京都昨今

 
46、卒業式より、華やかな、1961年の小曽根小学校     イジメ論U

1)
上の写真は、わたしが引っ越すということで、1961年3月22日の、豊中市小曽根小学校で、開かれた、お別れ会のものである。
お別れ会は、嫌だと言ったが、PTAの人たちがするというので、6年生の卒業式より、おだやかで華やかなものとなった、2年生のお別れ会となった。
1961年春、大阪、阪急宝塚線の小学生の装束、風俗がわかると思う。

小曽根は、天竺川の松が自慢なのか、校歌にもよまれている。
とうじは、旗日もだが、小曽根小学校の正門前に、「西福寺」との関係だろう、行事の仕出屋さんがあり、「紅白饅頭」に「赤飯」など、用意をしてくれていた。

まだ、直射日光禁止、体育は禁止だった。こういった記念写真が嫌なのと、長いネフローゼ疾患との闘病で、授業は、午前中ほどで、あとは、イエで、安静状態の生活のころだった。立っていて、呼吸をするのも、苦痛なころだった。

2)
入学してすぐ、わたしに画用紙の使い方を教えてくれた、前の席の、やさしい女の子が、トラックにひかれて死んだという、嫌な思い出からはじまった、豊中市小曽根小学校だった。
この出来事は、わたしの大きな心の痛みとなった。

同じ、1960年、7月、母方の祖父が、姫路から、日本一の外科執刀医がいた、大阪市立大学病院へ、運ばれ、ガンの手術を受けたが、逝った。
父は、黙っていたが、5月には、父方の祖父が、神戸大病院で、胃ガンの手術を受け、12月に、印南郡米田町としての独立失敗の責任をとるように、逝った。

小曽根小学校では、出席の回数が多くなるにつれ、友人がふえた。
わたしは、放置しておいてくれれば、小鳥や猫と、自由に遊ぶ性格をしている。

兄にいちど、服部緑地公園へ、釣りへ連れていってもらった。兄は、わたしの、「守(もり)」と言い、母から、100円もらい、自分は、竹の釣竿、一本15円のなのに、わたしには一番高い20円のを買った。
エサのゴカイは、とうじから高価で、キャビネットに入っていた。スライドから出された赤いゴカイを見て、わたしの苦手な虫と思い、寒気が来た。兄は、サナギにも、それぞれ10円だして買った。

わたしは、兄が釣り上げた、釣り針に、ひっかかった鮒をみて、「かわいそうだから、止めて」と言って、釣りは止め、緑地公園の池の坂を、板切れや竹切れをつかい、すべって、遊んでいる、同級生や下級生とまじって、あそび、池の中にはまった。
「魚が逃げる」と兄が言う。
小曽根小学校の後門、天竺川よりに、小さな池があり、鯉と鮒がいて、わたしは、「おいで」って、遊んでいたから、意味がわからなかった。池が澄んでから、わたしが地面をトントン叩くと、鮒がよってきたのを見た、兄は、一瞬、奇妙な光景とかんじたようだった。
が、いつもの変わった性格をしている弟と判断したようだ。


3)
人をイジメたり、差別するのに、言葉があるが、宝塚沿線の服部は、いわゆる標準語に近い、わたしたちが「宝塚言葉」というものだった。
宝塚があり、庄内音大(大阪音大)があるので、この付近の、音楽の水準は高い。

とっても、意地悪だった、松本菊子先生だったが、写真だけで見ると、この先生の性格を知らない人は、美人という。
小学生、中学生にとっては、先生の人格が一番大事なのだが、宝塚歌劇団出身と言っても通じる、そんな先生だった。松本菊子先生は、鳥や猫とあそぶのと同じく、友達がふえてゆく、わたしを、ただ、見つめるようになった。
蝶ネクタイが、バイオリンをしていた友達の野田君で、野田君はへだたりの無い性格をしていた。


わたしの妹は、わたしが入院していたので、幼稚園へ行けなかったと、まちがった、記憶で言う。1960年、妹が幼稚園のとき、近所に、守口のサッちゃんがいた。この子が、体格が良く、意地悪だったので、妹は幼稚園へ行くのをやめた。

近所に、論理を忘れる、おばあさんがいて、1960年秋、わたしは、家の軒に蜂の巣があった、サッちゃんを、足長蜂からの集団攻撃から、まもった。
わたしは、首に刺されて、泣いた。これをみた、意地悪ばあさんが、「泣きっ面に蜂」と言うので、わたしは、「大きな蜂に刺されたので、泣いている」と言って、医師へ持参するつもりだった、蜂を、地面に捨てた。

わたしの母は、こんな意地悪ばあさんにも、「お騒がせをして」と謝罪する性格をしている。そして、とにかくお医者さんと、小曽根から、天竺川を下ったところの医院へ行った。

刺された跡が大きいので、冷静な、医師というのか、わたしに、スズメ蜂かどうか、念をいれる。
わたしが体長3センチぐらいで、「く」の字状をした、脚の形の絵を描くと、安心した表情をして、ほほえんでくれた。
いじわるなサッちゃんの父親は、蜂の、出来事を知ったのか、わたしと目をあわせたとき、すまなそうな顔をした。

服部の小曽根での、できごとだが、1960年暮、わたしが、ようやく30メートルぐらい、ふらふら自転車に乗れるようになったとき、「蜂」の出来事が記憶にあったのか、小さな女の子たちが、
「お兄ちゃん、助けて、滑り台で」「ネックレスが、首にひっかかって」と説明をする。
わたしは、ようやく乗れたと説明したけれど、
「首が、つって」「窒息、死んじゃう」と言う。

周囲に大人が居なく、小学校まで、200メートルほどはあるけれど、子供用の自転車で、小曽根本通りの南の道を行った。とうじは、土道で、ぬかるみがあり、でこぼこだった。

小学校まで、70メートルぐらいのところで、わたしは田圃へ落ちた。自転車の前輪部分が、ちょうど、田圃を、鋤いている牛の、後方の脚の間にはいった。
馬とちがい、黒の牛だからと思って、黙ったまま、じっとしていると、牛を使っていた、お百姓さんのおじさんが、来て、黙ったまま、わたしを自転車ごと、道の上へと、持ち上げてくれた。
お百姓さんに、なにか、すごい、力をかんじた。

わたしは、お辞儀をして、「ありがとう、ございます」と言って、小学校へ向かった。
小学校の、いちばん、東側に、校医室があったが、その近くに、三方向から昇れ、滑れる、すべり台があり、頂上部分の持ち手に当たる部分の、金属に、ネックレスがひっかかっていた。

わたしは、先生と、高学年の小学生がいるのにと思いながら、女の子の首から、ネックレスの止め具を外した。
夕方になり、小曽根幼稚園へ通う、わたしが助けた女の子と、母親がきて、
「おかげで、助かりまして。ネックレスなど、もう、させません。死んでいたかもしれません」と、礼に来た。
わたしは、近所の子供と知った。

そして、妹に、礼儀を知っている親子がいるのに、なぜ、幼稚園に行かなかったのかと言った。
このあと、三学期に、父兄会(授業参観日)があり、校舎の入り口にとうじは、金属製の足拭きがあり、小柄な同級をかばって、わたしは下敷きになり、顎を切った。
カーネーションの母の日、赤い羽根の日。そして、父兄会は、母子家庭の子供にとって、残酷なもので、小学生のときは、妹がいるので、母が知るが、中学生以降、わたしは、いっさい、告げることがなかった。

わたしは、わたしを田圃から、自転車ごと上げてくれた、農家の人に、礼とおもって、朝、学校のとちゅう、兄をふくめ、田圃の整理を手伝ったら、つぎの日、「とんと」(播州地区も、当時、「とんど」ではなく、とんと)で、焼き芋をつくってくれていた。

4)
イジメ解決のためというのなら、良い教育環境というのなら、「分校」が一番いいかも知れない。
5人から30人ぐらいの生徒に、2人から3人の先生がつく。
しかし、じっさいの問題である。教員と生徒の関係は密接になるようなかんじがする。が、調査すればすぐわかることだが、過疎地の分校へ赴任するのを嫌がる教員の心境自体、精神にストレスがくるのだから、ここで、教員にたいするイジメは、生じる。
イジメによる、生徒の自殺の報道があるが、わたしの周辺でも、ずいぶん在った。が、報道はいっさいされていない。

大都市などのばあい、昔の欧米と同じく、優秀な、教員が、裕福な家庭の子供へ、個人教授の形にすればいいとも思う。が、教員自身、自分で自分自身を苛めるイジメが出てきたら、どうするのか。

義務教育だが、真実として、小学校は、道徳と、栽培、技術家庭、保健、算数までで、充分だし、中学校では、薬草学、林業、漁業、衛生学を必須にし、半年に一回ぐらいの、卒業検定を、考えればいいことだ。

ひとの性格をかんたんに、○×の、二とおりの区分をするならば、
○   いじめっ子
×  いじめられっ子
の二通りが、あるとするならば、いま、社会問題となっている、イジメの大きな原因は、学界、司法、立法、行政、教職が、すっかり帳面屋ばかりの「いじめっ子」「いじめられっ子」の両方で構成されているところに原因がある。

また、
○  好かれっ子  気がつく子
×  嫌われっ子  気がつかない子
の二通りも、わかりやすいとするならば、司法、立法、行政と教職に、「嫌われっ子」がついていることによる。

また、体格、容貌、勉強や仕事のできる子、金持ちの子の分類を加えると性格分類はしやすいかもしれない。ここに尊敬を加えると、ずいぶん異なってくる。
また、兄弟でも、ずいぶんちがう。

5)
昔、わたしが生まれる一年まえ、1950年、京都で知事と市長の選挙があった。
知事には勉強があまり好きでなく、学問もさほど好きでない蜷川虎三(元、京大教授)さん。
市長は文武両道の高山義三(弁護士)さん。

どちらもが、好かれっ子、気がつく子だっただろうが、圧倒的となれば、正義感が強かった高山義三さんなのではないか。
こういった人が、教員であれば、イジメがおきることもないだろう。

政治家は、本来、世間、国民によって在る。これら生活民は、農作の時代も、経営をする庄屋(大家、豪農)、実業家(豪商)によって、決まってくる。


また、昔、1968年、参議院「七夕選挙」というのがあった。呼称は、開票日が7月7日のせいだ。

石原慎太郎さんが政治家としてデビューしたときなのか。選挙カーがまわってきたとき、予備校の、京大の数学のドクターが、
「あの人と、わたしとこの一番上の兄と、同じ年ですわ。わたしら貧乏人の子は、黒板に向かって、数学、教えな、あきませんけどな。わたしら、子供のとき、裸足でっせ。兄貴のときの、旧制一中(洛北)ですけど、戦争で、中学も高校もなくって、あの石原さんってお方は、先祖代々、ええとこの、学習院出身ですか。苦労しらずで、いいご身分で」といった言葉が記憶にある。

わたしたちは、石原慎太郎さんは、新制の一流高校を良い成績で出られ、一橋大学の経済、公認会計士合格と聞いていたので、何を言っているのかとおもったら、京都流の嫌味だった。

京都府警は、深草周辺に警察学校、警官住宅があるが、「選挙違反、摘発」と、春から、本庁(警視庁)発令だった。
年譜などとちがい、特殊部隊(SAT)の類は、1960年代に自衛隊を軸としあった。
京都府警、選挙違反摘発係は、「七夕選挙」にむけ、内偵に徹した。

1968年7月7日 開票となり、逮捕したとき、本庁発令、「逮捕中止」。
クラブもいっしょだった、級友は、京都府警、能勢刑事たちを、
「なんのための、3ケ月間、秘密で、同じとこで、寝食して、逮捕計画、やったんや。ワシらを、バカにするのも、ほどほどにせい言うて、お父ちゃんら、泣いててん」と情況を言ってくれた。

警察での、上下は、権威という管理上の、どこまでも、指揮上のものである。
権力と身分の差などを言い、正しい言動は曲げてはならない。
市民にとって、生命をまもってくれる、警視総監も、若い一人の警官も、まったく、同じでなのである。
この基本を忘れているのが、日本はじめ、世界の警察である。

このときに動いた、政治家、実業家の大半は、最近まで、生存していた。
自由な作家、吉行淳之介さんに、「友人の死の悲しさがわからん、お前なんか、葬式に来るな」と言われ、文筆家に、灰皿か、焼香鉢かを投げつけられたという、御仁はまだ、健在のようだが。
そして、これが、現在の不況と同じ構造の形で、出てきている。

6)
このころ、1968年ごろ、活躍された学者に、小曽根のそば、吹田市の国立民族学博物館の梅棹忠夫さんがいる。
昔は、インタビューの時間を、朝日新聞などと、平等に割かなかったと聞いていた「毎日新聞」や、小さなメディアや、にも答えている。

梅棹忠夫さんは、1960年代、「日吉ケ丘高校」に通った息子さんが、下京区の生徒に「女言葉」と言われたという。
梅棹忠夫さんとやらは、京都の解説の本をかかれていて、東山の南「日吉ケ丘高校」の性格をわかっていないのではないか。
「日吉」は、京都府警の警官住宅の子弟が多かったと聞いている。そのため、剣道が強い。

これら、とうじ、梅棹忠夫さんの息子さんに向けて言った表現は、激しい、男言葉というより、父親が、京都府警勤務の、男子が使う、標準語だとのことであると、わたしは聞いた。

国や、実業家からの労働者の金で、ぜいたくに調査した、梅棹忠夫さんには、フィールドワークをする精神があるのだろうかと疑問をもった。

今西錦司さんの愛弟子、梅棹忠夫さんの言葉。京都の友人が、梅棹忠夫さんたちの言葉だけが、おかしい、「あねさん言葉」というか、歌舞伎の女形言葉ともちがうと、わたしは、梅棹忠夫さんの近所の級友たちに教えてもらった。
梅棹忠夫さんとやら、金を、国民、労働者へ、返せ。

7)
「米国の傘に入っとったらよろしい」と、時勢をよめない梅棹忠夫さんが言っている。
わたしは、この、国立民族学博物館を、「こくりつ」ではなく、「くに〜たちの〜」と読みたい。
民族学博物館を「みんぞく・がくっ・はく・ぷっつん・かん」と読みたい。

「今は、もし外敵が来よったら、米国に排除してもらうことになっとる」と、「雲の上」の梅棹忠夫さんは極楽なことを言っている。
その米国がきて、ずっと、嫌な目にあった、沖縄の人々をどう考えているのか、北海道の人たちや、日本海側の人たちの恐怖感など、梅棹忠夫さんとやらには、ない。

梅棹忠夫さんが、民族学の専門ならば、各、民族の思考を、抽出し、予想をたてることができないとダメではないか。
国家や、市民の税金をつかって、何をしてきたのだろうか、「民族学」という学問とやらは。

日本の民族学は、実業家渋沢栄一さんの孫、渋沢敬三さんの援助によるところが大きい。

民博の開始の約束は、イギリスの精神をみならい、展示品は、子供たちにふれさせ、他の民族を、子供の新鮮な知覚で、他民族の文化を共有させ、新しい文化創造へ、とが主張と課題だった。
わたしは、東南アジア館は、1970年、万博のまま、そのまま、置いて欲しいと希望を言ったのだ。
研究所の、窓口を多くして欲しい、と希望を言ったのだ。

ところが、子供も大人も、触れないようにした。協力した、年配の民族学者は、梅棹忠夫さんの判断に、怒った。

8)
国立の博物館を私物化しているようなかんじの、梅棹忠夫さんは、
「核競争を始めたら、世界は破滅の道や」と答えたという。
こんなことは、誰もがわかっているのではないか。

また、いまの首相をわらう。それなら、あなたが顧問か編集かの、『民族事典』で、なんだ? この記載はとおもうと、「和崎春日」氏となっている。梅棹忠夫さんより、旧制一中(洛北)で良い成績だったと、それだけが自慢で、誤訳だらけと指摘されている、スワヒリ語の、和崎洋一さんの息子ではないか。

梅棹忠夫さん「デタラメの事典つくったら、人類学は破滅の道や」と、なぜ、意見できないのだ。

戦争などを、避けるようにするのが、「民族学」という学問の特性ではないのか。

まあ、梅棹忠夫さんは、1950年ごろ、自称、安田財閥や、大倉財閥の、ええとこの坊ちゃんのように、吹聴されていたと聞いているので、おそらく、すべて、自費だと思いたい。

親の散財は、梅棹エリオさんか、マヤオさんか、トリオさんか忘れたが、子孫がつぐなうのだろう。

梅棹忠夫さんとやら、質問だ!? 「米国」というが、どこの米国なのか。
米国の傘といって、傘の下の日本は、放射線爆弾がいっぱいで、さらに今後、ふえそうではないか。

米国に傘があるのなら、NYを中心に思いたいが、ロックフェラーを中心として成立してきたNYも町が崩れている。
米国の上流階級は、とっくに、米国の位置を変えたではないか。
これはロスチャイルドも同じだ。

東大、「東文研」の松井健(まつい・たけし)さん。ほこりあるエチオピアが、松井健さんの専門領域へ、戦闘機を飛ばしましたね。
松井健さんの、「東文研」への、赴任は知りませんでしたが、本郷の博物館で、「鳥居龍蔵展」には、驚きました。
京都では、「清野謙次展」では、多少批判がおきたのに、東京帝大辞職までの過程の説明がなかった。

犯罪ということであれば、鳥居龍蔵のほうが、格段に大きいと、わたしは習った。
この知識の伝達のなさ、この情況が平和なのかも知れないですがね。

アムハラ語使用のため、世界言語となった、英米語の理解は働き、欧米が操作をしにくい国家のひとつエチオピアのことで、原因は、エチオピアを検索すれば出てくる。

いまの世界情況は、梅棹忠夫さんと小松左京さんの、弟さんたちが共に勤務した、日本の会社も関係している。
自分たちだけが良ければいい、これが平和で、これがいいことなのだろう。


9)
2005年9月、ハリケーン・リタにつづき、10月、ウィルマで、大災害をこうむったとき、かれらは、ペットも同じ生命であると、神をしんじ、死を選択した。かれらの勇気、この現実を、梅棹忠夫さんたちは、どう見るのかと思う。

アメリカ合衆国は、プロテスタント精神が大きい、3億人のうち、1億人が、「医療保険制度」も放棄し、敬虔なピューリタンニズムで、死の選択をしている。

人口調節がうまい、西欧3億5000万人も、21世紀は、人口の3分の1が、生存への危機をかんじている。
原因を加速する要因は、西欧言語を、母国語にされた、南半球が、「奴隷ではない」「農地の使用料金だけでも」と、あたりまえの、抗議をしはじめたからだ。

アメリカの政治家に実業家は、また、才能と犠牲の精神がある、白系ロシアに、フランス、ドイツ、イギリス人も、移民すれば同じと考えているのかも知れない。


中国大陸の北部と南部、海岸に面した都市部からの交流と称した、力による文明化は、政治による統一で、漢時代に統一で「1億人」と増加するが、内乱や伝染病がおき、隋と唐時代で、生物でいう極相がおき、人口が「5千万人」という単位になった。

19世紀に、人口が4億人に達し、欧米に脅威感をもたれた、清朝は、帝国主義のイギリスにより、アヘン戦争を計画された。

中国大陸は、統治により、人口は、1930年ごろの5億人が、いまや、海外流出をふくめると、15億人という巨大な単位である。
生物での「極相」が、帝国主義の、機械、伝染病をつかった、戦争をおこせば、「ゼロ」に近くできるが、これでは、中国がめざす経済国家も成立しない。

10)
中国より、危険なのは、地球の温暖化を考慮するなら、インド大陸の東西を考えると、これも15億人単位となるが、「温度の特性」、人間の極相を考えるならば、いまの、「人類」「家畜の数」をふくめての、インド大陸の加熱状態のままだと、病原菌の抗体が特定できない、熱により伝播するウィルスが流行すれば、膨大な数が犠牲となる。

その端緒が、鳥インフルエンザや、牛海綿状脳症(うし かいめんじょう のうしょう)BSEかも知れない。
食生活の中心たる、肉食の「食」が両刃の剣となった。


日本は、聖徳太子(574―622年)の出現により、象徴という、直喩の形から、離れる、政治形態を所持した。

聖徳太子の存在が、確かか、不確かか、そのような問題は、ひとびとを、国民を維持するという考え方の前には、消滅する。
聖徳太子が仏教を選択したというのも、ひとつの形相である。

天智天皇から聖武天皇の時代は、争いが続いた。「大化の改新(645)」は、親族の争いであり、天智天皇は、都の変遷を模索した。
山城町、木津、加茂町の山々に木津川がある。

ここの地勢は、山から山への、「幟(のぼり)」「煙」「松明」による、情報の早さに優れる。

が、反対に取られると、不利になる。また、木津川の氾濫の恐ろしさがある。
防御には最適だけれども、結果、事実というか、「壬申の乱(672)」などにみることができる。

聖武天皇の8世紀の時代は、「大和飛鳥」「大和三山の藤原京」と模索しても、内乱につぐ内乱がつづいた。
「長屋王の変(729)」「藤原四兄弟、天然痘で死亡(737)」「藤原広嗣の乱(740)」。
これらの地勢と距離だが、とうじの人は、一日で、走破してしまう。

ご自身の論文を、梅棹忠夫さんは、「日本が、欧米の機械文化との並行」「書けている」との批評をする。
機械文化が平行すれば良いのだろうか。

わたしには、梅棹忠夫さんの研究と本で、二回目を、読むものはないのですが。なぜ?
教えてほしいのですが、なんの、仕事をされたのですか?

梅棹忠夫さん、あなたは、コンピュータで文字が入力できないからとで、得意の漢字廃止論を言った。
が、1970年代終り、「東芝」が成功したではないか。

梅棹の忠夫さんとやら、あなたは、技術研究の場所への謝罪がない。
日本から、漢字を無くして、支配とは、GHQ連合軍の意見だった。梅棹忠夫さんは、そのとおりされた。
漢字がもつ形相は、入力に時間がかかるように見え、情報の伝達を早くする。

「日本の町は、バラバラである、町のつくりは、同じがいい」と梅棹忠夫さんは言った。
日本の町という町は、フランチャイズ化したような、個性のない色彩と様式とになった。また、
「歴史上の科学の発見など、すべて消えれば、自分自身にも、創作ができる」と言った。
梅棹さんのオリジナルのなさは、梅棹忠夫さんが、自分自身の頭を使わないだけだ。

梅棹忠夫さんは、「今の日本は、かなりいい状態にある」という。
いったい、どこが良い状態なのか、わたしには、まったくわからない。
社会にいちばん必要な信頼がなくなった。信頼がなくなって、町の活動もなくなってしまった。
同じ製品があふれ、西陣ショックより、激しい不況下、ひとびとは苦しんでいる。これが、いいのか。
梅棹忠夫さん、あなたの、心の目、心眼で、世間の苦しみを見ればどうなのか。

偉大な「鑑真」(754年)が来日を実現し、争い事の多い、奈良の都にきて、仏教を信じるとした聖武天皇は、安心されたかのように崩御された。

11)
松井健さん、あなたは、1980年夏、「わたしは助手ですが、できるかぎりのことをします」と言ってくださった。
いまは、教授だそうだから、これからは、無給、自給自足の晴耕雨読に徹してください。お願いいたします。

あのとき、「季刊人類学」を編集されていた、南山大学、人類学出身の、女史にも、わたしは、
「わたしの生き方に、同情の一片もしないように」と言った。
彼女は、「掲載論文がないので、『雷鳥』で、和崎洋一先生といっしょになり、論文がありませんかと聞いたのに?」と言われ、辞められたと聞いた。和崎洋一さんは、わたしの1979年の論文をもち、黙った。

「季刊人類学」の版元の、ふつうの社員が、存在を知らないと言う。
仕方なく、局長にきくと、笑顔で、銀座で、労働、自給自足と教えてくれた。

松井健さん。わたしは、あの方の、選択された、生き方のほうを、梅棹忠夫さんはじめ、周辺の女史より、尊敬する性格をしています。

もう、いい年齢になられた梅棹忠夫さん。経費がもったいないので、夏は団扇、冬は炬燵と思いたい、梅棹忠夫さん。
わたしは、元、京都府教育委員長山田忠男さんとやらの、法外な欲で、1983年、とうじの金、家族の職も、すべてなくした。それで、学校とやらがある。
いま記載すると、二つが崩壊するので、書かない。

わたしの、ひい婆さん、「つる」は、昭和のはじまり、失明し、ひい爺さん松太郎が、面倒をみた。
仕事は野良作業と学問。食事は、一汁一菜。

ええとこ出と言われていた、梅棹忠夫さん。
フランス文学で、日本語を守ろうとされた新村猛先生の声は、記憶にあるでしょう?

新村猛先生は、20歳をまえにした、わたしたちに、ぼそっ、ぼそっと、話をしてくれました。

「わたしには、これといって、自慢できる能力や才能がありません。学生のとき、学校からのかえり、同級生たちと、文学部のものが、吉田のほうから、三条まで歩きます。皆、議論が好きな世代ですから、議論に夢中になります。京阪電車にのって座りました。

前は鴨川から、淀川です。哲学徒が中心ですが、皆、議論に夢中で、一時間など、あっというまです。京橋につきました。降りたとき、わたしが、一番、尊敬していた、友人が、『君たちは、哲学や文学に興味があるんだろ? 座席のまえに、座ったり、立っていた人がいただろう?』と言います。
わたしたちは何を言われているのか、わかりませんでした。

尊敬する友達は、ノートを出し、四条の駅、伏見の駅、枚方の駅、それぞれに、座っていたり、乗り降りに、交互していた人たち、その動作を描きはじめるのです。風景も描いてくれます。わたしたちは、そういえば、こんな人がいた、こんな光景があったと、描かれて、つぎつぎ、思い出しはじめたのです。

尊敬する友達が順番に描いてくれて、ようやく、わたしたち友人たちが、そうだ、そうだとなりました。それで、『君たち、大切な時間を、何につかっているんだい?人間を観察するのが、哲学だろ、文学だろ、人間観察など、どこでもできるじゃないか』と言いました。わたしと同じく、才能のない、友人どうしは、ぼくたちはダメだと思いました。
わたしは、この尊敬する、秀才とおもっていた友達を、満州で亡くしました。わたしは戦争が嫌いです」




▲1961年3月22日、右端松田。蝶ネクタイは野田君。下、松本菊子先生。
▼1961年3月、豊中市小曽根小学校二年、卒業式より、にぎやかだった、お別れ会。
 左端二列目松田、後ろ母、母の右の小さいのは妹


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-01-25