京都昨今
48、 いつでも素敵なアメリカン・スポーツ      NHK


英語をならって 東京の学校で 知識をたくわえた 全国からの 青年たちが 
「安保反対」の 声をあげた 1960年の とっても素敵な アメリカン・スポーツ

核爆弾は 内部分裂  アメリカとの 戦いは  少しまえ  なのに
北との 内部分裂  朝鮮の 動乱で 好景気となった 日本 

工場から  煤煙だらけの 冬空の 町には サンタさんが 元気よく 
「メリー クリスマス」と アメリカン・スポーツ 

南の土地 北のベトナムが どこまでも 戦うので お金が 足りなくなって きたけど 
アメリカの 青年たちは 軍隊へ 金もうけの 就職で 仕事は戦争 
暴れるのは  他所(よそ)の国   自由の女神の声援で いつでも 素敵な アメリカン・スポーツ

契約更新 もう一度  読書が好きな 高校生までが 「安保反対」と 同じ民族の戦いだ
大衆が いっぱいの 大阪に  エクスポ70の  お祭りは  子供もわかる  アメリカン・スポーツ
責任 当局 文部省  気を散らすための よど号なのか 飛んで行った

北への ジェット機をみた  ニュートン君  あれ 力学にあってるの?
すべては 適当で うまくゆくと いい加減な マッハ君
ふつうの 日本人は みんなこれで ひとやすみ 

びっくりしたのは 1971年 夏 ハリウッドか ブロードウェイの 影響か
少数派 ニクソン君は 仕方が ないのと 悪役に 
核は準備  同じ民族  東と西の ドイツも おどろいた

兌換の変更 またまた  ニュートン君が 墓からでてきて 
物々交換 法則が 崩れてしまう といったけれど 微分方程式など こなみじん
マルクス君が 怒っても  毎度毎度の オイル漬け  

大変な 不況がきて テレビ局には 舞台設備の 金もなくなり 
それで 起きたのか あさま 山荘事件
警察の お偉方 8時に 全員集合 仕事ができた ばりばりよ

アメリカによる 制度変更 三日以内の 戸籍謄本が まにあわず 
姫高から 自動に 神戸大出となった 叔父さんは
東大 京大をすべてぬき 出世は一番 
日本国の 金融マン 働き蜂が 会社のクルマで もどってきて  
どうなの テレビ あさま山? と 
本を読んでる わたしに聞いた

叔父の 言葉が わからなく テレビ? ときくと 
会社で 話を するからね 
叔父は 民放を 10分ほどみて
それじゃ 会社だよと

舞台設備は  京都のそばにも  琵琶湖のほとり
テレビカメラは 死ぬまで  どうして おりこうさんの息子さんがと
運動家の お父さんを 追いました 
どうして早く いさぎよく してくれないの 取材人は よれよれよと
亡くなられたときの マスコミは おおっ すっとした やれやれと


「出たくないのでしょう マスコミ嫌い なんでしょう でも 皆様のため」
とはNHK

なんども なんども からむので 渋谷区 神南へ
東大で ニュートンの講義を うけたという NHK佐野洋子女史たち
村上陽一郎には 思想があるというので あれは翻訳 アメリカン・スポーツ
出演は 一ヶ月後と言って 連絡なし

「出たくない お気持ちはわかりますけど 年末大特集 一週間です うかがいますよ」
とは早稲田出身の 奥津憲仁ディレクターたち

同じ言葉の 繰り返しに 疲れ わたしは 渋谷区 神南へ
しばらくしてから 出演取り止め

こういったことの反復に
市民のわたしは NHKの 退屈しのぎ 見世物なのかと 抗議した

夜にきたのは 京都局長になった 光井正人プロデューサーたち
「わははは わははは あいつら ゴツン ゴツン 説教 説教」と
嘘の笑顔を していれば 給与が入る  極楽人
言葉も気持ちも つうじない このひとたちと わたしは 同じ民族?


1965年1月 豊中市 庄内小学校 6年3組へ 転校してきた 田中君
田中君は 登校拒否児童だった

岡先生は 同じ町の 岡崎君に
「むかえに 行ってあげろ」と
小柄な 岡崎君は ナイフで 脅された と言ったので
「野木 行ってやれ」と
野木さんが 行ったけれど ナイフで 脅されたと

岡先生は
「まつだ 行ってくれるか」という
わたしは 町がちがうし 両親から 叱られるのに 決まっているので
「児童会が ちがいます」と言った

それでも わたしの過去を知らない 岡先生は
「まつだぁ 頼む 行ってくれ」と
それで わたしが ゆくことに

親友の 早川君 木下君たち ひかえめの 次男三男組みが あつまって 
「危ないから やめたほうがいい いっしょに行く」と言って くれたので
わたしは ひとりで 行くことにした
用心のためと 親友たちは 野木さんのイエで 待ってると

田中君は アパートの ドアを開けてくれ
一間には ベッドがひとつ  そこでの話
「ぼくとこ 母子家庭で テレビが ないねん」と言ったので
わたしは テレビ 夏から 壊れたままと 返事した

卒業アルバムにもない 田中君が 可哀想で
岡先生に 学芸会 田中君が 参加できる 劇を つくってください と言ったら
「岡先生の えこひいき」と言われても 顔色を変えない 優しい岡先生は わかったと
わたしと田中君の 役割は 東北から 東京へ 集団就職にきた 青年の役 

田中君の 演技が 上手に なったころ 岡先生は 他の先生を よんできて
「これは 上手だ 東北弁が」と拍手 拍手 拍手
田中君の気持ちもやわらぎ 3組の 友達になりました


寝屋川 第一中学校 阿部先生担任の 2年9組へ 野球が好きな 吉田君が 転校してきた
友人の キャッチャー鶴本君 サード奥野君のいる 野球部へ 案内した
わたしの 球を打てるので 
わたしの 過去をしらない 阿部先生たちとの 約束は
四打数二安打だったら ユニフォームをくれ 野球部にと

わたしは 寝屋川市駅前の 八坂神社で バットの 素振りを 一週間をと
吉田君は 正規の投手からは ポン ポン ポッカーンと  
センター越え 3回の 四打数三安打

わたしは 決まったと 思ったけれど
まさかのできごとで 教員たちは 黙って職員室へ 帰った
約束が ちがいますと わたしは 職員室のまえで 大声でいった


ストーブの 季節がきて わたしが 当番の日
だるまストーブの 扱いは 難しいからと 剣道部と 美術部の 男子があつまった
野球が 上手な 吉田君も そばへ 火にあたっているとき
父は アメリカ人みたいに素敵で レストランとガソリンスタンドを経営という 小西さんがきて

「この石炭 わたしの お父さんからの 寄付なの 第一中学 全部よ」と言った
この言葉で わたしも 男子たちも びくっと ストーブから 手を離し
「ええ? オレ等 貧乏人 当たっても ええのん!?」と 河内弁で言った

「いいのよ 母子家庭も 父はアメリカ人みたいで 素敵でやさしいの」
と小西さんは お色気の 女優のセリフで 言ったけれど 
これが 最後で 吉田君もわたしも ストーブへ 近寄らなかった

わたしは 野球部の事もあり 八坂神社近くの 吉田君へ 謝りに 行った
「いいねん オレ 母子家庭で 貧乏やから」
とアパートからでてきた 吉田君が 言ったので 
わたしは 母が何度も 家出をして 母子家庭だったときの  ことを言った

アパートの 入り口で わたしは 母にも 放って行かれたと 話をしているとき
「NHKです 集金です」と 労働者の 汗を知るはず 集金人
「オレとこ 母子家庭で テレビがありません」と 吉田君が 答えると  
「部屋 見せてみ」と 特権の  NHKは いつでも素敵な アメリカン・スポーツ

吉田君は ドアをあけた 
部屋は 一間  ちゃぶ台だけの 1967年1月の 冬風の日
「いまどき テレビが ないんか おい 母親は!?」と 罵倒の NHKは 夢をあたえる アメリカン・スポーツ
「働いてます オレとこ 母子家庭です」と 体格のいい 吉田君が 怯え 小さくなったので

わたしは
「おじさん ぼくは 病気で 母からも 死んでと 置いてゆかれた 捨て子です 貧乏はダメですか?」
と事実を 言った
「ケッ 捨て子なんか 死にさらせ」と 唾棄の NHKは いつでも正直 アメリカン・スポーツ




▲ 恩師 カトリック クラレチアン会 いつも優しい眼で心くばりをしてくださった ブルネット神父
▼ 家出を繰り返していた 1963年夏、甲子園高校野球。写真、高野山 真言宗 杉谷先生による



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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-02-17