京都昨今
40、 「大砲でドン。戦闘開始! 1、2、3」    原因結果論T   

1〕
あたたかい春がいろいろに来た、1963年3月下旬、母方の祖母に、お見合いが来た。
お茶飲みのような、つきあいでいいですからというのが、相手方の言葉だった。
わたしが、1960年7月に逝った祖父の後を継ぎ、決定する言葉は、わたしだった。

祖母は、3月下旬、姫路市東雲町から、大阪市でひとり住まいとなった。
見合い、話は、杉戸町(すぎと)の、会社経営や、千葉県柏市で市議をしている、祖母の弟、ボーイスカウトの高田英、高田善行おじさんが持ってきた。

美津(旧姓、高田。出自、北葛飾郡杉戸、薬師)おばあちゃんと、わたしが、二人っきりになった。
祖母は、三人娘たちとも、生活があわされず、わたしは、さびしいだろうと思った。
相手の家の作りが、洋風というのが気になったが、
「その人、やさしい?」とわたしは、正座で、聞いた。
「やさしい、ひと」と祖母は、ほほえんで言った。
「それなら、いいです」とわたしは言った。
いつも和服の祖母は、また、ほほえんでいた。

祖母の再婚相手は、京都「タキイ種苗」の瀧井さんだった。会社を引退するというので、祖母と、話ともだちのような、つきあいをしたいとの事だった。
祖母がやさしい人というし、花を咲かせる、種屋さんだから、わたしは良いとおもった。

これで、終わったと思ったら、東京の叔母が、「反対」と、急遽、来るという。
祖父は、家紋を、変えられない「蔦」とは、べつに、先祖ゆかりと、祖母方の女紋もゆるし「菅原の梅鉢」を、さらに祖母をおもって、桑名に、生前の寿陵(じゅりょう)墓を用意していた。

祖母は、わたしに、葬儀の前、
「おじいさんが、作ってくれたのです。死んでも、いっしょになれるように、美津が死んだら、色をいっしょに」と、寿陵の赤文字をさし、よろこんでいた。

叔母たちから、わたしへの、発言権はなかった。

叔母が、すこし前にきたときの、お土産は、エッフェル塔マークの、「ピーセン」だった。
わたしは揚げ菓子がきらいで、
「揚げ菓子」と言い、妹は好きで、
「おばちゃん、この揚げ、お菓子、好き」と言うと、
「おばちゃま、ピーセン」と、叔母は、不満な顔をした。
わたしと、妹は、ピーセンの大きなのを、文房具入れにしていて、
「これと、同じ、揚げ菓子」と言うと、叔母は、
「なん、なの」と言うので、まだ、開けていない、貰い物の、「ピーセン」の缶をみせたら、
「姉さん、食べていない、ピーセンがあるの?」と言う。
「この子たち、そういったの、食べてるわ」と母が言う。

祖母の、再婚話のときは、叔母のお土産は、「クローバーのマロングラッセ」だった。
ひとつ食べた、おしゃれ着で正座をした、小学三年生の妹が、わたしに、
「お兄ちゃん、甘い、栗」と、虫歯を見せ、喜びながらいう。
正座のわたしは、妹の前歯をみて、
「お菓子ばかりで、また、虫歯がふえた」と言って、わらった。
虫歯が平気な妹は、恥ずかしがらず、そのまま、わらっている。

叔母は、「なによ」と言う。
小豆以外は、甘いものが嫌なわたしも、ひとつ食べることにした。
「栗!」と、わたしが妹に、言うと、
「あははっ、栗」と妹がわらう。
叔母は、
「六本木、クローバーの、マロングラッセなのよ」と言う。
「おばちゃん、自衛隊と、アメリカ兵がいるところ」と返事すると、
「そうよ、でも、東京よ」
「おばちゃん、栗、栗」と妹が言うと、
「おばちゃま、マロングラッセです」と叔母が言う。
「おばちゃん、マロングラッセって、栗?」と、五年生になるわたしが言うと、
「そう、栗だわよ。でも、マロングラッセなのよ」
「この、フォーションの紅茶、おいしい」
「そうよ、あのね。フォーションじゃなく、フォションよ」
「でも、ぼく、番茶の方がすき」
「姉さん、番茶と、紅茶を比べるの?」
「カズちゃん、まつだのイエの商売、考えて」
「いいわよ。つぎは、ヨックモックをもってくるから」と叔母が言ったので、
ヨックモック?と思った、わたしは、
「おばちゃん、これ、下町の?」と、わたしと妹がそれぞれ、鉛筆と、色鉛筆入れにしていたのを、三つ、出すと、
「え!?そうよ、下町よ。でも、東京よ。だけど、なによ、姉さん、どうなっているの」と、母にいうと、母は、
「カズちゃん、いいの、いいの」と言っている。

わたしは、どんなことがあっても、おばあちゃんは、おばあちゃんだといったけれど、叔母たちを、通し、まとめた意見は、反対とのことだった。
「美津おばちゃんは、前田の血の『蔦』が、ないの。家紋が、女紋の『梅』」と母が言う。

わたしは、祖母、美津おばあちゃんに、
「ごめんなさい」と言うと、
「いいんです」と、ほほえみ、よろこびながら言ってくれた。


豊中市立庄内小学校へ転校し、担任の岡重信先生が、わたしに、栽培部へと言った。
わたしは、雑草、一本すら抜けない性格をしている。
そのため、「嫌です」と断ったが、新聞にのるからと言われ、友人の、イエが会社経営の浦谷君が、新聞にのりたいといい、栽培部となった。

鉛筆のデッサンの時間で、浦谷君、早川君、木下君たちは、中庭の中央、つくりかけの花壇にいっぱいある、パンジーを、
「♪ パンジー、パンジー、三色すみれ」と描いていた。

わたしは、中庭の端にあった、タンポポを選んだ。
葉脈をかきあげるのは時間がかかるとおもい、とちゅう、ゲーテの植物デッサンのようにゆこうと決めて、ジグザグラインで、提出した。
すると、岡重信先生は、教室の最後部のわたしへ、
「まつだ、自然界には、こんな、ラインはない」と叱った。
『シ・ゼ・ン・カ・イ』わたしは、知らない、言葉の使い方に、おどろいた。

つぎの絵は、水彩で、ギターペイント、18色で、シャガールのような絵を描いた。
わたしは、シャガールの「わたしの村」のニワトリなどから、播州、印南の緑の稲と、生家の名古屋コーチンやチャボ、水色と黄色のセキセイインコの思い出から、庭の木と塀に、バタバタ飛んでいた、ニワトリやインコをかいた。
少し、わたしを理解しだした岡重信先生だけれど、
「この絵はなんだ? ニワトリが飛んで、塀にいる」と言ったので、
「先生、ぼくとこのニワトリ、飛んでました」と言ったけれど、ダメだった。

岡重信先生がいうので、栽培部のわたしは、必死に、丸いセメントレンガを、「一輪車」ではこび、中庭の土をもっていったが、しばらくすると、雑草が生えてくる。

「雑草が抜けない」と、母に言うと、
「雑草は抜いてもいいの」、と言う。
わたしは、雑草がかわいそうになり、雑草を理解しようと、1963年、五年生の夏休み、箕面公園へ行き、雑草をつぎつぎ抜いた。
植物図鑑をかってもらっていたけれど、わからなかった。

それで、わたしところに、イエを借りていた、福島商業高校(履正社高校)の、高野山、弘法大師をまつるお坊さん、国語の杉谷先生に、分類を教えてもらおうとした。

杉谷先生は、ほわっと、やさしくて、
「わからへんなぁ。植物の先生にきいてみよか」と、言う。
高校の生物の先生が、わからないと言うので、わたしは、ほとんど、名前を付けることができない、60種類ばかりの、植物を標本にして提出した。


3〕
杉谷先生の教え子で、役者になった、テレビ、「赤いダイヤ」でヒットした、島米八(しま・よねはち)さんが、タクシーでやって来た。

小豆相場に賭ける、テレビなどグラビアで見る人とちがい、グレーの、スーツをきていた。
『夕日と拳銃』などや、つぎに見た『ジャコ万と鉄』の高倉健さんと、ずいぶん、ちがうと思った。

福島商業、野球部監督の、杉谷先生は「わからへんかったから」と、わたしを、甲子園の高校野球へ、大阪代表「明星」の見学にゆこうと言ってくれた。

甲子園へついて、杉谷先生は、入場の、つづり券を間違えて、係りの人に、
「この明星の券、つぎの日です」と言われた。
お坊さんの、杉谷先生は、
「つぎは、こられへんから、この券で」と言ったら、本人かどうかの確認で、福島商業へ電話された。
「はい、はい、杉谷です」と係り員の部屋の、電話口でいい、わたしと先生は、入場することができた。

ネット裏は、選手を見るには、遠くて、試合は、「今治西」と、延長戦があったのを見た。
夜間の、バックライトがついたとき、
「よしのぶちゃん、ナイターも、見ることできたなぁ」と言った。

明星がみられなかったから、ショックだったけど、わたしは、杉谷先生のやさしさで、甲子園高校野球の作文を書いた。

このころの高校野球は、お祈りをすれば、かなえられた時代で、決勝は、甲子園で見られなかった、大阪「明星」だったので、近藤歯科で、虫歯を治した、妹や、近所のひとたちと、いっぱいになり、テレビのまえで、明星が、フライだったら、
「神様、神様。ボールを落としますように」と祈った。
祈りがきいて、フライを落とすと、大人もパチパチ拍手をして、明星は勝った。

4〕
堺市からの転校生、庄内駅前、絨毯屋の、友人の山本君は、すなおで、かわいい妹がおり、わたしの妹も三年で同級だった。
山本君きょうだいは、「一生のお願い、百姓のお願い」と祈ったと言ったから、明星が勝ったという。
山本君は「ぼくの妹、アホや。本、読まへんし、勉強せえへん」というので、わたしも、「ぼくとこも」というと、妹たちの成績表がでて、20番、21番とかだった。
わたしのアホな、妹より、一番下だったので、
「クラスの真ん中の、アホな妹たち」と言ってわらった。

山本君とは、岡重信先生が、「一週間ちがいで、また良い成績のが転校してきたぞ。駅前のじゅうたん屋さん。みんな買いに行ってあげろ」の言葉があった。

開店した日、母と妹とゆくと、六畳の絨毯が、関西間以上に大きく、注文で裁断すると、高くなるので、「玄関マット」を買った。
わたしは不満だったが、次の日、岡重信先生が、
「カネマン、だれか、お客さん、来たか?」と山本君にきいた。
店名がカネマンの山本君は、
「まつだ君とこ、じゅうたん買ってくれました」と言ったので、わたしは、玄関マットで、あれは、部屋の絨毯とちがうと言ったけれど、岡重信先生は、
「転校生の、まつだとこが、お得意さんか。良かったな、山本、転校生同志」と言った。
わたしが、違います、玄関マットですといっても、
山本君は、自信をもって、椅子から立ち、
「あれは、絨毯です。まつだ君ところは、お得意先です」と言った。

わたしは、この1963年夏、庄内小学校から、高野山へゆく、林間学校は、イエが貧しくて、参加できない人がおり、わたしは欠席をした。

福島商業の杉谷先生は、お盆には、法要で、高野山の寺へ帰るといい、茶色のサムソナイトの大きなカバンを持って、わたしが見送った。
「いつでも、おいで」と先生は、おしゃってくださった。
わたしが、先生、そのカバン何ですか?ときくと、
「本や、お経ばかりや、高校の先生、もう辞めなあかんねん」と言って、中をみせてくださった。
わたしは、書籍の多さに、おどろき、こんなに読むんですかときくと、
「お坊さんやしな」と言って、わらってくださった。

岡重信先生は、わたしの、「雑草の研究」と「甲子園高校野球」には、一言もなかった。
山本君の、きれいな「蝶々」の標本をほめていた。
山本君に、「どうしたの?」と聞くと、阪急百貨店で買ってもらったと言った。

5〕
庄内小学校は、1961年暮、3階たての、新築校舎がたった。
「二」状に「T」が、庄内小学校で、「二」上が新校舎。

新興住宅地、庄内は、わたしが転校した1963年春、3階部分は、使用されておらず、岡重信先生は、緑色した黒板のビニールを破り、今年も、新しい教室かと言った。
栽培部のわたしは、中庭に、タキイの種をまいた。

庄内駅、東口に、大阪2番目の「豊南市場」があって、乗り降りの人が多いため、そこに茶色のありふれた鉢にいれた、150センチくらいの菊がはいった鉢を、並べ、飾るという。

庄内駅前に持ってゆく役は、五年生は、わたしと、まるで、童話にでてくる、細身の魔女みたいな黒、葬式ルックの、ハイカラなお母さんをもった、テラスさん、という。
テラスさんの、お母さんがカメラをもってニコニコくると、わたしは逃げまわったが、テラスさんの、お母さんは、わたしの母に、「娘をよろしく、思い出、写真」といい、おもしろい魔女の、お母さんだった。

男子に人気のある、テラスさんだけど、五年生は、栽培をしたことがない。
浦谷君たちが怒り出したので、わたしは、
「約束は、浦谷君、早川君、木下君は、いっしょって、いわれました」と言った。
わたしは、「行きません」と言ったら、岡重信先生は、
「もう、まつだ、困らすな」と注意した。

取材の予行練習があったけれど、岡重信先生には返事した。
六年生代表に、栽培をまったくしたことのない、気分の悪い男子がいた。
が、この件に関しては、わたしは、級友との誓いがあったため、絶対に、話さないと決めた。

岡重信先生は、わたしに、
「まつだ、あした余所行きを着てこい」と、ほほえんで、いう。
こういったことを、わたしのイエでは言えない。言うと、母に、怒られるに違いないので、こまりながら、
「先生が、余所行きで」と言うと、
「男の子が、服装なんて、なんですか」と叱られた。
仕方なしに、わたしは、
「♪ 現代っ子だい、ボンネルのだい」の、すこし、もけもけになった、ピカピカ金ボタンの付いた、茶色の普段着で行くことになった。

わたしの、菊栽培は失敗に終り、岡重信先生は、立派な菊を、花屋で買って用意した。
そのため、わたしは、失敗のでも、いいですから、わたしが栽培したのを持って行って欲しいと言った。

岡重信先生は、「まつだ、先頭で、リヤカーを引け」
わたしが、リヤカーで、駅前まで、ひきずる、中心となり、後ろは、六年生たちとなった。
山本君が、好きだけど、言葉のかわせない、おとなしく、笑顔がやわらかい、テラスさんがそばに居たので、
「ぼく、荷物引きみたい」と言ったら、テラスさんは、ほほえむだけで、引っ張ってくれなかった。

とうじ、映画『事件記者』が流行った。
新聞記者は、偉い人だから、だれが、栽培をしたのかすぐわかると思った。が、庄内小学校、栽培部のわたしに気づかなかった。

わたしは、浦谷君、早川君、木下君ほか、庄内小学校、幸町児童会の下級生に、約束は守った「新聞記者なんか、嫌だ」と言った。
が、朝日新聞に掲載された。
近所の主婦が、「よしのぶちゃんが出ている」と言って、騒ぎとなったとき、母は、
「どうして、新聞に載るって、いわないの」と、急に東京の叔母風になって注意した。

浦谷君たちは、不機嫌となり、転校生の、わたしは仲間はずれとなった。
わたしには、児童会で、別のクラスの同窓と友人がいたけれど、卑怯に感じて、だれとも話さないと決めた。

6〕
わたしの、影響を受けだした、山本君は、副校歌を依頼し、わたしを無視した、新卒の、藤田和子女史の、歌の試験「冬景色」で、口を閉じた。

藤田和子先生は、山本君に、
「やまもと君、きょう、一日、黙ってなさい。教室を出て、その、尖がらした口で、立っていなさい」と命令した。
わたしは、音楽室を出された、山本君に、
「ぼくだけには、いいから」と小声で、言ったけれど、山本君は、口をとんがらかしたまま、開かなかった。

わたしは、藤田和子先生の言葉は、いつも、人を傷つけるので、
「先生、この曲、オクターブ幅がありますし、低音がGだと声が出にくいから、調性を、Eにして、演奏してください」と言ったら、
「男の子は声変わりの時期で、このままでいいです」と返答をする。

わたしは、教室から廊下へ出て、山本君に、「この先生、嫌」と言った。
それでも、山本君は、口をとんがらかしたまま、開かなかった。

ひとりっ子の浦谷君は、声が、一番低いので、「浦谷君、ピアノの前に行けよ」と言った。
そしたら、音楽が苦手な、浦谷君が困った顔をした。浦谷君は、ひとり、
「♪ さ霧(ぎり)消ゆる」まで声が出たが、「湊江(みなとえ)の」はじまりで、声が出なくなり、黙った。
早川君、木下君たちも黙った。

このあと、岡重信先生の授業になって、あたたかく、笑いながら、
「おい、山本、どうした。口が、ひょっとこ、みたいだぞ」と呼びかけたので、クラス中、わらった。
浦谷君が、藤田和子先生に叱られたんですというので、わたしは、
「藤田先生が悪いんです」と言った。
岡先生は、わははと、大きくわらって、
「山本、口を開いて、いいぞ」といっても、山本君は、口を開けなかった。
この五年の三学期以降、六年も担当の藤田和子先生は、冷たい、視線で山本君をみた。
山本君は、六年生も、音楽の時間、口を開かなかった。

あまりにひどいので、わたしは、音楽の本に題名がのっていた、「ベートーベンの『悲愴」(C短調)、先生の好きなCだから、演奏してください」と言ったら、新しい音楽室のドアを、バシンときつくしめ、教室から出て行き、このあと、わたしとの会話がなかった。

1964年、東京オリンピックの年、「二」状に「T」を加えた、下が、新校舎の理科室だった。
わたしを理解しはじめた、岡重信先生が、「まつだ、この校舎にしようか」と言った。
新校舎は、セメントが乾かず、水が、したたっていた。

浦谷君、早川君たちが、
「先生、この校舎、臭いがきつくて、体に毒、ちがいますか?」と言った。
浦谷君が、「まつだ君のお父ちゃん、専門やろ」というので、わたしは父にきいた。
「毒や、体にあかんで」と父は言った。
わたしたちは、校舎の窓をあけて、授業をしはじめた。

7〕
1964年のはじめ、庄内小学校に、雪がつもった。

六年生がはじまり、受験体制へはいった。

修学旅行が近くなった朝、浦谷君が、松竹さんと、予定表の前に居た。
わたしは二人に挨拶をした。

浦谷君が、松竹さんは、修学旅行へ行けないというので、わたしは、なぜと聞いた。
「わたし、身障者だから。中学も、迷惑をかけるから、梅花(ばいか)」と松竹さんが言う。
わたしは、大きな病院生活が長く、人を見る眼が、ちがい、気づかなかった。
浦谷君が、
「まつだ君は、ずっと、気づいていなかったの!?」と言う。
この言葉の響きは嫌だった。

松竹さんと、両親が、わたしへ、礼を言いに来た。
わたしは、悲しくなり、母に行かないと行った。
岡重信先生が困った。
松竹さんは、スポーツカーで、追いつくからと言う。
伊勢への修学旅行で、わたしは、最後方席の中央にいた。浦谷君が、
「まつだ君、松竹さんが呼んでいる」と言う。
松竹さんは、伊勢の海岸線を、ほんとうに、ベージュのスポーツカーの、運転手付きで来、ハンカチを振っていた。


運動会となり、岡重信先生は、わたしに、朝礼台で、「大鵬」をしろと言った。
わたしは、何の意味かわからない顔をしたら、
「まつだ、巨人、大鵬、玉子焼きの大鵬だ。大鵬の雲竜型だよ」と笑顔で言う。
「朝礼台で、裸ですか? 嫌です」と言うと、
「まつだが、化粧廻しを作って、六年男子全員がするんだよ」と言った。
朝礼台は嫌だし、ひとりでは絶対に、嫌ですと言った。
それで、庄内小学校、副校歌をともに作った、TANI君が「柏戸」役で、とすることになった。
作曲家希望のTANI君とは、キリスト教、日曜学校へ通っていた。
わたしも、五年生のとき、一度だけ、いっしょに行った。

化粧廻しは、わたしの自費で、二人分、銀ラメ5色カラー、太陽に反射するのを作った。
岡重信先生は、「すごいのができた」と言った。

鼓笛隊、マーチングの指揮は、豊中市短距離NO1、いまのスニーカーで、100メートル12秒1の、6年2組の友人だった。
小太鼓、グロッケンのあと、わたしが、リコーダー200人の担当の先頭だった。

運動場を、くるくる、まわり、100人ずつ、ロボットみたいに、列を変え、真剣な顔で、交差するのが、なんだか、すごく嫌になったので、一度、基本スタイル200人行進のとき、ついてくるとおもって、まっすぐ行こうと決めた。
わたしが先頭で、指揮のはずなのに、わたし、ひとりが、庄内小学校の西がわの、講堂へ、向かった。

岡重信先生はじめ、大喜多正照校長先生に、叱られるとおもったら、先生たちは、全員、わらっている。
わたしは、ついてきてくれなかった、クラスメイトを、薄情だとおもった。

運動会での、すもうの、横綱の土俵入りで、
「向かって、右の、大鵬が、3組のまつだ君です」と岡先生のアナウンスがきこえた。
恥ずかしさで、わたしは、このあと、記憶にない。

8〕
より、秋へゆく日、西側が窓で、そこの水槽の上に、1964年は、金魚を飼っていた。
一匹の金魚が、石製の流しに落ちていた。
岡重信先生が、「こらっ、マツイか」と言った。
松井さんが、
「先生、ちがいます、テラスさんです」と懸命にいった。
わたしは、雨の日、教室の教壇の角をつかい、最低四人はあそべる、「おはじき」での、頭脳ゲームの組み合わせを考えていた。

浦谷君が、教室後方の、わたしへ「まつだ君」と呼んだ。
わたしが顔を上げると、
「なんだ、テラスか」と言い、岡重信先生は、わらって、金魚を、外へほうった。
わたしと眼が合った浦谷君は、わらべ唄音階で、
「♪ 岡先生の、えこひいき」と言った。
「♪ 岡先生の、えこひいき」とクラスの大半が合唱する。
金魚は宙に浮き、階下へ落ちた。
浦谷君が、「まつだ君、まつだ君」というので、仕方なしに、
「岡先生、えこひいきは止めてください」と言った。

下は特殊学級(とうじの呼称)だった。
わたしは、休み時間に、あわてて、金魚をさがしに行った。
わたし自身、瞳孔が何度も開いた、臨死から、もどったように、金魚の命をたしかめにいった。
金魚は落ちたとき、痛かったのだろうかとも思った。
金魚は死んでいた。

六年三組は、一年三組の、授業のはじまりの責任でもあった。
わたしが担当するのを、家庭科の岡以知子先生は、よろこんでくれ、一年生もよろこんでくれた。
一年生に、漢字や算数をおしえ、守り、なにか緊急のことがあれば、連絡する役割だった。

正門の園芸、栽培は、わたしたち6年3組で、わたしの経験が長いので、正門で、一番新校舎に近いところに、金魚の墓を作った。一年生たちも来た。
十字架がいいと考え、小さな、木で、十字架をつくった。

庄内神社に、秋祭りの時期がきた。
露天が出ると、浦谷君が、誘う。
夕方近く、金魚のことで、違いますといった、松井さんが、姉さんと、着物できた。
松井さんは、まるで、わたしたちの姉さんのように、財布から、20円をとりだし、
「まつだ君、ありがとう」と言って、ガマグチの財布を、パチンとしめた。

わたしは、「いらないから」といい、松井さんが、姉さんのもとへと行ったので、「いりません」と言ったが、松井さんの、中学生の姉さんは、静かにだまったままだった。
お金は困るといっても、浦谷君は、
「もらっても、いいよ」と言うので、わたしは、露天で、輪投げをしていたので、輪投げの景品をあげるからといった。
輪投げ屋さんは、この情景をみていて、「半分かかっても、かまへんよ、持っていって」と言ってくれた。

浦谷君に、わたしの左手を持ってもらい、10円で、3本のうち、景品を、5つ取った。
浦谷君にひとつ、わたしにひとつ、松井さんに3つあげたら、
「ありがとう」と松井さんは、笑顔をみせ言ってくれた。姉さんはだまっていた。

9〕
東京オリンピック、最終日、マラソンの日がきた。
わたしたちの教室は、テレビがあった。

浦谷君たちが、
「アベベの優勝はいいけど、まつだ君と見ると、2位は、君原健二か、寺沢徹」と言う。

わたしは、国鉄駅前、国道2号のそばで育ち、「駅伝」は、幼児から見ていた。生家のまえが、「たすき」をわたす場所で、よろよろ、倒れる、大人のひとを、なんにんも見て、叔母に、なぜ?ときくと、
「競争やし、勝たな、あかんやろ。そいで、いっしょう、けんめい、走ってるからや」と聞き、発熱をした。

わたしが入院した次の年は、中継地点が、かわっていた。

この経験から、マラソンの聖者アベベでも、ほんとうは、苦しいのではとおもい、わたしは、帰りますと言った。
が、岡重信先生は、ほほえんで、
「みんな、教室で、いっしょに、みよう」といった。
2時間がたち、わたしは、岡重信先生が、教室を出入りしはじめたのを、見ていた。

学校でのこっているのは、わたしたちのグループだけだった。
わたしは、浦谷君、早川君、木下君たちの後方で、ひややかに見ているつもりだった。
のこり、15分ぐらいほどの時間になった。円谷幸吉が2位だった。
「まつだ、校長先生から言われた。もう、閉門の時間だ」という。

浦谷君たちは、
「まつだ君と、いっしょに、見ていないと、負けてしまいます」「約束とちがいます」と、泣き声になったので、
「先生、約束」とわたしが言うと、岡先生は、いそいで、職員室へもどられ、また来て、
「ダメだ、ダメなんだ、まつだ」と言われた。
わたしたちは、急いで、イエへと走った。

わたしは、ひとりで、帰ると言った。

わたしたちが、イエへと走っているとき、情況が変わった、マラソンの結果に、浦谷君たちは、泣いたと言った。

10〕
五年生の昼休み、ワンバン野球に夢中になった。コンクリートによる防火帯がある、旧校舎の屋根にあたるとホームランで、場外ホームランは、わたしと、山本君ができた。

浦谷君たちとは、絶えず、忍者ごっこをして、5年の冬も、一番身軽な、木下君は忍者向きだから、「水遁の術」の本をかい、薄氷が張ったとき、木下君に、右足が落ちるまえに、左足と言い、がんじきは下駄にしようとかいって、していた、わたしたちだった。

わたしは、運動場では、「Sケン」、「宝島」。
「いんじゃんで、ほい」、「駆逐、戦艦、魚雷」の「水雷艦長」の変形をして遊んでいた。
みんなが飽きるので、週に二回、遊び方を変えた。
戦艦(帽子の翼が前)、駆逐艦(横)、魚雷(後方)で、体に触れられ、陣地へつれられ、捕虜になり、参加できなくなる。
『紫電改のタカ』(ちばてつや)の影響で、帽子を、ふたつ、左右にしたのが、『紫電改』で、これは、戦艦も、駆逐艦も、やっつけることができた。
人数など情況で、『紫電改』『ゼロ戦』は、戦艦からの大砲で、墜落させることができた。
でも、
「大砲でドン、戦闘開始!1、2、3」の合図と、駆逐艦の浦谷君、早川君に「助けて!」と言われて走る戦艦役は、いつも、わたしで、退屈だった。
走りすぎていると、浦谷君たちが、「戦艦が動き、魚雷につかまると負けになるから、ダメだよ、まつだ君」という。
軍艦がつかまると、
「軍艦、軍艦沈没。沈没、沈没、破裂」で、負けになるからだ。
「駆逐、戦艦、魚雷」は、短距離ランナーが多い、庄内小学校で、わたしのグループが、一番強かった。

100メートル、スニーカーで、12秒1が二人、12秒3、12秒4がいる庄内小学校の遊びは、岡重信先生、6年2組担当で、若い、小谷俊治先生たちが、いっしょにと言い、「ポートボール」などを、わたしたちとしたけれど、
「ダメだ。先生たちは、まつだたちには、着いてゆけない」と大学ラガー、スクラムでの、スパイクの跡は男の勲章という岡重信先生が言った。

ゴム飛びは、女の子たちも、クラスをこえ、加わった。
ゴム飛びもだけど、縄跳びは、長いのをと、スーパー「シロ」で、長いのを言って、買ってもらい、わたしたち、6年生の、縄跳びは、参加が、20人単位だった。

金魚の墓と、宵祭りのことが、特殊学級の生徒につたわり、このような先生たちとの光景に加わりたかったのか、いつも、挨拶をしていた、特殊学級の6年生男子がきた。
参加させると、つぎに、5年生が来て、2年生の女の子まで、きたので、困ってしまった。
かれらは、ルールを、覚えることができなかった。

浦谷君が、「まつだ君、たいくつで、遊べない」と言った。
わたしは、ルールどおりすると、宣言し「Sケン」、「宝島」のとき、線をこえてきた、6年生男子を押し、うしろの2年生の女の子がともに倒れた。
「いじわる」と、特殊学級の6年男子が言った。

次の日から、特殊学級の児童は、6年生のひとも、わたしが挨拶をしても、しなくなった。
わたしがしてきたことは、なんだったのだろうと思った。
これらの言動で、わたしは、校庭で遊ぶことを止めることにした。

この光景は、わたしたちだけのものと思ったとき、特殊学級担任の、新任で、やさしい表情の、玉田修三先生から、岡重信先生へ、大喜多正照校長先生につたわったのか、校長先生が、職員室で、
「開校以来のできごとです」と言われたそうだ。

岡重信先生が、にこやかに、「大喜多正照校長先生が、ほめていたぞ」と言った。
見られていたとは知らず、わたしは、この言葉に疲れた。

11〕

音楽の時間であまり要らなくなった、リコーダーは、チャンバラごっこの刀となった。宮本さんは、女の子なのに強く、叩いては、男子を泣かしたりした。
わたしたちに混じっての、チャンバラをして、裏門からの帰り道だった。

いまは後門に、横断歩道があるが、わたしたちのときはなく、オートバイにのった大学生が、30数人ばかりの、群れに、ハンドルを取られ、つっこんできた。
わたしは、宮本さんたち女の子を、先に、右手で払い、走り、つぎに、男子を、払った。
わたしは、オートバイに弾かれた。

このことは、学校へ知らせず、わたしは三週間、休んだ。
卒業アルバムに、「まつだが入っていないと、ダメだ」との連絡があった。
わたしは載りたくないと、母に、言った。
身長は、事故などの前、後ろから、二番目だったけれど、事故のあと、背丈が縮んでいた。

岡重信先生は、11月の終わりになっても、わたしや母に「灘中学へ行かさないと」と言っていた。

浦谷君が、「まつだ君、ぼくとこのお父さんが、会いたいって」という。
浦谷君の言葉で、わたしは、早川君、木下君と、浦谷君ところへ行った。
玉田修三先生が、家庭教師として、入ってこられたので、びっくりした。
早川君、木下君たちも知らなかった。
算数の問題をしはじめた。小学生には、難しい問題、連立方程式だった。答えは、問題を見たとき、わかった。
浦谷君ところは共働きで、おばあさんが、「おやつの、ゆで卵」と言って、ザルに積み、もってきた。
ゆで卵がおやつ?と思いながら、わたしは、卵のひびから出ている、塩の模様をみていた。
玉田修三先生が、この連立方程式の答えは?とわたしに聞く。

次の日、浦谷君が、「玉田先生、みんなが、卵を食べている間、まつだ君は、考えていたんだよ、だから正解が、直ぐ言えたんだ」と、言った。
わたしは、何も考えていなかったので、何も考えていなかったよといい、だまった。
「うううん、まつだ君は、考えていたんだよ。担任以外は、家庭教師はいいんだよ。山本君ところにも、他の先生が行っているよ」と言った。


岡重信先生の、別れの言葉、サインノートは、「まつだのは、特別にかかないと」と言われて、わたしは、皆と同じ、ふつうでいいですといったが、預からせてくれといい、墨の筆でだった。
「ゲームに参加するものは、ルールを守らなければいけない Goetheゲーテ」とあった。

明星中学校進学が決まった、浦谷君は、サインノートを見て、
「まつだ君、ゲームに参加するんだから、ルールを守らないと、いけないよ」と、わらって、言った。

わたしは、ゲーテの美術、科学論など、二度と読まないと決めた。

12〕
第六中学への入学となり、1年9組で、早川君たちといっしょだった。
山本君は、難しいといわれる私立を受け、落ちたらしい。
「山本、あんなに、前にいる」と早川君が、言った。
早川君の言葉で、わたしも、1964年の卒業写真では、わたしと、同じくらいだったのに、受験での緊張だったのか、背丈が伸びていなかった。

近くの野田小学校のをはじめ、庄内小学校の鼓笛隊で、指揮をしていた、MATA君も、学校中、行っているという、塾へ、中間テストが終わってから、行くとことになった。

塾の先生は、大阪大学の偉い先生だそうだ。阪大の英語の天才だそうだ。
庄内神社の前に塾があった。
塾の先生は、偉いそうで、あまりあらわれず、アルバイトの学生がしていた。
塾の先生は、わたしが、教材などを買ったあと、現われた。
「おっ、おまえが、この塾に来ないで9組のトップ、マツダか。マツダ、ヤマモト犬の糞(くそ)と言ってな。どこにでも、落ちている名前だ。オレは、禰宜(ねぎ)って、神主の名前だ、阪大の英語の天才だ」と言った。

英語の天才の授業は、アクセントも抑揚もなっていなかった。
「勉強だけだとダメだ、体操が大事なんだ。ここは、オレところの神社だ」と言って、庄内神社をつかい、体操をさせた。
陸上部のわたしには、体操の意味がわからなかった。
「まつだ、ラジオ体操は、力をこめてやれ、おまえが、病気で入院するのは、怠けるからだ、うさぎとびしろ」と命令した。

「マツダ、ヤマモト犬の糞」「うさぎとびだ」の言葉で、買わされた、参考書9冊、問題集5冊が、ムダになると思ったが、わたしは、止めることにした。

わたしが、塾の教師が、「禰宜(ねぎ)」という、神社の名でなく、根木としったのは、2006年である。
根木哲郎(ねぎ・てつろう、1939年3月生まれ。大阪学芸大学、体育科卒。阪大技官、香川医科大教員)。
大阪大学英文出身といい、自称、英語の天才、根木さんは、医学博士だそうだが、嘘つき威嚇博士のほうがよいのでないか。

13〕
日本にとっての、大国、中国、清朝は、アヘン戦争により、植民地化された。
アメリカ軍ペリーが、オランダ貿易をしている日本。
侵略が目標で、相談し、来航した。

徳川幕府が注文した、舶来の莫大な金、「軍艦(咸臨丸)」で、オランダの海軍の、W カッテンディケ(Kattendijke)が、指導にと、長崎海軍伝習所へきた。

政治家でもあった、カッテンディケは、日本人は、なぜ、教えた事以外しないのか、なにもかも、いいなりだ。これほど防衛を考えない平和な国家があるのか、美しい国だ、医学での、人類学の知識だと、日本女性の体は変わっている。
下半身のほうが、西洋人の口と同じかたちだそうだ。じっさいは、ちがったが、良い気持ちだった。だから、住みたいけれど、戦争の、まきぞえで死ぬのは嫌だといいながら、去った。
(参考、『季刊人類学』【発行、京都大学】。「タテヨコ」論文。著者は、梅棹忠夫先生が、ご存知だ)

日本は、欧米資本による、血族の藩が戦う、内乱となった。
ものごとは、戦いは、綿密に、画策されたものには、必ずといっていいほど、負ける。

戊辰戦争からの五稜郭への戦い。
陸上もだが、海上など、欧米で使い古した、舶来の船を高く買わされ、日本は、資金がなくなった。

14〕
GHQ連合軍による、黄色人種を実験台とした、本土攻撃、空襲は、わたしの故郷だけをみても、東京(母方)、名古屋(母方)、桑名(母方)、大阪ー尼崎ー神戸(父方)、加古川ー姫路(父方、母方)を、連続攻撃した。

旧帝国大学をふくめ、国、郡部の空き地や公園を、田圃や畑とし、都市民は、わずかな実りを求め、夏から秋を待った。
その時、連合軍は、綿密なるB29による空襲をかけた。

戦争まえに、軍人、軍医による最高会議があり、「国際法」というものを決定してゆく。
しかし、GHQ連合軍は、禁止事項である破壊兵器をつかい、徹底してやった。

地方からの、食糧の輸送路を断ち切る、欧米の知恵か、搾取か、線路という線路、ようやく、土道からコンクリートにした道という道を破壊した。

地方は、食糧で困らず、豊作となり、この空襲により、都市と地方の位置、生活住民の力関係が逆転した。

世界の大都市、東京は、旧制小学校の、通信簿(成績表)の段階でしるされていた、旧華族、士族階級の思春期の娘たちが、親により、売りに出された。
金により、戸籍(家系)がかえる時代が、明治維新につづきやってきた。

あまり知られない、「桑名の大空襲」では、わたしの先祖代々の、「石板(せきばん)」墓を、僧侶たちが、運び、断片だけでもと、保護してくれた。




▲左、庄内小学校、1963年、五年生のとき、3階、右から、3番目が3組。1964年、理科教室、2階左端が3組。

▼入り口の左に、1年3組があった木造校舎
。 

HOME
「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-12-15