京都昨今 |
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38、背番号21 杉浦忠投手の画板 夢の存在U | |
<1>> 思い出の交錯というか、大正末期に生まれた、父は、同級生のほとんどを、第二次世界大戦でなくしているので、むかしを、語りたがらない。 わたしは、いまだ、幼なじみとは、いちども、荒い言葉など言ったことないし、相手をたたくことなども、したことがない。 これは、宝殿バス(いま、神姫バス。昭和のはじめ2台購入)を通したイエの、ケンちゃん。保健所勤務が父の職業だった、ショウちゃんたちに記憶があるだろう。 ふるさとは近いのだろうか、遠いのだろうか。 父は、むかし、大阪市福島区の厚生年金病院から、星ヶ丘厚生年金(枚方市)を、わたしのように、病気で、学校へ通えない子供のための、小学生の教室施設を作るという、構想をきき、1978年の最後、集中して工事に入った。 郊外の建物で、父にしては、めずらしいことだった。 わたしには、タバコ屋の、お姉ちゃんしか、記憶になかったが、むかし、父には、看護婦になりたいとの、将来の夢をいっていたという。 福島区の大阪厚生年金病院には、三年かよう、看護学校があり、工事の点検へ行ったとき、 「まえから、お辞儀をする娘(こ)がいたので、お辞儀をしたら、前の娘さんや。夢のとおりしたんやなぁ」、と父は言った。 わたしが、保育園へ入るまえ三歳児のとき(1955)、イエの前で、米田小学校の一年生になった、兄の頭を、いきなり、なぐる三年生がいて、泣かしたので、わたしは、かかっていって、取っ組みあいになった。 病気ばかりで、気むずかしい、わたしにも、ぶってきた。 わたしは、生まれてはじめての、ケンカで、泣いて、九歳のワシオを、離さなかった。 とおくから、祖父たちが見ていると、わからず、つかんで、離さなかった。 相手のワシオが、母たちに気づいたのか、三歳のわたしへ、幼児のような言葉をいい、逃げたので、わたしは、よけいに泣いた。 着物姿の母は、地面にひざまずき、わたしに、 「好太郎さんが、ケンカはいいけれど、何か、ひとつ学びなさい。起き上がるときは、石のひとつでも、つかんでもと、おっしゃってます」 と忠告をいい、わたしの、砂ぼこりの、服をはらった。 わたしは、はじめての、ケンカで、母のにおいがする、白い割烹着姿だったので、甘えで、泣き声が大きくなり、むせりながら、 「石なんか、どこにも、落ちていない」と言った。 1957年春、化粧品屋の、おばちゃんが、 「よしのぶちゃん、シゲぼん、保育園やから、おねがい、します」と言って挨拶にきた。 母が衝立のところへ呼ぶ。 母は、正座のまま、ほほえんでいる。 なぜ、知っているのに、挨拶がいるのだろうかと思って、いつもの、だまったままをしていたら、 「シゲぼん、アホやから」と、おばちゃんが言い、「シゲぼん、挨拶やんか、頭下げ」と、 播州弁で、命令した。 わたしのイエに正式にはいったシゲぼんは、キョロキョロしている。 「こらっ、シゲぼん、頭や。下げんかいな。もう、この子は、よしのぶちゃんに挨拶もできんで」と、化粧品屋のおばちゃんは、シゲぼんの頭を、右手でおさえて、下げさせた。 米田保育園へ行くまえ、母は、「保育園へゆくのですからね。おとなです。人さまに、手をあげるようなことをしては、いけません」と言った。 保育園、幼稚園とも、わたしは、ケンカをとめただけで、いちども、手をあげるようなことをしたことがない。 幼稚園には、わたしの、幼なじみが、誰ひとりいなく、シゲぼんとあうと、シゲぼんは、入園して、まもないのに、他の子と、ケンカをしている。 元気な子とおもって、ぼんやりみていたら、シゲぼんが一番強い。 なにしろ、とっくみあいから、どついて、泣かす。 シゲぼんって、こんなんかとおもっていたら、保育園と同じく、おたまじゃくしの季節となった。 たいはんが、米田幼稚園の、姫路よりにあった、小川から、おたまじゃくしをすくってきて、幼稚園の土のところへ持ってきて、メダカなども取ると、踏み潰す。 小さなカエルとなった季節も同じだった。 米田天神社の方向からの子は、子猫もつれてきて、同じようなことをする。 わたしは、この光景を眼にし、気をうしない、40度以上の発熱をした。 幼稚園の先生がわたしのイエへ行った。そして、母が来た。 自転車の母が、先生に、お辞儀ばかりしながら、「しっかりして」と、後方席にのせた、わたしに声をかける。 母の声であることは、わかった。そして、印南の早苗が、大きくなり、風になびくのを、うすく開けた眼で見、きれいだと思ったとき、ガクンと、わたしは、自転車の子供シートで倒れ、まったく、意識がなくなった。 わたしが、姫路日赤病院で、5月、山本又一先生に、あと、一ヶ月か、長くて二ヶ月でしょうかと、死を宣告され、初夏から盛夏にかけて、危篤状態になった。 8月の中ごろ、旧の、七夕祭りを、米田幼稚園でするというので、そのときだけ、仮退院で、幼稚園へ行った。 幼稚園の、壁には、汽車の形のところに、9月14日、よしのぶちゃんの誕生日とあった。 わたしは、他の子供の名前をみるように、自分自身の名前をみて、誕生日に、幼稚園の、この、ひとつの広間に、いるだろうかと思った。 シゲぼんは、ケンカをしないようになったが、いたずらは、つづいていた。 幼稚園の広間に、カーテンがされ、七夕祭りの、電飾の、火がともされる時になった。 点灯にならない。 シゲぼんが、イルミネーション用の、コンセントを抜いている。 カメラマンはこのときに、シャッターを切った。 幼稚園の三人の先生たちが、ふしぎがりながら、シゲぼんに、気づく。 先生も、わたしがいないあいだに、ゴンタのシゲぼんに、なれたのか、少し注意をしただけで、七夕の歌を、うたった。 七夕の写真ができたとき、コンセントを抜こうとしている、シゲぼんが写っていたので、わらった。 わたしは幼稚園で、シゲぼんと、いちども、話すとか、言葉をかわしたことはなかった。 わたしは、また、入院で、冬がきた。 <2>> 他の小学生は、わたしの体や寿命がないことを知っていて、わたしに、かばう言動ばかりだが、五年生のワシオは、三年生の兄の頭に、姫路城でみてきた、手裏剣の本物をつかって、兄の頭を刺した。 頭から、シャツ、セーターまで、血だらけになり、寒い、冬の水で濡れたあとだったから、理由をきくと、母に心配をかけないよう、自分で手当てをし、水道であらったという。 兄は、怪我をさせられた自分が悪いと考える、性格だった。 きょうだいで、兄だけ、父と母に、神戸で生まれ育った。 わたしが母に、理由を言い、母は医者へ連れて行った。 ゆるせないとおもい、母たちは病院だったので、38度以上と発熱状態だったが、ひとり、ふらふら、ワシオのイエのほうへ行って、 「ワル」というと、「ダボ」と、五年生のワシオは、二階の屋根から、幼稚園児のわたしに、小便をかけた。 わたしは、手で、顔をおおい、ずっと、にらんでいた。 「あやまれ」というと、「ダボ」とワシオはわらう。それで、 「バカ」といったら、ワシオは、他の人のイエの屋根へと飛んだ。 発熱のわたしは、塀をつたい、その後をゆき、にらみつづけていると、また、小便をかけた。 土道に倒れ、泥だらけとなり、泣いてかえり、風呂場へゆき、寝かされた。 発熱が40度近くなり、宝殿病院から、医師がきて、病院の体温計の限界42度をこえ、頭に深い傷の兄より、大変な状態という。 母は、「どうして、わたしの子ばかり」と泣いた。 30回目ぐらいの、見合いがすんだ叔母が、 「あかん。あの子、アイテ、でけへんのや」と言っているのが聞こえた。 「神吉、十一ヶ村」の大国に生まれた、祖父、好太郎は、わたしには、ひいばあさんになる、直系の母「つる」の血をひいたのか、江戸時代からの、身分差を嫌い、異常ともいえる、正義感の強いひとだった。 母方の祖父は、静かでも、がまんに、がまんが、何十にも重なると、一言がでる。 父方のほうが強いが、江戸時代の、近松門左衞門がえがいた物語以上に、正直で、はげしい生き方をえらぶ気性をもっている。 わたしは、この血をうけついだ。 神社との、関係だが、わたしの病気が治らないので、母は、源平合戦ゆかりで知られる、須磨寺をたずねた。 須磨寺というと、わたしには、ペギー葉山さんが歌われた、「青葉の笛」、 「♪一の谷の いくさ破れ 討たれし平家」が脳裏からでてきてならなくて、母などは、なじみの寺だが、わたしには、悲しくて、拝観したことがない。 須磨寺にいる、姓名判断もする、播州では、有名な人、小央晴山(こなかわ・せいざん、これは、まったくの記憶で、誤記かも知れない。わたしは、この方に、名前を5つぐらいつけられた)は、父の祖母方(旧姓、荻野)の、鹿嶋さんを本拠地、「鹿嶋神社」を守り神にしなさいといわれた。 仙人のように、白い顎鬚をのばした姓名判断師さんは、わたしを見て、「み・や・も・と・む・さ・し」と、言ったとき、この、おじいさんは、何を言っているのだろうと思った。 鹿嶋神社は、いまとちがい、1957年ごろは、小さく、 「優曇華の花が咲きました。願いをきいてください」 という、植物類か、カビ類のようなものが飾られていた。 わたしは、母に、病気になったから、いま、重体や、危篤から、助かったといって、祈願するのはおかしいと、言った。 わたしは、医療代で助かり、平等の気持ちに欠けるから、神社などに、幼児のわたしは、頭など、下げたことは一度もなかった。 たくさんの、わたしと同年齢の子供たちが、小児麻痺にかかった時代で、いまでは、アレルギー疾患という名前がつき、治る子供もいるが、死にゆく子供をみてきた、わたしにとって、自分だけ、助かりたいという希望は、わがままだと、母に言った。父も母も、朝4時から、清めの水ごり、茶絶ちなどをしなければいけないときき、冬の寒いときもときき、やめてほしい、祈願など、わたしが生きる欲は、いらないと言った。 ところが、父と母は、わたしが病気なのは、自分たち自身のせいであるとした。 わたしは、泣いて、そこまでして、生きたくないと言った。死んでいった、たくさんの子供は、どうなのか、不公平だと言った。そしたら、神主さんのイエや、お坊さんのイエには、病気がないことになると言った。 こういった、平等の考え方、正しさを主張する、気むずかしい性格は、小児、ネフローゼ疾患の特徴と、1957年、姫路日赤、山本又一先生がいわれたとき、幼稚園児のわたしは母に、この先生は、良い先生と言った。 <3>> うどんげの花だが、日本にとって、難病を快気したいという祈願、ひとつの願いを、かなえたい人にとって、優曇華(うどんげ)の花は、象徴だった。 「うどんげの花」こと、Magnolia delavayi マグノリア デラベイは、モクレンや、クワ科の花木と考えてよく、中国南部の雲南省、貴州省の高山に咲く。 これらの代わりに、ハスの花やバラの花のほうが、充分、美しいのだけど、ハスやバラだと、ありふれているからなのだろう。 母が、病院のベッドの枕元に、バラやユリなど、めずらしいものと言ったとき、 「ふつうの、花でいい」と、 幼稚園児のとき、わたしは言った。 鹿嶋神社を、守り神とする、わたしの父方の祖母は、ややほほ笑みながら、わたしが病気なので、無言のまま、かばってくれる、表情をした。 社会の弱者の救済が信仰であるのに、弱者に難題を与えて、いったい、何が信仰かと言えるのか。 「病気の人を、なぜ、困らせるの」 と言うと、母は、また理屈をというが、父方の祖母は、安静のため、だまって、ふとんの用意をしてくれた。 植物栽培は、生物の知識が多い、少数民族、苗族 ミャオ族(英語 Miao)。東南アジアでは、モン族 (Mon) が知られる。 1930年代、40年代の遺伝子の資料からゆくと、頻度率が、エジプトのコプト族と同様、周囲と、ずいぶん違う。 苗族、モン族 (Mon)は、衣服の意匠、栽培技術にすぐれ、1970年なかごろ、わたしが、文芸など、調査対象にしたかった民族だった。 <4>> 兄の中学入学のカバンを、母が、防水をかねたものを選んで買ってきたが、兄は、ビニールコーティングされているなど、モダンすぎ、宝殿中学へ通えないという。 それで、姫路のカバン屋さんへ行った。 帽子もあつかっており、兄は、帽子を「南海」にしたので、わたしは「東映フライヤーズ」と言うと、 「なんでぇ」と、幼児のときから知己の、おじさんがきくので、水原茂監督と言った。 「水原監督かいな。そんなぁ。いまの子は、長島で、東映フライヤーズは、無理やわ」と播州弁でいうので、明石キャンプの巨人軍の長島は、何人か持っているからといった。 それで、病気を思い出す、ランドセルが嫌になっていた、三年生のわたしは、緑のアーガイル模様の手提げが、ハイカラだったので、選んだ。すると、 「淳心は、こっちの、グレーのや」といい、 「そのカバンは、賢明。女の子の学校、中学生の。小学三年は、ランドセルや」という。 それで、わたしは、賢明(女子)も淳心(男子)も、他の女子中学も、わからないので、小学三年生がもつと、おかしいですかと聞くと、 「おかしく、ないけどぉ〜。それでもなぁ〜」 と、鼻濁音入りの播州弁で、おじさんが困った顔をしていう。 母が、無理ばかり、言ってすみません、他に、なんか、えらびなさいというので、画板が欲しいといった。 カバン屋のおじさんところは、絵の具類がはいる画板もあつかっていたので、 タコイズブルー(水色)、南海の杉浦忠投手とわたしは言った。 「そんなん、在るか、無いか?まあ、南海やから、あるかも、わからへん。大阪のほうへきいてみます」 と母に言った。 わたしは、女学生用といわれた、緑の手提げをもって、心があらたな思いで、川西小学校へかよった。 注文した、画板は、6月ごろ、ようやくきた。 それが、南海の投手「杉浦忠、背番号21」がプリントされたのだった。水色でなく、青色のビニールカバーのだったけれど、色はがまんした。 わたしが、カバン屋さんに、注文した、画板は、水色、で、南海の投手、「杉浦忠」背番号21の、全身像がつき、絵の具も、水入れも、はいるものだった。 画板をもって、国道2号線をわたり、石の宝殿を、素描をしようと、思ったとき、ホンダをあつかう栗山の店員(とうじ呼称、丁稚)さんが、 「よしのぶちゃんは、すぎうらやー」と言ってわらう。 なにしろ、他のイエ、姫路でも、「杉浦忠」は、丁稚さんや女中さんは、わからなく、栗山は、機械を扱っているので、丁稚さんの水準がちがうと思った。 栗山は、祖父の一番上の姉方にあたり、幼いときから、生きるてゆく苦労を知った栗山のおばあちゃんは、女優の、浪花千栄子(なにわ・ちえこ)さんを、しっかりさせた風だった。 わたしは、栗山の丁稚さんは、杉浦忠(すぎうら・ただし)を知っているのかと喜び、笑顔で、画板の中をみせていたら、栗山のおばあちゃんが、 「もう、よしのぶちゃんに、なんて言う、口のききかたしてるの」と叱って、わたしに、 「あがって、あがって。二階へきて、お菓子」と、言う。 わたしが選んだ、杉浦忠の意味がわかるのは、将棋と花札、漢字、わらべ唄を教えてくれた祖母ぐらいだった。 <5>> 二学期からは、ずいぶん、行くようになった、川西小学校の級友は、わたしが、杉浦を真似して、アンダースローをやっていて、ストライクなのに、大半が、下からのボールは、 「こわい」といい、村津末雄先生が、「まつだ君、やめなさい」といった。 体育で、鉄棒の時間になった。 野球は、小学三年生で、宝殿中学の一年生たちとしていた。 級友は、それを知っているので、わたしが鉄棒をできると思っていた。 わたしは、鉄棒をしたことがないので、逆上がりどころか、鉄棒を持つのも、手のひらが痛くて、できなかった。 わたしが、できないのが不思議なのか、女子もふくめ、級友たちが、わたしができるよう、その日は、放課後も、しばらく居て、10人ほどが、わたしの、逆上がりを手伝ってくれた。 「できた、できた」と、みんな、言ってくれる。 これができたの、と言っても、拍手してくれる。 1961年の秋祭りは、いつもどおり、鯖の姿寿司が、並んで、倒れていたとおもう。 このとし、宝殿中学で、県下一といわれた、ピッチャーが出た。 甲子園へ出場する滝川高校からスカウトがきたが、経済事情でことわったという。 わたしが、市民会館で、川西小学校の六年生と宝殿中学の一年生と野球をしていると、宝殿中学の、三年の投手と、二年の捕手のひとがきた。 1947年を中心とする、団塊の世代、ゴンタ連中は、すっかり、大人になっていた。 眼のまえで、カーブをみて、これが、カーブかと思った。 小学生のわたしたちには、巨人軍の剛速球だった沢村栄治投手が生きていて、「ちば てつや」の作品「ちかいの魔球」の影響で、きえるボールといういと、 「よしのぶちゃん、それ、マンガやん」とわたしに言うので、ナックルボールというと、 「ナックルは、禁止や」と言う。 それで、わたしが、村山実(背番号11)の、フォークボールを、投げてくださいといったら、 「かかるときと、かかれへんときがあって、フォークは、あぶないねん」と言ってくれた。 小学生たちの気持ちは、おさまらなっくって、 「一回してみるわ、のいて(離れて)、のいて」と言ってくれた。 中学一年生たちが、わたしの、壁になってくれた。 ボールは、すごい、勢いで、ミットのまえで、ワンバウンドし、捕手の人が受けられなかった。 「あかん、失敗。やめとく」と言った。 わたしたちは、中学、県下一の、快速をみて、すごいと思った。 二年の捕手の人が、わたしに、 「打ってみたら」と、短い言葉で、言ってくれた。 バッターボックスに立つのも、こわかったけれど、 「だいじょうぶやから」と、やさしかった。 わたしは、姫路で買ってもらった、ゼットの黒い柄のバットで、向かった。 ゆるく投げてくれているのだけど、こわいし、空振りをしたら、バットを、短くと、捕手の人が、教えてくれる。 短くもつのは、卑怯なかんじがしたけれど、仕方がないので、やってみると、当たったが、ファウルで、手がジーンとして、痛い。 「打てません」と、投手のひとと、捕手のひとに言うと、 捕手の人は、 「バントは、そのためにあるん」と、また、教えてくれた。 わたしがしても、効果的なバントにならない。それをみて、 「バントも練習すればええねん」と捕手の人は、この1961年でも、いつ死ぬかわからないと言われている、わたしへは、どこまでも、親切だった。 これを、宝殿中学、野球部を、 「玉拾いばかり、良く打つから、野原まで探しに行かないといけないから」 と、一週間でやめ、バレーボールクラブへ変わった、兄にいうと、みんな尊敬している先輩だけど、 「投手は、肩、腕を、故障すると、それで終わりやから」だけ言った。 小学六年生を中心に、三年のわたしも、諦めきれず、児童会で、どうしても、滝川高校へ進学してもらおうと、相談し、国道2号線で、姫路方面の、山陽本線の、線路ぎわにあったイエへ行った。 「滝川へ行ってください」と、児童会の、五年、六年の友だちと、いっしょに言った。 納屋の方から出てきた、宝殿中学県下一の、投手の人は、利き手を、納屋の上にかけた。 高い、背丈が、より、大きく、見えた。 小学生のわたしたちが考える、甲子園への夢へ、手がとどいているように見えた。 「オレ、イエの仕事、手ったわな(手伝う)、あかんねん」と、播州弁で言った。 わたしには、とても、しっかりした言葉と、ひびいた。 小学生のわたしたちには、高校からのスカウトと、プロ野球からのスカウトの意味のちがいがわからなかった。 <6>> 2005年8月、国会議員の自殺があり、場所から、わたしは、旧陸軍第一病院(いま国立大蔵病院)か、慈恵第三、杏林大学のどこが近かったのかと思った。 なれないことに、つらい思いをされてとおもった。 そして、母は、国会議員のことにふれず、春日部は、むかし、粕壁女子といって、クラスでひとり行けたのと母校をいい、わたしが、空襲のあとで、姫路駅から、姫路城は、無残な姿だったというと、 「そんなの、空の上は火の海、地面も火の海で、どこに逃げたら良いのか、家族バラバラになって、どうして、知らないの」と言うので、わたしは、戦後に生まれたと言った。 また、母の記憶ちがいというか、1967年、中学三年生の夏、テレビで、『四谷怪談』があるから、妹が、いっしょに見てくれという。 わたしは、遊園地で兄がはいる、「お化け屋敷」や、心理学のトリックをつかった「鏡の部屋」などは、いっさい、はいらなかった。 わたしは、いつも、夜8時半から9時には、ベッドで、妹は深夜だから、無理というのに、「おねがいだから」というので、妹の後方、読書状態で、見た。 このあと、夜になると、妹が、 「ずっと、うん、うん、うなされている。なにがあったの」と叱るので、『四谷怪談』だと言ったが、妹が証言をしない。「1・2・3と4・5・ロク」(ちばてつや)の家族のあたたかさに感激し、四年生のとき、わたしは、『少女クラブ』を買わせたが、妹は、「へび少女」(楳図かずお)が良いと、読んでいた。が、わたしは恐くて、よまなかった。 順序でゆくと、小学四年生の兄が夢中になった、石原裕次郎の『陽のあたる坂道』のとき、こんなの嘘と、小学一年のわたしはいった。 『銀座の恋の物語』のとき、こんなん嫌いというと、中学二生になった兄は、「浅丘ルリ子がいい」というので、わたしは、『陽のあたる坂道』の、「芦川いづみ」といい、『風と樹と空と』のときは、豊中市で、中学三年の兄は、「吉永小百合」がいいというので、わたしは、こんなアホみたいな話といい、まだ、「芦川いづみ」といった。このとき、兄は、 「よしのぶ。おまえとは、もう、映画へ、いっしょに行かない」とおこった。 そのあと、いったい、誰のファンというので、保育園ころからの順番でゆくと、わたしは、脇役時代の、「宍戸錠」「高倉健」であり、笑い方は宍戸錠、怒り方は高倉健、と言った。 『赤いハンカチ』のとき、兄はひとりで行き、さびしかったのか、『アラビアのロレンス』は、いっしょに行こうという。 小学六年生に英語は無理だけど、兄は、高校生だから、大丈夫かなとおもっていたら、兄弟して、眠っていた。 事実、史実がまちがえるというのは、「加古川市史」での実例がある。 わたしの祖父、父たちが生まれた地域は、「両墓制」だった。 どういう具合か、いまの姫路市になる、祖母方の葬儀の写真があった。 1990年ごろ、シャム猫を5匹かった、祖母がゆき、父の、村一番の秀才と言われながら、わたしの病気での金で、加古川東高校からの、大学進学を、泣き、諦めてくれた、一番下の弟から、 「もう、めんどうやから、墓をひとつにする」との連絡が父にあり、ひとつとなった。 また、寺子屋、学問所、わらべ歌の表記も、わたしが祖母から習い、鶴林寺で、川西小学校の級友たちとうたったのとは、まったく、ちがった箇所がある。 看護婦になるのが、夢だったという、母の末の妹は、戦中、川西航空の勤務になり、 「水害があり、迎えにきてくれたのは、他は、両親だったけど、わたしだけ、置いてきぼりで、姉さんがきてくれたの」と言うので、川西航空って?どこの地域ときくと、 「ちょと、川西航空機(川西市)も知らないの」と言う。 わたしは、そんな、無茶な、わたしの年代で、早稲田大学へ行った連中は、『紫電改のタカ』(ちばてつや)で感動したけれど、知らないことが多いと言った。 父がときどき、軍属の話で、大阪陸軍造兵廠勤務だったというので、わたしは勤務先が大阪とおもい、1945年の召集も、大阪連隊と、長く思っていたら、 「なんで、ワシが、また負けたかの八連隊や。姫路や」と言う。 わたしは、医学の歴史は、多少知っているが、「日本史は禁止」で育ち、なぜ、戦前の複雑なときのことで、わたしに、そんなことを言うのかという。 ここで、記載するが、ハンセン病での、主張で、京都帝国大学の小笠原登博士の勇気ある主張は、十全に正しい。が、東京帝大の皮膚科の遠山郁三博士は、きわめて真実主義だった。これは論文をおってゆけばわかる。が、臨床の場へと意見がつたわらなかった。 東京帝大では、学閥とか、争いごとが嫌な、呉秀三博士は、西欧留学、E、クレペリンのもと4年まなび、帰国後、1902年、「精神病者救治会」のあと、巣鴨病院(松沢病院)をつくった。 伝染病では、本所病院、駒込病院の、宮本叔博士が調べやすい。 大阪の精神疾患では、北野病院。伝染病は、桃山病院。 これらは、わたしが、1971年ごろ、歩いた時期、大阪大空襲がそのまま残り、崩れかけのような、木造のものだった。 母の末の叔母が看護婦への夢を言ったというと、加古郡荒井(高砂市)の大阪陸軍造兵廠で軍属だったという、父は、戦後、40年以上がたった、1980年代の、国家からの、聞き取りと、確認で、 「あなたほど、記憶が、そのままの人はいません」と言われたといい、父は、 「あの時代の看護婦さんは、皆、寝不足で、かわいそうに、口の中、口内炎だらけやった」と言った。 父があらため、「えらいもんや、国は」という。 わたしは、東京で、旧内務省管轄の、警視庁の「科研」の医師たち、自衛隊勤務となった医師たちを言い、「偕行社」(旧陸軍、研究、調査者たち)へは、何度も問い合わせたときのことをいった。 旧内務省管轄の医師たちは、恩師の考え方が、なされていたのか、伝聞で、職場を記憶されており、早かった。 「偕行社」への、人名確認では、わたしは、軍医にかたよっているため、無理は結構ですといっても、 「調査の時間をください」といい、後日、 「ひとりも、答えられなく、申し訳ございません」 と規律ある言葉をいい、わたしを感動させた、旧陸軍経験者の、1980年代をいった。 そして、ふるさと、ケンちゃんも、ショウちゃんも、高砂市となっても、高砂市米田小学校から、加古川市川西小学校へとかよい、卒業し、ケンちゃんのお父さんは、わたしが幼児のとき、なぜ、バス会社の専務だったのかときくと、 「あほ。オッサンと、ワシとは、10も20も違う」というので、神姫バスの歴史をきくと、たしかに、父が、阿弥陀小学校の小学生のころで、会社経営など、無理とわかった。 そして、2006年夏、幼なじみのケンちゃんところへ、生まれて、はじめて、電話をし、わたしが名前を言ってもわからない男性だったけれど、鼻濁音のない、すきっとした、なつかしい播州弁だったので、ケンちゃんと同じとおもい、弟さんですかと聞いたら、 「ちがいます。ちがうんです」と、父につげたら、むかしに、事実を知っていて、 「つぶれた」と一言、いってくれた。 いま、わたしには、町立、米田小学校入学の、幼なじみは、ひとりも、ふるさとにいないことがわかった。 宝殿中学、1961年、伝説の投手の、思い出を、2006年、秋、父にいうと、 「ああっ」と言って、呼吸をおき、「知っとる」とだけ言い、名前をいわなかった。
▼東山、子猫(写真:松田薫) |
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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-11-16 |