京都昨今 |
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58、「知覚と思考」 ABO遺伝子論文への序章 【新日本石油】 | ||
序) わたしの、科学哲学、第1論文は、「知覚と思考」という題目で、1973年におおまかな論述が終わった。 「ABO遺伝子による民族音楽の分析」論文は、第5論文(1979年9月)にあたり、1979年に三種類しあげた。 「視覚と思考」という発生学の本論、「第四論文」のなかの、断片を、同志社大学工学部、山田忠男先生に言われ、詳しくしたものである。 日米安保反対という、1970年がすぎ、物理学者の、湯川秀樹先生の体調が悪くなられた。 そのため、創造工学の市川亀久弥先生に、第1論文から、第4論文の断片を、世界地図と、遺伝子資料、民族の習慣などを、トレーシングペーパーを、7枚ぐらい重ね、A4サイズ3枚ほどの、要約を見せ、説明した。 「なにを言っているのか」「なにが書いているのか、まったく、わからないけれど、書き上げたら、持ってきなさい」と、市川亀久弥先生からは、ハリス館2階、西の端にあった、工学部長室でも、言われた。 とうじ、わたしは、これが、1975年の冬に告げ、書き上げた論文ですけれど、と言った。が、もっと長く論述し、わかりやすく、説明したものと、日本のアカデミズムへの不満を、わたしにぶつける表情で、言われた。 1) 高校生のとき、わたしは、「物理量」に還元できる、「遺伝子」と、同じく、「物理量」に還元できる「音楽」、色彩による「美術」など文化現象が、それぞれ、比較し、ひとつの共通する出来事を見ることができれば、良いと思い、1968年、高校一年生の夏、水泳部でのプールサイドで、ラッセルBertrand Russell を中心に読み始めた。 ラッセルは、このころ、「キリスト教徒でないのか?」 Why I Am Not a Christian などのエッセイなどは、気に入ったところを数ペイジ単位で暗記した。 ラッセルの「哲学入門」The Problems of Philosophy は暗唱しようとしても、一年たてば、文章は脳裏から消えるが、概念は残る。 ラッセルの専門分野は、わたしが、生涯かけても追いつけないと思い、「西洋哲学史」 A History of Western Philosophy and Its Connection、、、では、現代哲学の部分を、参考書のように補充と記載をし、何度も読んだ。 ラッセルと哲学や数学をともにした、欧米の学者のものは、思考力をかんじられず、原典は買っていたが、熟読は、だれひとりしなかった。 2) 1968年、東京の学生は、70年安保闘争へ向け、動き出していた。 京都大学が、本格的に、反応したのは、1968年12月で、京大を中心に、交差する、道路は、学生運動家が、走りまわった。 高校一年生だったわたしは、「東大入試中止」と聞かされても、何が、はじまったのか、わからなかった。 なにが本当なのか、わからなかった時代だった。 1969年の夏がきて、枚方市駅の地下構内で、イトコの苗字を、愛称で呼ぶ、同窓たちの、声がする。 この、京都昨今『57』、1960年夏、桑名別院の葬儀で、一番、左に居るのが、そのイトコで、背丈のある、イトコは、立ち止まっているようだ。 「ワンポイントマーク」のシャツを、予約制で買う時代だった。イトコがほしかったのは、ペンギンマークの、マンシングウェア Munsingwear だった。 そのため、イトコは、枚方市のゴルフ場で、キャディーのアルバイトを三日した。 が、入手できず、黄色のアーノルド・パーマー Arnold Palmer を着て、ギンガムチェックのスラックスに、靴は、リーガルの、先が白で、茶色が主の、底が、45ミリと、しっかりしたのを履き、背筋をのばし、両切りのピースを、オイルライターで、つけている。 わたしは、上は制服の開襟のシャツで、啓光のズボンは、とうじ、オジさんルックといわれた、タックつきの純毛の裏付きで、重かった。母にいい、制服に色が似たのを選び、ノータックで、太ももに、痒みがこないのをはいていた。 靴は、オペルカの、底が15ミリの軽いコインシューズで、同窓たちの、後方から歩いていた。期末テストの最後の日だったし、服装チェックがゆるかった。 啓光学園、京都組みにとって、神戸の三宮にあった雑貨の「ミッチャン」は、日常で、ラコステ LACOSTE は高いからと、ラコステのマークだけ、100円ほどで、売っている、三宮センター街まで、買いにゆき、四条寺町通りのネームの刺繍屋さんに、良く似た、シャツへ、付け替えてもらっていた。 「おおっ、清水谷のクボッチだ!」と、わたしの同窓の二年生が、感動して言っている。 わたしは、うつむいていたし、「クボッチ」の音韻は、はじめてで、情況がわからず、イトコの、キリッと、すました、ポーズに、『あれっ、変なスタイル。不可解。不条理だけが売りの作家、カミュ Albert Camus のよう』と思った。 同窓たちは、イトコを、振り向きながら見ている。 それを意識してか、大きく、タバコの煙を、吐き出すイトコを、5メートルから離れ、見ていた。 同窓が行ったので、わたしは、小学生時代にもどり、播州、姫路に育ったイトコへ、「どこ、行くの?」と聞くと、きどっていたのを見られ、おどろいたのか、「えーっ?よしのぶちゃん、やん。ガッコ(清水谷高校)」と、雰囲気が、瞬間に、播州人となった。 イトコとは、月に、二度は、会っており、文系の運動家の同窓が、イトコの行き先は、扇町公園での学生集会と言っている。 サルトルに詳しいとも言っている。 イトコの本箱は、小学生のときは、「少年少女世界文学全集」で、中学生のときは、「夏目漱石」をあつめ、1969年になり、本箱は、「革命への時代」一色で、カストロ Fidel Castro や、ゲバラ Che Guevara に、美術と音楽関係ばかりだった。 わたしと違い、サルトル Jean-Paul Sartre など、一冊も無い。 イトコの、サルトルの知識は、どう考えても、わたしの知識の、断片のようだった。 3) 期末テストが終わり、アポロ11号が月面到着したあと、イトコを尋ね、「三年の夏に、学生運動をしているの?」ときくと、「アメリカ帝国主義、日本帝国主義反対で、『佐藤栄作を、檻にいれ、裸にして、飼う』がスローガン」と、言った。 受験勉強は、「何もしていない、どうしよう?」と、二人のときは、関東弁ふう標準語だ。 学習方法を聞くので、予備校で知り合った、男子高校の医学部コースの大半は、二年次の夏で、数学UB、化学、世界史は、終了していることを言った。 高校生向けの公開模擬だと、友人たちは、満点近く、京都や東京の予備校まで、受験しに行っていて、これが常識で、高校では、わたしは同窓の、学生運動家への道を止める係りで、1970年安保反対運動の、犠牲になってはいけないと言った。 なんだか、焦ったかんじになったイトコは、春に、わたしが、時間がないので、最近、ときどき、ベートーヴェンを聞くだけ、と言ったことから、 「この、ぶさいくなのが、ベートーヴェンの実像、がっかりするだろ」と、大きなポスターを買い、壁に貼ったのを、わたしに、見せて、わらっている。 夕方ちかく、寝屋川市立第一中学校、2年の担任だった阿部武俊先生のイトコ、京都工芸繊維大OBの、静かな雰囲気の、タチバナさんが来た。 叔母が、「このごろは、家庭教師じゃなく、話し相手になってもらっているの」という、タチバナさんと、早めの夕食になるけれど、いっしょにと言った。 わたしは、挨拶だけをして、1967年12月の、日本刀乱闘による冤罪事件(京都昨今『41』)のことなど、いっさい、言わなかった。 4) この1969年という、高校生にとって、理解が、難しい、70年安保闘争へは、おとなしい友人たちは、「べ平連」(ベトナムに平和を!)の抗議の行進を、都市部で、していた。 団塊の世代に、1940年ごろ生まれた、わたしの上級生にあたる人たちは、「琉球、独立」の抗議集会と、別々のグループを組み、日本の侵略国家、GHQ連合軍、アメリカ兵の、実際を、見に、行っていた。 「琉球」では、昼の、市電など、交通機関に、母と娘がいて、10代の娘さんが、強姦されるのを、目撃した。これは、戦後のGHQ連合軍が、戦争中、日本の侵略により、日本人となった、中国人、台湾人、琉球人、朝鮮人へした、強姦行為と同じと、京大のひとたちが、発表していた。 止めることなど、できず、琉球の青年が、アメリカ兵たちに、抗議へ、向かうと、市中や市電でも、倒され、乱暴されたあと、さらに、琉球の男性が後ろ向きにされ、股を開かれ、強姦され、また、睾丸を、蹴り、踏みつけるのが、アメリカ兵たちの常習だと、これも、京大のひとたちが、目撃し、日本人学生が、抗議できる、相手では無い、琉球列島では、どこの、老人たちも、ただ、泣き叫んでいたと、わたしたちに言ってくれた。 上級生たちは、琉球列島のメディアは、絶えず、抗議していると言った。 が、日本の大きなマスコミの扱いは小さなものだった。 アメリカ兵たちの、日本女性、強姦は、琉球だけでなく、関東圏内でも、米軍基地近辺では、見られることは、わたしたちも知っていた。 イトコたち、高校生による、アメリカと日本への批判運動により、世間でいう、一流大学への進学は、失敗の犠牲者となった。 5) わたしたちは、アメリカ兵による、暴力、強姦行為があれば、日本人は、東洋の女性も男性も、いつまで、奴隷状態なのか、それらに、徹底、抗議し、大きな体の米軍兵に、強姦をされた後、殴られ、殺される、日本人の女子と男子は、奴隷以下なのか、と言っていた。 私立同様、東京大学、お茶の水大学などは、「GHQアメリカ=ソビエト共産党」への工作員、諜報部員、子弟優先の、裏口入学だらけで、生活に、必要がない、英語や数学はじめ、拘束する、教育問題については、文部省当局で、「日米安保問題」も、責任者である、首相の「佐藤栄作」がしっかりすることと、決定していた。 そして、日本の現状を、熟知する「アメリカ大統領」へ、「帝国主義反対」の追及をすることが、第一の必須だと、抗議声明すること。 B29で、計画的に空襲、原爆を落とした土地へ、「竹ヤリ」で、B29をつつく練習をしていた、犠牲となった、12歳ぐらいの女学生はじめ、死者への、巡礼参りと言っていた。 アメリカ主導の、国境や、海域問題は、中国、台湾、朝鮮半島がわは、日本文化の「元祖中国、朝鮮、日本海」とし、太平洋側は、日本文化の「総本家中国、朝鮮、日本海」と呼称変更すれば、問題などない。 「琉球列島」や「台湾」は、永世中立国として、独立してもらうことが、世界平和につながるが、わたしの意見だった。 アメリカの大統領に、いちど「体格のいいアメリカ兵」たちに、暴力、レイプを受け、殺される琉球人の役目を、経験させ、さらに、アメリカやソビエトの収容所体験を、短期間でも、してもらうことが、世界平和に通じると、わたしが言うと、学生運動家たちも同意していた。 いったい、日本人が、いつ、白人種の土地の西洋に、黒人種の土地アフリカへ、侵略したことがあるのか。 京都での学生集会は、京大と立命館を中心に、運動家のセクト(派)による、報告は、覆面もなしに、行われていた。司会役は、だいたい、立命館の女性がしていることが多かった。 1971年の、成田空港建設反対への、抗議、「三里塚闘争事件」の報告が、京大、立命館の学生を中心にあった。 政府の権力による、犠牲者、被害者、負傷者であっても、わたしたちは、常に、知恵で、抗議の方法を変え、文字で、言葉で、抗議してゆくべきだ、どこまでも、非暴力であることを主張したのは、わたし、ひとりだった。 6) 1972年は、浅間山荘事件のため、より記憶に残っているが、わたしは、東京、日本橋の丸善からの帰り、寝屋川市立第一中学の剣道部大将、寝屋川高校大将だった、父親が大阪府警勤務の、山田君と、偶然に会った。 制度が変わる「筑波大学問題」があったときだった。 「まつだ、30分だけ良いか?オレは、東京がスカン」と言うので、関西味のうどん屋へ案内した。 山田君とは、中学生のときも、剣道部はじめ、いつも、礼儀正しく、挨拶だけで、話をしたことはなかった。 「オレは、関東弁がスカン」 「良いけど、ぼくは、関東の標準語でしか、話せないけど、いいのか」と聞くと、 「それは、良い。関西弁を話す、オレの話しを、聞いてくれるだけで、いい。オレは、東京が疲れる。筑波大は行かん。大阪にもどる。K大(私立)へゆく、まつだ、軽蔑するか」と言うので、わたしは、「軽蔑などしない。わたしの周囲も、筑波大を選んだものは、誰ひとりいない」と言った。 7) わたしは、1970年代の中ごろに近づいても、高校のときからの連続である、どの民族もが、平和への学問となるとの、希望をいだき、ウィルス(病原)の発生問題、遺伝子の発生と、枝分かれ(ツリー、岐路)の解明を、物理学での概念を中心とし、この分析に、集中していた。 解けかけたのではないか、解けるのではないか、と思ったのは、1973年の夏だった。 しかし、ひとつの問題が解けなかった。 わたしが母語とする、ありふれた日常の言語の形相、思想の概念作りの基礎となる音韻、わらべ歌の音階もふくめ、これら、「言葉の形相」の発生だった。 わたしのものの、ほとんどは、父方の祖母が使い教わった、仏教用語が基本の、かるみのある播州の言葉、大和言葉だった。 なぜ、祖母の、言語表現は、ゆたかだったのかが、わからなかった。 労働歌は、貧困層による、とが、定説の時代だった。 知識や思考の組み立ては、精神の余裕、富裕さによって、成り立つというのが、わたしの思考だった。 父が、「子供の頃は、腹が空いて、空いて」と良く言った。 わたしは、空腹は、「貧乏」によるものと思った。 祖母の家出で、子供の面倒をみて、食事を作る人がいないことを知ったのは、わたしが、「遺伝子、印刷論文」を発表してから、ずいぶん経ってのことだった。 そのときも、祖母が裕福な育ちとは言わなかった。 出自が、姫路の、御着(ごちゃく)、別所、曽根(阿弥陀)と、どこも、祖母方のようだった。 母が、いまと違って、昔は、スーパーなどが、なかった時代だからと言う。 科学の手法で、例外は、思考停止や、判断をやめ、排斥の処置をとる。 わたしは、祖母の言語の、判断停止まで、1973年から76年まで、三年以上、異常なほど、緊迫した時間をつづけてしまった。 8) 1971年、高校、三年の三学期、わたしが受験拒否をする出来事が起こった。 原因は、3年E組みの、物理の担任が、1970年12月中旬、結婚式をし、ハネムーンへ行ってしまったからである。 わたしたち、国立大学一期だけは、関係がなかったが、物理の担任は、1月8日の始業式にあらわれた。 啓光学園を、中学から進んできた、私立大学進学組みが、「先生、願書、出されへんかった」「願書、間に合わへん」と、抗議した。 関西は私立の試験の時期が早く、関西学院と同志社大学が、間に合わないと言っていたが、わたしは、こういったことを、まったく、知らなかったので、驚いた。 「先生、ぼくら、同志社は受験したい」と中学から啓光の、京都で、酒屋と米屋経営の、入江君、中路君が言った。 ふたりは、1970年、「恩地食品」と書いた、商用車で、学園へ来る、高岸義弘先生に、「先生、けじめつけて。ぼくら、格好わるいわ」と、言い、「お前ら、家業を、侮辱するのか」と、怒鳴られる事があった。 それで、イエが、京都の禅寺で、医師の、体格の良いT君が、「おい、うどん屋、けじめや。津田先生みたいなクルマ乗ってこい」と言った。この発言で、顔を紅潮させ、 「なんで、ワシとこと、津田先生とこを、比べる。マツダ、こいつら、止めろ」と、言った。 わたしは沈黙していた。 「先生、同志社、間に、あうようにして」と、京都組みは言う。 いらついた担任は、「おまえらが、同志社、受かるか!」と、京都組みへ、人権侵害の事を言った。 これにたいしては、「先生、受験は、自由です。その発言、取り消してください。謝罪して下さい」と言った。 「うるさい、マツダ、おまえ、黙ってろ。休みが多いから、留年させるぞ、無断欠席があるしなっ」と高岸義弘先生が言ったので、 「できるのなら、やって見ればいいです。サンチェス校長へ、抗議します」と、わたしは言った。 9) 啓光の都合で、文系クラブが、学園指定の「ベン・ハー」を見に行くという。1969年1月だった。 わたしは、体育クラブでの疲れを取る日だし、1968年の夏、「黒人奴隷の歴史」をレポート提出し、映画は、主人公が奴隷船に乗るとあったので、奴隷の話だと、体調を崩すとおもい、行けませんといったが、大阪、梅田の0S劇場まで、付き添い係をさせられた。 S席の指定で、はじめは、運動による筋肉疲れで、眠ってしまった。 起きたのが、ベン・ハーが、ナザレの地で、水を、キリストのような、人物にもらうところだった。 東京育ちと、東京からの転校生たちが、父親たちが、若いとき、東京で、見てきたと、10年ほどまえのパンフレットを見せた。 大阪育ちで、わたしが、文系へ進学しないと、中退をするという、マスダ君が、「いっこも、面白ない、映画やった」と、言ったので、ああっ、こういった情況のため、わたしが付き添いになったのかと思い、わたしは、眠っていたけれど、ベン・ハーに水をあげた、人物が、サンチェス神父(京都昨今『31』に写真)さんだと、誰もが納得するのではと言うと、東京組みたちが、うなずいて、マスダ君もだまった。 10) 1969年12月、中学6期からの、文系の京都組みが、廊下で、禁止の「スケートボード」をしていた。 わたしは、高校から進学してきた生徒と、口論でも起きれば、面倒だとおもって、廊下で監視していた。 高校からの理系D組みが、「うるさい」と投げた、牛乳瓶が、割れ、わたしの唇の上にささって、わたしは、保健室へゆき、脱脂綿に、3センチ角以上の、ガーゼと白い絆創膏を貼った、応急処置をとってもらった。 古典の津崎史先生は、わたしが、教室へもどったとき、白い大きな外科手当てを見て、「どうしたのですか?」と聞かれた。 理由を言うと、文系のが、職員室から、風紀委員室へ呼ばれ、停学処置となるので、わたしは、視線を合わさず、黙った。 E組みの京都組み一人が参加し、すべてが見ていた事件なので、級友のだれかが言うだろうと思ったが、小学生時代とちがい、誰も、何も、言わない。 津崎史先生は、首をかしげながら、「赤」で、「無断欠席」のチェックを入れた。 わたしは「無断欠席」とされた。 無断欠席が2回になると、「停学処置」で、わたしは、このようなことが、あと1回加わると、困ることから、担任の物理に、理由を言い「訂正」と言うと、「わかっとるわい」と高岸義弘先生は言った。 修学旅行も、担任が引率せず、わたしが犠牲となった。半月、ベッドの日々だった。 運動会での騎馬戦(京都昨今『31』)が原因の、NO君への暴力も、わたしの犠牲で、担任は、逃げた。 1970年、秋の文化祭で、同窓の文系が「たこやき屋」などをする計画書を提出した。 学園側は、衛生面で、禁止させて欲しいと、わたしに命令したので、2年まで、文化祭は欠席のわたしが、中学生のもふくめ、説得と管理の役となった。 学園祭では、1967年、寝屋川第一中学校と同じ状態になった。寝屋川一中は、副校章と記念タオルをつくらされ、副校章は、1970年春までは、つかっていたと聞いた。 啓光でも、卒業記念のタオル作成など、意匠決定されたのは、わたしので、ハンカチは、わたしが持っていた、ありふれた白の柄の生地に、徽章をつけたものとなった。 11) 「高岸先生、卑劣な言葉を撤回しないと、わたしは、受験を拒否します」と、と言うと、「勝手にせい、内申書、下げんど。無断欠席2回あるし、わかっとるやろな」と河内弁で、言い、実行した。 わたしの性格だが、この京都昨今『31』、「回復できる学校制度へ」の下、物理教室での写真、わたしは、卒業アルバムに入らないよう、後方に居た。 担任が、「マツダは、前へ、来い、ここや」と、何度も言うので、わたしは、前列へ行った。 担任と写真屋が、「マツダ、教科書、開いて」と、これも、何度も言われたが、20歳代後半の、担任は、「東京書籍の物理」を説明できなかった。 物理は、分野別に、研究者用の専門書を使っていた、わたしは、教科書を閉じたままにした。 わたしは、受験雑誌による、紹介の参考書、また大阪の旭屋、京都の河原町の書店にあった、「物理UB」の参考書の、有名なものすべて買った。 説明で理解など、高校や、大学の教員生活を10年、20年、おくったものが、慣れて、できる程度のもので、専門家以外、日常生活に、何の役にも立たないと言った。 わたしは、級友たちに、数学も物理も、天才とやらが、自由気まま、適当に作り、歳月で、洗練した形になった、「いいかげん」なもので、「こんなもの、ぼくらの程度の頭で、理解できない。こんなものを認定する文部省が悪い」と、言い、考え方の基本を、説明していた。 このような経過があったため、「まつだが説明してくれたら、わかるのに、物理の教師が、なんで、うまいこと、説明、できんのや」と、医師たちの子息が抗議したら、 「あほか、おまえら。ワシの頭は、おまえら、みたいに、賢(かしこ)ないわい。おい、マツダ、皆、おまえの、せいや、ややこしいのは、このクラスだけや。なんで、毎日、朝礼から、終了まで、ずっと、物理や」と、わたしは、注意された。 12) 日本は、医学では、後進国に入り、中学生のとき、生きていたら、祖父の遺言どおり、東大医学部を、教養二年の間に、専門課程も履修し、20歳には、ウィルス(とうじは、ビールスと呼称)の発生学を、専攻し、遺伝子学が発達している、オックスフォード大学への進学と決めていた。 学者というと、発見か発明が、必要となる。発見か発明は、やはり、それができた学者の基につくのが常套で、鈴木商店の「味の素」で知られる、東京帝大の「池田菊苗」博士たちは、ひい爺さんの代から、父方と母方の、両方の家系が、知己といっていたので、そのつもりをしていた。 ところが、1970年の日米安保反対運動で、わたし自身も、啓光学園で、学生運動を止めさせる側での、学生運動にまきこまれ、1969年東大入試中止があり、大学というより、世間の情況がわからなくなった。 学問の中心の場は、第二次世界大戦後からは、アメリカのハーバード大学などが中心で、進学なら、アメリカと、京大の教員たちは言った。 啓光学園では、1969年、わたしたちの英語と聖書担当の、サンチェス校長が、ケンブリッジ大学からの戻りが、5月中旬と遅くなった。 1969年2月の段階では、わたしの進学先は、サンチェス神父の兄の司祭が、69年春、上智大学に赴任してこられ、学長面接だけを受け、上智で「英語か、他の外国語」と、担任の、津田彰先生に言われた。 このとき、埼玉県の、「杉戸」に近い「上尾(あげお)」から、「あげち大学」と思っていた、わたしは、「じょうち」かと思い、「先生、この大学、どこにあるのですか?」と聞いたら、わたしの単純な性格を知る、津田彰先生は、まじめに、「東京です」言われ、「医学部はありますか?」と尋ねると、「ありませんが、まつだ君が進学して、くれれば、啓光にも、上智大学の、どちらにも、良いことに、なるのです」と、答えてくださった。 勉強のついでと思い、上智大学が、どのような組織かわからなかったが、上智大学で、二年、英語をマスターしてから、留学しようと思った。 上智大学へゆき、オックスフォード大学か、ハーバード大学の医学部へ進学すると、両親に、予定を言ったことで、イエで、「絶対反対」と、母方の祖母まで、居て、決定となった。 母の意見は、「食事をどうするの、また入院生活よ」と言い、父は、「おまえが、一度、日本を離れると、二度と、もどって来ん。おまえが医学などすると、身代が潰れる」「東京もアカン」と、播州弁で言った。 このとき、勉強しているのを邪魔されたら、家出をするのは、小学生高学年のときからあり、子供の性格をよくつかんでいる、親だと思ったが、東大入試中止で、他校の上級の友人たちが悩み、わたしは、1969年1月、急性すい炎で倒れ、関西医科大へ運ばれた。 左手には、入院用と、哲学書「デカルト」(「世界の名著」 中央公論)をもっていた。 知己の看護婦さんが、笑うので、「ほんとうに、変な子で」と母は言った。 1969年2月の下旬からは、二年次のクラス編成で、問題がおきた。 文系は、わたしが文系を選ばないと、中退するというのは、マスダ君ひとりほどだった。が、わたしが理系へゆかないと、退学者が、10人からでる状態になった。 津田彰先生は、「啓光の授業は、補習があり、文系も理系も差がないんです。まつだ君が、理系へゆくと、4クラスから、5クラスになり、授業と教室の数で、負担が大きくなります。説得してください」と言われた。 とうじ、湯川秀樹博士の影響で、大阪大学の基礎工学部は、京大の工学部より難関で、別枠だった。 わたしは、進学先の希望をきき、啓光学園での補習の時間に、神戸の灘高校に合わせ、わたしが同時進行してゆく、受験勉強は、同じ内容の、短期間での反復と、物理UBや数学Vは、教え方で、一ヶ月あれば、充分だ。 基本的に、ほとんどの高校、大学の教員も理解していない、良い参考書など、ないに等しいと、言ったが、聞いてくれなかった。 このことで、大山崎、離宮八幡宮の津田彰先生の自宅まで、二度、行った。 13) 啓光学園が、わたしの年度で、特別進学クラスを廃止したのが、原因だが、マスダ君は、中退した。 マスダ君との、付き合いだが、わたしが、出す、年賀状に、マスダ君の、お母さんが、返事をくれていた。 ただでさえ、複雑な情況なのに、1970年安保反対運動のあと、大学の制度が変わった。 学問への力量と才能が、優先した時代が去った。 世界レベルの学者になる素質があれば、大学も飛び級し、すぐ研究過程へゆき、大学院への進学は不要なことは、欧米とも常識だった。 日本は、履歴書へ、学歴を書きこむだけの時代となった。 大学の教養課程とやらで、英語、ドイツ語、フランス語、中国語のなかで、二つと「体育」だけは、履修しておかないと、いけなくなった。 語学は、英語、ドイツ語、フランス語、三カ国語の、大学レベルのテストは、問題がなく、わたしのばあい、体育だけは、出席が必要な時代だろうかと、自分で勝手に、判断していた。 同志社大学へは、婚約状態の、妻が、通学し、卒業をしないといけないので、通っていただけで、外国語は、中国語(北京語)、ロシア語、アラビア語をしはじめていた。 欧米は、共産主義の国だとか、イスラム教徒の国だとか、境界をつけるが、かれらの母語による発言の多少が、わからなければ、こちらから、意見を言う、資格など、ないからだ。 各遺伝子のデータ、世界の調査と頻度図などは、イギリスのオックスフォード大学の資料が、30種類以上と、一番多かった。 わたしの脳裏は、遺伝子の頻度、その演算、数理式を作成することで、睡眠時間は、一日、4時間ほどしかとれず、一日、10時間以上の、研究生活が連続した。 哲学は平石善司先生。湯川秀樹博士の人間計算機、創造工学の市川亀久弥先生、人類学の山田忠男先生と議論し、かれらの研究室と、山田忠男先生の自宅へ向かうことが、わたしの同志社での時間だった。 わたしは、同志社の山田忠男先生を、京大オケの山田忠男は、安藤寅(アン・ドゥ・トロワ)の筆名をつかうし、別人だとおもっていた。 14) 同志社大学での楽しい、思い出は、体育で、全学自由参加の時間もあった、星名倫先生のスケート教室は、どうも、貴族の運動時間といったものだった。 初夏の、自由参加の講習会のとき、1975年、体育担当の、岩野悦真先生が、観客席から、「まつだ、彼女の方が、うまい」と言うので、「先生、生まれて、はじめての、スケート」と返事した。 リンクは、高野のホリデイ・イン京都だった。 秋がすぎ、上級コースで、コンタクトレンズを落としたものが出た。 わたしが見つけ出すというと、「諦めます」と受講生がいうので、「星名先生、コンタクトが落ちたから、上級コース、止まらせて、いいですか」と、わたしが言うと、星名倫先生は、「全員、止まって、探してあげなさい」と言ってくださり、わたしが、驚く、状態になった。 スケートリンクでの、コンタクトレンズ探しは、難しい。結局、わたしが、見つけた。 このとき、星名先生は、笑顔になり、「わたしは、昔、これをしていました」とライフルのスタイルをされたので、「猟師だったのか」と言ったら、学生がわらい、先生も、おおいに笑われた。 これを、山田忠男先生に言うと、「星名君は、良家の出ですよ」とほほえんで言われた。 なにより、岩野悦真先生とのことがあった。 バレーボールの時間、わたしは、トスばかりしていた。 体育課の、岩野先生へは登録のとき、個人識別の、写真の提出があり、1970年、父から、「新商品や」と、もらった、工業用の、両面テープで、体育の先生が、すぐ貼れるようにした。 岩野悦真先生が、「これ、どうなっている?」と、わたしに聞くので、両面テープです、水色が交差した紙を剥がしてください、裏に名前が記載してありますと言うと、「こんなのが在るのか」と感心された。 工業用の、両面テープは、まだ、普通の人に、知られていないものだった。 「名簿への、写真貼りは、どうされるんですか?」と質問すると、「オレが、全員のを、糊をつけ、貼る」と言われたので、わらった。 岩野悦真先生は、バレーで、わたしが、トスばかりしているのを見て、「なぜ、トスばかりしている?」と聞かれたので、 「アタックをしたい人が多いので」と言うと、「まつだ、一度、アタックをしろ」と言われた。 わたしは、走り高跳びでは、よくできる中学生ほどの、2メートルは、体が上がる。 「まつだ、何を、考えている。飛び越すつもりか?」と岩野悦真先生が、叫ばれるので、「先生、この、コート、高い? 背が、縮んだ、かんじ」と言うと、「いや、低い。9人制女子用で、2メートル15センチだ」と言われる。 わたしの記憶のコートは、2メートルほどので、9人制の中学生向けだそうだった。 そして、「レスリング道場へ来い」と、バレーコートのとなりにあった、新町校舎の道場へ連れてゆかれた。 レスリング道場の北には、レスラー「八田一朗」の書があり、岩野先生は、八田一朗門下かとおもっていたら、「かかって来い」と言う。 岩野悦真先生は、170センチ、60数キロの、非常に、ガッチリした体格だが、40歳ごろで、ふんいきが、達観した老齢の大人の域であり、元気なときの、わたしとは、体格が違うことから、「大丈夫ですか?」と聞くと、「かまわん」と言われるので、グレコローマンの基本で組んだ。 即座、『あれっ?』と、どうにも、成らない感じがし、腕を抜き、柔道の受身でころんだ。 「まつだ、何故、止める。もう一度来い」と言うので、「負ける」というと、「オレを、(床へ)倒せるか」と言われるので、本気で、力を入れ、組んだ。 が、『ぐぐっ、メキメキ、ボキボキ、このままだと、バラバラ?』と、まったく、レベルが違うし、力を込めた分だけ、背骨が折れそうな感じになった。 それで、リンクの外へ、大きく、飛び、受身をして、「先生は、国体レベルじゃない。オリンピック選手?」と聞いたら、「まつだは、それが、わかるから、鍛える」と言うので、レスリングは、瞼も鼻も耳も崩れると言ったら、「まつだは、彼女がいる、顔が崩れても、大丈夫だ、将来は任せろ」と言われた。 わたしは、レスリングの八田一朗門下に、「物理の、湯川秀樹門下だ」などと、口にできず、岩野悦真先生相手に、何度も、飛ばされるたび、猫のように、10メートル以上、ころがっていたら、見学しにきた、女子学生たちが、わらっていた。 15) 現在だと、イジメや、生活妨害、迷惑条例を、かんたんにできたかも知れないが、日本のばあい、被害者が、沈黙し、我慢する文化が、いまだ、ある。 1974年にできた、新しい同志社図書館の、階上は、個人向けの、ブース booth が在った。 ここで、勉強をしていた、婚約者(妻)を、鹿児島県、武中70卒、甲南高校73年卒、前田博司さんが、襲っている。 「これ、見てみろ」と、前田博司さんが、下半身をさして言っている。 「この人、痴漢」と、妻が言った。 わたしは、前田博司さんに、「この部屋から、出ろ」と言った。 「する気はなかった。でも、おまえも、男だから、いっしょだろ」と、1975年5月の、前田博司さんは、他に許せない言葉を、ずいぶん、言った。 わたしは、「教務係り」に、猥褻行為をしやすい、図書館のブース booth の構造を変えるように言い、注意の張り紙がはられ、その後、見渡せるように、構造が、変わった。 この前田博司さんは、親友に、父親が鹿児島の霧島、山奥の出身という中野逸人さんがいた。 前田博司さんたちは、哲学の「片山寿昭」ゼミの人たちだった。 わたしは、1975年、片山寿昭さんによる、「現代哲学研究会」を、一度、聴講したことがある。 メルロ・ポンティ Merleau-Ponty を中心とした講義だった。 学生への人気が高い、良い意味で、おだやかで、静かな、片山寿昭さんだった。 20歳ぐらいの学生が強い関心をしめす、「性への弁証学 Dialectic Sexology 」を、「若いころ、漫画を描くことを勉強しまして」と、黒板へ、記号をつかい、「この□を、男性。この△を、女性にします」と、図解をし、論じられる。 とうじ裁判問題になった、永井荷風の『四畳半襖の下張』だが、「たいしたことがないですよ、『浮世絵』は、長岡京のわたしのイエへくれば見せてあげます」、「ぼくの、視姦の対象は、12歳から60歳ですね」と、ゆっくり、ほのぼの、語られるのが、40歳代なかばの、片山寿昭さんだった。 わたし個人とは、キャンパスで会うと、丁寧な会釈を返してくださる、素直な言語表現と心身を持たれた、片山寿昭さんだった。 しかし、受験勉強が厳しい時代の、東大など、国立大学の理系を志望していたのが、落ちたりして、同志社の哲学へきた学生には、より変質者、パラノイアとなり、哲学の教授の「弁証学」が、「性 Sex」への関心の雰囲気に、なっていて、わたしには、少し、困った、かんじをもった。 16) 京大の医学出身で、ハイデッガー Martin Heidegger を友人とする、紳士の福田先生(芳名、失念、とうじ精神医学で世界10傑)が、「きみ、きみ、少し、待ちなさい、ぼくは、ハイデッガーと友人です」と、わたしに、話しかけてくるので、「気持ちが悪い」と思って、山田忠男先生に言うと、「まつだ君。福田君は、本当に、ハイデッガーと親友なんです」と言われる。 それで、わたしは、「ハイデッガーが、気持ち悪いんです」と答えると、今出川キャンパスで、爆笑となった。 わたしは、とうじでは、老教授にあたる人たちと、個別にいっしょで、こういった光景を見ているせいか、前田博司さんたちは、自分たちが、ハイデッガーなども、知己と錯覚してしまった。 前田博司さんは、「メルロ・珍(チン)・ポンティ」とか言って、1976年の、学園祭では、わたしの妹と、新幹線大阪駅の土地、半分を所有していた、妹の親友の手や、英文科の女学生の手に触れ、離さず、「ぼくの、情熱、リビドーが活発化した、チン・ポンティを、入れたい」とやっていた。 書籍の出費はわたしだったが、「東京都現代美術館」の絵画購入を、「税金の無駄遣いだね」といった、石原慎太郎知事の右の手相がのっている、「銭天牛」という人の、本には、手で、女性の体がわかるという項目があるらしく、「ヒヒヒッ、ボボ」と鹿児島出身の前田博司さんと、父親が鹿児島という、吹田市の山田中学71卒、高槻高校74卒の、中野逸人さんは言いながら、女学生の手を、顔まで近づけていた。 これは、わたしの妹たちが、偶然、被害にあい、報告にきたので、「わたしは、ウィルスの界面をとく、学問で忙しいのに、いい加減にできないのか」と、厳しく言った。 同志社、観相会での出資は、わたし個人だが、すぐ、金をくれという、前田博司さんたちに、1975年は出資収益全額、76年は、「そんなに、金が欲しいのか」と、また全額をあげ、退会させた。 17) 前田博司さんたちが、真面目になる、女子大生を紹介して欲しいというので、神戸女学院、同志社女子大、会話をスタートにした、グループ交際から、はじめなさいと、わたしは、世話をした。 彼女たちに相手してもらえなかったというので、妻も協力してくれ、京都女子大、奈良女子大、京都市立芸大の人たちも、紹介した。 これも、彼等の、変質行為で、わたしの徒労となった。 寧静館の、心理学では、俳優の「二谷英明」さん、倫理学の川島秀一さんと、同じ寮、生活者だったという、学長の松山義則さんが、学生運動家に抗議され、学長としての責任放棄で、伊豆半島の別荘生活だったことからなのか、同僚、心理の「野辺地正之」さんの研究室は、いつも、ドアを閉め、「きゃ、きゃ」と女学生の声がしていた。 わたしが、同志社の教員では、唯一、登録した、哲学の日下昭夫教授の、隣の部屋だったため、「野辺地さん、学問を構築される、努力をされたら、どうですか」と注意した。 18) おなじ1976年頃、商学部の至誠館から、文学部の寧静館の女子トイレを、双眼鏡で覗く、研究生たちが居るとの報告が、わたしに在った。 わたしは、文学部の女学生たちに、「寧静館に、女子トイレがあるんですか?」と質問して、『この質問は変かもしれない?』と思うぐらい、このような事項を、まったく認識できない頭の構造になっている。 工学部で、評議委員の、山田忠男先生に相談すると、「至誠館の、北向きの上階の窓を、即刻、ベニア板を打ち付ける」と怒られたので、まじめな学生が傷つきますから、文学部の女子トイレ側に、カーテンなどの工夫を、お願いしますと、わたしは言った。 また、河原町のスナックなど飲み屋の、スコッチのボトルに、「犬千代」とか、「加賀、前田」とマジックで、サインをしていたり、「丸に十」の「島津藩」のも描いており、前田博司さんは、金に困ると、わたしに連絡してきた。 わたしに、態度が大きく、出自は、加賀か?島津か?ときくと、「そうよー、父が加賀で、ぼくは、日本乾溜の御曹子。母は、島津藩で、伯父は、陸軍の石山中将だったんよ」と言っている。 わたしが所持している、旧・陸軍の名簿にはなく、他の問い合わせをかさね、「偕行社」の人たちに、尋ねると、「中将」の記載もれは、ないのですがとのことだった。 そのため、わたしのイエと、級友とのイエの関係もあり、父が関連する会社だと、父に悪いので、河原町通りにあった、スナックなどの料金を、呼び出されると、女学生たちの事柄も、黙って支払ってきた。 1976年3月中旬、吹田市千里ヶ丘の、中野逸人さんが、「ぼく、誕生会、したことないねん、春休みやから」と言うので、3月中旬は、春休みではないと答えた。 が、1975年初夏、わたしのイエから、窃盗した、資料を返すという。 中野逸人さんが、窃盗したのは、「月面到着、Mission The Apollo 11 On the Moon 1969、7」「三島由紀夫割腹 1970、11」、「川端康成自殺、1972、4」の新聞、雑誌記事である。わたしのイエは、3大新聞、また、わたしは「タイム TIME」、「ニューズウィーク Newsweek 」を定期購読していた。この時期は、さまざまな事件があり、わたしは、他の雑誌も、新聞の販売店をつうじ、母に、買ってもらっていた。 それら、すべてを、窃盗したのが、中野逸人さんである。 しかし、手ぶらは、失礼なので、妹さんへ、ケーキ屋で、ケーキをと言い、わたしが、1000円渡すと、前田博司さんは、店員へ、金を渡す、中野逸人さんを見て、 「なぜ、中野が、金を払うのだ!」と怒る。 このときは、ケーキ屋へ入る前に、1000円札を渡したので、記憶が弱いという中野逸人さんでも、 「ええ? これ、マツダの、金や」と言った。 「それなら、いい。ぼくは5000円でいい」が、加賀藩直系だとの、前田・犬千代・博司さんは、この日、言った。 19) 女学生の紹介は、前田博司さんが、紹介の日、大成寮へ連れ込み、レイプしたもの以外は、5,6人のグループ交際でと、1976年秋、奈良女子大理学部の人たちのは、記憶にあるらしい。 デイトをして、どれだけ、わたしを利用したのかというと、2007年7月、 「奈良女は、マツダが、女が欲しいといったからだ」と言うので、わたしは、妻と、いっしょで、奈良女のスケート部に、わたしと妻が、伏見桃山リンクで、教えてもらい、知己となったことを、何回も言わせる。 「そういうが、ぼくには、記憶にないのだ」と言うので、前田博司さんたちを紹介したあと、スケートをいっしょにしたのではと、言ったが、スケートは、記憶にないという。 女子大生たちには、前田博司さんは、痴漢風の人と、交際はすべて断られた。 睡眠時間が、3、4時間の日々が続いていた1978年の秋、前田博司さんは、「まじめな交際をして、結婚がしたい」と言い続け、妻と同じ女子寮の学生を、四条河原町の西に上がった、ところにあった洋菓子の「ナガサキヤ」で、紹介をした。 前田博司さんは、即日、同志社の大成寮へつれこみ、強姦した。わたしは、女学生に号泣された。 前田博司さんへ、注意をすると、「あの夜も朝も、涙を流し、喜んでいたぞ」と言う。 この女学生の出来事への出費も、母が、「あなたの、将来があるのですから、お金で済むことなら」と言い、すべて、わたしが処理してきた。 このときの支払いと苦痛が長引いた。わたしの「ABO遺伝子論文」は学位論文だった。 20) 1979年1月、三条、寺町通りを下がった、「龍盛(たつざかり)」をあつかう「居酒屋」で、わたしは、偶然、知己3グループと会った。合計、20人近くが、離れ、集っていた。 「龍盛」の味は、錦市場の酒屋、「津之喜」さんに教えてもらった。 錦市場の近所に、長崎大学、初代法医学教室、精神医学の浅田一博士の、ご子息の、お嫁さんの実家、京湯葉の「千丸屋」さんがある。 わたしは、「津之喜」さん、ご夫妻が、つぎつぎ、教えてくださる、名酒と、おいしい湯葉があれば充分な性格をしている。 わたしは、「日本酒文化」に詳しい30歳の方と、湯葉料理を中心に、二人で呑んでいた。 この方が、「鯛のかぶら蒸し」を注文しましょうと言われ、メニューにないし、所持金が足りるかどうか心配していたら、「いえ、気にされる額でないです、(材料)二人分ありますか」と言い、料理人が、うなずかれたので、合わせていた。 桑名別院での葬儀の前列、左の夫妻の子息は、乳児だったので、写真には無いが、1979年、同志社在籍で、わたしと眼があったので、挨拶だけした。 ところが、わたしのイトコとわかり、話しかけた人物がいた。 数日後、母に、呼ばれ、叔母が怒っているという。 わたしが電話に出て、内容を聞いて、「君、しっかり勉強しないと、良い就職ができない」など、いろいろ、説教を、されたという。 そのため、わたしが知己のグループは、あのとき、3グループいて、わたしは、30歳ほどの文化人と別の席におり、ほかにどんなことを?と聞いてゆくと、そう言った、人を見下げる、内容は、手のラインから、「前田博司」という人物だと言った。 この件で、わたしは、10年以上、謝罪しつづけた。 わたしのイエは、このような、形式をもっている。 21) 日本石油勤務(いま、新日本石油)という、1954年生11月ごろ生まれの、前田博司さんの言動だが、1980年夏、わたしが、論文を活字にしたのがわかると、「これから、京都へゆく」といい、三条通りの「カステラの文明堂」の前で、「マツダ、これから、どうするのだ」と詰問をした。 とうじの、わたしの就職先は、後見人が、元京大総長、平沢興先生になったことから、最終的には、京大医学部の教壇だった。 わたしは、1978年はじめ、前田博司さんに、女学生を、紹介した日、大成寮へ連れ込み強姦した事件で、わたしは、教壇に、立つ資格がないと、判断して、平沢興先生に挨拶も行けないと言えなかった。 1983年冬は、マンションに、泊まりにきた。わたしは妻を、実家へ帰した。 前田博司さんは、風呂のフタとドアを、あけたまま、寝た。分譲マンションのクロスが、「結露」をおこし、大きく、破れた。 前田博司さんは、「『かるかん』の土産、一つ900円のが、あるではないか、食いさしではない、ぼくは、日本石油の社員だから、いいのだ」と言って、帰った。 こういったことは、2000年、四条通りに、月桂冠の居酒屋『かつら』があったが、先に、企業の、予約の日で、レジを、オーナーの大倉さんがされ、入店が無理のところを、30分だけと、無理をして、もらった。 酒の味の説明に、大倉さんが来られるというので、わたしは、失礼があっては、困るので、断ると、前田博司さんは、「してもらうのだ、ぼく、日石よ」と言い、わたしは、再度、断った。 なにしろ、加賀藩と島津藩が、自称、出自と言う方は、横柄で、困った。 2002年秋、わたしが、他の会社の重役たちと、夜、京都の不況の会議をしていると、「そうか、そうなのか、それで、どうなのだ」といつもの言葉をいい、切らせてもらうというと、またかけてきて、「ぼくは、京都の状態を知りたいのだ、なぜ、不況だ、テレビには、京都は、観光客がいっぱい映っている」の連続で、重役がかえった、12時になると、「マツダ、夜だ、寝る」と言う。 2007年のいまも、前田博司さんは同じである。 石油や、天然ガス、エネルギー資源の、「地下」の、大規模な採掘を連続すれば、地上が不安定になり、「地震」がおきやすくなって、当然のことだというと、「ほぉー、そうなのか、そういう考え方もあるのか、それで」と言う。 こういった言動は、「ガソリンスタンド」の経営者の苦しみ、傷みがわからず、アラビアの大油田を所有しているような雰囲気、「新日本石油」の、いまの責任者、会長「渡文明」さん、社長「西尾進路」さんたちが、女性を見れば、強姦してよいとか、地下の燃料は、文明国とやらの、独占とかを、社是にしていると考えるより仕方ない。 地球は、人間たちだけでなく、動物、ほかの生物も、共存する権利があると理解できる、市民たち。 良識ある、東京都と、警視庁の責任者に、許可をもらい、東京、新橋にある、新日本石油ビルの、地下を、採掘したら、どうだろうか。 ▲ 東山 「永観堂」 苔むす盛夏 2007,7,(写真:松田薫) ▼ 1980年6月 ABO遺伝子論文の序文 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-07-27 |