京都昨今
57、伊勢湾台風あとの桑名

1)
小学校へ、どうにか、通えるようになった、1960年6月、母から、姫路の祖父が、大阪市立大学病院で、外科手術を受け、容態が、わからなく、病院へ行くから、心がけを、しなさいと言う。
「ぼくが、行くの?」と聞くと、「そうです」と言う。

わたしは、1960年春から、大阪の済世会、中津病院を、小児ネフローゼからの仮退院中であり、4月の終りごろから、担任から、知恵遅れ、歩くこともできない子との、法外な言葉をいわれつづけ、5月、リューマチ症候群にかかってしまった。

母から、音楽の構造を少し習い、こんな簡単なことかと、安心し、床の中だったが、小康を得た。
「いつまで、通えるかどうか、わからんのやから、体を横にして、できるだけ、頭をつかわん、ように」と父は言ったが、わたしは、楽譜ばかり読んでいた。
学校へは、午前中だけだったが、ゆきはじめた。

直射日光はじめ、まだ、普通の子供としての、動きは、とうてい無理で、食事制限は、ネフローゼ患者と同じく、塩分は、ほとんど、なかった。

姫路の祖父が、庭でころび、庭石での打撲で、悪性の肉腫といっても、大阪の大学病院まで、手術で、来るということは、治癒と思った。

姫路の祖父とは1959年、わたしが、二回目の、死を前にしたときから、会ったことは、なかった。

いまのわたしの体調では無理なので、床から起き上がってと思いながら、「ぼくが、ゆかないと、ダメなの?」と、また聞くと、「そうです。天王寺です」と、いつもは標準語なのに、「江戸言葉」で、母が言う。

母が、江戸言葉を使うのを、聞くのは、1957年5月以来だった。
1957年春、わたしの病状をききに、印南郡の大国の母屋からもどってきた、父方の祖父が、
「こんな田舎の病院で、どうする。死んでしまう。大阪の大学病院へ、連れてゆけ」
と、父と母に命令した。

国鉄、宝殿駅の人たちは、わたしが、歩道橋の階段を、のぼれない状態の体どころか、まっすぐにも、歩けなくなってしまったと、知っており、大学病院までとのことで、神経をつかってくれた。
行き来する電車や列車の数が少ないときで、駅員も知り合いだから、可能なことだった。

わたしが、神戸の方向へゆくとのことで、駅員二人が、線路へ降り、ひとりは、危険信号用の、旗をもち、ホームから、通過する電車の、確認する役割をしてくれた。
わたしは、自分自身が、歩けないどころか、倒れるという、大げさな病気になってしまったと思った。

他人に、触られるのが嫌な、わたしの性格を知っている、駅員の人たちは、わたしが母といっしょに、ゆっくり、駅員用の通用路の、線路の石を敷いた道を、二十センチぐらいの歩幅もとれない、足をすすめ、歩いてゆくのを、見ていてくれた。
母は、駅員のひとたちに、お辞儀ばかりをして、わたしも、ゆっくりした動作で、頭をさげながら、病気の自分自身の外出が、苦痛だった。

2)
兄が生まれ、わたしが育ったのも、大学病院がそばの、神戸の楠町、大倉山なので、元気だったときは、慣れ、大通りにも、混雑を見ることがなく、ふつうの子供のように、飛び跳ねて歩ける、町だった。

しかし、1957年の5月は、神戸駅の階段が、こわく、北側の手すりをもちながら、一段一段、降りてゆくしかなかった。

わたしは、重体で、発熱のときでも、母の手すら、借りるのが、嫌な性格をしていた。

神戸には、子供のわたしを、自由な気持ちにさせてくれる、海風が吹いてくるところの思い出が強い。
が、1957年の初夏の神戸は、人ごみで、わたしに、冷たく、知らんふりをする、町へと変化していた。

階段をのぼってくる男たちに、非常な勢いがあり、手すりをもつ、わたしに当たってくる。
母は、わたしの下で、わたしを、かばう姿勢をとっているが、難病で、歩行ができない、子供を守ろうとする、弱い立場の母親の気持ちなど、理解しようと、しない町になっていた。

改札口の光景も、1954年ごろは、神戸や三ノ宮の、うす暗い駅員室には、行き先のない蔭りの表情と汚れた服装の戦争孤児など、子供が、ひとりぐらい、居たのを、見ることができた。
わたしに、とって、つらかった光景は、以前から、なかったように、明るく、大きめの駅員室となっていた。

神戸駅の出口では、タクシーの乗車拒否の連続だった。
1954年までは、大学病院のある、北へゆく、クルマは、数えるほどだったのが、並行して来る。

腎臓病への理解がなく、伝染病患者とおもい、直射日光が、体を弱らせるため、頭から、首もとにかけている、母のうすいスカーフなどを見ると、あわてて、クルマを発進させた。母が一台を止め、わたしをタクシーの中へ入れ、「大学病院へ、お願いします」と言ったとき、「伝染病や」と運転手に言われ、タクシーから、降ろされた。

このような、タクシー運転手による、「拒否」は、大阪の方がひどく、わたしには、生活の地だった、神戸も、同様の、騒がしく、乱雑な言葉が吐ける、町へとなったと、あきらめの気持ちになった。

わたしが「宝殿へ帰る」と言うと、母は、「ハイヤーを呼びにゆくから、ここで、待っていなさい。そこだから」と言って、戦後の、1948年ごろから、仕事で、走りなれたガード下の道を、渡り、ガードの南にある、ハイヤー乗り場へ、いった。

わたしには、母の、「ここで、待っていて」と言う言葉に、おそれを感じていた。
母も、この、理由を知っていて、「すぐ、前だから。ここね」と、道を渡っても、言った。
妹が生まれるまえ、母は、兄だけつれ、よく、家出をした。
わたしが数え、三歳となり、跡継ぎや、急に倒れる体ということで、いっしょに、家出ができなくなり、兄だけつれ、出て行った。

後を追いかける、わたしの衣服とズボンには、縦2センチ、幅3センチほどの、手づくりのお守りが、二つ、つけられていた。
お守りの中には、三寸角(10センチ)ほどの、母の短歌用の紙が、折り畳まれ、「迷子になれば、お願いします」と、住所と電話番号がかかれてあった。

母は、印南郡米田町の独立騒動も嫌がった。
それよりも、母方の祖父による、徹底した、兄のしつけには、「わたしが、悪いのです」と言い、よく、泣いていた。

3)
母は、大阪と神戸を中心に、大学病院ほか、両方の祖母方が、江戸時代、薬師(漢方医)の家系があることから、漢方薬屋へも相談した。

わたしは、「治りません」という大学病院も、「これで、治ります」という、漢方薬屋も、嫌いだった。
漢方屋の光景で嫌なのは、まむしや朝鮮人参を、アルコールで、浸けた瓶があることだった。

父方の祖母は、母が、漢方薬屋で言われた、処方を見ると、縁側に、小さな焜炉(こんろ)の上に、土瓶をおくと、ゆっくりたいてゆく。

わたしの生家は、病気のときは、すぐ煎じ薬だった。
わたしは、ニオイに過敏で、これをされると、イエにいるのも苦しくなる。が、家族は、いっさい、言葉にしない。
「おばあちゃん、これ、嫌」と言っても、父方の祖母は、50歳がすぎ、「おうな」の役目と思っているのか、いつもの静かな表情のまま、黙って、時間をかけ、してくれる人だった。


慣れた神戸大学病院からも、「どうせ死ぬんですから、、、」と、朝一番から、またされ、夜6時ごろ、医局から出てきた、医師に言われたのを、母といっしょに、聞いた。

母が、ネフローゼの子供をもつ、親から、姫路に、良い医師がいると、聞いたのが、慣れた神戸大学病院だった。
「姫路日赤なら、先に、行っていますが」と母は、怪訝そうに、答え、何って言う名前のお医者さんですかと聞いていた。が、医師の名前は、記憶にないと言う。

五月の中旬になる、金曜日ごろ、姫路日赤の小児科へゆくと、医師が、「放っておいても同じ、死にます」と言ったとき、母は、「治る可能性は、ないのでしょうか」と、神戸大学の医師にもした、質問をつづけた。
「ないです。どこへ行っても同じです。皆、すぐ、死んでます」と、神戸大学の医師たちと同じく、腎臓病を伝染病とかんがえていた、医師の名札の順から、一番偉い、年配の医師が、いぎたなく、言った。

4)
このように、伝染病患者であれば、人を人と思わない考え方をする小児科医に、慣れながら、母は、姫路日赤の、入り口から、二階へつづく、外来の待合室で、大病院で、腎臓病の子供をもつ、母親たちに、どこの大学病院でもするように、
「情報交換してくださいませんか」と、つぎつぎ、聞きまわった。
母が言う、「情報交換」という言葉の意味は、姫路では、わからず、とまどいを見せる、母親たちが多い時代だった。

これまでの習慣というか、母は、偉い医師の診察日は、「月曜日の午前中」と「金曜日」というふうに、考えていた。
時代は、すこし、変化していたようだ。

「良い先生が、いるときいたのですが?」と、姫路周辺からの患者の親たちにきくと、
「重い腎臓病だと、きのう担当の、この先生とちがいますか。別の日も、診てくれますよ」と、椅子に座っている、子供の祖母にあたる女性が、「山本又一」の名札を指し、答えてくださった。

「山本又一(やまもと・またいち)」先生の、医師の序列をしめす、名前の順番は、間を、おき三番目かで、診療が、火曜日にもあった。

「そうですか。ありがとうございます」との礼をいいながらも、元気のない、母をみて、わたしは、映画で覚えた、剣豪の荒木又右衛門と、同じ、字、「又」があるので、「荒木又右衛門(あらき・またえもん)と、いっしょ」と、母に、ほほ笑みながらいった。
母は、「まえには、気づかなかった先生ね。そうよね」と、いいながら、母は、これまで、何回もした、良心のある名医への、期待を持ちすぎたせいか、黙ったままになった。

歩けない状態になっていた、わたしへ、いつもどおりの、近くでも、無理をきいてくれる、なじみの姫路のハイヤーを選んだ。

5)
夜が近いころ、東雲町の祖父のイエへ、報告に行った。
母は、疲れと、希望のなさか、敷居に、脚がくずれ、右の足の、足袋がかかっていた。

わたしは、いつもだが、祖父のまえで、無言のまま、自分自身の体が、どうしようもないものだと、母より、祖父に近い、位置で、脚をくずし、体が、斜めになる格好をしていた。

母が、日赤の医師に言われた、
「放っておいても同じ」と心なく、無造作に言った、医師の言葉を告げると、書見台の祖父は、しばらく沈黙のまま、書物へ視線を置いたまま、
「人を人とも、、、」と小声でいい、書物から、畳へ、視線を変え、
「医者の分際で」と、心身から出る、厳しい声で言った。
わたしは、祖父の、激しさのある言葉を、聞いたのは、生まれて、はじめてだった。

母は、敷居からの足をもどし、畳の、間へ、はいり、脚をはじめ、着物をただし、両手を畳につき、頭をさげ、
「お父さま、弱音をはいて、申しわけありません。わたしが、いたりません。良い先生が、ひとり、居るとのことですから、日を改め、もう一度、日赤へ、行ってまいります」と、江戸言葉で言った。
わたしの眼には、いつもより、鴨居と敷居の空間が、大きく見えた。

医師の娘でもあった、祖母は、わたしたちから離れ、台所の板の間で直立し、黙ったままだった。
わたしは、わたしのことで、姫路の祖父たちを、悲しいめに、合わせてと感じた。

6)
6月の初旬が進むにつれ、母は、祖父の容態が悪く、大阪へ護送されてくるという。
外科執刀は、日本一の医師だけれど、大学病院で、待機と言う。

わたしは、1953年正月、遺言は、聞いているが、念のためなのか、祖父は、もう一度、望みも言うとのことだった。

豊中市服部での、隣のひとは、文房具の卸屋勤務だった。
鉛筆削りで、文房具のカタログから気に入ったのは、「エルモ」の削り箱が、プラスチックで水色のスケルトンになったハイカラなものだった。

文房具は、兄は、相変わらず、緑色の六角形の三菱鉛筆だったが、わたしは、丸い形や三角柱のような、別のメーカーだった。

玩具では、兄は、北欧のを中心とした、舶来のものばかりだったけれど、1959年ごろから、大きく、時代が変わったのだろう、1960年になると、日本製のでも、気に入る、色彩や形のものが多くなった。

手術のことに、祖父の死期が近くなり、泊り込むということで、隣の文房具へ勤務されている方は、病院で退屈しないように、わたしへ、これまで注文したことのない、新しい、プラモデルを8つ、用意してくれた。

いままで、見たことがないものに、潜水艦があった。ありふれて作ったことがないゼロ戦もあった。

潜水艦だが、わたしは、水道水であっても、水は、わたしの体温を奪うということから、水道すら、ふつうの子供のように、触れることは、許可されておらず、船のたぐいは、許可が降りなかった。

7)
天王寺駅から近い、入り口に、楕円の形をした噴水がある、大阪市立大学病院へ行った。
天王寺の、1960年の空は、神戸などと同じく、戦争の瓦礫が、周辺にのこり、空襲を受けた、建物の残骸は、黒く、それに合わすように、灰色だった。
曇り空だったので、より暗くみえた。

祖父が、手術中とのことで、待合室で、わたしは、これまで、作ったことのない、ゼロ戦をつくりはじめた。
形が好きな、紫電改と飛燕は、先に注文して、イエで作っていた。
兄とイトコは、別の病棟の屋上から、紙飛行機を作って、とばしている。

あと、機体に、シールを貼るぐらいになったとき「潜水艦にしろ、噴水があるから」と兄が言い、イトコも「潜水艦、潜水艦」と言う。

潜水艦は、ゴム動力式になっていて、沈めるため、一度、プラモデルの中に、水を入れ、水中で、手を離すことと、水遊びを禁じられていることから、「あげる」とイトコに言った。
「作れない。早く、作って」と、一人っ子で、言い出すときかない、ヒサ坊が言う。

許可のため、母に言うと、市立病院の入り口まで、水温を診にゆき、生ぬるいから、良いという。

ゼロ戦のつぎ、潜水艦をつくりはじめ、疲れたので、病棟のエレベータを使い、夕方の、屋上から、学校の帳面を、ちぎり、紙飛行機を飛ばしている、兄の、遊びの方が楽しそうに見えた。

兄に、紙飛行機の折り方をならって、空に飛ばした。
兄が、翼を大きくしたのを、飛ばすと、平行してある、別の、団地作りの、病棟の屋上の方へ、ひらひら、蝶々のように飛ぶ。
わたしは、プラモデルより、これの方が楽しいと言った。

姫路の祖父のイエでは、うすいクチナシ色で、縦の朱の線がひかれ、文字も同じ朱で、中央に「内務省」と書かれてある、ろう引きの硬い紙で、兄と紙飛行機をつくった。
父方のほうは、製図の白いケント紙はじめ、いろいろな硬い紙があるけれど、学校の紙がうすい帳面で、飛行機なんて、わたしには、考えつかなかった。

ひごろ、プラモデルを作らない、兄も、わたしが、紙飛行機のほうが楽しいといったときは、そう思った、表情になった。が、10以上の紙飛行機を飛ばし終え、エレベータをつかい、取りにゆくといい、階下で、イトコのヒサ坊は、エレベータを、すぐ使えるように、停止用のレバーを上げたので、「病気の人の運搬があるから、看護婦さんに、叱られるよ」と、わたしは、同じ年のイトコに注意をした。

「それより、早く、潜水艦」とイトコがいうので、わたしは、潜水艦作りのつづきをした。

祖父しかいない、病棟へつづく、待合室で、わたしが、プラモデルつくりに熱中していると、婦長さんが、兄とイトコを連れ、「エレベータを、遊びに使っています」と注意に来た。
母は、「申し訳ございません。あなたは、六年生にもなって、どうして」と、兄だけ叱った。

潜水艦ができたので、兄に、一度沈めて、進行させる、方法を見せた。
潜水艦は、うまく、一番、線形がながい斜めの、対称となる、噴水の端に到着した。

兄は、胴体が直径一、二センチほどの木製で、翼は竹ヒゴに、火をあて、まげる、うすい紙をはり、ゴム動力による、組み立て式のは、数え切れないほど作っているので、ゴム動力の加減は、飛行機より、簡単といって、わたしは、待合室へもどった。

わたしは、待合室で、ゼロ戦の組み立てのつづきをした。

8)
祖父は、わたしには、注意ごとや、叱ったことはなかった。

二歳のとき、わたしが、姫路駅まえで、本を、いつもどおり、小学生用のもの、10冊ほど買ってもらい、午後、書見台の祖父と、ななめで、向かいあうよう、読書しはじめた。
3時間はすぎ、書見台から、眼をはなした祖父は、黙ったまま、読書をつづける、わたしを見た。
わたしは、なんだろうと思い、黙ったまま祖父をみると、祖父は、黙ったままだった。

夕方に向かい、読む本がなくなり、わたしは、祖母から、もらった、糸を巻いてある、硬いボール紙で、小さな飛行機をつくり、輪ゴムで、とばしたとき、襖の、上の部分を破ってしまい、「あっ」と、わたしは言った。
わたしが、行儀の、悪いことをしたのは、はじめてだった。

祖父に、叱られると思い、謝らないといけないけれど、なんって、言ったらいいか、わからないと思っていたら、祖母が、母と、あいだにはいり、「前から、破れて、いてね」と祖母は、江戸弁で言い、なかった事になった。
わたしは、嘘をついているという気持ちになって、祖父をみた。

祖父は、祖母と母の気持ちが、わかったのか、わたしと、眼をあわさず、書見台のまえから立ち、黙ったまま、散歩へ出かけた。


母が、わたしを呼ぶ。
「麻酔がとれました。よしのぶ、おじいさまが呼んでます。男子(だんし)ですから、おじいさまの姿を見ても、涙をみせないように」と母が、言った。

わたし、ひとりが、祖父の病室へ入っていった。
リクライニングで、祖父は、体を、半分、起こしていた。
祖父のベッドの西側に、祖母だけがいた。

祖父は、どこまでも、清潔にし、規律をまもり、自分自身をただしていた。
わたしは、直立したまま、祖父の眼を、だまって、みていた。

「よしのぶ、おじいちゃん、こんな、姿になったよ」と、祖父の声は明るく、白衣の、寝間着から、右手で、失った右脚をさする、仕草をした。

病名が、肉腫であること。
小児ガンの子供をはじめ、悪性の肉腫の患者を知っていたため、どのような手術かは、わかっていた。
ひごろ、祖母からも、「おじいさん」と呼ばれ、母たちは、「お父さん」と呼び、姫路に泊まり、朝の挨拶は、「おじいさま」だったけれど、ひごろ「おじいちゃん」と呼ぶのは、わたしだけだった。

9)

戦後の祖父は、祖父兄弟たちは、GHQ連合軍が、職業を奪う方針をだし、それに黙ったまま、人生を、すごした。

1955年4月、兄は、米田町立、米田小学校へ入学した。
兄は、ジャケットに、ネクタイで、わたしは、小学校へ入学すると、賢くなると、思っていた。
父方では、祖父をはじめ、小学校へ入学したと、よろこび、兄には、つぎつぎ、贈り物がきた。祖母も叔母も、笑顔でいっぱいだった。

兄は、米田町のつもりで、はずみ、姫路のイエで、書見台に向かい、読書する、祖父のまえを、通りすぎて行った。
わたしは、祖父の気配から、兄は、なぜ、姫路の祖父が、注意することを、と思っているとき、
「商売人の子は、小学校へ上がっても、落ち着きがない」と叱責した。
兄は、うなだれたまま、元気がなくなった。

このとき、「おじいちゃんの、バカ」と、三歳のわたしは、書見台の祖父に体当たりをした。
祖母と母は、わたしの言動を、だまって、見ていた。
祖父は、黙ったまま、自分自身が、悪いことをしたかの表情になった。

1958年秋は、杉戸町の高田英おじさんが、借金の申し出に来たとき、額面がわからず、姫路日赤へ、見舞いに来てくれた、祖父に、「死ぬまで、口をきかない」と言った、自分の言動が、思い出から、かさなり、浮かび上がってきた。

外科手術をうけた、60歳代おわりの、祖父に悪いことをした、わたし自身が先に死ぬはずだったのにと思い、ベッドの寝具の端に触れるところまでゆくと、しぜん、涙が出てきた。


梅雨が、終わろうとする時期となった。
祖父の容態が、悪く、再入院という。
わたしたちは、大阪市立大学病院で、まった。


祖母をとおし、母が、「よしのぶ、おじいさまから、遺言です」と呼びに来た。
二重に、仕切られたカーテンに、一重の部分がつくられ、うすい、夏の朝のひかりが、ひとすじ、ふたすじ、やわらかく、射す光景のなかに、わたしは、立った。
祖父は、「よしのぶは、学者になりなさい」と静かな声で言った。

わたしは、祖父とは、死ぬまで、口を効かない、言葉を発しないと決めた以上、黙ったままでいるつもりだったが、衰えた祖父の表情を見て、これまで、ずっと、何も言わなかった、わたしの態度が、非常に、失礼なものに感じた。

祖父は、わたしの性格を、理解していると思いながら、わたしが、三歳のときに言った言葉と同じだったけれど、「はい」と返事し、また、涙が、出てきた。

祖父から、祖母へ、悲しみにいる、わたしの病状が重くなると思ったのか、「つぎは」と祖母は、わたしの後方に来ていた、兄を呼んだ。

祖父は、孫では、わたしと兄にだけ、将来のこと、遺言を言ったあと、死んだ。
7月18日だった。

10)
葬儀は、7月下旬にかかるとき、先祖からの法要をし、菩提寺が中にある、桑名別院だった。
朝、わたしの、後見人の、佐川のイエに、挨拶へ行った。
わたしは、応接間で、かるい会釈だけをして、黙ったままだった。

伯父は、応接間から出て、縁側から、棕櫚をみ、藤棚もみるように、周囲がいることから、挨拶の言葉だけをいい、前田の血筋そのままの、気むずかしそうな眼で、空を見ていた。

前田のイエにも行った。伊勢湾台風の跡とは知らず、前田の二つのイエは、台風後、10ヶ月がくるのに、まだ、修理の途中だった。
退屈にかんじたので、「城へゆく」と母に言うと、「お取り潰しにあったのです」という。
「だれが潰したの?」ときいても、桑名城のことは、母も血族も、返事をしない。

1959年9月下旬の、伊勢湾台風のとき、わたしは、姫路日赤で、二回目の臨死の状態だった。

わたしの病状があり、母は、桑名の親戚のことは言わなかった。

祖父兄弟が、内務省の警視庁勤務や司法省の裁判官だったため、戦時中は、東京での職務がつづき、空襲にあってしまった。
また、故郷、桑名も空襲で、GHQ連合軍に、職業を、剥奪され、桑名へ、もどっても、生活の方法がなかった。

1948年ごろ、松田のひい爺さんと祖父の配慮で、GHQ連合軍からの、さまざまな解体にあっても、姫路には株券はじめ、桑名へは、輸入していた、機械や自転車などを与え、商売人として、生きるすべを与えた。
なのに、城址そばを、本籍とし、住まいの、前田の血族は、伊勢湾台風で、家族ごと、海へ、さらわれ、命を失った。

ほんの、瞬間の出来事だったと、母は言う。
このことは、わたしが悲しむため、母たちは、言わなかった。

東海道一の宿場町、城下町でもあった、桑名は、大空襲のあと、堤防の修復の余裕なく、伊勢湾からの、高波の海水で、桑名駅から、大きくのまれ、桑名の町は、土色に汚れていた。

10)
桑名別院では、葬儀で、わたしの立つ、場所は、本堂へ向かい、右。最前列と、決められていた。

紫衣10人たらずが、勤行とともに、舞台の左右の側からのように、歩みくる。
つぎに、白衣10人ほどが、同じく左右から、合掌 し、わたしから少し離れたところに並ぶ。

わたしは、この後へ続くのかと思っていたら、同じく、数珠をもち、読誦する、若い黒衣の10数人が、左右、八の字の形から、紫衣、白衣と、平行に、なるよう、祖父が逝く、冥福への、廻向のため、経典を、称名念仏して、わたしと祖母の前へ、歩みよってくる。

白くこまかな、夏のにおいがする、砂埃がたち、後ろの母に、「こんな、後ろは、嫌」というと、わたしのそばにきて、「一番先頭です。長谷川を見なさい」と言う。血縁の末家名で、標準語の長谷川は、別院の、入り口ぐらいに、多く居て、並び、にこやかにしている。

声明は、人間の、祈願の力の証しであるが、僧侶、30数人による、腹腔からの声は、桑名別院が、地響きしそうな勢いがあった。

梅雨あけの、桑名の空は青く、暑く、直射日光が禁止の、わたしには、眼のまえが、黄色から、黒色の、貧血状態のようになった。

母に、「お兄ちゃんに代わって」と言うと、「だめです。できません」と、わたしに言う。
父に、「いま、眼のまえが、黄色から、黒色がまじっている」と言うと、「黙りなさい。話かけては、いけません」と母が言い、父も、何ひとつ言ってくれない。
「もう、わからない。倒れる」と言うと、「言葉をつつしみなさい。士族として生まれたのです。今日は、倒れても、お役目をはたしなさい。死んでも立ってなさい」と、また、左横、祖母の頭をこして、言う。

さらに、「おばあさんの、焼香の手順が、間違えないか、注意し、見ながら、あなたは、しなさい」と江戸言葉で言う。
わたしの左側の祖母は、弱く、黙るというより、何も話す、元気がない、表情になっているのを見て、
「おばあちゃんは、法事に慣れているじゃないか」と言ったが、祖母は、なんの反応もしない。
それを知ってか、母は、「だめなんです。おばあさんには、前田の血が流れていません。これまでの、大きな式典は、おじいさまの指導です」と言う。

わたしは、桑名別院、本堂での、祖母がする焼香の手つきを、見て、済み、並び、着し、母たちが来て、末家名の、大勢の長谷川が焼香を終え、座り、この順が終えると、気を失い、倒れた。

母は、わたしを、連れ、本堂の裏へゆき、ネクタイを外し、ワイシャツ類をぬがし、扇子で、わたしを、あおいでいた。

読経が終わると、倒れた状態の、わたしを、前田のイエへつれてゆき、また、別院で、挨拶といわれ、大勢の人で、また、倒れ、写真を、親族の順にとったら、血族で、火葬場だという。

ハイヤーのならびは、3メートルほどの高さのある、樹木の間を、ゆっくり、とおり、すすむ。
火葬場は、新しく、直線を生かした、モダンなもので、中庭には、白の玉砂利がひいてあった。
手術のまえから、眠ることなく、緊張したままの、祖母が、祖父の喉仏など、いくつか、ひらいはじめた。

わたしは、中庭の、桑名の、濃い緑を知ろうと、息をし、白の玉砂利を、もういちど、革靴の底で、音と感触をたしかめながら、祖父の故郷である、桑名を、祖父に、案内してもらえる時が、いちどだけでも、あればとおもった。





 夏香白(なつかしろ)  心ひく宿(しゅく)   さかえ見る           「薫」



前列、右、二番目、松田、三番目、母、母の前、妹。
後列、右、一番目、兄、五番目父。1960年7月下旬、桑名別院にて。

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-07-03