京都昨今
59、ABO遺伝子、発生(界面)論           NHK[【森本ほか】      [湯浅光朝]

1)
比叡山からの、東山三十六峰の、ひとつの、区切りの、地点に、「南禅寺」がある。

南禅寺も、欧米資本の投入で、戊辰戦争にみる、戦乱状態となり、明治維新の、「廃仏毀釈」により、勢力がより、衰えたのだろう。
この塔頭に、戦後まで、「稲畑サロン」は、広大な庭に、あった。いま、「豆之子大明神」だけが残る。
ここは、学問はじめ、芸術家のつどいの場だった。

日本へ来た、フランス語教師のレオン・デュリー Leon Duly  夫妻ともに、稲畑勝太郎は、1877年、15歳のとき、京都府から、フランスへ留学し、日本へ、フランスの染色技術をもたらした。実業家として成功し、その結果、「サロン(和楽園)」ができた。

また、稲畑勝太郎は、日本へ「映画」をも、もたらした。
京都へ西洋音楽への普及は、上野(東京芸大、音学)出身の、稲畑の妻、登美子夫人による。
旧姓、森トミは、「音楽取調所」二期生。東京師範学校長、伊沢修二のもと、「音楽取調掛」へゆき、ベートーベン交響曲、第二番の演奏へ、日本最初に、参加した人物である。


実業家、「稲畑産業」の稲畑勝太郎が、逝かれたあと、「稲畑登美子」女史へ、京大オケ、同志社大学工学部の山田忠男先生が、1950年代が終わろうとするころ、初代会長は、歌人「吉井勇」。二代目は、京大総長、平澤興先生をとする、「ぶん・だん・こん(京都文化団体懇話会)」を創設し、1960年代になり、この賞を、稲畑登美子夫人に、受け取ってもらおう、となった。

「文団懇」の発案は、京都の文化は、日常での、その仕事、昔と今が、合った、活動こそ、京都の文化「形態」であり、生まれると、京都府教育委員長で、「文団懇」三代目会長、山田忠男先生が、考えられた。

山田忠男先生は、「三条大橋に舞妓の姿で象徴される文化は、本当の京都のくらしからは程遠い」(「キョート・ミュージシャン」1968年1月号)とかいた。京都文化は、農林水産はじめ、ふだんの「暮らし」を由来とする、「働態(ろうたい)」が、真実であると、表現された。

フランス人たちに、文化と技術を習った、実業家、稲畑勝太郎の存在は大きく、1927年、「関西日仏学館」創設への、財源の収集をされた。
また、「日仏」で、フランス文化を教えた親子に、アルマン・オーシュコルヌ領事 Arman Hauchecorne ついで子息、ジャンーピエール・オーシュコルヌ  Jean-Pierre Hauchecorne がいる。日本人より、日本人の素朴で純粋なこころをもたれた オーシュコルヌ J-P Hauchecorneは、伊勢湾台風の被災地が心配で、毎週、奉仕で、名古屋へ通った人物だった。

このような、奉仕活動の背景もだが、日本は、つねに、稲畑勝太郎のような、実業家が、必要なようだ。


2)

「和楽園」の庭造りは、小川治兵衛により、南禅寺周辺にいくつかの名庭園があるが、小川治兵衛によるものが多い。

わたしの父が、建築へ、通った、松下幸之助の「真々庵」も、小川治兵衛によるものだそうだ。

この、夏の日、南禅寺近くで、庭師が、長めの梯子をかけ、剪定しており、その技を、遠くから、見ていると、庭から、出てこられたので、お辞儀をすると、丁寧な、礼を、返してくださった。
それで、「あのー、これまで、落ちたこと、ありませんか?」と、わたしが、質問すると、「ありませんが」と言って、笑われた。

庭師と、樹木を見る、間があり、小川治兵衛による庭園の、持ち主をきくと、父方のひいひい爺さんぐらいから、関係のあった、会社が所有のものと言う。

1960年代は、大阪府警、京都府警勤務の級友たちが、「うちとこ、お父ちゃん、あかんねん、正義感、強いから。警察クビになる」と言って、運動部をやめて行った時代でもあった。

わたしのイエのばあい、GHQ連合軍は、「警察」への就職でさえ、禁止させた。祖父の、親友が警察に居ても、父の、一番下の弟がそうだった。
わたしは、父の弟が、入社試験の最終で、落ちた、社名を、言うと、「(倒産で)いま、(関係が)ありませんね」と言われた。
二つとも、同族の会社だ。

父の弟が、別の大手へ、再就職できたのは、両祖父が、1960年に、逝ってからだった。
社会は、このようにして、動いてゆくのかもしれない。


3)
人間は、「衣食住」の文化をもつ。衣服の機械製造に、桑名、福井がある。
桑名の大空襲は、日本人から、衣類を、奪うためだった。GHQ連合軍による、太平洋戦争は、遊びのつづきとも言える。

わたしの記憶では、「世界技能オリンピック」となっている。
が、いまは、「国際技能競技大会」 World Skills Competition というらしい。
1960年代の、日本の、金メダル受賞者に、父の教え子がいた。
「ああっ、岡山から、来た、子(青年)や、連れて歩いた。参加資格は、20歳までや」と言う。
父の工事現場は、大きな建造物が多く、現場から、現場をつれて歩き、実践を教えたという。

与えられた、課題に、「旋盤」でもって、機械技術の部品を作ってゆく。
わたしの父が、「0、000」の世界を、眼で、触感でわかるのは、このためである。
1960年代は、時代の節目で、父の会社も、精密機械の作成は、必要でなくなった。
1970年代になり、金メダル受賞者は、韓国が独占し、時代の変化をかんじた。

2007年、わたしが、わたしの記憶から出したのだが、高齢な父に、記録はあるかと聞くと、即座、答えながら、遠い昔が、記憶にある、わたしへ、なぜ、そんなことまで記憶にあるのかと、瞬間、悲しみを感じたのか、「ああっ」と、ため息をまじえ、母が、連絡事項の書類や社報を、ゴミ箱へ、ほうって、行ったと言う。

父が、高砂市の、「大阪陸軍造兵廠」勤務をしながら、祖父とともに、伯母のイエの、鉄鋼所へ、勤務した。
とうじの学歴だが、工業専門学校などは、大手の工場での、実践が授業で、そこでの実力が、学歴となった。

大砲の砲身をつくる、100尺(30メートル)旋盤も扱ったという。
高砂市の、「大阪陸軍造兵廠」では、製造段階が荒いもの、大阪市の、「大阪陸軍造兵廠」では、精密なもの、そのため、先に、GHQ連合軍は、すぐ大砲となる、大阪陸軍造兵廠へ、空襲をかけたと父は言う。

アメリカ主導の、GHQ連合軍は、日本に、日本人スパイ、大学の医師もふくめ、日本工作員を、つぎつぎ、金と地位で、つくり、計画的に、何匹でもいそうな、黄色人 YELLOW  MONKEY  を殺してきた。

日本人の工作員の、彼等には、戦争を、経験したふりをして、いまだ、のうのうと、長生きしている輩がいる。

4)

わたしの、「ABO遺伝子による民族音楽の分析」論文の、基幹は、基礎医学、生物の発生論である。
科学哲学では、「界面論」であるとも言える。

エスニック・ミュージックをタイトルにもってきたことで、山田忠男先生と、半年以上、議論、口論となった。
欧米人は、アジア・アフリカ、南米の音楽を、エスニック 未開発、被差別民族音楽と、表現する。日本では、明治時代初期も、そのように、表現された。

そのため、20世紀にはいっても、欧米の民族音楽学者に、ひとり、「エスニック」と、論文中に、表現した学者がいたので、わたしは、モーツァルト Mozart、ベートベン Beethoven、も民族音楽だと言った。

欧米音楽界を知る、山田忠男先生は、「西洋人が、嫌がります」と言ったが、わたしは、わたしの論文ですと言い切った。
1980年ごろ、エスニック Ethnic の発音に意味、被差別など、意味することは、京都大学教授レベルは、誰も知らなかった。

論文には、良識ある、欧米人への、衝撃が、大事で、エスニック Ethnic タイトルをつければ、筆者である、わたしが、何を、表現したいのか、分かるとおもったからである。

いまだ、病理では、未解決の、エイズ、牛海綿病はじめ、鳥、鹿、コアラ、カンガルー、ワラビーなどがもつ、ウイルスが問題になっている。

1970年代のわたしは、これから、同定されてゆく、各人種が持つ、風土病のウイルス、それら、難病への、対抗、対策方法への、階段の一歩となるよう、ありふれたように、感じる、ABO遺伝子の頻度率、出現率の考察を、はじめ、ひとつの事実を出した。

5)
日本では、「哲学博士」を取得するのが非常に難しい。
哲学となると、独創性が基軸となる。が、これは、創作しにくい。
1970年代は、学問のためへの、精進のため、「大学院」があった。

私立での哲学は、同志社が、先頭をゆくらしく、1975年でもって、博士号取得者が不在となり、文部省が、大学院の認可をしなくなる。

同志社は、哲学の分野となる、倫理学博士取得のため、平石善司先生は、1973年、74年の、2年間、休暇をとり、研究に専念された。そして、アレクサンドリアの思想家、「フィロン Philon」 が対象で、母校のひとつ、広島大学(旧、広島師範)から、取得された。

1975年春、平石善司先生は、わたしに「哲学博士を、取得してくださいませんか」と言われ、「大学院、博士課程」の部屋へ、案内された。とうじ、同志社、修士、博士課程10人ほど、京大では、20人近くが、新しい風の哲学、現象学へ向かっていたと記憶する。

もう、サルトル Sartre の時代ではなく、フランス哲学では、メルロ-ポンティ Merleau-Ponty 、ドイツ哲学は、フッサール Husserl だった。
わたしは、ドイツ語での哲学表現では、フッサールより、わたしが苦手とする、ハイディガー Heidegger のほうが、哲学をしてゆく力があり、メルロ-ポンティより、サルトルのほうが、良識ある、市民を説得させる、言明力があると、回答し、説明をして、いった。

わたしと、研究生たちとの、会話を聞いていた、平石先生は、「やはり、ダメですね」「行きましょうか」と言われ、週に二日、空いている日を告げられた。

わたしの研究生との議論は、二時間で終了した。
なぜ、研究生たちは、「わたしはドイツ哲学とか、フランス哲学」というのか、わからなかった。
語学の学習など、自由ではないか。

6)
1970年安保反対運動の結果、1960年代に入学した、わたしの上級にあたる、正しさを持っていた、学生のほとんどが、中退してしまった。

1976年に、大学、学者の世界に疲れをかんじてきた。わたしの、第四論文の断片は、とうじ、世界で一流と言われる、科学者が、すぐ「ノーベル賞」と言う。

1977年春、わたしは、物理の、湯川秀樹先生の数論、計算機役をされた、創造工学の、市川亀久弥先生の研究室で、「この遺伝子論文は、物理量へ還元でき、遺伝子の、発生順序を示す、論文、先生の名前で、発表してください」と言った。

わたしの第一論文、第二論文は、まったく、わからない風だった、市川亀久弥先生も、「第三者のデーター」と「第三者のデーター」が合致してゆく、創造と、構図には、気づかれた。

市川亀久弥先生は、「まつだ君は、どの道を」と言われ、長く、静かな、沈黙の状態があった。
市川亀久弥先生は、「まつだ君、何が望みですか」と言われた。

「実業をしてから、2DKほどの小さな家での暮らしです。外の方が広いですから」と言うと、「ダメだぁ、君は、そう考えると、湯川さんと言っていたのです」と答えられた。
湯川秀樹先生の、病状が、より、悪くなられたころだった。

「いまの研究をつづけて」と、市川亀久弥先生は、講義中や学会発表のときとはちがい、非常に、疲れられた、表情をされた。

わたしは、このときの、市川亀久弥先生の表情の意味が、学歴に、同志社大学での、扱いにあるとは、思わなかった。

わたしが、知ったのは、1980年、山田忠男先生からだった。
市川亀久弥先生は、中学も卒業していないことから、学歴が足らないということで、「嘱託」扱いだった。
市川亀久弥先生を、学問の世界へ、引き上げたのは、湯川秀樹先生とのことだった。

7)
わたしたちの時代、東京芸大、美術のばあい、絵画の才能により、高校一年生の二学期はじめに、推薦がくる。
わたしのばあい、一学期の終りにきた。

東京、芸大、音楽での指揮が、同年1968年11月にきたとき、音楽は、100%叱られるが、1969年、二年生のとき、学園紛争を止める役目に疲れ、秋に、「医学より、美術にしたい、2階に、20畳のアトリエを作って欲しい」と言ったら、母は近所の人を味方にして、許可してくれた。が、父は、「いつ死ぬかわからんのに、アトリエ」「美術なぞ、困る」と、叱った。

ふつうの学校は、美術か、音楽は、一年間だが、わたしは、美術部に、籍を置いていたのか、二年生の晩秋、風呂敷いっぱいの、紙による、立体作品をもって帰った記憶がある。

啓光学園の卒業アルバムを見ると、わたしは、中学同様、いない。
また、テニス部に三年間在籍の、祖父が夏目漱石の教え子の、三年間級友だった親友もいないので、わらった。
日本における、歴史資料とは、何かと、考えさせる。


8)
日本が、19世紀から、侵略した、大陸の土地は、「穀物、限定栽培地域」で、欧米が、奴隷化したアジア、アフリカ、南米などの土地は、「農作物、年中栽培地帯」というと、栽培の知識が無いものは、この指摘に、おどろく。

GHQ連合国による、奴隷主義から、奇妙な、市民主義が、氾濫し、実力主義が、学歴主義に変わって、欧米GHQ連合国が、大不況の状態になった。

ABO遺伝子での、0遺伝子の分布状態だが、北西から、南東への、Tの線で、分断している。

9)

ABO遺伝子での、A遺伝子の分布状態だが、北東から、南西への、Uの線で、分断している。

10)

ABO遺伝子での、B遺伝子の分布状態である。B遺伝子のみ、インド北部から、中国大陸など、順番に、広がっている。
これらから、ABO遺伝子の分布、頻度が正しければ、B遺伝子の、発生が、一番、後となる。

発生順序は、資料からゆくと、O遺伝子、A遺伝子、B遺伝子となる。


血液型だが、『A』、《A》の最低2種。((B))<<B>>[[B]]は最低3種。{{O}}、〔〔O〕〕、(〔O〕)遺伝子も最低3種、というふうに、民族によって、さまざまだと考えること。遺伝子は、おおきな集合体で、活動し、意味をもってくるが、遺伝子を包む、細胞という単位であっても、環境によって、遺伝子の界面(表面)は、すぐ、破られ、変化してしまうと、想定すること。

遺伝子、血液細胞は、安定したものと考えないこと。

これら、ABO遺伝子はじめ、さまざまな遺伝子を、「実体」のまま、「立体」の界面を切り、それらの、特徴を、抽出すること。
これらが、抗ウィルスへの、解答への一歩となると、わたしは、考える。


11)
1980年正月、「70年日米安保反対運動」を、大阪府立、清水谷高校の卒業式でした、イトコが、わたしの実家へ来ていると、妹が、自転車で連絡をしにきた。

10年ぶりとなるが、わたしの脳裏は、頻度率と、数理式で、会って、話すと、数値が、混乱するので、必要がないと断った。
わたしのところには電話がないので、実家と、15分以上、離れたところから、妹が、また来て、困った表情をするので、3回目に、行った。

イトコは、わたしを取材したことがある、朝日新聞社の、「近藤康太郎」さんと、同じ、ヒフと手のラインをしている。
イトコは、A型とA型に生まれた、子供で、O型である。
この、赤みのある種類のヒフは、非常に、血液型が識別しにくい。性格が、物や心へ、執着、集中して、難しい。

河出書房新社の、社長だった「清水勝」さんの、子息と知らず、1990年に形質をみた、河出興産の「清水浩」さんも、A型とA型に生まれた、O型だそうだが、清水浩さんのヒフは、黄白いA型。しかし、指先の指紋の中心部に、O型タイプTを示す、特徴点がある。
トマトの先のような、O型タイプTの特徴点がみられる、といった、表現がわかりやすいだろう。
これは、1分、2分と、見ていれば、わたしは、分かる。指を触ってゆくと、骨が、O型の形質をしめす割合が多い。この系統は、同じ手のラインであっても、ありふれた日本人というか、淡々と会話がしやすい。


イトコのヒフは、1975年〜80年、同志社と同志社女子大、2万人からの調査でも、なかなか出現してこない。
このことは、1994年、近藤康太郎さんにも言った。


イトコは、わたしには、無名の存在だった、同志社大学の、「山田忠男」先生の名前を知っていると言う。
「会いたい」と言うので、音楽界で、考えられている、人ではない、吉田拓郎、井上陽水など、知らない、聞かないというし、ビートルズすら、認めない人だ、こういった感情が入ると、数論ができない、と言ったが、「一度だけでも」と言う。

わたしは、会って、何を、話すのか、ドイツ語、ロシア語など、専門分野での、用語ばかりの先生だと言った。が、きかない。

論文ができたら、「読売新聞社に音楽のコラムをもっている、同志社出身の、松本勝男さんにして欲しい」と言う。

わたしは、松本勝男さんを、まったく知らず、山田忠男先生に聞くと、「松本君は、同志社大学など、入学していませんし、とうぜん、卒業なぞ、していません。文章、読んだこと、あるのですか?」と言われた。
「大阪音大の、西岡(西岡信雄、学長)君も、名簿とかの、学歴では、ありませんよ」など、多くの、学歴詐称をしている、大学教授、文化人を言う。
わたしは、興味がなかった。イトコが、「どうしても」と言うので、読売新聞社は、松本勝男さんにすることにした。

12)

1980年6月28日、山田忠男先生の命令で、東京の湯浅光朝先生宅を訪問しなければ、ならなくなった。
わたしが、6月28日に、湯浅先生へ連絡すると、29日、八王子の自宅へとのことだった。

山田忠男先生から、実家、それから、友人の下宿先へ、電話があり、「どうして、まつだ君が、八王子へ行かないといけないのですか、ほんとうに、東京へ行くなんて、湯浅さんに、新宿あたりへ、出てきてもらいなさいと言ったでしょう。中止にしなさい」との事だった。

湯浅光朝先生の指示は、この論文、読解には、22世紀、23世紀を覚悟してください。200部ほど、最低、表は、活版、針金留、どこの印刷所でも、一人がするのですから、大小は関係ありません、近所の印刷屋を三軒まわってとのことだった。
予算は、11万円〜15万円との範囲を言う。とうじ、枚方市周辺の印刷所は、不景気で、皆、閉鎖状態だった。

印刷は、「朱雀印刷」(とうじ日本写真印刷近く、2名)の方が、まじめな手の形質をされ、30歳代の経営者がしますといわれ、イトコ同様、識別が、難しい人だったが、「AB型ですか」と指摘すると、そうですと言われ、予算12万円、二週間完成、とのことだった。わたしに負担がないよう、校正は、郵送でとのことだった。

山田忠男先生に告げると、そんな小さな所はダメです、1000部と言われ、至急ですといい、社員50人ほどのところへ、切り替えた。わたしは、1000部の半分、500部にした。「朱雀印刷が、14、15万円ぐらい」と言った経費である。
そして、印刷、一週間との約束で、現金、40万円を、先払いした。
印刷所でさえ、郵送の料金を気にし、形だけの金額というのに、山田忠男先生は、論文に、金額を、つけてはいけませんとの事だった。

写植、担当は、19歳の女性だった。契約は二回校正なのに、「マツダさん、同志社ですか」「ウチの、あれも。ほら、あれも、同志社ですわ」といい、校正一回となった。
図版は、コピーでなく、本物にかえるとの約束が、仕事が入り、先刷りしたとかで、遅れ、初稿は、誤字だらけとなり、わたしは印刷所で、待機状態となった。

約束を破り、誤字が多かった。
この間じゅう、山田忠男夫妻からの電話がつづいた。
「新聞や、雑誌は、一日、二日の印刷ですぜ」とかの、文言を山田先生は言った。


論文ができあがると、山田忠男先生は、「この推薦文を、上質紙で、印刷に」と言われ、わたしは驚いた。また、時間と、印刷費がかかるからだ。
わたしの先生は、一、湯川秀樹先生、二、市川亀久弥先生、三、桑原武夫先生で、山田忠男先生は、四番目と言った。

印刷屋(現在ない)は、「山田忠男」の原稿をみると、「京都府教育委員長の」といい、おどろき、「安くしておきます」と言った。
「湯川秀樹」とか、「桑原武夫」とかの署名があれば、いくらに、なるのだろうかと思った。

わたしの小説、エッセイなどの表記は、桑原武夫先生からの影響が一番大きい。

13)
印刷物ができあがったとき、50部サービスで刷っておきました。「運ばない」というので、エアコンがない、兄の、古い、カリーナで、8月上旬、受け取りに言った。
小さなロッカーをあけると、30部、盗られており、520部になっていた。暑い日だった、クルマも、小さなロッカーも。


同時進行で、京都中央郵便局に、相談していた。「価格をつけないと、普通郵便だと、非常に高くなります」とのことだった。
山田忠男先生が、「全音 ZEN-ON」の、小さな手帳ほどの、古い、音楽家名簿に、つぎつぎ、送付先をつける。
「速達」の先もつける。
山田忠男先生は、「古希パーティ」を華やかに、早くしたいのか、わたしが考えていた、肝心の人たちへの送付先は、ない。

借りた、「全音」の名簿を使うから、送る相手をうつして、返却に、持参して欲しいと山田忠男先生は言う。
『またか、、、』と思った。まえは、必要でないですという、「リーダーズ・ダイジェスト」の世界地図を貸し、二日後、「授業で使うから、持ってきてほしい」が、山田忠男先生だった。

山田忠男先生が指示した、東洋の音楽論分析でも、かなりの金がかかり、西欧の音楽論分析でも、かかりすぎた。

医学関係の学術雑誌は、広辞苑2冊分ぐらいあるのが多い。わたしは、調べもののとき、図書館で、5時間ぐらい、ふつうに、文献を手にのせていた。

1980年、春、とつぜん、両手が、「書痙(しょけい)」にかかった。
薬指、小指だけしか、使えなくなった。いまも、一ヶ月に、二、三度しか、自由がきかない状態の手である。

書痙の手で、わたしは、郵便の切手代金だけでも、10万円を越えます、と言った。
初任給が、11万円ほどの時代だった。

これら「民族音楽」に関した、経費は、1979年から80年だけでも、京都では、若い、会社員の年収200万円近くなる。
新日本石油の前田博司さんの猥褻行為に要した額は、250万円どころではない。わたしが気難しい顔をしていると、
「マツダさん、山田を利用すれば、マツダさんは、音楽の教職や顧問で入ってくるから、たいしたことないですよ」と慧子奥様がいう。


わたしは、山田忠男先生に、いつでも、新しい学問は、音楽での、三重奏、四重奏から、小さなオーケストラにもなるといったように。また、植物が、芽から、大きな花になるよう、小さなグループを集め、気持ちを、なごやかにして、作ってゆくという、自論を言った。
東京が好きなら、西荻窪の、「三輪誠」(詩人、フルート。京大理、化学専攻、東京工大、成蹊大教授。奥様は、国立音大勤務だった、ピアニストの三輪房子)さんを中心として「輪」をつくってゆくことです、と言っても、「三輪君は、できませんよ」と、著名人ばかりにする。

流行の、音楽家たちの住所変更は多く、速達のが、返送されて、困った。

それで、三条十字屋まで、ヤマハからの、音楽家名簿を買った。
東京中心なので、各大学へ、住所の確認をした。

邦楽家の吉川英史先生。学生にわかる、作曲理論をかかれている、朝鮮半島出身の「属啓成(さっか ・けいせい)」先生には、どんなことがあっても送る」と言い、2日間、10時間以上の、大口論となった。

東京で、山田忠男先生を揶揄、批判している、国立歴史民俗博物館の「小島美子」さんのを、「ぼく、献本をもらったから」引用しろと言うので、本を買ったが、駄文で、どこも、引用部分がなく、口論をした。
小島美子さんは、著名作家どうよう、経営者などには、平身低頭、すぐ、礼状の人と聞いた。また、マスコミの、お偉方とかは、じっさい、見せてくれた。

富山大学の、和崎洋一さんから、「梅棹の提灯持ち男、音楽が、わかっていない」と、揶揄、批評されている、国立民族学博物館の、「藤井知昭君のも、引用しなさい、梅棹忠夫君のも」というので、これだけで、本が、三冊、50時間以上の、口論となった。
わたしは、「梅棹さんのは、科学でも、なんでもないです。本論の、発生学の箇所が、こわれてしまいます」と主張した。

すると、山田忠男先生は、
「知りませんぜ。妹さん、適齢期でしたね」「鹿児島の、日本石油(いま、新日本石油)、強姦魔、ゴミ、クズのような前田博司君のこと」と言うので、嫌々、引用となった。

鹿児島、武中70年卒、甲南高校73卒、前田博司さんに、妻も、わたしの妹たちも、猥褻な行為をされた。

妹の親友は、このころ、同志社OBとの結婚で、局アナウンサーの「徳光和夫」さんが、大阪まで、披露宴の、司会に来られた。
「日本テレビ」の編成局長が、村上大也(むらかみ・だいや)さんのころだったとおもう。

14)

吉川英史、属啓成先生たちからは、早く、返事がきた。
病床の田辺尚雄先生からも、「有馬大五郎」先生からは、代筆の奥様で、「死期が」とわたしが言い、山田忠男先生が、「持ってきてください」と言われるので、持参しますと言ってから、有馬大五郎先生は亡くなられた。
「まつだ君は、どうして、わかるのですか」と言われた。

マスコミだが、朝日新聞は、「雑喉潤(ざこ・じゅん)」さん、山田忠男先生は、大阪朝日新聞勤務とおもった、雑喉潤さんへ、大阪宛で、丁寧な書簡をかかれた、が、雑喉潤さんは、東京へ赴任となり、わたしが、後年、連絡したら、山田忠男先生の書簡は、届いていないとのことだった。

雑喉潤さんは、二刷りデタラメ書き換え、刑事罰対象、盗作犯「竹内久美子」氏の恩師、「速達」でおくった昆虫学専攻なのに、なにかと、「人間だけですよ、ペニスが大きいのはの」専門、「日高敏隆」さんと、同じ手のラインである。

わたしの「ABO遺伝子と音楽論文」も盗用した、竹内久美子氏からの電話で、「君、自分の文章、音読をしなさい」と言って、音読をさせた。「あれっ、おかしいなぁー」と、つぎつぎ、間違いに気づき、ぼやーとして、切れそうな雰囲気になったので、「日高敏隆さん、B型だったら、先が細いでしょう」と言うと、「ええ、ふつうの人より、細いです、細いー」と喜んでいう。
それでは、次のまちがい、箇所といい、また音読させると、ガチャンと切る。
この結果、「新潮社」のは二刷りも、デタラメ本となった。

日高敏隆さんは、わたしが速達で送らせてもらった、論文すら、ついていないと言う、人だ。
財界人などの、権力や権威者が、直接言えば、すぐ、反応する、手のラインでもある。

毎日新聞は、山田忠男先生の同志社での、教え子で、別の方が、取材に来られた。

読売新聞の、松本勝男さんだが、イトコが、飲み屋で、「どうですか?」と聞かれ、「批判ばかりだそうで」と答えると、「やはり、そうと思った」とのことだった。

イトコには、逐一、報告し、批判はなく、揶揄が、一組み、国立民族学博物館からのは、コピーを送り、告げていた。
後日、イトコは、わたしへ謝罪した。


この1980年ころ、まったく、無関係の、阪大の、河合清三氏から、「娘が、いてこまされて」の、長女、河合陽子さんから、「誕生祝い」と言われ、高槻高校74卒、中野逸人さんへ、誕生祝いを、吹田市の済世会病院へ、もって行った。

自称、大阪大学、理学部、たんぱく質研究所「赤堀四郎」さんの、後継の「河合清三」所長とやらは、中野逸人さんと、河合陽子さんの仲が悪くなると、「人類学者」の梅棹忠夫さんが、よく、通った、わたしの妻の勤務先(金融)へ、電話の連続をした。
わたしたち夫婦が、嫌々、出かけ、戻ると、
「孫の誘拐罪で、訴えるぞぉー」と、大声で怒鳴ったという。わたしの実家へ電話を入れ、わたしの母と妹は、顔色がなくなっていた。

「不在とわかっていて、こんな人権侵害、いいかげんにできないのですか」と、大阪大学へ電話を入れると、「わたくしは、京都大学を、、、、」と生年から、学歴を言い始める。
わたしが、どれだけ、大変な、情況だったかは、京都昨今『32』<5>以降にある。

15)
一番はじめ、テレビで、ABO式血液型系統の番組をしたのは、1980年、わたしが論文を送った、「黛敏郎」司会の、『題名のない音楽会』(テレビ朝日系)である。
山田忠男先生は、團伊玖磨(だん・いくま)、芥川也寸志、黛敏郎、武満徹さんたち作曲家を、教え子のようにいう、さらに、わたしがまったく、わからない「石丸寛」さんへとも、山田忠男先生は、命令する。とにかく、有名人が好きな人だった。

わたしは、山田先生の、紹介文だと、マスコミは狭く、黛敏郎さんたちは、誤解して、必ず、揶揄、盗用されますと言った。
その結果、「ええーっ、日本では、血液型と音楽など、詳しいひとが居ません。友人の、妹尾河童(せのお・かっぱ)さんが、詳しいです」と黛敏郎さんがいい、番組がはじまった。妹尾河童さんは、作曲理論に詳しいそうだ。

正しくは、「民族音楽の、友人、小泉文夫さんが、日付変更線を、利用し、調査をしていない、アラスカのエスキモーを、したかのように書き、そのデタラメを指摘した、マツダカオルさんの、発表論文は、学界に受け入れられません」だ。
わたしは、小泉文夫さんだけ、わかるような、文章をかいた。
ところが、小泉さんの、恩師の吉川英史先生は、すぐ、わかったそうだ。

同じ手のラインでは、いま、立命館大学の、銭もうけ悪徳教授、「佐藤達哉」さんには、会って欲しいとの懇願で、一度あった。
わたしは、指をみて、典型的な「A型」と言った。
悪党の友人も悪人で、帯広畜産大の、東洋大学OB「渡辺芳之」さんもで、この人物にも、首都大学OBの佐藤達哉さんからの言葉で、郵送させていただいた。

1980年の「ABO遺伝子論文」を渡し、1982年の成城大学での、1983年の筑波大学での、「OHP Overhead projector」をつかった発表にワープロでの梗概、ワープロでの論文類など、そろえて、渡した。
しかし、「血液型カルチャー年表」など、つくって、わたしが、生涯をかけてきた学会発表のより、NHKの娯楽番組の方が価値があるらしく、自分のホームペイジに、発表している。
以下、立命大の、佐藤達哉さんのを、明快に表示する。

1982.5  NHK「ウルトラ・アイ」日大、山岡淳、調査結果
1982.6  科学基礎論学会「ABO遺伝子(分布図)と文化現象」松田薫 
1983.1  日大「血液型とパーソナリティに関する一研究」高島(現谷姓)澄江「卒論」
1984.2  NHK「おはよう広場」 日大「大村政男」調査結果
1984.7  TBS「諸君! スペシャルだ!」 東京都立大学「詫摩武俊」

立命など、バカばかりだという、佐藤達哉さん。表記を、論理立て、きちんとしなさい。もう一度、学校へゆきなおしなさい。

ここに欠落しているのは、日本大学の「大山正」さんと言う人だ。
大山正さん、日大の事務がいうので、大村政男さんの盗作の指摘、半月以上かかりました。回答ぐらい、しなさい。
また、杉並区の図書館、「大村政男」さんの講演の発言は、人権侵害、名誉毀損どころではない。

このひとたちの考え方が、おもしろい。
「東大<首都大<日大<東洋大」という考え方をされるのだ。
受験と、大学の質との相関などは、言いたくないが、東大より、首都大、日大、東洋大のが、名称が大きい、だから、偉いという考え方をされる。

16)
2回も、揶揄,、盗作し、わたしを騙した、立命、平和ミュージアム館長の「安斎育郎」さんは、『だます心だまされる心』( NHK出版 2004年)など、書き、NHKで、講義をされたらしい。
立命館、ここまで、するなら、「安斎の戦争、泥棒、博物館」と名称を変えたらどうだ。

「皆様のNHK」、いったい、何を、考えているのか?

NHK出身で、TBSの東大OG、世田谷区経堂住まいの、ディレクターと、「四十八歳の抵抗」とかで、やったと、「フライデー」(講談社)に報じられた、森本毅郎(もりもと ・たけろう)さんは、血液型と性格の関係について、「仮に、 百歩退いて」のようなことを言っていたという。

キャスターは、ディレクター権もあり、世情がどのように動いているのか、よくみて、言葉にするのが、常識ではないか。

A型山田忠男先生が言っていた、「人間のクズ、ゴミ」のひとり、A型森本毅郎さんは、NHK佐世保局にいたのだから、何かと、「ヒヒッ、ボボ、ヒヒッ」のレイプ魔、新日本石油のA型、前田博司さんと同類のようにみえる。
これから、「おはよー。ボボ・森本毅郎でーす」とアナウンスしてほしい。

森本毅郎さん、多摩川の下流の、陸橋の欄干から、1歩だけ、横へ、進んで欲しい。

1980年代、わたしの、東京への、往来がふえたころ、「高円寺」のホテルから、高円寺南四丁目あたりの、路上という公共の場で、若い脚本家女史の、胸か、ボボに、手を入れていた、TBS番組担当の「路上ロマンコテック・岡庭昇」さんと、1歩、横へ、前進して、川へ飛び込んで欲しい。

40歳ほどだった、「岡庭昇」さん。「アオカン(青姦)」は、ふつう、野原や川の土手で、あなたたちの世代が、若いころした行為かもしれない。しかし、20代が多い、高円寺の雑踏でするひとがいますか。

あなた方の言動は、わたしが、すべて自費の、「ウイルスの発生学、界面学」への、妨害だった。

基礎医学は、ただ、金の出費となり終わることが多い、的確な、対象を決めにくく、病原の源など、限定(同定)しにくいからだ。


心理学、人間科学、人類学といった、学業のテキストや、学問への精進が、無いに等しく見える、この、分野が広まったのは、「博士号」が、哲学や社会、国文の10000倍ほど、取得しやすく、「大学院」の設置がしやすいからである。

心理学、人類学は、ネズミ、サルなど、調査したとか、適当にデーターをあげれば、学位となる。
1980年代からは、日本は、学校、商売バブルとやらになった。
が、卒業すると、何を、修得したか、わからない。


17)

わたしが、はじめ、同志社大学へ通ったのは、「この先生は、人間嫌い、学界嫌い」と思った、谷泰(たに・ゆたか、京大人文研の)先生が、1974年ごろ、在籍しておられたからである。
所属が、工学部と知らず、文学部へ聞くと、わからないとのことから、休暇か、留学かと思っていた。

山田忠男先生から、「谷君は、工学部でした」と言われ、わたしは、市川亀久弥先生が部長となったおり、受験成績から、修士から、工学部への、転部をすすめられた。山田忠男先生は、わたしが、科学論が詳しいので、最初、科学史担当にさせたかったようだ。ところが、音楽ができるとわかり、京都市立芸大と言われた。

山田忠男先生は、元京大教授、蜷川虎三(1950年 - 1978年)知事政権下の人だった。
蜷川さんは、 1981年2月27日、84歳で亡くなられた。
また、湯川先生も、同じ年だった。
高齢者の、病床での状態は、想像がつくだろう。

これらもあり、さらに、わたしは、学生へ猥褻行為を働く、自称学者や、自称良い所の学生に疲れた。
さまざまな学部、学科の学生が、進級の相談、卒業の相談にくるので、非常に疲れた。

下は、わたしが、論文を郵送した、国立民族学博物館の、祖父江孝男、桜井哲男(阪南大学)さんから、反感の手紙に対しての、科学史の湯浅光朝先生からのものである。

山田忠男先生は、祖父江孝男さんから、揶揄の手紙と言っているのに、「ですから、わたしは、ああいった、紹介文にしました」と言いながら、郵送するというのに、持ってきなさいと言う。
文面をみると、「まつだ君。こんなケダモノで、ゴミのような、祖父江孝男など、相手にしては、いけませんぜ」だった。
このときのことで、わたしは、山田忠男先生との、関係を切った。

18)
わたしは、アメリカ留学を進めてくださった、湯浅光朝先生の意見を、受け付けなかった。
また、京大、医学部、解剖で学位との、山田忠男先生、平澤興先生の意見も、受け付けなかった。

東大へとの意見は、「学士院」からの希望として、東大医学部「解剖」に、京都大学霊長類研究所の「近藤四郎(こんどう・しろう)」先生を。東大理学部人類学へ、立教大学の「香原志勢(こうはら・ゆきなり)」先生を赴任させてくれること。

そうすれば、「必ず行きます。ただし三年までの奉公で」と、「人種別、筋肉(細胞)の分析」「新しい、指紋分析」を、発表して終えますと、1970年代後半に、回答していた。

この「三年までの奉公」、1980年、いまだ、されていない、「人種別、筋肉分類、分析」「FBI方式でない、指紋分類、分析」という、文言に、多くの先生方が、とまどわれた。ふつうだと、10年、20年単位の仕事になるからだ。
この分野の学問が進まないのは、学業がつらく、金儲けにつながらないことによる。


19)
フランス文学専攻で、思想家の桑原武夫先生は、1980年秋、「梅棹忠夫還暦パーティ」で、興奮していた梅棹さんたちを、注意した。
学問研究を邪魔する、藤井知昭、祖父江孝男、桜井哲男氏たちには、学者にも、「指揮権」が必要で、こういった、人物を排除すること。

この注意人物のなかには、京都府教育委員長だった山田忠男先生、富山大学の和崎洋一さんたちも入っていた。

山田忠男先生「古希パーティ」は、「1981年9月25日」で、準備にかけては、わたしが、1979年からした。
参加者全員の半分に近い、費用を、しはらったのがわたしだ。しかし、中心とも言える、わたしは、発起人の名簿にもない。
無いのは、不参加という形だけの金での返事をし、まず参加しないだろうという、判断にあったのだろう。
山田先生夫妻から、実家へ連絡があり、母は、礼服のスーツをと言った。
できあがると、治るみこみのない書痙の手を、上着へとおす、気持ちにならなかった。

出席者だが、「くずは」にも来られた、朝比奈隆さんが、大阪、京都、フィルの面々を、会場のロイヤルホテルで指揮。
「山田耕作」の、甥になるフルートの、J・オーエン・.ガントレットさん、吉田雅夫さん。ピアノは園田高弘さんたち。

バイオリンの岩淵龍太郎先生には、達筆な返事をいただき、友人たちが、習っていた。
茶の千宗室さん、華の池坊専永さん、日本画の上村松篁さん家族に、わたしが知己の能や狂言の家元も。
京大、文学部の心理学梅本堯夫教授に、梅本さんに困らされたという教養部の心理教授の河合隼雄さん。
ご病気の、フランス文学の、伊吹武彦先生には、苦しい気持ちになった。

わたしは、「1981年9月8日」、74歳で逝かれた、湯川秀樹先生には、「労働者」を、「農民」を、どう考えていたのか、それを尋ねたかったのにと、それだけを考えていた。

「労働を知らん、今成金(いま・なりきん、明治時代以降のイエ)に踊らされ、人騒がせな、『紙クズ』をつくって。学校なんぞ、作ったらしまいや」と、父に、一喝され、わたしは、イエからの援助も住まいも、なくなり、1970年代はじめと同じく、労働者となった。
わたしが、父方の家系を知ったのは、21世紀にはいってからである。

20)
古希、出版記念発起人代表は、「梅原猛」さんという人物だった。
わたしの妻は、挨拶に、見た事はある。が、わたしの血族は、だれ一人、会ったことはない。書店で、顔写真を見たぐらいだ。

実行委員代表には「中原昭哉」さんで、この人も、まったく、知らない。
社会学の、戦前は軍国少年右欲、戦後は左欲と、ずっと、「欲」だらけ、嘘だらけの「日高六郎」さんの、階上の住人、いや、反対と考えたほうがよいのかも知れない。
日高六郎さん、わたしの祖父のように、戦前も戦後も自由主義の、人間に、いつ、なる。

中原昭哉さんの、父親は、中原都男(京都市立音楽短期大学)さんという。とうじ没後、政府が認定する、「勲位」を、死ぬ前に見たいと言った人。中原都男さんは、病床へ、京都を代表する文化人、政治家をよび、「欲しい」と言い、知事の蜷川虎三さんは、「*と♂、やったら、今西君に、梅棹、和崎君やしなぁ。あれほどやった、中原さんが、死ぬまえに、ё と ♀はずないし」と、大あわてさせ、「ええっ、勲位!? 死んだことに、しておくけど、ええか?」といわれ、「うん」と喜び、生き返りそうになったが、勲位を見て、素直に、二日後、天国へ、ゆかれた人物である。


1984年、同志社大学の好色男、「吉田謙二」教授と知人の大阪大学の偉い「河合清三」氏親子。鉄道弘済会キヨスクの偉い「中野敏人」氏親子、父が鹿児島県庁の偉い「前田博司」さんたちの、さわぎで、わたしたちは、関西を離れることにした。

山田忠男先生の死亡は、世田谷で、病床のわたしに連絡があった。
「起きあがれないのです。また、行くわけがない」と言っても、ふつうの人には、わたしの体調、心の状態は、わからない。
東京の新聞にも、掲載されていたのか、横浜の叔母が、電話で言っていた。


21)
1980年秋の、緊急講演録は、「民博」の紀要『民博通信』にあり、『昔の人今の状況 』(岩波書店 1983)におさめられていると聞いたのは、1988年、桑原武夫先生が、亡くなられた後だった。
わたしが、東京で、病床のときだった。

『昔の人今の状況 』を手にしたとき、桑原武夫先生の、声と動作が、みえそうで、涙が出てきた。もうしわけないと思った。

山田忠男先生夫妻は、桑原武夫先生の事は、いっさい、伝えなかった。

わたしは、山田忠男先生の、非常識をこえた行動で、1980年代、とうじ、ご健全で、同志社大学の、北に、こじんまりと住まれていた、わたしの、第三番目の先生に当たる、桑原武夫さんに、とうとう、「ABO遺伝子論文」を、送ることができなかった。


「千里文化財団」、専務理事の「湯浅叡子」さん。もう、28年と、長い、歳月がたちましたね。
1979年、梅棹忠夫さんがよく行かれた、四条通りの、「榊田喜四夫」さんの会社へ、「新入社員教育」の講演を、されたこと、記憶に、おありでしょうか。
湯浅叡子さん、あのときの、案内役が、わたしの、婚約者(妻)でした。
わたしが、千里文化財団で、お会いしたのは、1979年秋でした。


22)
神戸大学の、科学史家、湯浅光朝先生からの、速達の、手紙の日付は、1980年、10月4日。
湯浅光朝先生は、事が重大すぎます。まず、学校へ、就職をしなさいとのこと、そして、論文は、20年、30年先を見据えて書くこと。音楽は、日本人を相手しないこと、と書かれていた。


科学者になろうとする、若い学生たちと、科学史専攻生にとって。
『日本の科学技術100年史』(上、1980、下、1984)「中央公論社」の、「読解」「暗記」は、必須である。
明治時代以来、欧米GHQの指導で、日本は、縁故か、因縁、ごまかし、押し付け、言い訳だけの世界になったとも言える。


「欧米版の科学技術史」も、湯浅光朝先生は、脱稿されていた。
が、版元の、「中央公論社」が、不況となり、『日本』の下巻も遅れた。

欧米のも、同様で、「湯浅の科学史」は、専門家以外は、複雑に見える図版、校正での、作成金額が、大きくなる。
他の学者との、共同作業だったはずが、湯浅光朝先生、ひとりが、大きな責任をとられた。
それが、三省堂から、『コンサイス科学年表』( 湯浅編著 1988)となった。

わたしは、このことを、中央公論社の編集者たちから、聞いただけである。
わたし自身は、昔からのを、テキストとして所持し、1970年代、80年代、わたしの関係する分野は、すべて、暗記していた。

湯浅光朝先生が、初対面のとき、「わたしのことは、ご存知でしたか?」と、聞かれたとき、わたしの妻レベルでも知っていたが、お世辞になると思い、「あまり知りません」と返事した。

学者の「人間関係」、科学発展の図式をかいた『コンサイス科学年表』ぐらいは、暗記していないと、科学を、すすめ難い。


わたしは、自著の「血液型と性格の社会史」は、内容も表題も、姓名も、河出書房新社の、差別発言だらけの、編集部長「ノブオ」さんに、勝手に、変えられたので、初版、改定もふくめ、湯浅光朝先生はじめ、関係分野の学者には、一切、送っていない。








▲ 「豆之子大明神」、稲畑勝太郎による「和楽園」跡。南禅寺、塔頭。
▼ 湯浅光朝 (1909月12月20 日〜2005年3月23日)先生からの、書簡。1980年10月4日付け。


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-08-31