京都昨今
47、 ひとつの星界をかぞえたスピノザ     イジメ論V

1)
同じような対象であっても、視線と思考は、絶えずと言ってよいほど異なり、文化は、それを起因し、発生し、組み立てにより、大きな違いとなって、現れてしまう。

1970年代のころ、母が、わたしを、いそいで呼ぶ。
何かとおもうと、テレビで、台所の14インチに、遠藤周作さんがうつっている。
わたしは、遺伝子のサンプル数、「統計」といった表現が、早いが、遺伝子頻度率を、確立論でもって、採集した実際の数値を用い、わかりやすい、応用数学の方向へもってゆくとちゅうだった。


遺伝子DNAは、ひとつの局面(界面)が現われることにより、構造が変わる。

沼 正作(京大、1929―1992)さんの、「イオンチャネル (ion channel) 理論」は、ラグビーのパスでゆくと、指令系のNo8から、No10はふつうだし、No8から、No1へとゆき、また、No8へもどり、No15まで、スクラム、ラックで、自由に交差するというものだ。
音楽でいうと、ひとつの作品(=遺伝子、細胞)のなかで、「部分転調」は、自然に行われているというものである。

本庶 佑(京大)さんの「クラススイッチ (class switch)」理論は、ラグビーでゆくと、中心指令系No9 No10により、キックで、ボールをタッチラインで割らせたり、ゲームの展開を、進行中のまま、新たなものにしてゆくことである。
音楽でいうと、「転調」であり、二部、三部形式の「楽式」で、このほうが、ふつう、分かりやすい。

遺伝子がもつ、免疫の界面(抗体力)は、いくつかの遺伝子頻度率の変化をみていると、伝染病などで、その界面が切られ、生物の極相がかわる。

2)
台所にたった、母は、小さなテレビをにこやかに見ている。
わたしは、神戸で育った遠藤周作(1923― 1996年 73歳)さんと知己なのかと思いながら、
「見ている時間がない」と言い、自分の部屋へもどろうとした。
母が、「いい、お爺さんになって」と言う。

『いい、お爺さん?』わたしは、「狐狸庵閑話」だけは、電車で読まない事にしていた。買うと、すぐ読んで笑ってしまうからだ。

そう思いながら、「40代で、お爺さんだと、いくらなんでも、早いじゃないか」と言ったが、母の視線はテレビへ行っている。
どうもわたしの視線と合わない。
遠藤周作さんは、灘高校のグランドにおり、母が見ているのは、校舎に立っている老人の先生のようだ。
「だれ?」と聞くと、
「勝山さん」と言う。

テレビにはお爺さんが。
播州、印南郡西神吉村で言われる、「神戸のボンクラ学校」の先生、勝山正躬さんだ。

「お爺さんって? 勝山さんは、昔っから、お爺さんだったじゃないか」とわたしは言う。
勝山正躬(かつやま・まさみ 1912−89年、77歳)さんは、大正元年生まれで、平成元年亡くなられた。

母は、若かった、昔へと、自分自身もうつし、なつかしがっている。

それで、わたしは幼児の時を思い出し、「勝山さんは、40歳から、お爺さんだったのか。60歳すぎたのか」と言った。

なにしろ、父方は、祖父、祖母とも、先祖のイエの前にある「寺」が嫌いで、盆にしろ、祥月命日にしろ、トコトコ歩けるようになった、わたしが、ひとり、花を生けに行っていた。
わたしが、境内に入ると、勝山大僧正は、文机から立ち、縁側から、わたしを、黙ってみる。

わたしの育ったイエの前が寺のため、お経の文言は、聞いたことがあるけれど、言葉をかわすのは、母か、叔母で、父もわたしも、お辞儀をするだけで、言葉を交わしたことはない。

いつも、水戸黄門さまのような茶の半纏をきた装束で、手は、後ろで組まれ、にこにこされていた。
わたしは、「坊主の、お爺ちゃんだ」ぐらいの意識しかなかった。

法事のとき、叔母が「皆、忙しいから、一番高くてええから、一番短いのにして」と注文をつけるが、1961年夏、神戸のポンクラ高校の生徒が不祥事をおこし、勝山正躬(京大卒)さんは、わたしのイエの法事に三時間以上遅れた。

親戚は、教員か、経営者だらけなので、「いつも、朝一番やから、来たのに。盆で忙しいから、帰る」と、栗山一族は言い、父と母たちは、謝罪ばかりしていた。

父も叔父たちも会社といい、聞き手は、小学三年生のわたし、一人となった。
それでも、勝山正躬さんは、三時間半のフルコースをしてくれた。

3)
遠藤周作さんが、留学された土地、フランスには、先に、「笑い」を研究したベルクソンがいた。
ベルクソンは、『笑い』を分析しようとしたけれど、ゆたかな表現すらできなかった。

ベルクソンは、従来の哲学分野であれば、哲学者で一番、といっても良い、美しいフランス語で表現できた。が、「物と心」という、対立する、二つをあつかう、『物質と記憶』においては、フランス語での表記も、困難をきわめ、論理的な思考表現はできなかった。
ベルクソンは心身論を、
1 「心(こころ)と身(からだ)の二つ」ではなく、
2 「心身、ひとつ」として、関連づけ、展開しようとし、整合した、表現へと、成功することができなかったのである。

しかし、ベルクソンは、どこまでも、誠実であろうとした哲学者だった。
ベルクソンは、従来の哲学や科学にたいし、数学でもって、科学の仮説や価値とか、わけがわかっているような表情で、ひとつも理解していない表現をした、アンリ・ポアンカレを、「軟弱、ポアンカレたちは、偽者」としたかったのだろう、
ベルクソンは、「時間―空間論」だけは、「時空はいっさい連続なもの」と見抜き、言明した。

4)
理解に苦しむが、科学哲学の大森荘蔵さんの、「羊羹論」が、いまもって、「微分」では、新しい雰囲気のようだ。

大森荘蔵先生の奥様は、とっても明るく、
「ウチの主人が、そんなに、偉いだなんて、あははは」
「そんなこと、誰もいいませんよ。あははは、もうすぐ、帰ってきますよ」と、たのしく笑いの声をあげる方だった。
二回目の電話も奥様が出られ、「あはははっ。いますよ」と、明るさに、かがやかしさがある。

「大森です」と大森荘蔵先生が受話器をとられて言うと、「あはははっ」と奥様の声が受話器から聞こえる。

なんだか、こういった、情況って、はじめてと思いながら、わたしが自分の名前をいうと、大森先生は、「はい、大森です」と言い、受話器の近くの奥様は、健康的にまだ笑われている。
この信頼関係がある大森先生ご夫妻と、わたしとの会話の空間は、非常な広がりがあり、測定すること、また、分けることも無理である。


大森荘蔵さんには、1982年、東急渋谷店で、「とらや」の、夜に切り口から、白さをみせる「夜の梅」はじめ、色とりどりの季節の羊羹を持っていった。

それで、カラフルな羊羹で、哲学をした。
「時間というものは考えることができる。しかし、カラフルな羊羹であっても、羊羹の時間は切ることはできない。羊羹をたとえとした時間の『切片』は不可能です」
と、わたしは、放送大学準備室の大森荘蔵さん61歳に言った。
「そう、そのとおりです」が、大森荘蔵さんだった。
この後、わたしは、一元論でもいいですが、「切片」分析をしてゆかないと、科学は、わかりにくく、進展しにくいですと言った。

5)
ベルクソンの果敢な挑戦と表現があっても、帝国主義者だらけのイギリスの上流階層たちは、売文業者、錬金術師ニュートンに、調子よく、合わせた。
自称、偉いといい、サロンで、活躍する人に合わせておけば、保身の生活は大丈夫だ。

ニュートンは、難しそうだったら、知性の乏しい、数学、物理屋をごまかせると、まさしく、呪術の本場、エジプト、インドから中国を参考にして交ぜていった。

「リンゴをかじると血がでませんか?」という、歯磨きの宣伝があった。
素朴な哲学者バークレー George Berkeley は、
「ニュートン君。ぼくには、木からのりんごが、枝に当たって、落ちてきて、偶然、ポカンと頭に当たって、痛いんだ」
「りんごの大きな木が、突風で、折れて、当たって、怪我をしたんだよ」
とのような事をいい、ニュートンの、科学での捨象法、収斂法を理解しようとしなかった。
ただ、ニュートンは、錬金術だけでなく、処世術にもたくみだったと言える。

「微分考」だが、微分は、星界からの、データ(所持)だと知ったのは、歴史を、歳月順に追うと、スピノザ Spinoza の弟子、ライプニッツ Leibniz に優先権がある。

なのに、ニュートンは、まったく、だれを、スポンサーにしたのか、また、どこの広告会社に勤務したのかと思わせるような宣伝術まで使った。

6)
「アインシュタインを講義したりしますけど、アインシュタインみたいなもん、何言ってるか、わからしませんで。わたしも、湯川秀樹さんも、わかりませんもん」とか言われていた、中村誠太郎(東大教授。京大卒、2007年1月、93歳)さんが亡くなられた。

すれちがいの縁ともいえる編集者が、自信なく、「おじが、中村誠太郎と言うんですけど」と言う。
わたしが、「誠太郎さん」と言うと、仰天して、「だれも、わからなくって」と言ったのが、10数年まえだった。

湯川秀樹さん一派は、数学のまえの、算数が苦手だから、仕方がないかと思いながら、アインシュタインは嘘ばかり言っているので、舌を出した写真があるのだろうとわたしたちは言っていた。
いま、京大の物理学の教授夫人(妻の中学の後輩)は、常識があって、「ウチの、物理も数学も、わかって、ないんですよ。学生さん、可哀想だと、おもいません?」と、わたしに言うので、優しい人でしょう。学生には、優しさが大事ですと言った。


断定してかくと、数学は、新しい問題(命題)を解いてゆくのに、必要なものだが、しだいに、複雑化していってゆき、自然にできたのではなく、作り上げると目立つというソロバンで、算数をする人がふえ、「数学」は「打算学」となってしまい、自称、数学者自身も時間が経てば、自作の数式が、理解できない状態になっている。


7)
「数学的認識の本性 」 G.I.ルザービンの表現がいいとおもっているとき、「君たちは、ぼくより頭ええやんか」と、数学会員制高級クラブ「ニコラ・ブルバキ Nicolas Bourbaki」の手法を使って、知性は低く、プライドだけは高い学生の心理をつかんだ、森毅(もり・つよし、京大教授、東大卒。1928−)さんは、1980年代はじめ、駅前の水嶋書店で、本を買っている、わたしの側に何度もよろよろきた。


わたしは、京都競馬場(淀)の、白髪の老馬がなついてきたのかと思った。
わたしは、数学の、生涯学習でなく、商売学習しかできない爺さんにみえた、森毅さんから、離れることにしていた。
わたしには、70〜80歳ぐらいの人に見えたけれど、あのとき、森毅さん、まだ、50歳代? 嘘のよう。 

森毅さんは、「数学制度」をわかったふりして、「学校(大学)制度」もわかったふりをしている。

数学は、アラビア人の金儲けのためだし、学校は森毅さんのような、ズボラ怠けや帳面屋の金儲けの場所なのに、学校(大学)では、いろいろ、学ぶことがあるとか、のたまう。

いま、近所の大学病院で、わたしの高齢な母に、「わたし、数学の」と言っている森毅さんだが、同じ病院の、高齢婦人が「奥さん、良く、数学の難しい話が、わかりはって」と言ったという。
わたしの母は、
「いえ、何、言っているかわかりませんけど。わたしの次男、小さいころから、数学は、もっと、何を言っているかわからない子でしたので」と。

8)
数学者からの指摘だが、村上陽一郎さんが、岩波『図書』の「科学哲学の窓」での表現に誤りがあると言っている。(1999年2月号、3月号)

北大の北村正直さんは、村上さんは、△t → 0を理解せず、微分の極限値と数列を一緒にし、村上さんは、数学科学者を批判しているという。

東北大、数学の黒木玄さんは、一定の時間が、定義されたとき、概念化された「速さ」からの、「時間幅がゼロ△t → 0でも移動距離はゼロにならない」という村上陽一郎さんの間違いを指摘する。

九州大学(理)の藤永茂さんは、大森荘蔵さんや村上陽一郎さんのような哲学者は、時間の「無造作な区分割り」の習慣に染まっていて、「物理学者」とは違う、時間に関する議論に関し、哲学者は「物理学者」よりも優れているというが、おかしいのではと、正しい指摘をしている。

数学者たちに、大森荘蔵さんや村上陽一郎さんは、自分たち哲学者が賢いと、変な考え方をしていると指摘された。

「ニュートンの微分は、見事な三百代言流のペテンとしか言いようがない」
「中学校では微分のこのトリックが使えない」
と言った、ニュートン力学への、村上陽一郎オリジナル・デタトコ勝負文章を、間違いと言っている。
確かに、間違いなんだけど、間違いと思わないのが、エキゾチック村上流・錬金文章術なのだ。

村上陽一郎さんは、書籍を熟読し検討する時間がないほど、忙しいのだ。とってもエライ村上陽一郎さんの論文は、応募規定、枚数さえ、合っていれば、微分なんか、理解してなくても、村上陽一郎著とあれば、なんでも、いいんだというお方なのだ。

数学の諸先生たち。ワルが、バカが生きていてもいいじゃないか。
上野か、多摩の動物園に空きがあれば、入れてやろうよ。

大森荘蔵さんの著作が、理解できないと言う人がたくさんいる。
そんな無謀な考え、大森荘蔵さん自身が、「ええっ、それは、わたくしが、若いころに、書いたものですから」と、説明できないものを、どうして、理解できるのですか。


だけど、こんなに、皆、よってたかって、村上陽一郎さんを、苛めると、年が行ってても、泣いてしまうではないか。
村上陽一郎さんの時代には、「大学への数学」「培風館の精義UB」「チャート式数学UB」がなかったのだ。


村上陽一郎さんは、微分で、「時間幅をゼロ」と仮定する。そのとき、「移動距離のほうだけはゼロにならない」と表現したけれど、これは、科学哲学者は、まちがいとは言わない。
ふーん、おかしいな、いつも読めない、どっかに書いてきたような文章かいて、原稿料が好きなんだな、ぐらいである。

だのに、純真な数学者たちは、村上陽一郎さんは「微分」を誤解している、「実はひどい言い抜け」と批判している。
「バカにバカというと、バカ」「悪い人なんか、成りたくない、でも、お金が好き」って、本郷や駒場近所の小学生が言っていたぞ。

ねえ、村上陽一郎さん、数学者が村上さんを批判していますが、日本の科学史、科学哲学界に、正しさは不要ですよね?というと、「そう、おほほほっ、ほ」との声が。
さすが村上陽一郎さん、笑えるぐらい、元気というと、「おほっ、ひぃ、ひぃ。泣いているんですが」との返事が聞こえるような。

わたしは、この村上陽一郎「微分言い抜け説」の基の『図書』を読み、学習雑誌でもなく、婦人雑誌でもなかったから、はじめ、どこが悪いのかが、わからなかった。
正直、なぜ、こんな比喩、揶揄の表現を、本気で、読むのか、その人たちの心理がわからなかった。


村上陽一郎さんは、「駒場」の学食の蕎麦も、「砂場」の手打ちの蕎麦も、同じと考える、ヘイワ主義の先生なのだ。
知己が、村上さんは、いま、「ICU」にいるというので、病気で「集中治療室」かとおもったら、三鷹の国際基督教大学だそうだ。
聞いてはいないが、デカルトとオカルトのちがいは、わかると思う。

弦楽器で、弦を微分し、ゼロになっても、音楽は聞こえるというエライ先生なのだ。

金がなければ、愛などない。
大きな建物でなければ、大学でないと、きちんと論理思考ができるエライ方なのだ。

9)
「村上の微分言い抜け説」からだが、太陽系は太陽を、基準として、いろいろなパラメーター(parameter 架設点、措定軸)を想定して、学問を進展してゆくことができる。


学問とは、常に、正しい方向ではなく、歴史を振り返ると、間違ったと思える方向に進んでいる時期が多い。

はじめ、「村上の微分言い抜け説」と耳にしたとき、たとえば、太陽系には、惑星として、金星、地球、火星がある。これら、3つの惑星が楕円のような、回転運動をする。

これら3つの惑星が構成する、空間に、彗星や流星が流れきて、惑星と彗星との、「接点」問題において、村上陽一郎さんが、ニュートン力学での、微分関数を援用し、「切片」の思考により、たとえば、惑星との衝突とかを、切り抜けられると論述したのかと思った。

実際に、太陽を、「パラメーター」の基準(措定軸)としたばあい、太陽も運動をおこなっているから、いいかげんなパラメーターで、そこへ、金星や、地球、火星が所持するパラメーターを構築し、措定としての、計測が可能な空間での、接点、切片問題の回答のひとつかと考えたのである。

しかし、村上陽一郎さんは、過去の論文等で、欧米のアジテーター的科学論を紹介、要約ばかりだったから、そういったことはないだろうと思った。

10)
ニュートンは、40歳をすぎて、1680年ごろ、第1法則(慣性の法則)の「等速直線運動」を言明したとなっている。

第1法則の発想は、シェイクスピア Shakespeare の 「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet 1595年)」にあるとも考えることができる。

おそらく、冷酷、金拝主義のニュートンも、「おお、ロミオ、愛は、悲恋こそ、障害だらけ、外圧、反対だらけの恋こそ、真実の結晶」と、涙をながし、これは、物理学に応用できると思ったとも表現ができる。

これの論理を、反転させ、周囲が賛成すると、恋は成就する「万有引力の法則」を考えついたのではとも言える。

科学では万有にみえても、ニュートンの「微分学」は、シェイクスピアの「文学」には負けるとも言える。
1970年代の、女学生の大半は、「訳がわからなくても、素敵で、優しい、村上陽一郎先生に、習った方が、いいもん。ぺちゃくちゃ、しゃべっていても、怒んないし」と言っていた。

ロミオとジュリエットの脚本は、紀元前エジプトの女王クレオパトラとカエサル(シーザー Julius Caesar )をめぐる悲恋だと言えないことはないし、15世紀の「アーサー王の死」The Death of Arthur からとも言える。

微分学は、ライプニッツも正しい。
ただ、ニュートンの方が、よりわかりやすく、より正しいだけのことである。

村上陽一郎さんの年齢を、「積分」すると、仰天、70歳超。わたしとの出会いから、30年、ギョ。
学会とやらの、わたしの、となりの席に、水色のデニムの上下、ジーンズ姿で、すわられてから25年、ドコン。
おそろしい、歳月。

11)
若い科学史家たちへ、「近代科学の形而上学的基礎―コペルニクスからニュートンへ 」  Edwin Arthur Burtt
(訳) 市場 泰男。
バートの科学史は、非常に、よくまとまっており、テキストにしてよいほど、ニュートンの認識も確かで、文章も、明確のため、原典での、暗唱をすすめる。

注意は、西洋哲学の規範は、宗教の関係か、時間の構築である、歴史が、前(未来)から、約束され、現われるということになっている、それらへの批判、検討のため、フォイエルバッハの視点を学び、エルンスト・マッハの入手できる原典の断片に当たってゆくようにすればいい。


村上陽一郎さんは、いっぱい、本を、アバウト、アットランダム、アカウントマネーにかく科学史のお方である。
ジイドの「 贋金つくり」の精神とは無縁のひとである。

村上陽一郎さんは、科学、科学技術批判をしている。たとえだが、見知らぬ人が、道でころんでいたり、交通事故や暴力で、生命の危機に出会っているとする、彼、村上陽一郎さんは、助けるようなことを、決してしない人である。

科学哲学での学問上の不正を見つけても、同じ。人助け、正当な審判など、村上陽一郎さんにはない。自分自身をとりまく、限られた特定の人たちは認識できるが、隣接する他の人たちへは、まったく、関心などない。

自分を大事にして、好きな事、「お勉強」などをしていれば、親から何の干渉もない、環境に育った。小中学校時代、親友というのもできなかった。


村上陽一郎式、「ゼニの微分方程式」をまとめる。
「講義、講演の時間」が△t → 0へと進行したばあい、「講義、講演の料金=ギブ・ミー・チョコレート+∞18金」が、村上陽一郎流・唯物・金物・思考である。


1 「我思う故に我あり  コギト・エルゴ・スム」と、デカルトは言った。
2 「我は思考し存在する  エゴ・スム・コギタン」と、スピノザは言った。
3 「我凡て三鷹で錬金術をする スム・パンセ・ミタカン」が、村上陽一郎さんである。

三鷹の羊羹でなく、三鷹の洋館に住んでいると、村上さんの教え子がいう、「村上陽一郎」さんを「微分」すると、1989年 東京大学先端科学技術研究センター教授となっている。

いま、駒場のようだが、発足時、先端研は、本郷の東、裏ではなかったのではと? 
ボロボロの杉板塀に、黒の墨で、「先端科学技術研究センター」と、書いていた記憶が。

東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ   「菅原道真」

東風吹くと  塀が倒れる 先端研   給与なしとて  労をわすれそ     「松田薫」




▲ 祇園白川  白梅 (写真:松田薫)
▼ 鴨川  デカルト ユリカモメ 
(写真:松田薫

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-02-08