京都昨今
53、沈黙の美は図られ往く   「印相」   NHK Y
1)
どのような、偶然といえば、いいのか、卒業以来、封印していた、高校の、卒業アルバムに、父が、京都府警、刑事の、礼拝堂の、前列、左の能勢君は、「西へ祈念」し、アルバムへのサインに、「自由への象徴?」とある。

マリア像のそば、小さく写る、わたしは「東の方向」を向き、記号として、担任の物理のサインの上、「北」にあたる部分に、「一文字」を書いた。

啓光学園、「第九期、卒業アルバム」での、サインの場所にある。

啓光学園の、十字架は、マリア像は、北極星のある「北」。
東は、朝日がのぼる方向。
西は、陽がしずむ方向である。

四季では、西欧の、構造にくらべ、万年雪がある「高山」と、暑く乾燥した「砂漠」地帯と、ジャングルのような年中栽培可能な「平野」、それに、大きな「川」に、海をもつ、地域の思考は複雑に、構築されている。

1「東」  青   春
2「南 」  赤    夏 
3「西」   白    秋
4「北」   黒    冬


2)
去年(2006年)、啓光学園の、わたしのラグビーの、石塚勇先生と、電話で、はじめて、話しをしたとき、
「まつだっ、キムラ・ケンイチ、覚えて、るか?」と、明るい声で、尋ねられる。

即座に、答えることができず、2、3秒、おいた。この時間が、わたしには、とても、長く、感じた。そして、
「ああっ、中学、理科の」と言った。
石塚勇先生は、この、中学、理科という、わたしの言葉に、戸惑われたのか、だまって、いらっしゃるので、竹刀(しない)をもって、「まつだ、何故、プールで、泳がん」といい、わたしが、水泳嫌いというと、「こらっ!」と、追いかけてきた、剣道部顧問、木村健一先生の、1968年6月の、様子を、思い出した。

わたしは、水泳部で、午前、休講のとき、ひとりで泳いだときや、水温が低いときは、プールの水の殺菌と、整理をしたあと、ラグビー部へ行っていた。

1968年5月、ラグビーの練習風景だが、タッチラインからの、ボールを、自分たちの、チームへ向けて、放るとき、「753」とかだったら、「12・24」だったら、意味が、まだわかる。
しかし、「764、8594」など、言って、ボールを、投げているので、わたしは、先輩、その、意味なんですか?と聞いたら、「ええっ? デタラメ、言ってる、ねん」と言う。

わたしは、指令系、N08だから、チームの、信号の合図を、わかりやすい方法へと、変えることにした。

中学生でも知っている、語呂あわせ、「平方根 square root 」 など。

「√2」だと、「ひとよひとよにひとみごろ」は、状態による、相手のメンバーの、様子をみての判断。

日本へ、キリスト教が伝来した、「1549」、以後四苦八苦のキリスト教。これは、勝つのは、難しいぐらいの、意味ぐらい、のしか、使わないと言った。

「数論」をつかえば、「三」と「四」で、組み合わせは、ふつう、「十二」だが、ここへ、大阪名物、「縞模様のスイカ」を「壱、○●」として、を、組み合わせを加えると、すぐ、60組になる。

「信号が60」だと、まず、対戦相手は、解読できない。

これらは、1分が、60秒なので、手の交差で、できる。
しかし、わたしの指揮は、はやすぎ、わからなくなる、と言う。

水泳部の、上級生、理系は、プールサイドで、「コンピューター理論の二進法」の、数学ばかりしているので、
「まつだ、オレらは、二進法と、十二進法の、組み合わせは、わかる。そやから、まつだの、手の動作が、明確って、わかるけど、それ、ラグビー部には、ちょっと、無理やで。
あいつら、十進法が、理解できてへんのに、二進法なんか、わからへん」と、三年の、イエにスイカ畑のある川上さん、二年の中川さん、宮本さんは言う。

3)
1968年、夏休みが、終わろうとするとき、社会の指定4冊、レポート課題では、「奴隷の歴史」を書き上げた。

国語からは指定4冊。
3冊まで、感想文をかいたが、魯迅(ろじん)の、『阿Q正伝』が、解読できなかった。


魯迅は、「東京も同じようでしかなかった」ではじまる、中学生の教材でもあった、気品のある作品、『藤野先生』で、「わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした」(訳、竹内好)と、二進法へ、別なる、二進法を加えた思考で、「自分自身の位置」を、変えた。

この才能ある、魯迅が、なぜ、このような、「修辞法でもって、書いて?」とは、思ったが、感想文なので、わたしは、文章を、どう、書き上げたらいいか、わからなかった。

4)
わたしは、50メートル、プールは、東西の方向にあり、にぎやかな、スタート台とは、反対の位置、東北の位置で、寝そべって、ぼんやり、数論をしていた。

これまで、何もいわない、木村健一先生が、「まつだ、何を、悩んでいる?」と、ウェイト・リフティングによる、スーパーマン、クラーク・ケントのような、体格と風貌をもたれ、わたしに、言う。

まさか、理科の先生に、『阿Q正伝』の、感想文で、悩んでいるとは、言えないので、「学校へ、遠いから」と返事した。

「そうか!」と言われた、木村健一先生は。しばらくして、「こらっ、まつだ、職員会議で、通学の遠さを、かけようと思ったら、まつだは、電車で、10分ほどの所と言われ、職員室中、爆笑だ」と言って、「オレの定期券を見ろ!」と、大阪南部から、3回も、乗り換えのある、定期券を、見せられる。

わたしは、そんな、3つもの定期券。見せるまえに、悩みませんか?と聞くと、「こらっ、誰が、こんなことで、悩む。生徒の、ほとんどが、2つ、3つの定期券を持っている! こらっ、まつだ、これから、ウェイトリフティングをやる、来い」と、また、明るく、怒って、言うので、「そんな、鉄の塊をもつのは、苦手」と言うと、また、「来い、練習風景をみろ」という。

体があたたまるには、夏でも、スクワット、20分はする。見ろと、命令する。
わたしは、東京、メキシコオリンピックで、優勝した、「三宅義信」さんの、「みやけのスナッチ」と言って、20キロ(バーベルを支える、棒一本)でしようと思ったのだけど、これが、まったく、できない。

このような、過程をいうと、石塚勇先生は、わらい、「先生なぜ、あの6月、ラグビー部に、とどまろうとする、ぼくを、助けて、くれなかったのですか」といったら、「ワシ、あの年、啓光に、来てん」と言い、笑われる。


5)
母に、重量挙げのことを言うと、前田のイエではない、高田のイエの、自衛隊勤務(のち、杉戸町役場勤務)が、わたしも生活した地、埼玉は杉戸町の、小さな鳥居があるイエの、庭に、練習場をつくった。
そして、1956年、兵庫県での、国体で、入賞して、と自慢する。
「イエで、重量挙げ!?」と、わたしは、おどろいた。

紀元前1世紀まえの、「九章算術 (きゅうしょう)」は、すぐれている。
「風水学」は言うにあらず。

はるか、天竺(インド)を、仙人がいる、「霊峰(れいほう)の、御岳(おんたけ)」。
中国を父、朝鮮を母とする、日本が所持した文化。
「墨一色」、うす墨から、濃い墨への、変化。
「朱(丹)一色」、朝焼けから、青い空と海、夕焼けへの文化。

自分自身の、意識は諦観として、潔斎して、一切、止めること。
他(先祖の教え)のみの、考えを、大事にされた、「薬師寺」123代管主で、高僧の橋本凝胤(ぎょういん、1897―1978年)さんは、法相宗管長でもあられた。


5)
第八高等学校(いま、名古屋大学)在学中、「反帝同盟事件」を故意におこし、同級を、「第八高の文系」を、たった、19人までにしたひとがいた。

公害人間ではないか、雑誌「公害研究」の、経済学、一橋大学の、都留重人(つる・しげと)「×」。
そのとき、同窓に、世界の「SONY」の誕生の親で、初代、郡山市長、三木守人さんがいた。

三木守人さんは、十全に「○」の人で、檀家総代で、橋本凝胤館長へ師事をした。

愛知県は、わたしの血縁が多い。

また、同じく、三木守人さんは、同志社大学の山田忠男先生と、同じところで、長く学んだ。

愛知県では、二人とも、小学生のころから、知られ、第一中学、第八高校、三木守人(文乙)、山田忠男(理甲)。

京都帝国大学でも同じく、下宿先が、銀閣寺だったのが、二人の、「我が、人生に於ける、敗因」との事だった。


兵庫県、高砂市尾上(おのえ)は、うつくしい松林のある海岸で知られ、田圃ばかりの地帯で、戦争ということで、飛行場となった。すべて、土を盛り、ならした。

滑走路は、プロペラ機、二枚羽根だったので、土道でも、可能との、わたしの父が言う。

天皇が象徴だったのは、古代から、同じなのに、「天皇機関説」と言い換えた、「国家、ばらばら、ガアガア、騒擾罪、適応」が、ふさわしい、偉いお方の出自という高砂市荒井を、父にきくと、「荒井は、どろどろの、漁師が、ところどころにいるだけの、住めない、地域だった」とのこと。

原来復博士の、血縁を聞こうと思い、「原?」ときくと、「あの、あほみたいな物、かく、オッサンか?」と言う。

そのため、あの原とちがう。それは、原健三郎さん。淡路出身、講談社出身で、昔だと、「土下座、ほら貝ほら吹き大名が相当」と、知己が言っていたと。

それで、神吉(かんき)のミキちゃんの、出身はどこときくと、「神吉は、そこらへんに、たんと(多く)、おる」とのこと。それで、わたしに会いたかったと言っていた、光文社の社長だった、神吉晴夫(かんき・はるお)さんは、と言ったら、「知らん」と。

6)
なんだか、わかり出して、戦後民主主義の旗をもった、思想家とやらの、出自が、信州の松代町は、丸山真男「×」。お坊さんみたいな名前の、ひかりは真っ赤ではなく、「ひかりごけ」の武田泰淳さんは「×」。

赤切れ、ハラハラドキドキ気をつけてではない、「赤頭巾ちゃん」の庄司薫(本名、福田章二)も「×」。

作品料金(注文の、何回演奏してもいい、新品楽譜)が、大学生には、1970年代なかごろになっても、30万円ぐらいと、安い、通常、「作曲はダメ、錬金術だけ巧みの、マンテツ」と、いわれる、満州鉄道ではなく、武満徹「×」。

このような、健全であろうとする、市民の考え方を、洗脳する中でも、一番、気をつけなければいけないのは、ソロバン屋さんの、遠山啓(とおやまひらく、1909―1979年)。

遠山啓さんは、なんだか、水道をたれながしたら、水がもったいないのに、「水道方式」という、わけのわからんのが、オリジナルで知られるらしい。

人をまどわす、考え方は、高齢な、自分自身の年齢でもって、無知な、読者たちなどへ利用した。
明治42年に、生まれ、むかし、夏目漱石が、小説「三四郎」で、「日露戦争で勝って一等国になってもダメですね」と言う、言葉があります。と、ワケワカラン、論理整合、まったくなしの、訳がわからない修辞でもって、「一等」が優先する以上、二等、三等、四等があり、「競争原理」をあおり、ダメでしてと、など、言う。

このような、表現を、いいと、いう人は、どこがいいのか。

なぜ、夏目漱石を出すのか。
それなら、やはり、ジャガイモは北海道ので、サツマイモは鹿児島ですねとかの、論法でいけばいい。

また、野菜類への理解が、いまの、学生やカルチャー夫人に、難しいのであるとするならば、たとえを、蕎麦にして、砂場の蕎麦で、二番は、赤坂更科蕎麦と世間はいいますが、わたしは、駒場の学食の蕎麦が一番ですといえば、代金を、わたしが、もったときなど、通常の学生にカルチャー夫人は、砂場か赤坂は好み、駒場の学食のは、ちょっと、となるだろう。

「GHQ連合軍=ロシア」だが、この、打算学ソロバン専攻の、遠山啓「×」の、関係筋に、「吉本隆明(よしもと・りゅうめい)」という、1960年代、白黒、リバーシブル亀の子(ねんねこ)姿で、マスコミへ登場してきた人物がいる。
たしか、1969年ごろ、「平凡パンチ」にのっているのを、イトコが感激して見ていた。

わたしの、枚方市住まいのイトコが、この、脳みそが、ほとんど、腐っているのではないかと思う、打算、紙芝居学専攻の、吉本隆明「×」ルックに、やられた。


あれは劇のつづきで、「ねんねこ」にいたのは、「なすび」なのか、新宿高野の規格品の「ジャガイモ」なのか。
いつもどおり、新人賞の選別なしの、発表で、福武の正しい、社員が、「海燕」の、編集長寺田博「×」さんに、今回だけは、ふざけるのもいいかげんにしろ、上村令アンパンも、怒ってるぞと、言っていた。

吉本隆明さんとやらに、「言語にとって美とはなにか」と言う、著作があるが、日本語にかぎるなら、日本語にとっての、美しさは、吉本さんが、このような、論理とか、まったくない、日本語の本を、出し、若者の手へ、ゆかせないことだと、マスコミの連中に、わたしは言った。

そうしたら、ずいぶんたって、「プールで溺れた」との、電話があったので、流れるプールの、豊島園なのかと聞くと、あとで、「戸田(へだ)」というので、それじゃ、海が汚れるじゃないかと、わたしは言った。

このまえと思うが、「満州鉄道」ちかくに、誕生された、安部公房(あべ・こうぼう)さんが、奇妙な発言をした。

「ぼくは、ただ、『月光』を楽しみ、自由を好む、エトランゼなんだ、孤独が、なぐさめ」と言った。
それで、そんな嘘をいうな、弱い、雌鳥へ忠実な、生き死にをかけた、渡り鳥たちが、集団で、怒るぞと、わたしは言った。
安部公房さんは、富士屋ホテルにいてね、というので、嘘をいうな、いま、JR中央線の若者の町に、いるじゃないかと言った。

憂鬱な日々と思っていたら、大江健三郎「×」さんの本を、ポーンと、ゴミ箱へ放った、しっかりした、ひと「×」がいると聞いたので、わたしは、イエへ、連絡した。

あの、「ハスミ」というのは、どこから、来たのか? と父など、返事をしてくれないのに、決まっているので、母に聞くと、
「なぜなの?ハスミなんか、親戚にいない」という。

それで、中学生のころ、年賀状にあったのを、記憶している、40年ほど、前だ、と言うと、
「わたし、何歳のころだったの?」と、帳面屋の娘だった、超高齢な母が、確信的、とぼけで、言う。
わたしは時間がないので、家人に、向こうの部屋へ、母を、連れて行ってくれと言った。

「×」の連中に、共通しているのは、すべてにおいて、中身がないのだ。

なぜ、ここまで、嘘が多いのか。学歴詐称が、よく問題になるが、NHKの石田弘之(NHK九州メディス→福岡国際大学教授。専門、メディアと倫理観なしゼニ儲け))さんとやらが、NHKの経済番組枠をもつ、「奴隷経済」を、肯定する評論家の、担当と、いうので、あの人物は、学歴詐称というと、「奥津憲仁と、いっしょに、調べ、きちんとします。約束は守ります」と言って、しなかった。


7)
ラグビーという、スポーツには、明確なルールがある。
まず、「試合」の場合、監督は、プレイの場所へ入っては、いけない。

ボールは、一つ。
それで、一チーム、15人構成で、対戦相手も、15人。
合計、30人が、プレイをする。

ボールは確かに在る。
「顕在」する。

これを、ウィルスとしたばあい、ボールは、見えかくれしても、確かにある。

ボールの、「顕在」。それに対して、トライ(獲得点)を得ようとするばあい、
ボールを見られないよう、指令系NO8は、モールで、進むと判断したばあい、フォワードの基軸、NO1〜NO3に、むかい、モールとの指令を出し、ボールを一時、隠し、NO4〜NO7まで、指示をだす。

また、圧倒的に有利と思ったばあい、NO1〜NO3を基軸に、スクラムへもってゆき、ウィングをそろえ、ボールのある位置を、徹底的な有利な場所へ、調節する。

ウィング攻撃のばあい、時間差攻撃であっても、ボールは、確かに在る。これを遺伝子学のばあい、顕在する優勢ではなく、遺伝子学の基本、「遺伝子での攻撃」と考える。

界面を切る、結界を切ると、一か八かに、見える、「駆け抜け」の判断をしたばあい、NO8が、ボールを自分の進行方向へ、自由に、パント(ボールを適当なフライ)攻撃で、ボールへ追いつき、ゴールへもってゆく。
これが、ある程度のルールは、必ず守ろう、とするため、紳士のスポーツと言われる。


もし、これが、味方と敵がわからない、状態で、仲良しの者どうしが、ボールを、行ったり、来たり、させていたら、どうなるのか。味方と思っていた人物たちから、裏切られていたら、どうなるのか。

8)
日本文化の母、朝鮮が、生活に困っているとき、大砲総本家のイギリスの子、アメリカの海軍、ペリー Matthew Perry は、日本への開国は、「捕鯨」のための、拠点と言った。

ひいひい爺さんが、黙り、ひい爺さんが、「はい」といったのだろう、大正時代のはじめ、わたしの父方は、「日魯(ニチロ)漁業株式会社」株を買わされた。

「会社」とか、「株」というのは、動かさず、資本金を出したままの、人の善意によって、上手く、成立する。

なにかと、欧米列強により、左右され、社会問題で、犠牲になる、日本文化の父中国と、母朝鮮だが列強の支配で、自然が厳しく、経済のことから、朝鮮の人々のためと、播州は、幼い、牛を買う。

「茶色」の牛が、高砂市の浜につき、目利きがきく、仲買の、博労たちにより、「茶色」が、日本では、めでたい印の「赤牛」と呼ばれ、法華川をそって、のぼり、牛追いにより、着くと、牧場で、育てられる。

9)
東海道、中仙道、山陽道ほか、山岳地帯でも、「+」の、緯度と経度が、計算されている。

城下町、門前町、宿場町の、緯度と経度は、ずっと、計算されていた。

父方の、祖父の姉のひとり、その嫁ぎ先に、旧財閥の、鉄鋼所だったが、この中に、世界の自由都市、「堺」があった。

堺市も空襲に合った。堺の意味は、文字通り、地勢からである。

この堺の南に、紀州がある。これは、海岸防御、「伊勢神社」の防御の地点となる。

国の防御は、修験道者がとおれる、山岳が中心の、道々の位置にも、置かれている。

日本のばあい、陽が暮れるのは、北海道や、東北のほうからである。敵がせめてきたとき、緊急時は、松明(たいまつ)などで、知らせることができる。

また、「鷹匠」とは、なにか。黒や茶色の、鷹は、どんなときに使用されるのか。
低気圧がおき、雲まじりの空、鷹は、どのような、飛翔をみせるのか。

いったん、上昇し、あとは、風にまかせ、日本の、北から南への、風の流れを活かせば、時速、300キロはでる。
鷹たちは、ふつうの人が考えているより、頭脳がすぐれている。

会津から、江戸。鷹を代え、江戸から、尾張。
尾張から、大阪や、明石、明石から、姫路。
また、新潟のほうから、越後、越前。

また、信州松本城(カラス)から、備前岡山、肥後熊本などへの伝達。
これらの、伝統による、知恵の、利用は、簡単なものである。


10)
日本は、墨いろ(黒)に、神式(しきしん)、これは、神様によるものと考えた。
あるいは、神聖な、闇での、ひとすじの、明かりの中に、色身(しきしん)がくる、仏が、助けにきたと、仏教の教えを、信じた。

この、神仏習合の、考え方を、欧米列強は、自分たちの戦争での、負債分を、アジアで奪取しようと、また、日本独自の考え方、組み合わせ方を、見抜いてしまった。

また、太平洋戦争後は、ふだんつかっている、日常語も、日本から、差別用語として、使用すると、差別用語とした。

白人種、なかでも、イギリスの「白」が、唯一との、考え方に、洗脳された、人物たちにより、京都、加茂川、木津川、桂川、淀川から、わたしが好きな、黒や茶系統の、静かな鳥が、ずいぶん消えた。

GHQ連合軍は、昔からの知恵、それらを消去、するため、日本の都市を、破壊しつづけた。

わたしは、1951年9月生まれで、1953年正月、数え、三歳で、「いそがないと日本が、アジアが壊されると判断され、母方の方からの、形相とし、「元服」となった。

姓名へ、「松田、次郎、好信」と、物事へ中立であるよう、間に、名前ひとつ加わった。

この原因は、父方の祖父が、このままでは、中国につぎ、朝鮮、そして、日本が、つぶされてしまうと、民社党の吉田さん、社会党の田中さんたちと、このままでは、無理と判断したこと、にある。

つつましく生活をすることが、大事としる村への、新しい知恵の神として、自民党として父方の母方の別の地、阿弥陀村、そば、曽根の「渡海元三郎」さんを、擁立すると判断した。

わたしが、2歳まえ、渡海元三郎さんは、息子さんの、兄ちゃんと、挨拶に来られた。お二人とも、静かに、規律ある、姿勢をされたままだった。

11)
湯浅八郎さんが、総長となられたとき、寄付金だけでは、どうにもならないと、画期的発想、「学債」と、鳶が宙返り、どころではない、発想をされた。
したのは、湯川秀樹さんや、市川亀久弥さんだろうが。

勝手な考え方というか、同志社女子に、新しい図書館が必要だといいだし、1970年代、穴はほったが、そのあと、費用がつづかなくなった。

京都三名水のうち、だだ、ひとつ残るという、「御所」、東の、梨の木神社に、「染井の水」があるが、1976年ごろ、水の味が変わったに違いない。
わたしは、まさか、地下型の建築様式にすると、思わなかった。


山田忠男先生が、「渡海の娘が、自分の父親が、国会議員と言わないんだ」という。
わたしは、そんな、自分の父親の職業を、たやすく、口にするひとがいますかと言った。

もうひとつ、呼び捨てにしないで欲しい、わたしのイエでは「渡海さん」という、と言いたかったが、黙った。

水の流れを知る、わたしは、このおかげで、萩の花などを、見に、とうじは、静寂だった、梨の木神社へ、ゆけなくなった。

物事は、世襲により、先祖からの知恵を、無くさないのが、わたしは、大事なひとつとする。

正義を知る、若い、警察官の死に、苦しさを感じる中、また、墨色の烏城がある、沈黙を美とする、風土で育ち、恥を重んじる高校で学ばれた、国会議員、松岡利勝、農林水産大臣が、(2007年)5月28日に、自ら、命をたたれた。

病院からのもどり、知己が、「因幡の白うさぎが、わかる?」と言うので、
安倍晋三  「○」
麻生 太郎 「○」
中川 昭一 「○」
中川 秀直 「○」

わたしは、いまの与党の中で、世情を混乱させる奴と、ひとり、「×」をつけた。

12)
下は、わたしが、他者からの、偽りで、不幸があったのではと感じた、母が、わたしが自殺しないようにと、参ってくれた、「西国三十三霊場納経帖」である。

先に、尋ねられたが、わたしは、黙ったままだった。
日付をみて、わたしは、涙があふれてきた。

欧米列強は、このような、生きる、姿勢、神仏を信じる、生き方が、野蛮だと言いたいのだろう。




HOME
「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-05-31