と言うと、主人とは別ですって、なんですよ」と言われた。 このとき、「わたしは、ベッドの日々です。1985年秋、講談社での部長時代、駅売りルートを開発した、日販の重役、ぼくは旗本、君はと言った、高橋五郎さんにも、うわっー、カンキ(神吉晴夫、光文社社長)が生きていたら、、、、喜ぶ。とにかく、版元は新潮って言われました。でも、沼田さん、あなたも、高橋さん同様、言わない人だ。時代は変えないといけない。わたしは、大久保康雄さんの、奥様の言動を尊びます」と言った。 沼田六平太さんに、週刊新潮の記事の作り方は、どうなっているのですかと言うと、「あいつら、ただ、仕事のために、新聞の小さな記事をみて、電話の取材だけです」と、返事してくださった。 これを言っていると、酒癖が悪いのか、小池三子男さんは、大森荘蔵先生には、言わなかったと思うが、 「マツダさん、ぼくの、性格、悪いって、ノブオさんに、言ったでしょ。五反田に、良い娘いるんです。紹介しますよ。サカモト(坂本龍一)、ソープって、こんなの?エンペラー Last Emperor 溥儀(ふぎ)は、こんな日々かとおもって、作曲ができ、喜んでいましたよ」と言う。 戦争が激しくなって行った、1941年から、「昭和天皇」と「溥儀」の、東京や、大阪での、朝日、毎日新聞などをみてゆくと、なにもかも、計算され、用意つくした、時代だったと、わたしは、判断した。 阿川(弘之)の娘との約束は、30分、3万円だったのに、取材、12分ぐらいしたとき、中背の太った20代のスタッフが来て「仕事が入りましたので」と言った。 わたしの取材タイトルは、評論家の小中陽太郎さんと同じ、『漫画論』だった。 小中さんは、2時間以上さいてくださり、充分原稿にできた。 この約束、道徳も知らない、阿川(弘之)の娘に、「阿川さん、電車の中でサラリーマンが、漫画を読んでいる姿は、どうもね、、、」と、ありふれた言葉だけで、原稿を仕上げることができますか?と言った。 が、「ボス(=秋元秀雄)の命令ですから」と言う。 この阿川(弘之)の娘とやらは、わたしの仕事、わたしの時間、約束した事柄を、何を考えているのかと、思いながら、わたしは、約束の、3万円は、阿川(弘之)の娘の友人が、経営しているという事務所へ振り込んだ。 小中陽太郎さんは、両親の干渉が、あまり無い、ただ、世間の人に、迷惑をかけてはいけませんといった道徳があるイエに育たれ、また、両親の干渉を嫌う、小中陽太郎さんも、めったにない両親からの、一言には、従われた。 それに反し、阿川(弘之)の娘のイエは、親子の言葉の合戦が激しく、これは、新日本石油の、前田博司さんと同じ環境である。 20) 有名人で、前田博司さんと、同じような人物が、もう一人いる。 大江健三郎さんは、DAKS(ダックス)の、ワイシャツを着て、スキップして、「ぼくちゃん、かわいいでしょー、偉いのよー」と、病気でフラフラの、わたしの後方に、背後霊(はいごれい)か、座敷童子(ざしきわらし)のように、くっついてくる。 妻が、食欲のない、わたしのため、スーパーで、ヒラメの刺身とジャージー牛乳(500cc)を買っていると、 「ぼくちゃんとこ、冷凍カレイ5枚で、多いでしょ、バーゲンの高原牛乳(1000cc)で、大きいでしょ」と言った風の人だ。 ところが、1985年3月、野上弥生子さんの、葬儀のためか、ジャケットを着て、洋酒コニャック、「カミュ Camus」 3万円を、元気いっぱいにして、買っておられる。 賞味期限、有効期限が切れている賞なのに、「ぼくちゃん、脳ベル(うるさいだけのベル)賞を、もらうのよー、小学校のとき、作文で、三重丸もらったから、、、」と言った表情をしていた。 新入りの、レジ嬢は、大江さんの、品物の、包装に困って、スーパーの店長に向けた。 わたしのカゴは、スーパーの店長が選んでくれた、来客用の3万5千円のスコッチが入っていて、店長に、目礼し、後方へ下がった。が、レジ嬢は、焦った表情を、店長へ、送っていた。 21) 琉球列島での、「集団自決(強制集団死)」集団自決問題だが、わたしは、大江健三郎さんの本は、高校生からは、読んだことがない。日本語らしきものを並べた、小説らしきものだからである。思考、客観の立場での、観察力のなさ、表現がなっていない。口だけは、達者な、ようだ。 1969年高校二年生のとき、単行本の『個人的な冒険』を買い、この、自信満々の表現はと思った。 俳優の二谷英明さんと同寮の、同志社大学16代総長は、「小さい」とかだった。が、理解ある奥様は「大きい」ので、大江健三郎さんが「後方支援」でき、「前方」とちがい「後方」は、妻が痛がり、自分自身も難攻した事、近所の川上宗薫さんから言わすと、アホみたいなことが、偉大なものと錯覚し、書いただけとわかった。 おなじ作家でも、1985年、晴れて、さびしさの秋、祭りみたいな、お通夜となった川上宗薫さんが、君は、若くて元気、一日複数可能と、うらやましがっていた、田中康夫さんなど、ふつうの女性の「奥様」にしようとして、「変態!」と言われ、離婚と、知人に聞いた。 この田中さんの、代表作、<なんか、わからへんけど、透明やんか>、だったかを、後方支援したのが、わたしのイトコの友人たちだった。 わたしのイトコのイトコは、わたしのイトコだが、結婚式に、1980年秋、二人を結びつけた、わたしを呼ばなかった。 叔母の判断と、イトコの弟から「怒ったんだけど」と、1984年秋、わたしが荻窪の、「NY、911(2001) 」、「ロンドン同時テロ、London Just Bomb 7/7 (2005)」 を経験した、イトコ宅へ行って、外での会話だった。 これで、叔母の、わたしが家庭教師をした、イトコが、結婚式の日に気づき、叔母に注意をしたが、遅かった。神戸の煎餅だったか、カメイ(亀井登志夫)君が来て、「きゃー」とか、だったそうだが。 1970年、日本女子大付属に、作家「松田好信を守る会」を作ってくれた、イトコの友人M(父は、松川道哉、大蔵省、財務官)の事などもあるので、わたしが、出席して、イトコの弟と、クラッシックやポップスだと、面白くないので、「月の法善寺横町」などでも、演じようと、思っていた。 天才、指揮者カラヤンの、直弟子の教え子になる、わたしの妹は、カラヤンはわかるが、カメィクンたちが、わからない。 このように、血縁の結婚式で、わたしの叔母たちも、妹も、「その場」が、わからなかった。 男たちは、わかっていて、意見を言っても、日本のばあい、女性が、決定権をとることが多い。 大江健三郎さんのは、論外が多い。「赤松嘉次」隊長の件もである。 実際に、何度も、出会わし、動作 Locomotion がわかってから、わたしは、新聞記事すら、読まない。 大江健三郎さんが、友人とした作曲家の武満徹さんの作品、演奏会で、武満徹さんのを、扱っているばあい、わたしは出席したことがない。大江さんと同じような、口やかましい親に育ち、反抗して、才人ぶりをしただけの人である。 芸術、音楽というより、民族の文化とは、何かと言ったとき、1990年7月、七夕の、町内くじ引きへ、妻が行きたいという。 スーパーの客用、駐車場の前を、とおっているとき、わたしへと、「おもちゃ屋」で、買ってもらった、おもちゃの箱をもった、幼稚園児ぐらいの子が近寄ってくる。 歩行だが、日本人の、脚の、折り曲げかたである。 駐車場の、道路との区切りが、段になっているので、わたしの意識は、子供の足へ行っていた。このとき、 「そっち、行っちゃ、ダメよー 〜」と、日本語なのに、高く、透明で、心へ響いてくる声に、はっとした。 「ヒデとロザンナ」の、ロザンナ Rosanna Zanbon さんだった。 ロザンナさんの、表情、姿勢、仕草だが、わたしの父の妹に似ている。 そのままで、在る方だ。 ロザンナさんしか、わからない、悲しい事があっても、他人の、わたしに対し、子供へ、注意ができ、子供も、母親の言葉どおり、わたしの直前で、足を止めた、その行為に、礼儀をかんじた。 イタリアの、母音を大切にした、ベルカント Bel Canto とは、わたしは、心と、体へ響き、後まで、残る声と、理解している。 22) 「集団自決」問題だが、日本人、軍人での、「司令」、「指令」は、さまざまである。 まず、琉球列島、それぞれの島、また、それぞれの地区で、言語が違う。習慣もちがう。 文化の意味がわかる、人間同士の沈黙は、「関西日仏学館」の、オーシュコルヌ J-P Hauchecorne さんの善行でわかる。オーシュコルヌ教授は、太平洋戦争中、憲兵にスパイ容疑で逮捕された。 身分を言い、京大の教授たちの名前を言えば、釈放されるのに、オーシュコルヌ教授から、フランス語を習った、京大のフランス文学専攻の人たちは、フランスの考え方の良い部分を、吸収し、反戦派だった。 彼らは、オーシュコルヌ教授のためなら、日本陸軍、軍部へ、集団で、抗議にゆくことを、オーシュコルヌ教授は、わかっており、沈黙をつづけた。 哲学者の九鬼周造は逝っており、「中井正一」、新村猛先生たちは、拘留か、軍部の監視下におかれた時代だった。 このとき、京都帝国大学の、反戦派の研究生は、軍部当局に、認知されているので、京大、文学部の研究者は、関西日仏学館の「料理人」を、仲介役にさせた。 そして、京大理学部担当の画家であり、彫刻家であった、日本と同盟国のイタリアを尊敬し、イタリア語が堪能な、牧野四子吉(まきの・よねきち)さんと、イタリア文化を愛する詩人であった文子夫人に、相談へ行った。 自宅に、自ら彫った、ファーブル Jean-Henri Fabre 「昆虫記 Souvenirs entomologiques」を訳した、思想家の「大杉栄」像をかざっていた、牧野四子吉ご夫妻による、軍部への説得と保証で、オーシュコルヌ教授は、釈放の身となった。 23) 石原慎太郎、都知事が、2004年10月、公共の場で、「フランス語は数を勘定できない、国際語としてはふさわしくない」と発言し、社会問題となった。 問題となるぐらい、漢字表記をはじめ、混乱がある、日本文化の程度も、上がったと思えば、いいのだろうか。 石原都知事の発言で、赤坂で、フランス語学校、「クラス・ド・フランセ」を経営されている、マリック・ベルカンヌ Malik BERKANE さんが訴えを起こした。下級審での、判決がでた。 2007年12月14日、東京地裁、民事、笠井勝彦裁判長が、「原告の社会的立場への直接的な被害はない」として、原告側の訴えを棄却した。 わたしは、原告の日本語での訴訟文章を読んだ。また、判決文も読んだ。 両方とも、「数字」の意味を理解していない。 人類が持ちえた表記、数字は、ひとつの「形相」、心身が昇華された、エスプリ Esprit からの立ち表れ、重要な現象である。 文化とは、「心身 SpiritーBody」で成立している。 数字とは、その上に、「不安定でもある形相」で、立脚している。 石原慎太郎、都知事は、作家でもあり、文化人である。 知事の弟さん、石原裕次郎が主演だった警視庁の、刑事ドラマに、『太陽にほえろ』(1972年ー86年、日本テレビ系列)があり、この番組で、考えさせられたことがある。 若手ヒーロー、刑事の、背の高さである。文化への影響は大きく、高いことが、良いことになってしまった。 松田優作さんは1952年生まれで、1951年生まれのわたしより若かった。 いつのまにか、わたしより、年上になってしまっていた。 有名なアナウンサー、久米宏(くめ・ひろし)さんと、大昔、何度か、すれちがった。「久米さんて、背が高いだろ」と友人2人がいうので、久米さんは、君たちより、低いけど、というと、友人たちは、「ちがう、高いよ」という。 わたしは、人類の動作が、専門でもあるので、「君たちと、5センチ以上の差がある、久米さんは、180センチはない、178、9センチほど」と返事した。 つぎの問題だが、刑事ドラマ「太陽にほえろ」(1972)のメインテーマ、これと同じ、『まったく盗作』と思えるものを、日常生活の数字に「利便性」のない、国際語として「不具合」な、ラテン民族の、日本人に、なじみの、才能ある吟遊詩人アダモ Salvatore Adamo が、Mi Gran Noche「ぼくが楽しい夜」( 1969)を歌ってる。 母音が、日本語と同じようで、口腔をつかい、咽喉「↑」、口腔「→」といった方向で、口、鼻から、なめらかに、透きとおり響かせる、イタリアのベルカント声法で歌う、スペインを代表する歌手、ラファエル Raphael と、アダモによる、スペイン語での相互の、独唱、合唱があり、うらやましく思った。 腹腔から咽喉へ「↑」、体全体から発散させるような「*」、頭から抜けるとも表現され、胸、肩など、胸郭をひろげ、口腔を空けたままの声法をとる、北方ゲルマン民族の体格は、世界一大きい。 彼等の言語は、唇に舌での、破裂音をともなう子音が多く、複雑になっている。 この民族たちも、数字が、かんたんではない。同じ血縁、同じ民族同士の戦いのため、数字はじめ言語が、暗号のように、信号化されている。「英語」がそうである。 フランス語のばあい、動詞の時制変化で、話すこと、書くことで、パリの知識人でも、間違える。ドイツ語も、数の数え方は、知識人でも、すぐさま、発声ができない。 これは、10進法、12進法、20進法という、従来のフランス文化を大事にする人には、楽しく高等に感じても、民族を守る良い意味での、複雑な文化が、「新しく都市生活者」になろうとする人たちに、とっては、不可解なものと思えるからである。 また、冠詞の問題、ドイツ語では、北部のに、慣れると、読み書きでの、名詞の大文字が、面倒になる。そうすれば、アルファベットを使いながら、英語ほど、複雑な言語表記が、あるのか? 「中国語を話せると、15億人と話せます」という語学の学校はまだない。しかし、田舎というか、自然に近い田園地帯に住む、多くの、第一次生産者に、何が、必要なのか。 顔だけでなく、脳みそもぺったんこみたいな、石原都知事の発言、日本の、東京の文化程度をしめすものである。 「智恵子は、東京に脳が無いという、ほんとの脳が見たいという。私は驚いて、東京の脳、都知事を見た。ほんとうだ、無い」と言ったのは、高村光太郎君だったか? 24) 言語とは、生活からの、上に、成り立つものである。ラテン民族は、風土、気候とも、他の民族より、良いと言える。 が、北方ゲルマン民族より、体格が小さい。 この原因は、海の幸、山の幸を、かんたんに取れる、環境からとも言える。 凍りつく、雪の季節が長いという、環境の厳しい、ゲルマン民族が、飢え、食糧を、得るため、戦いの用意として、牧畜を主にし、体格も、良く、していったのだろう。 こういったことは、北欧人、ドイツ北方人の、「眠る姿勢」「蒸し風呂」にも、表れている。 また、ラテン民族圏内も、自然災害などにより、食糧が無くなったとき、戦いがはじまる。 ラテン圏内、ゲルマン民族圏内とも、言語は数字をふくめて、ひとつの民族を、守るためにある。 笠井勝彦、森剛、松長一太裁判官たち、あなたたちの勤務先は、東京地方裁判所民事第1部となっているが、これはわたしの読み間違いで、東京「痴呆」裁判所なのか。 読み間違いでなければ、小学校から行き直し、2進法、10進法、12進法を学習すべきだ。 あなたたちの、頭が左巻きでなければ、時計を10進法にすべきだ。分度器を100度単位にすべきだ。 わたしは、干支(えと)はウサギの、「四緑木星」(木星Jupiter の、公転周期は、約12年)、「進法」は、民族での、生活環境からくるものが多い。 日本文化を、理解しようと、してくれる、数少ない人たちの、心を、誇りを、体を、傷つけるべきではない。 25) 日本人の、戦場での、ひとつの形式として、『ある明治人の記録―会津人、柴五郎の遺書』 (中公新書)を参考にすればいい。 日本人同士の戦いだが、戦場になった、会津の士族たちの、婦女子、子供がとった行為である。 これは、各、イエごとに違う。 共通しているのは、伝統を受け継いだ、士族として、辱めを受けないこと。これに尽きる。 京都での、戦いの、犠牲者は、「くろ谷」 金戒光明寺へ、行けばわかる。 姫様にあたる人の墓碑がある。また、わたしのイエの、家名が同じのも、ずいぶんある。 母方の祖母は、1960年、祖父が逝き、懐剣は、祖父が作った、「大正、昭和天皇からの写真」、それへ祖父自作の、アルバムの前、和箪笥、一番上、左、入り口に、置いていた。 が、戦乱で大群が襲ってきたとき、祖母は、戦い、懐剣を使い、死ぬ行為はできない。 父方の祖母は、戦いとなれば、生きること、死ぬこと、何も考えないように、育っており、自分自身が、何の力も持っていない、好きな、猫以下でもよく、一塵の存在とも、考えなく、戦いの場の隅に、居ることができ、食事の世話だけをする。 わたしが筆頭であるから、もし、母方の姉妹がいたばあい、わたしの母、いま横浜にいる叔母は、絶対に、男子とともに戦う。母のすぐ下の妹、清水谷高校70卒イトコの母には、戦いに大事な、食事の衛生面での、管理を、すべて依頼する。 父方のばあい、父の妹、わたしの叔母は、男子といっしょに戦う。 母方の祖父は、情況をみて、戦いの形を変える。信頼のおける男子だけを選ぶ。 父方の祖父は、婦女子全員を、できる限り、逃げろといい、ひとりでも戦う。 わたしも、これと同じである。 男子のイトコだが、印南の周囲、血縁になる。播磨、大国400戸、ここは戦いを、しない村である。 いまのイエの造りは、別だろうが、わたしが2歳とか5歳のころ、印南の、血縁のイエ同士は、走り抜けれる構造になっている。 播州ゆかり、宮本武蔵、「五輪書」を読めば、「必勝」が書かれてある。これは、播磨、大国の考え方である。 日本軍人のばあい、東南アジア、台湾他、日本人であることを、嫌だったと思う人たちが、かなり居る。 日本の軍人で、自分たちは、他所の国に、迷惑をかけたと判断した人は、故郷の日本へ連絡せず、現地人となり、生涯を終えられた。 イトコの女子であれば、いまは大阪だが、横浜の叔母の娘が、供に、戦い、死に際も、教えたどおり、する。 わたしの妹は、指示に従うが、戦いはできないので、わたしが命を絶つ。 わたしの妻の、わたしを守りたい気持ちは理解するが、逃げないばあい、邪魔になるので、わたしが、妻の命を絶ち、すぐさま、妹と同じく、土に埋める。 瀬戸内海、南からの攻撃のため、父の生家、わたしの育家は、戦いでの「矢面(やおもて)」に位置する。 これは、父方の祖母の、実家も、同じく、姫路城への、攻撃があったとき、東は山での防御をつくり、生活のための南からのは、矢面に、位置している。 どうしてもの、戦いとなれば、播磨、大国400戸は、家訓で、絶対に勝たなければいけない。 血縁、男子各5人、血縁の小作農、数百戸、男子各5人とすれば、おおよそ、1万、2万の男子だけの、戦陣は、即座にできる。 そして、戦いは、歴史から消す。 わたしの祖父の、明治、大正時代の、文書、および、「司令官」とのやりとりがある。2007年9月から12月、「新日本石油」の、会社が大事というより、自分だけが大事な悪党により、わたしの病中の母が出し、母と父が、検討したものの、一部である。 国のため、自分自身に与えられた義務のため、死を、覚悟した、20代の、祖父の、公式文書である。 これらを、はじめて、眼にして、わたしは、沈黙を保った祖父に、3歳のとき、7歳のときの、わたしの言動が、礼儀を、欠いていたと思った。 ▼大正8(1919)年9月、戸籍謄本の認証は、桑名郡桑名町の「飯田一畝」町長となっている。 |
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▲本籍地からの、移動の際の、寄留届け、大正6(1917)年、祖父前田正、26歳。血縁が多い、本籍の「桑名」から分家の形をとり、杉戸町の預かり保証人、「大作松次郎」の認証を得、杉戸町長へだしたもの。 |
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▲祖父、前田正、28歳のとき。兵籍異動届、1919(大正8)年8月27日、「移動命令」発生のため、分家の形をとり、9月に、「移動届」を出し、桑名連隊、汾陽光二司令官の認証を得る、過程。 |
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▲寄留届け。明治44(1919)年に、歩兵一等卒徴集後、予備役となったとの願いを、 [1]大正11(1923)年3月31日、埼玉県粕壁町の認証を得て、 [2]本郷連隊区、「生島駿」司令官へ宛て、同年5月1日に許可を得、 [3]また、埼玉県粕壁町役所に、同年5月15日に得た経過。 日本での、内務省役人の、移動認証には、このような形式をとる。 ●大正6(1917)年、埼玉、粕壁町へは、利根川の、橋梁設計。ここで、祖父は、シベリア出兵のとき、祖母方の、「杉戸町」に、「書物」をあずけた。関東大震災があり、利根川(坂東川)が氾濫し、祖父の書物類、一切が、なくなった。 「予備役」への願い届け、祖父は、大正11(1923)年、江戸川の橋梁設計のため。32歳のとき。 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-12-18 |