京都昨今 |
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62、ABO遺伝子論文の起因 【新日本石油 西尾進路】 | ||
★ 上は、「蹴上(けあげ)」に残る、インクライン(傾斜鉄道)である。 明治維新により、人口が、35万人から、25万人へと、京都の将来を作成できる人たちが、東京へ行ってしまい、経済活動が鈍ってしまった。 ここでの、発案は、滋賀と京都を水流で結ぶ、「琵琶湖疎水」という、大規模なものだった。 疎水は、50歳を迎える、京都府第3代目の知事、「北垣国道」の判断で、13歳で工部大学校付属(東大)へ入り、卒業したばかりの、21歳の、田辺朔郎にまかせ、成功した。 この完成をみることにより、京都の、経済の、在り方が変わった。 第1次、琵琶湖疏水は、1885年着工し、1890年に、大津から、鴨川への、水路が完成した。 インクラインにより、「運送」が便利になった。ふつうの貨物はじめ、琵琶湖の「淡水魚」が、京都へもたらされ、滋賀と京都の経済活動を、よりよく変えた。 琵琶湖疎水による発電は、日本初の市電、京都にチンチン電車をもたらした。 1) 人類学は、はじめ、自然(形質)人類学が、中心だった。 学問の拠り所を、人類、人種の形質、解剖からの分析におくからである。 いつのまにか、民族の在り方を、衣食住などに分け、歴史の時系を、研究で追って、学問の抽出技法で、わかりやすくしてゆく、方向と、違ってしまった。たんなる、旅行記が、人類学のようになった。 「民博」だが、はじめ、人類学を、厳密な社会科学で、観察対象を思考し、分析、採録してゆこうという、東大の、「石田英一郎」(1903ー68)さんが亡くなられた。 ついで、「泉精一」さんたちの招聘となったが、東大側からは、つぎつぎ、断わられ、いまの、梅棹忠夫さんが館長として就任したと、教えられた。 わたしが、山田忠男先生を、あらため、訪問した理由は、松蔭寮の寮母さんから、「人殺し」「教え子」と、1978年晩秋、今出川から寺町通りを下がり、歩いているとき、とちゅうにある、松蔭寮の、女学生から、叫ばれた、言葉にある。 わたしは、川島秀一さんの、講義は、一回の聴講で止め、登録もしていない。 しかし、本来、工学部の市川亀久弥先生へいっているはずの、わたしの論文を、川島秀一さんが、窃盗して逃げたため、警察へ届けようかと思いながら、また、心理学のセクハラ専科の浜治世さんも、警察へ届けようかと思いながら、何のことか、わからないことが、つぎつぎ起きた。 ぼんやりとしていたら、女子学生と、松蔭寮の寮母さんがいた。 2) わたしの論文を、わたしの物として、「松田好信」として、学界へ提出するのであれば、できあがった原稿が、1976年春のものであれば、わたしが、24歳であるし、77年のものであれば、25歳となる、ことが大きい。 わたし自身は、24歳、25歳という、老人に、なってしまったと思ったが、学問の世界では、若いらしい。 わたしに、大阪府、寝屋川市立第一中学校、1967年、日本刀乱闘の冤罪事件をかけさせたのは、とうじ、寝屋川市教育委員会勤務の小西恕一さんだと、3年の担任だった正井満先生が言う。 小西さんの、生年は、知らないが、わたしは、入院生活で、一年遅れているため、小西さんは、23歳ごろである。 「1967年、日本刀乱闘の冤罪事件」は、京阪沿線、また阪急沿線の友人たちに伝わり、もし、結婚問題へ響くのならと考えた。 「娘の結婚のため、、、黙っておいてください」と言った、小西(大手前高校→神戸大)さんの母親の、気持ちと、わたしの、犠牲が、ムダになると思ったからである。 改名手続きには、時間がかかると聞いていたので、そのとき、行政へは、「一言」いえる、京都府教育委員長だった、山田忠男先生であれば、家庭裁判所で、支障がおきたとき、蜷川虎三知事などに、でてきてもらえば、かんたんだと思った。 とうじ、寝屋川市大利(おおとし)に、ラジオの深夜放送で、抜群の人気をえた、落語家の、「笑福亭仁鶴」さんが、「文化住宅」に、住まわれ、尋ねてゆく、中学生たちに、親切だったと聞いていた。 どのような影響か知らないが、「1967年、日本刀乱闘の冤罪事件」の断片は知っているはずの人に、とうじ一年生だった妹の同級生がいる。 わたしの妹が、「おとなしい子(娘)」と言った人だが、いまも、「吉本新喜劇」で、漫才をされている。 妹と年齢が同じなのに、ちがうのは、こういったことに、あるのかとも、わたしは、考えた。 結局、改名の、松田薫は、1971年から、通常使用していたため、何もなしに、大阪府家庭裁判所へ、自力で、届け、即日受理、呼び出しの日、決定となった。 左にある、山田先生のハガキの文字だが、毎日新聞社勤務の「山岡」さん。いま、大阪音大学長の「西岡信雄」さんのことである。 西岡信雄さん、あなたと山田忠男先生の、直接の会話は、知らない。 山田忠男先生が、わたしの、世間が言う、経歴を言わなかったせいかも知れないが、わたしは、「西岡君などと、話をする時間をつかってしまって」と注意を受けた。 なにしろ、山田忠男先生、十八番の「やれやれ・ハガキ」が来ると、「また、やれやれだ」と、わたしと妻は、落ち込んだ。 親への借金がなく、元気なときの、わたしだと、「きょう、久しぶりに、郵便箱をのぞいたら、先生からのハガキに気づき、あらあら」と、かいたはずだった。 3) どこの国もだろうが、何かと、権力、権威により、安全性、信憑性が保証される。 ABO式血液型を発見したことになっている、ラントシュタイナー Karl Landsteiner は、1920年代、NY、ロックフェラー研究所へ、移り、アメリカ国民となり、成功する。 ハイデルベルグ大学の、真摯な医学者、デュンゲルン博士は、門下生として、調子者のラントシュタイナーより、日本にABO式血液型の知見をもたらした、まじめな原来復(はら・きまた)博士を、選択した。 父親の仕事が、新聞記者である、門下生、ラントシュタイナーが、業績と主張するものを、認めようとしなかった。 残存する、「原来復ドイツ留学日記」にも、ラントシュタイナーの人物の印象はあるが、名前は記載されていない。 「血液型と性格」とやらが、毎日のようにつづく、「幼児のままごと井戸端会議」が、盛んな日本のマスコミでは、こういった、学術で、重要な、問題検証など、まったく、なされない。 日本へ、ABO式血液型の知見をもたらした、原来復博士も、デュンゲルン博士と同じく、血液型の研究より、目のまえで、苦しむ、ガン患者、そのがん細胞を、自宅の離れに、小さな研究所をつくり、実験をした。 日本で、権威ある、医学誌と認知されるものに、1、ハーバード大学、2、テキサス大学、3、ジョンズホプキンス大学、4、米国立がん研究所、5、イエール大学、6、UCサンフランシスコ、NIAID、MITなどがあげられている。 たしかに、そうだろう。 しかし、これらの中で、将来、役立つ、論文はと聞かれると、各専門分野だと、10年にひとつ、良い論文を見つけることができれば、いい方だと、わたしは答える。 わたしが、1970年代、おどろかされたのは、19世紀からの、ドイツ医学誌である。 音学や文芸などの、蓄積、それらには、日本が、追いつける筈がないと思っていた。 が、これは、医学はじめ科学の世界も同じだった。 ひとりの研究者が、中心となり、学術誌をつくりあげてゆく。ドイツ医学の、研究発表扱いである。 「データー」と成る可能性を、次の世代にまかせ、客観性のある、平等な精神に、日本は、100年後、200年後、追いつけるものだろうかと思った。 このことは、ドイツにつぎ、イギリス医学にもかんじた。 科学史家、湯浅光朝先生に、1980年6月、17、18世紀のイタリア医学、18、19世紀のイタリア生物化学の衰退の理由を、わたしは、質問した。 湯浅光朝先生の解答は、西洋の「システム科学」の波、大衆の傾向、思考の方向は、隆盛を見ると、必ず、別の場所(国、都市)へ、方向転換するのです、とのことだった。 4) 1979年、自分自身の28回目の誕生日がくるころまで、わたしは、山田忠男先生が、傷痍軍人であることに気づかなかった。 大学にも、長く、大事に、着てこられていた、繕(つく)ろいのある、見慣れた、カシミアのベストに、小さなバッジがあり、奥様を前にして、わたしへ、「ぼくは、これで、充分なんです」と言われた。 わたしも、1979年初秋までの、山田忠男先生の、この在り方に、尊敬をもてた。 ただ、山田忠男先生は、わたしが、わかりやすくした、「ABO遺伝子論文」「科学としての手の現象」論文で、急激に、変化された。 山田忠男先生も、形質人類学の講義で、自作の、遺伝子地図を見せられていたが、わたしのような、着眼には、気づかなく、「これは、誰もが、見ています。みんな、考えていました。しかし、まつだ君の、分析方法はできなかった」「指紋で、従来の、FBI方式を、変える事をできるのは、まつだ君だけです」と言われた。 1970年代、京都帝大、理学部、医学部OBを中心に、いくつかのサロンが作られていた。 そこで、わたしの論文に、かれらは、おどろいた。 天理大、富山大学の和崎洋一さんに、ほんの少しの、正しさと勇気があれば。 NHK勤務の息子と、アフリカの皆既日食の、旅行へゆかなければ、また、行かれたあと、即座に、わたしの論文編集に、取りかかっていたならば、わたしが、いま書いているような、事態にならなかった。 5) ☆ 山田忠男は、日本、とくに文芸が発達する、京都の、日常の労働から、生まれる文化に、「働態(ろうたい)」という、言葉をつくられ、あてはめた。これは、正しい。 こういった思考にたいし、吉川英史は、日本音楽の、実際を、分析され、「芸謡(げいよう)」という、概念を抽出された。これは、厳密に正しい。 邦楽を、科学哲学分析した、「吉川英史」は、 @「民謡(みんよう)」 俚諺(りげん)、田舎歌、在郷歌など。 有節性、同じ言葉、同じ節の、反復性(節まわし)があり、わかりやすいもの。 日本は、極めて、高い音階からはじまり、細かな、アクセント、抑揚を無視する。 A「芸謡(げいよう)」(欧米での芸術歌曲に相当。これは、吉川英史の創作、概念言葉である) 通作歌曲。シューベルトの歌曲には、例外としてあると指摘し、音楽性があり、ひとつの長い、 言葉の流れとして、長唄『越後獅子』をあげられると、区分した。 吉川英史の指摘、「芸謡」は、日本の、神社における、儀式での、ごく普通の祝詞(のりと)などにもみられる。 ☆☆ 山田忠男は、敗戦後、何もない、子供たちへ、音楽でもと、まずは、わかりやすい、西洋音階の学習と、子息がかよう左京区の「北白川小学校」の児童たちに、日本のどこにでもある、竹で、笛を作られ、配り、音楽を教えた。 このような、日本独自のものへの、学問思考は、日本の「音楽取調掛」などで講義をした、ドイツ人、エッケルト Franz Eckert が、ヤパノロギー Japanologie と命名し、ハイデルベルグで、論じた。 邦楽の吉川英史による、日本音楽の分析は、細緻である。吉川英史は、日本音楽がもつ、輻輳性を指摘した。 二つの弦を同時に鳴らし、和音と単音の交互の、演奏となる、「すががき」。 この「スガガキ」にたいしても、菅垣、清掻、菅攪などの用語を当てはめられるが、つまりは、「菅垣」だろうといわれた。(『美学』八〇号、1970年3月)以上、吉川英史論文は、すべて『日本音楽の美的研究』にある。 吉川英史は、よく問題になる、アジア民族がもつ、「歌垣(うたがき)」にも、日本のばあい、簡単な考え方をあてはめられなかった。 こういった、先人に対し、国立歴史民俗博物館の「小島美子」は、連れ合いの関係か、山田忠男を指して、いまの時代、西欧の中世の笛など、吹いているのは、日本だけだと言い、また、吉川英史に対しても、「歌垣」において、論理整合性に欠ける口調で、反論した。 反論する以上、小島美子は、日本の古典、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ラテン語は、最低、修得され、また、多くの、邦楽器、西洋楽器の演奏が、可能なのだろう。 しかし、わたしの浅学のせいか、小島美子の、音楽論で、科学哲学からの、検証にたえる、研究があるのか、まったく、知らない。 また、山田忠男が、なぜ、「笛」にしたのか、これは、山田忠男宅への、客人、フルート奏者の三輪誠(京大、理、1949年卒)の作詞からでも、感じることができる。 これには、肺を強くして、結核から、体を守ろうという、日本人の、体質改善にもあった。 6) 左は、わたしが、新しい学問の発表には、小さな輪を作ってからでないと、失敗しますから、「三輪誠」さんを、とわたしが言ったのに対し、山田忠男先生が、「三輪」さん、違いをされた。その弁解のハガキである。 軍国主義国家に反対した、山田忠男先生は、同志社、湯浅八郎総長により、声をかけられた。就職先は、京大教授をやめ、同志社大学の工学部創設にあたられ、音楽も好まれた、堀場信吉博士(京大、理、化学)のもとだった。 三輪誠(成蹊大学教授、化学)さんは、職がない、京都を去り、東京、西荻窪の住人となられた。 が、その前に、 風がゆく 風がゆく きわみない 深い 空の 様に ひえびえと 並んだ 木立の 様に しらじらと 流れる 狭霧の 様に 風がゆく 風がゆく 虚空の 寂まくを 一線に こめて キラキラと かがやき ながら などの詩(抄)をおき、山田忠男先生たち家族が、西荻窪の三輪誠さん宅へ訪れ、また、ときに、三輪誠さん、ご夫妻が、山田忠男先生宅へ訪問する、つきあいとなった。 左は、朝日新聞社は雑喉潤さん、毎日は山岡さん、読売は松本さん、京都は粟飯原さんとの紹介である。 7) 1980年2月は、妻の勤務先へ、大阪大学の、自称「蛋白質研究所」所長、河合清三さんから、とつぜんの、訳がわからない電話攻勢だった。 この2月、わたしは、日高六郎さんたちを、挨拶、訪問しなさいと言われていた。 左は、社会学者、日高六郎さんへの、紹介文についた、住所である(現在、この住所等ではない)。日高六郎さんへの訪問は、1980年まえから、ずいぶん、言われていた。 が、1960年安保、1970年日米安保条約反対運動に、参加した、学生へ責任を、とられていないので、わたしが、訪問を、ことわっていた。 日付は、1980年、8月4日となっている。 日高六郎さんへの訪問のあとは、日本史学の、林屋辰三郎(とうじ、京都、国立博物館長)さんたちだった。 こういった忙しい中、女学生とのコンパが大好きの吉田謙二、そして片山寿昭、川島秀一ゼミの人たちが、つぎつぎ、連絡を入れてくる。 わたしには、同志社大学の川島秀一さんはじめ、教え子たちの言動は、理解できないものだった。 1980年8月、鹿児島県、日本石油勤務の、前田博司さんが、 「ゆくから、日をあけて、おけ」との電話が入った。結局ついたのは、22日だった。わたしが、日高六郎さんたちを訪問したのは、前田博司さんを相手したあとである。 8) 自称、加賀藩前田、直系、父は、九州帝大法卒、日本乾溜工業、御曹子。 母方は、島津、伯父は陸軍石山中将という、前田博司さんは、わたしの就職先が医学部と思っていた。 このまえは、 「マツダ、ぼくは、高尾の仏足石を見たことがない、神護寺へ連れてゆけ」と言う。 わたしは、時間がないし、高尾にしろ、金閣寺も、銀閣寺も、行ったことが無いと答える。 しかし、「マツダ、マツダは、京都に詳しい、金を、出せ」と言い、前田博司さんは、20人ばかりに連絡する。 費用は、すべて、わたしだ。 わたしは、時間のムダをかんじながら、バスの中で、俳句を詠み、文庫本の裏に、書いていると、 「おい、マツダ、何してる」と、読み上げ、「ふん、俳句か」といい、わたしへ、文庫本を、投げつけた。 「マツダ、大成寮で、YZ女史をやって、以来、ボボへ、顔をつっこむ夢ばかりだ」ブルブル、ブルブルと顔をふるわせ、アレルギー性鼻炎のハナを、こすり、「医者になりたい。マツダの友人に産科はいないか」という。 わたしは、級友たちは、大半が内科で、外科が少しと返答した。 わたしが、沈黙すると、「九星電機工業の小森敏鑑が、言っていたが、M君(古代史、天理大、立命館大の「松前健」の息子)は、相手を孕ませたではないか。ぼくは、孕ませていない。M君は、松前健が、印税50〜30%、断ち切り、本をいっぱい書き、そのゼニと権力で、アメリカ逃亡した。1977年、同志社の学長、心理の松山義則。文学部長、文化史の今中寛司も協力した。これが人間の心理と、文化だ」と言う。 わたしが、数理式作成で、忙しい1978年、「結婚相手を紹介して欲しい、真面目になる」といい、大学にいる、わたしの妻に付きまとった。 それで、わたしは仕方なく、妻と女子寮での生活者を、紹介した。 わたしの妻への猥褻は1975年、妹たちには1976年、そして、1978年は、紹介の日、即日、ソーダー水よと、炭酸のカクテルを飲ませ、同志社、岩倉、大成寮で、レイプ。 これは、わたしが責任と、妻には、言わなかった。 わたしは、学問の進行があるし、被害者の事があるので、事実を発表、できなかった。 わたしは、妻に、だまっていたのに、前田博司さんは、今の前田文子さんが嫌になったのか、2005年、メールを、わたしの妻のパソコンへ、「大成寮での、一昼夜、結婚しておけば良かった」との、メールをだした。 前田博司さんによると、新日本石油の面々、渡文明、西尾進路さんに、杉山暎一さんたち、皆、ソープの天国通い、オイルマッサージが、日課という。皆、若いときは、女子社員レイプの名人だと言う。 9) 西尾進路さんとやら、わたしは、あなた方の会社の「総務」へ連絡をとろうと思った。総務である。 が、取れない。あなた方が、どれほど、何について、偉いのか、知らない。 会社、「企業と言うものが、給与という、立派なものを出せるのは、40歳まで、給与は、40歳でストップ」が、1960年、70年安保反対運動時期、日本経済からの解答だった。 渡文明、西尾進路さんに、杉山暎一さんたち、わたしは、あなたちの年齢を知らない。 大手の企業に必要なのは、70代、60代ひとり、50代二、三人。40歳からの老人組み、数人。 あとは、20代、30代にまかせないと、社会は、よりよく稼働しない。 あなたたちが、未来ある若者たちへ、どのような、社会貢献をされのか、わたしは知らない。 電話交換で、わたしは、わたしの、個人識別から、すべて、インターネットで、確認されたあと、 「どこの、だれか、わからない、相手に、交換台は、総務へ、つなぐことが、できない」と言われた。 「杉山暎一」さんとやらが、ずっと、逃げるので、横浜、桜木町へ電話、すると、秘書という方まで、半日だった。 10) 「ボボへ入れたこと、言うよー、だから、結婚、披露宴にこい」と前田博司さんに、言われても、わたしは、関係がないので、出席もしていない。 また、1987年、新橋、横浜勤務からの誘いも、一年断わりつづけた。 が、時間ばかり、奪われ、長引くので、1988年、初夏、「日石丸」への案内につきあった。 前田博司さんは、田中角栄さんが好きな、日本だと6000円台のが、日石丸だと、一瓶、1850円とかになる「オールド・パー」。 わたしたちは水。平和っぽい日本の水道水。 感じの良い、ナガタ船長のとき、「日石丸」へ連れられたことを言うと、「えっ、ウチの船に乗ったんですか」と秘書の方が言うので、「乗せられたのだ」と、訂正をした。 その後、「横浜市緑区、とうたん青葉台ハウス」へ連れて行かれたことを言うと、秘書は、ウチの会社のですと、また、「じつは、喜入の東京タンカーの社長も、杉山暎一で」とか言われた。 なぜ、こうも、嘘が多いのか。 11) なにを希望でと、この秘書の方が言うので、「前田博司夫妻からの、謝罪です。これまで、新日本石油が撒き散らした、排気ガスなど、公害の責任を取って欲しいなど言っていない」とわたしは、言った。 この前田博司さんたち夫妻は、何を計画していたのか、病気のわたしを、水だけで、朝から夜まで、拘束し、前田文子さんは不在で、わたしの本が出版されると、「とうたんハウスへ、連れて、きー」と、元日本石油勤務の前田文子さんが、言う。 鹿児島で、日本石油に勤務するということは、すごい事らしい。 わたしは、「心ない前田文子」、前田博司さん、二人へ、謝罪を求めているにすぎない。 新日石、「西尾進路」代表、石油補給が必要なイージス艦で、マダガスカルあたりから、「中距離弾道ミサイルの空弾」を、軍事練習と、方角の「進路」を、「北北西 North by Northwest 」にとり、ロンドン、バッキンガム宮殿へ。 また、大西洋、ドミニカあたりから、「北北西 Alfred Hitchcock 」でゆき、ホワイトハウスへ打ったらどうか。 アラビア、アフリカ、南米諸国ふくめ、イギリス、アメリカの、真の自由主義者たちは、日本も、真摯でユーモアが通じる国と、世界から、信頼を、置いてもらえるのではないか。 ついでに、アメリカ産の牛肉は、ブラジル産で、昔は、原価100分の1、いま原価10分の1である。 むこうの、昔1キロ50円が、1キロ500円とかになり、日本では、1キロ5000円となる。 まあ、ブラジルは、南米だから、アメリカ産にはちがいない。この構造は、石油も同じである。 インドの人々たち。 インドを植民地とし、人々を、さんざん苦しめた、イギリス。でも、思考を変えれば、イギリスはインドの第二の故郷になるでは、ないか。毎年、3億人ぐらい、イギリスへ、散歩されたら、どうだろうか。 女王陛下も、大喜びで、バグパイプ Bagpipe を吹いてくださる事と思う。 12) 大阪、吹田市に、民族学博物館というのがある、ここの、秘書の三原さんが、「梅棹と会っておいた方がいいです」と、わたしに言われた。 わたしは、論文を、印刷にかけてしまい、研究業をやめられ、世界に通じる学問業績がない、梅棹忠夫さんに会っても、学問の中止の時期に入り、ムダに過ぎないので、断わった。 それで、山田忠男先生に、「先生のイエの、北が、梅棹忠夫さんところだから、両者が、時間の空いたとき、北白川の周辺で、いいでしょう?」と言った。 ところが、 「梅棹君の、イエと、民博とでは、意味が違います」と、山田忠男先生は言い、次男の方が勤務する、「新日本製鉄の、副社長は、三高のとき、梅棹君と同窓でも、10分間、100万円を取った」と言うので、それは、会いたくないという事でしょうと、言った。 山田忠男先生も三原秘書、同様、勧めるので、1980年7月25日、梅棹さんへ会いに行った。 三原秘書から、職員の通路からと言われたが、わたしは、こういった事が嫌いなので、正門から、料金を払って、入館した。 梅棹忠夫さんには、ABO遺伝子頻度図が、すぐ、わかるように、マーカーで、色のグラデーションをつかったのを見せた。 二、三日後、山田忠男先生宅で、わたしが、梅棹さんって、小柄なんですねと言うと、山田忠男先生は、ロッキングチェアーから、立ち上がり、「梅棹君は、小さい、小さい」と、手のひらを、胸元ぐらいにもってゆかれた。 13) わたしの「血液型と性格の社会史」(1991)の出版が遅れたひとつに、桑原武夫先生が、逝かれたこともある。 1988年春、桑原武夫先生の、葬儀に、河出書房新社のノブオさんが出席し、そこで、「『○○君、桑原さんが、、、』と、梅棹さんが、、、」とチンチン電車風に、握手してくれ、感激したことにある。 ノブオさんは、モンゴル調査の「小長谷有紀(こながや・ゆき)」さんの、原稿を依頼されたとかで、「梅棹さんに頼まれてしまいましてねっ、川向こうのあなたは後」と言い、小長谷有紀さんの、「清刷(きよずり)」を、わたしに、見せた。 わたしは「この人、鳥居龍蔵の、モンゴル調査紀行を、どんな読み方をしたんだろう」と言った。 すると、ノブオさんは、「福井勝義の、奥さんみたいに、美人だと、いいんだけどさっ、これがねっ」だった。 このあと、世田谷の図書館で、「梅棹忠夫著作集」(中央公論社)を手にとったことがある。造本は良いが、「お話」にすぎなく、なにが書かれていたのか、まったく、印象がない。 同じ全集でも、1970年代、『今西錦司全集』「全10冊」(講談社)の、「月報」には、わらった。 今西錦司さんの奥様の妹は、四手井綱英(しでい・つなひで、京大)さんの奥様の友人である。 京都の、ええとこの子、四手井綱英さんが、担当の「月報」は、今西錦司さんの、盗用、盗作相手を、ほとんど指摘している。 山田忠男先生(第八高→京大・理)は、四手井綱英さんより、格段エリートだが、四手井さんたちの道を、選ばなかった。 また、陸軍に協力した、「中尾佐助」(第八高→京大・農)さんを、軽蔑し、わたしの論文の送り先から、外したので、選択が、デタラメで、山田忠男先生の選択だと、梅棹忠夫さんたちを、どう扱うのですかと、わたしは、言った。 学者にも、連続した仕事とちゅうであっても、定年制を守ることが大事である。 東大、人類学の長谷部言人、鈴木尚さんは、停年をすぎても、大学という、大きな建物に執着し、あとをついだ、教授たちを、悩ませた。 「字は体をあらわす」「書は人なり」とも言うが、上は、日本の人類学を、明治時代より、ひどくした、梅棹忠夫さんの字である。梅棹忠夫さんの字筆は、ガッコのセンセ、東京のマスコミや帳面屋に多い字である。 14) 大阪大学の山村雄一総長が、わたしを知っていた関係で、1980年、秋、大阪大学理学部で、「動物学会」があったとき、藤田尚男先生(京都府立医科、解剖→大阪大学、1980年教授就任)の記念講演があったので、挨拶に行って来なさいと言われた。 会場の司会が、自称「蛋白質研究所」所長、河合清三さんと知らされ、同志社哲学の吉田謙二さんと親しいというので、「中野逸人」さんを、よろしくとわたしは、言った。 河合清三さんは、「何が目的で、どうして、藤田君を知ってるのかね」というので、山田忠男先生の言いつけというと、「山田さんは、藤田君など、知りませんよ、医学博士など、もっていません」と、馬鹿げたことを言う。 河合清三さんに、若いころ、山田忠男先生宅へ、訪問されたそうでというと、「わたしは、山田さんなど、知りませんし、訪問など、したことありません」と、義理の息子、金山工務店勤務、中野逸人さんと同じく、嘘を並べる。 自称、赤堀四郎先生、後継の、河合清三さんは、阪大名物なのか、知らないけれど、アルミの金色やかん、5リットルのを、 「マツダさん、水はいくらでも、あります」と言い、「お土産です、この阪大の大学案内、どこにも売っていない、貴重品です」と、わたしが、困惑し、断わっても、新書版くらいの、パンフレット32Pを、押し付けた。 15) 1980年晩秋、権力や地位を求める、わたしの生きる姿勢の一端を理解したような、山田忠男先生は、ご夫妻は、 「マツダ君に、ずいぶん、金をつかわせてしまって、、、」「ぼくは、恨まれて、死んでも仕方がありません」と、言われた。 山田忠男先生の、古希パーティは、成功のようだった。 1976年、わたしの妻が、「わたしのイエ、2億8000万円の借金があって、貧乏なの」と言う。 「先に建てた工場が、地崩れで、また、新しい機械を買ったから」というので、1976年初春、わたしは、撚糸の新しい機械を見にゆき、「これは、借金ではない」と妻に返事し、「1980年から、わたしが、3年で、返却する」と、言い、学問へ、戻った。 が、同志社大学とやらの、学問や、労働を大事とする、人間が、わからない、心理学の松山義則さん、倫理学の平石善司、川島秀一さん、法律のまえ、常識欠如の、いま、総長の大谷實さん、などが、邪魔をした。 1982年、結納の時期がきて、わたしの両親は、福井へ行った。新しい方の機械を見てきて欲しいと言ったが、 「失礼やから、工場の半分を、見せてもらった」「おまえが、金(給与)を取らんかったら、金(借金)は、返せる」 「ひとりで、あそこまで、して、、、偉いひとや」と父は、言った。 福井の義父、戦前から、警察勤務の、渡辺忠治は、遺言を、わたしと、生まれが大正時代で、一年上級の、機械が専門の、わたしの父にだけ言った。1983年3月、「かおるさん、やってくれるか」が、最後の言葉となった。 1983年5月中旬、わたしの、義父が、逝った。 これまで、わたしの父から、わたしへ連絡事などなかった。ところが、急いで、福井へ行けという。 福井には、できることはした。「返事もした」。福井へは、明日ゆくと言った。 わたしは、湯川秀樹先生がつくった「科学基礎論学会」とやらの、要約を、ワープロ作成中だった。 「そんな、『にっぽんの、学会』とか言う、遊び事と、実業は違うんや」と父は、叱り、「ワシが、何のために、福井へ行ったのか」と、大声で言う。 わたしは、正座をしてきいていた。しかし、父方が、江戸から明治時代、何をしてきたのか、聞かされていない、わたしには、この情況が、父の言葉の意味が、わからなかった。 父方は、大昔、何があったのか、「松田(まつだ)」一家系、一家名、一戸だけは、わたしのイエだから、わかる。 別家系ひとつは知っている。が、わたしのイエにつづく、播磨、大国(おおぐに)400戸、を軸として、ここの家名がわからない。 わたしが保育園児のころ、孫同士の集いでは、神戸から姫路の、別家名どうし、50人単位で、記念写真を、撮ったのは、記憶にある。父に、「同じ顔ばかり」と言うと、「ああ、親戚どうしの結婚、ばかりやからな」と言った。が、苗字は、一家名も知らない。 16) 福井での、葬儀があり、すぐ、『加賀』へのり、新幹線JR東海、とちゅう、上野から、筑波への乗り換え、90秒はあったので、500メートルは、駆け抜けることができた。 筑波大学での、「科学基礎論学会」の発表を終えると、即座、福井へ行った。 わたしは、わたしの父が言った、意味が、わかった。 同志社大学、いま文学部長、倫理学の、お調子もの、「工藤和男」さんに、大きな責任がある。 「平石善司さん、元気なんだよ、10歳も若返ったように、感じるよ。なぜ園長になれたんだろ? 山田忠男さんは、10歳も年が行ったように感じる、マツダ君、行ってあげなよー」と言う。 平石善司先生に連絡すると、「通うのに、片道、2時間半かかりまして、疲れるんですよ」と言うので、「園長なんて、やめられたら、どうです」とわたしは言った。 工藤和男さんに、言うと、「マツダ君、園長って、幼稚園でない。梅花は総長だよ」と言う。 このころの、平石善司先生の、ハガキが、本の間から、でてきた。 理由など、馬鹿バカしく、書く気にもなれない。 わたしにとって、大学の園長も、幼稚園の園長も、同じだ。 17) 工藤和男さんの、何度も繰り返す、しつこい、文言で、わたしは、山田忠男先生宅へ、嫌々行き、わたしが、『科学としての手の現象』を渡すと、「君は、仕上げて、しまう人ですね」と言いながら、「マツダ君には、多くの学者を、紹介しましたね、世話もしましたね」と、恩をきせる。 わたしが、誰を、紹介?と聞くと、湯浅光朝さんのおかげで、学会にも入れてというので、「学会って、規則を守らない、科学基礎論学会は、やめましたよ」と言った。 「せっかく、入ったのに」と言うので、嘘付きの集団じゃないですかと言った。 「と言っても、梅棹忠夫君、日高六郎さんも、紹介して」と言うので、あれ、紹介ですか?何か役に立ちましたか?と言った。妻が勤めている、会社が、「講演依頼とか、丁寧に、いろいろしてくれて!?」と見せるので、それらは、わたしが、作成したものですが、と言った。 「いま、ガッコウ、設立のことで、榊田喜四夫君に、提出していますが」 「そうよね、山田の世話に、ずいぶん、なって、」と懸命に慧子奥様もいい、ガッコウ、設立のことを言うので、「は? わたし、先生が言うところの、学問、やめましたし、京信は、わたしのイエが、客で、選んだ、だけですよ」と言った。 「いい、いい、ぼくの方の、女5人組の、秘書が、榊田君と交渉しているので」と言うので、わたしは、秘書の段階で、止まって居ることを、告げた。 山田忠男先生が、妻の、名前をいうので、「妻は、わたしのイエの、保証で、入社したので」と事実を言った。が、窮地になると、山田先生夫妻は、嘘だらけになり、「そこまで、すると、妻は、会社をやめます」と言った。 左のハガキは、1984年、わたしと、妻の犠牲で、ガッコウができ、四条通りの妻の会社へゆくたび、妻の事を、聞きますとの内容である。 妻が、会社を、やめていると告げているのに、こういう風だった。 これが、毎日コンクール審査委員長、リコーダー、フルート協会会長、同志社大学工学部名誉教授、京都府教育委員長の、生き方だ。 わたしは、とうぜんというか、電話もだが、返事など、書いたことはない。 山田忠男先生は、中国のパルチザンにより、負傷兵となり、伝染病にかかり、帰還した。中国の批判など、されたことがない。 この点で、「市民の誠意」をただ食いし、「探検」とかの名称で、権力と銭のためだけに、日本が優位な、中国への、侵略戦争へ参加し、ヒマなときは、運転手が今西錦司さん、車掌は梅棹忠夫さんのチンチン電車よりは、上等かもしれない。 心ある、川村多実二先生は、盗用ばかりの、今西錦司さんたちを、嫌った。 1920年、サル年生まれの、梅棹忠夫さん、あなたは、高尾、神護寺の「鳥獣戯画」を、見たことがあるのではないか。 わたしは、1951年、ウサギ年生まれだ。 梅棹忠夫さん、あなたは、兎や蛙をつかわせ、法衣まで着、タバコを吸うぐらい、偉くなった、猿なのか。 ▼下のは、わたしが、民族学博物館の、祖父江孝男さんに、「血液型頻度など、英語の引用文献名」を、翻訳する人がいるのか、自説(松田)に、引用文献がいるのか、と書いた反論への、山田忠男先生からの返信の形になっている。 祖父江孝男さんに、「古川哲二」さんとなっているのは、「古川竹二」さんと、日本思想史の「古川哲史」さんのまちがいではないか。「人名」はきちんと書きなさい、歴史を把握しなさい、という正論を、送った。 山田忠男先生(1911年3月31日〜87年6月4日、76歳没)の、後半の文面には、敗戦後の、京都市立音大には、20歳の教授もいたとのこと。封筒の切手は、鳥獣戯画。 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-09-20 |