京都昨今 |
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44、米田町立 キンダースクールの七夕祭り (追記3月6日) | ||
[第一章] 印南郡公会堂の入り口で 壱) 上の写真は、1953年秋の、わたしが2歳になったころである。 イトコが1歳をすぎ、わたしといっしょに、印南郡公会堂でとった。 カメラは、二眼レフ、海軍へ16歳のとき、志願した20代なかごろの叔父による。 作家、三島由紀夫は、よく取り上げられる。が、さいきんといえばいいのか、太平洋戦争を経験された学識者に、播州、加古川の陸軍へ、入隊したひとが多く、それを語った、文章を読み、少々おどろく。 播州は、米どころで、瀬戸内海の魚が豊富のため、体格がいい。 人類学者の梅棹忠夫さんは、1943年9月、京大、理学部動物学を、繰り上げ卒業。徴兵検査は第一乙種合格、加古川の戦車連隊という。 1930年代後半から、機械工業など工学部が難関の時代となり、京大は、戦争に役立つ、医学部でさえ、1940年ごろから、志願者がなかった。講義もないに等しかった。 おそらく、梅棹忠夫さんは、銃剣術に専念され、ふつう以上の身長はじめ、格闘技家のような体格となったので、加古川への戦車連隊に入営となったのだろう。 戦車連隊は、履板(りばん)の接続と進行問題がおきるため、履帯(キャタピラ、クローラー、ベルト)に故障が生じたとき、テコの原理で、持ち上げるぐらいの、体力がいるからだ。 わたしのイエは、機械など専門のため、動力で、ゴムタイヤのことをきくと、東京帝大の学者たちが、文献をはこびに、信州の山道を行ったとき、資料の記述のとおり、リヤカーは、ゴムタイヤと思っていた。 2006年暮、父に、姫路から加古川は、ゴムタイヤなど、すべて陸軍へゆき、車力(しゃりき、木のクルマ)しかなかったと訂正された。それぐらい物資がなかったという。 日本は、前年の1942年、ミッドウェー海戦で敗北をした。 このころ37歳の、作家、伊藤整の日記には、映画で、1943年秋の、神宮外苑での、東京帝大をはじめ、全国の頭脳にすぐれた学徒出陣式を見て、涙があふれたとある。が、わたしは、資源のない日本を、国家を、国際的な見地からみて、この1943年で、声を大にして、敗北宣言があってもよかったと思った。 伊藤整のことを、1980年代、文筆家たちは、尊敬をこめ、「整(せい)さん」と、しずかに言われた。 この、名前のひびき方は、好きだった。 わたしに、おちつきのある伊藤整の存在を、あらため、教えてくれたのは、大山崎、離宮八幡宮の津田彰先生だった。 1968年暮、学生運動が盛んになってゆくなか、担任の津田彰先生は、スペイン語研究会のある、神父室を入ったところで、 「伊藤整、読まれましたか」と高校一年の、わたしに言ってくださった。 とうぜん、読まなければ仕方なくなった。 その結果というか、作家が歩いた道をと、小樽の散策ということにもなった。 小樽駅まえの、木造三階建て旅館の、ご主人は、1974年、わたしが行ったとき、湯船には、10秒もつかれない体質ですから、結構ですと断っても、断っても、階上の内風呂を沸かしてくれた。 まったく、対照のひとたちだが、作家の司馬遼太郎さんはじめ、中国、朝鮮文化の研究者たちは、京都市の北区に高麗美術館をつくられた、鄭詔文(チョン・ジョムン)さんの世話になった。 司馬遼太郎さんは、大阪では、福田建設の社長で、編集者や記者の操縦法というか、料理屋など、接待がすべてというように、割り切られていた方である。 司馬遼太郎さんが、育ったという、大阪は、空襲からのがれた、人形の松屋町筋(まっちゃまちすじ)は、平屋の家が片側に10数軒残っていただけで、わたしが行った1960年の秋でも、同じような状態だった。また、2006年秋、木簡がでてきたとかで、話題になった、北浜の三越だけれど、空襲から逃れ、古い建物で、あまり地下を掘っていないため、昔の物がでてきたのだろうと、父から聞いた。 司馬遼太郎さんについて、いろいろ指摘されているが、司馬遼太郎さんは、神田の「高山書店」をはじめとし、古書、資料など手配してしまう方だった。 古書の中には、他人の日記もある。 この種の日記蒐集は、加古川ゆかりという、作家の野坂昭如さんも同じである。 他人の戸籍がひとつ、他人の日記が、三種類ぐらいあれば、他人になれる。 作家の才能によれば、新しい物語の創作もかんたんなことだ。 なにごとも、事実、正しさがないと、信頼をもとにした、社会で、ともに、生きてゆこうとする気力がなくなってしまうのかもしれない。 背丈5尺6寸と、平均よりは高いが、兄弟では一番小柄な父の徴兵検査は、背丈が5尺4寸とふつうの三島由紀夫と同じ時期、痩せていたということで「第二種乙」だった。 父の幼なじみは、わたしの幼なじみの父親であるが、体重が足らず「第二種乙」だった。 徴兵検査は、「身長と体重」「前と後ろ(性病、淋病と痔)」と、父たちは言う。 わたしの背景となる、印南郡公会堂の入り口の写真は、無口の、叔父の二眼レフのカメラによる。 父より格段、大柄だった叔父は、父と同じく、同期を、戦争で亡くしているせいか、子供だけを大事にし、写真におさめることだけが、趣味のような生き方となった。 生家の裏になる、印南郡公会堂は、赤レンガ造りで、立派な大きさがあった。 秋には、旧国道1号線がわに、直径、20センチほどの、コンニャク芋が、一面、ごろごろ干してあった。わたしの45年前の記憶だが、入り口近くの、シンボルともなっていた木の下に、大きな陥没があったので、空襲のものかと、父に質問すると、「雷」とのことだった。 印南郡の誇りの建物であり、昔は、行事につかい、戦中、GHQ連合軍に、加古川、高砂など、陸軍の兵舎が、焼夷弾や襲撃にあったあと、兵舎のかわりをしたという。 弐) 日本人、民家で生活している、人たちが、東海道の国道1号線、山陽道の2号線などで、近くの国鉄の駅へ向かうと、GHQ連合軍の、戦闘機グラマンによる、射撃がはじまったという。 航空母艦から、連合軍の戦闘機がとび、1944年ごろからは、毎日つづいたという。 死者は、幼なじみでさえ、明かされず、被害は、なかったことにされた。 1941年、学生から軍属となり、加古郡荒井村(高砂市)の、大阪陸軍造兵廠への勤務となった父の労働は、朝7時から夜7時。また、反対に、夜7時から朝7時までの勤務の人たち。 遠隔地のばあいは片道3時間の人たちもいたという。これだと、睡眠の時間がない。 つまり、昼を知らない生活。ときどきの副食は塩豆、そして、休みなし。 父がつかった道は、いまの、県道43号線。とうじ、土道での、勤務へのとちゅうの会話は禁止だったという。 連合軍の戦闘機グラマンなどにより、農作業の民間人を、射殺された情報を語ってはいけない時代だった。 犠牲者は、国鉄の駅へと運ばれ、知らなかったことにした。 関東平野、濃尾平野、大阪平野、播州平野には、海岸線に沿って、国道1号線、2号線が走る。 日本海側、九洲の工業都市も同じだが、そこに居る黄色人種は、毎日のように、射撃された。 1943年ごろまでは、日本の戦闘機も、後方に、鯉のぼりのような、吹流しを付け、敵機とみなし、実弾で、練習をしていたと、播州平野を知る父が、2006年、暮に言う。 わたしたち兄弟を、かわいがってくれた、父の幼なじみに、妹がいたとも、はじめて、言った。 母は姫路の食糧営団勤務で、母のすぐ下の妹は、姫路でゼロ戦(三菱)、三番目の妹は川西市で紫電改(日本毛織、川西航空機)を軍需工場で、朝から晩まで、つくっていたという。 とうじ内務省高等官の娘は、戦争好きの軍人娘だったのだろう。 木と、和紙に、のり(大和のり、材料米)やコンニャク糊で作って、エンジンを載せたのが、日本の戦闘機だった。 木と和紙製の飛行機がとんでいるのだから、アメリカ軍が、恐かったと言うのも、当然かも知れない。 GHQ連合軍にとっては、日本の中学生も、軍人あつかいだった。 B29の高度には、加古川の高射砲連隊からの攻撃弾がとどかず、日本は戦闘機を破壊されつづけられた。父は、軍隊は艦載機をつかい、数少なくなった、戦闘機を、大事にとっておくことにしたという。 大阪陸軍造兵廠,を、建設する工事は、1941年からで、完成間じかの1945年、日本がこれからと思ったとき、GHQ連合軍の戦闘機による攻撃で、残骸となったと父は言う。 「軍靴の響き」とたやすく言うひとがいる。父にきくと、姫路連隊の兵舎は破壊され、小学校の講堂などで、ざこねし、革靴などなく、地下足袋だったという。痩せた青年たちの、地下足袋の響きは、どのような響きなのか。 日本は、なにもなかったにすぎない。父は、茶わん類などもなく、竹を節ごとに切った「ねぶし」を器にして、まずい米のご飯も充分に当たらない状態だったという。 印南郡米田町は、文字どおり米の地域だが、農家もすべて、1941年からは、米は、軍隊へゆき、食事は充分でなくなった。また、播州、播磨地域は、漁村があり、魚が取れたとおもったら、船など、出すと、GHQ連合軍は攻撃をかけ、すぐに射殺、沈没されるため、1941年からの食事のおかずは、畑の菜っ葉類だったと、2006年の暮に、ようやく言ってくれた。 「従軍慰安婦」という言葉もふくめ、これらの調査は、大阪市立大学はじめ、各大学の地理と社会学専攻が、30年以上まえに、徹底して、調査ずみなので、わたしは記述しない。 映画やテレビが問題なのだが、日本における、いわゆる、島原、吉原にみられる遊郭の歴史は、どれほどの期間だったと思っているのか、いちど、調査されればいい。 わたしは、1970年代、「民俗学」の視点で調査し、短さに、おどろかされた。 100万人都市、江戸、吉原で20年である。 吉野太夫、夕霧太夫という、芸妓は、一代と考えればいい。 芸とは、それほど、難しいもので、言語表現もふくめ、芸がなければ、ふつうの趣味人は飽きる。 忠臣蔵の大石内蔵助良雄が、遊郭で遊んでいるのは、衣装が派手で画面が冴え、娯楽映画となるからである。 京都府の南に、遊郭だった橋本があるが、戦前の軒数が、5、6軒というものだったときいている。 わたしは、1970年代、大阪府立図書館、京都府総合資料館、国会図書館で、日本人の太平洋戦争での、人口統計のグラフなどから、総死者を計算していた。 GHQ連合軍は、国道を歩いていたなら、小学生も軍人で、戦闘機グラマンは、標的にした。 軍需工場で手伝う、12、13歳、14歳の中学生は、とうぜん軍人である。 わたしは、この犠牲者も、戦争での死者として扱った。これら公表されなかった犠牲者は、聞き取りでしかない。 日本人の、総合計の死者は、公表のとでは、一桁ちがう。 こういった数値(サンプル論、データー論)については、戦前を知り、実際の数値を見ようとし、数理式化できる、旧、文部省、統計研の、林知己夫(はやし・ちきお)先生に、質問をした。 実際の数値については、同じく、戦前の陸軍を知る、科学史と気象学の湯浅光朝先生にも、質問をした。 二人とも、良い意味での、高い位置から、数値を見ようとする方々だった。 が、わたしの、突きつける、戦争の意味も、なにもわからず、殺され、死にいった、地域別の、合計には、林知己夫、湯浅光朝先生とも、了承のまま、戦後の、平和を味わい、大事な「勲章」を胸にし、逝きたかったのだろうと思い、わたしは黙った。 1983年、八王子で、科学史学会長の湯浅光朝先生に、「勲三等、おめでとうございます」と言ったら、「ご存知でしたか」と、微笑まれたので、わたしは、「破門」と言った。 湯浅先生は、1982年と同様、わたしの、不機嫌をとるのに大変だった。 父の弟は16歳で、海軍へ志願した。人間魚雷「回天」の乗り込み員として。戦争が終り、半年たっても、連絡がなかった。「死亡通知がないけれど、死んでいるのだろう」と、祖父母はじめ、親族でおもっていたという。 念のため、父が、弟のいる、山口の方へいったという。 父の弟は、義務として、「掃海艇」にのり、GHQ連合軍の戦艦を、爆発させる、水雷(機雷)を、さがし、はずす行為をしていたという。 印南郡公会堂は、戦後、1953年ごろまで、数度、演芸会など、催しにつかっていた思い出がある。 夏は、ここに、格子状に櫓をつくり、幕を張り、野外で、町のひと、全員が見ることができる、映画鑑賞をしていた。 とうじ、映画館のでは、オールカラーと部分カラーのがあった。 公会堂のは、わたしの記憶では、白黒のものしかない。 それでも、夏祭りの、ひとつの行事か、大人も多く見学にきていた。 松竹新喜劇や宝塚歌劇は、組合の旅行の、つきあいだから仕方なく見る父だが、わたしのイエは、年中働き、忙しく、わたしは、兄と、いっしょに、見たぐらいの記憶しかない。 父はカメラなど嫌いで、一台ももったことはないが、叔父は、二眼レフを2台つかっていた。 写真の右に、祖父の大きな手がみえる。 イエでは和服の祖父が洋服をきているので、叔父と、叔母にあわせ、曽根へ、ゆくまえとおもわれる。 「よしのぶ」と、2歳のわたしに言っていた、大柄な祖父の小さな声が思い起こせる。 わたしの左手に、りんごがあるのは、とうじは「リンゴの唄」の流行などで、わかるように、健康にいい、りんごの時代で、わたしの機嫌をとるためだろう。 このころは、まだ、米田町の独立か、もしくは、高砂市側の「曽根村」には、わたしのところや、わたしの親戚の家業と関係する、高砂市との合併をすすめているときだった。 曽根で有名なのは、重要な民家と知れる塩屋の「入江家」である。 わたしが曽根をあるいたのは、1962年秋、たった一度だが、静かで、落ち着いた町の印象がつよかった。 塩田の光景だが、入浜式塩田などが良く知られる。わたしの思い出には、姫路の南の方には、竹の小枝をかさね、竹ぼうき状とし、10メートルぐらいの高さになったところへ塩水を流し、乾かし、塩を得る、流下式塩田が、延々と広がっていた。 この細い竹の小枝が想像しにくければ、田園での藁干しの光景と良く似たのをおもえばいい。 一歳をすぎたばかりの、イトコが、石の階段に座り、なれないので、なんども、祖父がわへ、ひっくり返る、 「あっ、また、ひっくりかえった」と祖父が言い、おこし、支えている。 祖父は、孫をみているだけで、楽しかったのか、どの孫もしかることをしたことがない。 参) 下の画像 写真 は、1956年、わたしが、印南郡米田町立、キンダースクール(発足当時の正式名称。保育園、幼稚園のこと)へ第一期として入園したときの写真である。 左端にいるのは、記念写真は、嫌といい、逃げて、先生たちに、つかまったからである。 身長は、幼稚園児と同じほどで、一番高かった。 国鉄宝殿駅前の、米田町の平津部落からの通園は、わたしひとりだった。 宝殿駅の神戸側には、いまあれば、アンティークで名所となるレンガ造りの頑丈な倉庫があった。 ここは、各部落からの、米の集積場所で、整頓され、子供の、遊びは禁止されていた。 姫路側は、開放型のプラットホーム形式で、すいか、なし、ぶどうなど果物や小麦粉、セメントなどが運ばれ、線路の、ポイントの切り替えは子供には楽しく、ここは、昭和のはじめ、父が子供のときも、遊んだという。 「すいか!どうやって?」と、わたしが聞くと、労働者、仲背(なかせ、仲仕:なかし)が、一個ずつ、ほうって、わたすそうである。 京都のばあい、江戸時代以前から、「御所」へ、米をおさめるのは、しきたりで、山紫水明の、北山地域となっている。 豊作には、雨と晴天が必要だが、敗戦の1945年は、5月は晴れ、6月は雨、7月、8月は晴天とめぐまれたが、9月に多少雨がつづいた。軍部が解体されたので、山間部にあたる農家は、徹底して、不作、米がないと報告した。 わたしの生家は、敗戦の秋、解体された陸軍の、あと片付けのトラックが、追突した。 祖父が、1935年、耐震7で、再建築したイエなので、倒壊はしなかったが、荒格子、出格子など前面が破壊されたという。 父は、ひい爺さんと、軍部に交渉へ行ったら、軍部には、財政もなにも無いので、取り壊しの兵舎の、材木などを持って行ってくれと言われたという。 気象情報がない、1945年9月、西日本を中心に、枕崎台風が、日本を縦断することになった。兵庫県印南郡は、枕崎台風での影響のあと、ちょうど、10月の稲刈りのまえ、阿久根台風による大きな被害をうけた。 村や町を守るには、まず、食糧である。 勝利国で、乱暴なGHQ連合軍に、治安と警察権を奪われたため、可能なかぎり婦女子を守らないければいけない。 京都には、東京、大阪の都心部に血縁のある人が多く、GHQ連合軍などに、婦女子がうけた、とうじの悲惨さ。また、それを止める、男子が受けた屈辱さは、わたしには、まだ、書けない。 血縁がないとできないが、祖父は、空襲と台風の被害を受けなかった地域を確認した。岡山の豊作となった山間地域へ連絡をとり、貨物列車をつかい、10月中旬から、ぶどうなど果物を買出し、神戸など都市部へ、行ったという。 平津部落は、大きさから、平津一、平津二、東平津と分かれていた。運動会では、この3つの部落に分かれ、競争した。 国鉄があり、バス停もあり、病院や、映画館があった。 米田は、字のごとく、田圃ばかりの部落で、「塩市」が、どのようだったかは、文字をみれば理解できると思う。 保育園、幼稚園は、米田町の米田部落の子供が多かったと思う。 1954年キンダースクール(幼稚園)の、第一期入園の兄が、金属製のゆりかご状ブランコで、大怪我をした。 幼稚園の先生たちの説明では、兄が、幼なじみと、二人ならんで座り、対して、三人が座り、計画的に、三人が同時に離れ、転覆し、兄だけが犠牲となり、わたしは、叔母と、どんなブランコか見に行った。 この後、ゆりかご状ブランコは撤去されるということがあったので、わたしは、泣かされる、弱い側を注意していた。 見ていると、年長の、幼稚園児5人ほどが、保育園児を泣かすので、幼稚園児と体格が変わらない、わたしが止めにはいっていた。 この1956年に入園した、男子は、年長組から、泣かされた人はいないと思う。 「日本毛織」は、いまは「ニッケ」で知られるが、1950年代ごろまで、わたしたちは、「にちもう」と呼称していた。 そのため、わたしの記憶では、「にちもう」と「ニッケ」は別の会社だと思っていた。 とうじの保育園の光景だが、パジャマ型の制服のためか、保育園児になっても、トイレなどへ行けなく、先生たちを困らせ、また、お昼は弁当だったが、寒い季節、ストーブのそばに置いたら、自分の弁当箱がどれか、わからない子供が多かった。小さな動物を、困らせ、よろこぶところは、大嫌いだった。 保育園には、昼寝の時間があったが、わたしは、この昼寝も、苦手で、一度も眠ったことがない。なのに、わたしをのぞく、他は、すべて、眠ってしまうことができた。 わたしは、イエでも、安静が必要な体だったが、昼寝だけは、祖母が、雨戸を閉めてくれても、眠ることができなかった。 昼の、こういった光景に飽きると、南がわにある、米田小学校の入り口まで、あそびに行っていた。クルマなどが通ることがない土道だった。 米田小学校を、垣根ごしにみると、鳥小屋の周辺で、平津からの一年、二年生たちがあそんでいるので、そばへ行って、見ていた。 米田小学校の大きな鳥小屋には、ニワトリの他に、チャボとウズラがいて、元気よく走り回っているのを見て、楽しくなり、母にいい、チャボとウズラをもとめ、飼ってもらった。 わたしには、できないが、この地域の子供は、織物の産地ということもあるのか、幼稚園児で、草花での、複雑にみえる飾りをつくることができる。 髪の毛での、みつ編みはふつうだけれど、よつ編みのできる子供もいた。 わたしは、草花も抜けない性格をしているので、まったく、無理で、感心しながら、離れて眺めているだけだったが、草花の茎をつかい、幼稚園児ぐらいで、 1 タテ・ヨコの平織りだけでなく、 2 タテ・ヨコ・斜めの綾織りもできる子がいて、また、ニットなどみられる、 3 ループの輪をつくってゆき編んでゆける子もいた。 小学生ぐらいになると、器用な子供は、わたしには、複雑に見えるものを、かんたんに編んでしまう。 制服の色は、青色で、戦後まもなく、布地のタテヨコの織り目が粗く、生地も悪く、パターンが悪いので、 「こんなのきて、行くの、嫌」と言って、保育園の先生が、むかえに来ても、行かないと言った。 1956年で、入園は、14人の幼児で、丸坊主なのは、わたしだけである。これは、祖父も、父も、とにかく、過敏なヒフをしていて、長髪だとアセモ(いまだと、アレルギー性ヒフ炎)ができるため、「一休さんみたいなのは、嫌」といっても、4月も中ごろになると、兄弟そろって、丸坊主にされた。 夏は、大家族だから、播州素麺を、ゆがいた御湯が、アセモにきくからと、庭で、行水をさせられる。 「素麺のニオイ、嫌」と言うわたしに、「アセモの予防」と母と祖母がいい、頭から、かぶされる。 わたしが、「嫌」と言っているのを、きくと、「あははは」と、縁側から、笑っている祖父だった。 運送では、「姫路合同」と同じく、「播州貨物」があった。 「日本毛織」は、加古川工場と印南工場の二つがあり、志方(しかた)町をふくんで、加古川は「靴下」が産業なので、国道2号線を中心に、姫路から神戸などの道路網は、トラックが運んでいた。 機械、編み機は、わたしの生家や、父の生家にも、いろいろあった。 機械をみたりさわるのは平気だけれど、毛糸のばあい、わたしは毛糸の玉がころがり、顔など、首筋にふれるだけで、体調がおかしくなる。 祖父に父もわたしも、ふつうの毛織やカシミアでは、10秒くらいで、かゆみから、くしゃみや赤いアレルギー反応がおきし、モヘアになると、2秒もダメなのが、祖父、父、兄に、わたしだった。 中央のしっかりされたかんじの女性が、わたしの担任だった。 父は、米田町米田の黒田先生という。ご主人が、「姫路合同」勤務だったとも言った。 キンダースクールの先生たちは、紺系統の色合いを着ていたのではと記憶する。 保育園へ入園したときは、わたしが年少組だったため、年少組をいじめる、年長組の幼稚園児に、無言で体で向うことができた。 が、わたしが年長組になったとき、新入の年少組が、おたまじゃくしや、メダカ、子猫の命を、もてあそぶ季節がきたとき、わたしには、年少組に注意する、言動をもたなく、気絶し、病院生活がはじまった。 印南郡米田町は、村のひとたちは、幼稚園の先生たちも、小学校の先生たちも、子供への、叱責はなく、ほたえる(暴れる)子供を、おさめたり、積み木など、遊び道具を、さんこ(散戸、ちらばめる)にする子供たちのを、だまって整理してゆく、先生ばかりだった。 米田町の幼稚園は、いつも、開け放たれ、季節をかんじることができた。 [第二章] 米田幼稚園の七夕祭り 壱) この、印南郡公会堂で、わたしが2歳になったとき、イトコといっしょの写真をみていると、わたしの耳には、祖母が、服のスナップのボタンを、留めてくれた音が記憶としてでてくる。 下の、七夕祭りの写真の、黒田先生をみると、死を宣告された、園児のわたしを担任した先生が、一年で、疲れ、年が行ったように、かんじる。 この1953年3月には、吉田茂首相が、社会党の西村栄一さんに「バカヤロー」といい、衆議院が解散された。 わたしの生家では、祖父が、印南郡米田町を、新しい姫路市と、新しい加古川市からの勢力に負けず、高砂の町と浜を守り、独立させるため、国会議員が中心にあつまっていた。 GHQ連合軍は、アメリカ風の民主主義で、新しい市による、古い村の分断を計画した。 戦争中の孤児をはじめ子供たち、数十人の生活を、先祖からの役割として、めんどうをみてきた祖父は、共に生きてゆく、村の気持ちをひとつにしようとする、集まりをしていた。 そして、この賑わいが、何のことかわからず、祖父に、50歳をすぎ、政治事に首をつっこんでと祖父を嫌う父と、大家族に疲れる母は、兄だけつれ、わたしを置いて、家を出た。 わたしは、母の帰りを毎日、玄関でまった。 この時間はとても長く、母が帰ってこない、夕暮れが嫌いになった。夜が来る夕暮れが嫌いになった。 陽がおちると、暗くなる。嫌いな夕方であっても、わたしは、あめ色のガラス戸で、母が帰ってくるのをまっていた。 弐) 1953年6月ごろ、父が、居間で、縁側へ向かい、ひとり、兄が置いていった、雑誌を広げ、みているわたしに、 「今日は仕事が早く終わった、お前は、何が欲しいとか、何処か行きたいとか言わんけれど、なにか、見たいものがあるか?」と言った。 台所には、祖母が、夜の食事の準備をしていたと思うが、とても静かな、夕暮れどきだった。 2歳を少しまえにした、無口な父からの言葉に、ためらいながら、わたしは、幼稚園児の雑誌の「♪ 蛍の宿は 川端柳 柳おぼろに 夕闇寄せて」の箇所を開けていたので、 「蛍の宿(ほたるのやど)って? 川端柳(かわばたやなぎ)を見たい」と言った。 まだ20代の父は、ほほえみながら、「おまえが、見たいとか言うものは、いつも、どこにでもあるものやなっ」と言い、「蛍、見にゆこか」と播州弁で言った。 西神吉村で一番大きな、大国(おおぐに)には、川がふたつあり、国鉄の駅そばには、柳の木々があり、ここでは、母と、叔母と見た。 父は、上海蟹(しゃんはいガニ)の味に似た、川蟹がいる、法華川へ自転車でつれていってくれた。 三間ほど(6メートル)の長さと、一間の高さをもった、蔓状の細い木々と草が、こんもりとなっている箇所に、ゲンジホタルが群生しており、瞬間、瞬間に、飛びまわり、自然の中での、蛍がもつ光の流れをかんじた。 「蛍、こんなに、たくさん」と聞くと、「ああっ、ここが一番多いところや」と父は言った。 父とわたしが、一番、先だった。 法華川が「く」の字状になり、幅が二間から三間ほどと、広くなったところに、ホタルは群生し、見学にきた、村の、母親といっしょの家族が、ひと家族、ひと家族と、ふえてゆき、三家族となった。 父は、小さく言葉をかわしたり、会釈だけをしている。 蛍が、二つ、三つと、つぎつぎに来て、光る蛍が、わたしの服につく。 わたしが蛍に触れようとすると、 「触ったら、あかん、死んでしまう」と父が言う。 数分間は、短くも長くも、蛍の灯りは、小さなものが、いっぱいとも、また、もっと沢山いてもよいともかんじた。 母が兄をつれ、居なくなったころ、わたしは、イエの裏に捨てられていた、茶の猫をひらってきた。 わたしは、いつも、食欲がなく、母がいないせいで、より、食べなくなった。 夜の、おかずに、鯛があった。鯛は、高級なサカナだったが、わたしは魚が嫌いで、いつもは母か祖母に身をむしってもらうが、子猫に、皿のまま、あげた。 はじめは、喜んでいる様子だったが、急に、首を、振りまわし、口を、大きく、あける行為をした。 父にきくと、「骨がささったんや」と言う。 取って欲しいというと、喉の奥といい、鯛の骨は、硬く、腐らないから、「死ぬ」と言った。 わたしが、病院というと、父は、宝殿や加古川には、猫の病院はないという。 どうなるの?ときくと、「このまま、もがいていて、死んでゆく」と、また「死」という言葉をつかった。 わたしは、泣きさけんで、助けて、あげてと父に言ったが、電気の明りの下でも、骨が見えないという。 祖母にも言ったが、どうにも、ならないと言う。 夜中、わたしは、発熱し、倒れ、医師がきたあと、翌朝には、捨て猫は、いなかった。 わたしは幼稚園での、園児がした猫への行為が、きっかけとなり、 とうじ小児ネフローゼという難病にかかった。 戦後、遊戯の種類がなく、「♪山寺の和尚さん」を、1956年の、保育園のとき、先生が、教室で、「♪猫を紙袋に押し込んで」を、したからだった。教室での猫は、元気だった。 わたしも、じっさい、イエで、祖母と、裏庭へ捨てられていた子猫にした。 猫の頭には、イエが使う、とうじ、菓子屋さんなどで、使っていた、白くうすい、いちばん小さな紙袋をかぶせた。 が、頭をふるわせ、すぐ取ってしまう。 祖母は、首もとをゴムで止めないと、と言った。イエには、商売用の輪ゴムが、数種類あった。が、わたしには、教室でみた、輪ゴムで、止めることはできなかった。 それで、猫ごと入る、大きな茶の紙袋でしたら、猫が、紙の入り口から顔をだした。 また、紙を破って出てきて、嫌そうな顔をしたので、祖母が、笑った。 わたしが、「猫、嫌なの?」と聞くと、祖母は、また、笑った。 わたしは子猫に、悪いことをしたと思った。 1957年、幼稚園児となったときがきて、わたしは、米田天神社の子供たちが、村からつれてくる、子猫の頭に、袋をかぶせ、それを、足で踏みつける、幼稚園児たちをみて、卒倒した。 5月はじめ、神戸大と姫路日赤で、助からないといわれ、姫路日赤の山本又一先生から、長くて、7月といわれた。 5月、死をまえにした、わたしを、千船の善念寺の、母の友人が、見舞いは、何もいらないという、わたしが本だけは好きと言うことで、本を見舞いにもってきてくれた。 とうじ、子供の、いっぱんの読み物は、太閤記、野口英世、二宮金次郎となっており、わたしは、偉人や出世物が大嫌いだった。 そのため、書籍をつつんだ、姫路駅前の、なじみの書店の包装紙をあけ、「太閤記(日吉丸)」と、目にはいったとたん、わたしは、ベッドの上の、ふとんへ、「嫌い」と、本を放った。 善念寺の千鶴ちゃん、おばちゃんは、死をまえにした、子供の機嫌を、損なうことをしたためか、わたしに謝り、母に「本がわからなくって、どうしよう」と言った。 母は、偉人や出世物の贈り物には、わたしが、この種の反応をするのが慣れており、「いいの、いいの、わたしが、取り替えてもらってくるから」と言った。 母が交換と、新たに買ってきたものは、「家なき子」と「幸福な王子」だった。 どちらも、二度目だったけれど、出版社がちがい、表現が、多少ことなっていた。 わたしは、母が病院から帰宅した、夜になって読み、泣き、一回目の、危篤状態になった。 母が処方した、副腎性ホルモン剤(プレドニン)でどうにか、脱したのは、7月下旬になっていた。 参) 米田町の幼稚園は、わたしのために、旧の七夕祭りをするといい、幼稚園の黒田先生たちが、連絡に来てくださった。 幼稚園の教室への入り口には、ぶどうなど、果物をおき、なすびやきゅうりに、割り箸をさし、動物の形にしていた。 七夕祭りをするため、園児のそれぞれは、短冊へ、祈りごとを、家で書いてきていた。 千羽鶴もあった。 わたしは、何の用意もなく、黒田先生は、金色と銀色の短冊をわたしに見せ、 「よしのぶちゃん、お星さまの、銀色が好きだったわね。神様に、願い事を、書こ」と播州弁で言った。 病院で、死んで逝った子供を、みてきた、わたしは、「嫌」と、横に首をふった。 「みんなが、パイロットになりたい、看護婦さんになりたい、クルマが欲しい、人形さんが欲しいって、書いてるわね」と言い、「よしのぶちゃん、病気が治りますようにって、書こ」と、また、言ってくださった。 わたしは、「嫌」と言った。それでも、「みんな、よしのぶちゃんが、来るの、まっていて、『よしのぶちゃんの病気が治りますように』と、願い事をかいているから、書こ」と言ってくださった。 教室の七夕飾りは、姫路側で、反対の神戸側の壁の上のほうにに、「9月14日、よしのぶちゃんの誕生日」と汽車の形の中にかいてあった。 わたしは、汽車への誕生日は、30日以上、先のことで、もう、幼稚園へくることは無いだろうとおもいながら、また、黒田先生が書いてくださったのかとかんじながら、空色の短冊を選び、黒のクレヨンで、 「病気の、子供が、なおりますように」と書いた。 黒田先生は、涙声になり、「見えるところに、つけよ」と言った。 わたしは、高く、見えないところにつけてと言うと、黒田先生は、そのとおりにしてくださった。 わたしの米田町幼稚園は、この日が最後になった。 ▼左端、前列、まつだよしのぶ 1956年春 |
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▼左から三番目、丸坊主が、まつだよしのぶ 1957年七夕祭り。黒田先生。 左端、コンセントを抜いているのがシゲぼん。 | ||
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2007-01-08 |