京都昨今
49、 子供の心の傷は いやされのか       NHKU

上の写真は、関西大震災があった、豊中市庄内小学校の1964年の運動会である。

1)
1960年ごろから、豊中市庄内は、新興住宅地となり、庄内小学校は、この運動場から、見える大阪がわに、古い、家並みがあった。

東京オリンピックの豊中市の空は、「名神高速道路」と、母の友人、船場の、女性宝石商のマスダさんが、温水プール付きのホテル、「ホリディ・イン」を建設のため、発破がしかけられた。
空一面、コウモリで、真っ黒になった日は、主婦や子供たちが気持ち悪がった。

わたしも、いままで、見たことがない、はじめての光景だった。しかし、昼、地面に落ちて、亡くなり、死んでゆく、とても小さなコウモリをみて、地上からみる、黒い羽根を広げ飛ぶ、体長とまったく、ちがい、羽根の構造がうすく、こまかな動物なのかと、複雑な気持ちになった。


1965年、わたしが入学した、豊中市立第六中学校の校歌は、作詞「佐伯孝夫」と作曲「吉田正」の二人だった。
豊中市庄内は、伊丹空港がすぐそばにあるため、ボーイング727が低く、とんだ町である。
64年は、ヒットメーカーの佐伯孝夫と吉田正による、『そこは青い空だった』が、橋幸夫と吉永小百合の声で流れた。

1963年春、阪急百貨店の階上の食堂で、「佐伯孝夫」と「吉田正」による、『いつでも夢を』を耳にした。
イエでは、父の弟による、アメリカンポップだったので、聞き取れる唄がでてきたと思った。
音の進行が、これ以上の、素朴で美しい創作は無理だと思える、自然な和声のでき方だった。

橋幸夫の歌唱は、日本人独特というか、譜面では、強起ではいる一拍目が、欧米の音楽感でゆくと、少し遅れて入ることになる。
これは、日本の民謡やわらべ歌でわかるとおり、調子をとる余裕で、非常にうまく、また、吉永小百合が、上手とか下手ではなく、純粋で懸命にうたわれる発声で、時代が変わってゆくのかと思った。

幼なじみの、文房具屋のハジメちゃんのイトコ、ゴンタのシゲぼんの、姉さん二人は、中学から姫路の「賢明」で、次女は、庄内の音大(大阪音大)に、また、わたしの同級も、庄内の音大まで、くる時代になっていた。

化粧品屋のおばちゃんは、「朝起こしても、起きへんでぇ、あの娘、冬は、パジャマの上に、コートを来て、大学へ行ってんねん〜。どーしょ、もう、恥ずかしいやろ〜」と播州弁で、わたしの母に言った。
わたしは、コートを来て、ピアノの演奏は、肩が張って、できないのにというと、カバンに、着替えをもって、いるとのことだった。
わたしの幼なじみたちの家族が、豊中や枚方市へ、引っ越してくる時代でもあった。

2)
「つぎのプログラムです。六年生男子による、横綱の土俵入り、庄内小学校へ入学してから、六年。父兄の方々には、あの幼かった子供が、こんなに、たくましくと、おどろかれる父兄の方々が多いでしょう。横綱の土俵入りは、大鵬と柏戸の雲竜型。練習により、全員が、まるで、お相撲さんをみているように、いっちした、雲竜型をみせてくれます。向かって、右は、大鵬。6年3組のまつだよしのぶ君です」
と岡重信先生の、ふくよかで、明るい声が、庄内小学校の校庭いっぱいに、ひびいた。
予行演習には、ない言葉だったので、わたしは、恥ずかしくなり、この後、記憶がまったくない。

庄内小学校の、1965年度の卒業アルバムは、小さなものだけれど、1組から6組まで、クラス写真が、幾何模様になり、工夫され、言葉での説明も、編集経験のあるものは、おどろく。
わたしは、これは、みんな岡重信先生と言う。

表紙は、わたしが依頼されたのは、放課後のこっていたので、記憶にあったが、アルバムの中に、6年3組の、新校舎に、「大運動会」の化粧文字があり、これも、塾や家庭教師とは関係のない、わたしが、放課後、残ってしたものだった。

中心の部員は、わたし一人という、「栽培部」は、わたしのグループを入れると、庄内小学校で、一番大きなクラブ活動だったけれど、卒業アルバムにはない。

わたしのクラブ活動歴は、中学の美術部も、高校の水泳部もアルバムとかにないので、表面だけみると、わたしのクラブ歴はないということになる。

3)
わたしには、横綱の土俵入りの、写真があると記憶になかった。
これは、はじめ、わたしが一人が、朝礼台で、大鵬なんて嫌ですといい、1963年転校してきたとき、すぐ友達になった、TA君に柏戸をしてもらった。
TA君は、五年生のとき、庄内小学校副校歌を依頼されたどうしだった。
いっしょに、TA君が子供らしく、笑っている写真もあった。

庄内小学校が、急激な、新興住宅地となり転校生がふえるまで、静かな性格のTA君が一番だったと先生たちがいっていた。
作曲家を希望するTA君が、相撲の柏戸をしてくれると思わなかったけれど、わたしといっしょだということで、喜んでくれた。

わたしに手と指先への関心を寄せさせたのは、このTA君で、転校した日、わたしの指を見て、「まつだ君の指先のほうが、ピアニストに向いている」と、わたしに言ってくれたことにある。

音楽をすることを許してくれる、TA君の、紳士のお父さんとは、紹介され知己だった。が、1965年の春、他の同窓の父と同じく、働きすぎで亡くなられ、母子家庭となったので、母の故郷、岡山へと帰るの挨拶が最後となり、わたしの心の傷になった。

わたしと同じく、直射日光禁止で運動もしてはいけない、広島で被爆、長崎で被爆をされた、ご両親をもった、となりのクラスだった、IK君は、原爆二世だった。
1963年、わたしたちが、中庭で、あそんでいるとき、にこやかに見物していたが、もう、命が消えていた。
戦後、大阪へは、就職で、長崎や広島のほうから、原爆一世のひとたちがふえた。

1962年夏は、加古川中学校、三年生で一番だった、父方のイトコの子供が、小児ガンにかかり、「お父様、お母様、これまで、ありがとう、ございました」の礼儀ある言葉をのこし、死に逝った。

4)
この庄内小学校は、関西大震災のとき、隣接の第六中学校ともに、避難地域になったところで、マスコミでとりあげられていた。

1964年、東京オリンピックのあった秋、わたしは、小学6年生で、担任の岡重信先生から、6クラスをひきいる、横綱、大鵬の土俵入りの役目といわれたとき、意味がわからなかった。

加古川や高砂市でもだが、1961年ごろから、わたしたちは、テレビを見ない生活にはいっていた。
勉強もだが、家族同志の、会話、言葉の生活をはばむということで、良識ある、父兄は、テレビを、押入れとかにしまう時代になっていた。

庄内の、大阪がわは、古い家並みを、中心として、2DKの、東京の都営住宅のようなもの、同じく、警官住宅の形の家が、連続していた。

となりの町の服部や、庄内でも宝塚側の2丁目は、子供が遊んでいるのに、大阪側は、遊んでいない。それで、わたしが、どうして?ときくと、男子より体格のいい、野木さんが、
「まつだ君、コトリが来るから」と大きくいう。
「小鳥が来るのなら、いいじゃないか」とわたしが言うと、
「ちがう、子取り、子供をさらうの」と言われた。
わたしが、意味がわからなく、ぼんやりしていると、友人の浦谷君が、「よしのぶちゃん、考え事していると、誘拐されるよ」と言った。

社会での、悲しい事は、わたしの体調が悪くなるので、母から、まったく、聞かされることがないので、なんの意味か、わからなかった。
「1963年、東京、吉展ちゃん誘拐殺人事件」のポスターは、阪神百貨店の地下の柱で見た。
このあと、わたしは、岡先生をつうじ、校長先生に、放課後も、校庭を、開放してくれるように頼んだが、無理とのことだった。それで、わたしは、学年の関係なしに、校庭をつかい、印南郡の遊びを、教えた。
この「NO、40」の校庭光景は、わたしが、庄内小学校へ残した、印南郡米田町の遊びである。


時代の変化だろう。1961年はじめか、ダイエーのある、三国(みくに)でおりた。
わたしが、チューイングガムを手に取ると、母が、「ここは、明治屋と、ちがうの」と注意した。

中内功さんによる、ダイエーは、千林駅前店から知っていた。
初期ダイエー時の、中内功さんには、反骨があった。また、初期の香里園に、くずは、藤森の、店長たちは、ダイエーのために働き、知己だった。

いま、新生のダイエーとなったので、書くが、昔、「主婦連」が、ダイエーへの抗議をした時代があった。

「三国」のダイエーで、展示されている、商品、ひとつを盗んだ、主婦がいた。
その主婦は、首に、「わたしは、ダイエーで、泥棒をしました」のプラカードをつけさせられ、ダイエーの従業員に、市中をひきまわされ、町のさらしものになった。

主婦連合会たちは、古い、市場の形であれば、泥棒などしていない。会話がない、スーパーの形式になれない、商品を、展示品のようにしているので、つい、泥棒という形となった、これは、商売の形が悪いと、人権保護の、強い抗議をダイエーへ向けた。

転校した、1963年、庄内へダイエーができると言うことで、ダイエー建設反対の運動が起きた。
はじめ、理由が、わからなかったけれど、ダイエー南西がわに位置した、小さな市場が、東京オリンピック後、消えた。

同級生の女子に、豆腐屋さんが居て、修学旅行の年、「生活が大変なの」と言った。
また、イズミヤができ、小さな商店は、経営の維持ができなく、親の仕事の手伝いから、学業がついてゆけず、不良化が目立ってゆく、町となった。
同じく、イジメも問題となった。

5)
親の仕事を手伝い、どうにか生きてゆこうとする生徒たちにも、テレビは日常から、離れた存在だった。
母子家庭など、ましてで、わたしは、6年生の終りに転校してきた、田中君が、テレビがないということで、登校拒否児になっているとは、岡重信先生や、同じ児童会の生徒は、わたしが田中君を、訪問するまで、気づかなかった。

わたしは、児童会がちがう、田中君に、庄内小学校は、大半、テレビなど見ていないことを言った。
庄内小学校の、教科書の、進行は早く、6年で新校舎は、理科室のため、テレビがあったが、いちど、理科の時間を見たとき、「先生、たいくつです」と生徒たちが言うと、岡重信先生は、「そうだな、やめよう」とNHK教育テレビの時間は、10分ほどだった。
わたしたちが見たのは、東京オリンピックのマラソン2時間で、学校が閉門ということで、ゴールは見ていない。

田中君どうよう、母子家庭で貧乏ということで、テレビがなく、また父子家庭で、イエの家事をしなくてはならなく、忙しく、生活をしている人たちが多いことも言った。

地震予報を、的確に、10分まえでも言えない、気象庁によると、内閣からの、補助金の、影響か、正式名称が、1995年、平成7年「兵庫県南部地震」となるらしい。

震災の中心地が、東経135度36分、北緯34度など、播州で、育てば、小学生でも知っている。
明石天文台があるからだ。兄たちは児童会で行ったが、わたしは、両親に、体調の加減で、児童会に、迷惑をかけてはいけないと言われ、参加をゆるされなかった。
天文台も、正確には、「明石天文科学館」というらしい。
ものごとは、在るか無いか、○か×がわかればいいのだ。

地震の時刻、1995年1月17日午前5時46分。このとき、わたしの兄嫁宅(芦屋市)が倒壊した。義理母が、起き、蒲団を、入れるときだった。その蒲団の上に、戦前の建築、木造二階建てが崩れおちた。
ちょうど、この年、神戸勤務となった兄が、幼児より知った道なので、緊急に助けへ行った。芦屋市に、水一杯ももらっていない。

神戸から芦屋は、幼なじみが多い。わたしは、朝、8時半、母からの、公衆電話により、関西大震災を、東京で知った。

6)
NHKに、助けなどしてもらっていない。なのに、NHKは、自動に銀行から、受信料を引き落とした。
地震はひどく、京都府と隣接する、枚方市の、わたしの実家も、地震で、ヒビが入った。

更地にしているとき、NHKが、避難先のマンションへ集金にきた。
「イエを持ったり、借りたりしている以上、払う義務がある」と説教する。

この説教は、わたしは、1970年代から、学問に専念しているとき、電話、新聞、テレビなし、夏の前後は、開けっ放しの生活なのに、「嘘をいうな、イエへ入らせろ」と、わたしは、30年以上、NHKに苦しめられた。

わたしの部屋は、夏など、いつも、開けっ放しである。
アパートの一部屋の中央に、角度を自由にできる、製図用の机が、置いてあるだけである。

イエに入って、テレビがない以上、わたしに権利があるとおもい、不法侵入で、NHKの集金係りを、つかまえ、紐でも、くくって、やろうとおもった。
追いかけ、捕まえたのは、ずいぶんいる。
悪党連中は、言葉をもっておらず、暴力で、逃げるだけである。

1997年はじめ、わたしは、病床で、ベッドにおり、「更地で、払っている」といっても、集金係が、うるさいので、部屋へ入りなさいと注意し、部屋をみると、逃げたので、KENZOの赤いパジャマで、公衆の道を追いかけた。

大阪から、来なくていいというのに、昔は、「多武峰 (とうのみね)」でつうじたが、蘇我氏の「石舞台」の方がわかりやすくなった地域出身の、「東武雅明」さんが、上司からの指示か、NHK受信料を払っている事実を確認され、謝罪した。

わたしは、東武雅明さんが田舎出身というので、
「都市化など、いつでもできます。石舞台は、わたしが、中学のころ、なにも囲いがなかった。あのころがよかった」といった。
NHKは、いつも、わたしの時間を奪い、心を傷つける。

7)
気象庁よ、質問する。なぜ、関西大震災が、前日にわかったというのであれば、警鐘をしないのだ。
この神戸との、地域限定は、人の命がうばわれ、さまざまな、有価証券が消え、それらへの最低保障を考えると、国が大変だからだろう。学問への良心はないのか。
関西大震災は、大阪府も、京都圏内、姫路圏内も地震で、家が傾いた。

それにまた、2007年3月、能登沖地震、マグニチュード7.0の地震がおきた。
「能登半島地震」と命名できるだけの能力はあるようだ。

どうする、気象庁、気象庁員、気象が好きで勤務していると、わたしは考える。「地震雲」はどうした。
全員、給与返還ではないのか。

また、老朽の、既存の地震研究者、もう、退任すればいいのではないか。
地震学が発達しないのは、科学の地、西欧に地震が少ないためである。生涯を犠牲にして、学問をする人間が、日本には少ないからである。
西洋人は、「データ」というものが、どういうものか分かっている。

西洋での「データ」の基本は、「データ」とは、神が、いっぱんの人々に、付与するもので、地震学者のためだけでなく、広く、柔軟な考え方を持ったもの、誰もが共有でき、分析できるところにあるというものである。

分析できないものが、発言しすぎでは、ないのか。
20代の、若い世代に、新しい考え方を出させてあげる、場所をつくってやるのが、老朽学者の、最後の役割ではないのか。

若い地震の研究者たちへ。わたしは、地震計が動いたから、地震なのか?という、命題をタイプしておく。

8)
同じ六年生のときでも、時期は、前後するが、わたしは、イエの貧困さで、招待がかわるので、「誕生日」への参加も、わたしのも、幼児から一度も、したことがなかった。

この古い庄内の町は、母子家庭が入居できるアパートがあった。この、より、阪急沿線がわに、小さな家並みがならんでいた。
卒業をまえに、ささやかな、誕生パーティをしたいと、父親が、工員という小倉君がいう。
わたしは、誕生会は嫌だと、五年生も六年生も言ってきた。
しかし、卒業が間近ということ、わたしと同じクラスのため、イジメられることがなかった、小倉君が最後に誕生日をむかえる級友というので、友人の木下君が、何度も往復した。
わたしも、小倉君の、お母さんと会い、「負担がかかりませんか」と聞きに言った。
木下君、浦谷君と、着る物は、ふだんの、ジャンバーにしようとも決めた。

誕生日の食事は、バラ寿司だった。わたしが、まだ、食事療法をし、外食を禁止されている体だったので、小倉君の、お母さんも、塩分を控えめのを作ってくれるということだった。工場勤務の、お父さんも、笑顔をみせてくれた。

友人の、木下君と、浦谷君とで、なにをプレゼントしようかと相談した。
1963年は、150円ぐらいで、飛行機や戦車があったが、1964年の暮には、物価が変わっていた。
大阪城ぐらいしかなかったので、「これでいい?」と小倉君にきくと、小倉君は、誕生日の贈り物がはじめてで、うれしいという。

9)
1964年12月はじめ、「部分日食」があった。
前日、岡重信先生は、日食をみるので、黒系統の下敷きの準備という。
半透明の下敷きは、とうじ30円して、児童に負担だとおもい、わたしは、「見ません」と返事した。

わたしたちのグループ、10人以上が見ないと決めた。
12月4日の、当日になった。わたしは、この年、夏休みの宿題で、雲の観察を、長くしていたので、曇った、空模様をみて、下敷きも何もいらないと判断した。

3時間目になったとき、岡重信先生が、「まつだっ、めったに無いことなんだ」と、いつもの、掛け声をしたので、わたしは、4時間目がはじまるまえ、正門まえの、文房具屋さんへ走って行った。

白色の下敷きは、一枚も買われていなかった。
わたしの判断は、白が適当だとおもい、3枚買った。

12時まえから、わたしたちは、新しい校舎の3階へ行った。
わたしは、わたしのグループに、わたしは見方がわかっているので、裸眼のままで良いと返事して、グループの後方から、眺めていた。

黒や紺の下敷きでは、見にくく、わたしの選んだ、白がちょうどよかったようだ。
浦谷君、早川君、木下君ほか、わたしのグループが、わたしが買ってきた下敷きで、わたしにも下敷きを使って見て欲しいというので、下敷きを通して見た。そして、女子に渡してあげたらいいと言った。

10)
1980年2月16日、アフリカやインドなど、アフリカのキリマンジャロぐらいからだと、皆既日食が見え、この天変とも言える現象がおきたとき、現地の人や動物がどのように反応するかと、マスコミは報道した。

1979年秋、世界には、哲学(文学)、医学、物理など、9つの大きな学問分野があるが、そのうち5部門にかかる、わたしの遺伝子他をふくむ論文を持ったままの、富山大の和崎洋一さんが、この天変地異の取材を、息子、和崎信哉(NHK デジタル放送推進局長→WOWOW会長)さんと行ったという。
わたしは、驚くのは、それを取材している、先進国とやらの人間だけだと言っていた。

富山大の和崎洋一さんは、アフリカ社会見学旅行を、NHKの予算、皆様の受信料で、行った。
わたしは実家で、家族と見て、いつ、顔を出すのかと思ったら、和崎洋一さんは顔を出さなく、なんの番組か、わかりにくかった。

自然界の動物というのは、天変地異を先に、察知し、経験則として、次の世代へ伝える能力がある。この和崎洋一さんは、辞書作りとかで、文部省から、先に3000万円をもらって、趣味といえる本をつくった。
和崎信哉さん、人類学専攻の和崎春日さん、親の散財を、国に、受信料を払っている、市民に帰すべきだ。

わたしは、人類学の今西錦司さんの、生態に愛された人、梅棹忠夫さん、和崎洋一さん、この両者に子息がいるとは思わなかった。
わたしの生まれが1951年9月で、この年代は、2人、3人兄弟がいる。

梅棹忠夫さんの、お子さんが、通う学校は、「日吉ケ丘高校」に、わたしの同級や同窓の兄弟もかよっていた。

親の因果が子に報いというか、わたしからみて、社会科学にもなっていない、梅棹忠夫さんの仕事だが、この梅棹忠夫さんの子息が、京都府警勤務の子息に、浴びせられた言葉は、梅棹忠夫さんが、京大式カードという、白い紙に線を引いただけで、商売したことにある。

「便所紙にもならん紙売って、恥ずかしくないのか、チンチンかんで死ね」と京都にチンチン電車が走っていたころ、梅棹忠夫さんの子息は言われたと思う。
日赤内科部長の息子が、「できるかも知れへんで」と言っていた事は、梅棹忠夫さんと会ったあと、友人たちに教えてもらった。

また、京都が生んだ、有名な政治家、木俣秋水さんの近所ときいた、和崎洋一さんの行為に、わたしが我慢したのは、和崎洋一さんの、奥様が、息子を育てる生活費のため、塾をして、懸命に働かれていると聞いたからである。

11)
しかし、和崎信哉さん、同じく、人類学の和崎春日さん。わたしは、梅棹忠夫さんに、いま、人口調整をしておかないと、インドと中国の人口増が、疫学での大きな問題をかかえると指摘した。

わたしが論文をかきあげた、1977年に、注意をうながせば、人口増を、とめることができたかもしれないんだ。

欧米と日本の資本は、カースト制度が残るインドに、ニュートンも驚く「180度転換」経済をもたらせ、成功した。
インド南部には、肌が黒いほうが、文化価値のある民族がある。
このインドが、不況にはいり、大きな反乱をおこそうとしている。

第二次世界大戦後、欧米と日本の、医学、製薬会社からの、資本により、熱帯地域の人々は、新薬の実験台となり、体細胞がこわれ、細胞自体が変化しているのではないのか。
エイズにしろ、鳥インフルエンザなど、特定できた、ウィルスにすぎない。
もし、一億人単位で、死んでゆけば、どうやって、新しいウィルス発生の、特定(同定)、対策ができるのか。

和崎信哉さん、和崎春日さん、親の無責任をどうする。

NHKの京都局長だった光井正人さん、あなたは、昔、「和崎は、編集から、編成です」と蔑んだように言った。

いまは、放送に、スクランブルをかけられる、「和崎信哉WOWOW会長様殿」なのだから、NHKも見習ったらいいのではないか。

12)
わたしは仕事のひとつとして、音楽をする。
わたしは世界の「ローランド」と言われるまえ、社長を入れ、たった4人のとき、新しい楽器を、妹名義で注文した。
ローランドは驚き、社長は留守番で、3人が、妹の会社まで、挨拶にきた。商売の姿勢はこれではないのか。

わたしの部屋には、楽器とアンプをつなぐ、シールドなど、音響機具をつなぐ、30年まえは珍しい、色々な線があった。
これを、NHKの集金人は、テレビの線と誤解する。
テレビはないし、NHKの受信料を払っているといっても、仕事の邪魔をして、もっと、払えというのだ。

質問をする、ひとりで、複数のテレビ番組を見ることが可能なのか。
NHKは、これを、どのように、答弁する。

NHKは、文言が巧みな文化人とやらを、NHKの評議委員として、優遇してきた。
元京都府教育委員長とやらの山田忠男さんは、評議員ですと、自慢していた。

山田忠男さんが、NHK京都にでるので、ビデオ録画を頼むと言った。わたしには、テレビもビデオもないのにだ。
わたしは、妻の勤務先の上司に頼んだ。
内容は、「一弦琴」だったはずだ、山田忠男さんのばあいは、「一現金」が相当だろう。わたしは、ビデオテープを買い、録画を依頼した。
一回目は、事件で放送中止、再放送とかのとき、長男の方が、転勤先の北欧から帰国し、録画予約したという。

山田忠男さんの息子に孫たち、親の、祖父の因果を背負いなさい。

わたしは、山田忠男さんの欲で、どれだけのものを失ったか。なにしろ、止めて欲しいというのに、頼るすべのない山田忠男さんは、何度も何度も何度も、わたしの実家に電話をかけてきたのだ。
「同志社大学名誉教授の山田です」の言葉で、「見合い」とかがあった妹のため、母か、妹かが、すぐ連絡にくる。

わたしは政治に関心がないので、なにが起きたのかわからなかった。
後でわかったのは、嘘だらけは、蜷川虎三さんに政権がなくなったからだった。

尾張という、妹まで、同志社の職員にした、山田忠男さんが、わたしのイエを詮索するので、桑名藩、20代、江戸後期、前田忠正→前田六三郎(りくさぶろう)→祖父、前田正、1960年7月没→後見人、佐川正夫(旧姓、前田)、毎日新聞中部本社、報道部長、1977年没→松田好信であると言った。
また父方は、左が上の、丸に、違い鷹の羽根。いまでは、マスコミの忠臣蔵のおかげで、ずいぶん普及した家紋のイエと言った。

NHKの光井正人さん、あなたが、軽く言った、「NHKの長谷川」だが、先々代は版画家の長谷川潔。また、先代は、母とイトコになる。福田赳夫首相の外訪の御付は、わたしと血縁のNHKの長谷川である。そのため、旧姓前田、蔦の家紋の家系にできる。

また、知識として言う。幕末、兄弟藩の、弟藩を、見捨て、うらぎった、尾張を、桑名は、尾張との行事ほか、倍返しをし、「尾張、こじき」と呼ぶ。父方は、戦前GHQに解体されるまでは、誇りかけた一番では、10倍返しをしたという。
いまの加古川市民病院は、昔、「避(ひ)病院」で、村に、疫痢、感冒など伝染病が発生したとき、隔離し、村が呼んだ医師で、治療にあたった、それが、宝殿病院となった。
わたしは、それで、優しい、医師に看護婦さんが、多かったのかと、2007年春、父に言った。

NHKの光井正人さん、わたしの父方の祖父は、姫路の、被差別地域の子供、戦争孤児となった子供を、育てた。
そのうちのひとりが、ヤクザと呼ばれるようになり、大きな事件となった。

父は、自分の弟が1984年、早く死んでも、涙をみせなかった。
この父が、戦後からの、このヤクザの子供のころを知っているのか、「アホや、オヤジの真似をして、苦労して、せっかく、ためた、財産を、若いものために使って」とわたしの妻の方へいい、涙ぐんだ。


NHKは、NHKテレビなどの出演者や、講座の教員とか、放送大学の教員として、釣り上げた。
つまり、金と、権威とかの金品で、自称、社会主義、民主主義者からの反論をなくしたのである。

「内閣府」、および、「警察庁」、NHKを、高校や大学の教員を、また内閣、警察自身もふくめ、「広域知的暴力団」と指摘するぐらいの、反省、成熟した、世界初の「市民国家」になっても、いいではないのか。

下の写真の光景は、NHKの光井正人さん、和崎信哉さん、あなたがたの世代は、京都にもあったと、記憶にあるのではないか。

ここで、聞きたいんだ。答えてほしいんだ。むかし、NHKの集金人により、テレビがないことで、恥ずかしい思いをさせられた、子供たちの心の傷に、NHKは、どうやって、つぐなってゆくのか。

わたしには、いまだ、寝屋川市立第一中学校の、二年の級友の吉田君が、「オレとこ、母子家庭で、貧乏ですから」と言ったときの、表情が消えない。
とうじ、母子家庭は、アパートを借りるのも、大変だった。

わたしも、ひとり、アパートで仕事をしているとき、自分たちの都合にあわせた番組で、受信料と、イエを家宅捜査されたときの大きな傷がのこり、癒されたことがない。

NHKの職員は、NHKに誇りと生きがいを、思っているのだろうから、無給で、余裕のある日、金銭を払い、NHKに勤務されたらどうか。

わたしたちの世代をはじめ、テレビを買えず、NHKの集金人に、貧乏人といわれたり、貧乏人扱いされた人たちは、NHKへ、人権侵害として、「NHKテレビ大公害、子供におわせた心の傷補償」という「請求権」が発生するのが、しぜんのことではないか。






後列、左四番目、野木さん。三列、左から四番目、松田、山本君、早川君。1964年、大阪交通博物館。中央、岡先生。

三列、左、松田、小倉君、浦谷君、1965年初春。前列、右、1964年、短距離、豊中市3位の木下君。

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-04-02