京都昨今
60、ABO遺伝子、ウイルス発生論        NHK\

1)
約束や礼儀だが、人間としての、わたしには、まったく、無関係で、初対面の、立命館大学(とうじ、都立大学助手)の佐藤達哉さんは、都立大学(首都大学)のとき、詫摩武俊さんに、心理学を、習ったという。

わたしが、「詫摩武俊さんの名前は、高校生のころ知り、わたしに、必要でない本ばかり書いている人と認識しましたが、高校生のとき、ご存知で?」と聞くと、「いいえ、知りませんでした」と佐藤達哉さんはいう。
わたしが、進学先に、自分が専攻する学問の先生がいなくて、学問を?というと、「心理学なんかねっ、この程度でいいんですよっ」といい、「目的は、心理学ではないです。国会議員になるつもりで研究をしているんですよ」と横柄にいう。

世田谷通りの、カフェ・レストランで、初対面のわたしは、わたしが、「ABO遺伝子と民族音楽の論文」と、これまで、学会とやらで、発表した要約をわたした。
1983年では、日本、初の、ギリシャ語、特殊文字入り、ワープロ論文だった。

わたしが、1977年、25歳のとき、輪郭を完了させた「ABO遺伝子」に関する、印刷物も渡した。
いままで、どんな人でも、わたしの論文は、とくに、この佐藤達哉さんの、手のラインをした人物は、非常に興奮して、体を震わせ、驚く。
あとで、日本大学の大村政男さんに聞くと、「佐藤はじめ、皆、コピーを持っています」とのことだった。


こんな佐藤達哉さんのような人物が教員にと、ぼんやり思っていたら、「マツダさん、この資料、ぼくに、もらえませんか?」と言う。
わたしは、『資料?』、「佐藤さんの、名前を、サインをしていますから、あなたのです」と言うと、「そうじゃ、ないですよ、わたしに、これらの、論文ですよ」と、居丈高に断言するので、わたしは「?」となり、目を伏せた。

わたしは、こう言った人物には、沈黙をとる。テーブルから外をみていた。
「いえ、これは、わたしが、心理学の学会であった人の研究物ですけど、この人、もう、これ以上、心理学をしないといい、わたしに使って、欲しいというので」と言う。

わたしのは進行形の論文で、本論は、「界面論」ですが、あなた、数学ができますか、というと、「ええ、心理学で、大学院へ行っていますから、数学は扱えます」と言う。

この佐藤達哉という、人物には、ある程度の約束や礼儀を、教え伝えるのが無理と、わたしは判断し、わたしは、また「?」の脳裏となり、視点を、佐藤さんの肩あたりに、おいた。

2)
わたしが、山田忠男先生に、印刷所を変えなさいと言われ、「ABO遺伝子と民族音楽」の論文を印刷したのは、妻の会社の、上司の紹介の場所だった。

住所が「伏見区下鳥羽上三栖町45−1」というまったく知らない土地だが、妻が、大学生二年生のときから、妻の叔父宅をはじめ、ずっと、下宿先にしていたのが、京都市伏見区だったので、それほど、気にしなかった。

ところが、京阪沿線、中書島から、バスが、一時間に、一、二本といったところで、1980年7月の、梅雨明けは、とにかく暑く、心身に負担の、多かった、時期だった。

また、「新日本石油」の、レイプ魔、前田博司さんのため、金をつかい、金がなくなった時期で、印刷の金額が高くかんじた。また、印刷所は、契約という事項をほとんど、無視した。
それらが、記憶から、鮮明にでてくる。

妻の勤務先を知ると、「マツダ君、あんな金貸し、すぐ辞めさせなさい」と言いながら、後に、学校設立での、大きな予算が必要となると、湯川秀樹博士の弟子である、わたしを紹介人として、利用し、とうじの、京都の財界を代表する、「榊田喜四夫」さんから、世話になるときは、「京信も、文化に貢献していますね」が、山田忠男先生だった。

こんな山田忠男先生が、わたしが1977年に仕上げたものに対し、また、山田忠男先生が、「マツダ君、君の論文の作成は、去年(1979年)ですし、年数を、去年にしても、よろしいですよ。ふつう論文は、提出したときの日付で、あとは書き直すのが常識ですから」と、まるで、神様のような調子の文言をいった。

わたしは、1980年5月に、東京、八王子の湯浅光朝先生宅へと言われた。
そして、行く決意をしたのが、6月の上旬だったので、決意をし、妻に、これといって、プレゼントを上げたことがないので、6月11日という、まだ、婚約中の、妻の誕生日を、活版で、刻印することにした。

3)
「マツダさん、この資料と論文、ぼくに、もらえませんか?」と、佐藤達哉さんは、また、言う。
わたしが、沈黙のままにしていると、「これ、ぼくが、学会発表したものです」と佐藤さんが渡す。

指示代名詞で、先行論文がわかるが、この訓練というか、佐藤達哉さんは、この常識を守っていない。
規則をまもっていないので、「この論文で、何人ぐらい、会場に来ました?」ときくと、3、4人ですと言う。
3、4人で学会発表とおもったわたしが、「?」と、怪訝にしていると、「ぼくたちのは、ポスター発表です」という。

「ポスター発表」と言うのは、とおりすがりの人が、聞く形のもので、高校生とかの文化祭の発表と思えばいい。

わたしの発表は、1982年も「学会初」という人数で、1983年、筑波大学でも、学会初という、立ち見まで、出るものだった。

「松山、ニッシンの会長になるんですよ」と、また、命令が好きな、役人風の言葉でいう。
わたしが、マツヤマって?と尋ねると、「同志社の松山義則ですよ」という。

『松山義則さんが、日清の会長』、とおもった、わたしは、「松山さんは、日清(製粉)の会長は、なれません、
あの会社は、正田(しょうだ)一族のもので、いま正田修さんでしょう」と言うと、「ええ!?それと違いますよ」
「日本心理学会ですよ」という。

「わたしと、松山さん? なんか、関係があるのですか? 学生運動の時代で、自分の著作の引用論文を読まないし、心理学などできない、金だけの、松山さんなどは、見つけたら、学内バリケードで、リンチと、決まっていましたから。見たこともないですよ」と言った。

「『日心』」の会長になると、人事や金を自由にできるんですよ」と言い出すので、わたしは、興味がないと言った。

「マツダさん、これですよ」と、わたしが渡した、これまでの『ABO遺伝子』と、『科学としての手の現象』をさして言うので、わたしは、この佐藤達哉という、面識も、なにもない人物は、わたしの書き上げたものが、欲しいといっていることを、ようやく理解した。

4)
わたしが、同志社の心理で、不愉快な思いで、少し知っているのは、秋田清さんぐらいだった。
立命館の近所、竜安寺あたりに住んでいた、秋田清さんは、学生に慕われていなかった。それで、わたしは、昔からの、知能テスト類の実験を、1975年、文学部の寧静館の地下で、協力をした。

秋田さんが、才覚のある学者だとは、学生のほとんどが思っていなかった。
酔っ払いの「秋田・オデン・清」さんという風に、言っていた。「ぼく、IQ160ですよ、天才のはず、ありませんやん。IQテストなんか信じられません」が口癖の人だった。

わたしのIQが湯川秀樹式、計測不可の「エス・アイ」(SI、スーパーインテリジェンス、超天才児)と知っていたのか、IQテスト類を、手伝わさせられた。

湯川秀樹式IQテストは、立命の佐藤達哉さんや、同志社のあと「おでん屋」をし、労働が嫌で、立命館の教員へ戻ったと聞いている、秋田清さんレベルの知能は、資料にも、ならない。

秋田さんに、IQ160は、1000人にひとり出現ですか、でも、あんなバカげたもの、小学一年生までの、参考のものですね、と言った。
秋田清さんは成人になってから、IQテストをしたようで、実験室の手伝いをしなくても「優」のはずが、「可」になっていた。

5)
浜治世(はま・はるよ)さんは、心理の「ロールシャッハ」はじめ、紙芝居、ポルノテストを、わたしへ、した。
ロールシャッハ Rorschach test の扱いを見ていると、同志社はじめ、日本の心理学者のほとんどが、ロールシャッハを扱えないと思った。


浜治世さんは心理、紙芝居テストを5種類ぐらい、もっており、わたしが、関心なくしていると、「つぎのテストしましょうか」「じゃ、つぎのテストへ、うつりましょうか」といいながら、振り向き、立って、また、わたしと向かいあうときは、着衣のボタンをつぎつぎ、はずして行くひとだった。

ポルノ類がまじる、B4ぐらいの「心理テストカード」をさっと取ると、浜治世さんは、うすいピンクのブラジャーなどはじめ、わたしの目にはいるようにした。
ぼんやり宙をみたりしていると、つぎは、セミ・タイト・スカートの脚を、大きな動作で、組みなおした。

最後のテストですと、より過激なものになってきたので、わたしは、いいかげんな返事をしはじめ、うつむいていることにした。
「ふつうの、タイプですね」と言うので、わたしは、沈黙をしていた。

わたしは、浜治世さんのことは言えず、秋田清さん、野辺地正之さんたちを挙げ、倫理学の平石善司先生、人類学の山田忠男先生に、あの心理学という、学問をしない地下教室へ、大きめのネズミ捕りか、蝿取り紙と、ドアの釘うちをいった。
こういった、浜治世さんの性癖は、松山義則さん、あなたたちは、知っていたはずだ。なぜ、20代はじめの学生の心身を傷つかせる、行為を、放置しておいたのだ。

6)
血液型と性格だが、わたしの、すぐ、近所だった、「クレージー・キャッツ」のコメディアン、「植木等」さんが、今春、逝かれた(2007年3月、80歳)。植木等さんはAB型だそうだ。植木等さんは、甘やかされ、また、馬の耳に念仏風の忍耐をもたれたひとだ。
社会の序列に、すごく敏感で、自分に、自信を持たれた人だった。発言したこと、自分自身の言動にたいし、過ぎてから、「失敗した」とか、考えない人である。
スーダラ節に、映画『無責任シリーズ』があるが、そのままの人物と考えればいい。

クレージー・キャッツの基、というのか、先に「三木鶏郎」グループがあり、その後、「三木のり平」、「ザ・ドリフターズ」と、良く似た演出がつづいた。


この三木鶏郎さんが、「皆様のNHK」に出演できた、保証人だが、音楽関係者では作家「幸田露伴」の甥、東大時代の友人のバイオリニスト「安藤晶」さんによる。

露伴の妹にバイオリンの幸田延子がいる。
安藤晶さんは、延子の妹、フルート、バイオリンの、ベルリン国立大学出身の安藤(旧姓幸田)幸子の息子さんに、なる。
安藤晶さんは、東京銀行勤務で京都支店へ。

日本で最初に、フルートの「海賊版」教則本を出版した、山田忠男先生の、筆名、安藤寅(アン・ドゥ・トロワ)は、ここに奇縁するようだ。


わたしは、自作、自説をはじめ、わたしの研究を、徹底して、揶揄、邪魔をした、「皆様のNHK」には、死後も、放送権を与えない。


京都では、左京区は高木町に住んだ、安藤晶さんの妻が、山田先生の慧子奥様の、ピアノでの同窓だった。
また、SONY創業の「三木守人」さんは同級で、「盛田昭夫」さんは、山田忠男先生の後輩にあたる。
NHKが、企業と連結して、どれだけ動いたか、その一端を、知ることができる。

山田忠男先生には、わたしのイエと、「SANYO」のことは、言わなかった。

山田忠男先生からの、わたしが言っていた、西荻窪のフルート演奏家で、東京工業大学の三輪誠さんと、同志社工学部の三輪茂雄さんと、まちがえたというハガキがでてきた。
もちろんというか、ハガキには、三輪茂雄さんの芳名はない。

笑うというか、悲しいというか、昔、わたしと40歳ちがいなのに、「もう、ぼくも、古希が近いです」と言われ
たとき、わたしは24歳だった。
けれど、山田先生は、3月生まれで、わたしは9月生まれだからかと、いろいろ考えさせてくれる先生だった。

7)
作家、タレントであり、国会議員から、東京都知事をされた、青島幸男さんも、去年暮れ(2006年12月、74歳)なくなられた。
AB型の青島幸男さんは、1982年6月、わたしが、渋谷のスクランブル交叉点の、一番、東端を、走っているとき、交叉点の中央部の、政治の演説・カーから、強い視線をあびせ、わたしを止めさせた人で、わたしには、この時の光景が、まだ、そのまま在る。

青島幸男さんは、干渉をしない母親と父親に、育たれ、家族同士であっても、干渉を嫌い、干渉をせず、市民、都民の意見を、すべて聞こうとされた人だ。
東京のような、巨大な都市の住民の意見を、すべて了解することは不可能に近いが、自由な発想という、才能があるため、それを、され、実現に向けようと、苦しまれた性格を、もたれた方と思う。

また、いま、東京都知事の石原慎太郎さんもAB型だそうだ。この人は、極めて、甘やかしすぎの、ご両親にそだち、それを、そのまま受けた。偉くなってから、マスコミから、意見を求められ、失敗のときは、「あっ、失敗しちゃった」と後で思い、家族にも「オレ、だめなんだなぁ、正直で」とか言い、翌朝、マスコミの前に立つと、もう忘れてしまっている人だ。

弟の俳優、石原裕次郎さんは、ご両親自体の存在を、意識しながらも心身を離しながら、優しい両親に反発し、嫌なものは嫌であると、通された人のはずだ。
子供のころ、兄の石原慎太郎さんが、くじけているとき、「すんでしまったこと、くよくよ、考えても、仕方ないよ」と、励まされていたはずだ、それでも、石原慎太郎さんは、裕次郎さんの前では、気分が沈んだままの性格をされていたと思う。

これらを、血液型と性格の関係を言っている人や、「心理学」とやらを、勉強している人たちは、説明、論述できるのだろうか。

「松蔭寮」の寮母さんに、娘の命を返せと言われていた、福岡出身の同志社倫理学の川島秀一さんは、同志社の心理とやらの、セクハラ浜治世さんへ、恋とかを、していたらしい。
「若いとき、堀内(別名「浜」)の、あそこにね、はは」と言い、1980年夏、わたしの論文が出来上がったと知ると、三宅八幡は遠いので、郵送をするというのに、
「まつだ君、重大な話だ、イエまで、来てくれないか、君、論文を印刷したって」と電話してきた。

8)
新日本石油、西尾進路社長のもと、変態・ボボ・前田博司さんの先生、倫理観なしの「川島秀一」さんは、1977年、母子家庭の女学生をやって、元女学生を、アトピー性皮膚炎にかからせ、ドイツから、もどってきて、死なせた。
この川島秀一さんは、「ぼくのイエまで、市川亀久弥さん、哲学を教えて欲しいって、来たんだよ、天才は、嫌な役割を背負うね。論文は、ぼくに渡せば、市川さん、山田さんへ、持ってゆくよ」と言った。

文学部の寧静館だが、学校をでるとちゅうに、工学部のハリス館がある。わたしは、市川亀久弥先生のところへ行っていると思った、論文は、川島秀一さんが、持って、隠していた。


わたしの妻が、2007年7月の、安倍晋三首相が写っているニュースを持ってきて、何か言っている。
文章を書いている途中で、何の意味かわからなく、怪訝な表情をすると、「赤城徳彦、農林大臣のバンソコウ」というので、大臣が?と思い、「この人、海外へ行った? 胃が、内臓が、やられている」と言うと、肯定する。

「飛び火」系統の、原因が、ウイルス類となる、伝染病である病気だ。

川島秀一さんの手法、古い女房は生き捨て、新しい奥さんは、ドイツで、「口内」をやられた。
口のばあいは、ふつう「ウイルス性口内炎」と言ったが、妻は、「飛び火」がわからないという。

赤城徳彦、元農林大臣のは、「毛包炎(もうほうえん)」と言うことで、「飛び火」と同じようなものだが、傷みの程度がわからない。
皮膚用のステロイド剤に「きれいな空気の、松の葉、二本ぐらい」を乳鉢ですり、塗り、きれいな海岸の空気にあたると、回復は、早い、これから、どんどん増えてゆく、病気のたぐいだと、返事をする。

現在、渡り鳥はじめ、動物など、移動する動物により、また、自然の植物栽培がすべてかというと、植物栽培でも、危険な品種が多い。

9)
川島秀一さんの、母子家庭の妻は、母親の元へ返してあげれば、治る病気である。

川島秀一さんから、電話があったので、印刷した「ABO遺伝子論文」をもって行った。
ゆくと、「先生、カント協会の、会長が、京都につきました、どうしましょう、ドイツ語」と、長澤邦彦(同大、哲学)さんから電話が入ってきた。

女学生は、大阪大学の河合清三、自称所長から「いてこまし」を習ったのか、吉田謙二さんも、川島秀一さん宅では、「はい、先生、はい、はい」と直立不動で、答えている、いま、文学部長の工藤和男さんもだ。

わたしは、1979年、1980年、評議委員の山田忠男先生、湯浅八郎元総長、認知症(分裂病)のある、「田畑忍」元学長への、工藤和男さんを残して欲しいとの、依頼をした。

倫理学とやらの、川島秀一さんには、1977年、平石善司先生が、下村寅太郎さんを哲学のゲストで、呼んだんだから、新町校舎まで、学生を50人ほど連れてきて欲しいとの、電話があった。
川島秀一さんには、わたしは、研究に忙しいし、長澤邦彦さん、院生の工藤和男さんがいるじゃないですかと言った。
「長澤君や、工藤君が、学生をあつめられるか」と大声でいう。

わたしは、条件として、「工藤和男さんを、1978年博士課程で落とさないように」と、注意を入れた。
また、ゲストだが、下村さんは、学生がわからないから、「新村猛」先生にして欲しいと言った。が、停年を向かえた、平石善司先生(のち梅花学園長)の就職のことかと思って、情けなくなり、平石先生に「学問を優先させなさい」と、わたしが言い、口論となった。


1984年、講師になったら、「マツダ君、いま、行ったグループに、大分の、ほら、常識で考えて、怪しい、賀川光夫の息子だよ、はははっ、ああいうので学説と言うのだから」が、工藤和男さんだった。

工藤和男さんには、わたしの血縁、大半、同志社大学へ、最大寄付、最大学債をする家系ですけどねと言ったが、こういったことが、工藤和男さんや、川島秀一さんは、わからない。

同志社大学の内部を言っておくと、京都府庁、京都市役所はじめ、他府県も同じだが、1割下駄、2割下駄、5割下駄、7割下駄というものがある。

昭和時代になり、わたしのイエと親戚となったのは、5割下駄で、不合格だった。

信じられないアホというより、7割下駄が多かった時代といったほうが、わかりやすい。
7割以上が合格点のばあい、7割下駄のばあい、名前だけ書けば、合格する。
これは、小学生でも、わかる。

10)
わたしの妻が、同志社女子大の英文一次試験、合格したの、東大を合格した子(女学生)だけなの、と言うので、「東大に合格する子が、同志社女子へ来るわけがない。入学金を取るためだ。成績の良い子が入学してきたら、同志社女子、同志社大学のバカだらけの英文の教員は、質問に答えることができないからだ」と言った。

同志社では、妻が、英文の単位を、多く、登録していた。
総長の上野直蔵先生たちはじめ、「南雲堂」からの、英語の本をずいぶん、買わされていた。

ちょうど、わたしが、上野直蔵総長のを、手にとり、読んでいたとき、今出川キャンパス、明徳館まえで、総長たちと、すれちがった。
「おい、チョックラ(直蔵からの、音読みの渾名)、もっと、日本語を勉強してから、本、書け。英語ができないのに、生徒に、変なもの、買わせるな」と、わたしが言うと、上野直蔵総長は、「あ、はははっ」と、極めて、露天商の親分風、常識人の、明るい、笑顔を、見せてくださる、余裕のあった方だった。

総長の、愛称を、教えてくれた、府教育委員長の、山田忠男先生も、笑われた。
わたしの場合、大学の単位は、一年間で、充分、終了できた。

わたしは平石善司先生の言いつけどおり、哲学の博士号を取得するつもりをしていた。
が、なぜ、大学院という形が、必要なのか、わからない。
アホだから、大学5年、7年生、20年生とかの名称で充分ではないか。

銭もうけの大学院なら、「ダイヤ・大学院」「真珠・大学院」「金・大学院」「銀・大学院」「銅・大学院」とかに
すれば、いくらでも、稼げる可能性がある。

11)
わたしが、ABO論文をわたすと、「これこそ、現象学だ、ぼくの教え子は、ほうって置いても、つぎつぎ、延びてゆく」と言うので、他に誰がと聞くと、「中野君だよ、音楽でね」と言うので、「あれは、わたしが作詞作曲した」と返事すると、「ええっ、あれもかー」となった。

重要なのは、「川島先生、もう、かんにんですわ、嫌や、言うてますのに」と、いま、「総長の大谷實」さんからのだ。

なにしろ、わたしが、嫌々、倫理観欠如、川島秀一宅へ行っているあいだは、電話だらけだ。
「なぜ、松山義則さんを、学長から、落としたいのですか、時間のムダです。面倒な」と言うと、「あははっ、マツダ君、松山は、ケツの穴が、小さい」と福岡県出身の川島秀一さんが、宙を指差し、言うので、
「見たのですか?」ときいた。

「あはははっ、マツダ君。松山と、ぼくは、同じ寮だ。俳優の二谷もだ」と言う。
なんだか、1940年、50年代の京都は、京大の今西錦司さんを中心に、チンチン電車「男同士で、つなげることができる、信頼の輪、*と♂」だらけのように感じた。

この、川島秀一さんのクセは、いま、総長の、大谷實さん。1975年、なんだかと、女子学生をコンパだと、誘っていた、吉田謙二さんたちが、周知のはずである。

わたしが、この、川島さんと言う人物は、本当に、低俗だと思っていると、
「白川由美はガラが悪いぞ、皆がいるのに、座布団を蹴っ飛ばしてゆくんだ」という。
それで、「役者さん、女優さんです」とわたしは言った。
この川島秀一さんは、わたしが言う、「役者さん」の意味がわからないようだった。
俳優の彼等は、運動選手どうよう、反復、訓練を、非常にする。

わたしには、日本の狭い世界のせいか、映画界が、京都、大阪、姫路、桑名の地でわたしへの、映画界入りへの、説得があった。
映画界、音楽界、どの世界もだが、商売の関係で、客を動員できるイエ、身代を潰す覚悟のイエでないとダメなようだった。1970年代という時代、俳優になった、同志社大中退の、知己が言うのに、縁故がなかったので、「セリフ」一言をもらうのに、二年単位かかったという。

わたしの血縁で、父方の、下の家系は、非常に多い。
これから、同志社大学へは、行かないように、また、わたしのイエも、寄付などしたが、血縁のものは、寄付、学債など、同志社には、いっさい、必要がない。
会津までゆかれた総長の大谷實さんとやら、また、文学部長の工藤和男さんとやら、自覚されるように。

12)

人口論になる。
上の「B遺伝子」の頻度率図は、わたしの著書、ラントマン(『改定第二版、血液型と性格』、脚注からの、P67)ので、黒い部分が、B遺伝子の多い地域となる。

この図から、B遺伝子が多いとか、B遺伝子が広がって行くと考えてはいけない。

わたしは、『改定第二版、血液型と性格の社会史』の、脚注、P55に、「移民」の多い、ハワイを例に、サンプル、白人種、日本人、中国人の、サンプル1万〜10万人単位から、遺伝子の変貌というか、「遺伝子の安定さ」など、保証されるものではない。そして、「人種の起源は遺伝子ではたどれない」と、考察の結果を論述している。


B遺伝子高頻度の地域は、山岳部をのぞくと、人口が、非常に多い。

また、さまざまな、問題をつきつけてくる、アラビアなど、石油生産地の人口は、数千万単位であることに、注意する、必要がある。


2007年夏、アメリカ東部の新聞は、大統領が、アメリカの農地は広く、どの国から、移民させようかと相談しながら、「北京は駐車場か、クルマだらけ」、「インドが、ウルトラ・チープ・カーをつくった。この調子だと、インドは、クルマの上にクルマみたい」と告げる。

「中国の奥地から、賃金が、10倍以上ちがうからと、上海へ来た、ホームレスが、海へ、落っこちそうだ」、「アラビアから、インドへ、直接、パイプラインを作られたら、エクソン Exxon Mobil 、シェル Royal Dutch SHELL、英・米・露合体の D1-BP Fuel に、モービル MOBIL、トタル エルフ TOTAL ELF も、日本石油も、大変だ」「ガソリンの利益より、この調子だと、B遺伝子、高頻度地域圏内、灼熱の地球だ」は、まだ、ない。

中国の人口政策だが、オリンピックの、祭りの後は、「絹の道」どうよう、「美夢実現的道」として、鉄道ではなく、ほんの100年、200年まえは、皆、歩いていたのだから、毎年、一億人単位で、西洋へ、歩いて、行ってもらったら、どうだろうか。










▲ 上、1979年9月に完成させた、ABO遺伝子論文の表紙。
▼ 下、1980年9月9日付け、国立民族学博物館、「祖父江孝男」さんからの、デタラメだらけの、手紙。
同じく、「櫻井哲夫」(阪南大学)さんのもの。











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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-09-09