京都昨今
45、 せつなる春と秋が見えない京都           イジメ論T     

1〕
むかし、大正、昭和初期の「信濃毎日新聞」を、国会図書館のフィルムで、読んでいて、桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)の文章にあたると、このような、直喩表現が、ジャーナリストやマスコミにないと、社会が混乱すると思った。

桐生悠々までもなく、事件記者、町を駆ける、トップ屋が必要な時代ではないのか。
イジメをはじめ、社会の事実を告げる、トップ屋により、町を、健全にして欲しいと思うのが、わたしたちの望みではないか。

桐生悠々は、1933年8月11日での社説に「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」とかいた。首都攻撃をされる、国家は、すでに、戦争に負けているとのことだ。
とうぜんというか、軍部から、厳重な注意をうけた。
結果で、わかったことだが、桐生悠々の指摘は正しく、なにもわからず、なにも意見をいえない、弱い国民に多大な被害をだした、太平洋戦争の結果となった。

わたしは、去年、暮になくなられた、実業家の、諸井虔(1928年―2006年、78歳)さんは認識できていた。
が、「諸井三郎」さんという音楽家が、わからなかった。
昔、作曲家で、諸井三郎さんのは、書かれたもの、個性が、理解できなかったので、この音楽理論がわかっていない、諸井三郎って、誰の子ですか?と、京大オケの山田忠男先生に聞くと、黙ったので、知らないのかと思った。

そのつぎに、わたしが敬遠する池内友次郎(いけのうち・ ともじろう)さんに、わたしの書いたものを、送付というので、「差別感だらけの、池内友次郎さんって、誰の子ですか?」ときくと、これも、権力に弱くなり、権威好きの山田忠男先生は黙られる。
いまは、居ないそうだから、かくが、池内友次郎さんは、吉祥寺住まいで、わたしが知己の編集者の隣だったという。
父親の「高浜虚子」からの手紙が、まちがって、ウチにくるというので、誰の子かわかった。


2〕
なんやら、いまから、戦争でもおきそうな、肩書きがすごい、日本郵政公社副総裁(郵便事業総本部長) の橋俊裕さんという方が、「文藝春秋社 代表取締役社長 上野徹様」との宛書で、「週刊文春」の2006年12月の記事「ドキュメント2 郵便局崩壊 『あなたの年賀状が元旦に届かない!?』」で、抗議されている。
「(株)文藝春秋」の宛名に、文藝春秋社と「社」がついている。

「週刊文春」が、こういった事を取り上げるということは、郵便局の時代が終りにきた事なのかと思う。

日本郵政公社の信用が著しく傷つけられたとのことだが、「日逓(にってい)」など、民間下請けを、使うため、郵便物の流通は、複雑である。
大手、マスコミ業界では、「跡を追いかける」、とかの表現をつかうが、日本郵政公社を利用すると、跡形がわからない。

わたしは、長く、「日本郵政公社」を信じていて、東京都内から、速達でだしていた。
ところが、受け取る相手は、わたしが、いちおう、書き手であるので、普通郵便より、遅いと言わない。

これは、近所の人が、そこのポストは、土日に集配はありませんよと注意してくださったので、わかった。

わたしが、散歩がてらに投函する、ポストの管轄は、世田谷区、成城局である。
それで、連絡すると、「そういったことはありません」という。
実験とおもって、成城局と、経堂の千歳局で、投函した。2度したら、日曜に出した、速達郵便が、経堂の千歳局のでは、翌日。成城局のでは都心部へ火曜日に着く。
時間のムダだから、来なくていい、公表をして欲しいと、断っているのに、課長さんとやらが、謝罪に来た。
謝罪すれば、公表しなくていいそうだ。わたしの時間と金を奪っただけだ。

3〕
太宰治を死へと、心中に追い込んだ、会社とも言える「文藝春秋社」のつづきの会社、「(株)文藝春秋」の雑誌が、こんどは、学者を自殺へ追い込んだのかと思った出来事があった。

「(株)文藝春秋」からの、週刊文春(2001年1月25日、2月1日、3月15日号、文藝春秋)記事にたいして、考古学者が、2001年3月、自殺をもって、抗議をされた。

どのような、過程なのか、週刊誌の記事へ、賀川光夫さんの、ご家族、日本考古学協会が、抗議をされた。
裁判までされた。

名誉既存裁判であるから、裁判は、地裁レベル、学術にはふれず、法律の本論からはずれず、一、二ヶ月ほどで、審判、終了したと、わたしは思いたい。
それ以外、学問となると、かれらは、専門分野外のひとだからである。

賀川光夫さんの前に、「在野」といわれる藤村新一さんによる、宮城県の「旧石器捏造事件」があった。この発覚は、2000年11月「毎日新聞」の北海道支社のメンバーによるとある。

わたしは、「旧石器発掘祭り」というか、出演され、昔とちがい、堅苦しい演奏をされていた、田瀬湖畔の、在野の作曲家、「姫神」の星吉昭さんのことを考えた。
また、在野の岩手県の宮沢賢治が生きていたら、なんて思うのだろうかとも考えた。

宮城の「旧石器捏造事件」があっても、「外野」の、出版社が、謝罪すればいいのに、それなのに、国立の裁判という、ところまで、運ばなければいけないところに、この国の、学芸の弱さがある。
国立の大学の民間化につれ、先行き、国立の裁判所から、人権を重んじる、民間の裁判所となると考えたい。

賀川光夫さんの息子さんは、1984年春、同志社大学の文学部、工藤和男さんの、哲学の研究室で、わたしと、すれちがっていた学生グループの方だと思う。

北海道北見市キツツキ村出身の、いま、工藤和男学部長が、「さっきの学生たちにね、大分の」と言われたので、記憶の断片にある。

出版物を発行する側に、公私の判断がなく、無責任をこえた、傲慢さをかんじる。
編集者と記者側が、創作してゆくのと同じく、学芸の世界も、同じく、比喩、修辞で、創作してゆく。

表現を安易に考えすぎているのではないかと、かんじる。

4〕
いま、WEBで、文藝春秋の社長の上野徹さんによる、若い世代へのメッセージのような、文章をみることができる。

大学生が本を読まない。活字離れ。書籍など本箱に置くと「変わった奴」とおもわれるので、戸棚の奥へもってゆくとかく。
創作のプロだと、言わないと思うが、わたしに、北海道出身の田舎者と言った、上野徹さんは、自分自身もそうだけれど、あくまで、仕事により、なにか書かないと仕方がないので、書いたと言われると思う。
しかし、直喩であろうが暗喩であろうが、表現した以上、責任が生まれる。

上野徹さんは、明治時代に生まれたのかと思う、わたしの父のような、刻みの深い皮膚隆紋をしていて、わたしを驚かせた。
しかも、単純素朴、孤独に弱く、疑心暗鬼で、権威負けする、某作家に言論で追い詰められた芥川龍之介の自殺で、金持ちになった、菊池寛の手のラインと皮膚隆紋とは少しちがう。

手のひらのラインをみて、「大変我慢された」「変わった奴」と社内で批評されていますね、いまの変わったままで、会社員をつづけてくださいと、1991年、わたしは言った。
上野徹さんは、囲炉裏端にいる表情で、だまって、ほほえんでおられた。

極悪人、共犯、日高敏隆さんの愛弟子、わたしの文章を、正確に写せず、正しく訂正もしない、竹内久美子氏とやらが、「免疫」の一端も理解できていない本を新潮社から出版した。

わたしは上野徹さんが、困惑されるだろうと思いながら、出来上がれば、送りますと言っていた、「改定、血液型」をおくった。

5〕
わたしの部屋には、本は、見えない。ぜんぶ、押入れか、クローゼットにしまう。
書籍を見せない、習性は、去年(2006年)、なくなられた、思想家であり、邦楽家の吉川英史先生も同じ。科学史学会長の湯浅光朝先生も同じ、音楽に美術はじめ、趣味人だった、人類学者の山田忠男先生も同じである。

吉川英史先生は、小説家、吉川英治に名前が似ているとよろこばれ、ビートルズが日本へ来たときは、ビートルズの音楽が気になってしようがなかった。
こういったことを書かれた、吉川英史先生の、まったく、違う、一面は、前田青邸(まえだ・せいとん)が、吉川英史先生が酉年生まれから、「鶏」の表紙を描かれた、還暦記念の、「邦楽と人生」(1969年、大阪、創元社)のエッセイにある。
序文は、実業家、渋沢栄一の息子さんの、「東宝」会長の渋沢秀雄さんである。

ひとつの信念の道、日本音楽にある、美学の価値をおもわれた事は、著書に、「チャーチルと那須与一」という、項目を読まれれば、わかる。
吉川英史先生は、日本音楽を、尊く在る、と信じながら、また、「チャーチル」を偉人とされた。

吉川英史先生が、第一とする先生は田辺尚雄先生で、何番目かに、夏目漱石の弟子、上野(東京芸大)の校長になった小宮豊隆がくる。
この小宮豊隆に認められ、東京音楽学校(芸大)にむかえられるが、どうも、正しい学者の田辺尚雄、大先生、排斥運動に、図られたようだと、気づかれ、
「小宮豊隆は、わたしの先生だけれど、上野のサル山のボスだ」と議論となり、上野を辞められた。

東大、東京芸大を、正しい意見をとおし辞任され、学界では、在野と扱われた、吉川英史先生は、桐生悠々が主幹をした、「信濃毎日新聞」からの、依頼の手書き原稿が、届かなかったので、もう一度書いてほしいという、記者にたいし、
「一度、刻苦して、書いたものを、ふたたびなど、もう、書きません」とおっしゃられる先生だった。
また、家中の書籍という、書籍に、茶色の縦筋模様の、風呂敷をかけられていた。
それで、わたしは、「わたしは、緑色か、赤系統のカーテン地です」と言い喜んだ。

「日本音楽の美的研究」(1984、音楽之友社)の、高等でゆるがない理論と凝縮された学説が並ぶ、ご著書がとどいたとき、わたしは、ベッドで、序文を読んだ。
山田忠男先生は、笛吹き(フルート)だけれど、吉川英史先生は、楽理をもたれた方と、吉川英史先生を評価する、学徒がいる、吉川英史先生はすごいと再び思ったら、しばらくして、わたしのことと気付き、この上製の硬い作りの書籍を、顔に落とした。

1985年、天才作曲家があらわれました。「姫神」の星吉昭さんと言います。クラッシック雑誌などに、音楽批評がでませんねと、「宮城道雄記念館」で言うと、
「日本の音楽界は、宮城道雄を、在野と、いまだ、認めないのですよ」と、心ない、日本の音楽界を、真剣に言われるのが吉川英史先生だった。
わたしは、「宮城道雄は、古典ですよ。他にいるのですか」と言った。

6〕
別府大学の賀川光夫さんは、日本と中国大陸との、古代文化史研究が専門の方で、時代が異なる「聖嶽(ひじりだき)洞窟遺跡」は、専門でないという。

学芸には、手続きが必要である。たとえば、日常、ありふれた、短い、英語の小説であっても、読解するとなると、さまざまな学習の手続きが必要である。

しかし、数千年、一万年単位となる、洞窟や、原人問題となると、学問の本質は同じなのだが、「問題の本質」を、どこかまちがえる人がでてくる。

洞窟や、原人だと、在るか、無いか、だとになり、判断が、わかりやすくかんじる。
○か×のように感じるからだ。
しかし、学問という手続きを、踏まなければならないものが、そんな簡単にすむものだろうか。

7〕
1979年暮、わたしは、山田忠男さんからの、言いつけで、文藝春秋の、専務であり、文芸など創作事がわかる、上林吾郎(かんばやし・ごろう、のち社長)さんに会いにゆくことになった。
それより、論文作成のほうが先とおもい、わたしは、月日がずれていった。
脳裏は数論だらけだった。

週刊誌や新聞の基本は、活字をとおして、一般の人へと、事実などを伝えようとするものである。活字は残るものであり、研究者により、積み上げられて、成立した、学問は逃げるものではない。

この過程に、1980年2月、京大理学部出身で、大阪大学理学部の講師、河合清三さんから、非常識な考え方で、わたしの妻の会社と、わたしへ、25歳になる、娘が妊娠したとの、電話攻勢があった。

孕ませたのは、金のためなら、詐欺、人殺しは平気という礼儀のない佐野友彦会長、金山隆興社長のもとではたらく、金山工務店勤務の、吹田市民、窃盗、詐欺の中野逸人(なかの・はやと)さんに木島喜一弁護士である。
「(株)グレース」と合体し、「イーホームズ(株)」の藤田東吾氏と、「末野興産」の末野氏、「飛鳥会」の小西氏と、仲がいい、会社だそうだ。
詐欺の中野逸人さんの、虚言を信じたのか、友人なのか、これに協力をした、川城清憲吹田警察署長のもと、広兼警部(自称、警部)は、被害者のわたしへ、電話で、京都の田舎者、と尋問するので、実家は枚方というと、「大阪の」となった。

個人情報とかで、大阪府警本部は、広兼さんとやらの、姓名を言わない。
それで、最後は警察庁、警視庁(本庁)へ連絡をすると言い、府警刑事部長の熊本倫章警視正へ連絡と言っているのにしない。

なんやら、難しい、肩書きだらけの時代である。
祖父兄弟は、大正時代の内務省、司法省、警視庁本部長、局長といった、簡単な、役職だった。

司法省、内務省の母方に、生きるすべを、ほどこした、父方の、ひい爺さんに、祖父は、じいさん、おじいちゃんという肩書きだけだった。
東京、本庁責任者、近畿管轄庁、川城清憲吹田警察署長ほか、一味を、逮捕すべきだ。


1980年はじめの、京都の学者と、東京のマスコミ人との関係をつかむことができなかった。が、いくら、非常識をこえていても、「河合清三」さんという姓名から、C.ユング(Jung、1875- 1961年)が亡くなったあと、1962年、ユング研究所で、弟子になり、「日本心理臨床学会理事長」とやらになられた、京大の河合隼雄さんと、兄弟か、血縁のひとかと思った。
河合隼雄さんとの関係だと、わたしは、山田忠男先生との関係で、多少、時間を割くのは、しかたがないと考えた。

ユングは、人間が、なにか考え、思うときの、わかりにくい原型 ( Archetypus )とやらを重要だと言った人だ。
そして、人の性格を、内向的か外交的か区別しようとした、要するに、○か×の精神医学者である。

こういった、人の心理は、わたしたちが知らない、大昔から、親が、複数の子供をもったとき、この子は正直で、この子は内弁慶で、この子は八方美人でと、識別できるものである。

人間の心理が、○か×で決まるわけがないのは、中学生にもなればわかるはずだけど、それを、85歳になっても、東洋の学問は神秘である、曼荼羅とペルシャ絨毯の模様は、ちがうと言明していたのがユングである。

この、あいまいな学問のレベルが、○か×か、確かか不確かかといっても、人のこころなど、わかりにくい、ものだと言えば、いつでも、一端、おさまり、問題などおきにくい。
そのかわり、進展性はない。それが、いまの、「心理学」とやらである。

そろそろ、「心理呪術学」と、「心理妖怪学」とか、正しい名称にしないといけない。

8〕
生物学者、太田邦昌さんからの、誤訳など、正しい指摘を、わたしが言うと、
「太田君、変なんですよ。今西錦司さんは、可児藤吉(かにとうきち)ですよね。まちがってますよ。生殖、繁殖はですね」と、言い、フェロモンを出し、ゾウリムシを愛人にするとの、動物の日高敏隆さん。
そろそろ、「日高流、動物(けだもの)学会」へ名称を変える時期だ。

昆虫の日高敏隆さん、はじめ、心理呪術の河合隼雄さん、サルの河合雅雄さん。

勇気と明るさのある世界的な画家、リキテンシュタインLichtensteinを、
「ぼかぁ、嫌いだね、リキテンシュタインは」「息子は、立派な画家ですよ」
と言った石原慎太郎さん。
「小笠原に自衛隊機って、大スターだよ。エイズじゃない、梅毒。困るな、梨元勝さん、『日刊ゲンダイ』、胸部大動脈瘤破裂からのですよ」と言った。

イギリスのブレア首相、差別主義者の賀川豊彦さん、扇動ジャーナリストの大宅壮一さん、皆、手のライン、が同じだ。


9〕
わたしが、文藝春秋の、京都では宇治の「お茶のかんばやし」で有名な、上林さんに会いに行ったのは、1980年6月下旬である。
わたしの方に、日時が限られていることから、先に、京都出身の「週刊文春」の木俣正剛記者に、6月28日あった。

京大理学部や、京大防災研・地震予知研究センターは、1970年代中ごろからだが、「地震は予知できる」と、京大理学部の入り口に、小さな立て看をたて、地震学会をしていた。60年代からの、松代の群発地震のとき、何度も終止宣言を出し、外れてばかりの地震学会は、「予知が可能になった」と、葬式の案内に似た、呼び込みをしていた。

わたしが、京大理学部そばの、山田忠男さん宅によばれているときも、「地震学会」は、看板を立てていたので、予知ができる時代になったのですか?ときくと、
「研究がすすみ、そんな時代になったのです」と、京都帝大理学部OBの山田忠男先生は言った。
このころの発表は、いま、京大総長の、尾池和夫さんと、京大防災研地震予知センターの梅田康弘さんだった。

梅田康弘さんの専門地域に、伊豆大島があり、しばらく、無いとのことだった。
ところが、1980年6月29日の夕方、わたしは、いまだ、過去最大という、M6.7の伊豆半島の地震を新幹線で経験した。窓ガラスが割れ、新幹線はヨチヨチと、京都着が、翌日の6月30日だ。
地震など、○か×なのに、予知ができない。

地盤や地層などのちがいは、土地を知る、建設や、農業や林業の人たちに聞けば、わかるし、関西(神戸)大震災など、地震があってからだと、だれでも言える。

総長の尾池和夫さん、梅田康弘さん、予知ができなかった、責任と、これまでの給与の返還だ。
それと、全国の、地震学者たち。1995年1月17日の関西大震災も予知できなかったのが実際で、○か×がわからないのだから、「地震調査学会」「地震ヨチヨチ学会」に、名称の変更をしなさい。

それと、さいきんは、研究者の人間、ヒトのほうが、サルになって行く様相をみせる、京大の霊長類研究所だが、ここは、サルを研究して、人の心とか解明してゆくというのが、命題だった。

知人が、電話で「マツザワがね、紫綬褒章(2004)」というので、わたしは、知らないと言う。
「サルのマツザワだよ」と言うので、サルに、友達はいないと返事する。

鈍感なわたしは気づかなく、岩田山(嵐山)の、間(ハザマ、「間組」、御曹子)さん?
『サルになった男』(雷鳥社)の、間直之助さんのこと?ときくと、
「マ・ツ・ザ・ワ。犬山の松沢哲郎だよ、かれは、まだ、未熟で、サルにはなっていない」
との説明をする。
ようやく、山田忠男先生が、1980年、わたしと、いっしょに紹介していたことがあった、哲学出身の人物かと思った。

京大霊長研のサルは、1970年代からという、『周防猿まわしの会』の、村崎義正さん、太郎さん親子による、SONYの「瞑想するサル」より、格段、演技など、聞き分けができるものだと思う。できなかったら、霊長研、全員、公共の金、泥棒だからね。

10〕
昔、木俣正剛さんは、「わたしに会ったのですから、上林吾郎に会ってもいっしょですといった」。
不愉快で、おどろいたけれど、この方の妹さんが、おもしろい事をしてくれた方なので、許した。

なにをしてくれたかと言うと、とうじ、四条通り、寺町は、学生に、若い会社員など、人が多くて、天津甘栗の、「林万昌堂」のところで、偶然、会ったとき、わたしの周囲が、
「戦前は右翼、戦後は共産党、そして、自民党と脱皮された、木俣さんの」
「木俣秋水市議の、ファッショナブル洋装の、ノートルダムのお嬢さん」といい紹介する。
「こんにちは」と、わたしが、お辞儀をすると、そのあと、背丈が、二寸(6センチ)ほど、小さくなった。

わたしの脳裏は、「?」と疑問状態になって、あとで、あの人は、どうして、かがめるのかと聞くと、周囲が、「木俣さん、体が大きく、見られるのが嫌なの」と言う。
あまりに、おもしろかったので、わらった。

この一期一会の、たのしい出会いで、木俣正剛さんと会ったら、山田忠男さんが、
「木俣の息子に会ったのですか」とわたしに注意をした。

わたしの予定の日時が、土日だったので、忙しい、上林吾郎さんに、時間をとってもらうのはと、思ったから、文藝春秋の社内で、違反の別姓結婚はじめ、いろいろ、やったとフリーの記者が言う、木俣正剛さんに会っただけである。

後で、木俣秋水さんをビデオで見せてもらった。
「ええ、京都は、天皇さんです。わたしは木俣秋水です。雄雄しい政治家、木俣秋水で、ございます。天皇さん、京都に帰ってきなはれ」と言っている方だった。
後は、また、平安、江戸時代にもどし、世襲、階級制、身分社会の復元とでも、言うような事をいいかねないとおもい、わたしは、5分でやめた。

この木俣正剛さんが、2004年7月、「大隈講堂」におき、「日本ペンクラブ」と、早稲田大学文学部が共催とかの 『日本のジャーナリズムと言論表現の自由』で、
「皆さんの前に顔を出すのもほとんど初めてです」「政治家の世襲制反対」と発言している。

登場人物は、まえの奥様が、遅筆の井上ひさしさんの、言い訳のため、編集者と、時間をすごされたのに、不倫といった、井上ひさしさん。
三島由紀夫の、加古川での、徴兵検査をデタラメにかいた、猪瀬直樹さんと、言論の自由をやっている。
最初は、文藝春秋からの、出自が志方とかいた野坂昭如さんの著書だろうが、三島由紀夫は小説の創作家である。

わたしの、幼なじみの、姫神バスを通したイエの、ケンちゃんも、保健所のショウちゃんも、文房具屋のハジメちゃんも、故郷は、「志方」である。


木俣正剛さん、都会でうごけなくなっている弱い立場の人を見よ。
乱開発され、あざやかに生きる草花が消えてしまった町や村を見よ。

木俣正剛さん。あなたは、京都の、希望をさそう春と、思索をさそう秋を忘れたのか。
京都から希望への春が消え、思索への秋が消えて、ずいぶんと歳月がたつ。
死者となられた、文化史の賀川光夫さんが、桜ひらき、紅葉ひかる、歴史ある大地を踏み、弁明できるのか、深く考慮してから、述べよ。



▲東山  田舎亭      (写真:松田薫)
▼東山  真如堂 冬
   (写真:松田薫)   




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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-01-15