京都昨今
42、くずはのあおあかりの朝に                           白川静        

1)
「春は あけぼの やうやう 白く なりゆく 山ぎは 少し 明りて 紫だちたる 雲の 細く たなびき たる」

津崎史先生は、教壇におかれた、教科書をよまれ、区切りをつけたところで、顔をあげられた。
そして、教室の右端にいる、わたしから、中央をみて、
「枕草子の舞台、これは、まつださんの、ところですね。交野(かたの)のもりとでてくるところは、いまの、楠葉(くずは)ですね」と、やわらかな言葉でいわれた。

わたしの住んでいる場所が、枕草子の舞台であること。
津崎史先生がいわれ、古典との関係が、まったく、異なるものとなった。
こころとは、ことばとは、このような表現で、ちがう境界をつくってしまうものとわかった。

高校二年生だった、わたしたちには、古典の位置がわからなかった。
いくつもの、言葉のつづりが、ちがう音のならびが、日常のものであるのに、すぐ身近なものであるのに、わたしたちは、知らなかった。

さまざまな言葉がもつ、音と形が所持する意味。
それらは、町の、ひとびとのこころに、親から子へと伝わってきた仕草とも。
さらに、町の、建築の有り様により、遠いものどころか、在りかすら、見えなく、わかりにくいどころか、わからないものへと、なっていた。

理解には遠く、関係なく、おもえた「枕草子」だった。
しかし、わたしが、家族と生活をしている場所という説明によって、わたしたちと、古典との距離を、かえてしまった。

級友たちは、枕草子が、わたし自身とつながり、わたしの日常と連続し、わたしと、清少納言が、ともだちであるかのような表情をつくってしまった。
わたしは、あらたな、親しみのある、級友の表情に、かこまれた。

楠葉には、清少納言の、足跡の碑もなにもないので、わたしの心は、まだ、なにかわからないまま、ぼんやりとしていた。
そういうことなのかという断定ではなく、まだまだ、なにもわからないという疑問から、ほんとうに、そんな文芸の美の価値があるところなのだろうか、わたしには見てゆく眼がなかったのだろうという、自身をあわれむ推測のなかにいた。

いくつもの時代をかさね、単純そうな境界をみせ、複雑そうな心をかさねながら、津崎史先生の、音韻と形相からなる、つみかさなる言葉の歴史をしる、こころと、わたしたちがなじんだ、津崎史先生の、かざりない発声により、「枕草子」は、すぐそばにある作品となった。

枚方市のもの、京都から、かようものは、
「まつだとこ、行っていいか」と言う。

わたしは、いいよといいながら、古典の、いくつもの言葉を考え、いくつもに織りかさね、かぎりある歳月の中で、確かめられ、往来した、ひとのこころは、教え方、導き方によって、このような力をみせるものかと思った。

「枕草子」は、文章が短く、随筆なので、どこの高校でも教材とし、京阪沿線では、わたしのイエのあるところが、的確であるらしい。

「冬は つとめて 雪の 降りたるは いふべきにもあらず 霜の いと白きも」
と、津崎史先生の、てんたんとした発声による講義はつづく。

1969年、1970年のはじめの、交野の杜の雪、竹の子の産地、男山では、20センチ、30センチはふつうだった。
わたしは、雪ふる白い、くずはに、太陽があがろうとするころの、あおあかりを見ることが、よろこびの、ひとつになってしまった。

祖父から、遺言で、学問をといわれた八歳のとき、基礎医学は仕事として、雪の研究は趣味として、生きている間の課題としようとおもっていた。

白い雪は、雨しずくの、ふしぎな結晶。
楠葉や、石清水八幡宮の男山のひとたちには、ありふれた雪が、結晶の構造をかんがえる、わたしには、どこまでも、興味がいった。

新しく雪がつもった日は、黒のつるばみの色合いがのこる、朝5時まえ、男山のほうへ、散歩にいった。

つるばみの空に、あおがまじる時、あけぼのを眼に、いつも、少し歩いて、帰るつもりのため、スリッパが多く、スリッパのまま、竹やぶの笹と、小さな池のある、男山の方へ歩いた。
2時間の散歩は、ふつうの日々を送っていた。

池があることは、秋に、静かな鳥、キジバトが、いくつも教えてくれていたせいと、冬は、低地で、つきまとうメジロ、ときおり、まるい姿をみせてくれるヤマガラの二種類には、ほほえむしかなかった。

なにより、わたしには、大胆に、ちかよってくる、ピィ、ピッーとぐらいしか、鳴き方をしらない、祖父が好み、竹籠をたのんだ、ウグイスがいる。
ウグイスは、わたしに、土道をおしえてくれる。そのために、池へ落ちたことはない。

とうじは、濃い緑の杜の言葉がふさわしい、石清水の山をのぼり、立つ。
対岸は、大山崎で、わたしの作文を誉めてくれる、国語の恩師の離宮がみえた。

津田彰先生も、朝の中で、境内を、うすい茶の砂による、ひとつの色へ、清められているのかと思うと、同じような山あいで、呼吸し、同じような、川からの、白い、何層も、立ち込めゆく、蒸気の靄にいることが、安心をさせた。

わたしは、ひとりでは、ない。

笹と笹、小さな林と林での池にいた、おしどりが見せてくれた、光のある小豆色にはおどろき、ありふれた紫蘇色に、金をもつ茶との色彩は、見慣れているはずだのに、この美しい、かがやきは、日本画家の、こころが、題材へと、えらぶ理由を、石清水の男山のふもとで、知った。

わたしが、小鳥のなかで、好きなのは、やわらかな光のある日にあらわれる、白や黒のセキレイだった。
川での、かれらなりにしてくれる、つぎつぎ波打つような飛翔には、いまだ、眼をひかれる。


津崎史先生は、若いのに、京都をはじめ、古典によまれた、枚方市かいわいがくわしい。
「天の川は、そこですね」と、教室の左窓から見える、田圃の先の、川を言われる。
「天の川って、あれがか?」と、いつも渡る川をみて、男子高、理系の2年E組みは、なんだか、遠く優雅な、歴史の夢から、現実とであった雰囲気になる。

わたしたちには、古典にでてくる、地名や場所は、やはり、日常から、格段はなれ、あこがれをもって見るような対象であってほしいとも考えてしまうようだ。

育ちからだろう、教養のゆたかさをかんじさせる、津崎史先生からの講義だと、在原業平、紀貫之も、まるで、この地ゆかりの人どころか、解釈をきいていると、つい、ひと世代まえの、知人のような気分になってくる。

とうじ、寝屋川市が住まいといわれた、津崎史先生には、西占君たち京都組みが、
「津崎先生とこの、おとうちゃん、中国文学で、偉いねん」という。
白川静(しらかわ・しずか)ときくと、女性のような名前だが、西占君らは、
「津崎先生のおとうちゃんやねん」という。

白川静先生は、立命館で知られるが、父親が京大や、府立医科大勤務のが、
「津崎先生のおとうちゃん、いま、京大や」という。
学生運動のさなか、広小路から、荒神橋をわたって、東一条から、文献の多い、吉田の方へ、歩かれていたのだろう。

2)
1937年(昭和12)、日本では、七夕の祝い事がのこる日、盧溝橋事件がおきた。
日本と中国は、長く嫌な、戦争の時代へとはいってしまった。

同じ、1969年、高校二年のとき、漢文担当は、東京文理大学出身の、京都で教鞭をとられ、退任された後ときく、富田清先生だった。
わたしたちの学園には、富田清先生とおなじく、京都の学校を退官された、古典の先生が三人いた。
わたしたちのグループは「おじいちゃん先生」と言っていた。

おじいちゃん先生の富田清先生は、わたしたちを、自分の孫へのような、漢文の教え方だった。

啓光学園ができたころを懐かしみ、むかしは、塀などなく、昼休みは、生徒が、小川へと魚取りなど、遊びにゆき、始業のベルが鳴っても、聞こえず、もどって来ないので、両手をひろげ、
「授業がはじまるぞー」と、呼びにいった時代が、楽しかったと言われる。

古代からの中国語が堪能で、白文を日本語どうように読める、富田清先生は、長い戦争のとき、朝鮮半島から、満州での、連隊長だったといわれる。
戦争の話になると、わたしたちを、旧制の学生のように、
「諸君。戦争とは、殺し合いでは、ない」と言われた。さらに、
「その地で、生活する人々を殺してしまったら、われわれ、軍人は、どうやって、生きてゆくのか。食物をはじめ、共存してゆかないと、何万もの、軍隊の、生活が成り立たないではないか」と強い言葉でいわれた。

また、肝心の、漢文の修得は、
「諸君。わたしが配る、プリント、今日で、30枚目だ。この一年で、100枚となり、これを、勉強していれば、どこの大学の問題も解ける。持っているだろう」と言った。

わたしの漢文は、一年から、平均97点で1番。2番は83点と、ずいぶん差があったが、受験とは別なので、カバンをさがすと、休み、欠席の多い、わたしは、6枚で、西占君たちにきくと、「捨ててしまっている」との返事だった。

この様子をみた、富田清先生は、
「諸君、わたしは、懸命に教えている。これでは、怒るしかないが、わたしは、笑う。笑いながら、怒っているのだが、これは、悲しい」と、大きな体躯から、教室中、校舎中ひびくような声で、「わはははは、泣いているのだ」と言われた。

また、わたしたち、物理が担任の、理系、2年E組の生徒に、三八式歩兵銃の、銃弾の方向性について、質問された。

「諸君。匍匐(ほふく)の姿勢で、まったく、反対方向に向かい、しかも、背に、山があるのに、その方向へ玉が飛んだことがあった。これは、どういうことだ」と、黒板に地形をかかれ、言われる。

銃弾は、飛距離により方向が変わり、三八銃、それぞれにより性能がかわることは、わかっていたが、正反対で、楕円をえがき、山をひとつ越えてゆき、それが、流れ弾となる実際は、理解にこまった。

わたしたちは、生徒に人気のある、富田清先生が言われる、事柄に、答えがなかった。

巨人阪神戦をラジオでききながら、新聞への原稿をかくことが、楽しみのひとつといわれる、富田清先生は、朝鮮語もされ、先住民の、朝鮮人と満州人からなる、村の母親が、抗議にきたことを話された。
「大事な男の子の、『親似』がとれたと怒っているのだけれど、わたしも、中隊長たちも、中国語はできる。朝鮮語もわかる。しかし、黒板へ、怒り、無我夢中に、かかれた、『親似』が何か、わからなかった」と言われる。

「怒り方がふつうでないので、われわれ軍人の生活もあり、これは、大変な事をしてしまったとわかるため、母親の真剣な抗議をきき、とにかく謝罪をした。しかし、まったく、正反対に銃弾がとび、山を越えてゆくことも、驚きだし、われわれが、何を失敗したのか、わからなく、時間をかけて、聞き、絵を描いてもらい、ようやく、大事な失敗をしてしまったと分かった。『親似』は、その村では、男の子の性器のことだとわかったため、連隊長のわたしの責任で、なんども、謝罪をした。このように、生命ひとつが大事な時代だった。中国の農家の人たちとは、言葉を絶えずかわしていた」という。

わたしたちは、自由主義者で、それぞれの土地の、生活民が、信条として生きる事柄を大事に考える、富田清先生の漢文の授業には、納得しかなかった。
「諸君。戦争とは、おこしたくて、するものではない」とも言われた。

1970年という複雑な時代になり、生徒が、カトリックの規律の根底をゆさぶるような事をしたとき、高齢の富田清先生が、最上階へ駆け足でこられ、息をせきながら、教壇から、
「諸君のクラスでないことを、わたしは信じる。が、礼拝堂をまえにして」と、激昂された。
富田清先生から、事件の経過をきき、礼拝堂から、いちばん遠い、わたしたちのクラスでは、不可能だし、3年E組は、わたしが居り、わたしは、沈黙のまま、全員が着席をしていたことを、首を横へふり否定した。

富田清先生の抗議と怒りを、真摯に受け止め、わたしは、富田清先生が去られたあと、時間をとり、3年E組のグループごとに、声をかけ、違うとの、確認をし、神父室のなかの風紀室に居る、津田彰先生へ報告に言った。

3)
津田彰先生は、古地図にのり、石清水八幡宮より古い、離宮の歴史など言われず、津崎史先生も、自分の父が、中国、古典文字の権威であることは、ひとことも、おっしゃられなかった。

『字統』があらわれ、マスコミに大きくとりあげられたとき、わたしは、完成させられたのかと思った。

わたしとは、いつでも会いますと返事をくださり、『仏和大辞典 』(1981)の最終稿をおえられ、病床のまま、逝かれた、伊吹武彦先生を思うと、白川静先生も、年齢から、倒れられなければ、よいとだけ願っていた。
また、フランス語をある程度習熟した学徒には、伊吹武彦先生の『仏和大辞典』を見ると、もう一度、改定稿を出したかったのでは、しかし、辞書の大きさから、最低、五年はかかかること。
出版社との関係をふくむと、時間の諦めが大事で、それらを、考えると、複雑な気持ちが、あられたのではとおもうと、『字統』の白川静先生にも、つぎの業績が、作品が、とおもった。

恩師が、中国哲学の塚本善隆先生が80歳をすぎ、逝かれたとき、「まつだ君、ツカモト、死んでしまいました」と言ったときは、まさしく、同じ思いだった。
また、わたしに、「東南アジアの仏像の整理がまだです」といわれた、佐和隆研先生が逝かれたときも、「サワが、死んでしまいました、わたしも、もうすぐです」と言われたとき、高校生のときから業績を知る、わたしにとっての、大事な「おじいちゃん先生」が、つぎつぎ消えることに、悲しい感情が、ふえていった。

東京マスコミの驚きの反応をみながら、わたしの遠くからの願いは、次の、『字訓』、さらなる『字通』となって、あらわれ、来た。

富田清先生どうよう、15年戦争をくぐられた諸先生方にとって、とうとい、安心の、時代へはいったかと思った、1960年代という、50歳代の、学問の収穫時に、70年安保反対という、扇動家による学生運動という、学問の場を、よごし、壊した時代を向かえられた。

扇動家には、東大の書籍、文献の保護も、無給や薄給の先生たちにより、どのような方法をとられ、戦火にみまわれる危険のない、縁戚のある山奥へ連絡をとり、クルマが木製の車力(しゃりき)から、ようやく、力に無理のないタイヤとなったリヤカーをつかい、三人、四人の学者たちが、一団となり、文献を、坂がつづく、山道から山道へとはこばれ、また、東大へ、それぞれの旧帝国大学へあつめられ、もどしたか、まったくの考慮がなかったのだろう。

さらに『字訓』『字通』を思考され、編まれ、晩年に、大きくあつかわれた白川静先生だが、わたしたちには、1960年代から、「津崎史先生の、偉い、おとうちゃん」であり、「偉い、おじいちゃん先生」だった。

いま考えると、とうじの白川静先生は、60歳まえで、「おじいちゃん先生」というのには、若かったけれど、わたしには、塚本善隆先生たちにまじって、学問以外の小さなことには、こだわらない、偉い、おじいちゃん先生だった。
偉い、おじいちゃん先生たちは、新しい解釈をと、正しい解釈をと、研究のつみかさねによる自信で高め、行われた。

啓光学園の京都組は、学識のイエを尊敬するので、津崎史先生へ信頼があった。
津崎史先生が、
「まつださん、その教科書、どうしてですか」と、わたしにきく。

古典の教科書は角川書店ので、注釈が多く、津崎史先生の講義とずいぶんちがうし、どうしても、眼が、意識が、注釈の方へいってしまうことから、そのまま暗唱しようと、わたしは、注釈の部分にあたるところを、裁断した。
わたしの教科書は、三分の二のサイズになった。
講義と文章に集中したいからですと理由をいうと、
「そうですね。たしかに、注釈が多すぎますね。ないほうがいいですね」と津崎史先生はいわれた。

いまだ、わたしには、わたしを、文学部、吉田の教授室へ、まねいた、優しい笑顔のおじいちゃん先生の芳名が記憶から消えている。
こわかったスーテル神父の名前も、消えていたので、学園に問いあわせ、元の級友に教えてもらったが、津崎史先生の「偉いおとうちゃん」、わたしたちの「偉いおじいちゃん先生」が、この秋に逝かれた(2006年10月30日、96歳)。

確認のため、妻に、啓光へ連絡を入れさせた。
年配の古典か漢文の先生といい、電話に出てこられた、親切な、先生が、
「そうです」と言う。
電話のふんいきから、妻に、先生の名前を聞いてというと、
「いしづかです」というので、わたしが、受話器をとった。
「石塚勇先生、まつだです」というと、
「おお、まつだか」と言う。
35年の歳月が経っていた。
石塚勇先生は、体育担当で、わたしの、ラグビーの先生だ。
石塚勇先生は、ラグビーの楽しさの基本、ボールのリレーを大事とした。

わたしは、水泳でジュニアのバタフライで、夏、一位にさせた件と、高校生のクラブ登録制度が変わり、予定していた、ラグビー部へはゆけなくなった。

石塚勇先生は、こういった事情を知っておれらたせいか、ラグビーの時間、人数の少ない、わたしのグループ側にはいり、タッチラインからのボールを、
「啓光ボーイ、まつだ」と言って、投げてくれた。
わたしが、メンバーへ、ボールをリレーし、また、もどってくるボールへ、いつも、おいつき、わたしのそばを、伴走してくれたことが、記憶から、そのまま出てきた。
石塚勇先生に、津崎史先生をたずねると、あのあと四年ほどして、辞められたことを告げてくれた。



▲津崎史先生

▼前列左が石塚勇先生、後列左端岡田君、右端記虎君(1970年秋) ▼右端、飛び上がっているのが松田。(1970年秋)


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-12-08