京都昨今
56、草緑がそよぐ春の姫路

1)
母との写真は、姫路城の公園にあたるところである。
姫路城の公園がうしろとなる、1952年の3月、生後7ヶ月ごろの写真で、このように、わたしが笑っている写真は、これしかない。

カメラは、旧・「鉄道院」勤務の叔父、伊藤八郎で、母の視線は、レンズの方を向いている。
わたしは、「写真、わらって」と言われると、不機嫌になるため、咲江叔母さんが、腕をあげたり、のばしたり、体操をするような、仕草をして、わたしを、笑わせようとした。
そして、わたしが、笑った。

わたしの、記憶は、生後10ヶ月から断片として在るが、GHQ連合軍により、播州かいわいでも、多くの人たちが、命を落とし、姫路での、この春の朝は、草や土の香りを、感じられる、一瞬だったのだろう。

風が吹き、髪がばらばらになっても気にしない、咲江叔母さんが、春となり、芝生や草花が、あらたに生きかえろうと、そよぐ、姫路城の公園のところで、ほがらかに楽しくしてくれた行為だけが、記憶にある。

母も、一番下の、ひとと諍いをさけ、気取ることを知らない、咲江叔母さんと、いっしょのときは、気持ちが楽だったのだろう。

この写真は、母の生涯で、ほんの、ひととき、一、二時間という単位だけれど、太平洋戦争で、血縁はじめ、多くのものを、なくし、生命を、残り得た、ひとりとして、平和というもの、その、ひと呼吸が、できたときだったと感じる。

この写真に在った、ひとときのあと、4月、敗戦後、6年以上たっているというのに、きゅうに、戦後の複雑な感情と行動が、両親へ、押し寄せ、わたしの家族は、播州から、東京での、生活となった。

2)
播州、印南郡、米田町へもどってきたのは、生後すぐの、わたしを、背におい、育てて、くれていた、ひい爺さん、松太郎が、逝ったという、父にとって悲しい連絡が、入ったからだった。

父から、わたしが、松田のイエへ、養子にきた、じいさん(松太郎)での、背中では、静かで、おとなしかったと、最近、聞かされたとき、飼っている、猫や、鳥が、死んだとき、倒れる体質をしている、わたしには、曾孫の体の温かさが、消えたとき、さびしかったのではと言うと、「いや」と短く、言った。

姫路城下が、姫路城で華やかな町でなく、悲しい土地でもあると思ったのは、2007年になり、ここが、姫路連隊があったところで、父は、毎日、行き先を告げられることのない、4列縦隊での、20キロ単位の、演習がつづき、不備がなくても、整列すると、上官に殴られるばかりの、日々だったという。

身長の高い順番での演習は、革靴などなく、地下足袋も、すぐ破れ、踵(かかと)が出てしまっても、つづいたという。

日本の軍隊の歴史を調査しているときは、身長や体重のことは、わかっていても、じっさいの事は、わからなかった。

あらため、陸上競技はじめ、順位がつく、争いごとが嫌いな、父から、身長の順番ときいたとき、軍曹に上等兵だの、階級だけが自慢の乱暴な軍人に、生まれに育ちや、学歴のことから、いつも、先に、殴られる、一兵卒だったのかと思った。

3)
1990年代はじめ、父が、「ちょっと、眼を診てくれ」というので、左目をみると、人体上、開いていないところに、小さな、穿孔がある。

手術時をきくと、「学生のときや。涙が上手いこと、流れんでなぁ」と言うので、どこの大学?と質問すると、「阪大や」と言う。
1940年ごろの、大阪帝国大学での、眼科の手術代金は、想像ついたので、聞かないことにした。

わたしの、考えこむ、表情に気付いたのか、「ばあさんが、なぁ」という。

ひい婆さんの「つる」は、昭和時代がはじまった、1927年ごろ、生まれつき過敏な体質からと、白内障にかかり、次第に、失明となったので、同じく、皮膚など敏感で、先のある、父が、学生で、これからというとき、失明でもしたらと、阪大へと、なったという。

父の、涙が上手く流れない、という表現は、1940年ごろ、同級生たちの中で、兵隊へ、志願して行った人たちが、戦死し、黙って、悲しんだのだろうと思ったが、聞かなかった。

父は、いまだ、わたしへ、直接、級友の戦死者の名前を言ったことはない。

4)
わたしは、2006年になるまで、神戸大学が、昔、県立と知らなかった。
2007年になり、父は、兵庫県立での学生時代、関西で唯一、「国立」の工業専門学校(寝屋川市、2年間。わたしたちの時代は、「府立」大阪工専、5年間で、戦前と同じ場所)へ進学した級友が、加古川市の野口(のぐち)へ、養子にゆき、すぐ病気で、亡くなったときいた。

わたしと違い、勉学の好きな、父は、旧制加古川市立のときの、級友が一番の思い出なのか、進学で、別れたくなかったという。

戦前の「学制」は、習熟の程度で、飛び級をしてゆく。兵庫県立(尼崎)の学生となったときも、級友と離れたくなかった感情があったようだが、軍国主義で、機械中心の時代、一刻でも、惜しんで、国の為に働くという事項が、優先したようだ。
わたしの父は、金属では、「0.000」の世界を、手の感触でわかる。

母は、嫁いできた以上、少し、学習しようと、教えて欲しいと言っていたが、「見てわからんものは、聞いてもわからん」が十八番で、このたび、「わからないから、聞いているのだし、教えて欲しい」と、母が、口論をしかけるが、父は、無言のままだった。

イエには、機械油の種類が多く、揮発性の高いものでの、数種類は、1950年代、一斗缶などから小分けし、ビール瓶にコルクをしたようなもので、置いてあった。
機械が専門の、父でも、二種類に関しては、ニオイや感触でも分からなくなるものがあった。

一歳のわたしが、指につけ、「つるつる」、「ひりひり」と、複雑にみえる、機械油類を識別しているのを、父は、「区別がつくのか?」と、驚き、言っていたが、熟練した祖父は、黙ってみている人だった。

皮膚構造が弱い、乳児だった、わたしの指が「つるつる」するのは、要するに、皮膚が溶けていることを意味し、「ひりひり」と言うのは、更に、高い精油のもので、指の皮膚から、中へ、浸透し、刺激が強いと言う意味だった。

そのため、わたしが、こういったことをしていると、父は、危険だと気づき、「あかん」と、母を呼び、母は、また祖母を呼んでいた。

5)
家業が、機械工業で先端をゆく、欧米の機械を使用していたため、欧米の力と、日本をふくめアジアの力の差を知っていたのは当然のことだった。

戦争が、機械と機械の競争になった時代、機械が専門で、正しい事となると、軍部への責任者へ、発言をしにゆく、祖父たちが、消えるできごとがあって、当然とも言えた。

父から、戦争が激しくなった1944年春、「ワシは、働かなアカンから」という言葉を、聞いたとき、疑問がわきながら、高砂市での「軍属」ということに加え、血縁の鉄鋼所が、堺市、尼崎市にもあり、それらへの実務を入れると、父には、眠る時間が、ほとんどなかったのではないかと思った。

わたしは、「日本毛織」が、加古川の西側にあったことが、わからず、理解しがたい表情をしていると、「トロッコがあったやろ」と言う。

わたしが、加古川を歩いたのも、日本毛織の見学へ、行ったのも、1962年の、一度だけで、トロッコ?と言うと、「あの、上流から、高砂の大阪陸軍造兵廠向けの、取水をしてなっ」と言い、トロッコは、わたしが、加古川市立川西小学校の在籍中もあったという。

これを言っていると、母も、埼玉県杉戸の、幼なじみのイエに、トロッコ線が走っていてと言う。
「イエにトロッコ?」と言うと、「大きな家だもの」との返事だった。

トロッコの話しから、昭和のはじめ、国鉄の山陽本線の「土山(つちやま)」駅から、自社向けに「引き込み線」をつくった、大きな会社が、戦後、経営権利を、「外国人」に、奪われるという事件があった話が、少し、出た。

この言葉から、とうじ、支配者のGHQ連合軍とソビエト連邦が、加古川はじめ播州地域を混乱させる行動をしたと思った。
金銭と権力にだけ敏感な、日本の「戦犯」たちをつかい、仕掛けた、「労働争議」で、経営者側になる、加古川の野口へ、養子へ行った、父の静かな級友は、命を失ったのではないかと思った。

経営者でも、いろいろあり、家族中が、休みなく、ただただ働くだけのイエに、GHQ連合軍による「資本家」という、宣伝文言で、排除から、略奪へ向かう行為は、あまりにも、たやすい。

いまのように、匿名での、通信が発達した、時代の弊害は、枚方市でも、江戸時代からの、ただただ、働くことを、義務と誇りとする、イエへ、「生まれが悪い資本家」とかの、文言があった。
父に、労働を知らないイエかと聞くと、「ちがう、船橋川の、旧家や。いろいろある」との事だった。

「大阪陸軍造兵廠」での、父の話を集めると、わたしが、高校生のとき、運動部の、ランニングで、「山田神社」から、「香里園」の方向へ。
クボタ(久保田工業)から、小松製作所の方向など、大阪陸軍造兵廠が、在った箇所ばかりで、因縁とかでなく、日本の小ささを知った。

わたしは、短距離とちがい、長距離は、まったく、苦手で、息が続かず、1968〜69年ごろ、大阪陸軍造兵廠が、在った、近くの、道路の端に、五分ぐらい、よく、倒れていた。クルマなど、一台も、通らなかったことが多かった。

6)
父の短い言葉に、複雑な感情があるとわかり、これ以上、質問をしても、答えてくれないだろうと思った。

わたしは、1956年、母が三ノ宮の駅で、負傷した、初夏、父の妹、叔母が、4歳のわたしと、妹と、神姫バスで、シオヒガリに、連れて行ってくれた、場所をきいた。

「高砂か?」というので、長さ、7メートルほどで、三角と、台形(横帆、おうはん)の茶色の帆布で、操作していた、木造船が、2隻ほど、海から、砂浜へもどってきたことを言った。

船は、妹が生まれるまえ、「ポンポン船」を、兄と、神戸や、大阪市の千船で、見学させてもらったことがあるけれど、ポンポン船は、ゆっくりとした速度なのに、いきおいのある、帆布船を、ぼんやり、見ていると、体格のある、叔母が、あわててきて、わたしと妹の前に、立ちはだかった。

バスには、わたしたちだけだし、海には、他に、一家族が、居たぐらいと、記憶の断片をいうと、
「漁師の船や。大塩か、的形(まとがた)やろ。村が小さいし、シオヒガリなぞ、誰もゆかん。ワシも行ったことがない」と言う。

茶色の布をつけた帆布船が、砂浜につくと、わたしは、海や川へは、足首までしか、浸けることを、許してもらえない、体だったので、4歳のわたしと、2歳になろうとする妹と、スコップで、砂浜の貝を、いっぱい捕ったつもりだった。

叔母に見せると、「これ、バカ貝(青柳)やない」と言って、小さなバケツに、いっぱいの貝を、海へ捨てられた。

わたしと妹が、「ああっ」と言うと、「食べられへんの」と叔母は言い、「まて貝にし」と言って、砂浜での、小さな陥没に、塩を、入れると、いまのと違い、幅が、一センチ以上ある、大きな「まて貝」が、上がってくるのを見せ、わたしと妹は、まて貝を捕ることにした。

7)
姫路動物園へは何度もゆき、キリンが、一頭、もどってきたのは、1953年春ごろだったような気がする。

壊れかけのような、木造の小屋にいる、キリンが、さびしく、かわいそうに思えた。
動物園の人が呼ぶと、毛並みなど、手入れがゆきとどかず、汚れた、キリンが、錆び、歪んだ柵から、顔を、わたしの方向へ、向けてくれたのも記憶にある。

このころの姫路城の大通りまでゆくと、母と兄とわたしぐらいしか居なく、もどってゆくとちゅう、また、別の家族と、会うぐらいのものだった。

戦時中、姫路城は、焼夷弾からのがれるための、網というか、蚊帳(かや)を張った状態という。

欧米に残る、19世紀から、活版製版された書籍で、日本の、幕末からの資料をみてゆくと、すぐわかってくるが、彼等にとって、日本にあるものは、アジア、アフリカに在った歴史の建造物や宝飾類と同じく、自分たちの財宝であった。

日本では、江戸時代にあたる、欧米の資料を読んでゆけばわかる。
日本が、憧れをもった、広大な、インド文明の否定は、文明では後発にすぎない西洋人にもできず、欧米の医学者たちは、メソポタミア文明を築いたアラビア人種と同じく、赤い人種のインド人も、白人種あつかいとした。

西欧人に、困ったのは、人種の流れをみれば、どうみても、「黒人種」となる、エジプト文明の建設者たちだった。

これは、遺跡を、認識してゆけば、黒人種たちによるとわかる。また、「進歩ある創作性」という概念を用いると、キリスト教に反することが出てくるが、白人種は、文明という歴史を、自分たちが、創作したものだと思いたいらしい。

8)
かれらは、どこまでもゲームのつづきで、黄色人種を殺戮した、「GHQ連合軍=ソ連」にとって、海沿いの重工業地帯を破壊したので、北側が、山の、姫路城も、残しておけば、自分たちの、遊び場、住まいとできるとの判断だった。

東京、名古屋、大阪といった、都市部、商業の町への大空襲で、日本が失ったのは、「商業」「機械工業」の、経営者たちだった。

商業や実業の経営者の、息子たちが、終戦後、戻ってきても、焼け野原となった、大都市空襲により、イエがわからず、とりもどせない、政策がとられていた。

戦争が終わっても、アメリカでの抑留、ソビエトでの長いシベリア抑留(日本人捕虜)となったのは、日本国のためと、志願した、義務をかんじる、正義をしる実業のイエの子弟が多かった。

わたしの同級の、親族もだが、黙って、生命を、日本国のためと、捧げ、逝った幼馴染や同窓を思うと、三年、五年といった、長い、屈辱の抑留(捕虜)生活をしながらも、生きて、帰ってきたことを、恥と思い、黙ったまま、亡くなって逝かれた。

戻れない社会にすること。この計画性には、「GHQ連合軍=ソ連」の、悪の資料をみればわかることである。
アメリカにイギリスの国立公文書館、ロシアの資料館などを調べてゆけば、どれほど、アジア、アフリカものを、略奪した歴史をもっているかがわかる。

わたしが、東京、大阪、京都と、1970年代、医学の歴史を調べていて、驚いたのは、日本全国の図書館にある資料を、すべて集めても、「充分」とはならない資料が、西欧の各国が、保持しており、アメリカのばあい、全州の公共図書館に、あったことだ。

2007年、アジアやアフリカが独立し世界情況を把握した現在、欧米は、宇宙というレベルでの支配と同盟国の手続きを、もう完了させてしまっている。

9)
1966年秋、わたしが、寝屋川市立第一中学校での、遠足で、北山から鞍馬へ行ったとき、野球部といっしょに、後方を歩いていたわたしは、北山杉を磨いている人たちの、ひたむきな光景に、感動して、立ち止まった。

そして、どのように、磨いているのか、見せてもらい、痛くないのですか?と、聞いたとき、労働の女性たちは、遠慮の仕草のまま、無言だった。

1975年、宇治の「萬福寺」で、経典の刷師の手に、おどろき、手のひらを見せてもらった。
「きたない手で」と言われた老人に、「いえ、仏像に多い手です。ここ、宇治にある、釈迦如来、薬師如来像の、手のひらを、御覧になれば、同じと、わかります」と、わたしは事実を言った。

偶然という言葉をつかいたくないが、同じようなことは、2001年、仁和寺で、あった。
手の形質が、非常な、労働によるものだったことから、質問をした。

すると、「昭和40年ごろ、わたし、北山杉を、磨いていました。最後、ひとりになりました」と、明るく言われた。
手のひらを見せてもらったら、皮膚を深く傷つけた、縦のが、多いことから、理由をきくと、「北山杉は、手に、こまかな石や砂をつけ、磨きますので」という言葉に、わたしは、沈黙をしてしまった。

手も、背中をはじめ、心身が、痛みに痛む、手間に手間の、労働が、日本の、日常だったのかと思った。

10)
いま世界遺産とかの、姫路城へは、わたしは、父方の叔母と、兄といっしょに、2歳ごろ、登ったことがある。

1956年、米田保育園児となるころにも、児童会で、一度ある。そのあと、修理ということで、工事用の、幕がはられ、1957年、兄が、手裏剣で、頭を刺され、大怪我をさせられてからは、城が大嫌いになった。
医師に、せいぜい、一、二ヶ月という、寿命ばかり宣告されたこともあり、どこの城へも行かないことに決めた。


姫路日赤で、臨死から、逃れることができるたび、わたしの病室は、個室から、姫路城の西の丸、二の丸が見える、子供部屋へ、変わった。

危篤となると、情況に応じて、父方の祖父は、母が、わたしのベッドの下など、看護用の厚さ、一寸以上の、木製のベッドを、道具をイエから持参し、急遽、作ってしまう人だった。
わたしは、検査室から、運ばれ、戻ってきたとき、祖父の姿を、一度だけ見た。
祖父は、恥ずかしそうな表情をして、笑み、黙ったまま、帰って行った。

わたしの兄や妹は、小学校の中ごろまで、注射だと言うと、泣く性格をしていた。
他の子供も、なぜ、痛いのがわかっているのに、泣くのか、わたしには、理解できず、泣き声を聞くと、体調が、悪くなるので、子供部屋は、慣れなく、また、幼稚園や小学校から、記念写真があるからと、連絡がくると、写真は嫌だけれど、仮退院という形をとって、イエへもどったりしていた。

が、印南郡の、生活のための知恵をためてきた土地を、分断される、合併問題だけは、祖父が苦しみに苦しみ、また、母方の祖父も、内務省の解体にあっても、役割として、氾濫する、加古川大橋に、市川大橋などの、建設と管理のため、往来しながらも、姫路の祖父は、敗戦国として、時代の変化に、沈黙のままだった。

11)
姫路の祖父が、大空襲から、生き延びることができたのは、河川や土、金属をしることにより、祖父は、東雲町(しののめちょう)のイエに、特注のシャベルで、家族が避難できる、防空壕を掘ったことを、母から聞いた。
このとき、書見台へ向い、読書や、ステッキをつき、散歩する姿しか見たことのない、祖父が記憶から出てきて、「姫路のおじいちゃんが?」と思った。

わたしは、祖父が、防空壕のため、注文したシャベルと知らず、1980年代中ごろまで、庭の大半を、祖父のシャベルで、掘った。
作り方がちがったのだろう、わたしだけで、20年の単位、使った。




▲ 姫路城、母と松田薫、1952年3月。
▼ 祖父前田正と母。横浜市の自宅で。1930年ごろ。

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-06-23