京都昨今 |
||
39、ギンヤンマを殺した夏 曽根の秋祭り 夢の存在V | ||
1) いまはむかしなのか、1972年、交野天神社をまつる、くずは駅の、機関車D51を象徴とする、モール街に「汽車の広場」ができた。 交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)は、枕草子の舞台の場であり、楠葉の地を象徴する神社だった。 高校の授業で習っているのだが、1969年、わたしは、見つけることができなかった。 同窓にきくと、「在る」とのことだが、地元の人しか行かないという。 夜8時には、駅員がいない無人駅となっていた、楠葉どうよう、無人の交野天神社は、じっさいは、在った。 神社は、樹木の中で、祠(ほこら)はじめ、鳥居など、朽ちるのを待つようなものと、想像できた。 祭りは、村のものであり、神社は、殺生によること、つぎの季節への豊穣の願いをかねて、放生をいわうものである。 交野天神社は、1977年、在り方が少し変化した。 外来者というか、生活をしはじめ、10年という歳月がたった、新興住民の参拝をうけいれるようになった。 甥の七五三のときだったとおもうが、母と兄たちが行った。 が、新興住民であることを知るわたしは、同窓を思い、行かなかった。 わたしは、同窓たちの、村の信心の象徴であり、ほこりでもあるとかんじ、境内、鳥居をくぐる意思はなかった。 じっさい、わたしの学問に、ひとつの区切りがついた、1983年、妻の父が早く逝った年に、少し、新しくなった、京都の他の神社にくらべ、素朴な、木の鳥居をみて、立派になったと思った。 地面を中心とし、そこに木、ひとつをたて、太陽、月、星の運動を知ること。 八百屋という言葉でわかるとおり、植物栽培を基本に、生きてゆくための歳月、時刻を知ろうという、食物の収穫という生活の基本、五穀や野菜を安定して得ようという信仰は、八百万の信仰ともいわれる。 太陽を中心に、雨、土、紙を生活の土台とした、世界各国、どこにでもあった、先住民の生活と似た、日本人の在り方は、いつのまにか、機械文化が重要なものとの考え方により、変化していった。 工場群が、重機や食品など、船舶での輸出入もかね日本の海岸沿いに占め、山河や海辺が汚され、大きな戦争がはじまり、破壊され、戦勝国GHQにより、この素朴な土着の信仰が、禁止されてしまった。 欧米先進国の劣等感ともいえる誤謬は、日本人の、気持ちをつうじさせる成り合い、また、語彙力にもあった。 言葉をいわない文化をきずいてしまっていた日本を、「野蛮な民族」というラベルを貼るため、機械化した先進国は、日本人にも、欧米列強が、アジア・アフリカで先に実行した、「欧米の教育」のなさにしようとした。 日本人のばあい、大きな戦争をしかける国々より、江戸時代から、学問所に、寺子屋から村人たちへの指導で、識字力が高く、教育もあった。 この、伝統という事実が、欧米の知識人へ、欧米の学校教育を中心とした、教育の在り方に脅威をあたえた。 かれらは、質素をもとにした教育が、自分たちの国より、充実した国が、アジアにあることを認めたくなかった。 質素を貧困、貧富の差という単語に置き換え、日本が、江戸時代につくった、教育の方式を、焼夷弾や、原爆で、破壊した。 智識をつたえる、伝統がのこる、書籍や文献の多い、東京や大阪を中心に壊した。 欧米の科学とやらで、教育の在り方の、原因を追究するため、欧米が計測し、知った「欧米人より、格段上の、日本人の驚く識字力」を無視し、日本人の、死生観に原因をもとめようとした。 欧米人は、西洋科学をもつ、自分たちには、なんでも、理解できるという、傲慢さを捨てなかった。 そのため、お母さんと叫びながら、死をおそれず戦死してゆく野蛮な言動をとる民族には、理解しにくい、母なる天照大御神への信仰としようとした。 じっさいは、どの民族にもある、自分自身を生み、育ててくれた母への思いが基本の自然信仰だと、野蛮、脅威だと言えないので、「理解できない神道」にあると、言及してゆくより仕方なかった。 樹木と、古びた、板切れだけともいえた、交野天神社のどこに、機械金属を要とした、象徴があるのか。 村の鎮守の神様が、矛や盾を、もっているのか。 こういう、事実を見ず、矛盾だらけの思考で、日本を植民地化し、正当化できたと思った。 GHQ連合軍は、日本の太陽のしたで、水稲文化を基本とする「ふるさとのお母さん、ふるさとのお祖母さん」は分析、発表しようとしなかった。 日本の信仰の根幹を、たとえば、大きな建築様式をもつ仏教にしたばあい、仏教は、インドや中国を母体とするものである。そのため、かれらの御都合主義、合理主義では、生産のための、一年という歳月をはかる、どこの国にでもある、歳時記と、潔斎(清潔)が規範の神道を原因にしようとし、成功した。 近々のアフリカ、東南アジア、西アジアと同じく、江戸時代は、意志流通の共通語、これが無い島国との認知で、御三家、親藩、外様も、天皇家を中心に、よく似た、血縁でありながら、幕府がわと、薩長土肥の内戦へともたらせた。 歴史をかえりみると、幕府の御三家、親藩のやりくりが、17世紀に江戸時代がはじまって、二世代、50年もたたないのに、継続が難しくなり、破綻する経済、社会問題の発生でわかる。 イエを同じくするものは、言語の流通がなくても、所作での、了解文化が、この小さな国土には、できあがってしまっていた。 これらを、日本の文献でなく、欧米人の視線と思考でみたいのなら、E.ベルツはいうまでもなく、著名な、紀行家というより、思想家の、イザベラ・バード(I. Bird)女史の、「日本奥地紀行」を読めば良い。 日本の音楽をはじめ、習俗を、バード女史ほど、事実をそのままとらえ、感想のまま、つぎの旅行をした人がいるだろうか。 バード女史の偉大さは、「朝鮮紀行」などにもみられる。女史の、客観描写、および、自然に厳しい土地で、生きてゆこうとする人間を理解し、表現しえた人を、わたしは知らない。 日本の宗教の形がどのような形であったかは、どこにでもある、村の鎮守の神様をしればいいし、歴史というならば、「交野天神社」をおとずればすむことである。 この交野天神社があり、レトロなD51の汽車の広場には、歌手の山口百恵さんが、紙ふうせん、森進一さんはじめ、歌手、俳優さんが、かなり、こられたはずである。 が、いまは、わかりやすい「D51、汽車の広場」はない。 最初は、1972年、くずはには、水嶋書店と、薬局の位置に、レコード店があった。 店長は、客が、わたしたち、きょうだいだけというので、わらった。 モール街は、最終的に、水嶋書店が入ったが、京阪電鉄からの、最初の話は、わたしのイエだった。 理由をきくと、「本をいっぱい読む、お兄ちゃんが、いるから」ということだった。 京阪電鉄のいう、お兄ちゃんとは、わたしのことだった。 2) 小学校四年生のとき、夏休みの課題に、昆虫採集があり、学研の「科学」の付録に、昆虫採集セットがついていた。 雑誌をよむと、昆虫採集の仕方が、かかれてある。 燐粉のある蝶は苦手だし、カブトムシも嫌なので、昆虫採集の数では少ないが、昆虫のなかでは好きな、トンボを10匹あつめることにした。 雑誌の付録では、だめだろうとおもい、兄に、大人がつかうような、ガーゼ状の捕虫網と、昆虫採集セットを買ってきて欲しいといった。 兄がもどってくるあいだ、市民会館の原っぱへゆくと、トンボがいるだろうと思ったら、ギンヤンマがいた。 わたしの、まえへ、安心して来て、羽根をつかむことができた。 わたしは、燐粉がある蝶をはじめ、バッタも、カブトムシも、苦手だった。 ただ、トンボだけは、やわらかく羽根を、つかむことができた。 後は、いつも放していた。 昆虫採集をしようとおもったのは、ふつうの子供のように、昆虫採集をすれば、気持ちが強くなるのでは、と思ったからだった。 兄が、もどってきて、「網」はおくどさんの所におき、昆虫採集セットは、わたしの前に、だまって置いた。 兄は、魚を取るアミも買ってきていて、川へ、でかけるという。 虫籠もあり、祖父の細かく作った、小鳥用の竹製のもあった。 そこに入れ、トンボの標本の作り方を読み、わたしが、殺虫と防腐をかねた注射をしようとすると、母が、 「お母さんは、嫌いよ」という。 いままで、いちども、わたしの行為を批判じみたことを言ったことのない、祖母が、 「ああ、殺生な」と言って、前かがみのまま、居間にいる、わたしを避けるようにとおってゆく。 殺生。 祖母の、この言葉で、わたしは、昆虫採集を止めることにした。 買ってもらった、大きな、捕虫網は、一度もつかうことがないのかと思った。 夕方近く、兄とわたしの、児童会での友だち、次男、三男グループ5,6人づつ、二グループが、箱にカブトムシやクワガタを入れもってきた。 3箱に、10匹ぐらいずついる。 兄から、わたしが昆虫採集をするときき、山へ行ってとってきてくれたという。 上がり框の、わたしは、その数に、ぼんやりしてしまった。 ぼーっとしているわたしに、次男、三男グループは、遠慮がちに、言葉少なく、カブトムシの説明を、静かにしてくれる。 児童会の次男、三男グループは、わたしには、どの人も、大人しい。 わたしは、クワガタが苦手で、こんなにたくさんというと、どれも、少し、種類が違うらしい。 三匹ぐらい、とても、珍しく、カブトムシより人気があるという説明をうけても、わたしが、わからない。 わたしは、もう、昆虫採集は、できなくなったことを言った。 そしたら、夏の風物詩のように、観賞とすればいいという。 母は、捕虫網も、大人用の昆虫採集セットも、あげなさいという。 それで、カブトムシやクワガタの礼に、捕虫網も、大人用の昆虫採集セットも児童会のひとたちにあげた。 カブトムシ、クワガタが、元気になればいいとおもい、スイカ、きゅうり、なすびを、小さく切り、細かな竹篭に入れたが、どうも、ふつうの虫篭かいいのかと思ったり、菓子用の空き箱のほうが自由に動けるのかとおもったりした。 会社から、戻ってきた36歳の父は、昆虫に困っている、わたしの様子をみて、 「いらん、殺生はするな」と一言いった。 こんな怒られ方をしたのは、はじめてだった。 どうすれば、長生きをするかと聞いたら、「すぐ死ぬ、もどしてやれ」という。 夜だし、山など、行ったことがないので、兄に、「山って、どこ?」ときいた。 兄は、カブトムシとクワガタは、グループにより、とる場所が違い、言わないという。 どうすればいいか、わからず、やはり、餌が多ければ、いいのかとおもい、祖母に、また、スイカといい、縁側におき、籠中、スイカだらけにした。 「さわったら、アカン。そんなことしても、死ぬ」と父は、怒っている。 どうしていいのか、わからないので、きくと、 「庭に、放っておけ、帰ってゆきよる」と父がいい、黙るので、わたしは、夜、庭へ放した。 わたしが、昼すぎにとった、「ギンヤンマ」は、防腐剤が強かったのか、紙の箱に入れていたのだけど、頭が取れていた。 兄にどうしようかと聞くと、黙っている。 わたしは、わたしを信じて、そばにきた、ギンヤンマを殺した。 人間の生活と、関係のない、生物を殺すことは、わたしの村では、禁忌の行為のようだ。 3) 父とは、2歳ごろ、祖父の言いつけで、池を、盆の強い太陽光で消毒する、池ざらえのため、行った。 池には、池の主の、大きな鯉が一匹いた。 他は、とられ、食べられてしまったという。池ざらえをし、また、稚魚を放っておくと、食べ物に困った、村人が食べるという。 鯉もわたしには、なついてくる。 この大きな鯉を、祖父は、殺生と放生をおしえるためか、庭で、大きな、まな板をつくり、そこで、料理の順番を見せた。 いつものことだけれど、わたしが逃げ出すと、祖父が、わらう。 お盆のひとつの、しきたりというか、夏の暑さにまける、わたしのために、名古屋コーチン(かしわ)もさばく。 名古屋コーチンは卵も産むそうだけど、わたしのイエの鶏は、ホワイトレグホンさえ、ほとんど産まない。 母に、どうするの?とか言われ、友だちになるといい、チャボをいい、飼ってもらい、ウズラもいい、飼ってもらったが、チャボもウズラも自由気ままに遊ぶだけだった。 鳥屋さんがいうのに、甘やかしすぎという。 父は、ふるさと、秋祭りについて、氏子の数、「十一ヶ村」(じゅういっかそん)と記憶していた。 これは、2006年になり、ゆるやかな、活動をしはじめた、神吉八幡神社の氏子の数で、父は、わたしの、ひいじいさん松太郎や、血縁や、幼なじみから、聞いたのだろう。 「神吉八幡神社」の周辺を軸に、姫路から神戸は、血縁だらけともいえる。 「鬼」の役は、村を支える、青年団の役割という。 また、神輿では、大石(おおしこ)神社の下にある広場で、同じ村の、「若衆(わかしゅう)」と、「年寄り衆(としよりしゅう)」とが、神輿と神輿を、錬(ね)りあわせ、力の加減を知り、激突させ、赤鬼の面をかぶったり、太鼓で、調子をとるという。 父にも、いま(2006年秋)。播州、印南郡の人たちにも、確かめ、きくと、道を錬(ね)りゆくことは、声をかけあわせ、披露の意味をふくんでいるようだ。 どこまでも、おおきくは、同じ神社が、ひとつの神(かみ)であり、社(やしろ)をおなじくする、同属の「氏(うじ)」の「子」であるため、村の言葉と、こころを知る人たちの、にぎわいへの、競争の祭りである。 このとき、播州では、ふつう、誇り高く、ハレの儀式で「部落」という言葉をつかう。 わたしにとっても、部落対抗という言葉は、若い世代が、力量を披露する、ハレの言葉である。 が、若さは、力量を越えたものをだしてしまう。 父に、怪我人はでなかったのかときくと、「栗山」の父のイトコが、大怪我をしたという。 祭りは、担当になった、村の経済力によってきまり、金がかかる、屋台はあまり崩すことなく、神輿は、ぶつけあいによって、傷み、その修理などは、各村の景気によって、違うという。 わたしの血筋には、どうも、夢中になるものが出る。 そして、村の青年団たちが、村の規律を教えるため、「鬼」と化身し、新しい意匠を加え、子供たちへの、教えとする。 4) わたしが、参加したというより、見物したのは、児童会からの、お別れ会をかねた、1962年の秋、いちどである。神吉八幡神社、生石神社の氏子などと、関係なく、村祭りとして、青年団が、市場を中心にしてくれた。 わたしのふるさとは、山を切り裂くのに、「発破(はっぱ)」をつかい、発破のときは、わたしのイエに連絡があったが、また、時代劇の、映画の撮影隊が来る場所だった。 兄や、幼馴染は、何度も見学に行っているが、病弱のわたしは、外出を許されず、いちどもみたことがない。 町とは、村とは、若さが財産である。20代、30代がもった力こそが財産で、若い世代に、まちがいが少々あったとしても、50歳をすぎた老人は、遠くから、眺める余裕が大事である。 この代替わりというより、文化、財産をつぐのは、青年の役割であるから、30代がいるのなら、まかせるのが、還暦以上の年寄りの良識ある判断となる。 村の青年たちの、工夫なのか、1962年、わたしとのお別れ会のとき、 「だいだい色、緋色(黄鬼)」 「碧色(青鬼)」 「赤鬼」の、三種類の鬼を児童会でつくることにしたようだ。 鬼の存在は、子供への、やさしい漫画をかく、山根青鬼、山根赤鬼の影響もあっただろう。 内容は、児童会から、基本は鬼ごっこであると、説明をうけていた。 からかう、使用して良い言語は、「アホ、ボケ、ノロマ、捕まえてみろ、追いつけるか」などだった。 陸上に強い、宝殿中学でわかるとおり、 「だいだい色と緋色(黄鬼)」は、中一、小学六年生の、すばしっこく、足の早い人、 「碧色(青鬼)」は、小学六年、五年生、 「赤鬼」は四年生以下の子供たちが対象となっていた。 子供たちが、鬼をからかうと、鬼が、怒って、走ってつかまえる役目をする。 「赤鬼」は、「鬼」というより、「鬼さん」で、優しく、子供を抱き上げ、ニコニコ、話をしたりしている。 月光仮面のように、うすい布地がなびく意匠をした、田植えから、稲穂となりゆく、稲の色彩の変化に似た「碧色(青鬼)」は、走力に自信があり、中学一年生、小学六年生ちに、からかわれると、手で、行くサインをだし、眼から口元をあける。 そして、「行くぞ」とか言って、10メートル、20メートルぐらいの距離になると、草履や下駄を手にもち、裸足で、思いっきり走りはじめ、捕まえると、パカンパカンと、尻や頭を、草履や下駄で叩く。 「碧色(青鬼)」のばあいは、逃げる、道が細くても、曲がってもよい。 これは、時代のせいだろう。 とにかく、1945年前後生まれの、青年となった、10代後半の青年による、仕草は、格好よかった。 どんな時代かというと、 「♪赤い帽子に 黒マスク 黄色いマフラー なびかせて」の、まぼろし探偵。 「♪しろいマフラーは、正義のしるし」の、少年ジェット。 「♪正しい者に味方する ハリマオ ハリマオ」の頭にターバンをした、怪傑ハリマオ。 「♪ゆくぞ、カクタス、砂塵を蹴って、腰にピストル、背にギター」の熱血カクタスも、黒っぽいマフラーをしていた。 どれも、人間で、主人公は、勇気と正義をもっていた。 一番、格好いいのは、よりうすい布地で、走ると、格好よく、なびくのが、だいだい色と緋色を混色させた「黄鬼(緋色)」ので、少々からかわれても、動かない。 中学一年生や六年生たちには、からかいにからかう。 距離が20メートル、30メートルとなる。 そして、それ以上、正義の使者である、鬼をからかうと、捕まえてみる、懲らしめるぞと、黄鬼は、沈黙のまま、手だけで指示をする。 黄鬼は、面を隠した、布地から、眼の部分を開け、腕をのばし、手で、短距離に自信がある、1950年生まれの六年生、1949年生まれの宝殿中学一年生へ、伸ばし、追いかけるとサインをする。 履いていた、下駄は、走ると同時に脱げ、青鬼とちがい、下駄は道に、ほっぽりだしたままだ。 黄鬼のばあい、道は直線か、大きな道での、正々堂々とした競争で、100メートルを越す単位になると、とにかく早いので、捕まってしまい、どつかれる。 宝殿の、子供を対象とした、秋祭りは、テレビや映画より、だんぜん、格好よかった。 この光景は、たのしかった。 わたしは、ふつうの、五年生や六年生より、早く走れるようになっていた。 「碧色(青鬼)」を、からかう上級生といっしょに、いたのだけれど、どうも、病気の、わたしの体を知っているのか、追いかけてこない。 兄は中学二年となり、参加の資格がなく、居らず、なんだか、わたしが、場をこわしている感じがして、二、三分、下級生たちと、赤鬼と、「お話」をして、イエに、もどることにした。 あどけないかもしれないが、わたしの生涯のなかでは、唯一の、大切な、思い出である。 わたしは、1961年、月刊の漫画雑誌7冊を買ってもらっていたせいで、これらの装束は、全部、イエで、格好をつくり、していた。 「まぼろし探偵」と「少年ジェット」の影響は強く、母から、黄色のスカーフを借りて、その格好をした。 シェパードは、大型の警察犬がいたので、ジョンおいでと呼ぶのだけれど、来ない。 わたしのイエの思いやりというのか、ジョンは、とっくに、犬取りにとられ、ちがう、シェパードだったと、今年(2006年)、父に、きいた。 仮退院のたび、シェパードの柄が、黒が多いとか、茶色の模様がちがうと、おもったりした。 両親は、訓練で警察に預けていると言ったりした。 猫好きでもあり、犬好きの、わたしが悲しむため、祖父、祖母たちも黙っていた。 近所の、他の雑種の犬はなつくのに、わたしのイエの犬は、純血種のため、なつかないと思った。 なつかないのは、わたしのせいと思い、自分自身が、悲しかった。 わたしは、今年(2006年)まで、「犬取り」が、犬泥棒が存在するとは、知らなかった。 「熱血カクタス」は、イエにあった、ガットギターを手にしたが、とうじは、羊の腸(ガット)で、弦をすぐ切ってしまった。 ガットギターは、背にできないので、プロ用の電気ギターを、倉庫から出してもらい、父に調弦してもらった。 ピストルは、兄が小学生のとき買ってもらった、危険防止で、玉が1メートルほどしか飛ばないように工夫された、プラスチックだけど、型番が同じの、コルト45があったので、服装など、準備ができたのだけど、馬がいない。 親戚の販売品は、ハーレー Harley やインディアンから、ホンダが中心になった。 叔父が、オートバイにのっていたし、環境からゆくと、オートバイやスクターを背景にすれば、まぼろし探偵にも、少年ジェットにもなれた。 が、現実、オートバイなど、小学生には、すごく、重いし、さわれない。 そのため「熱血カクタス」を選び、稲刈りの季節で、父に「馬」というと、ちょうど、裏庭にいた、柱にくくりつけられた、年がいった黒牛がいるという。 「これで、がまんしとき、同じようなものや」と言う。 が、お尻が痛く、走らない牛には、満足できなく、走らないというと、 「走ったら、落とされてしまう。若い牛はあばれて、角や頭で刺すぞ」 と父は、播州弁で言う。 牛は恐いのときくと、父は、阿弥陀小学校から、米田小学校へ転校した五年生のとき、田圃にいた牛があばれ、読書が趣味の、お嬢さん育ちで、ぼんやりしている、祖母をねらってきて、自分の母が殺されると、弟や妹がたいへんと、ひとりで、死ぬのを覚悟で、牛の角を持ち、牛をおさえ、助けたそうだ。 5) わたしは、姫路の、灘のけんか祭りを、見たかったけれど、戦前から、神輿の突撃で、毎年、怪我人や、死者がでるとのことで、1962年も、禁止といわれた。 それで、1962年は、大石神社のすぐちかくに、菅原道真をまつる、高砂市曽根の曽根天満宮のそばに、イトコの母の実家があり、曽根の秋まつりは、姫路のけんか祭りとちがい、激しくないというので、呼ばれた。 イトコのイエに、わたしの好きな甘酒が用意されていて、おじいちゃんたちが、気をつかってくれ、歌手の佐川満男さんと、同級生というおじさんも、優しい人だった。 おじさんとは、もっと、いっしょに、居たかったけど、祭りへゆくという。 祭りの時間がきた。曽根天満宮のは、拝殿前の、大注連縄へ、向かって、曽根神社を氏子とする各村の青年団が、ワラの綱で、木を組み上げられた、蒲団屋台(神輿)で、先乗りを競い、ワッワ、エッサ、ワッワ、エッサ、オッオ、ワーア、オーオ、オーオと、喊声をあげ、やってくる。 村の青年団の掛け声は、若さがもつ、力あるいさぎよい心そのものであり、鎮守の森へひびくと、見物人に、畏れと気高さをかんじさせ、遠慮に似た気持ちで、道を大きく、あけさせる。 自分の村が一番のりとわかると、行事か、拝殿の10メートルまえぐらいで、いったん、屋台の神輿を両手で、持ちなおし、拝殿は聖殿であるから姿勢をかえ、差しあげ、起立したようになり、もどし、ワー、ワーオと、大注連縄へ突進してゆく。 説明はされていたけれど、ふんどしと鉢巻が中心の、白だけの装束で、神輿を、肩でかつぎ、こんなに、素朴で、青年たちによる、激しい、闘志と団結を見たのは、いまでも、はじめてである。 第二次世界大戦で、「姫路連隊」の勇敢さは、すごく、老人と女、子供がいる、国のため、村のため、命をかけて、敵国へと、向かっていった、精神が、気力が、いま、わたしの思い出から、少し、わかった気になる。 大注連縄への一番のりは、そばで見たけれど、蒲団(ふとん)屋台が、つぎつぎの、競争で、祭りの呼吸をしっていた、親戚のおじいちゃんたちは、二番手は競争で、激しさが予想できないと、二重、三重となり、わたしを後方にし、怪我がないよう、突進のつづくきは、姫路側の、入り口の方へ下がらせ、見学させてくれた。
▼法然院 鯉 (写真:松田薫) |
||
HOME |
||
「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-12-01 |