京都昨今
51、バージニア工科 33個目の 白い風船     NHK W

1)
アメリカ合衆国は、大不況へ突入中であり、この事実から、できるだけ早く、逃げ出したいのが、希望である。現実として、NYだけでも、ホームレスが10万人単位でいる。これすら、対処する、余裕がなく、悩んでいる。

政府の、財政力のなさに、ホームレスのかれらは、孤独で、無口なまま、自分たちの生命は、ハドソン川からの、NY湾へ、流れて行ってもいいという、覚悟をしているのかもしれない。

国家を守るには、護岸が大事なのに、アメリカ合衆国は、政府に、資金の欠如から、カリブ湾岸の補修すら、おろそかにした。

2004年9月のハリケーン・アイバン Ivan、2005年8月カトリーナ  Katrina、9月リタ  Rita、10月ウィルマ Wilmaは、住民に、治安のなさから、いまも、精神的不安を与えつづけ、「暴力は、いい加減にしてくれ」、「Enough」を、町に貼らせている。

アメリカの治安のなさは、ホームレスの、数値、100万人以上という単位で、想像がつくだろう。

音楽の町でもある、ニューオリンズは、ファンク FUNK、リズム&ブルース R&B の本拠地だった。
また、白人と黒人が、協調した町ともいえる。

ただ、このニューオリンズであっても、もとは、モンゴロイド、インディアンが、太陽に、感謝への、祭りをする村であった。

2)
「皆様のNHK」は、昔っから、NHK教育テレビなどで、夜8時から、今年の夏は暑い予想とかで、春から、各社、ビール戦線ですねと、ビールの裏側をうつす。が、メーカーは自社のビールが分かる。

ファッションでは、今年の秋の流行は、オレンジ色ですか、とアナウンサーがもってゆく。

マスコミの雑誌などでは、最近、占いのブームでしょうか、いろいろな雑誌が発行されてますね?といい、一番、宣伝費を出した出版社の雑誌が上にくる。

広告会社にCF、CM代を支払った、メーカーが、分かる、画面つくりで、20年前の、1987年ごろ、だいたい、3000万円〜5000万円だった。

NHKが、民放より、格段高いのは、NHKというブランド力に効果が大きいということだった。

これら金銭は、番組プロデューサーをはじめ、打ち合わせの段階で、広告代理店から、NHKエンターテインメントのプロデューサーの、金銭専用のポケットへ消えてゆく。

3)
ところで、皆様のNHKは、これまで、国民の危機に、何を、放送してきたのか。

1985年6月、豊田商事事件があった。永野一男さんと言う経営者が、悪徳商法ということで、マスコミの前で殺された。
一報は、TBSのカメラ陣によるものだった。MBSからの配信で、ふつう、東京TBSは、アナウンサーが違うのに、東京も、大阪MBSのアナウンサーがうつった。
わたしは、知己から、テレビ局で待機と言われ、見た。
そして、これを映して良いのか、倫理という難しいことはいわない、道徳をこえたものであると注意した。

1995年3月、オウム真理教事件は、東京の地下鉄に、新興宗教集団が猛毒サリンを噴霧した。
先に、1989年、富士ヶ嶺、上九一色村の、勇気ある住民が、静岡県警に「SOS」を言ったが、静岡県警は、無視をした。

そして、坂本堤(さかもと・つつみ)弁護士が、本当の弁護士としての、活動中の、秋、「サンデー毎日」牧太郎(まき・たろう)編集長が記事にする。

牧太郎さんが、記事にした後、「毎日新聞」をふくめ、各、マスコミが後を追えばいいのに、しなかった。

ここでも、金と権力が動き、「坂本」弁護士、一家殺害がおき、牧太郎さんも、「毎日新聞本社」で、襲われたときですら、なかなか動こうとしなかった。

より、大きな、事実は、「サンデー毎日」の牧太郎さんも、富士山の、上九一色村の住民の声が理解できていなかった。サンデー毎日も、テレビ局と同じく、臨時のアルバイトのような記者へ、取材を外注する。

「サンデー毎日」が、オーム真理教の、サティアンを、一つ、と思っていたことだった。
オーム真理教の、施設の、広大さを、知ったのは、後日だった。

4)
とうじの、わたしは、「河出書房新社」に、金銭をとられ、オーム真理教を最初に記事にした、会社、「学研」の幼児局に勤務し、絵をかく、妻の、原画80数枚が、千駄ヶ谷、河出の編集次長が言うのに、「河出」の編集者により、隠されていると。

ひとつの事故、「宣言(のりと)」事件がおきた。

1985年8月、日本航空、123便が、群馬県は、高天原山(たか・あまがはら・やま)に墜落した。搭乗されていた人に、父が好んだ歌手で、アメリカにも知られた、坂本九がいらした。

高天原山は、富士山(ふじさん)と同じ、宣言(せんげん)である。「富士山麓にオーム啼く」、とっくに、富士山では、新興宗教集団は活動をしていた。

自衛隊、および、アメリカ空軍は、立体格子(界面=結界)で、「日本ー123」 Boeing747 の進行は、キャッチしていた、はずだ。墜落と同時の、救出はできたはずだ。
歌手の「坂本」さんが、死への、苦しみ、抵抗(Ω、オーム)は、なかったのだろうか。

坂本九さんたち、多くの人々が、星と、なって、しまわれた。


また、わたしは、祖母が、倒れ、逝くという事が、1988年秋から、暮におきた。

最初が、1987年なのに、契約書をかわし、一年以上と、なるのに「預かっていない」と、「奥州市水沢」の編集者がいうので、わたしが、「警察」というと、武蔵野市、若者の町、吉祥寺。イエが「JR西荻窪(にし・おぎくぼ)」そばだった「河出」の編集次長は、暮に大掃除をすると、出てくると言う。

わたしに、「あなた、川向こう、士・農・工・商・・・、だろ。そうだろ、、、」と言う、編集次長は、暮には出てくるからというので、わたしは、「雪の白うさぎ」ですかというと、「そうだよ、オレ、うさぎ年(1939年)生まれ、なんだ」という編集次長だった。

わたしは、「雪の白うさぎ」が、眼を開けたとき、白うさぎの眼は、赤色ですからね、と言った。

原画は、暮の大掃除のとき、「見つかった、ぞー」との、電話が、河出の編集次長から、電話があった。
わたしは、重役室に呼ばれた。

編集次長が、「この絵に見覚えは、ある?」と、「水沢」の編集者にきく。
「ありません」と、詩人の春山行夫に似た、良い、編集テクニックをもたれた、「水沢」が、真剣な顔をされ言う。

うさぎ年の、わたしの眼が、涙で、赤くなった。

被害者のまま、わたしは沈黙をした。そして、病床のわたしは、祖母の死に、帰京できなかった。

月日は経っていった。
少し、元気がもどった日に、ベッドから、毎日新聞社へ、いまからでも、事実を、報道するべき、と主張していた。

こういった、日本が、非常事態のとき、NHKは、なにもしていない。
この事実を、しっかり、受け止めることが、大事である。

5)
2006年10月、米ペンシルベニア州ジョージタウンで、アーミッシュ学校銃撃事件  The Amish school shooting があった。

フロンティア精神で、アメリカの先住民、インディアンの土地をのっとり、暮らす、素朴なキリスト教徒の集団、アーミッシュは、皮肉というか、銃社会のアメリカ合衆国という中に、守られ、在りえる。

わたしが、「アーミッシュ」の遺伝子分布を考えはじめたのは、1970年代で、30年以上の歳月がたつ。かれらの生活の一端を知る、わたしには、いまだ、「アーミッシュ学校の悲劇」が消えない。

6)
さらに、2007年4月、バージニア工科大学事件がおきた。

1980年夏から秋、社会学者、日高六郎さんへは、わたしに、時間を、さいてくださるより、「光州事件」をふくめ、疑問だらけの、「金大中(キム・デジュン)」さんの救出運動をつづけてくださいと言った。
日高六郎さんは、わたしが、こういっても、いつもどおり、静かに、話される方だった。


1988年、ソウルオリンピックがあり、東京の、若者の町、下北沢で、ハングル語を話す青年たちの明るい声を、はじめて、耳にし、オリンピックが、韓国人に、自信を与えるのであれば、いいことだとわたしは思った。

イギリス人たちは、嘘をつくことを知らない、先住民、インディアンに、寒いから、毛布をプレゼントと、毛布や衣服に「細菌(天然痘)」をくるませ、細菌に感染させ、殺した。
そして、インデァアンを、拳銃やライフルの標的とした。
アメリカンドリームのある、土地、イギリス人が、開発した土地、それが、ペンシルベニアであった。

父親の方が、格段上手いが、クイーンズイングリッシュを使う、ブッシュ親子には、アメリカへの植民が、1607年5月から、はじまり、400周年を迎え、植民開始400周年が、めでたいことなのだろう。
正確に言えば、「インディアン大虐殺(genocide)の日々」の、端緒の日ともいえる。
2007年5月、アメリカの先住民たちを、400年間、苦しませた、国の、女王様は、81歳で、あられる。

7)
1977年、同志社大学は、上野直蔵総長が、文部省はじめ、あちらこちらから、寄付をあつめてきたのか、フェスタが多かった。
おかげで、学校嫌いのわたしが、30回近く、呼ばれたりして、行っている。

「人権と差別」という講座があった。
わたしは、神学部の日系アメリカンの教授と、とにかく、被差別地域を黒板にかき、差別観だらけで、自分の息子にヨットを買ってあげて喜んでいる、この講座を発案したという、社会の、「小倉襄二」さんの講義は、中止にして欲しいなど、相談していた。

そして、NHKのカメラが回るので、止めて欲しいと言った。
在日による差別とかで、在日という人が、日本における差別を言う。

日本人名が、田中淑枝という、李良枝(イ・ヤンジ、1955−92、37歳)さんという、いそぎすぎた作家がいた。

日本に生まれ、わたしたち、京都を生活の地とする、日本人より、学歴から、作家としての社会的地位まで、めぐまれた環境を、すぐ手にできた人である。

李良枝さんの、1972、73年ごろ、京都時代で、鴨沂高校の生徒だったときの、エッセイ(李良枝全集)に、チマチョゴリを着た、女学生と市電で会うが、彼女たちは、なんて明るいのか、また、人前で、笑い声もたてているとあった。
李良枝さんが、本当の、作家であれば、なぜ、彼女たちが明るいのか、彼女たちに、その心を、話しかけ、聞かなかったのか、わたしは不思議でならなかった。

このまえ、わたしは、男子高の友人たちと、賀茂川の土手をつかって、数学をよくしていた。そこへ、彼女たちがくる。

男子校の友人とでは、賀茂川で休憩や、散歩するつもりなどと思ったりして、過ごそうと思った時間、木の枝をつかって、数学をしていることが多かった。

1970年ごろの、大学入試の、数学の問題は、「大学への数学」だと、東大、文系200、数Vがある理系400と、出題の型がきまっており、それらを修得すれば、最低60点はとれるので、それぞれ、記憶しており、割り箸、一本ぐらいの木があれば、川の土手をつかって、数学で、遊べた。

彼女たちは、市電や京阪電車であっても、あまりにも、カラカラ、ケラケラ笑うので、父に、
「おかしいことがある。日本人の顔だけど、ミユキ(御幸毛織)か、ダイドー(大同毛織)の、高級な生地での、良い仕立てを着た、民族服の女学生が、笑ってばかりいる」と言うと、いつもどおり、黙っている。

朝鮮半島の、「チマチョゴリ」の知識はあったから、日本の女学生と同じ、紺色でも、チマチョゴリと言うのかと思った。

わたしには、加古川市立川西小学校での、朝鮮部落の、貧困層が記憶にあった。
それで、朝鮮人は貧困という考え方から、「朝鮮人の娘(こ)?」というと、
「そうは、言わん」と、父が不機嫌に言う。
しばらく、間をおき、「在日(ざいにち)」と聞くと、
「そう言う、言い方は、せん」
きつい播州弁で、怒った様子になった。

それで、男子高の友達と、賀茂川で、数学をしていると、笑いかけてくる、貧乏で、良い服を着ている、あの娘(こ)等って?と質問したら、
「あほか。われわれみたいな、貧乏人、相手をしてもらえるか、大金持ちの娘や。親が苦労して、育てた子や」と、父が大声で、叱った。

わたしの、元気のない、表情を見てか、
「箸がこけても、笑う、娘時代や」と父が、厳しいままの、声で言う。
顔が、日本人というと、
「日本の物を、食べてるからや。芸能人も、一年もすると、日本人の顔みたいに、なってくる」と、テレビ局も、仕事場だった父が言う。

8)
わたしは、「人権と差別」の講演をする、「在日」という人に、朝鮮半島の、厳しい自然を、語れますか。朝鮮半島の歴史を言えますかと言った。

そして、日本の象徴たる、神道は、儀式に音楽、中国を父たる左楽、朝鮮を母たる右楽としています。
また、日本の美は、朝鮮半島にある、李朝美術にもありますと言った。

わたしは、6000年前からの遺伝子の流れを研究していますが、遺伝子でゆくと、朝鮮半島から日本へ、日本から半島への二つの流れを考えるより、仕方がなくなります。

任那(みまな)日本府は在った、白村江(はくそんこう)の戦いも在った、豊臣秀吉による文禄・慶長(ぶんろく・けいちょう)の役、また1910年8月には韓国併合も在った。
朝鮮半島の人たちは、日本人の扱いとなり、嫌がった人もいた。いま、1977年、差別もあります。

しかし、あなたたちの半島の歴史、そこでの恐怖は、たえず、大国の、モンゴル、ロシア、中国だったはずですと言った。

わたしをアップで映す、NHKに、カメラ停止といっても、NHKはきかなかった。

わたしは、1975年春、毎日放送に、同志社ボーイとかで、相国寺をあるいているところを、紹介されたらしい。
さいわい、家族も、わたしも見ていないので、良かったが、学生たちが、騒いだので、困った。

9)
人権問題の思考力のない、日本のマスコミには、困っていたし、「人権と差別」という、テレビカメラを廻したら、NHK風、社会問題提起になる雰囲気があり、もし、家族や親族に、テレビに映って、意見を言っていたとかになると、「なにをしに、学校へ、行って、いるのか」と父から、問われ、弁解の余地がないから、困ると、言った、だけだった。
「撮って欲しくない」と言っても、NHKは、撮る。

そして、6、7人の在日という人たちが、「わたしたちは、まつださん、あなたのような人に会うと、力が抜けてしまって、ダメなんです」と言って、泣きはじめた。

わたしは、泣くのはいいです、日本への言葉での、攻撃、批難もいい、自国の守りの言葉もいいです。

しかし、歴史をみると、太平洋戦争中、台湾の高砂族は、日本人になれたという、誇りで、GHQ連合軍と戦った。

韓国併合による、朝鮮半島の人たちには、日本人の扱いとなり、いっしょの、生活を喜んだ人もおり、彼等は、日本人として、GHQ連合軍へむかった。
日本人は、北は、肌が白い、アイヌに蝦夷(エミシ)。南は、肌が茶色の隼人(ハヤト)族。その間に、「大和(やまと)」族と呼ばれる民族がいますが、わたしが、見るかぎり、さまざまです。

日本人教師から、教育を受けたことを、喜んだ人もいます。
わたしは、台湾の先住民「高砂族」と同じく、朝鮮半島で日本人であることを選択した人には、日本人としての保証がいると考える人間です。

世界中、良い人と悪い人がいます。
この人権と差別の講座を考えた教授に、ただただ、私利私欲だけの日本人教授たちがいます。それを止めたいとおもいながら、わたしの注意では、効かないので、神学部の教授に応援を頼みました、しかし、できないというのです。

すべて、金が中心の世の中です。しかし、文化というのは、共通に築いていかないと、同じこと、戦争ばかりの繰り返しになります、と言った。
すると、「わたしたちは、差別をしない人のまえには、ダメなんです」と、より、泣かれた。

「従軍慰安婦」問題というものがあります。
わたしは、本来、医学部の学生で、ウィルスの発生を研究する人間でした。しかし、高校生であっても、わたしのイエの場合、「従軍慰安婦」の説明はしてくれないでしょうし、わたしも、20歳ごろまで、意味がわかりませんでした。
もし、中学生のわたしが、この意味はと、母にきくと、わからないと答えると思います。
京都、祇園での接待に、10分も座っておれず、席を立つ、父は、黙ったままとおもいます。


わたしは、同志社大学を退任し、京都府教育委員長だった、山田忠男先生から京大、医学部での学位を言われていたけれど、断っていたことも言った。

学問として、解剖学は、また、わたしの担当として、法医学があり、解剖はどうしても、必須となります。
わたしへの、義務として、人類学での解剖分析が、20世紀初頭のままだそうで、マルティン Rudolf Martin の研究を、発展させることを言われています。が、わたしには、できないんです。

1973年、国立大、医学部、生理学教室で、実験用の犬が、わたしだけを見つめました。日本は、ドイツ医学ですが、日本人に飼われた犬は、どうしても、助けてくれるかも知れないと信じる、人間を見ます。声もあげます。
わたしは、犬の涙に、また、同じく、涙を流しました。

「南京大虐殺事件」の問題もあります。が、わたしが入学した、豊中市立第六中学校の地理、小野先生は、中国、南方の隊長でした。

毎日、20キロ以上の、四列縦隊の訓練、三列縦隊の訓練、現地の女性に、食用の栽培ばかり、教えてもらってばかりでした、と言われていました。

わたしは、寝屋川市立第一中学校に在籍しましたが、戦中のなごりか、中学生は男女とも、歩行訓練の、20キロ遠足でした。
京都では、北山から、鞍馬までの遠足でした。

南京虐殺でのことは、わたしは、事実を見ていないので、意見は言いません。
ただ、先に、1930年、台湾で、「霧社(むしゃ)事件」があります。

結果は、日本人となった先住民が、より残虐な、首狩族のタイヤル族へ、首を切るという、先住民同志の決着という、残念な事になりました。

タイヤル族などは、台湾南部の、おとなしいアミ族も襲っていました。
が、事件を発端から、追ってゆくと、日本人警官が、先住民同士の闘争をどうかして、しずめようとし、犠牲となりました。

日本人となった高砂族による、たとえば、これらの写真をもって、「南京虐殺」と言えるのかどうか。

それで、わたしは、この講座へ、あなたがたが言う、「在日」でありながら、人権と差別の学習のため、勇気をもって、出席している、20歳ぐらいの、多感な男女の学生を考えて下さいと言った。

彼等は、弘風館から、神学館の方の窓へ、顔を向け、泣き、うずくまった。

10)
先進国アメリカの大学崩壊は、1970年代にはじまった。潰れた大学は100ではきかない。

そして、英語検定とか、ビジネス大学院修士の肩書きで、日本人をつった。が、この時期も過ぎた。
日本も、大学崩壊の時代が、2000年から、表面化しだした。

全米での、大学崩壊は、早く、懸念され、1990年代に入り、西洋同様に、本格化した。
アメリカで、本格化しているのに、日本とやらは、まだまだと、校舎の建築ラッシュで、難関大学入試突破と、やっていた。

大手の模擬テスト業者が、1990年代、わたしのところへ、まちがい電話と称して、連絡してきた。

丁寧な人物だったので、高校生の学力をきくと、やはり、わたしたちの、1951年、52年、53年度生の、1970年代前半を頂点にし、ずっと、下降をたどっているとのことだった。

教科書には、ABの2段階ほか、さまざまな程度があるが、21世紀にはいり、高校生の、英語や数学、物理の教科書を手にして、おどろいた。

高校三年生用が、わたしたちの高校一年程度に、数学や物理は、中学生用かと思わせるものに、なっていた。
文明とは、文化とは、こうやって、滅びてゆくのだと思った。

11)
2004年6月24日、東急沿線の田園調布で、韓国人の武装強盗団や窃盗団が、太田区の高級住宅地へ逃げた。

わたしの、インターネットでの記憶では、フジテレビだったが、画面の瞬間は、38口径のマグナム弾、リボルバー、サイレンサー使用のコルトかと思わせ、警官の右腕が「>」状態で、片手だった。

本庁からの指令なのだろうが、こんな時代になったのかと思った。
警察官一人が三発を発砲。そのうち、二発が左肩と太ももに命中。

住民への危害が考えられたばあい、射殺との命令がきていたのだろうが、目標距離15メートルからで、非常に重く、反動が強い、拳銃なのに、警官の片手での、拳銃グリップにおどろき、逃亡の相手に、急所を外して撃った、冷静さにも、感心した。

京都帝国大学時代、軍事訓練、生体実験を拒否し、同志社大学へ、湯浅八郎総長により、赴任となった、山田忠男先生は、ライフルの名手で、ライフルクラブの顧問だった。
また、わたしの、体育で、スケートを担当した、星名倫(ほしな・ひとし)先生もライフルが専門で名手だった。

わたしの、父方の祖父は、白柄(しらつか)の刀をもっていたが、日常、見えるところ、探せるところには、置いていない。
日本刀の、上等なものは、美学の追及であって、人を、切るようにできてはいない。
骨をふくめ、断ち切るのであれば、ただ、一回の勝負に使える。が、刃はこぼれる。

身だけ切るのであれば、直線で入れ、素早く、刃を抜き、数人の相手はできるが、これは、剣道の師範レベルでも、まず、できない。

また、小学生の、わたしに、「コルト45」の、本物を、黙って、ほほえみながら、触らせてくれたのも、父方の祖父の友人、兵庫県警の60歳近い方だったが、このときは、母は、襖を、二重に、閉じた。

12)
わたしの、記憶は、2007年初春、タイムズ(NY、TIMES)にあった、あたたかい記事を思い起こさせていた。

記事は、ロサンゼルス地震 Northridge earthquake (1994年1月)の後遺症がのこったまま、カリフォルニアでは、群発地震(2003.12.)がつづき、西海岸での、アジア人種には、競争原理がみられない、これは、良い現象なのではといったものだった。

アメリカの西海岸では、風土の影響か、競争が見られないのかと、思っていた。

なのに、2007年4月、米ペンシルベニア州で悲劇があった。

いま、アメリカには、日本人35万人がいる。それに対し、自由で、夢のあるアメリカを憧れたのか、韓国からの、永住権などを得た在米韓国人は、不法をいれると、250万人がいるという。

13)
理解したくない事件は、バージニア州のティム・ケーン知事が、来日のとき、警官が常備、38人いる、バージニア工科大学でおき、緊急、アメリカへもどられた。

犯人は、最初、アジア系、中国人との報道だった。
わたしは、ワシントンポストを見ていた。タイピングが、By Ian Shapira and Tom Jackman となっており、ペンネームだと別だが、ユダヤ系アメリカ人が先頭なのに、少し、とまどった。
犯行をした、アジア系の容疑者は、自殺したという。

日本大使館からの、素早い、レポートは、バージニアでの、「日本人48人」は、すべて、なにもないとあった。つまり、日本人ではないと言うことだ。

わたしは、このレポートから、安心感を得る、自分自身に、やりきれない、悲しみを覚えた。

つぎは、韓国系で、軍人の服装をした人物、であるとの報道に、「軍人がキャンパスに?」と思った。

犯罪者は、英語が上手いと言う。そして、犯行をした、韓国人の事件現場からは、22口径の拳銃(Walther P22 ドイツ)と9ミリ自動小銃(GLOCK 17 オーストリア)が発見されたとも。

チョ・スンヒ容疑者は、「9分間の銃撃」で、170数発からを使用という。どのようなスポーツをしていたのか、わからないが、この数値は、ふつうの学生に、可能なのだろうか。

ワシントンポストを読んでいると、犠牲者に、すぐれた精神をもたれたユダヤ系学者がいたとあり、イスラエルへ、リンク先がある。

イスラエルからの追悼の記事も、タイピングをしている最中なのか、つぎつぎ、出されてくるのを見るたび、わたしは、涙があふれてきた。

ルーマニアで、ホロコースト(ジェノサイド、ユダヤ人虐殺)を体験され、生き延び、学問をされ、流体力学 航空工学の博士となられた、Liviu Librescu リヴウ・リブレスク教授は、犯行者へ、「わたしは、わたしの学生を守る」と言われドアに、自らの体を盾にされたとある。

音楽を、ハイキングを好み、とっても、明るい性格をされた、リヴウ・リブレスク教授は、南十字星座のみえる、テルアビブで5年間教えながら、ポーラースター Polar Star の見える、バージニアに来て、この町を好まれ、20年という歳月を、アメリカで過ごされたという。

リブレスク博士は、自由のある、アメリカで、いくつの希望を語る、星々をみただろうか。

わたしは、自分自身の体力が、急激に、なくなってきているのを、感じながら、76歳という年齢から、「学長」か、リブレスク Librescu 教授は、それに相当する人物と思った。

14)
が、人類学をしてきたわたしは、リブレスク教授の、横顔を見、ユダヤ系の、長頭を、しめしていないのに、気づいた。

短頭である。短頭の典型とは、石原慎太郎、東京知事の顔である。
「こいつ(村上龍)の文章、子供だ、書けていない」と、同じく短頭の典型の村上龍さんが、芥川賞の受賞のとき、批難の発言をした人物である。

2006年11月、文部科学省、伊吹文明大臣へ、「8日までに なにも かわらなかったら、自殺します。場所は学校でします」とあった。消印に、「豊」だけが見えたという。

わたしが1965年に入学した、豊中市立第六中学校のHPに、伊吹文明大臣より、緊急の「未来のある君たちへ」「恥ずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを 話す ゆうきを もとう」との、優しい、言葉が掲載された。
が、イジメにあった、彼女や、彼等は、大阪、福岡で、自殺を決行した。

それを、「自殺なんか、予告して死ぬな」「あれは愉快犯というか大人の文章」と言ったのが、短頭の、ギリシャからの学問が残る、西欧で、殺人者に多い、手相と言われた、石原慎太郎知事だ。


バージニア工科大学での、容疑者は、韓国系の永住権(グリーンカード)は取得しているが、アメリカ市民権のない学生とあり、わたしはここで、判断を停止した。

フランス紙は、遅い、とおもったので、ドイツ紙の反応をまっていた。12時間後、フランス紙、「ル・モンド」、「フィガロ」は、「イスラエルって奴は!」だった。
ドイツ紙の「ヴェルト」「シュピーゲル」などから出てきたのは、京都の「時代祭り」のような、「ヒットラー!」の仮装だった。

犯行者は、まず、英語が堪能であったと、あったのに、のち、英語があまり上手でなかったとある。
また、性格が暗かったとも言う。

身長180センチというのだから、アメリカ人としては、平均の高さ、であるということである。

8年間もいて、しかも、アメリカ軍の基地が多い、韓国で、アメリカ語が不得手とは、アメリカ語というのは、非常に難解な言語という事だろう。
また、性格が暗いとは、どこで、定義するのか。

15)
犯行者が、日本でいう、心療内科系に、一年以上、かかっていたならば、その病気に陥らせる、社会にも、問題があるではないか。

「うつ病」患者と言われる人が、残酷な犯行を、連続できるのかどうか。
また、うつ病患者が、授業中、講義を、何度も、中断させるかどうか。

診断のまちがいを考え、医療が最先端をゆく技術をもつアメリカ、しかし、医療費が高いアメリカというのは、弁明にならない。

病める学生ひとりを、快癒できる、治療薬は、まったくなかったで、済むはずがない。アメリカは、日本とちがい、軽い、「抗うつ剤」は、薬屋で買える。

2005年11、12月に、バージニア工科大の女子学生2人が、チョ容疑者の、ストーカー的行為について警察に通報した。これを受け、05年12月13日、バージニア州地裁が、一時拘束命令を出したという。

このような事は、日本の大学でも、日常ある。

新聞は、先に、チョ・スンヒ容疑者(23)の両親は、アメリカ語が不自由なので、アメリカ語が自由な、姉が謝罪する、言葉を報道した。

それですまないのか、ソウルの親戚の、泣きさけぶ、高齢な女性を映し、バージニアで働く、容疑者の家を映す。アメリカが、なにもかも豊かに見える。
わたしは、これだと、一昔前の、日本の事件と、まったく、同じではないかと思ってしまった。

16)
過去に、ストーカーをする犯罪があるといいながら、バージニア・テック大学、英文学科4年のチョ・スンヒ容疑者の部屋には、ポルノ、ゲーム類がいっさいなかったこと。

しかし、この、部屋に、インターネット業界に、富をもたらすポルノと、NINTENDO(半導体は、「パチンコ」も、松下電器産業)、SONYのプレイステーションがあったら、どうだろうか。

犯行声明に、アメリカの富裕層へ「メルセデスでも、ウオッカ、コニャックでも満足しなかった」とある。

ふつう、アメリカの象徴は、リンカーン・コンチネンタル(Lincoln Continental)か、キャディラック (Cadillac)、ロールス・ロイス(Rolls-Royce)ではないのか。また、酒は、スコッチか、バーボンではないのか。

犯行の最初は、2007年4月16日、月曜日、07時15分、学生寮の女学生の2名、容疑者が射殺。
つづいて、9時20分〜30分、容疑者が学生寮より800メートル離れた、講義室へ進行し、リヴウ・リブレスク教授を射殺するまで、2時間という、長い時間がある。

バージニア・テック大学用の警察があり、専従警察官が、「38人」いる。
大学の警備も、緊急を知らせる、大学ラジオ放送も、どうなっていたのか。
大学に、警察官が、38人も常駐する自体、学問の場ではないのではないか。

07時15分、最初、学生寮で2名の男女(のち女性2人)の学生が射殺される。
09時01分、容疑者は郵便局からNBC宛にビデオと写真の入ったCD-Rを発送。
09時26分、学校を休校にするというメールを生徒らに一斉送信。
09時45分、警察官が到着、容疑者と思われる男は、ドイツ語教室で自殺していた。

この疑問だらけの、時系列を、どのように、解釈するのか。

17)
この事件への、わたしの解釈は、長崎医科大学、臨床「精神科」教授、初代「法医学教室」教授の浅田一(あさだ・はじめ)博士にある。
浅田一博士の、法医学は、子弟へ研究課題を与え、論文の質では、日本のトップを行った。

つぎつぎ発表する、業績のためか、1933年、ひとつの事件がおき、事件と関係がないのに、陰謀により、退職願いを提出してしまった。
浅田一博士は仏教信仰の強い方だった。
浅田一博士の排斥に、一番暗躍し、実行した人物を、わたしは「改定、血液型と性格の社会史」(1994)に記載しなかった。

正義を尊び、動物の死すら、二度と取り返しのつかない、尊いものと考え、血清学、血流学(窒息学)で、大きな賞を、受賞できたとおもえる、浅田一博士へ、悲しい出来事がつづいた。
成人を迎えようとする、ひとり娘が、原因不明の、病気にかかってしまったのである。

浅田一博士の、令嬢を知る、東京帝大医学部の教授たちも、病気が、「小児麻痺」と気づかなかった。
医学知識への、反省の中、さらに、自分の教え子たちが、長崎への原爆にあってしまった。
浅田一博士を信頼する、愛弟子たちが、尊い、生命を失ってしまったのである。

昔、浅田一博士の令嬢は、明るく、おっしゃってくださったが、幼いとき、「小児麻痺」の子供たちを見てきた、わたしは、活字にできなかった。
また、備前岡山藩を出自とする、祖父が、夏目漱石の教え子にあたる、わたしの親友も、お兄さんが、小児麻痺にかかられた。

啓光学園の修学旅行の、最終到着地点、関西の港まで、親友の、お兄さんは、迎えにきてくださった。
コンピューターが専攻の、長男の、お兄さんの、静かで、上品な、笑顔に感動した、わたしは、港が、神戸か大阪だったのか、記憶から消えている。
物理学者、湯川秀樹、朝永振一郎博士たちを、1960年代、京大理学部キャンパスで知りながら、入学した4月に、京大教授から、数学専攻と言われた、二番目の、お兄さんのことも、記憶から浮かんでくる。

バージニア・テック大学事件を、浅田一博士であれば、どのように、解釈するかと思い、わたしは、いま、記述している。


浅田一博士は、第三高(京大)首席。そして、東京帝大医学部へゆき、入学と同時に、日本を代表する内科、精神科の博士たちに、認められ、医学の教育を受けた。

浅田一博士の後輩には、出血による生命を救う、「輸血」に必須な知識、ABO式血液型の知見をもたらした、原来復(はら・きまた)博士の弟がいた。

原来復博士は、信州、真田家、松代藩松平家の家老の血統で、生まれも育ちも、東京。
6人兄弟で、弟たちのひとりは京都へ、養子へ行ったひとりは熊本で学んだ。
京都での生活を選んだ、弟は、まさしく、沈黙を美とする、日本軍人で生涯を終えた。

原来復博士の後見人は、土佐、高知藩が出自の、竹内綱(たけのうち・こう)の、子息たち、「宰相・吉田茂」の、芳名は、ほとんどが知るだろう。
また、原来復博士の、長女の子息、長男は、アメリカ毎日新聞社長をつとめた。

ドイツの音楽を愛した、原来復博士のことは、東京帝大、京都帝大の、周知だった。
徳川家、松平家の家臣であれば、多くが、「言わずもがな」の精神をもち、それらは、継いでゆくだろうと思い、浅田一博士は、亡くなられた。

1970年代後半、尾張藩徳川家、家臣、山田忠男先生は、わたしが、浅田一博士が、日本の法廷で、論争をした、パリでの研究の同窓、京都帝国大の、小南又一郎博士が、近所なので、訪問をというと、「いまは、、、」と言われた。

18)
また、同時期の、2007年4月17日、NHKは、長崎市の、原爆を反対する、伊藤一長市長の、銃撃による殺人事件で、生存中にかかわらず、死亡と、記事をながしたという。
NHK、ふつうの弁明では、済むことがらではない。

また、この4月、日本では、食品メーカーによる、洋菓子の賞味期限切れが、問題となっていた。

菓子などの問題は、福岡出身で、原爆被災者をみてきた、井上陽水が、効果のある音響に、すぐれた旋律とリズムでの、「MY HOUSE」をタイトルとする作品で、警鐘を、ならしたのでは、ないか。

とうぜん、NHKとかは、かけて、いないだろう。

1972年、ヤマハ、音楽祭、井上陽水の「紙飛行機」、♪ 白い 紙飛行機 〜 を、優勝へと、押した、「MY FRIEND」の、父親の職業は、川崎重工業病院、理事長。長崎医科大学出身で、日々、学問の人だった。
そのため、「音楽を選んで。父といっしょだと、話す時間もないじゃない、嫌なの」と、きつく、言う、ひとだった。

作曲専攻なのに、初春の、賀茂川の、水の深み、1970年代中ごろは、急な、「段差工」 river down stairs からの、白い水しぶきが、白の道着にあたる、合気道の寒稽古を、男子といっしょに、するひとだった。



誰も かれも 疑わしいわ
次の 唄は 生み 苦しいわ

風は ゆれに ゆれて
庭は 猫の額 MY HOUSE
俺の 悲しみは Ma ma ma n 、、、、、、、、、、、
雪の 白アリは わからん ム、、、、、、、、、、、、、、

♪♪
恋は マッシュポテト だ
恋は 電子キャラメル

街の 道に 無知な 人並
山羊の 耳に 盛り上げ 製菓

誰が ミックジャガー だ
どこが チャイナタウン だ

海を 越えた ムラサキ 電話
古い事は 明治 らしいわ ・・  


さいわい、典型的な、北方モンゴロイドの形質をしめす、井上陽水が、「明喩」と「韻」を、踏んだ言葉である、森永製菓と明治製菓は、いま、社会問題には、なっていない。


19)
科学哲学、法医学の観点から、事件を、仮に、検証してみる。
「工学部」の、ノリスホール Norris Hall の、2階の構造、

□ 1■ 2■ □
□ 3■ 4■ □

1、206号室、「河川工学、水理学」  教授1人、学生2人。
2、204号室、「交換力学、物性学」  リブレスク教授、犠牲の学生1人、飛び降りた学生たち。
3、211号室、「中級フランス語」    教授1人、学生3人。
4、207号室、「初級ドイツ語」     クルストファー講師、多数の学生。

バージニア工科大には、100もの校舎がある。

同じ、学校でまなぶと言っても、「英文専攻」の容疑者が、まったく、見知らぬ、工学部、「応用物理専攻」の学生相手を、連続して、射殺できるのかどうか。

パリ警視庁、鑑識課による、「上」、浅田一博士の、個人識別の写真、浅田一博士の、正面の形質だが、顔幅が狭い。
しかし、横顔では、後頭部の形質から、短頭のモンゴロイドとなる。
また、浅田一博士の「鼻梁」は整っているが、これも、鼻の上部で、モンゴロイドとなる。
つぎに、眉目、頬である。眉から、頬のライン、これは、北方モンゴロイドの「特徴線」である。
しかし、浅田一博士には、南方モンゴロイドが、少量混血している、「特異部」がある。


容疑者は、北方、南方、モンゴロイドにみられる典型的な短頭。
容疑者は、抗うつ剤の強力なマイナー、弱めのメジャー薬を、服用しているようにみえる。

抗うつ剤の効果か、眉目における眼、視線が「不可意識線」なのである。
頬の神経も、抗うつ剤で、麻痺した状態のようだ。これで、素早い行動が可能かどうか。

決定的、疑問として、写真に、朝鮮半島での「北方モンゴロイド」を示す、顔の形質の、「特異部」が、映っていないというか、見られないのである。

犯行が、なぜ、学生の、飛び降りが可能な、2階なのか。
気象条件は、雪が舞う、強風の日だった。

天才、吟遊詩人、井上陽水は、「♪ 雪の 白アリは わからん ム、、、、、、」と、「直喩」で、表現している。
答えは、ここではないか。犯行は、「雪の白アリ」たちに、よる。


日本の象徴、富士山にも、自衛隊、特殊部隊がある。

わたしの血縁が、自衛隊の幕僚長であった。また、わたしの高校の友人が、この特殊部隊にいた。

ここで、訓練された、彼等、2人がひと組みとなり、入れ替わりの攻撃として、殺害時間が、9分というのであれば、攻撃への準備時間を、学生寮からの走行を、3、4分加えるとし、階段、廊下、前後の監視役2人で、最低、3組。6人からの人数でも、20分という単位が必要となる。

身長180センチは、アメリカでは、ありふれた体格である。


20)
32人(教員5名、学生27名)が、犠牲となった。
この中の学生に、世界を、平和へと導く、次の時代のリーダーが、いたかもしれないと思うと、悲しみにたえない。

大学に学ぶ、我が子の成長を、人生の楽しみと、考えていた、両親や親族を、考えると、涙がとまらない。

バージニア工科大学生は、少しまえは、3万6000人もいた。それが、3万人ほどとなり、事件のとき、2万6000人という。
そして、韓国系は合計500人ほどで、中国系は400人以上。
日系は20数人という、数値も留意する必要がある。

アメリカが、1987年10月におこした、ブラックマンデーの、再来とならないこと。また、各国への、将棋倒し(ドミノ現象、Domino)が、おきないことを、願う。

重要なのは、フランスの通信社、AFP (Agence France-Presse)が、容疑者のため、バージニア工科大の学生たちが、友人になっておけば良かった、また、野球のボールをささげ、また、リストバンドもささげていた、それを、発信したことを、わたしは、西欧マスコミの、救いの、ひとつとする。

そして、バージニア工科大の学生たちが、後日、32個目につぎ、33個目の、白い風船をあげた行為に、希望をいだく。


わたしは、リヴウ・リブレスク教授が、容疑者のチョ・スンヒ君が、自分自身の担当する、工学部の応用物理専攻の学生と知ったならば、
『チョ・スンヒ君、君の姓名は、英語のアルファベットだと、Mr. Cho.。母国の表音文字だと、チョ・スンヒ。
中国からの象形文字などだったら、趙承熙ですか。
わたしたちには、複雑で難しいですが、いろいろ書ける、表現の豊かな国なのですね。
工学での、応用物理も複雑なのですよ。先生のわたしにも、わからないことが、いっぱいありますよ』
など、名前からでも、救いの言葉を、そして、救いの動作を、数多く、もたれ、積極的に、近づかれた方で、あったと、わたしは、堅く、信じたい。


幸いに、生き残った、未来ある、学生に、わたしは、専攻学科が、ちがっても、「絶対なる被害者」の教員や学生の、親族たちと、家族のような、連絡をとられ、日本と同じく、病んだ国アメリカを、健全な社会へと、貢献してゆく、その日常を、努力する日常を、知らせる事を、希望のひとつとしたい。





▲パリ警視庁、鑑識課撮影による、個人認識、身分証明の浅田一博士、1921年。
▼長崎市、福済寺での「動物祭」(1931年)。福済寺は、原爆で、消失。のち、再建。
医学で使う、動物たちへの冥福、祈願されているのが、長崎医科大学教授、浅田一博士である。
(資料提供、浅田一博士、令嬢)



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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-05-16