京都昨今
61、ABO遺伝子と環境                            ☆ 南の空へモクを        [田辺、黒沢、吉川、岸辺]

1)

セキセイインコに、ハルクイン種という、ふつうのインコより、やや大きめで、毛並みがやわらかいのが居る。
純白で、眼の赤いのが、「ルビノー」という種類になり、1970年ごろ、日本では、ほとんど居ないと、言われた。
1970年代はじめ、わたしは、この種類を、いっぱい、誕生させた。


2)
わたしと、セキセイインコとの関係だが、1961年、宝殿中学校一年になった兄が、グリコの「アーモンド・チョコレート」を買うと、20円のは一点、30円は二点、50円は五点とかの券が入っていて集めるという。
国鉄の、一区間が、20円の時代だった。

兄が、「これを、ためれば、熱帯地域の、セキセイインコが、もらえる」と言う。
グリコの宣伝では、「青い鳥」となっており、わたしは、童話から、「南十字星座が見える、熱帯の、鳥が、飛んでくるの」と言うと、「うん」と返事する。

甘い物嫌いの兄は、食べず、わたしと、妹は、毎日、グリコの「アーモンドチョコレート」50円の、とうじ一番高価なのを食べた。

この、お菓子の点数集めに困ったのは、1954年、父の末弟が、宝殿中学二年生のころ、「日の丸キャラメル」、一つに、ときどき大当たりがあるけれど、ふつう「1点」ぐらいが入っており、「5000点」で、「ペリカンの、透明軸、万年筆」とあり、甘い物嫌いな、2歳児のわたしが、毎日、「日の丸キャラメル」だった。

兄も、甘い物、キャラメルは嫌いで、父の弟に、
「ケンぼん兄ちゃん、なぜ、買いにゆかないの?」と言うと、
「中学二年生が、キャラメル、買いに、ゆかれへんやん」と播州弁でいう。
「なんで、食べて、くれないの?」と言うと、
「宝殿中学の二年生が、キャラメル、食べられへんやん」と言う。

「ケンぼん兄ちゃん、ぼく、甘いもの嫌い」と言うと、
「でも、よしのぶ、まだ、子供やしな」と言う。
妹の誕生があって、母が、わたしを、加古川の歯医者へ、連れてゆくことが、できず、
「ケンぼん兄ちゃん、虫歯になって、歯が痛い」と言うと、
「お祖母ちゃんに、今治水(こんじすい)、付けてもらい。子供やから、生えてくるし」と言う。
もう、二度と、「日の丸キャラメル」なんか、食べたくないと、言うほど、わたしは、食べ、5000点が集まった。

メーカーから、「ペリカン、透明軸」の万年筆がとどいて、叔父が喜んだころ、わたしは、加古川の国道2号線沿い「神戸銀行」の、北にあった、歯医者さんへ、母に連れられ、虫歯のある兄と、行った。

兄は、幼稚園児なのに、歯医者さんの前で、「嫌、ああーん」と、泣いている。
「もう、泣いていると思ったら、いっつも、まつださんとこの子や〜」と言い、歯医者さんが出てくる。
わたしたち兄弟の歯を見て、
「まつださん、とこの子なぁ、みんな、顎と歯が、退化してぇ〜。お菓子、少しに〜、魚や、硬いもの、たべさせへんと、あかへん」と、いつも同じことを、播州弁で言われ、母は、あやまっている。

このとき、わたしは、「上の歯」が抜けた。
上の歯が抜けると、下の方へ、歯が生えてくるよう、庭へ埋めるのに、母は、まちがえて、屋根の上へ、ほうった。

わたしが、上の歯と言うと、母は気づき、「あっ、ほんとだわ。どうしよう」と言った。
叔父がいたので、この原因は、叔父のせいだから、ケンぼん兄ちゃんに言った。すると、
「屋根でも庭でも、いっしょや、迷信やし。歯なんか、なんぼでも、生えてくる、子供やしな」と播州弁でいう。

3)
「青い鳥」のときの、1961年は、チョコレート好きの妹がいたので、兄の言う、点数は、一ヶ月半ほどで、しばらくは、アーモンドチョコレートなんか食べないという、苦痛で終わった。

兄が、グリコから、封筒の郵便物が届いたという。
中には、近所の、ペットショップで、交換してください、とあり、加古川の鳥屋さんで、良いそうだ。

「ええっー、交換券?」と思いながら、兄は、加古川市駅、南口の、東がわにあった、小さな鳥屋さんで、鳥をもらい、インコ専用の籠を買ってきた。

このあと、つがいでないと、寂しいと兄は、母に言い、黄色のセキセイインコを買って来て、つぎは、何色にしようと言い出した。
「そんなに、たくさん種類がある、鳥?」と聞くと、肯定するので、加古川まで行った。

わたしが一緒だということで、「よしのぶの、小遣いも」と、兄は、母にいい、一度に、さまざまな色、10羽買った。
一羽が、死んで、母が、
「だから、お母さんは、生き物を飼うのが嫌なの。世話を、きちんとしなさい」
と兄に言う。

しばらく、うなだれ、沈黙が、一ヶ月ほどたち、兄の関心は、インコから、鳩へいった。
「伝書鳩」が流行った時代で、伝書鳩を飼い、小さな、折り紙ぐらいを足につけると、伝達をするという。

「鳩って、そんなに賢いの?」と兄に聞くと、山本が「賢い」と、言ってたと、言う。
わたしは、兄の幼なじみの、おとなしい、山本のノブちゃんと聞くと、
「ちがう、中学でいっしょになった、山本のレンちゃん」と石切り場の級友のことを言う。

それで、はじめ、ふつうの鳩、一羽を、加古川で、買って来た。
兄は、一階の屋根に、鳥小屋をつくるといい、自作の、大きな鳥小屋をつくった。
「鳥小屋が、大きいから、鳩がさびしそう」と兄は言い、いっしょに、加古川へゆき、20羽ぐらいになった。
母は、父に注意をされたのか、
「お母さんは、鳩の鳴き声が嫌いだし、世話をしなさい」と兄に言った。


4)
中学校の帰りに、加古川駅によってくる兄は、「鳩には、カルシウムがいるよ」と鳥屋さんがいい、親切に無料で「牡蛎の殻」をくれたという。

無料サービスの言葉で、わたしは、小学校から帰ると、兄が、もらってきた、牡蛎の殻を、カナヅチで、こなごなにする役目になった。

牡蠣の殻をつぶす役目が嫌になり、父に、鳩にこんなカルシウムいるの?ときくと、
「そんなんして、カナヅチで、指でも、たたいたら、どうするんや」
「鳩は、庭の土をつついて、放し飼いといっしょやから、べっちょ(別条)ない。混合餌あるし、ボレー粉も、売っとるやろ」と父が言う。

ボレー粉と、鳥の図鑑を買ってきた兄に、わたしが、「いつ伝書鳩になるの?」ときくと、兄は、「おとなしい、孔雀鳩がいい」と言い、慣れるように、孔雀鳩の雛を買ってきた。

絵本や童話のように、「孔雀鳩」の赤ちゃんは、二、三日で大きくならず、兄は、自分の枕もとに置いて、わたしといっしょに、育てた。

他の鳩と違い、おとなしく、おおきくなり、飛べるようにならないので、その間、また、加古川へゆき、首の色が違うとか、羽根の長さが違うとか、10羽づつを二回、合計、40数羽になった。

孔雀鳩と言うから、孔雀のような羽の色をすると思ったら、孔雀鳩は、真っ白のままで、おとなしく、飛び方も弱いし、文鳥などとちがって、なつきもしない。

秋の季節がきて、第二室戸台風が、9月中旬、わたしのイエにも襲った。二、三日して、
「トイや」と、父が兄を呼び、しかっている。

わたしが、「何?」って、見に行くと、祖母の寝室になる、イエの東側の「雨どい」が、崩れている。

「鳩の糞や。屋根を、瓦を、掃除をせんか」と父が叱る。
わたしも、生まれてはじめて、登ると、
「こら、こら、瓦がずれる、降りてこい」と父が言うので、大丈夫というと、
「おまえが、登ったら、何が、起きるか、わからん。屋根から落ちたらどうする」と言った。

そして、母も父から、注意されたのか、
「もう、鳩を飼うの、近所に迷惑だから、止めなさい。あげてきなさい」と言った。
兄の、黙ったままの日がつづき、鳩は、発破(はっぱ)師の子供の、級友、宝殿中学、剣道部の、レンちゃんにあげにゆくと言う。
わたしは、石切り場を見学したことがないので、いっしょに行った。

発破師たちのイエは、台風の後で、トタン屋根が崩れ、屋根を修理中だった。
トタン屋根のひとつに、穴が開いている。
わたしが気づくと、
「それ、こないだ、発破、しかけたら、タヌキが飛んできて、穴あいてん」と山本のレンちゃんがいう。
わたしはタヌキを見たことがないので、
「タヌキ、見せて欲しい」と言うと、
「オヤジら、タヌキ汁にして、食べてしもてん」と言う。
「タヌキ汁って、、、?」
と兄に聞いたが、返事がない。

兄が飼った、鳩は、一羽も、伝書鳩にならなかった。


5)
1962年、枚方パークには、もうひとつ、広島原爆ドームのテーマ館があった。
兄とイトコは、くるっと、まわって、でてきた。

わたしは、一歩、足をいれ、原爆の写真が、三つ、四つと眼にはいった。
わたしが、落としたような気持ちになった。
この、たくさんの、かぞえきれないほどが、人の形をとどめず、焼かれ、溶け、固まる、写真に、わたしは、わたしが、落とした気持ちになった。

小さな、子供を、子供たちをかばおうと、おおった、母親と、子供だけでもとの思いがとどかず、原爆で、黒焦げに焼かれ、死んだ、子供たちの写真を見て、わたしは、わたしが原爆を、落としたような気持ちになり、テーマ館へ、入ることができなかった。

枚方パークへ、イトコたちとゆき、その帰り、母と兄と妹で、寝屋川市大利(おおとし)へ引っ越した、イトコの家へ行った。


とうじの寝屋川は、駅、三分も歩いたら、田圃で、姫路の祖母は、叔母のところの、離れに同居していた。

新興住宅地の、イトコが通う、成美小学校の前まで、走り、イトコは、姫路の祖父が、入院していたときの、紙飛行機からか、凧揚げをしたいという。
わたしも、凧揚げを、したことがなかった。

凧揚げのタコと糸などは、駄菓子屋さんで、売っていた。

わたしとイトコと、兄と、それぞれ、三人、バラバラで、つくった。
工作図鑑をみると、四角い、「灯篭流し」のようなのがあり、こんなのにしたい、というと、模型飛行機専門の兄は、「そんなん、売ってないし、作ったことがない」という。

凧は、兄のだけが、ぐんぐん、空へ、延び、あがってゆく。
真似をしようとしたけど、Q字になって、まわり、落ちる。
イトコのは、わたしより、あがらない。
「足がないから」と兄が言う。

「足、売ってた?」と、イトコが聞くので、わたしは、知らないと言った。
「タコの足」と兄が言ったけれど、兄がつくった、空に飛ぶタコの足は、即席の、新聞紙ので、
「新聞の足!?」と、わたしが言い、イトコが「あれ、新聞、ガミ?」と言う。
わたしは、田圃を、走るのも、なれていないし、疲れたので、見ていることにした。

兄が、イトコの家にもどり、田圃で、新聞紙を折り、5センチ幅に切って、糊でつけている。
兄の手は、新聞紙で、よごれた。
「ほら。新聞ガミだと、手がよごれる」とイトコがいった。兄は、
「長いほうが、飛ぶけれど、このタコは、安物だから」と、やや長めに、糊でつけた。
わたしとイトコの、タコの足をつくり、三つとも、上がった。
兄は、わたしのタコの、タコ糸も、もっていた。


イトコの家に泊まって、つぎの日の夜、イエにもどったら、鳥小屋に居り、呼びかけてくるはずの、11羽のセキセイインコが、居なかった。

インコの羽と、脚だけが、鳥小屋の下に、いくつか、落ちていた。
父がもどり、これは、イタチのしわざだと言った。
この1962年、わたしのイエから、鳥を飼うことはなくなった。


6)
1971年、初春、いつも、早起きの母が、起き上がっていない。
「ごめんなさい、お母さん、立ちくらんで、起き上がれないの」と、兄と妹へ謝っている。

母に、痛む、患部を、というと、「頭なの、天井がぐるぐるしているの」という。

妹に、「脳溢血とか、心筋梗塞などではない。受験生で、クラスをまとめないと、いけないから、めまい関係と、かかりつけの、旧楠葉の、石塚医院の先生に言って欲しい」と言うと、「わたし、高校があるから」と言って、出かけた。


7時30分近くだった。
わたしは、焦っては、いけないと思いながら、門の脇の、牛乳箱から、牛乳瓶、三本を左手にもち、いつもしていることだが、冬で、牛乳瓶が冷たく、念のため、右手で、かぶせる形にした。

玄関への、高くなっている、コンクリートの段へ、あがるとき、牛乳瓶すべて落とした。
短距離の、リレーで、過去、一度も、バトンを落としたことがなかったのに、牛乳瓶を落とした自分をみて、焦っているのかと思った。

ガラスの破片をホウキで集め、牛乳を、庭へ、ホースをつかい、水で洗い、流したあと、母に、牛乳を落としたことを言うと、
「牛乳なんか、気にしないで、このまま、横になっていると、なおると思うから、学校へ行って」と言う。

わたしは、8時まえ、「石塚医院」へ、母の様子を、告げ、診察にきてもらいたいことを言った。
「メニエル症候群のようですね。準備して、伺います」が、大阪医科大学出身の、石塚先生の言葉だった。


7)
啓光学園についたのは、二時間目のとちゅうだった。
奈良女子大学出身、「数学V」の、遠井方子先生の時間だった。
「まつださん、理由は? まえもでしょう」と言った。

わたしは、1970年安保反対運動の、春から夏、止める役目で、文系B組み、C組みと、議論でぶつかった。
わたしは、「わたし、個人が、文部省や、啓光学園の進学方針を変えることができるのか。教職員へ直接言えばいい」と発言した。

文系の学生運動家たちは、数学か物理の受験勉強をしている、わたしがいるE組み、ばかりにきた。
そして、1970年夏、急性すい炎にかかり、すい炎では、二度目の関西医科大へ運ばれたとき、期末テストに入った。
病院へ運ばれた日の欠席を、数学V担当の、遠井方子女史は、「ずるいです」と、職員室の中で、言った。

二年生、古典の津崎史先生の、授業のまえ、禁止の、「スケートボード」をしている文系の連中と、理系と口論になってはいけないと思い、見ていたとき、牛乳瓶の破片が、わたしの、左唇の上にささったときと同様、無断欠席が付けられた。

このとき、わたしを一年から担当する、男子教員たちは、20代半ばと、若かった。
25歳ぐらいの、男子の先生たちからは、水泳部での活動も、修学旅行委員も、学園紛争も嫌ですと断っているのに、させられていたことへの、同情の視線が見えた。


わたしは、寝屋川市立第一中学校と同じような役割もさせられた。
前河君が、琉球列島から宮崎へ転校し、大阪の、啓光学園、3年E組へ、一年遅れで、転校してきた。

あたりまえなら、高校四年目にあたるのに、琉球、宮崎では、数学UBを、ほとんど学習していないと言われ、文部省など、大人が作っている、社会が、わからなくなった。
わたしに、「微分」を聞くが、「わからない」と、前河君が答える。

そのため、一年生から担当の、吉武直樹先生に、10分早く、来て、微分を、わかりやすく、説明して欲しいと言うと、一度は、してくれた。
が、前河君は、まだ、わからないというので、「もう、一度、別の説明の仕方」と言うと、吉武先生は、してくれた。

級友たちも、じっさいは、わかっていないというので、「もう、一度」と言うと、
「まつだ、まつだは、わかってるやんか。微分、解けているやんか。いつまで、微分をさせるー。授業、すすまへんしィー、いい加減にしィー、外へ出てゆきー」と言った。

わたしの学園は、机と椅子が一体型で、わたしは、廊下へ、出て、数学Vをしていた。
このとき、物理の高岸義弘先生が、理系D組と、物理教室への移動で、
「まつだ、何してる?」と言ったので、
「廊下の方が、静かで、自習してます」と言った。

「でも、なんで、廊下におるねん?」と笑いながら言うので、
「転校生の前河君、まえの学校で、『微分』ならってなくて、わからないから、吉武先生に、三回説明させた」と言うと、D組み一同、大笑いとなり、恩地食品の御曹子の担任は、
「まつだ、おまえは、大学で、数学と物理だけの専攻は、やめとけ」と言う。

「なぜですか?」ときくと、
「まつだ、おまえが、数学や、物理なんかすると、マツダの法則つくるまで、やるから、後の、先生や生徒が、理解するのに、大変で、迷惑や。理科室の先生、皆、言ってるしな」と高岸義弘先生は言った。
これで、また、大声で、D組みが、笑った。

数学Vを教えているはずの、物理より、若い、吉武直樹先生が、教室の扉を開け、真っ赤になり、
「まつだ、廊下で、何、してるー、なんで、教室に、はいらへんのー」と佐賀弁で、言った。
この佐賀弁で、D組とE組の60人ほどの、笑い声が、廊下中に、ひびきわたった。

わたしは、前河君の、家庭教師の役割を、していたけれど、いまのままだと、数学UBの学習にも追いつけないから、北野高校や大手前高校の理系でも、かなり進学する、世間体の良い大学へ、推薦入学への手続きを、わたしが、すすめた。
前河君は、母子家庭で、お母さんも、本当のお母さんと違うとかで、書類作成できなく、わたしが、前河君の保護者のサインをするまでになった。

推薦入学金が30万円だったのに、決めると、10万円プラス、40万円という、新入社員の年収に近くなった。
前河君たちが、「こんなこと!?」と、言ったけれど、わたしの父が建築に行った大学で、理工系は、かなり、大学側が、金をかけているといい、関西医科大学は、わたしで、高級一戸建ての、800万円だから、浪人は、時間のムダと、説得した。

8)
「ずるい」と言われ、不愉快になった、わたしは、母に、高校を中退し、「大検(だいけん、大学入学資格検定)」を受けると言った。
そうしたら、わたしは、三年間、現代国語担当の、津田彰先生に、風紀室へ呼ばれ、
「神父様が、学園の体裁に、かかりますからと、、、」と、言われた。


そして、1971年になり、理系必須の、物理の担任が、新婚旅行へゆき、私立進学組みへの、進学指導を忘れ、人権を無視した言葉を吐く事件がおきた。

また、卒業式の答辞は、生徒会長の、父親が北海道新聞勤務の、文系C組の竹川君なのに、父親が、京都府立高校の数学教員の、理系E組み岩田君が、「答辞」を読むと言うことがおきた。
これも、すべて、神父からの命令という。

文系、理系D組も、学園の規則では、答辞は、生徒会長のため、これは、不正だと、わたしへ抗議しにくるので、わたしは、D組の中川君に、これは、枚方市立第四中学出身者が、相互に責任をとれ、寝屋川一中出身で、問題が起こったかと、言った。

結局、わたしが、枚方四中出身の、同級の岩田君へ、注意したが、岩田君は、聞かない。
それで、わたしひとり、職員室へ、「成績だけで、人間を測るのですか」と抗議しに行った。が、若い先生たちは、「神父様からの命令やし」と小声で言う。

ラグビーの時間、岩田君への、E組み全体、学園の生徒全体の、批判が起きた。
それで、岩田君へ「約束事は守って欲しい。このままだと、啓光9期、文系も理系もバラバラになる」と言った。

それでもきかないので、高校一年のころ、敏捷性が、大阪府一番だった、わたしは、
「岩田、これから、押しピンを、毎日、椅子に、おいてゆく」と言った。
三日ほど、岩田君は、わたしが、すばやく椅子に置く、押しピンに、ささった。

五日後、めんどうになり、医師の師弟三人が、岩田君へ、殴るように、フェイントをかけたとき、わたしは、15個、岩田君のイスに、押しピンを置き、これが、岩田君の尻にささった。

イエが病院経営とかの連中が、大喜びになったとき、岩田君は、わたしの方を向き、爪が伸びている、両手の指で、わたしの顔を、引っ掻いた。

わたしの顔から、血が流れたので、級友から、同窓、学園全体の反感が、岩田君へ向かい、岩田君をリンチし、受験できないように、腕を折り、骨折をさせると、京都の医師たちの子弟が決めた。

わたしは、骨折はいけないといい、わたしが居る、前で、やってほしいと言い、大雪のつぎの日、ラグビーの時間、岩田君側のチームが、岩田君へ攻撃をかけ、わたし側のチームも攻撃をかけた。


9)
1971年春、「青い鳥、おおきな、青い鳥が、庭に」と、わたしに叫ぶ。
どれほど、大きいのか、わたしは、ルリカケスのような、中型のを想像していたら、母が、
「つかまえた、わたしの、割烹着にいる」と言う。
母がイエに入り、部屋で、放すと、鳴き声は、強いが、賢い眼をしていた。青のハルクイン種のセキセイインコだった。

祖父が、うぐいす用に注文した、竹篭にいれた。
母が、買い物ついでに、餌を買ってきた。
二時間ほどで、手乗りだとわかった。

わたしは、雄だとおもうけれど、ペットショップで、聞いて、つがいにして欲しいと言った。とうじ、この種類は、6000円から7000円するとペットショップが言い、母は、グリーンの色の雌を買ってきた。

このグリーンのは、わたしのイエへ来た、青のとは、相性があわなかった。
初夏になるころ、「白い、白いのが、二階の屋根にいる」と母が言う。
同じく、白の斑点があるハルクイン種で、わたしの手にきて、雌だった。

この青と白が、つぎつぎ、子供を産んで、雛を育てるのは、幼いころからしており、母が得意なので、育っていった。

慣れないグリーンのは、法律、末川博先生の教え子のイエに、もらってもらうことにして、また、黄色のハルクイン種を買ってきてもらった。

イトコに、近所の人にも、もらってもらったが、つぎつぎふえ、20数羽は絶えずいた。
鳥は、序列社会が厳しい。

だけど、わたしが嫌うのが、わかるのか、一代目の青のインコは、序列に入らないようにする性格をもっていた。

まだ新築のイエは、わたしが飼う、インコで、桟(さん)のあちこちを、かじられた。

この青と白から、わたしが、「モク」と名前をつけた、白の赤目で、斑点もようという、一番高価なのが生まれた。

一度にだいたい、五羽ぐらい、成鳥になる。親からの餌をうけ、同じ兄弟を、世話する、子供は、弱り、死にやすい。
わたしの睡眠が、4時間ほどになり、雛のせいで、2時間ほどとなり、イエになる、青菜と、ハチミツ、玉子の黄身、「アワ」をすり餌(すりえ)にして、育てた。

春に生まれた、五羽、秋に生まれた五羽、かられは、一羽づつ、鳴き声がちがう。

わたしが、仰向き、本を読んでいるときは、わたしの耳元を中心に、10羽近くが、仰向き、足を上げ、眠るようになった。

雄の、モクが、リーダーなのだろうが、止まり木や、玄関の横の大きな桟での、並び、序列をみていると、モクは、いつも、他の場所で、あそんでいる鳥だった。
ペットショップでの金額は、モク系統の、一色斑点の混血種が一番高価なのに、わたしのイエの、止まり木や桟では、純白のが、ずらっと並んでいる。かれら同士、色が識別できるのだろう。

1977年夏、わたしの甥の誕生日、イエに誰もいない日、おとなしいモクが、わたしが、裏から、玄関へ行っても、20数羽が、鳴き声も、みせない。

どうして? と思い、鳥かご三つをみると、モクの居る、鳥かごが、モクの、白い綿帽子のような毛で、いっぱいだった。
おかしい? と思い、鳥かごを開けても、いつもどおり、モクが飛んでこない。


モクが、ピイピイでは、なく、ビーィ、ビーィといった、いままで聞いたことのない鳴き声で、羽ばたく。
灰色の2メートルはある、蛇が、鳥籠の、裏に居た。
隣のイエが、修理中で、地中から出てきたようだった。

きょうは、甥が誕生する日になるかもしれないから、どんなことがあっても、殺生をしないようにと、朝、母が、言ったので、風呂の湯のかき混ぜ棒で、蛇の頭を、コツンと軽く、叩いた。

玄関から、出そうと思ったのに、灰色の蛇は、風呂場のほうへゆき、洗濯機の下から、モーター側へ入った。
出てこないので、洗濯機を、裏庭へ、ほうった。

モクたちは、蛇がいるかいないか、その状態がわかるのか、わたしが、裏のドアを閉め、玄関へもどると、20数羽が、鳴きだした。

モクが出てきて、わたしの手を噛む。
飛んでは、わたしの顔へ突撃してきて、耳も、噛む。
この状態が、三日つづいた。モクの、リーダーとしての、怒りは、4日目で、やわらかくなり、5日目で、おさまってきた。

ふつう、動物学会、鳥の研究では、鳥の記憶力は、それほどない、と言われるが、これまで、飼った鳥で、一番おとなしい、モクの抗議は強かった。


10)
わたしがABO遺伝子論文を印刷し、大阪府、吹田市、国立民族博物館の祖父江孝男、櫻井哲夫さんから、デタラメばかりの批難の手紙をもらったとき、「この世の中で、これほど、悲しく、残酷な人たちがいるのか」と思った。

血液型と気質の歴史の断片など、わたしの、啓光学園の、父親が、京大医学部や、京都府立医科大の級友たちのイエでは、常識のことだった。

祖父江孝男、櫻井哲夫さんへ、反論というか、正論は、即日かいた。
この、わたしの行為を、京都府教育委員長だった山田忠男先生は、「ぼくの許可もなしに」と、叱責した。

そういった中、100歳近い、日本の民族学音楽研究の、創始者である田辺尚雄先生や、同志社大学工学部の山田忠男先生が、論文を送ることを、反対した、アジア音楽の物理的実践研究をされた黒沢隆朝先生、日本音楽の理論と分析の第一人者吉川英史先生はじめ、長老たちへ、礼状を書く日々であっても、わたしの苦しさは、かわらなかった。


いつも、AM1時か2時に眠り、5時か6時に起床するのが、日課だった。
が、祖父江孝男、櫻井哲夫さん、民博での音楽の責任者であり、1979年、わたしが、館長の三原秘書と、民族学博物館のエレベーターでいっしょだった藤井知昭さん。
なにより、民博の責任者、梅棹忠夫さんへ、この人たちに、人間としての、悲しさ、まして真実を通じさせるのは、無理な出来事かと、おもった日々の疲れで、朝9時50分に起きる日があった。

いつも、わたしの気配がすると、鳴き声をさせる、モクの声が聞こえない。
わたしが玄関へゆき、モクを見ると、モクは、わたしと眼を合わせたとき、チッと鳴き、止まり木から、落下した。

いそいで、モクを手のひらにのせると、冷たく、体が、固まっていた。

モクは、わたしがいつも、起きる、朝6時まえから、4時間以上、まっていたのかと思いながら、庭に、墓をつくっていいかと母にいい、モクがそのままの姿でと、白の紙をかさね、やわらかな棺とした。そして、わたしは、モクは熱帯の鳥だから、南の空が見える方へ、スコップで、墓をつくった。

つぎのリーダーは、妹が、名前をつけた、二代目のチャチャだった。
純白のチャチャは、子供のころ、気難しかったので、リーダーがつとまるのかと思っていた。
一週間目、チャチャは、わたしが、起き、玄関へ視線を向けたとき、眼を瞑ったまま、モクと同じく、落下した。
チャチャは、モクより、硬直していた。

小鳥は、食事量がすくなく、3、4時間おきに食べないといけない。
より、おとなしくなった、モクに、わたしは、アワに、ゆで卵の黄身をまぶしたもの、皮つきのヒエ。
中型インコ用のヒマワリの種を細かくしたもの。
青菜類は、モクが好きな、母が庭で作った、チシャに、やわらかめの白菜の緑の部分など、餌を、3種類ぐらい作り、食べやすくしていた。
が、死んだモクの体は、軽く、チャチャは、羽根だけのような、体になっていた。


モクのとなりに、チャチャの墓をつくり、わたしは、これだと、すべてが死んでしまうと、母へ、ペットショップへ、すべて、あげて来て欲しいと言った。

このあと、わたしが、すい炎で、国立、京都病院へはこばれた。




                                                   9月11日 母の誕生日に



▲ 南禅寺 2007年9月11日
▼ 1980年とうじ、日本における、世界、民族音楽研究の第一人者から、第四番目までの、先生方からの、礼状。


■日本での、世界民族、日本音楽の特徴、その良さを、理解され、ご出身の、帝大(東京大学、物理)、文部省などのへ、正しさでもって、無言の姿勢で、抗議をされた。アカデミズムの枠をこえ、東洋民族音楽への思考を、普及させたのが「田辺尚雄」先生である。
田辺先生は、入院先の、「救世軍ブース記念病院」から、葉書をくださった。97歳のころである。

▼田辺尚雄先生は、民族音楽を物理での解析をされた「黒沢隆朝」先生、日本音楽を哲学思考でもって抽出された「吉川英史」先生、お二人の恩師にあたる。
田辺尚雄先生の、より自由であることに、信念を置かれた、考え方を、尊敬、理解された、黒沢隆朝先生、吉川英史先生の、お二方とも、帝大(東京大学)、上野音楽学校(東京芸術大学)、文部省の、まちがった権威や権力などに、徹底して正しさを通す姿勢をもたれていた。


■台湾を中心に、東南アジアはじめ、音楽の起源の考察。音を分割し、数理でもって、民族音楽を、
民族自身の生活を診ながら、実践をつかい、なんども、研究された、第一人者の、黒沢隆朝先生、85歳のころ。
黒沢先生は、自己紹介をされ、台湾のヤミ族について、ヤミ族は、酒もタバコも知らなかった人たちとある。


■恩師の田辺尚雄先生が、専門の、音の物理量分析であり、吉川先生は、ご自身が、不得手な範囲な、
メトーデ(メソッド、手法)だから、読解ができるか、どうか。と、謙遜された、邦楽思想家、吉川英史先生の、
若わかしい字筆、71歳のころ。


■中国(唐時代)音楽と、日本もふくめ、東洋音楽の比較研究で知られる、岸辺成雄先生。67歳のころ。
文献学をとおしながら、実践を重要とされた先生であった。

1982年、わたしが、訪問させていただいた日の朝、突然、ギックリ腰で、病院へはこばれ、もどられ、
フスマをへだて、痛い、痛い、アー、ウー、痛いと、うなされて、おられていた。
当日、和装で姿勢を、正座にされた、音楽家の奥様が、わたしと、話をする係りとなった。
後日、電話で、令嬢から、岸辺先生の、ギックリ腰を、わらい声で、説明をうけた。

が、ギックリ腰の傷みが分からなかった、わたしは、なぜこんなにも笑う事だろうかと、思った。
わたしがギックリ腰にかかったのは、1984年、急に、駅前でだった。立って歩けなく、倒れた状態だった。
いっしょの、妻や妹が笑いにわらった。わたしは、歩けるまで、二ヶ月以上かかった。

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-09-11