京都昨今
43、愛する命を失ったときは      片山隼君      因果論V    

<1>>
世田谷区砧に、暗い建物、NHK技術研究所がある、この付近は、片山隼君のまえにも、高齢な女性がひき逃げされたところである。

かなり、年配の、タクシー運転手が、この「砧(きぬた)」地域は、昔、ヘビが多く、宇山(うやまではなく、うざん)と呼ばれ、人がよりつかない場所と説明してくれたことがあった。

1997年11月、世田谷区、砧、世田谷街道で、小学二年生がトラックにひき殺された事件は、「片山隼君事件」よばれる。
トラックの運転手は「絶対なる加害者」で、片山隼(しゅん)君、8歳は、「絶対なる被害者」である。

どの民族もだけれど、子孫がふえるにつれ、社会が複雑化する。
しかし、教育という、公共の役人という名称での、「指導」の係りとなれば、権利とともに、義務と責任がつきまとう。

<2>>
わたしが、小学校へ復学した、1960年4月下旬ごろにも、豊中市で、交通事故があった。
小曽根(おぞね)小学校2年2組の、同級生だった。
小学校では、さいしょに、質問の言葉をかけた相手だった。

担任の松本菊子女史は、8歳の、わたしが復学したとき、わたしを知能遅れのような扱いをした。
大阪、中津済世会病院で、奇跡といわれた、ネフローゼ症候群から、少しなおったときだった。
しかし、まだ、病気のあとがあった。

体重である。尿タンパクは検出されなくても、食事制限により、塩分との関係で、学校給食など食べられない。

イエでの食事も、ふつうの児童の三分の一も食べられなくても、かなり、むくんでいた。
長い、ながい病院生活のため、歩行が困難だった。
重度の身障者あつかいで、差別用語をたくさん言われた。

大きな病院で、看護婦が、邪魔者のように、扱う、小児マヒの子供たちを、わたしは多く見てきた。
入院して、一ヶ月、ニヶ月ほどで死ぬことから、知識のない医師や看護婦たちに、伝染病とおもわれ、触れるのも、嫌われていた、ネフローゼの子供たちの病棟は、小児マヒ病棟の、奥にあった。
姫路城の、西の丸から、二の丸がみえ、墓地が北の窓から見える、日赤の、この病棟へゆくことは、死を意味していた。

1950年代は、ペスト、コレラ、チフスと同じく、カタカナの病名は、伝染病とおもわれていた時代だった。

父と母が、父方の祖父の、「このままだと、よしのぶが死ぬ、大学病院」との命令での、医療代から、奇跡の回復とかで、あと一年、9歳ほどは、生きることができると言われた。

両親が、少し、長く生きられる、わたしを、よろこんでいるので、学校の教員にからかわれても、わたしは、いいと思った。

両親のねがいで、1959年12月31日、最後になるかもしれない正月を、父が買ったイエで、おくることができた。
とうじは、身分保障の戸籍謄本はじめ、米穀通帳の携帯は必須で、イエを借りるには、複雑な手続きが、必要だった。
わたしは、豊中市浜1丁目のイエに、はじめて、入った。

「イエは小さなの。みんないっしょだから」という、わたしの言葉どおりのものだった。うれしかった。

父は、わたしが、仮も仮退院の日、五年生の兄をよび、「よしのぶも、お父ちゃんと、いっしょに、寝よ」といった。
兄のあと、父は、はじめて、わたしに顔を、近づけ「お父ちゃんと、いっしょに、眠れるんや。お父ちゃんと、いっしょ」といった。
わたしの頬は、33歳の父の顔のヒゲが、痛くかんじた。
父の、こんな喜びの声としぐさを聞くのは、生まれて、はじめてだった。

<3>>

絵画の時間があり、絵は、病院で、ずっと、描いていた。
絵は描けるけれど、「B4」という、とうじの10円の画用紙という、大きさは、はじめてだった。

教員からの説明がなく、どのように描けばいいかわからないので、思い切って、前の子に、
「この大きな画用紙、どうやって、描けばいいの?」と、わたしは質問した。

わたしたちの校舎は、服部緑地公園の南、わたしの学び舎は、天竺川の方向、「Γ 字」形にたち、天竺川を左とする窓から、2列目、前列3番目だった。
わたしが聞いた、女の子は、前の席、2番目だった。
「画用紙、いっぱいに描けばいいの」
と、振り向いて、へだたりがなく、言ってくれた。

わたしは、この言葉から、画用紙が四角だから、イエに飼っている、四角の鳥小屋を描こうと決めた。
けれども、鳥小屋をかけば、空白がでてくるとおもい、白いところがでてくるけれど?と聞いた。
「ぜんぶ、いっぱいに塗れば、いいの」
と、明るい声で、教えてくれた。

ぜんぶいっぱいという言葉から、イエで飼っている、鳥のうち、十姉妹(じゅうしまつ)、金華鳥(きんかちょう)、文鳥などのうち、兄が、いちばん安いと言っていた、10数羽いる、わたしには、かわいい、十姉妹にしようと思ったけれど、描きやすい、慣れた、二羽の手乗り文鳥にすることにした。
文鳥を先にかき、籠のラインは黒のクレヨンだったから、わたしが起きるころ、自分のクチバシで、カゴをあけ、枕元にくる文鳥が、汚れるとおもいながら、記憶にあった、イエの、鳥小屋をかいた。

母に、親切な女の子がいたと言った。
「ありがとうと、お礼を言った?」というので、わたしが首肯すると、母は、明日、もう一度と言った。
つぎの日、礼を言おうと思ったら、花瓶があり、白い菊、黄色い菊の花が飾ってあった。

<4>>
松本菊子先生は、
「クルマに撥ねられ、池田市民病院へ運ばれました。が、死にました」と言った。
授業がはじまった。

わたしだけが泣いた。市民病院というから、小さいのだろうけれど、池田市民病院は、どこにあるのだろうかと思った。

つぎは、音楽の授業だった。音楽は初めて座った階段教室。
3拍子と4拍子を手でうち、そのあと五線譜のラインがひかれてある黒板にかく。
わたしは、五線譜のある黒板をみたのは、はじめてで、3拍子と4拍子の意味がわからなかった。
説明をせず、わたしを当てる。
音符と音との関係がわからない、わたしは答えられない。足に、浮腫がでてきた。
「こんな子、だから、知恵遅れのようなのは困るのよ。6年生に、兄さんがいたわね」をはじめ差別用語をたくさん言った、松本菊子先生は言い、兄を呼びにゆき、
「知恵遅れの、弟をどうかしなさい」といった。

教員の言語によわい、兄はうなだれ、だまっていた。
そのあと、兄の担任の奥村先生(名前は、わたしの記憶である)がきた。
イエは、小学校のそばなので、
「まつだ君、イエへ、お母さん、呼んで、きなさい」と、やさしい言葉でいわれた。

後門で、わたしと奥村先生はまった。
奥村先生は、旧校舎二階での、6年生の授業を止められており、わたしは、すまないと思った。
母が、自転車できて、
「先生、もうしわけありません、ありがとうございました」と何度もいう。
後から、兄がきた。
母が、担任の松本菊子女史がいる2年の教室へゆき、謝罪すると、当然かのような態度で、教室へはいった。
奥村先生は、母とわたしを見送り、兄と、校舎のほうへもどっていった。

<5>>
わたしは、松本菊子女史の言葉により、リューマチ症候群という、新たな、アレルギー性疾患がはじまった。
済生会中津病院の小児科、浜本芳雄先生は、「ようすを、みましょう」と言われた。

小曽根小学校の、松本菊子女史は、わたしに、指示代名詞の「こそあど言葉」も知らない、知恵遅れと言った。

復学した、帰り道、走ってきて、わたしの右頬を殴った、兄と同級の、天竺川そばの、近藤君というのもいた。

また、わたしに、わたしのランドセルを投げつける、同級の、富田君という乱暴な子がいた。
富田君は、机も、わたしにぶつけた。

こういった情況を、おさめる、世間では、不良と呼ばれる、6年生たちが居た。
富田君がわたしを突き飛ばしたとき、6年生4人のうち、ひとりが、富田君を、廊下の、すのこに、投げ飛ばし、壁へぶつけた。健康なときのわたしだと、不正なばあい、6年生相手でも、かかってゆくのに、富田君は、弱よわしかった。

わたしは、なぜ?と思いながら、6年生数人と、2年生かと、わたしは、富田君の上におおいかぶさった。
わたしの名札をみた、6年生で、多少の正義を知る、ひとたちは、
「ひょとして、松田の弟か」と言った。
呼ばれた兄が、「うん」と頷くと、「変わった、弟や」と言った。
このあと、富田君とは、小曽根小学校の最初の友達になった。

これらの原因は、わたしがヨタヨタして、ノロマということにあった。
母に言うと、父に伝わり、34歳となった父は、
「安静や。学校みたいなもん、どうでもええ。いまのまま。無理、せんで。いつまで、通えるかわからん」と言った。

国語は、三日、四日目には、なれ、一週間目には、満点近くなった。
「IQ知能テスト」があり、わたしが、豊中市、大阪府から全国をふくめ、トップとでた。

IQは、学校での教育と、年齢からの算出なので、わたしのばあい、一年生、二年生でなく、三年生の算出だった。
わたしの、一年生の学校生活は、一ヶ月ほどだった。三年生など経験がない。

わたしの、きょうだい、イトコたち。血縁になると、IQが異常に高い。
わたしのIQの数値は、保育園の段階で、両祖父、父たちも知っていた。


松本菊子女史の、わたしへの扱いがかわった。
富田君のあと、バイオリンを習っている野田君と、友達になった。
タンスの中に、チョコレートを入れ、「ぼくのおやつ」という野田君は、おとなしい田中さんが好きで、田中さんのイエを、わたしに案内した。

エレガントで、いつも、フランス人形のような服装の青山さんの、お母さんが、わたしの近所まできて、ピクニックへゆきましょうとの誘いがあった。


遠足は、栗拾い。
「ビニールの風呂敷は弱いので、強い、とうめいなポリエチレンの袋」と松本菊子先生から、言われた。
祖父の命令で、旧制市立商業のあと、旧制県立機械工業へ行き、石油を知る父に、ポリエチレンというと、
「石油と、水があれば、なんぼでもできるモンや」と言う。
わたしには、理解できないので、服部の市場へ行き、母に用意してもらった、透明なポリエチレン袋に入れた。

阪急、能勢(のせ)電鉄の終点だった。栗林につくと、クリはなく、農園のおじさんが、イガのあるクリを2つみせ、クリのイガイガに触れると痛いので、クリの木から離れて、との説明をして、バケツ一杯のを、栗林のそばに、ばらまいてくれた。
わたしひとり、先に見本のイガのついたクリをさわり、痛いとたしかめた。
なんだか、インチキみたいとおもいながら、おじさんが、また、まいてくれたのを、10個ひらった。

天竺川の御影石のような橋の欄干に、とうめいな袋を、すべらせていたら、袋が破れ、クリがひとつ、ふたつ川へ落ちた。
ポリエチレン袋が強いと思っていた、わたしは、おどろき、すべらすのを止め、母に栗ご飯と言った。
母は、服部の市場へ、栗を買いにゆき、栗ご飯をつくってくれた。

<6>>
体育はずっと見学で、運動会を、いちども経験したことがなかった。
わたしは、秋の運動会のとき、プログラムを見て、綱引きや、紅白の大きな「玉押し、ころがし」は無理とわかった。
ただ、母が「紅白」をつくってくれた、「玉入れ」だけは参加したいといった。
が、人と人がぶつかる、玉入れを知る、母は、
「競争で、あぶないから。他の人に迷惑だから」と言った。

テニスのラケットに、ボールをのせ、運ぶ、ボール運びがあったので、これに出るというと、母は、
「無理をしなくていいから、やめなさい」と言った。
「ボールをのせ、運ぶ、このボール運びだと、誰にも迷惑がかからないから、これだけは、出場したい」と母に言った。

ボール運びに出場した。
わたしは、6人中、4番だった。

母は、観客が混まない、2年生の教室がわ、木の梯子を横にした、木製の棒を手でわたる運道具が背の位置にいた。
わたしが、迷惑をかけず、「運動会で、走れた」と言うと、
「よしのぶが、走れた。走れたのね」と、母は、わたしの手をとり、泣いた。
母がよろこび、泣くので、わたしも涙が出てきた。


1961年になり、1月、雪が降った。
兄と、タコ糸に、1センチぐらいの玉をつくり、小学校までの、なすび畑、かんらん(キャベツ)畑のあった細い畦道を、ころがしてゆき、10センチほどの雪玉をつくった。ころころころころ、雪がくっついて、雪がわたしと友達になるようなかんじで、たのしかった。

理科の実験とかで、松本菊子先生は、
「イエに冷蔵庫のある人、手をあげて」「冷蔵庫はありますよね。電気冷蔵庫の小さい四角の氷をもってきなさい、アイス・キャンデーを作ります。試験管は学校が用意します」と言った。

とうじ、冷蔵庫など、クラスの一割ももっていなかった。
松本菊子先生の言葉で、月賦で、電気冷蔵庫を買うひとがいた。

わたしの生家は、キャンデーの専門だから、業務用のがある。
母は、氷屋さんの氷の方が温度が低く、つくりやすいと言った。
が、松本菊子先生は、電気冷蔵庫のでないとダメという。

母は、近所の人に、電気冷蔵庫の四角なのを貰い、イエには、わたしの腎臓患者の、検尿用の試験管と温度計があるので、母に試験管での、アイス・キャンデーの作り方を習った。

塩を使い、周囲の氷の温度を下げ、割り箸で、早く、かきまぜること。砂糖は少なめに、木の割り箸だと、試験管が割れない。これが基本だった。

冷蔵庫の氷は、クラスの半分も用意ができなかった。
また、氷への知識がなく、電気冷蔵庫を買い、学校へもってきても、氷が、半分、融けている児童が多かった。

母は氷屋さんの、氷で、電気冷蔵庫の氷をくるんだ。
融けていなく、冷たい氷で、わたしは、学校で、試験管をつかい、いちばん先に、キャンデーを作った。

電器冷蔵庫の氷いっぱいの、松本菊子先生は、できなかった。

冷蔵庫の氷がない、級友たちは、わたしのところへ来て、喜び、パチパチパチパチ、拍手をしてくれた。

<7>>
ほんとうに、インターネットといい、電気冷蔵庫といい、おさない「児童」の心身をさわがせ、おびえさせ、「GMエジソン等」に特許料が「自動」にはいるよう、電器メーカーがもうかるようにしたのが、帳面屋の文部省の学校教育システムだった。

2006年秋、インターネットで、被害者の、両親を、子供を亡くした悲しみを、言葉、金銭で、返せない、悲しさと、在りし日の、かわいらしい隼ちゃんの写真ではなく、事故後の、警察関連、司法関連しか所持しない写真を公開するという、法外な人物がいたという。
しかし、インターネット社会は、企業、何もせず金銭目的の帳面屋の組織にとって、「両刃の剣」となる。


兄が、町立、米田小学校へ入学したころだろう。
1955年、同窓の女子が、国道2号線で、トラックにひかれた。ムシロが、かけられていたという。

小学生たちが、わたしのイエで、話していた、現場情況の「言辞」は、いまも記憶にある。
3歳児のわたしは、残酷な話だとおもった。
いまの、わたしにも、記載できない。
人間の死は、犬や猫の死より、おもしろいようだった。

高齢の父に、インターネットをつかい、絶対なる悲しさを、からかう人物の心理をきくと、
「この世には、苦しむ人を見て、喜ぶ人間がいる」と、あきらめた声でいった。

片山隼君の命を、いまの世の中から、消すことになった原因は、トラックだけれど、トラックだけでなく、トラックを走らせる社会構造、また、トラックを囲む、社会環境にもある。

片山隼君をいそがせた、学校という制度にもある。

小学校は、寛大で、大きな許しをもった所で、いいのではないか。

わたしが、四年生のとき、加古川市立川西小学校への、集団登校の引率の役となった。

先祖は寺子屋(出自、播州、印南郡西神吉村、学問所)。
江戸時代の「松田與兵」、そして、「松太郎」、明治時代の祖父「好太郎」の教え。
祖父は、一切、わたしへの、叱責などの言葉は無かった。すべて無言だった。
村とは、町とは、互いの協力ということは、祖父の友人たち、国会議員たちとの言葉で、わたしは、おぼえた。

わたしは、ハンカチ、宿題など、「忘れ物」の部類は、上級生がおぎなうようにと言った。
また、忘れ物、宿題には、大玉校長、村津末雄先生が、きわめて、ゆるやかな先生だった。

村津末雄先生は同学年の2クラスの責任をとられた。学校行事のときは、校内を駆けられていた。

<8>>
1963年5年3組担任の岡重信先生は、「このクラスで、ゴミ箱が、ポリバケツのもの、手をあげろ? 木のは、不衛生だからなっ」と言ったので、記憶にあるとおもう。
わたしのイエは、岡重信先生がいう、不衛生な木の箱だった。

浦谷君、早川君、木下君ところも、木製だった。

なかでも、感受性が非常に高い、大阪、明星中学校へ進学した浦谷君には、わたしが転校してくるまえ、4年生のときにつけられたアダナがあった。

原因は、生理現象からのもので、不衛生な、アダナの意味を、他のひとが、わたしに言うというとき、5年生の浦谷君は、中庭の廊下のところで、
「おねがい、おねがい。まつだ君だけには、言わないで、おねがい」と大声で泣いた。

こういったことは、テキパキ言う次男の早川君より、三男の木下君が、しずかなので木下君を、温室のある、学校の奥へつれ、聞いたら、悲しそうな顔で、生理現象からのものと言った。
それで、わたしは、泣いている浦谷君と周囲に、
「浦谷君のアダナは、やめよう。ぼくは病院の子。大きな病院では、いつものことで、我慢はしないように」と、姫路日赤の小児科、山本又一先生に、いつも、笑顔で、おしえられたと言った。

<9>>
「片山隼君事件」だが、カメラという、現場情況を的確にうつし、報道できるのに、原因を、うつしたものをわたしは、知己から、聞いていない。

警察は、法律家は、マスコミは、あまりにも、悪い資本経済にふりまわされている。
司法、立法、行政の、「帳面管理」の仕事に、癒着があれば、良き生産はなく、食糧、賃金など、発生しない。

約束事をかく帳面(台帳)は、紙であり、食物ではない。
帳面は、どこまでも、経済活動を敏速にする約束の遵守である。
この経済活動の根本を忘れているのではないか。

また、学校制度である。もう、少し、小さく、あたたかなものにできないものか。

片山さん、隼君たちの生活の場は、わたしも住み、散歩へとゆく、砧公園への、とちゅうの道にあった。

父、片山徒有(ただあり)さん、母、章代さんの言動は、正しい。
このご夫妻は、我が子のことで、どれだけ涙を流されたか、どれだけの悲鳴をあげられたか。
眠れる夜があったのか。

勇気ある、目撃者の視線、現場情況、トラックの進行方向の、右に、コンビニ、クルマ販売店、スーパー。左に、とうじでは新しいバイキング形式をともなったカフェレストランなど、店舗の数々をのべる表現は正しい。

一番の問題は、わたし自身、かなり利用した、意匠が新しい、明るいカフェレストランである。

世田谷美術館ができ、クルマと人の流れが変わるのかと期待した。

我が身が大事の、運転をするがわは、複雑な様子となった高架の「三本杉陸橋」に、視線が、意識がうばわれる。
直進であれば、「環状七号線」、および、「首都高速3号線」。
進行方向と交差する、「環状八号線」の右は、「東名高速、用賀(東京)インターチェンジ」、左は「中央自動車道」である。

大事なことは、この複雑さを、だれにも、わかりやすく、説明できる社会にしておくことである。

この基本を失うと、信頼から構成され、良き生産へと向かう、社会は、崩れてしまう。
これを否定する、権力、権威など、いっさいないと信じたい。

わたしと、1994年、この明るいカフェレストランを使ったなかに、ひとり、とうじ、公務員だったものがいる。

<10>>
原因は、1994年はじめ、新宿の出版社、「至文堂」の川上潤さんからだ。
「依頼の手紙をおくっているのに、なぜ、連絡してこない」と、命令口調の電話があった。
わたしは、サインだけの印刷文に応答する義務はない、だいいち、あなたを知らないと言った。仕事中だといった。
すると、
「そっちからの、持ち込みだ」と言う。
わたしは、
「そっちとは誰で、わたしが持ちこんだのではない」というと、
「なに、持ち込みだ。そっちからのだから、返事して当然だ、この非常識め」と怒鳴りにどなる。

わたしは、至文堂の川上潤さんからの印刷文は、友人たちに聞いた。
出版社はじめ、主催者に、礼儀がなく、守銭奴なので、やめておいたほうがいいとのことだった。

「企画がすすまない」と川上潤さんはいい、電話を切らない。
わたしは、主催の、心理学の詫摩武俊さん、佐藤達哉さんなど知らないと言った。
「確かめる」と川上潤さんは言い、わたしを蔑む、乱暴な口調のあと、
「都立大の佐藤達哉先生が、マツダさんからの電話をまっているから、かけてくれないか。こちらが手紙を送ったのに、返事をしなかった」と少し、おとなしくなり、電話番号をいう。

わたしは、仕事中で、なぜ、面識のない、佐藤さんに電話をしないといけないのかと言った。
すると、
「なに言っているんだ、こちらが手紙を送ったのに、返事をしなかったじゃないか」という。
「なぜ、強要する、権利があるのか」と、わたしがいうと、
「そっちからの、依頼の企画だ。出版物をだしただろ」という。

わたしが、
「あなたは、わたしの、印刷物を読まれましたか」ときくと、
「読んでいるはずがないから、知らないんだ」と、きつく言った。わたしが、
「ほどほどにしなさい」と言っても、また、川上潤さんからの電話で、
「佐藤達哉先生と、こっちが困るんだ」と言う。

わたしは、あきれ、
「非常に忙しい、『改定、血液型と性格の社会史』のとちゅうで、もう、かけてこないで欲しい」といったら、また、
「なに言っている、クダラン本。同じ、血液型と性格で、性格学の権威、都立大の詫摩武俊先生と、佐藤達哉先生だ」と言う。
それで、わたしは、川上潤さんが、面識があるという学者を言った。
「冷静になりなさい、川上さん。わたしへの侮辱も程度がある。わたしの本を見てからいいなさい」「再掲載だが、あなたが編集された人で、人類学の金関丈夫先生がいる。学者だ、本物です。わたしは、詫摩武俊さんとやらの業績を、いっさい、知らない、これ以降の電話は、警視庁へ通告する」と言った。

<11>>
ようやく、佐藤達哉さんとやらから電話があった。官僚ふうの声をきく、長い。
偉いのだそうだ。「当たり屋」だそうで、因縁、脅しを知っている。
とにかく自分勝手な論理が長いので、注意し、わたしは、佐藤達哉さんの、手のラインを言いはじめた。

心理では、河合隼雄さんといっしょのラインだ。
『1968年、湯川秀樹式、改定知能テストでは、99ぐらい』はあるのではと思った。

第16代文化庁長官だった、河合隼雄さんは、40歳をすぎても、人前で、話すことが、なかなか不得手だった。
京大、教育部の教員となったころ、ようやく、講義が上手くなったので、京都府教育委員長の山田忠男先生から、
「最近、面白いとおもうひとは?」との質問に、わたしは、いまどきユングの河合隼雄さんと返事した。
「そうですか。よかった、まつだ君」「ほんとうに、河合君は、どうなるかとおもったんです。ようやく、話ができるようになった」
と、自分自身のことのように、喜んでおられた。

山田忠男先生は、湯川秀樹先生は、桑原武夫先生は、わたしの論文のことで、若い世代の、河合兄弟が動くとおもわれた。
思考パターンを分析していた、わたしは、
「河合隼雄さんと河合雅雄(元、京大霊長研)さんの手のラインをした人は、鶴の恩返しではなく、鶴の逆襲をしてきます」と言った。

山田忠男先生が、「どうしてですか」と、パイプをもち笑い、聞くので、
「あの手のラインをした人物は、相手が所有するもの、すべてを奪うからです。湯川さん、桑原さんのすべてもです」
と返答したが、信じられない顔をした。

佐藤達哉さんの電話のあと、わたしは、都立大の心理の詫摩武俊さんとやらに電話を入れた。
詫摩武俊さんが、調子よく出てきたので、しばらく合わせた。こころある言葉が、ひとつとして、ないひとだった。
『湯川秀樹式、知能テストでは、100ぐらい』、こういった人物だとおもい、
「弟子の指導は、しっかりしなさい。責任を覚えなさい、知能より、常識を高めなさい」
と厳しく、激しく、注意すると、電話をガチャンと切った。

この経過で、佐藤達哉さんが、急に、
「お百度参りをさせていただきます」と泣きついてきた。夜だ。深夜だ。

わたしは、神社ではないと、ことわっても、ことわっても、行きますと、礼儀を知らないので、『改定第2版、血液型』の印刷との時間の関係で、わたしは、ただただ、時間と労力が、消えてゆく協力をした。

佐藤達哉さんは、お礼はしますといった。
わたしは、「常識という礼、こころある礼」といった。
なかった。

佐藤達哉さんは、わたしに、わたしの著書をおくらせ、立命館の佐藤達哉さんとやらは、自分の新刊書がでたから、買ってくれとの、ハガキは、まめに、送ってきてくださった。

モダンなカフェレストラン、その後の、中華料理屋他、わたしが、お金を払わせていただいた。
資料、手紙なども速達、北海道に、お住まいの、渡邊芳之さんとやらの、偉い先生にも、電話代(北海道4時間)はじめ、すべて、当方が持った。
いま、帯広畜産大学の渡邊芳之さんには、『1968年、湯川秀樹式、知能テストでは、101ぐらい』と、詫摩武俊さんより、知能が、高く感じたからである。

『1968年、湯川秀樹式』は、IQの平均数値が、変動数値基準をとる。
メジアン(median、中央偏差値)を決定せず、正規分布 を措定とし、「90」以下を、弾性のある基点とする。
「1」は、わたしたちが、算数で知る、また、従来の日本心理学とやらの「1」ではない。

『血液型と性格――その史的展開と現在の問題』(至文堂、1994年)ができ、佐藤達哉さんとやらが、「至文堂」の川上潤さんが、
「マツダさんにどうしましょうと聞くので、送って、あげておいてくださいと言っておきましたけど」
と恩をきせる言い方に、わらった。
この佐藤達哉さんとやらは、言葉づかいを知らない。
佐藤達哉さんとやら、あなたは、いったい、どこの幼稚園をでられたのか。

「あげておいてください」という、佐藤達哉さんとやらの表現では、わたしは、乞食のようだ。

ご専門が、心理とは、わかった。佐藤達哉さんとやらは、高校生のときに、詫摩武俊さんの著書も知らず、
「詫摩さん、今年か来年、ガンで死にます」と1994年に言った。

まだ、ご健在で、1927年生まれの、詫摩武俊さん。旧制の中学、高校のとき、授業がなかったのはわかる。詫摩武俊さんが、東大とやらのとき、文学部講師、吉川英史先生は、無給で、他の講義も少なく、なかったのはわかる。
しかし、学習など、卒業しても、できるではないか。

わたしの父方のように、学問のイエでないのだから、第二次大戦中、生きた知恵を伝達する、祖父や父を持たなかったのも、わかる。しかし、常識はどうしました。もう、いい年齢ではないのか。

しかし、心理学もふくめ、すべて、学問をしているという、その基盤があり、そこに研究業が成立してゆく。
心理実験、批評を専攻しても、それは、学問ではない。心理学ではない。
なにより、かんじんの、「こころ」は、どうしました。

あなた方が、「血液型と性格の関係」の、懐疑派とは、わかった。
わたしは、「詫摩武俊グループ」、世界の心理専攻の、「性格」を、「心」を追及しない、学問の基本を、意識しながら、忘れているあなたたちへの懐疑派だ。

だいいち、心理学など、世界のアカデミズムのどこにある? どこにありました?

哲学批評を専攻しても、それは、哲学の根本から離れたものである。哲学ではない。
哲学とは、心と体を基盤とする。

評論家ばかりで、かんじんの選手がいなく、すぐれたスポーツが成立しますか。観客、学生がきますか。

<12>>

いま立命館大学の「当たり屋」「目撃証言」などが専門という、まったく、縁もない、面識もない、無礼な佐藤達哉さんとやらは、
「都立大学の助手から、福島大学の助教授に出世するんです」という。
わたしは、「いったい、何の関係があるのですか」と言った。
「ぼく、国会議員になりたいんです」と言う。
かってに、なればいいし、国会議員は、礼儀がないとできないと言った。

そしたら、都立大のとき、結婚し、研究する女性を捨てたとは言わず、謝罪をはじめた。
佐藤達哉さんとやらに、わたしは、「既成の考え方をあてはめるなら、あなたは、分裂症」と断言した。
そして、食事をはじめ、性癖をいうと、佐藤達哉さんとやらの脳裏の大半は、女性を人間と思わず、道具のひとつと考えることを、手のラインから指摘した。

そういった論理、思考形態だと、男性としての、あなた自身はどうなるのかと質問すると、国会議員になって、金持ちの美人の女性と結婚したいという。
佐藤達哉さんとやらの、算数では、一流大学、国会議員、金持ち、女性など、世界は物品としての、対象である。
純粋な、こころだけで、生きている人、真剣に学問へと向かう人は、彼の、思考に、ないという。

行動パターンを変えると、手のラインは、変化すると注意した。
佐藤達哉さんとやらは、わたしとの出会い以降、他人の、真実を大事にする、こころを大事にして、
「公共のために、弱者のために、がんばるんです」と言った。

わたしは、約束をまもるなら協力はする。しかし、社会の弱者の理解、役立つ事をすること、と言った。
テレビに出たいというので、手配もした。

そのため、「目撃証言」を専門とするというのだから、「片山隼君事件」は、場所がわたしとの出会いのところ。
しかも、周知といった。

ぜんたいがガラスのカフェレストラン。1994年、佐藤達哉さんとやら、あなたが、長く座っていた席は、コンビ二が見え、1997年の片山隼君が犠牲となった、押しボタン式信号の、交通事故が、はっきり、見えるところだった。

とうぜん、父、片山徒有、章代ご夫妻への積極的な参加の申し出をし、わたしへの報告があると、思った。
片山隼君が、犠牲となった、あのカフェレストランは、わたしと、2時間以上座って、議論した、場所ではないか。

佐藤達哉さん。あなたが、1994年春から、国家公務員ですから、社会奉仕しますというので、わたしは、無償の奉仕だけをさせていただいた。

そのための、国家公務員である。本来の学界がもつ、正義にむけての発言を、多くの人々に公平を与えるのが、国家公務員の役割である。さらに、学徒を自覚するならば、議論をつんでゆく行為により、学問の強さを、真実の強さを、学習し、表現してゆくものだからである。

ところが、この、佐藤達哉さんとやらは、真面目な学者など、自分が使う、文房具のひとつ、鉛筆の一本にもすぎないと、考える輩とわかった。

あなたは、1997年5月、神戸連続児童殺傷(土師淳君)事件には、国立の福島大、所属した法律系で「法心理学」グループを結成し、マスコミに協力しているではないですか。

佐藤達哉さんとやら、あなたらしい。
加害者が、トラック運転手など企業の人でなく、個人だからね。
加害者が大手企業だと、大変ですからね。

学問がもつ、正義と無縁の、佐藤達哉さん、あなたは、わたしの、限りある歳月を、どのような打算で奪ったのか。いちど、論述し、公開せよ。

福島、喜多方が、祖父の出身といった佐藤達哉さんとやら。
わたしの、先祖ゆかりに、血族の会津藩松平家があることは言った。

<13>>
1964年秋、1965年夏、まだ、豊中市立庄内小学校、豊中市立第六中学校の裏門には横断歩道がなかった。

わたしは、2006年秋になって、高齢な母に、話をした。

1964年秋、豊中市庄内小学校の裏門のオートバイ事故は、6年3組と4組、5組、6組がいっしょに帰り、3組の宮本さんが、リコーダーで、3組の男子をぶって、泣いたことが大きい。

男子が泣き、そのさわぎで、後門からでたとき、30数人の集団に、オートバイが突進してきた。
それで、まず、女子を払い、つぎに男子を払い、わたしが、犠牲になったと言った。
わたしが轢かれる瞬間の、宮本さんの、硬直した表情は、まだ、記憶にある。

オートバイを運転していた、大学生が、うろたえ、姓名をいい、わたしの体を、両手で支え、
「ほんとうに大丈夫」「ほんとうに大丈夫」「後遺症の心配があるから」と何度も言った。

わたしは、いつ死ぬかわからない体だったことから、「後遺症」という言葉で、大学生の将来をおもい、
「大丈夫です。歩けます、近くですから」と言って、大学生に、帰ってもらうようにした。
後遺症というのか、イエに入ったら、わたしは気を失い倒れた。

さらに、1965年夏、豊中市立第六中学校の裏門で、オート三輪車に、突進される事故にもあった。
このときは、中学一年生、庄内幸町の同窓の女子6人を助けたためだった。

敏捷性は、陸上部での練習のせいか、同じ年齢では、大阪府一になっていた。

ひとりは、わたしの、真っ裏に、イエを借りている人だった。

わたしのイエとは無関係でも、近所の体裁上、わたしが、身代わりになったとわかれば、生活ができないと思い、わたしは黙った。

この交通事故のときは、後門、一面、わたしの血が流れ、豊中市立第六中学校の、臨時朝礼で、
「運動も、勉強もできる、本校の生徒が、交通事故にあいました」と校長がいったらしい。

イエの、裏の方の、新しい借家人が、わたしの母をつかまえ、
「奥さん、この付近で、交通事故にあった男の子がいて」と言ったとき、わたしの母は、
「ウチの子です。連絡のときは、死んだかと思いました。でも、助かって」といい、この経過を、わたしに話した。

わたしは、この2006年暮、母に、
「あれは、新しく転校してきた、裏の女の子たちを助けたため」と言った。
母は、「えっ!?」と言って、黙った。


詫摩武俊さん、佐藤達哉さん、わたしは、いまだ、あなたがたも、原因のなかだが、あなたがたで、わたしは、自分の子供を亡くしたとは、両親に、言っていない。



▲黒谷、栄摂院 (写真:松田薫)

▼黒谷、金戒光明寺 〔山田忠男先生。桑原武夫先生が眠る〕
(写真:松田薫)

HOME
「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-12-22