京都昨今
41、1967年 寝屋川市立第一中学校    日本刀乱闘 冤罪事件        因果論U

寝屋川第一中美術部1967年秋

1> 問題なく、卒業する、学校という制度

多くの児童や生徒たちが、なくなっている。また、多くの教育現場のひとたちも。
上にあるのは、1967年度、寝屋川市立第一中学美術部の卒業写真である。
白のオブジェ、モニュメント作成は、わたし、松田薫である。が、わたしはいない。
美術部の顧問は、1965年、鍵野馨さんがされていた。66年に松田女史たちが加わったような記憶がある。

いま、2006年、寝屋川第一中学の教頭がいうのに、1966年冬、わたしが、松田女史に呼ばれ、意匠決定した、副校章はないそうである。
石膏での、白のモニュメントは、最終段階というか、石膏をうまく、形づくられないというので、わたしが呼ばれた。
最初から、わたしであれば、卒業写真にはいっていたかもしれない。
美術がうまく、美術部でも、活躍した、嫌がる、わたしを無理に美術部へいれた、末っ子の野川君もいない。

この、卒業モニュメント作成のときは、時間がかかるとおもい、わたしは、一日でつくるから、わたしの手順をしり、センスがあり、中学で身長171センチ、短距離NO1の三年八組の野川君に命令し、協力させた。
松田女史が、わたしと野川君に、寝屋川第一中学校まえの、文具およびパン類をおいている、雑貨屋さんから、三立製菓の「さんりつパン」とテトラパックの牛乳を買ってきた。

イエが食堂の野川君は、わたしの体調を知っていたし、わたしを利用するだけの、京都水彩画壇「一水会」創設の、鍵野馨さんら、不正だらけの寝屋川第一中学校の教員におこっていたので、いりませんと言うより、
「オレら、犬か」といきどおった。

わたしが感じていることを言ってくれたと思った。
松田女史は、この中学にいる保身の生徒や、鍵野馨さんのタイプを知っているのか、とまどい、明るい表情をつくった。
わたしは、松田女史の自費とわかっていたので、
「先生、パン代」というと、「いいのよ」と言ったので、食べることにした。

この写真には、1969年秋、京都国立近代美術館での、ゴーギャン展に、わたしの行く時間にあわせた、寝屋川高校の女子たちは居る。

わたしは、高校のとき、数論、確率論をしていて、確率からゆくと、わたしと会うことは、不可能に近い。
近所に、最大手商社の部長がおり、その子女も、寝屋川高校で、わたしと同年だった。そのイエとは、母同士が長く親しい。また、大阪府教育委員会の子女も、寝屋川高校で同年だった。
「歴史事実」とは、「関係」とは、こういうものだろう。

わたしの美術部への入部は、とうじ、寝屋川第一中学は、クラブ活動の参加は必須だったことによる。
わたしは、とうじ、大阪府中学一の、剣道部に所属し、副将ということだった。が、2年になっても、床をみがくなど、一年生と同じことをしていた。
そうじなど、誰でもいやで、分担すれば、早いというのが、わたしの考え方だった。

が、このことは、父が、大阪府警の上層部という、2年9組で、いっしょになった、坂上君が、わたしへ注意ばかりする。このようなことが重なり、退部すると言った。

坂上君は、小学校から剣道をしていて、中学生で、二段だった。
寝屋川第一での、剣道選手の大部分は中学一年から有段者だった。
寝屋川一中(いま、寝屋川中央小学校)のちかくに、大阪電気通信大学があり、1965年、見学にゆくと、これがほんとうのオープンキャンパスだろうが、入り口はあったが、構内へは、田圃や畑の箇所などから、わたしたち中学生でもはいれるところだった。
わたしは、開けられた窓から、少林寺拳法部と剣道部などをみていた。

わたしが入学した、豊中市立第六中は、陸上部が日本一で、剣道部がなかった。
剣道には、あこがれが在り、大学生の試技をみて、格好がいいと思い、それを、第一中学ですると、ひとつひとつ、
「まつだ君に、きめられると、痛い」と坂上君が注意する。
わたしは、剣道部の同級生の大半、「面(メン)」で、泣かした。

わたしに面を決められると、たんこぶができるという、坂上君が、二刀流といい、短い竹刀を作ってきた。

その竹刀をみて、わたしは、自分の竹刀におどろいた。
警官住宅の有段者と、わたしの竹刀は、違った。
わたしのは、寝屋川中学で、体育の授業に配られた、青竹に似た、重いものだった。
警官住宅の生徒のは、茶色で、乾き、かるかった。

坂上君が、映画の影響で、「中村錦之助、宮本武蔵、二刀流開眼」という。
わたしは、「市川雷蔵、眠狂四郎、円月殺法」と言い、竹刀をまわし、「面」を決めた。負けた坂上君は、
「まつだ君、円月殺法は、剣道にないよ」と注意するので、わたしは、「二刀流」なんか、中学生には、気が散って、できるわけがないと言った。
審判をしていた、剣道部、全員がわらいに、わらった。

「宮本武蔵、二刀流開眼、改良」と坂上君が、2年9組の教室でしようと言うので、わたしへの注意になるから、止めるというのに、一回だけというのを、担任の阿部武俊先生に見つかった。

「まつだ、さかがみ、竹刀をつかうな」と阿部武俊先生は、大声で言い、
「剣道部が教室で、暴れたら、アカンやろ。後ろ向いて、壁に手をつけ」と言い、わたしと坂上君は、阿部先生から、竹刀で、尻の部分を、バチン、バチンと、たたかれた。
坂上君は、「まつだ君、ごめん」と言いながら、喜んでいた。

寝屋川第一中学の近所には、むかし、京阪の駅がもうひとつあった。
「豊野(とよの)」駅で、いまの住所では、八坂町西にあたる。
ここには、停車場もあり、映画館もあった。

こういったことを知ったのは、2年9組に、千林駅のほうから、父親が、決心をして、豊野駅前で、1960年ごろ、食堂をひらいた野川君がいたからである。
ところが、豊野駅は、63年、廃止となった。
1964年度、小学生、寝屋川市立北小学校のとき、連合運動会での100メートル1位は野川君だった。

どれぐらいのスピードか、2年9組で、いっしょになったとき、走ると、40メートルで、わたしに追いつく。50メートルでは抜き、70メートルからは、ぐーんとあく。
これはすごい、中学一と思い、わたしは、野川君に言ったが、陸上をきらうというか、怪我をきらい、美術部へ所属したという。

剣道や柔道は、先鋒、次方、中堅、副将、大将の順になり、寝屋川第一中学校で、副将だと、まず、競技のとき、まわってこない。そのため、顧問に、「先鋒」と言うと、
「先鋒は、倉持。副将の、まつだで、とめてもらわないといけない」という。
倉持君は、中学生のときから、いつも、紳士だった。

1966年1月、本来、三年生は、剣道場にこないが、1965年度、大阪一位の人が来た。進学も、就職も決まらないとのことで、不満そうだった。
わたしは、はじめて見た。
1965年暮から、大将の、まじめで、背丈がある松井さんとの対決で、わたしは練習量のちがいか、松井さんが勝つと思った。なのに、「まいりました」と言った。
1966年から、大将予定の、父が、大阪府警の上部という、山田君も、同じく、負けた。

最後は、わたしとなって、鍔迫り合いに追い詰められた。剣道をしはじめ、ニヶ月はたっていた。1965年秋ごろ、ルールが変わって、競技の範囲が限定された。
わたしは、いったん、右足を一歩だし、それから、右へまわれば、面が決めれると思ったが、なんだか、卑怯なかんじがし、そのまま鍔迫り合いをしていたら、ルール違反の、足払いをかけられ、竹刀の鍔で、宙に放られた。
脳震盪をおこし、気絶し、外科に運ばれた。

このとき、担任だった、英語の松尾澪先生は、三木義造校長へ、
「一年の転校生で、剣道部にもなれていない子を。大手前高校へ行く、成績の生徒を」と注意に行ったと聞いた。

母は、わたしが、こんな性格のため、とにかく、格闘技は止めてくれという。野球部に誘われていたので、野球部というと、母は、野球もダメという。
こういったことと、わたしがする、剣道部の床掃除のことがあり、二年の「副将」が掃除なんてと、同窓が、うるさくなってきたので、退部届けを出した。

2> 1966年秋、京都で見たはじめてのピカソ展

2年9組のまえに立っていたら、クラブ活動への参加と、風紀と指導の教員が、まわってきたので、転校生の島君が、
「数学クラブに来いよ」と誘ってくれたけど、授業以外に、数学をすることは、卑怯なかんじがして、嫌だった。
隠れ場所を探していたら、野川君が、
「ここの学校は、隠れられへん。2年9組は美術部だから、しばらく居たらええねん」と、笑顔で、言ってくれたので、席に座っていたら、美術部登録となった。

この年度、赴任され、美術部顧問で、2年9組の担当となったのは、松田美紗子先生と鍵野馨さんである。
寝屋川第一中学校は、ふしぎなことに、数学も理科も、音楽も美術も、二人担当がいた。

1966年秋、京都、岡崎で、ロダン展といい、ピカソ展が同時に開催されているから、松田女史が、美術部と行こうというので、展覧会といっても、参加費が必要で、行けない生徒もいるので、わたしは断った。
美術部は、わたしが入部したので、下級生の部員がふえ、60〜70人となっていた。
松田美紗子先生が、ピカソ展と言ったので、わたしはピカソ展と記憶していたが、京都国立近代美術館へ、1997年秋、問い合わせると、ミロ展という。
わたしは、ミロは、数度みていたせいか、まったく記憶になかった。

わたしは、会場の出口で、待ち、わたしの、そばにきて、松田美紗子先生が、真剣な眼をして、
「どうだった、ピカソ?」とわたしに言った。
絵筆が荒いし、テーマと、発色がと、わたしが答えると、
「そう、まつだ君。まつだ君は、ピカソなんかに、負けたらダメよ」の言葉を思い出していた。
そのため、同時併設はないかと質問をすると、1966年に勤務していた女史の居所がわかると言い、確かめてくれた。
ピカソ展もしていたと、美術館女史は記録していた。

1966年のピカソ展を東京で先にみたという、松田美紗子先生は、
「そうなの、まつだ君。ピカソの描き方は、たいしたことがないのよ。技術も、東京の友人たちとも言っての」と、運動会など、競技大会を、いっしょにしている、仲間のような声で、言ってくれた。

この松田美紗子先生のおかげというか、1967年、三年生のときは、わたしへの社会見学にきた、美術の先生たちがいて、画集にあるような、デッサンができません、と言うと、
「まつだ君、きみの方が上手いよ。こんな、教科書にのっているような、弱い線のはダメなんだ」と励ましてくれた。

わたしは、石膏彫刻で顔の作成のとき、京都「一水会」の、鍵野馨さんに、何か、注意されると思い、竹べらひとつで作った。

これは、ふるさと、叔母の嫁ぎ先の、瓦職人たちによる、板ベラひとつの、技をみてきた経験からだった。
教頭の階級という、鍵野馨さんからは「粘土にはめ、出してからは、金具は使わないように、言った。これは、ドライバーだろ。削ったな」と注意された。
わたしの作る彫刻類は、級友たちが、ほめてくれるので、豊中第六中学校の美術の担当からも、嫌な扱いを受けた。

経験から、わたしは、この「竹べら」ひとつと見せ、「型の粘土」など、先のを、すべて、取って置いたので、それも見せた。
寝屋川中学で、わたしの次に上手いと言われる、野川君は、美術部に入れた責任からか、「鍵野のボケ」と言っていた。
こういったことがあり、寝屋川市駅まえの、画材も扱う、書店「中村屋」のおばちゃんからは、「鍵野先生についていたら、まちがいないから。この絵、上手やろ」と店に飾ってある絵を言われたとき、デッサンはできていても、そんな、絵、嫌いですとわたしは言った。

「中村屋」のおばちゃんだが、鍵野さんとの関係は、生徒が、画材を買いにきて、商売かとおもった。
それで、この日かぎりとし、わたしは画材を、ムダな言葉がいらない、心斎橋「カワチ」にきめた。

鍵野馨さんは、わたしが勉強で忙しいのに、エッチング(銅版)の、ローラー式の古い、プレス機をまわすなど、美術での、力がいる作業には、わたしを、いつも助手に使った。
銅版での腐食剤のサルチル酸系統の臭いは嫌なのに、美術部で、わたし、ひとり、使用人状態だった。

大阪府では、1966年度三年生からは、内申書を、試しでの参考とし、1967年度三年、入試1968年度生からは、内申書重視となり、賄賂好きな、教員のイエには、倉が建った。

私立高校へゆかせると、自分たちが接待をうけた。
これは、美術、音楽などの副教材がいる科目も同じだった。
模擬テストもふくめ、業者との、賄賂がとびかった。
同じく、金の卵といわれる、中学生を、就職させると、企業からの接待があった。

東京では、とうじ、警視庁などへ通告したりすると、文部省、厚生省が、査察にうごくけれど、大阪は遠かった。

3> 大字(おおあざ)を住所と思っていた、年賀状の季節

わたしはイエで勉強禁止だったので、学校しかなかったのに、三年になり、一学期は、就職組みが勉強を教えてというので、休み時間をそれにさいた。二学期からは、夜間高校への進学を希望する人たちが勉強をというので、休み時間をそれにさいていた。

大阪音大のある、豊中市市立第六中学校では、音楽は、男子で学年トップと言われていたが、寝屋川での通知表は、成績を返さず、5段階で、「3」がついていた。
この音楽の女史は、登校拒否した。生徒の噂だと整形手術の失敗だとか、失恋で自殺したとのことだった。
体育も同じだった。

模擬テストは、アチーブメントテスト、大阪府模擬をふくむと、合計10数回あり、5月に、一度、ひとつ席次をずらした。が、クラスでは、ずっと、男子1番だった。
中間、期末テストも同じだが、通知表は、ひどかった。
これは、大阪府トップクラスの島君も同じだった。とにかく、ひどい学校だった。

教員たちは、同窓たちも、就職組、夜間学校組みの世話を、いっさいしなかった。
こういった中、年賀状の季節になり、友人の、田伏君たちが、
「年賀状は、お年玉ハガキで欲しい。まつだのは、いつも遅れる」というので、
わたしの年賀状は、「カワチ」で求める、発色の良い、画家用の、「画仙紙」で、一人分作るのに、二、三日かかると説明した。わたしの、画仙紙で、絵を描いた年賀状は、田伏君たちからは、1966年、1967年正月も、文句がきた。
わたしは、1966年に、もう、年賀状はかかないと答えていた。が、田伏君たちは送るといい、わたしからのは、「お年玉付き、年賀状ハガキで」と干渉をした。

11月下旬、住所録表が配られ、わたしの住所に、「大字(おおあざ)」がついていた。
わたしは、この「大字」を、大文字(だいもんじ)の送り火のある、京阪だから、その関係の言葉とおもい、「だいじ」と読んでいた。

一年の時、同級で、剣道部でもあった、田伏君たちが、読書家と思われているわたしが、「大字」の意味の勘違いを指摘した。
「だいじと違う、おおあざって、田舎の意味や」と、わたしを、長くからかった。
クラスで、女子生徒からも嫌われている、小西尚子さんのこととの住所を、「ちがうねん」「小西とこ、地名が昔は違う」とか言い出したので、その発言が非常に不愉快と思い、わたしは、「住所の表記変更は、オレとこもや、うるさい」と、住所録を、ゴミ箱へ放り、一生、つきあわないと言った。

田伏君たちとは、これまで、不良にたかられたり、脅されたりしているとき、友人だったので、すべて、助けだした。
わたしは、高価な画仙紙をつかい、日数をかけ、手書きの絵の年賀状より、「お年玉年賀状」のほうが良いと言われ、不愉快だった。

男女の生徒から、嫌われている小西さんは、ホームルームは、「ショッピング」と、母親がむかえにきて、家庭も、美術の絵も、その場で提出せず、家にもってかえり、体育もできないのに、ほとんど「10」の小西さんには、1年3組次、2年9組次、3年1組次の同級が、おこっていた。
わたしの脳裏は、数学がほとんどで、数列、確率は、高校レベルはできた。
そのため、なぜ、小西尚子さんと西村さんが、2年、3年と、わたしと、同級になるのか、わからなかった。

が、田伏君たちには、修学旅行のとき、わたしたち、ひとりっ子、次男組4人が、品川からの帰りの電車の中は、時間が長いので、トランプはじめ、4人でできる、頭脳ゲーム類を用意していて、帰りの電車だったので、わたしも、ぼんやりして、ほがらかな声などあげていた。

こういったとき、電車が、熱海へかかった。わたしたちのグループは、3年1組、男子でクラス1番はわたし、2番は田伏君、3番が野球部キャプテンの鶴本君、4番が中村君だった。かれらも、2年次までは、クラス単位で、男子1番の成績だった。

一学期は、わたしのつぎが、2番は田伏君、3番が中村君だった。友人で体格が良く、男子から人気のある鶴本君が交通事故にあい、一学期は全休だった。
鶴本君がいれば、2番だったと思う。交通事故で、修学旅行がなかった末っ子の鶴本君は、わたしと同級になり、喜び、成績をまったく無視する行動にでる、わたしを見て、より、喜ぶ性格をしていた。

ゲームに夢中になっているとき、担任の正井満先生が、「まつだ、熱海だ」と、声をかけてきた。
東京や神戸でも育っているので、わたしは熱海の意味がわからなかった。

数学の正井先生は、1967年12月までは、豊中市立第六中学校の数学の先生たちどうよう、数学では、高校二年の半分までは、自力の数式で、解いてしまう、わたしを教えることをよろこんでいた。

正井満先生は、市岡高校の夜間学校時代(大学は、大阪学芸大学)、この「NO37」でふれた、大阪市西淀川区にある、千船の善念寺の、母の級友の世話になっており、母も聞き、昔から、知っていた。

数学の能力や、むかしとの関係からか、わたしの担任になることを望んだ。
正井先生の黒板への文字、および、図形は、非常に、きれいなものだった。また、教え方も上手だった。
授業中に反復できるので、予習も復習もいらなくなった。

この正井先生が、昼、わたしの弁当を見に来て、「まつだは、きょう、誕生日か」という。
わたしはこういった、冗談が、わかりにくい性格をしており、いえ、ちがいますと言う。
次の日、「まつだ。きょうも、誕生日か」と言うので、これが3日ぐらいつづいた。
妹が中学に通い、派手になった弁当のせいと気づき、母に、地味な弁当にして欲しいと言った。

修学旅行は、金銭のことから、ひとりでも参加しないと、行かないと決めていた。
説明会には、参加しないといけないので、修学旅行へゆけない、家庭状態の同窓のことを思い、行かないと決めていた。
1年のとき、地理を担当してくれた、教え方が上手な、社会の、泊(とまり)先生による説明だった。

わたしは、後方で、下を向き、ぼんやりとしていた。
同級で、模擬テストなどが、クラスの男子で5番以下ぐらいと、悪いけれど、内申書、「9」のAZ君が、金色の、万年筆のキャップを、宙に何度もあげていたらしい。

生徒に、圧倒的に、人気のある、俳優の大村昆さんに似ている、泊英敏先生が、「誰だ!」という。
この言葉で、注意と思い、わたしと視線があった。
わたしは、4ヶ月ほどしか、受け持っていないので、わたしの名前を忘れていると思った。
「こら、まつだか、お前は、修学旅行で死んでもええけどな」と、言った。
三年生と教員、ぜんぶがわらう形となった。

わたしは、中身がわからないので、ぼーっとしていた。
3組の島君と眼があった。内申書「10」以上でもいい、「9」の島君が、指で、合図をしてくれた。
学年「50番以内にも入っていない」と、田伏君、中村君が言う、内申書、「9」で四条畷行き確定のAZ君かと思った。

生徒会長だった島君のは、泊先生も、知っているとの合図だった。
病気で、医師に、「いつ死ぬかわからない」と、このときも、宣告されていた、わたしは、泊英敏先生の、
「死んでもええけどな」は、冗談だろうとおもっても、体に震えがき、ずっと反響し、説明会のあと、友人の島君に、「行かない」と言った。

この説明会での、泊英敏先生の言葉を、母に言い、「絶対に、行かない」と言った。

わたしの不参加は、正井満先生が困った。
正井満先生が、母を学校へ呼び、わたしは行かないと、いけなくなった。
その正井先生が、熱海といい、「まつだ。東京は日々谷公園、大阪は中ノ島、京都は円山公園だよ、デイトの所だよ。明りがきれいだろ」と、たのしく言った。
わたしは、海岸沿いの席は、競争になるので、わたしのグループは、山側の方にしていた。

正井先生が言うので、席を立つことになった。
正井先生は、「新婚旅行の地、熱海だ」と言った。
わたしは、いつ、死ぬかわからない体なので、「新婚旅行」という意味も、はっきりしなかった。
それで、「熱海の夜だよ、こっちからの方が良くみえる」と、担任の正井先生が言うので、進行方向の、大阪よりの前へ、付いていった。

わたしが、正井満先生に、ほほえんでいるとき、連結のドアを開け、副担任の、阿部武俊先生が怒った表情をして、
「こらっ、まつだ。おまえが、なんや」と大声でいい、ゴツンと頭を、どついた。
正井先生は黙ったまま場所を去った。

グループの中村君、田伏君たちは、わたしが、阿部武俊先生に、どつかれた過程を知っていたので、気持ちが沈んだ分、とりかえそうと、トランプで、恋占いをしようと言った。
わたしは、「恋占い」ときいて、恋愛とかなんか、嫌だといった。
中村君は、意識して、明るく、「まつだのからしよう」といった。田伏君たちも、賛成し、笑顔をみせた。

このとき、わたしたちの後ろに、小西尚子さんが来ていると知らず、中村君が、カードを、くっているとき、いきなり顔をだしてきて、
「まつだ君は、年がちがうから、ごまかさないように」など、わたしを多く、傷つける言葉をいった。

小西尚子さんは、2年9組でいっしょになったとき、教室で、周囲がいるのに、わたしへ抱きつくようにきて、「転校してきたときから、知っていた」と言ったので、わたしは「知らない」と冷たく言った。また、成人の女性誌のを、平然とあけ、2年のとき、いちど、スカートをあげたので、視線をあわさないようにした。

田伏君はじめ、わたしが転校してきて、わたしが、病気で、学年が遅れていることは、知っていることなので、グループ全員、より気持ちがふさぎ、うつむき、だまってする、知能ゲームをしはじめた。

4> 警官住宅での階級ばかり言う、中学校


寝屋川市立第一中学校は、寝屋川市駅に向かい、「コ」の字の反対、「に」の字形に建っていた。
わたしたちの教室は、「T」の状態の、中央部だった。北の方向に3教室あった。
わたしは、一階の、1組から3組の、同窓に関しては、文部省、大阪府、寝屋川市教育委員会の方針の、「不良は、少年院」に反対し、だれひとり、少年院へ行かさないと、末っ子の島君に言っていた。

1967年、「受験生ブルース」が流行した。
寝屋川高校の中川五郎さんが、わたしたちの教室の横を自転車で通ってゆくという時代だった。
わたしは、中川五郎さんを一度も見た事がなかった。

交通事故で、内申書「8」となった、小川側にいる、男子、3番の鶴本君が、「中川五郎だ」といい、笑顔をみせる。

とうじは、男性用、「平凡パンチ」や「プレイボーイ」という雑誌が流行したときだった。
1組の上は、6組だった。
で、美術部の部長、内申書「8」に不満だった近藤君(上、美術部写真、右端。立命館大学)たちが居て、鶴本君が持ってきた、「平凡パンチ」などを、紐で上げたりして、遊んでいた。

6組の担任は、生徒のできごとを、じっと見る、男子に人気のある、大阪電気通信大出身の若い秦隆秀先生だった。
秦隆秀先生は、「技術」の時間、教科書をはなれ、奇妙なものしか作成しない、わたしのを、周囲がいないとき、
「まつだ君、そのイス、すわれるか」とか、
「まつだ君、そのブックエンド、立つか」と、小声で、一言の先生だった。
学歴や知能指数ばかり言う、寝屋川第一中学校のため、出身大学を、すこし卑下されるところがあって、その点だけが、嫌だった。女子は、ハンサムで、おだやかな秦先生に、担当してもらわれないのが、不満といった。
いつも、将来のエネルギー問題にふれられ、この1967年も、
「いま、千葉九十九里、三重、和歌山の海岸線で、風力発電を実験しています。太陽をうまく、利用したソーラー熱が、うまくゆけば、公害問題がふせげるようになるのですが、これからです」など、まじめな表情の講義は、ひごろ、どの授業もノートをとらないのに、わたしは、記述していった。

このとき、3年6組には、1年の転校したとき、転校生である、わたしの、案内役なのに、
「松尾先生、ペンを使ってよいんですか、こんなノート使ってよいのですか」
とホームルームの時間に、わたしをかけた、三木さんが居るのは気づかなかった。

わたしは、休みが多いので、ルーズリーフとシステム手帳を使っていた。
学校でひとりだった。

三木名賀子さんは、隣だったので、いきなり、ホームルームにかけるのは時間のムダとわたしは言った。
「まつだ君は、緑のボールペンをつかっています」まで言った。
とうじ、緑は、ビッグしかなかった。
松尾澪先生は、「わたしは、自由とおもいますが」と、言われた。
三木さんは、「でも、ペンなどだったら、消しゴムで、消せません」と反論した。
「それこそ、自由でしょう」と、松尾澪先生は言った。

父が大阪府警勤務で、剣道部で、友人の田中君が、
「恥ずかしい、田舎の学校」と言った。

寝屋川第一中学校は、体育の時間の着替えを、男女、同じ部屋でする。
わたしには、信じられなくって、豊中市は、小学校から、別々というと、警官住宅の、田中君たちは、
「寝屋川は、縄文時代から、抜けられへんとこやねん。羞恥心がないねん。オレらも、信じられへんかった」と、言う。
また、貴重品袋も、見るのがはじめてで、理由がわからなかった。
田中君たちは、
「このまえ、警官住宅に、泥棒が入ったら、夜勤の、お父ちゃんらが、集団で、でてきて、つかまえてん。泥棒、昼に、なんで、男がいるんや。働かなアカンやないか、言うから、お父ちゃんら、ワシら、警官や、いうてん」と言う。

三木名賀子さんでは、つぎつぎ、問題がおきた。
書道の展覧会のとき、三木さんとわたしの競争とかで、他の先生もふくめ、男子の判断は、わたしのが優れているとのことだった。
担当の大儀(おおぎ)道恵女史は、
「三木さんと、マツダ君のどちらが上手いでしょうか、多数決で決めましょう」と言う学校だった。
わたしは、どうでも、いいから、止めて欲しいと言った。
多数決では、女子もふくめ、わたしが多かった。
その次、
「三木さんは、書道部の部長になります。お兄さんは、四条畷高校です、お金もちです」と言い、拍手できめましょうと言った。

拍手の音は、わたしのが大きかった。すると、大儀道恵女史は、
「おかしいです。もう一回」と何度もやりなおし、「はい、やはり、三木さんですね」と言った。

勉強もできた、田中君は、同じく父親が大阪府警勤務で、剣道部の谷村君と、一番後方の席にいるわたしへ、
「馬鹿も、ここまで、来たら、大阪府警といっしょや。絶望。あーあ」と言っていた。

わたしは、反対の、廊下側にいて、不良と呼ばれる、連中が、同窓を、自転車置き場に、講堂や、技術の工作室があるところへ連れてゆくのを見ると、すぐ、走っていった。一言もいわず、だまって、離してきた。
不良と呼ばれる連中は、わたしには、チェーンや、ナイフを一度も見せなかった。
わたしが、かれらを少年院へは行かさないという考え方は、かれらなりの規律にあった。

とうじ、寝屋川は、第四中学校まであった。近いという、寝屋川市立第二中学校の生徒が、ケンカを売り、タカリにやってきた。なぜ、他校の生徒がくるのか、わたしには、理解できなかった。

受験勉強の季節にはいった秋、父親が、大阪府警上層部で、警官住宅は一戸建てで、わたしが友人とする2Kの警官住宅の子を、バカにする桑原民恵さんが、
「8組の野川君、議員の娘が、妊娠したとの噂を流している、どうおもう?」とわたしに注意をしてきた。

わたしは、有名私立か、夜間学校へ進学したいという男子を教えていたとちゅうなので、話しかけてこないで、欲しいと言った。小西尚子さん同様、社会の上下関係ばかりいう桑原民恵さんが、話かけてくると、体調が悪くなるので、一学期から、ずっと拒否していた。

「マツダ君のともだちでしょう」と言うので、声をかけないでくれ、いま、受験勉強を、教えている最中だと返事をしても、きかない。それより、なぜ、野川君を知っているときくと、「いわさき(英語塾、わたしの知らないところ)」でというので、親しいもの同志、話せばいい、わたしは、関係がないと言った。

わたしは、春から我慢した、父が府警で偉いという、桑原民恵さんの言動が不愉快になり、11月下旬、通りがかった、3年8組の同窓に、「おい、ノガワ、呼んでこい」と、乱暴に言った。
野川君が、3年1組の、廊下へ呼ばれてきたので、「他人の噂をいうな、塾へ行っていないと、言っていたのではないのか、嘘を言うな」と注意をすると、成績が伸びないという。

そのため、3組で、晩秋、アチーブメントテストで大阪府1番になった、島君をおもって、「おい、3組のシマ、呼んでこい」と言った。
島君とは、生徒会長にさせるとき、不良と呼ばれる、連中を、少年院だけは、入れないように、3組だけの級友には、話かけるようにと言っていた。ところが、島君は、約束を守れなかった。

島君が1組の、一番後ろ、わたしの席へ来たとき、「シマ、勉強の方法を、言ってやれ」と命令した。
島君は、「繰り返すだけや」と、わたしと同じ答えだった。
野川君が、「繰り返しても、点が伸びない」と言うので、わたしは、「繰り返し方が、足らない。もっと、繰り返せ」と言った。

島君は、わたしが不機嫌な理由を知っていたので、「まつだ、1月から、模擬(テスト)、本気にするんやろ。連続して、大阪、1番」と言ったので、「ああ、言ったことは、やる」と、わたしは、返事した。
3年1組は、階段をあいだに、となりが、校長室だった。


5> 12月中旬、校庭での日本刀乱闘事件


たかりなど、暴力事件は、秋ごろ、ひどくなっていった。6組のオキナ君、7組の山田君は、体格が良かった。わたしのいる一階の、1組から3組のに、寝屋川高校の南になる技術の教室の裏、納屋に呼ばれ、集団で、殴られた。

学年主任の小柄な正井満先生は、「恐くなった。あんな、大きな生徒たちが、暴力に合うなんて、過去、なかった」と授業開始に言った。
暴力事件の様子を、オキナ君、山田君が、わたしに言ってきた。かれらは、長髪に、とうじ流行した、男性整髪料をつかい、金ペンなど、胸に飾るなど、わたしの眼には、2年までとちがい、派手になったように見えた。
それで、刺激になるから、一階を通らないでくれと言った。

「平凡パンチ」や「プレイボーイ」が、上下する、面白い光景が、嫌な日常の、断片にあるなか、期末テストが終わった12月中旬となった。

「まてー」という、校庭中ひびく、異常な大声が、聞こえた。阿部武俊先生の声だ。
わたしの、3年1組、副担任の阿部武俊先生が、2年9組でいっしょだった、日本刀の太刀をもった、YOS君を、追いかけている。

仁王立ちという言葉があるが、阿部武俊先生は、仁王のような表情で、両手を左右に広げ、Uの字状にあげ、丸太をもっていた。
体育の阿部武俊先生の後方で、体育の小柄で若い白井隆先生が、植木を支える、丸太を抜いている。白井隆先生の動作をみて、日本刀への恐れからの、卑怯というより、かわいそうな気持ちになった。

わたしは、YOS君の運動能力を知っており、体格が変わらない、ラガー阿部武俊先生の胴が、完全に開いており、また、突きでも可能なのにとおもいながら、このままだと、刑事事件で、少年院だと思ったので、一学期は、ごみ箱に入れていた、竹刀か、木刀があればと思ったが、箒(ほうき)しかなかった。

学年主任、正井満先生の数学の授業だったが、声は止まっていた。
わたしが、箒をもって、打ち払おうとおもったとき、走っている、YOS君は、泣きそうな顔をして、わたしを見つめた。
後門から、西の、寝屋川市駅の方向だと、正井先生を無視し、小川沿いの、窓から出て、追いかけようとおもったが、YOS君は、北の、寝屋川市役所の方向へ走ったようだった。

日本刀の太刀の白刃を見るのが、はじめての生徒は、おびえた。
また、この事件直後の、教員たちも同じだった。


YOS君は、寝屋川市駅まえの八坂神社で、ヤクザの組員へと誘われたと、内申書「8」の野川君が言ってきた。
翌日、後門からかえる、わたしを、YOS君は、レース用の、ブレーキなしの自転車でまっているという。
わたしは、なぜ、YOS君の担任や教員たちが、行かないのかと思った。
下級生たちは、とうぜんのことで、同級生も、YOS君を見ることも、ふくめ、なにが起きるのかと、恐れていた。

わたしも、YOS君とは、三年になり、一度も話したことないことから、正門がわへゆき、帰ろうと思ったが、なんだか、下級生たちに、卑怯な上級生と思われるのが嫌になり、YOS君のいる、後門へ行った。
「まつだ、のれや」と言う。
わたしは、自転車のハブにまたがった。
なんの、会話もしなかった。

6> 寝屋川市教育委員会、小西恕一からの恫喝

このあと、レストランやガソリンスタンドを経営し、医者という、小西尚子さんの両親がきて、差別発言をする連中から、「娘を、たすけたな」と、文言を言いにきた。

小西さんは、学校では禁止の『平凡』『明星』はじめ、洋画の雑誌も持ってきていた。
母とちがい、父は、大金持ちで、『風と共に去りぬ』のクラーク・ゲーブルより素敵なのと、2年のとき、野川君に、ずっと、言っていた人物と、ずいぶん、ちがった。
まだ、30代ときいていた、小西尚子さんの父という、小西恕一さんをみて、わたしは、別人だと思った。

「日本史や社会に詳しいですよね」と小西さんの母親という人がいう。
わたしは、社会の得意は地理だけですがと返事し、年賀状の「大字(おおあざ)」からの件は、もう、一ヶ月も、前のことでと質問したら、酒の入っている、父親という恕一さんは、「関係ない」と怒鳴った。

小西さんの母親は、「西村さんと、親しいですね」と、細かい事例で、言うので、それらは委員会のことで、2年生のときですと返事した。

小西さんの母親が、「まつださんは、色白ですね」という。
わたしの母は、「難病で、病院生活ばかりの子で」と言った。

わたしは、転校生の案内役ばかりしていますし、一学期は就職組み、二学期は12月に入っても、夜間の人に受験勉強を教えていることをいい、「YOS君の日本刀事件」で、学校が動揺していましてと言うと、
「うるさい、不良なんか、関係がない」と父親の恕一さんはいう。

ずっと黙っていた父は、金銭など、ゆすり、たかりの事と理解し、「もう、帰れ」と夫妻に言った。

小西さんの父親というひとは、玄関に倒れ、ねむったふりをした。小西さんの母親は、夫を、起こそうとしながら、
「すみません。すみません。娘にだけは、言わないでください」と泣きはじめた。

わたしは、父の判断はじめ、なんのことか、理解できなかった。

わたしは、問題がおかしく、からかわれたのは、「大字」をの意味を知らなかったことによることを、親に言った。
母は、「大字は、どこにも、ついていて、本ばかり読んでいるのに、どうして意味を知らなかったの」という。

わたしの読書遍歴は、一年次、「シャーロック・ホームズ」のコナン・ドイルや、「二都物語」のディケンズ。「トム・ソーヤーの冒険」で知られる、マーク トウェイン全集で、二年次からは、「タイムマシン」のH.G.ウェルズなど、SF小説に陥っていた。

イエにある、本といえば、父は仕事関係(機械)類は、いっさい、持ち込まず、兄は、電気が専門なので、わたしのイエは、機械や電気といった、工作に、関係するものばかりだった。

とうじ、学校がすすめる、宮沢賢治などが読めなく、これが、劣等感のひとつでもあった。
わたしは日本史禁止で育ち、また、わたしが読むのは、欧米文学だし、中三からは、「原書」へ行っているのを知っていたので、母は、「ああっ、そうね」と言った。
小西夫妻が来た、次の日、わたしは、職員室へ呼ばれた。正井満先生は、わたしのイエへ行くというので、問題は解決したというと、YOS君の日本刀事件を恐れた、正井満先生が、わらいながら行くという。わたしは小西夫妻の言動の謝罪だと思った。

わたしのイエにきて、「小西夫妻が、『寝屋川市立第一中学の職員室』へ電話をしてきて、そのあと、『教育委員会』へ連絡したもので、さわぎが大きくなり」と話す、正井満先生の言葉に、母は意味がわからず、お辞儀をしていた。
わたしは、このあと、すぐ、12月中旬のおわり、2回目、職員室へ呼ばれた。

正井満先生は、もう一回、イエへ行くというので、わたしは、結構ですといった。
が、正井満先生は、勝手にきて、イエへあがり、「また、三木義造校長に誉められまして」といった発言に、母は、まったく意味がわからないまま、物事が、良い方向へ行っていると思った。

母はほほ笑んでいたが、わたしは、「YOS君の日本刀事件」での、在籍する生徒の行為から、逃げた、卑劣な教員から、誉めてもらうようなことはしていないと言った。
こういった過程がかさなり、わたしには意味がわからなかった。

母も父も、「YOS君の日本刀事件」が消え、冤罪が作られているのに気づかなかった。

7> 三木義造校長たちによる冤罪工作


12月20日がすぎ、とつぜんの追試だとかで、国語の「漢字テスト」があった。
トイレに落書きばかりされてある、藤田女史が、ずっと担当の立野陽一先生の代わりに、はじめて、臨時で来た。

立野陽一先生の教え方は、丁寧で、高校以上のレベルだった。
わたしには、この12月まで、非常に気をつかってくれた。2年のとき、松尾芭蕉の『奥の細道』の序文暗唱があった。
クラス全員に当てるという。
わたしは、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」という、芭蕉の諦めた、人生観が嫌いだった。
「人とは自由である」が、父方の、祖父ゆずりの、わたしだったので、口にしないと宣言した。

立野先生は、担当のうち、わたし、ひとりだけ、当てなかった。
3年のとき、夏目漱石論というか、漱石の「二百十日」「草枕」を、読了していたのは、わたしだけで、
「まつだ君は、『草枕』、理解は、どうでしたか?」と、ゆっくり、聞かれた。
やたら、小説の議論をしてくる、コニシさんという人がいなければ、居なければ、わたしは、きちんと答えただろうけど、「わかりませんでした」と答えたら、「そうでしたか。先生たちでも、難しいですから」と言われた。

藤田女史による、わたしの漢字テストは「0点」だった。
あまりにひどいので、男子が怒り、職員室へ行った。
「哲学」、「松竹梅」とかが問題にあった。

わたしは、哲学書を読み始めていたが、野球好きが、巨人軍の川上哲治の「哲」をまちがえますかと聞いた。すると、藤田女史は、
「心持ち、手偏が長い」というので、どこがですかと聞き返した。答えないので、松竹梅はどこですかというと、「松」の「公」がおかしいというので、わたしは、自分の苗字をまちがえる人がいますかと言った。

この藤田女史は、わたしの苗字が「松田」であることに気づいていなかった。

つぎは、美術の鍵野馨さんから呼び出しがあった。美術では、学年のだれとも競争にならなかった。
それでも、鍵野馨さんは、わかっているだろうけど、「10」は無理だ、「9」か「8」の判断に迷うから、もう一枚、鉛筆画をかいてきてくれるかと、わたしだけに言った。
大きさをきくと、「B4」ということで、一週間かかりますと言った。
「ああ、それで、良い」と言った。
わたし受験生で、犠牲者ですよというと、
「何を言っているんだ」と叱責が多くなった。

この、京都、「一水会」創始者の、鍵野馨さんの、わたしだけに宿題をさせる言動には、三年次も、わたしが指導していた、美術部の下級生他に、即、伝わり、ひどい状態になった。

1968年1月の朝礼で、三木校長が、
「成人が読む雑誌をまわしたり、差別発言をする人がいます、職員室のそばの教室の生徒ですが」と、わたしを意味する言葉をいった。
この三木校長の発言には、二年、一年生たち男女が、抗議の声をあげた。

下級生の抗議を、おさめるため、年賀状のことで、さわぎ、大字は田舎だとかのが、差別発言のたぐいとなるのなら、それを発言した、田伏君、和田君を職員室へ連れて行った。

かれらは、正直に、「大字(おおあざ)」からの件は、自分たちがいい、わたしへの差別発言であり、内容がまったく違うところへ行っていると言った。

わたしも、原因の発端は、学校が配った住所録であり、わたしが、からかわれたにすぎないし、その当人のわたしが、もう、怒っていないと事実を言った。

退職まえの、三木義造校長たちは、教育委員会を恐れた。YOS君の日本刀事件が公になると、自分への責任となることから、至急に、冤罪事件を作った。

三学期の国語は、また、臨時で、大儀道恵女史となり、教室が、ざわめいた。
わたしに、「静かにさせなさい」といい、強い視線を浴びせたが、わたしは、沈黙のまま、下を向いた。

大儀道恵女史は、黒板に、
「立つ鳥後を濁さず」と書き、この意味がわかりませんかと言った。
教室のざわめきが大きくなった。つぎに、
「仰げばとおとし、わが師の恩、も知らないのですか、恥ずかしいクラス」と言ったので、
授業にならなかった。
わたしの国語は、「3」へと、下降した。内申書は、「7」か「6」と言われた。

この出来事は、とうじ、豊中市は第七中学校までで、第六中学校他、わたしの同窓や、下級生の児童会のひとたちに伝わっていた。

また、内申書導入で、大阪市部の中学から、寝屋川市立第一中学校への転校が、1967年だけでも、150人ほど、都市部から、転校してきていた生徒が、テストの点と、内申書がまったく違う中学と、府庁があり、イトコが通った大阪の中心、東(ひがし)中学などへ伝達していた。

8> 教育委員会と教員による、日本刀事件隠蔽

この事件は、わたしが、高校二年のとき、学生運動にまきこまれたとき、「教育委員会」には、大阪府と寝屋川市とは別個にあり、近所に、大阪府教育委員会の人がいたことから、小西さんの父親の仕事が、レストラン経営や医師ではなく、とうじ、寝屋川市教育委員会勤務とわかり、三木義造校長、正井満先生と共謀し、「YOS君の日本刀事件」を消すため、冤罪を作ったことに気づいた。

とうじ、寝屋川市役所にある、教育委員会は、2、3人。正規は、寝屋川市立北小学校の教師経由の、小西恕一さんだけで、この世の中で、自分の勤務先の自分自身に抗議する、輩がいるのか。

そのため、わたしが、高校三年のとき、いまの寝屋川第一中学校のまえにある、市民会館(図書館)へ、野川君たちに誘われ、はじめて、行くと、2年は副担任で、3年2組担任だった木谷昌弘先生が現れた。

「まつだ君が来ているというから、いそいで、きたんだ。ぼくが出した、2年での、はじめてのテスト、まつだ君の、答案と、問題の感想、あれには、おどろかされたんだ」と、明るく、わらわれた。
木谷先生は、「保元平治の乱、平家物語が好きだから」と、授業中、専念された。イエでは、日本史禁止の、わたしは、
「平家物語」をよみ、授業をおもいだし、教科書をあけなかった。それで、
「こんな、教科書にかいてある、内容を、木谷先生が出すとおもいませんでした」と感想を書いた。

中学の二階には、国語の立野陽一先生と藤田女史が並んで、わたしの方を見ていた。

小西恕一さんと三木校長の命令と正井満先生はいったが、3年3組担任で国語の立野陽一先生は、教え子に、1967年秋、不良の烙印をおし、少年院へ入れた。その功績か、新設の交野高校とやらに勤務となった。
また、3年1組担任の正井満先生も、同じく、烙印をおし、後、寝屋川市立中木田中学校の校長とやらになった。
停年後は、三木義三校長と同じく、私立帝国女子高の教員となった。

9> 「よしのぶか。会いにこいや」と阿部武俊先生

1996年、書籍の序文が必要で、1967年からのできごとが必要となり、阿部武俊先生に、電話をすることにした。
寝屋川市教育委員会へ連絡すると、阿部武俊先生は、点野(しめの)中学という。
それで、点野中学へ電話を入れると、校長なのに、バレーボールのレフリーをしているという。
周囲があかるかった。
阿部武俊先生に、「3年1組の松田」というと、「下の名前言ってくれや」という。
それで、仕方なしに言うと、
「なんや、よしのぶか。会いにこいや」と言った。30年という歳月が経っていた。

それで、2年のおわり、阿部先生が、わたしを呼び、
「3年の担任どうしよう。オレでけへんねん、松尾先生にしてもらおうか。オレ、高校は、浪商で、不良やってん。でもな、体育の村上礼郎先生が、更正しろと言って、大阪学芸大行ってん」と言ったことをいったら、「そうか、そんな事いったか」というので、わたしのイトコの家庭教師が、阿部武俊先生のイトコだとも言ったら、
「なんや、そうやったんか」と言い、YOS君の日本刀の事件をいうと、
「見てたんか。YOS、よしのぶの近所や。教師やったら、して、あたりまえやで、オレもあと、学校、2年ほどや」と言った。

3年1組は東京にいるといった。
田伏、「できた。小さかった」という。
中村、「できた。小さかった」という。
「よしのぶも、小さかった」というので、
わたしは、「?」となった。それで、ああ、朝礼で、前列の方にいたのは、1組、3組、6組などの不良に、小柄な同窓が、講堂の奥の、卓球部の着替え室へつれられ、ドアに鍵をかけられると、あけられないので、追いかける用意で、いつも、前方に居たと言った。

わたしは、2006年11月21日、阿部武俊先生と、2年次、3年次、わたしに、社会を教えるのが楽しみだったという、木谷昌弘先生が、第10中学校で、校長をされていたことを知った。
また、阿部武俊先生が亡くなられていたのを知った。

こちらの自己紹介をして、寝屋川市立第十中学校など、三校へ電話を入れ、年齢をきくと、
「個人情報の保護や、あかの他人に、教えられるか」「住所や電話番号を教えられるか」と芝居をされた。

監督庁である、大阪府へ連絡すると、教員名をときいたが、黙った。
点野中学が、正式は、寝屋川市立第八中学校と、ようやく、わかった。
いまは、みな、○か×の、ボタン式のような時代とわかった。


社会活動は信頼による。ところが、かんじんの現場が、猜疑心だらけだ。
こういった学校制度なら不要で、子供を、学校にあずけることなどできない。
いったい、英語、数学も、国語も、理科、社会なども、なんの役に立つのか。
生活に必要なのは、男女とも、「技術家庭(保健をふくむ)」だけである。


むかしも、いまも、義務教育の現場に、教員が、あまりに多すぎる。
下は、1967年の、寝屋川市立第一中学の教員である。50人ほどいる。多すぎる。
しかも、写真には、悪人の藤田女史などがいない。
多いと、教員どうしの、イジメ、学校での事務などが、わかりにくくなる。

江戸時代の寺子屋制度を考えなおし、一流大学と同じく、無給奉仕制をかんがえる時代である。

生徒に良い先生、良い学校を選ぶ権利をあたえるべきでないのか。

1970年ごろ、学生の数、2万5千人。「講座」、講義数が、全国一という、同志社大学の、教員数は、「200」人ほどだった。事務員はパートのようなかんじだった。
立命館大学は、学生数が多くても、正規の教員は非常に少なかった。

東大は、3500人単位、京大は、2500人単位だった。が、これは、研究員の数をふくむ。
東大、京大は、無給、客員(パート)、非常勤講師が多い。

関西の教育問題は、
「同志社大学夜間」→同志社大学卒業。
「立命館大学夜間」→立命卒、同志社大卒にできることと、人事関係のものから聞いた。
国立大の構造は知っていたが、昔から、私立と同じと、あらためきいた。

どうしても、「学校教育」というのであれば、不正なしの、小学校卒業試験、中学校卒業試験を取り入れればよい。


1966年次、寝屋川市立第一中学校2年9組、1967年次3年1組。
陸上部、野球部のメンバー。
不良と言われた諸君。君たちを、徹底して、かばった阿部武俊先生は、1968年次、はじめをもって、教育委員会へ行ったと、1996年、わたしに言った。
2年9組、3年1組の、みんなに会いたいと言っていた。


阿部武俊先生は、三木校長により、1968年卒業まえ、少年院へ入れられた、教え子を知らなく、わたしが、二名言うと、驚かれたんだ。

阿部武俊先生は、1999年、亡くなられた。原因も年齢も知らない。

わたしは、追悼をする。





寝屋川第一中学校1967年、教員たち。秋、撮影。下、名前。


▼寝屋川第一中学正門(いま、寝屋川中央小学校)。3年1組男子 1968年卒業アルバムから。

前列、左から、3番目、松田(次男)。

◎前列、左、中村君(べ平連参加、次男、1970年卒業式の抗議、「大阪毎日新聞」、3月17日、掲載)。田伏君(次男)。    

○右、担任のそば、AZ君(長男)。


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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-11-22