京都昨今
54、風土の音、知恵を思い返すとき        NHK Z
1)
1956年、6月25日、急行「銀河」に乗られた、宮城道雄検校が、事故にあわれた。
「越天楽」を、大阪フェステバルホールで、演奏のため、東京から、大阪へ行く途中だった。
ところが、名古屋駅てまえの、刈谷で、墜落された。

宮城道雄との関係だが、プロを中心とした同志社のオーケストラは、1956年の4月下旬から、宮城道雄の作品の練習をしはじめた。

1956年10月14日、京大オーケストラの、山田忠男先生は、同志社、栄光館において、宮城道雄の作品、「日蓮」と「松」を演奏することになった。

協力は、とうじ京都市長の高山義三さん。しかし、高山義三さんの、掛け声では、どうにもならなく、東京の田辺尚雄先生へ、協力をあおいだ。

宮城道雄検校との、共演になることが可能になり、同志社はじめ、京都市は、緊張した。
総譜(スコア)はできたが、和楽器と、洋楽器の共演のため、リズムと、「拍」が、合わない。

洋楽器は、どうしても、拍子を、意識してしまい、これらの難度を、大阪へ来られる、宮城道雄検校へ、山田忠男先生は、6月26日、質問をしに、ゆく予定だった。

山田忠男先生に、1970年代後半、宮城道雄検校の事件を聞くと、「あれは、おどろきましてね」しかなかった。

わたしが、尺八の山本邦山さんに、フルートで、教えるところがあったのですかと聞くと、山田忠男先生はパイプをもち、沈黙のまま、「わははは、うふふふ、、、」と、わらわれたままだった、いま、人間国宝、山本邦山さんが、ご存知のところもあるだろう。

2)
1985年初秋、「宮城道雄記念館」で、吉川英史先生に、お尋ねすると、ふしぎに、黙られたままだった。

それで、宮城道雄の弟子だった、内田百閧フ言葉などから、「ぼんやりして、いらしたのでしょうか?」と言うと、「ちがいますよ、、、」と、吉川英史先生は、厳しく強い声で、言われた。

急行銀河が、刈谷を通過したのは、2時53分、そして、宮城道雄検校の墜落を、発見されたのは、3時半ごろ。

下り貨物列車1189列車、田中二三機関士が「大府駅」に、「刈谷駅東ガードに、轢死体」を見たと、「紙片」で、報告したことによる。

大府駅から、約500米東、駅員4人が、「宮城道雄」を、発見した。
宮城道雄は、大怪我の状態であっても、意識は明確で、「ここはどこですか、病院へ、つれて行ってください」などの、言葉も発することが、できた。

ふしぎなことに、事故現場から、駅員4人が離れ、4人は、現場から、ひきかえし、2人が加わり、合計6人がタンカーで、運ぶことになった。

このあいだに、宮城道雄検校は、重症なのに、居る場所、座っている、位置が変えられていたというのである。

墜落されたのが、2時53分。搬送が、4時すぎと、一時間以上、宮城道雄検校は、線路際に、移動され、放置されたままだった。盲目のため、抵抗の、すべなど、まったく、ない。

そして、事件から、2時間ちかい、4時40分をすぎて、ようやく、刈谷の豊田病院についた。
この2時間という、時間の長さは、なんなのだろうか。

墜落の、事件から、4時間20分ほどたった、7時すぎ、宮城道雄検校は、亡くなられた。

ふつうの人には、理解し難いだろうが、音楽をはじめ、一芸に秀でた方々の、体は、細身であっても、心身とも、非常につよく、鍛えられてしまっている。
演奏家には、かなりの、体力がいる。事故とかのばあい、体を、無呼吸状態へもってゆける。

宮城道雄が、「春の海」を、創作したのは、1929(昭和4)年である。
「勅題」は、1930年に発せられた。
一般化したのは、フランスのバイオリニストのルネ・シェメー女史 Renee Chemet が、気に入り、帝国ホテルで、編曲し、1932年、日比谷公会堂で、演奏となり、アメリカやフランスでも、レコード化となった。

このような、過程だが、GHQ連合軍にとって、和楽器は、本来、日本にあり、琴は「桐」だが、「竹」を中心にしたものでは、収益があがらない。
そのため、収益の大きい、洋楽器を導入した。
楽譜もふくめ、GHQ連合軍は、全国の小学生、中学、高校生に買わせることができる。
1950年代、60年代の、大学での、ギターとマンドリンクラブの隆盛は、なんだったのだろうか。

琴ひとつで、いろいろ工夫する、作曲家、宮城道雄検校の存在が、邪魔だったとも、言える。

日本人に、英語と音楽、食品など、生活に関することが、必要だと思わせると、アメリカの流行を、これが良いものだと、そのまま流行させれば、収益が高くなる。そして、GHQ連合軍に、金が入ってくる。


3)
この1956年4月の終りは、わたしの、母と妹が、三ノ宮駅から、落とされたので、より、明確な記憶として、刻まれている。

和楽器では、琴をしていた、母は、兄とわたしへ、「時代が変わったの、気をつけて」と、絶えず、注意に、注意をしていた。
母の横には、保育園児のわたし、そして、小学生二年の兄。
わたしたちは、一番先頭で、順番どおり、並び、兄とは、手をつないでいた。
列車が来たとき、わたしたちの、後方は、合計、8列ほどで、母が、心配するほどの、人ごみでは、ないと思った。

ところが、列車がきたとき、母と、母に抱かれた妹が、瞬間に、視界から、消えてしまった。
じっさいは、わたしと兄が、手を離され、別々に、一番、後方へ、つれてゆかれたと言う表現が正しいだろう。

なんのことか、わからないまま、一番後方の大人たちが乗ったあと、わたしたちは、母と妹は、先に電車にのったのだと、思い、電車の中をみようとした。眼のまえの列車には、母と妹がいない。

このとき、母の、「助けてください」との、声が聞こえ、声の方向をさがすと、線路に、母と妹が、落とされていることに、気づいた。母と妹は、ホームの下、線路にいた。

ふつうであれば、後方から、押されたのであれば、母と妹は、列車との間に、前から、落ちている。
ところが、ちがった。
母は、背中から、落とされた格好になっていた。背中と、腰を、線路で、殴打し、動けなくなった状態だった。

また、妹も、声を上げるかと思ったら、母が、
「助けてください、この子だけでも」という、死を覚悟した、悲鳴の意味が、わかるのか、1歳の妹も黙ったままだった。

電車で、座り、窓側の男たち、3、4人は、見た、状態のままだった。
「お母ちゃんが、線路に、落とされた」と、わたしは、電車での座席から、体を乗り出し、見る、視線の合う、男たちへ言った。
また、電車の入り口に、居る。男たちにも、聞こえるだろうかという、希望で、言った。

が、知らんふりをし、母と妹を、眺めている。
この、緊急の状態を、眺め、無視する、男たちの、配置の構図をつくるのに、7、8人以上が必要だろう。

7人いれば、わたしと兄を離し、妹を抱く、母の、足を浮かせ、腰から、落とすのは、簡単である。
線路へ、突き落とすことに、かなり、計画をしていれば、可能である。


4)
1985年8月12日 、日航ジャンボ123便墜落事故のばあい、歌手の坂本さんたちが、犠牲になられた。
歌手は、公演の当日、声が、きちんと出ないと、オーケストラはじめ、キー(調性)を変化させないといけなくなってくる。

これを守るため、体調を、ととのえておかないといけない。
歌手のほとんどの人は、すぐわかるだろうが、周囲の環境変化に、体が自然に、合わせるように、鍛えられている。

坂本九さんの、死亡の判明は、14日ごろと、墜落から、2日たち、家族の認知は、死後、90時間以上たった、16日とある。
もう、全身が、紫色をこえ、黒色の斑点だっただろう。

坂本九さんの遺体は、緊急事態で、墜落のとき、乗務員が指導する、両手で、両足をつかみ、結婚式のときの、ペンダントが、胸にささっており、即死ということだったという。

坂本九さんは、細身である。また、小柄であることから、座席で、窮屈ではない。なにしろ、歌手のため、腹腔の鍛え方がちがう。すぐさま、無呼吸の状態へもって行ける、体へ、訓練されていたはずだ。

死後硬直は、2時間ぐらいから、はじまる。
この時期は、夏であり、死後硬直は、5時間、あるいは、10時間単位で、大きく、変化してくる。

つまり、坂本九さんの体は、飛行機の墜落後、生存中であれば当然であるが、10時間ぐらいは、法医学関係者や、事故や災害になれている人たちには、簡単に、「形」を変えることが、できるということである。

5)
事故の飛行機は、羽田を、夜、6時12分に飛び立った。
機長は、12分後の、6時24分、上空、7000メートルで、垂直尾翼が取れたという、異常事態に気づく。

伊豆半島へ上空が、6時25分。このあたりで、機体を安定させる、ハイドロ(油圧系統)の、サスペンション(揺れの安定装置)が、効かないことに気づく。

進行方向が、和歌山の「串本」だから、ふつう、東京の管制塔からの指示は、乗客の、生命を尊ぶのなら、とにかく、飛行の抵抗をます、方法でもって、速度を落とさせ、海上への、着陸を命令するはずである。
なぜ、山間部へ行ったのか。

わたしは、日航123の、本物のボイスレコーダーが、公開されればいいと思っている。

雑誌の記事は、単発ものは別にして、社会問題が大きいばあい、チームを組み、数人単位で、編集してゆく。
よいチームができたものだと、わたしは、感心していた。
ところが、雑誌での、社会問題をつくる、チームが、解散となってしまった。

この事件へ、真実の追究と記事にした、「DAYS JAPAN」(講談社)は、しばらくしてからの、一回の講演料金が、まちがいであるとの、女性歌手タレントからの何度もの、抗議で、廃刊となってしまったのである。

6)
P、サイモンは、1974年 4月の大阪フェスティバルでの、公演で、「音楽は、やはり、メロディとリズムだね、ぼくは、歌詞に重点をおいているんだけど」と言った。
わたしは、P、サイモンの、作品は、歌詞から、入っていったので、この言葉にとまどいを感じた。

1991年10月12日 東京ドームでの公演では、「ここは、ジャイアンツの、東京ドームだろ、ぼくは、タイガースファンだから」と言って、かぶっていた、タイガースの帽子を脱いだが、だれもわらわないので、わたしが笑うと、前の席にいた、全身が黒の、ユダヤ系の宗教徒たちが、小声で、わらった。
また、「ぼくの作品は、日本では、よく売れるんだけど、グレイスランド Graceland だけは、よくなかった」とシニカルな、ジョークを言っても、わらわない。

P、サイモンの会場なのだから、観客は、何回も、P、サイモンの歌声は、耳にしているだろう。

日本人向けに、わかりやすく話している、P、サイモンの言葉がわからないのなら、これは、英語の学習の在り方を考えなければならないだろう。

日本人は、中学から、高校、大学と、10年近く、英語に束縛される。
教材費もだが、少しでも欠席すると、ついて行けず、生徒の能力差があり、心身に苦痛な時間である。

P、サイモンに、母と子の絆「Mother and Child Reunion」がある。この歌詞に、the mother and child reunion Is only a motion away とある。


科学現象での、分母と分子の考え方だが、これらは、どんな状態であっても、「ひとつの形相」で、同じであることを、基礎とする。

分母と分子とも、不安定なものであるが、ひとつの、まとまりをもっている。
電磁波にたいしての「電子」も同じである。

ところが、湯川秀樹さん、市川亀久弥さんはじめ、他のひとたちは、バラバラと考える人たちだった。

分母がサンプルの数で、分子もサンプルの数であることに、注意しないと、データがなにか、なんだか、わからなくなる。

物理は、数理式をあつかうため、在る程度、数学の能力がいる。

また、英語の授業だが、教員自体、自分の英語の能力がわかっておらずに教える、身勝手な授業と言える。

同志社は、英学校と言われるが、わたしは、1975年、英文科の教授たちに、能力がない、教壇から、降りなさいと命令した。

家庭の経済力によって、格段の差があく、英語など、選択性にすべきである。
大事なのは、なにをおいても、意見をはっきり言える、日本語の学習である。

7)
音楽というものは、人の心身を、奪ってしまう、強い力がある。

皆様のNHK、音楽が専門とかの皆川学さんが、光井正人さんと来たとき、年齢からと、仏頂面の皆川学さんが一番偉いのかと思った。
わたしは、音楽が専門というので、「新日本紀行」の入りの、音楽、冨田勲さんによる、拍子木が良かったというと、「あれは、いい。あれは」となった。

わたしの話は、「新日本紀行」の冨田勲さんによるものは、映画「シャレード」(1963)の音楽担当、ヘンリー・マンシーニと似ており、また、純粋に健康すぎる映画、「白銀は招くよ!」(1959) F. グローテ Grothe に、そっくりですねといおうとした。
が、他人のイエにきて、ずっと、暗い顔をし、不愉快な顔をしていて、詫び状の一つもかけない、皆川学さんはじめ、光井さんたち、NHK一同におどろいた。

この人たちは、故郷の音、礼儀ではじまる日本の風土がもたらす、民芸と無縁だと思いたい。

音楽で、金儲けは、これは、「瓢箪から駒」の世界で、ほとんど可能性がないと考えればいい。

ウィルスを閉じ込める、計算で、忙しい、1970〜80年代のわたしを、利用に利用したものに、鹿児島県、甲南高校73卒のMさん、高槻高校74卒のNさんがいる。

1982年、わたしの学会発表があるのに、吹田市と、岸和田市の親子して、あまりに、さわがしいので、何かあれば、謝罪にゆけばいいと、母に、結納と飾り物やさんの、菅原さんところは、わかるかと聞き、加古川出身の、「菅原洋一」さんを、訪問させた。

菅原洋一さん、25年まえになりますね。
あのころ、病的に細身の人物が、訪問したとおもいます。
「♪ いいのかしら このままで〜」は、わたしが、作詞作曲、歌唱指導したものです。

もし、高槻高校74卒のNさんが、テープ録音の、女性の声を、菅原さんに、聞いていただいたとしたら、あれは、わたしが知己の、京都市立芸大、70年代入学の、声楽科出身の人によるものです。

わたしは、興行の世界は、非常に難しく、相手が誰かわからないと、返答に困る。そのため、宝殿の松田といえば、菅原さんは、実家へ連絡をとられ、わかるからと言っているのに、「ぼくにも、プライドあるもん」とかで、言わなかったそうです。
ほんとうに、申し訳ありませんでした。

8)
1970年3月31日、共産主義者同盟赤軍派によって、「よど号ハイジャック事件」が起きた。
わたしたちは、4月から、高校三年になるときだった。

聖路加国際病院の名誉病院長とかの、日野原重明(ひのはら・しげあき)さんは、偶然か必然か、この事件で、有名になったと、ご自身、言われているが、京都での医師の子弟が多い、わたしたちには、知られていた存在だった。

日野原重明さんの、門弟になるのかどうかわからないが、少し、習ったという医師から、日野原さんの信仰は、「オスラー」ですよ、と言われた。

わたしは、怪獣の「モスラ」だと、兄と、宝殿劇場でみて、わかりますがと、返事した。

ウィリアム・オスラー(1849-1919)さんとやらは、明日(未来)など考えないで、懸命に生きること、趣味をもつことが、格言だそうだが、趣味をもったら、明日は、どこまで、しようかと思うのが、ふつうだ。

わたしは、自分自身の京大の主治医や、澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき、1904-1995)さんや、中川米造(1926-1997)さんの、医学とは、病人を、病気をまえにして、考えるという、考え方はわかる。

中川米造さんの、考え方は、1945年春に、京都帝大へ入学し、そこでの、731部隊による、恐怖の経験にある。中川米造さんを、端的に知りたければ、読売新聞(1997年10月21日、朝刊)にある。


が、その反対、病気をつくって、金もうけという、考え方は、わかりにくい、どういう過程か知らないが、兵役をのがれたという、日野原重明さんには、知識がありそうなのだから、岡本耕造、吉村寿人、正路倫之助、北野政次、内藤良一さんたちの時代を、明確にのべて欲しいものだ。

さらに、日野原重明さん。B29による、GHQアメリカの計画的、焼夷弾攻撃は、聖路加病院を残しましたね。
GHQ連合軍は、東京では、自分たちの寝床になる宮城の周辺を、残した。これは、大阪などでも同じだった。

いま、聖路加の院長、福井次矢 (ふくい・つぐや)さんに、2004年春まで、京都大学病院、内科系の総合診療での「責任者」だったという、医師としての、人間としての、義務と責任感を、あなたは、愛弟子の福井次矢さんに、徹底して、教えられたのでしょうね。

日野原重明さんとやら、あなたは、フィラデルフィアの医師会と関係があるらしい。フィラデルフィア市の「市旗」が、どういう意味をあらわすか、とうぜん、ごぞんじでしょうね。
市旗の中央部にいる、女性ふたりが、とっている、両手を上にしている姿は、わたしは、あなたたちを、敵とおもわず、信じますという、欧米の、平和を愛する本物の文化人であれば、だれもが、知る、ポーズである。

9)
医療とは、どのような形が、いいものだろうか。

1982年6月、わたしは、妻の父と、宇治で待ち合わせをした。
宇治川で、写真をとるとき、わたしは、妻の父が、進行性ガンと気づいた。
妻が、福井へ電話をすると、義理母が、「5月に健康診断をして、どうもなかった」と言って、わたしに、わらう。

わたしは、妻へ、至急、京都へ、来てもらうこと、京大でよければ、入院の手配はするからといった。
わたしは、医師さがしに、京都を、走っていた。とにかく、早急で、体力と才能のある、若い医師と思った。

父にしろ、わたしの母にしろ、この雰囲気がわかるのか。このころ、わたしの生地で、二番目に重要な寺、「播磨国」25番目の御嶽山、清水寺を参っている(上左)。このような、信心を、意味なく、ばかげているというのは簡単である。そうすれば、何が、馬鹿げていなく、大事なのか。

物事には、沈黙のまま、行動をして終わりにする人と、黙ったまま奪うことができる人がいる、

8月になり、義理母から、電話があった。「もう、手遅れ」で、泣いていると、妻がいう。

わたしは、とにかく、京都に来て欲しいといい、京大、1982年9月、第一週の金曜日、内科診察。
わたしは、内科医に、肝臓を、半分ほど、残して欲しいといった。
そして、外科は、若いチームで、第二週になる、月曜日、入院まで、手続きをした。

ところが、義理父は、福井へもどってしまった。
そして、福井県立病院の60歳ちかい院長が立会いとかで、福井で、手術という。

どれだけの種類があるかわからない、抗がん剤だけは、打たないようにといったのに、福井の別のM病院で、1983年春、抗がん剤を打たれた。

わたしは、個人病院の医院長に、どの種の抗がん剤かと聞いたら、医院長は、「あなたは誰なのか、家族の気持ちが、わからないのか、病室に、いっぱい、健康薬品があるだろう」と言った。周囲には、義父の兄弟がいた。が、黙っている。
すべて、わたしの、母が、持参したものだった。

妻には、会社は、もう首になってもいいから、一ヶ月、義理父の食事などを世話するようにと、言いつけた。
こういったことを、平気で、言葉にできる人は、「田毎の月」の意味など、とうてい、わからない人たちだろうと思った。

「田毎の月」を、貧しいからと考えるひともいるが、田毎の月は、山と川と同じく、村の、防御にも、使われる。

官僚や、偉いさんの、天下りが問題になっているが、これからは、「天上り」をしてもらったら、どうだろうか、天上論で、山など、天に近いところでの、稲や野菜の耕作の手本をしてもらったら、どうだろうか。

「班田収授法」を手本に、水稲を、第一の文化とした、日本人、社会に何が大事なのか、わかってくるのではないかと思う。

10)
2007年5月22日、倒れた状態の、父と、同様のわたしは、蒲団のところで、互いが、天井をみあげる姿勢で、話した。
わたしは、1956年、秋、妹といっしょに、ハッタケとりに行ったところは、どこ?と聞いた。

父は、「ハッタケなぞ、どこでも、生えている」というので、いや、平津の、大西の八百屋の、角を、線路をこえ、北へ、ずいぶん上がったところだった。
「いや、そんなところ、知らん」というので、わたしは、1956年の保育園児のとき、一度行っただけで、後は、知らないと言った。

大きな池がつづき、山の途中に、黒に、赤や黄色模様の、毒蜘蛛が巣を張っていたので、恐くなり、妹と、自転車のところへ、戻ってと言い、父が、ひとりで、取りに行った、と言った。
「東神吉のほうやな」というので、東神吉ってときくと、「西神吉のとなりや」と、わたしは地図なしの、記憶だけでだから、話にならない。

わたしは、家人に、紙と鉛筆をもってこさせ、山の形を描いた。
「その山の形やと、新池のほうやな」と、父がようやく言った。

祖父が、戦前は、弁護士もされていた、吉田賢一さんをはじめ、国会議員たちへ、言っていたのは、「別所が、姫路市にとられそうや、加古川が加古川市にとられそうや、船頭(せんどう)はやらん」だった。

それで、「船頭」って、昔、舟入(ふないり)や、舟付き場?と聞くと、「船頭に、船なんか、入られへん」というので、明治の終りか、大正時代のはじめは?と言うと、「ワシは、生まれるまえの事は知らん」と言う。

松茸を、おいしくないと言っていたけど、印南のひとは、食べないのかと聞くと、「松茸は、赤松があるところに、なる。昔、美味かった。もう、ない」と言う。

わたしは、赤松のなるところの言葉で、あきらめがつき、蓮根はときくと、
「蓮根は、もってきよる」と言う。

蝶々やトンボだけれど、昔との、違いはと聞くと、
「昔、蝶は、カミナリ蝶や。モンシロチョウでも、大きかった、いまの小さいのは、中国からのや。トンボは、ヤンマーや」と言う。

飼っていた、牛とかの、処分はと聞くと、「働きに、働いてもらったんやから、成仏のため、すべて、西(賽、さい)のほうへ、持っていってもらう」と言う。

わたしは、祖母がつくる、カレイの事を、父に話した。
祖母は、魚類はなんでもだが、カレイのばあい、骨の状態になったとき、わたしや妹のまえで、湯をかけ、皿の上で、スープを作ってくれた。
わたしは、魚が苦手だけれど、このスープは、のむ事ができた。

そのあと、「まんまんちゃん(ご飯)、あん(ありがとうさま)」と、手をあわせ、ほほ笑みながら、言うのが、ひとつの、明るい、儀式のようだった。


11)
父に兄が中学一年生のとき、山で、ウルシにかぶれた話をした。
兄は、困ったことは、まず、わたしに言う。

赤い顔を見せるので、どうしたの?と聞くと、「ウルシ」という。わたしが、ウルシって? というと、山に成っている木という。

意味がわからないので、祖母を呼ぶと、いつもは、ゆっくりしているのに、「じっと、して、まっとき」と言って、まるで、ニワトリか、チャボのように、走って、市場(戦後にできた宝殿市場)へいって、豆腐の「揚げ」を一枚、買ってきた。

母が、買い物カゴをみて、「お母さん、お揚げだけ?」と言っても、祖母は、返事をしない。

兄に、これを、顔中塗ってと、揚げを、塗らせた。
黙ったままの、兄が、嫌々塗ると、そのあと、祖母は、ガスレンジで、揚げを焼き、兄に食べと言う。

そのあと、西(さい)の方を向き、これは、お稲荷さまが、怒っているからで、「おキツネさま、コンコンさま、なおりますように」と、手をあわせて、拝みなさいという。

イエは、父方は、代々、浄土宗で、日ごろ、南無阿弥陀仏の、一言も言わない、祖母の真面目にする光景を、わらいながら見ていたけれど、兄は、嫌々、真剣にしている。

行事が終わって、皆、話して良いようになった。
祖母が言うのに、「お寺と、もっと昔の、神社のお稲荷さまは、ちがう」という。

このあと、小学三年生のわたしが、病院というと、母は、兄を、すぐそばの医院へつれていった。

このような、祖母の話をしたあと、わたしは、自分の部屋へもどった。

急な、用事ができて、母が父を、呼び、探す声がする。
どうやら、立ち上がるのも、無理な体だったのに、父は、庭へ出たようだ。

12)
いま、先進国のアメリカをはじめ、伝染病で、町が、上手く、機能されていないようだ。

薬物もふくめ、現代化は、いいけれど、先祖からの、風土というのもを、忘れているような気がしてならない。

まだ、わたしたちの世代であれば、入学した、小学校の、校長室がある、校舎の方向が記憶にあるとおもう。
皆、東西向きと思う。

これは、季節ごとの風が、通り抜けるように建てられているからだ。

なんだか、機械設備で、空調とばかり言っているが、いま、経済状態で、この空調機器の維持費もでてこない状態だと思う。

風は、殺菌の効果があるし、自分たちの住むところの空気が汚れているという人であれば、少し、散歩がてらに、樹木のあるところへゆけばいい、そうすれば、樹木が、殺菌してくれる。




▲右、西国三十三箇所参り、「播磨国」二五番、御嶽山清水寺。 ▲左、上、一年二組、松田の下、ケンちゃん。
▼米田小学校、1958年入学式の記念写真、講堂の前。後列右、イエへ良く来られていた、一年一組担任、福田先生

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-06-08