京都昨今
 
 

50、いできたれ 卯月やわらか ひがしやま       NHKV  

高校では、美術か、音楽かの選択科目がある。わたしは美術だった。
上の写真は、1968年11月下旬、音楽部とグリーの上級生を指導していた、わたしに、「上野(東京芸大)で、指揮は、どうでしょうか」と、上品に、言ってくださった、啓光学園の平原正信先生である。

1)「京阪園芸」に「たそがれのミシガン」

「花いらんかえー」は、1970年代中ごろまで、大原の里からの女性が、白川沿い、祇園の町なか、野菜や花などを、リヤカーへさらに荷台をつけ、野菜などが多く載るように、長く工夫し、売りに歩いた情景だった。

TSUTAYAが、世田谷区、馬事公苑の三越のところに、「蔦屋」として、できたときは、いったい、何をするのかと思った。
いま、「CCC+スターバックス(三菱商事)」とかで、「C」を「U」に変えると「UCC(三井物産)」だが、1969年の初秋は、360CCの軽トラックで、枚方パークの「京阪園芸(TSUTAYA)」の、おっちゃんが、仕事にきたのはいいけれど、新興の町「くずはローズタウン」は、共働きの地域で、母親たちがいなく、「お兄ちゃん、木、選んでくれへん?」と、わたしに言った。

トラックには、3種類の樹木と、小さな木々があって、「宅地分譲を買ったら、垣根と、庭の木を三本あげる。京阪への、先行投資者には、駅前の駐車は永代無料。古代からの、風景を守るため、建蔽率25%遵守、2階建てまで」と言ったのが、京阪電鉄の重役の、「枕はして寝るけれど、『枕草子』なんか知らへんわー」と言っていた重松徳さんだった。

京阪が、枚方市を無視して、つけた、わたしのイエの住所は、「ローズタウン C−123」だった。
ここで、本を読んでいた、わたしには、あの、ぼんやりした時間が記憶からでてくる。

1961年ごろから、春の枚方パークは、「世界のバラ」とした、京阪と、京阪園芸のおっちゃんが、わたしを見るので、「京阪の、重松さんの?」と言うと、正確には、「京阪園芸」のお爺さんが、「そうや」と言って、黙るので、「ぼく、木、わかりません」と返事した。

枚方パークの近所には、ゼネコンをしている、同級生のイエがあり、聞くと、そこも、枚方公園駅前に、昔、ありふれた、6畳規模の、薄緑のプレハブ小屋で商売をされていた「京阪園芸」のお爺さんが、「仕事!くれ」と言ってきて、知己だという。
とうじ枚方市駅という、重松さんの知恵と技に、京阪園芸の、冬以外は、ボタン付き、クレープ肌着の、おっちゃんの労働力か、3本をもらったのはいいけれど、庭に、3本だと、さびしく、京阪園芸から、いっぱい、樹木を買う結果となった。
本業の、枚方菊人形が終わる季節、正月まえは、「本物の、マキの木でっせ、縁起物、20万が、15万」と売りにきたので、母は買った。

重松徳さんの、こういった、順序だって購買させてゆく、経営学のプランは、「等価変換理論」という、物理学者の湯川秀樹さんの弟子、同志社大学工学部の市川亀久弥さんが、発明したそうで、わたしは、市川先生の講義の答案に、「昔からある、日本の越後屋か、ユダヤか、アラビア商人風の、物々交換」と書き、市川亀久弥さんを、怒らせた。

重松さんは、琵琶湖にも実現させようと、1972年ごろか、アメリカ風ミシガン、たそがれショーボートの就航となり、「これで、滋賀県の観光と収入は永代つづく」とマスコミで言われていた。

佐藤栄作、田中角栄内閣のあと、中曽根康弘、竹下登、宮澤喜一、松野頼三、亀井静香さんたちが、京都の財界人たちに、「お金ちょうだい」「お金儲け」と、申し出をされ、なかでも、皆様のNHKの受信料は、「わたしたちだけのお金」と、元NHK勤務の議員さんが、活躍された時代であった。

琵琶湖に脚光があびた、1970年代は、土地コロコロ、船プカプカとなり、「雄琴ソープランド」がヒットし、芸能レポーターの梨元勝さんも、ずいぶん、愛用され、にぎわった時代だった。

琵琶湖のにぎわいが消えたころ、国会で、問題になった。
このころの、還暦をむかえた、政治家が、いまだ、活躍しているのが、仏の国、老人を大切にする日本だ。

なにしろ、坂東川(利根川)以北の、常識人だと、買わない土地に付けた、「取らぬ狸の皮算用」「鶴と亀がすべった」の価格が、500億円以上で、この「チンチロリン(サイコロ博打)」で、成功していれば、いまごろ、あのお方は、首相歴任者のはずだった。

わたしの高校の級友は、1967年、大阪エレキ大会、中学生の部で、三位だった。1960年代は、エレキギターのブームで、その影響を直接うけた、ギタリストの成毛滋(なるも しげる、1947年―2007年、60歳)さんが亡くなられた。
1969年夏は、成毛滋さんのイトコかが、兄の級友で、わたしが中学生のときは、草野球もしたが、京都四条から、どちらが、琵琶湖へ先につくか、自動車にエアコンなど、無い時代で、クルマの窓をあけ、日産サニーと、新型チェリーで競争をした。
琵琶湖の西側の電車が単線の、デコボコのアスファルト道や土道のときで、道は、片方が、選んだ方の反対を行くと行ったルールだった。

この時代、息子さんたちを同志社香里へ行かせていた、会社経営者の方がいた。
月に一度くらいしか取れない休みを、地域住民や京阪電鉄からの依頼で、無償で協力をし、道で会うと、余裕ある会釈で返され、わたしは、こういう人こそ、文化人だと思っていた。
2007年になり、この方が逝き、わたしと同年の息子さんも逝ったと聞かされた。

2)テレビとは無縁だったサーカスの子たち

川西小学校そばに、小さな文房具屋と、幼稚園があるが、1962年秋、わたしが、加古川市川西幼稚園にイトコをむかえに行ったついでに、とうじ、黄色い木の軸の、青いインクのボールペンを買った。
ペン先のボールが良く取れ、一本20円だったとおもう。
文房具屋のハジメちゃんとこが、まだ、扱ってない時代だった。

イトコが通う、幼稚園の前に、朝鮮人の、きゃしゃな小学一年生たちがいて、わたしが、学校に通う時間でもないし、ロウ石でも買ったのだろうかと思って、「飛行機、絵をかいて」と言った。
かれらは、わたしが、日本人名、安田君に案内され、「朝鮮部落」へ行ったとき、覚えていたのだろう。勇気がいったのではないかと思った。
わたしは、いつ、倒れるか、体調の予測がきわめて、難しい体で、倒れたときは、病院への運搬があるので、妹も、同級のイトコも、学校や、登下校に、わたしに話かけてきたことがない。

幼稚園の終了の、チャイムが鳴るときだった。
幼稚園の方をみているので、この朝鮮人の細身の子供たちは、ほんとうは、幼稚園の中へ行きたかったのではと思った。

わたしは、文房具屋に入って、いままでの、一センチ角の大きさとちがい、5、6ミリの細いロウ石が、売っている時代になったので、2本、5円で買った。
三叉路の、アスファルトとコンクリートの道に、飛行機をかくと、「機関車」といい、機関車をかくと、「クルマ」と言うので、クルマを描いたら、つぎは、バスという。

バスは、神姫バスが記憶にあるので、そのままかくと、「トラック」と言う。
トラックを描いたつもりが、トラックとバスの区別が付き難い。
トラックに、幌がついてきた時代で、国道2号線をトラックが通らないかなと、見ながら、考えていると、川西小学校から、「村津先生が呼んでいます」と下級生がやってきて言った。

イトコが、幼稚園の教室から出てきて、わたしを見る。
わたしのイトコは、イエで遊んでいるときも、黙ったまま、きわめて、おとなしい。
「日光写真」をしているときも、わたしといっしょに、じっと見たまま、時間の経過を、気にしない性格をしていた。
視線をやると、幼稚園の地面に、しゃがんで、絵を描く様子をみせた。

わたしは、不思議に思いながら、走って、職員室へゆくと、村津末雄先生が、
「グループ学習があるから、早く帰りなさい」と言われる。
わたしがまだ、時間がありますというと、「そこまですることは、ありませんから」とのことだった。

わたしは、トラックの描き方を、失敗したと、考えながら、ロウ石をあげて、幼稚園のイトコを呼んだ。
イトコは、わたしの呼ぶ声が聞こえると、いつもの明るい表情になった。わたしは、置いてあった自転車に、イトコを乗せた。

晩秋にかかるころ、大玉一実(かずみ)校長先生(→芦屋大学)が、朝礼のとき、「加古川にサーカスがきました。見に行きましょう」と言われた。
サーカスの女の子がいて、わたしのクラスとなった。村津末雄先生の説明だと、
「一ヶ月のあいだ、いますから、仲良くしてあげてください。まつだ君のとなりに」とのことだった。
わたしが担当になった。

わたしの前の席は、テレビなど高価で無縁の、朝鮮部落たちの子たちだった。
サーカスの女の子に、理科や社会を説明しても、わからなさそうで、返事がない。
日本の平津部落の子よりも、朝鮮部落の安田君、古川君、西原君たちが、わたしの困惑を、黙ったまま、いっしょに、してくれている様子だった。

理科や社会はダメかとおもって、算数だと、一ヶ月で、理解できるだろうと、算数の答えの導き方を、言うのだけれど、返事がない。
となりのクラスの、朝鮮部落の同窓生たちも、わたしが困っているのを、立ったまま、黙って、様子をみていてくれた。

休みの日にサーカスへゆくと、大玉一実校長先生がひとり、座布団を借り、見物台の高いところに、いらした。
母がお辞儀をし、わたしも、妹と礼をした。母も、座布団を借り、代金を支払っていた。

「木下サーカス」は、何度か見ていた。1962年、加古川にきた、とても、小さなサーカスは、空中ブランコやライオンなどの猛獣つかい、賢い象をつかっての親しげな芸はなかった。
母と妹は平静な顔をしていたが、わたしは、悪いことをしたとおもった。

サーカスの女の子が、何もいわないので、わたしは、サーカスを見に行ったと、誰にもいわなかった。
各教科を、教えたが、俯いたままで、いちども、返事がなかった。
転校の繰り返しをしてき、テレビをはじめ、いまの子供たちの、遊びとは、まったく異なる、この子には、この子の、覚悟があるとおもい、悲しかった。

3)1966年、「おはなはん」の時代

加古川市、高砂市、そして豊中市庄内では、子供の生活には、テレビは卒業し、テレビなど見なかったのに、1965年秋、寝屋川市第一中学校へ転校すると、
「まつだ君は、テレビを見ていません、勉強をしています」と、親が中学教師の女子にいわれた。

わたしは、転校して友人になった、大阪府警官住宅住まいで、剣道部の連中に、「?」と言った表情をした。
警官住宅の息子、田中君と谷村君の2人は、「不愉快な女だ」と、放課後、HAさんの、空の弁当箱に、棕梠のホウキを、切り、並べて、「京都風」といって、わたしに見せる。
わたしは、これだと、カバンに入れたとき、ガサガサと音がして、気づかれるといい、とうじ、壊れた、折りたたみイスの、クッションになっていた、青色っぽい、綿類を入れた。

つぎの日、「おばあちゃんが、これは美術につかう、大事なものとおもい、とって置いてくれているから、まつだ君がした作品と説明したの」と言われ、頭が混乱した。
わたしは、警官住宅の友人たちを見て、HAさんの、おばあちゃん、インテリなのときくと、
「おばあちゃんも、国語の教師」と言った。

この時代の番組で、何が困ったかというと、「おはなはん」だった。
寝屋川第一中学校の、職員室の南側に、用務員室があったが、お昼休み、女子が、NHKの時代がわかりにくい、湿った雰囲気の「おはなはん」を見ている。

野球部も剣道部の、誰も、テレビを見ないので、「あれは、気色悪い」と言った光景だった。
1965年ごろの、2DKの警官住宅の記憶は多くが共有していると思うが、受験生となる、だいたいのイエでは、押入れの隅に、テレビを入れていた。

4)母子家庭だけでなく、教育制度とは

夏休みの宿題に、絵の提出があるが、わたしが中学二年の、1966年がどのような時代かというと、美術の新任の、松田美紗子先生が、ひとりひとり評価を言い、
「この絵なに?久我君って、気がおかしいの、誰?」と笑う。
絵は、5、6色で、○や、△、□を描き、組み合わせてあるものだった。
わたしは、H、マティスみたいと思えばいいですと言うと、
「まつだ君、マティス、見たことあるの?」と、大声で、微笑み言うので、1965年秋、京都国立近代美術館でと、わたしは返事をした。

この後、久我君が、「ありがとう。絵の具、なかってん。ぼくとこ、母子家庭で、天理教、入ってんねん、こうやって、踊るねん。おかしいやろ、まつだ君」と両手を上にかざす。

水彩絵の具の、一つが、10円の時代だった。わたしは、心斎橋のカワチで、油彩、一本、1000円ぐらいのを、中学生には、高いかなと、ためらいながら、買っていたけれど、その自分自身の、行為や気持ちが恥ずかしくなり、わたしは、「おかしくない」と返事した。

漢字を学問した辞書、『字統』、白川静さんの、お嬢さん、古典担当の津崎史先生が、寝屋川住まいだったのを知ったのは、1969年、津崎史先生の授業中、「春休み、今居君が、来てくれましたよ」との言葉があったからだ。

わたしが持つ、啓光学園の卒業アルバムにはない、今居君とは、寝屋川市立第一中学校で、いっしょで、高校一年のとき、同じクラスと記憶する。
1969年はじめ、冷たい雨の日、国道一号かを、信号が赤で、自転車を止めていたら、左折する、荷台からはみだした、鉄骨を積んだトラックの、鉄骨で、なぎ倒されたという。

この事故で、長期欠席となったので、わたしが、「どうしたの?」と聞くと、まだガス・ストーブの季節に、今居君は、
「オレ、眼鏡をかけてるし、合羽(かっぱ)の、頭をおおう、透明の部分が、吐く息で、雲っていて、荷台からはみ出している、鉄骨が、見えへんかってん。それで、頭に当たってん」と、自分自身が悪いように、情況を説明してくれる。

この今居君の生活にも、NHKはじめ、テレビなど、関係のない生活だった。
わたしが、自転車は危険だというと、母子家庭のため、朝刊を配達してから、自転車で、啓光まで、来るという。
「オレ、まつだみたいな、本好き、会ったことないねん。一度、まつだ、『大阪屋』へ案内したいねん。本の取次ぎ屋さんで、本がいっぱいあるとこや。オレも本好きやねん。それで、夏休み、冬休み、アルバイトしてんねん」と言ってくれた言葉が、わたしと最初で、最後の会話となった。

この年は、大雪つづきで、国立一期の、大学入試がある、3月4日は、とくに、すごかった。
京阪沿線の、香里園には、プラットフォーム沿いに、花壇があるが、雪で、真っ白だった。
1969年の3月23日は、香里園で、わたしが乗っていた、電車は止まった。

わたしは、学園がある、禁野の山道を、中学生が、滑らないように、雪かきのため、早く登校した。

坂をのぼっていると、「まつだー」「まつだー」と声が、かかる。
水泳部で、第8期の藤原さん、中川さん、宮本さんたちが、スコップや、ベニヤ板をつかい、「すごい、雪や」と明るい声をあげ、オベリスクのような、禁野の陸軍の殉職記念碑がある、近くまで、終えていてくれており、すこし胸があつくなった。

しかし、トラック側が悪い、交通事故にあった、今居君の話をきいたとき、共働きは、金銭に多少余裕があっても、わたしたちへ、教育という、体裁のいい名称で、親にも、子にも、教育費をかける時勢は、非常に不愉快だった。


5)NHK近藤圭一郎さんの息子と東山区嶋田医院の孫娘

NHKという会社が、どれほどの、権威や、権力をもっているかは、2003年秋に、まざまざと、経験させられた。

東山区五条通りに、「嶋田医院」というのがあるが、そこの、孫娘が、
「ここで、振 shin ちゃんの、ライブしたいんです」という。
なんのことかわからないので、黙っていると、
「振一郎さん、すごいんです」と言う。

わたしが、疑問の顔をしていると、
「振ちゃんの、お父さん、NHKの偉い人です。息子だから、芸能界に、デビューさせられるんです」と言うので、それは、良かったですね、どうもと、わたしは、言う。
「あの、わたしのお父ちゃん、上原雅美といって、松下記念病院の部長で、松下幸之助の眼を診たんです。お父ちゃん、お爺ちゃん、京大、です」とも言う。

わたしは、あなたの、お父さんと、お爺さんは、兄弟?なんですかと言うと、
「そうです」と嶋田医院の孫娘はいう。

わたしが、興味なさそうにすると、
「振ちゃんの、お父さん、飛行機はファーストクラスしかのらない、とても、偉い人なんです、有名人、いっぱい知っています」というので、わたしは、そうなんですか、さようならと言った。

「お爺ちゃんは、500万画素の一眼レフの、デジカメくれたんです。マッキントッシュのパソコンもくれたんです。お爺ちゃんの病院、大きいので、そこでも、コンサートができるんです」という。

わたしは、お金持ちのお爺さんでいいですね。そこで、コンサートされたら一番いいですね。わたしのデジカメ、驚異の、130万画素で、動物を、近くに呼んで、撮らないと、いけないカメラですといった。
「でも、ここで、したいんです」と、嶋田医院の孫娘は、どういうわけか、ねばって、帰らない。

わたしは、出版と、音楽をリリースできるが、興行はしないと断った。それでも、
「振一郎さんの、お父さん、慶応大学出で、ふつうの人じゃないんです。海外へ何度も言っています」「CD聞いてください」と、「キャラメルパック」のCDを、わたしに、「これ、見本です」と渡す。

キャラメルパックで、「サンプル」の印がないCDですねと、わたしは言い、この、EventCrew INC.(イベント・クルー)、「クロスビジョン」 だと、興行の会社のようだから、この会社に、登録されているのではと質問をした。
「いいえ、振ちゃん、まだ、子供ですし、登録していません」と言い、音楽を聴いてくれという。

聞いて、「これ、バックと、音がズレているし、本人の演奏のチューニングも、ズレていますが」と答えると、「これ、練習のです」という。

わたしの時間と体力があるので、失礼な、質問ですが、あなたは、何歳でしょうか?と聞く。
「わたし、30歳です」というので、成人されているから、嘘だと、詐欺になり、責任が大きいですよと言い、このCDは、自費が入っているのでは?と言うと、
「いいえ、宮崎県の人は、親切で、無料です」と嶋田医院の孫娘は言う。

わたしは、どこまでも、興行はできませんし、有料のホールを借りられたらという。
「でも、嶋田病院の、お爺ちゃんは優しくて、患者さん、無料で診ます、お父ちゃんも、開業して、無料で診ます」という。
そのため、嶋田医院の先生方、上原雅美先生たちは、奇特な心を持たれていて、しかし、わたしの会社は、興行主をたて、ホールを借りますから、有料になりますよというと、
「わたし、ここで、働いて返します」と、上原嬢は言う。

6)世田谷「劇団いろは」出身のNHK近藤重役の子息

上原嬢が、都会育ちの、子供ですという、「振」さんが来た。
「シン shin です」と言うので、プロレスラーの「タイガー・ジェット・シン」との関係ときくと、「いいえ、朝永振一郎のシンです」というので、「ああ、物理の、朝永さんと血縁ですか」と聞くと、無縁という。
わたしの脳裏は、「?」のままで、嶋田医院の先生方、上原雅美先生たちは、どのうような社会責任をとるのかと思った。

「入場料の決定」というので、わたしは、興行をしませんと返事する。帰ってくださいと言うと、「北朝鮮批判」の作品を、路上で、うたうと言い、上原嬢たちは、わたしを、困らせた。

すごい演奏の、ギターを聴いてくださいというので、「あなた、楽譜は」と聞くと、「頭と体に入っています」と、児童劇団できたえたような、響く声でいう。

上原嬢が、NHK近藤圭一郎さんの息子さんの、出身が都会とか、言ってましたがと質問すると、
「ええ、横浜市の、金沢八景です」と言うので、何歳ですかときくと、30歳ほどというので、いまの時代は、30歳で、子供かと思いながら、1980年代の、金沢八景は、西斜面が、畑にもならない、崖っぷち、でしたねと言うと、
「そう、かも、しれ、ません」と子供で30歳の男性は言う。

まだ子供だそうですが、幼稚園はどこですかと聞くと、世田谷区の経堂の方という。
城山通りに、「劇団いろは」があるけれど、あなたの発声は、そこに通っておられたのではと聞くと、「ええ、そうかも、知れない。記憶に、あまり、ない」と横柄に言う。

わたしの周囲が、わたしの質問を止め、「近藤の振さん」とやらに、演奏をさせる。
わたしが、第一弦、E線と、B線のチューニングが合っていないし、「マーチン SP」なら、余分がありますから、変えて欲しい、わたしの耳が疲れるというと、「ぼく、ヤマハのが好きです」と主張をする。

演奏曲に、1960年代のサウンドに似たものがあり、指摘すると、オリジナルと、NHK近藤圭一郎さんの息子は言う。

小節ごと、音符の長さが、まったく、守られていないので、メトロノームを出すと、「こういった、束縛するものでは、ぼくは、詩人で、芸術家だから、できない」と、主張する。

わかった。もう、止めてくれというと、上原嬢は、「京都新聞に、出ました」と言ってくる。
これだと、強要、恐喝だと言っても、上原嬢たちは、わたしの会社をつかい、ライブをするという、新聞記事を見せる。

日付が、紅葉の季節で、当方に都合があると言うと、「わたしと、振ちゃんにも都合があるんです」というので、お爺さんか、両親をとわたしが言い、嶋田医院の、別の、孫娘とやらと電話で話しをした。

断っておきますが、この(有)イベント・クルー、クロスビジョン crossvision に所属していたら、詐欺どころではないと、意見をすると、「所属ではない」と、NHK近藤圭一郎さんの息子は大声で言う。

コンサートやらでは、大声は止めてくれと言ったのに、大声を出し、指での演奏と約束したのに、ピックで、ガジャガジャする。しかも、一曲演奏すると、もう、チューニングが、ズレ、音程を合わせることもできない。

それで、約束の時間より早くきて、どうもニセの客を相手に、
「今回、EventCrew INC. から、メジャー、デビューした、近藤振一郎です。クロスビジョンは、ぼくで、立ち上げができたレーベルです。父はNHKの重役なんですよ」と勝手なことを話している。

このような経過で、わたしを無視し、父がNHKの重役だという、近藤振一郎さんは、興行を実行して、金銭を払わず、逃げたので、NHKへと連絡を取った。

NHKは「近藤」が多いというので、わたしは特定してゆき、「NHK−BSビジョン」の「近藤圭一郎」さんへ電話をしたが、何回しても、出ない。

これを、振一郎さんに言うと、「父に、連絡を、した、のですか」と、他人のわたしより、自分の父の方が偉い扱いの言葉に、わたしは驚いた。
父から勘当されているというので、手のラインから、嶋田医院の孫娘さんの方は、ヒステリックな母親に育ち、会話が多く、NHK―BS近藤圭一郎さんの息子さんも、わたしのイエなんかと、比較にならない、100倍ほど、会話が多い家族と指摘する。

ここに至る、期間が、4ヶ月だった。
わたしのところから出費となった、飲食費など、他者が犠牲となった分への、最低の料金を請求すると、父親の、上原雅美さんは、京都市上京区の、光法律事務所の加藤明雄弁護士 (075-432-0305)を使い、わたしの両親宅へ、内容証明の郵便物を送った。

わたしが、連絡先が、まちがっている、場所は、東山区で、いったい、何ヶ月、何十人が、わたしの会社を利用し、仕事を中断させたのか、「人権のわかっていない、弁護士に、謝罪に来なさい、と伝えなさい」と、加藤明雄弁護士秘書に注意したら、加藤明雄さんから無い。
それで、被害届けを、わたしの妻が、京都府警、東山署の、森光刑事にあてた。

わたしとしては、NHKの京都局長の、光井正人さんとは、知己だったので、連絡すると、電話にでてこない。

東京、神南のNHK本部(NHKエンターテイメント)にいた、光井正人さんではないのですかと聞くと、人ちがいと思いますと、東京神南と、京都のNHKが言うので、1990〜93年ごろのNHKの名簿がありますかと聞くと、在るというので、そこに、光井正人さんと言う、氏名はありませんかと聞くと、「あります」との返事だった。

それで、昔は、2、3人しか、従業員がいなかったNHK京都へ連絡をすると、「ちがいます」と言う。

光井正人さんとやらは、京都のあちらこちらの、文化懇談会に出席されておられ、その一枚の写真を見ると、頭髪が、昔とちがい、いっぱいある。
「昔、剃髪されていたのでしょうか。それなら、京都は僧侶が多いので、剃髪のままの方が」と聞くと、知りません、頭髪はいっぱいですと、男女とも、NHK.の人はいう。

NHK京都のまえは、NHK松江放送局だったというので、わたしの知己の光井正人さんは、嘘ばかり言って、頭髪が「いなばの白ウサギ」にあった、光井正人さんかと思った。

7)「プロジェクトX」 での、どこまでも捏造のNHK、「淀川工業高校問題」

NHKは、2005年5月10日放送、『プロジェクトX 〜挑戦者たち〜』、「ファイト!町工場に捧げる日本一の歌」で、大阪府、淀川工業高校の生徒たちへの人権侵害にあたる、「グリークラブ」の番組を、改造し捏造し、放送した。

淀川工業高校には、暴走族がいて、退学者が多く、卒業しても求人のない、荒れはてた高校ということだったらしい。
淀川工業高校の、グリークラブでの、合唱コンクールには、警察までが出動したという。

京阪沿線は、ラグビーが強い。
1960年代、淀川工業高校が、京阪でのラグビーの牽引役の一校だった。
ラグビーは、1960年代、試合ごとに、ルールを決め、難しいスポーツだった。
わたしは、啓光学園のラグビー部は、5月に見学へゆき、わたしの短距離の記録を知っている、上級生たちから、「まつだ、NO8」と言われ、二度ほど参加した。

とうじの啓光学園のラグビーは、ケンブリッジ大学方式で、NO8が中心指令で、スクラム合戦になると、15人が一団となってよく、その場での、指揮判断は、スクラムに参加した、NO8が、情況で、ウィング、NO9〜 NO15までの、3人ぐらいを、揃える合図を出す。

わたしの級友で、かなり、淀川工業高校へ行ったものがいる。
1967年は5学区制度で、NO1大手前、NO2四条畷、NO3寝屋川、NO4枚方高校、NO5大阪市立高校と淀川工業がきた。
団塊の兄の世代では、ずいぶん、難しい学校に、西野田工業があり、淀川工業があった。

寝屋川市立第一中学校で、3年1組の友人、和田君はじめ、数人は、ふつうのクラスだと、5学区の、NO4クラスにあたる、大学への、進学高校を選択できた。

高校へ入学したあと、わたしは、京都で、田伏君、和田君、中村君とあった。
「大字」を、京都の「大文字」と関連した住所とおもった、わたしは、かれらと会ったとき、東山の食堂で、田伏君、和田君たちが、「丼もの」と、「玉吸(ぎょくすい)」を頼んだ。

わたしは、「玉吸」の意味がわからず、「玉吸って、何?」と質問すると、
「まつだは、ありふれた事がわからない性格をしている。お吸い物や」と田伏君、和田君が、説明してくれた。

寝屋川市立第一中学校での、不良による、タカリや、暴力がひどく、運動ができ、男子にも人気がある、和田君は体格もあり、二度ほど、不良に囲まれたが、眺めていることができた。
1967年12月、日本刀乱闘事件のこともあり、中学でも、剣道部に席をおいたことのある和田君は、淀川工業で、三年間、剣道をし、大阪工業大学へ進学して、空手部で四年間活動した。

わたしは、啓光学園でも、1967年の日本刀乱闘事件にこだわっていた。
日本刀というわけにはいかないので、剣道部へゆき、わたしは、防具、いっさい無し。
竹刀だけで、「面だけの打ち込み」をするといい、剣道部の有段者には、申し訳ないが、面だけとってくれと言った。
竹刀なのに、面を外してくれというと、こわがって、誰も相手になってくれなかった。

日本刀は、イエには、父方の祖父が、白柄(しらつか)の、上等なのを持っていて、わたしも持ったことがあるので、わかってはいた。
わたしのばあい、竹刀では平気だが、ふつうの人は、これほど、恐いことを、YOS君はし、阿部武俊先生は、丸太で、向かっていったのかと思った。
わたしには、YOS君が、面を打ち込んだとき、阿部武俊先生がもった、丸太の木っ端が飛んだ光景がまだ、記憶に鮮明である。

わたしは、和田君に、はじめて、連絡し、1967年は、寝屋川第一中学は、不良が多く、また、わたしが、中卒での就職組みの勉強をみ、私立進学組みの勉強をみていたせいで、大切な友人の和田君に、平等でなかったことを、詫びた。
和田君は、中学時代と同じく、「いい、いい、いいんや」と、明るく、返答をする。

わたしは、自称、被差別だという、わたしには、理解できない、社会制度のことと、小西さんの父親の、狂言により、公立高校への進学が無理になった。
が、小西さんが、親戚だったという、和田君とは、親戚どうしのいさかいと思い、高校のときも、付き合っていた。

付き合いは、わたしが学生運動の時代に巻き込まれ、学問に専念したので、高校の友人とも、断った形となった。

それで、生まれてはじめて、和田君に電話をし、小西さんと、親戚関係の確認をしたら、
「あいつ、勝手に、親戚と、小学生のときから、言っててん。オレとこ、引越し、して来てん」という。

わたしは、小西さんに、あきれると同時に、和田君が、15歳なのに、良い意味で、男っぽく、良い人物だと思った。
それで、いまでも、中学と同じく、雨の日は合羽を来て、自転車にのり、会社へ通っているのかと聞くと、
「そうや。昔と、いっしょや。大阪の小さな、設計事務所や」と、和田君は、中学のときと、素直で、変わらない明るい声をして、こだわりなく言う。
「変わらんなっ」と、わたしが言うと、「まつだも、変わってへんなっ」と言う。

8)深夜は『砂』の時間のNHK

1969年の、西陣不況は大きく、京都府内をはじめ、関係者は、朝夜なく、働いていた。
わたしのイエの借家人が、NHKに「受信料金を払え」と請求をされているのだけど、帰宅が深夜と、母が言っても聞かない。

わたしのイエのテレビは、また、何度目かの故障で、NHKの集金人が帰らなく、これが三ヶ月以上つづいたので、43歳の父が、近所の体裁が悪いと、NHKに、強く、注意をした。

「あの男の生活は、知っている。真面目な男や。テレビはもっている。この、不況で、人には、色々事情がある。
一ヶ月、朝晩、働きどおしで、休みは、月に一度あるかないかや。
椅子に座っていたら、給料がもらえる、偉い、おまえさんらと、ちがうんや。

男所帯で、月に、一度かそこらの休みは、洗濯もある、掃除もある、買い物もある。
実家への仕送りもある、夜の帰りは11時すぎや。
風呂屋が閉まる、ぎりぎりに行って、テレビを付けて、寝てしまうこともあると言っとった。

しかしなっ。おまえさんら、考えてみ、月に一度か二度の休み、仮に、一時間ほど、テレビを見たとして、NHKを見るのか。
NHKが、12時以降、番組をやってるのか、日の丸が出た後は、『砂』の時間やろ。

テレビが壊れとる、ワシが、ここで親代わりや。テレビが壊れとる、ワシとこから、料金、取っとるんやから、それで、我慢ができんのか。

おまえさんら、親の借金背負って、年中、働きどうしで、病んで、いつ、倒れるかわからん、覚悟した、人間の気持ちが、分かるのか」


        鰯雲   ひろがり ひろがり  創痛む       石田波郷




▲1967年6月14日 修学旅行、富士急ハイランドホステル。左、松田、となり、和田君。

▲琵琶湖疎水の四月

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-04-11