京都昨今 |
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55、河出書房新社 若森繁男社長への手紙 | ||
「活版の紙型」と「原画」などを返却してくださいますか。20年来、たえない、願いです。 1) 貴社、河出書房新社の前社長だった、清水勝さんには、1994年、2005年3月はじめ、連絡させていただきました。「事務は、若森」様と言う、お返事でした。 当方の体調がありました。また、恩師たちですが、2005年、2006年、つぎつぎ、ゆきました。 90歳前後という、高齢ながら、勉学、その精進の道で、亡くなられ、「追悼」の想い、まだ、消えません。 2) 貴社の先の社長、清水勝さんは、「河出孝雄」さんの、奉公人でしたでしょうか。 1970年安保反対運動前は、中途採用の小池さん、石井さんほか、若森さまは「トヨペット販売」でしたでしょうか。また、どこの大学中退か、父親は、大阪の南のほうの学校で、ただの、「マンマン・マルクス!」それだけしか感じないと、わたしたちの先輩が言われてた、井汲卓一様「×」のご子息様でしょうか。小池さん曰く、単細胞の軍国頭、井汲一郎様「×」を、履歴書なし採用という、自由の勘違い、河出書房新社、万歳! 井汲卓一様の血縁であり、国家を騒擾させた、マルクスで、「ゼニ勘定」を学ばれた、東大の、見田石介様「×」、その子、東大を退官された、気持ちいっぱい、でも、意味不明の文章をかきつづけられた見田宗介(変名、真木悠介)様「×」。 見田宗介様は、大杉栄・伊藤野枝らを惨殺した、憲兵甘粕正彦大尉の血縁でしたね。京都の先生たちが言ってましたね、赤でなくゼニと権力が好き、井汲卓一様の、A型の、お孫さん、血縁でしたでしょうか。立教大の学生のときの、悲惨な出来事で、一部マスコミが、動こうとされたのは。 世間は、自由主義者、大杉栄殺しの、「甘粕正彦大尉」。この血統の、「マルクス主義・井汲卓一」様、その血縁が「東大、マスクス主義、見田石介」様って、わかりませんよね。言論は不自由、殺人は自由の河出、萬罪! また、「河出孝雄」さんと、何ら、面識もなく、漢字力のなく、編集力のない坂本一亀さん「×」とやらが、戦後の混乱期、河出さんへ、日々、土下座し、もぐりこんだ会社、それが、貴社の、崩壊のはじまりかも知れないと、わたしの先生方が、大昔、少し、言われていました。 真摯にかかれた立原正秋さんの幾つもの作品を、「これが、文学か。朝鮮人」の坂本一亀さん。東京での、文化あるイエに生まれた人がもつ、小林信彦さんの、照れと軽快さを理解せず、「中学の作文程度で、読んでくれって、言う奴」の一亀(いっき)さん。 「日本語を知らない、一亀のバカ」とは、神吉晴夫さん、「大宅壮一」さん、小林秀雄さん、でしたか。 清水勝様「×」、以来の伝統か、「河出」の有志、若森繁男一行様、はじめ、昔は、箱根、そして熱海、1980年ごろからは、近所の、五反田ソープランドと。 そのためには、精力増強、1990年代はバイアグラ。昔は、オットセイの何々。 また、朝鮮人参他。著者への、印税は、無し。これは、1960年代から、京都では、知れていました。 先の社長、純粋な清水勝様が言われる、人生は、ただただ、下半身。 会社は、清水勝一族のもの、不況時こそ収益、倉庫業の河出興産、河出映像の子「清水浩」殿「×」も。 手紙ですが、清水勝さんは、わたしのイエへ来たのですから。また、わたしが、2005年春まで、何度か、清水さんへ連絡しましたので、若森様に連絡してくださっているのかと思いました。 3) 小説を担当してくださった、文藝の「阿部晴政」さんは、まだ、貴社にいらっしゃるでしょうか。 わたしの、小説の、コンポジションを知り、文章表現も知ってくださる方ですから、ただいま、書いている、「京都昨今」松田薫のサイトで、いかに、わたしの恩師たちが、2006年、連続して逝ったか、わかってくださると思います。 1988年、貴社をとおし、神戸を舞台にした、「雨にゆれるカラジウム」。 主人公は、30年先を、よんだ、神戸女学院OG、神戸大OGの、商社勤務女史です。 知己の作家、野間宏さんは、わたしの、5作目の舞台が、「NY」であり、将来を、見通した、小説の組み合わせに、気づかれました。 1985年、わたしは、病中で、代わりは妻ですが、野間宏さんの、女性癖は、欲ボケ嘘つき卑猥「田辺園子」さんが、かかれましたね。 他社からは、出版条件を言って欲しいと言われたものです。1988年春、編集から、総務となられた、千葉共栄さんは、「なぜ、売れるのでしょうかね、買占めでしょうか」と失敬な言葉を言われました。 その後、増刷の機会、「失敗しました」でした。 この小説、わかりやすい事実でゆきますと、1987年、「新潮社」で、「表紙」から、まず、トラブルがおきました。 元出版部長で、一番偉いという、沼田六平太編集者が、作品のレベルにあわせ、「芸術院」のひと、たとえば、「前田青頓」にしたいと言いいます。絶句したのは、邦楽家の吉川英史先生の還暦記念本の表紙が、前田青頓でした。わたしが、「島田章三」さんというと、「芸術新潮」をもちながら、わからなかったのです。 そして、この問題の最中、妻の知己、菅原国隆さんが、沼田さんの上司とわかりました。 絵ですが、版元の依頼で、東京は筆が求めにくいところですが、結局、わたしが、二ヶ月以上かけ、作成しました。が、千葉共栄さんは、油彩タッチで描いた、ラインを、上に荷物を置いていたとかで、潰してくださいました。 「いけませんか?」と言われたので、常識外のことで、ダメです、元通りに、と主張しました。 金を払った以上、契約通りにして欲しいというと、契約書、見つかりませんとの返事でした。 ノブオさんは、わたしが、契約書をまもらない、千葉共栄さんへの抗議となると、「おい、川向こう。つまみ、だそうと思ったんだよ!」と罵った。それで、失礼を越えた言動、そうされれば、いいと。 仕事に忙しい、妻を、ふりまわし、病人の、わたしが出てきてこれだと、詐欺、窃盗ですから、わたしは、管轄の、渋谷署へゆきますと。 すると、ノブオさんは、困るんだ「石井(編集部長)が、いける女は、会社の重役室で、やるから、忙しいんだ。警察は、捕まるだろ」の連続でした。 千葉共栄さんも、石井部長は、女癖が悪く、それで、奥様を配慮して、とのことでした。 しかし、常識で考えて、1987年ごろ、『文藝』をもつ、貴社のような、乱交の会社があるのですか。 4) @》「手のひらの科学」の印税、小額ですが、残額、きちんと、支払ってください。 原稿依頼は、貴社からでした。が、担当が変わるということで、断り、他社へ持ってゆくと回答。困るよと、ノブオさんが言い、とうぜんですが「学術書」扱いで、重点商品ということでした。 表紙は、前野さんからの便りもありましたから、前野さんか、渋川さんと指名しましたが、無理というので、わたしが注文、作成するといいました。 なにしろ、担当編集者になったという東北の人でしたか、デタラメの校正をするため、部数を減らして欲しいとの希望もいいましたが、これも聞いていただけませんでした。 担当の方ですが、二度と声を聞きたくない、福島県伊達の、構成、校閲能力なしの人。 接続詞の「が」を「しかし」、「が」を「けれども」とか、奇妙に、添削してくださる方でした。 父親が中学の国語の教師とかいい、東北の方がいうのに、「ぼくの本ですよ」でした。 表紙を見せてほしいというと、「そこまでする、編集は、ありませんよ」と言う、福島県出身の方でした。 5) わたしが、どれほど、嫌ったか、関西の著述家でもある方に、カバーをとり、理由をかき、送ったことで、ぐうぜん、井汲一郎様の、血族と、わかりましたけれど。 できあがった、本ですが、当方が探し出すのに苦労した、「ジョン・レノン」の、手のラインですが、写真撮影も困った、この写真を、勝手に削除し、掲載されていませんでした。たいした存在ではないからと。 また、わたしのイエとの関係である、松下幸之助さんの手のラインは、松下電器産業の協力でしたが、「松下電器産業」のことを、悪意で、訂正してくれる、すごい方でした。 この東北の編集者は、元貴社関係筋様を大きくあつかった本にしました。お子様ランチ作曲もできない、イカ足(短足)様です。昔、「拓郎、陽水は、汗くさく、才能がない」と言った事、記憶にあるよね、坂本龍一様。 わたしは、校正が、きちんとできているものを出版したかった。これだけです。 この書籍は、各地ではバラバラ売れ、京都では、駸々堂などが、一週間目で、20冊、すべて、売れたそうです。 増刷の用意のため、校正は、3日で終え、増刷の機会、数冊が足りないとのこと。 東京圏で、一冊も売れていませんでした。 貴社の数字は、デタラメが多く、芝居かも、知れませんが、担当の方は、「レインボーシステム」を信じられているようでした。 が、貴社もふくめ、どこの仕掛けか、担当編集者は、裁判等がわからず、出版妨害、良き商売の在り方を、理解できなかったのか、データふくめ、戯作か、わたしには、わかりません。 6) 1994年の盗作、警視庁をとおしましたが、成城署の警部は、刑事罰対象から、「竹内久美子」は、一日で、逮捕と言われました。 裁判ですが、わたしが依頼した、市民派とかんじた「松村正康弁護士」の教え子に問題がありました。 東京弁護士会の、小林明子弁護士(03-3354-5740)は、わたしが「日赤の総務ができなかった、原来復博士の記事を、発見しましたね」という、1980年代、日本赤十字社の総務、「松本純代」さんからの手紙を、「一番重要ですね、新潮社からのニセの手紙も預かります。弁護士を信じられませんか」と言って、裁判所に、この二つを提出していませんでした。返却は、要求していますが、まだです。 ノブオさんは、新宿御苑の、この悪党、小林明子弁護士に、会っております。 しかも、依頼した年、1995年、小平市の市民派、「松村正康弁護士」が亡くなられたとは、裁判が終わり、わかりました。 要するに、病床のわたしを欺く、デタラメの裁判を、小林明子弁護士がしたわけです。 一度、新宿1丁目6番8号 「鈴木旗店ビル」3階の、小林明子さんを、御覧になられたら、どうでしょうか。上野のパンダとちがい、見学は、無料です。 日本赤十字社、本社(芝)の総務部長は、とうじ、わたしの先祖ゆかり、尾張藩徳川家、直系の上品な方でした。会われますかと言われるので、わたしは、わたしなどに時間を、と断りました。 7) 「手のひらの科学」ですが、わたしの主題は、「解読された手のライン」でした。 これは、わたしの恩師たちから、日本人初、ニュートン以来といわれた、科学のシステムの二つめでした。 価格設定から、すべて、ちがいました。 わたしの価格設定は、校正の、二刷りへの用意のためです。 が、ノブオさんはたちは、著者の「名前」も、価格も変えました。 ふつうは、驚く、校正なしの、初稿刷り、『改定、血液型と性格の社会史』の資料では、医学系では、発行部数が少ないため、絶対禁止の、「原典」からの遺伝子図を切って欲しいといい、しかも、「糊漬け、印刷」をされ、洋書の図版など、見ることができなくなってしまいました。 ノブオさんには、あきれました。これ、読みたいな、「コピー代、合計、三万円かかりますよ」と言って、渡すと、「ありがとう」で、返してくださり、また、これも、見たいな、「ああ、ありがとう、河出がもつよ」の反復で、数百万単位が消えました。慶応大コピー一枚、100円の時代でした。もちろん、一円も、支払って、くれませんでした。 物理の湯川秀樹先生、仏文の桑原武夫先生が、存命中のときにして欲しかった行為です。 「河出書房新社、出入り、禁止」。 キツネか、タヌキかとの評判の、清水勝さんは、「なぜ、そんなことを」と。 ノブオさんは、「オレ、早稲田の教授になりたかったんだ」とのことでした。 でも、こんなことは、会議のある、貴社で、されればいいことです。 8) トヨタ・若森様の手ですが、1989年1月、ペテンと詐欺のノブオさんが、喫茶フミクラで、部下にしたい、貴社、河出のひとびと20人ほどのコピーを見せました。 「良妻賢母に育ち、適当に嘘をつき、また適当に嘘をつき、またまた適当に嘘をつき、仕事ができる、皮膚流紋が厚いほう、この人を、部下にすれば良いです」と言ったのが、若森繁男様でした。 「できないよ、重役だから」と言われたので、できない人を見せないで欲しい、わたしは、占い師ではないと言いました。 わたしの担当は、さんざん揉め事の後、文藝の「阿部晴政」さんになったのですが、いつのまにか、また、ノブオさんとなりました。とにかく、嘘だらけのノブオさんです。 わたしの時間を、一年単位で奪い、嘘をついた後、いつも、「オレを殴れよ」でした。 一度か二度、顔でなく、肩ぐらい、殴ってやろうかと思いました。慶応病院が近いですしね。 わたしの武術、剣道、空手、拳法だけでも、師範と、中学のときから、言わわれました。 きちんと、師範試験を受けていたら、いま、合計、20段以上でしょうね。 10代後半、拳(こぶし)を、どのような鍛え方をしたというと、日々、「岩」を、正拳で、100回以上連続でした。訓練に訓練すると、平たい岩でさえ、正拳で、突けます。 拳から、血など、出なくなります。わたしの10代後半、道場での相手、すれ違い攻撃で、皆、気絶、病院でした。 担当とかの、東北出身の方、ノブオさんと同様で、「これでも、ぼく、剣道初段です」と言う方でした。京都、喫茶、イノダ本店で、1998年、わたしの携帯電話をつかい、わたしの妻の絵を、カートンに入れ、隠していた、元、貴社の内藤憲吾、内藤龍さん、平出隆さん?へ電話をしました。 わたしの携帯電話は、あのお方、東北出身の方のみの使用となりました。 後遺症か、気持ちのせいで、携帯電話は、いっさい、使えなくなりました。 ノブオさんは、当方の「血液型と性格の社会史」を、好き勝手に、改竄しました。故人を、からかった表現はダメと言っても、された方です。 盗作の連続がおきました。また、ノブオさんが、書かれた箇所でクレームが来ました。 新聞社、雑誌からなどのインタビュー、ノブオさんが、受けられていたそうです。 理由をきくと、「オレの本だからさ」でした。さらに、 「まさかさっ、オリジナルって、思わなかったったんだよ。あなた、川向こうの、『エタ』だろっ」と、ノブオさんの文言は、ずっとつづきました。 9) 祖父、松田好太郎の言葉、 「人間、生まれるときは、ハダカ、死ぬときも、ハダカ。いかに生きるか。太陽のもと、皆おなじ」と習いましたというと、自称、御三家、水戸藩出身という、ノブオさんは、 「そういう人って、必ず、川向こうの、、、『エタ』、なんですね」でした。 若森繁男様は、ノブオさんの、この口調は、記憶にあると思います。 わたしが、出自の、父方、印南郡、宝殿は、大国。また、母方の、法要、桑名別院でのこと。 故郷に、聖徳太子ゆかりの鶴林寺があるというと、「加古川にそんな寺って、ないよ」といい、姫路に、「書写山円教寺」があるというと、「姫路に、そんな古い寺、知らないね、無いよ」が、ノブオさんでした。 そして作家、三島由紀夫をだし、 「文藝は、川向こうの、、、、『エタ』しか、しないんだよ。依頼でもさ、印税欲しがるなんて、大学の教員は、国の予算の、金をもってくるもの」と、より、リアリティある差別発言の連続が、ノブオさんでしたね。 「オレの父親、東大で、ゲーテの権威だよ」というので、ゲーテは、本郷だと、「手塚富雄」さんでしょうと言うと、「そういう言い方、ごまめのふんばりって言い、まさしく、川向こうの、、、『エタ』、ですね」が、ノブオさんでした。 文藝の新人賞を読んでくれというので、朝鮮半島系を出自とされる方に、わたしが「○」をしますと、 「やはり、在日とか、『エタ』は、こんなのが、わかるんだよね」と言われたので、日本語での小説の審査ではないのか、この方のは、これが、自作だと、作家の、故「李良枝」さん以上になるから、いま、挫けさせては、ダメだから、出版するべきですね、といいました。すると、 「あなたは、『エタ』だから、わかるんだね。編集部にも、わかるのがいるんだけど。石原慎太郎の影響か、江藤淳が反対してね。石原慎太郎は、朝鮮人と『エタ』が嫌いで、若森も嫌いでね」との返事でした。 10) 貴社には、臨機応変で、物事をつくれ、気骨あると評された、金田太郎(大手前高→早稲田大、AB型)さんがいらした。良く気がつかれる、金田さんにより、調子者とかの、田中康夫さんとやらが、デビューとなった。出版社「トレヴィル」を作られた、金田太郎さんが、草稿にかなり手を入れ、デビューとなった田中康夫さんだった。 しかし、1997年6月、道玄坂での最後の頼み、既稿でいいからとの願いも、田中康夫さんに、無視され、亡くなられた。わたしは、この金田太郎さんが、育てられた、大阪はじめ関西を知っている、三田工業をつがれ、文化に貢献された、三田順啓さん。弟さんの、三田誠広さんたち、朝鮮半島系の作家に読んでもらったらとも言いました。 透明をかんじる冷静さで、自分たちが、歳月から作った、『民俗』の『静かな葬儀の運びの中』にいる、女性である自分自身の、意味と意識をかかれた、いまでも記憶にある小説です。 当方が、ノブオさん経由で、『ハンド・リーディング』の、洋書のコピーが送られてきて、20分ほどで、読み、「この人はラテン語の文献がよめる」と連絡し、改め、1時間ほど、精読し、これは翻訳したほうがいい」すると、「川名昭宣さんが、NO、ノー」だとのこと。わたしは、池央耿さん、川名昭宣さんは、知りません。 大事なことは、ノブオさんたちは、わたしの時間をなんと思っているのかです。 11) ノブオさんは、貴社の編集者だった飯田貴司さんを、「高島屋本家の御曹司」といわれました。 日本橋は別にし、本家は、関西だし、大阪か京都で、家訓により、三年ぐらい、他社への奉公、のち丸紅か、「伊藤忠」の経営をしないといけないといっても、 「ところがちがうんだよ。そういった無知。あなたは、まさしく、川向こうの『エタ』なんだよ」がノブオさんでした。 ノブオさんの言葉使い、原稿を依頼し、「遅いね」と言いながら、1989年秋、二度目の、完成をさせると、一年、放置のままでした。そして、わたしを差別する文言は、1996年ごろまで、ずっと、つづきました。 若森繁男様は、ノブオさんの、十八番の言葉は、ご想像がつくとおもいますが。 「80数枚の原画など知りません」と主張される、あわれな千葉共栄さん。 「わたし、体は大きいですが、気が弱いんです」と言われた、千葉さんを、かばっただけでの、我慢、わたしの、苦しみ、お分かりでしょうか。 2005年早春、清水勝さんが、「飯田君は、横浜高島屋の息子ですが」と言われるので、1970年ごろ、わたしが行ったことのある、スーパーに良く似た建物のときの息子さんですか。本家にはなりませんと回答すると、「ああ、そう、です、か」と正直な方でした。 12) まだ、ご記憶にあるでしょう。映画監督の子女も、愛人にされた、飯田貴司さんのことですよ。 飯田貴司さんとの挨拶は、電話が最初で、ノブオさんから、聞いている、わたしと、じっさいが、違っていたのか、戸惑われた人でした。 わたしに、明るく、「雨、でね」と言われ、エレベータに乗ってこられたとき、飯田貴司さんは、新しい言葉の響きを求めている人だと感じ、エンジのアーガイルの、ジャケットの背についた、細かな雨粒が、消えない。 ところが、ノブオさんに、かかると、この前の電話の、飯田さんって、あのB型のひと?と言うと、 「どうして手も見ていないのに、血液型がわかるんだよ!?」と、乱雑に聞くので、会釈をしたとき、眼と、皮膚を見るじゃないですか、首から、顎の形質もね、といいました。 しばらくして、フミクラで、飯田貴司さんの「愛人28号・中平」さんが、わたしの、となりの席に座ろうとして、わたしが、ぼんやりとし、気づかず、「失礼しました。どうぞ」といいました。 すると、「ダメ」と、短い腕で、大きなジェスチャーをし、ノブオさんが、言われたので、女性の、心を大事にして欲しいと言うと、「あなたは、フェミニストだね」とノブオさんが言うので、人間としての、気持ちだと、わたしは、注意しました。 飯田貴司さんは、恥ずかしさを知られ、粋な人と、好感をもっていました。 が、押した人で、困る人がありました。『月山』の、「森敦(もり・あつし」さんは、飯田貴司さんでしたね。 あの作品は、信州財閥ゆかり、京大、東洋史学、「宮崎市定」先生の妻の兄、旧制六高校教授、学習院大学教授(東京帝大、国文)小西謙先生が「盗作」との指摘。 小西謙先生没後、血縁から、わたしに、ありました。ノブオさんは、「宮崎市定」は認知できるようでした。 しかし、『月山』での、言語表記の基軸が、「山形弁」にあることの、理解ができませんでした。 13) 「改定、血液型と性格の社会史」ですが、なぜ、遅れるのかときくと、心が、ビル風まかせの、「弘文堂」出身かの、「岡本のきっちゃん」が、貴社の受付にでてこられ、「印刷所が小さいですからね」と大きな嘘を。 わたしは、これは、一人の印刷所でも、できると返事しました。 後年、ノブオさんが、貴社の、特別コンピュータ室で、マッキントッシュで組まれたと、言われ、理解できました。 千葉共栄さんは、「ウチの会社に、コンピュータ室? まつださん、ウチの会社のスペース、ご存知じゃないですか」と言われ、笑っておられましたが。 著作権侵害、人権侵害のはなはだしい編集者がいる、会社、それが、貴社、河出書房新社です。 「改定、血液型と性格」、ノブオさんが、重版の用意というので、半年かけました。 が、終わったとき、「間に合わなかったよ」でした。 14) ノブオさんは、「狂牛病」など、「界面論」など、免疫について、わたしをはじめ、わたしの知己が専門なのに、詳しく何度も、何時間もきき、わたしが知らない、別の人に依頼したとのことでした。 三子男O型さんでしたかね、担当は。 わたしの行為を無視するのも、いいかげんにしたらどうでしょうかね。卑劣な、「小池・ソープ・三子男」さん。 五反田の帝王、「小池・佐倉市・三子男」さんに、過去、すべて、記憶にある。と、お伝えねがいます。 原稿返還ですが、「橋本治」さんの桃尻語、「徒然草」と、まちがえ、わたしの原稿4000枚、破棄されたそうですが、要返却ですよ。 わたしは、当方の、童話、「ムクは虹色の空」の一番大きな「絵」を、ノブオさんに、返却を求めても、してくださいません。確信犯とおもいつつ、いつか、返却してくれるだろうと、思って、まっていた次第です。 原画を預かっていないと、嘘を言い続けた、A型・千葉共栄さんの、奥様が、 「わたし、病気なんです。黙って、ください」と泣き、言われました。 わたしたち夫婦は、黙って、同情したしだいです。 15) 1994年5月、新潮社との件は、若森繁男様も、記憶にあるでしょう。 重役会議一致で、新潮社へ抗議でしたよね。 深夜や、朝や、昼や、わたしのイエを、集いの場にし、「会社より、ここがいいな」と。 そして、遊んで帰る、A型・ノブオさんの、友人の新潮社の社員たちに、誠意が、まったく、ないので、後日、わたしが、抗議へゆくから、というと、ノブオさんは、連絡をとれない状態としました。役者です。 新潮社では、1994年5月、ノブオさんの友人、「酒井義孝」さんに、無抵抗のわたしの、右の手首、左も折られそうになりました。 あまりに、激しいので、捻る手を、外し、酒井「樽」O型の体当たりを、両手で、止めると、5メートルから、飛んで、わたしが暴力を振るったそうです。 また、出版部長の、大門武二氏、週刊新潮、出身の瀧本洋司さんもです。 新潮社には、先、1991年8月、週刊新潮の「佐藤和弘」さんに、初版のことで、活字で、揶揄されましたが。 筆を折るという言葉がありますが、書き手の手首を折るという行為など、はじめての出来事でした。 手首から指先まで、黒から青あざの状態になりました。 「手」は専門ですので、発熱状態から、骨折でないとは、わかり、ヒビが入った難しい捻挫というと、世田谷の幸野仁院長に見せると、「こんな、ひどい暴力。外科で、レントゲンだよ」の診断でした。 警視庁、成城署も、驚いていましたが。 あきれる、状態になっても、自分自身が、わたしに、こんな盗作は、放っておけないよと言った、ノブオさんは、 「ウチが、あんな、おおきな、出版社、相手、できるかよ。清水社長はタヌキで、態度がかわったんだよ」が、あの件も、ノブオさんに、計られたところが多いですね。 それとも、若森繁男様も、でしょうか。 酔っ払った雰囲気で、わたしのイエの、風呂場へ、入ろうとしたノブオさんです。 「まつださん、奥さんの下着どれかしら? バカモリは、京都なんかに行かないよ。数年に一回かな」と言われていた、ノブオさんです。 16) 盗用の件で、わたしのイエに来た、絵描きで、悪党の「南伸坊」さんとの対談を、ノブオさんは、わたしに依頼し、新宿の、「頭山満」さまの「玄海」で、させるところまで、もってゆかせました。 わたしは、出費ばかりで、奴隷以下、一円の報酬も、いただいておりません。 歌舞伎町の風俗で、100万円単位を取られたという、福島出身の方が、わたしが、対談を、小説仕立てにしたのを、ご存知です。 この件、待従の入江為守さんも行かれた、自称、関東圏内、ソープの帝王、特技は、シャボンの天使が喜ぶ、金曜の夜は、慶応大、仏文OB、「小池・泡つき・三子男」さんも、ご存知でしょう。 1989年1月、千駄ヶ谷の、カフェ、「ペパームーン」で、ビールを飲み、ソープで、「ナイトフィバー、明日は千駄ヶ谷のチームで、バット振り」、金の玉礼賛かの、平出隆さんも、ごいっしょとかと。 南伸坊さんの、事務所へは、三子男さんも同伴でした。 後日、「南伸坊(みなみ・しんぼう)」さんとやらは、自分が盗用のときは、わたしのイエへ、夜中に、来て、時間を勝手にさき、後日、わたしに悪態をつきました。 「刑務所でも、どこにでも、行ってやら」と言っておられましたので、大不況がすぎ、刑務所に余裕ができたとき、入ってもらおうと、思っていますが。 17) ノブオさんが、同席のはずの予定でした。清水勝社長もでした。 ところが、清水勝社長が、急な、京都への仕事、新幹線で、心臓病の発作とか。 「吐いたものでも、飲み込む、少年社員、清水社長が、吐いたまま、倒れたままだからよ」と社長代理で、京都へ出張とか、また、三子男さんも、急な用事とか。 そして、千葉共栄さんも、清水勝元社長の容態がと言われました。 ところが、清水勝元社長は、2005年、「そういったことは、ないです」との返事でした。 当方のイエは、戦後、父方は、財閥解体、地主解体はじめ、とくに最後の、「店子解体令」により、町や村への経済活動ができなくなったそうです。父方の母方もです。 母方は、「高等官解体令」などにあったイエです。去年、母から、父方に、生活を助けてもらったとききました。 「2・26事件」のノブオだぜ、「世界文化社」まえで、「あ、澤地久枝だ、隠れよ」と言われていた、ノブオさんは、警視庁に肖像画があった、本部長(祖父の兄)も知らず、「嘘だろ、『店子解体令』って、なんだよ、ウチの息子は、アフリカの、『太鼓買いたい』って言って買ったけど、そんなんかよ」と言われていました。 「ついでに、ふしぎなんだけどさっ、まえに行った、あの書店、なぜ、維持できているの?」と、大手書店のことを、質問されるので、京都の、あのビルは、殺人事件があり、いま、仲取次ぎの、金融の変わりで、倒産しておりますが、と返事しました。 店子解体令は、わたしが会社を、京都市にかまえるとき、不動産屋さんからきき、父に尋ねた次第です。 悪党のノブオさんのことを言うと、ふだん、こんなことでは、沈黙の高齢な父も、許せない、人権侵害と感じたのか、 「監獄へゆかせろ、かまわん」と、言いました。 わたしは、行かせる、所存です。 学問を知らず、昔、わたしを恫喝したことのある、「井汲一郎」さんも、覚悟しておいて下さい。いっしょでよければ、ヤーさんテッカリ風貌・清水勝さんたちもです。 18) つぎに、貴社の、A型・清水勝前社長さんからの、連絡、紹介とかで、サイマル出版会の、因縁ゴロ、B型・田村勝夫様、A型・雅子夫人には、原稿依頼で、1991年から96年末まで、苦しめられました。 完成原稿他、言語は「ケチャップ・レッド・右欲」の雅子夫人の父、古川竹二さんの資料請求、わたしの原稿の、書き換え、要求には、まいりました。 わたしの編集意見は、学界やマスコミでとりあげられた、「血液型の論文集」でした。 これだと、わざわざ、国会図書館他へゆかなくても、若い世代が、1930年ごろの、論述方法や、さわいでいた情況の理解につながると思ったからです。 ところが、雅子夫人は、「古川竹二氏による『血液型と気質』の単独、再販。ウチは、仕事をされた方、原稿料はもちろん支払いますよ」とか言い、自分の記載のまちがいを、わたしの所為にされる方、まるで、女優の、「津島恵子」さんのような声を出される方でした。 テレビを見ながら、わたしと数時間、電話をされる、すごい方でした。 見ているテレビ番組にあきると、別のチャンネルに変えられ、話題も変える、能力をもたれた方でした。 窓際といわれる、ノブオさんや、田村勝夫様、雅子夫人などから、役人の「古川竹二」さんを偉大なる学者のように書けとの注文でした。そのままの注文には応じられないと言い、苦しみ、どうにか、仕上げた、1996年暮、左欲物欲・田村勝夫様、雅子夫人は、 「ハルキのいる、ブロードウェイで、ミュージカルへ行かないと、チャンスがないのですわ、こんな機会はないのですよ、松田さん」と、言われ、松田から、資料をいっぱい、分捕ったと言われない、素晴らしい方です。 京都府警に連絡すると、「詐欺」にあたるとのこと。 ほんとうに、あの、田村勝夫さん「×」とやらは、まさにヤクザ。血族は青森・赤・毒りんご栽培とか!?。 19) 出自が、「有名な大名」の、士族とか。古川竹二さんの、血族によれば、ちがうとのことですが。 わたしが、古川竹二さんより、わたしの家系が、途絶える、イエがありますからと断りました。 すると、「家系なんて、そんなものですよ。重要なものを、松田さんは、記録されればいいんです」と命令できるのが田村雅子さまでした。 そして、他の人へ依頼をと、大学の教員を紹介しましたが、 「松田さんでないと、困ります。原稿料など、きちんと、払いますよ」が、田村雅子さまでした。 古川竹二さんの資料を、たくさん、もっていると言いながら、政治家、「尾崎行雄」さんの短冊をもっていただけで、しかも、署名ではなく、ゴムの青色のハンコでした。 写真一枚は借りました。それだけです。 社長夫人病の田村雅子さまは、わたしをホストあつかいされ、また、品のない言葉を言われ、また、一円も頂いていないのですから、それなりの労働費、要求、貴社から、おねがい、いたします。 ノブオさんの改竄を原因とする、「古川竹二」項目による、当方の出費、時間の浪費は、5年単位の、すごいものでした。 この長期間のあいだに、当方、一家名、途絶えました。 妻と、結婚の条件というか、母方の祖母が、だれとも性格を合わせられず、いっしょに、小さな、イエで生活でした。祖母に会わせたのは、ちょうど、30年まえの、1977年のことです。 1988年暮、貴社にあずけた、童画が無いというので、この騒動で、祖母の、最後にゆけませんでした。 父方の祖母、妻に会わせたかった、春かすみか、秋の淡い雲のような存在、能の『桧垣』(ひがき)の世界を知っていた、姫路市の方、一の地主のイエに生まれた、祖母も、逝きました。 20) サイマル出版会の、「奴隷売買商人風」、田村勝夫様は、わたしの恩師のひとり、湯川秀樹先生の、解析頭脳をされた、故、市川亀久弥先生を、「あん、あの、小さい、男」と言われた方でした。 この、田村勝夫さんの口調は、「弘文堂」でのブブカか部下か、井汲一郎様が、ご存知では。 人の体格のことについて、わたしが一番嫌う、発言をされる方です。また、「朝日の中江利忠も社長だ」と言うので、わたしが父に、経営が変わったのかときくと、「変わっていない、村山や」と返事でした。 「朝日新聞」関係の場所といえば、父の伯母は、大正時代、堺市はじめ、旧財閥へ、嫁いでいます。とうぜん、明治時代終りからの、岸和田市も知っています。 わたしには、「松田さんには、いっぱい、世話をした!!」と、捨てゼリフの、社長病、田村勝夫さんです。 とても偉い、上田耕一郎元議員と、東大でまなび、共産党を自慢する田村勝夫さんとやらに、わたしの父が奉公した会社と、朝日新聞社の歴史を、よく調べてから、発言したらどうでしょうかと、言っておいてください。 21) A》「雨にゆれるカラジウム」この紙型は、新潮社「二光印刷、活版」で、わたしが出費し、所有の権利があります。昔、ノブオさんが、「紙型は大きいよ」というので、わたしが持参したものだと言いました。 版元ではなく、活字を、第一は「二光印刷」、第二は「錦明印刷」にしたかったのです。 わたしは病床で、電話しますと、「二光印刷」が、「ウチは、新潮社の会社で」と言われたので、「錦明印刷」へ電話いたしました。 「錦明」の方は「各社の活字のちがいを、そこまで、わかるのですか」と、驚かれ、協力させていただきますとの返事でした。わたしは「錦明」の予定をしました。 神田へ、妻が仕事をかね、「精興社」にもってゆくと、これら作品「童話」は、「岩波書店です」との回答でした。 「岩波?」と思った、わたしは、話を、「二光印刷」へもどし、新潮社に。 新潮社では、あらためて、川端康成担当の菅原国隆さんが、責任者として、あらわれてくださいました。 表紙をはじめ、部下の方の、勝手な言動を、とうじの、わたしは、まったく、許せませんでした。 菅原国隆さんは、わたしとの出会いのとき、「(沼田六平太は)なんて、ことを、してくれたのだ」と怒られました。 貴社による、自費での出版で、紙、ツカも指定しているのに、安い、造本で、まいりました。 B》「ムクは虹色の空」この紙型も、わたしの出費です。要返還です。 自費と姿勢がわかるように、少量の限定を、4倍と、勝手に刷った、ノブオさんでした。 紙、ツカも、編集者経験の妻といっしょに、貴社の、制作場所で、指定。 岡本のきっちゃんがいました。 なのに、上司の言葉だと、嘘が平気でつける、「心は、お子様クレパス12色」の岡本さん。 いっけん、ダンディで酒飲みの岡本のきっちゃんが、「奥様、よろこばれますよ」と。 わたしは、唖然として、まったくの、無言でした。 反復ですが、一番大きな絵をノブオさんが、取って行ったままです。要返還ですからね。 22) この原画、数十枚単位は、1987年、正式には1988年春、水沢出身、千葉共栄様に、自費出版の金額とも、預けました。 元祖ゼネコンの町出身の、千葉共栄様は、預かっていないと言われ、1988年末、とうじは内藤龍ではなかった「内藤憲吾」様の「カートン」から、隠した張本人の、ノブオさんが、大発見されたそうです。 千葉共栄さんは、良き編集者、「春山行夫」さんに似た文字で、編集技術が、すぐれていた事が大きかったからですが、ノブオさん、ないし、とうじ、編集部長の石井さんに、排斥され、弱くなられたと思い、わたしたちは、退社されるまで、我慢しました。 以上、順次、事務処理、おねがい、いたします。 前の社長、清水勝さんは、「池田の大先生様から、5000万円、いただき、ほんとうに、ありがたいことで」と、「釈迦如来滅後」のような事を言われた、正直な方です。 清水勝さんは、児童書ポプラ社の、前の社長、「田中治夫」さんへ、「喜多川歌麿」の「裸」の「絵本」を持っていかれたことも、認められた、素直な方です。 ポプラ社は、すごい会社です、中途入社で、同族経営を批判する、坂井宏先(さかい・ひろゆき)社長など、とくに。 同族、世襲が、いけないのならば、自分で、商店でも、会社でも、つくれば、いいのです。 坂井宏先さんは、ポプラ社の本で、わたしの、著作を盗作した、筑波大の、デタラメを主張できる、法医学、「三澤章吾」さんとの電話での件を、笑える、人です。 ノブオさんの模倣か、あとの東北の担当さんも、すぐ、「松田さん、3億円くれませんか」と言っていました。 ノブオさんが、「バカモリは、オットセイの睾丸、ウマの陰茎、とかが、大好きだ」と言われていました。 若森繁男様も、神様、仏様など、あちら、こちらに、参拝され、数十億円、もらってきてください。 23) 若森繁男様、貴社の千葉共栄さまに、原稿と現金を預けて、20年たちます。 ノブオさんに、原画をとられて、18年たちます。 こういう長い歳月がすぎ、ようやく、発言する種類の人間もいるのです。 若森繁男様、社会は、機械のような物理科学ではなく、十全たる社会科学(法律)でもって、変化しています。 わたしは、より良い、正しさが通じる時代への変化と考えたい。 もし、若森繁男様も、ノブオさんたちと、共犯であるとしたなら、正義をしるひとたちと、言動をともにしたいと思っています。 出版、言論の発信地を、東京だけでなく、北海道や、九州にも、多く、あればと考える、わたしです。 当方、松田薫(幼名、好信)、これにより、貴社と、いっさい、関係なし、といたします。 謹言 (2007年4月、河出書房新社、若森繁男社長へ、出した、手紙を、わかりやすくしたもの) ▲東山、建仁寺 「砂をはむ鳩」。(写真:松田薫) ▼清水寺 音羽の滝での、「水ごり」(写真、資料。同志社大学工学部名誉教授、山田忠男)。 日本の「稲荷」(生活への、五穀をもたらす藁の束)信仰は、だれもが、救いを求めるとき、人間の心身の形相を成している、大切な水。その水によって、自分自身がもつ、心身の汚れ、その払い、心身の潔斎のための、ひたすらの祈りの行いと言える。清水寺の、音羽の滝の方角は、陽がしずみゆく西(賽、さい)であり、水ごりの祈りの方角は、陽がのぼる東である。 |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-06-14 |