京都昨今
37、神戸の夜にパルナスのネオン           夢の存在   

1)

UCCがもってきてくれる、コーヒー豆のサンプル袋に、「川西倉庫」との印刷があり、わたしは、会社のことは、わからないので、2002年秋、父に、川西倉庫って何か、ときくと、
「小さいころ、あそんでいたやろ」と言う。

大きな倉庫は、生家の、宝殿の駅にも、姫路側と大阪側の、二箇所あった。
貨物列車のポイントの切り替えは、合図があり、貨物が、できたてのセメント袋や、できたての小麦粉袋を、駅前の倉庫に、長く、高く、積むと、かくれんぼにちょうどよく、小学生たちは、それらの紙袋が破けてもあそびつづけ、駅員に注意されていた。

町立、米田小学校の、団塊の世代「ごんた(元気よく、どつき合い、遊びまくる意味)」連中の活動は、日本が、戦後復旧へ向かうに、あわせ、加速していった。

倉庫をつかっての遊びは、「ごんた」の多い、1947年生まれを核とした、団塊の世代では、比較的おとなしい世代になる、49年1月生まれで「市松人形」さんみたいと言われた、小さな兄さえ一緒であれば、駅員や、機関士からの注意が少なくなるため、倉庫をつかう遊びのときは、兄を仲間にいれていた。

神戸の周辺は、父方の親戚が多く、町の印象は、機械や、鉄鋼の町が、アメリカなど連合軍による、空襲のあとで、なにもなくなった、あかちゃけた町で、朝と昼は、工場からの煤煙だらけが強い。

大倉山に育った、兄とわたしとは、父と母が、仕事で忙しいとき、三越か、レンガ造りの明治屋にあずかってもらうか、メリケン波止場が近い、川西倉庫のまえで、「ろう石」をつかい、地面に、絵をかいていた。

湊川神社の、楠公(なんこう)さんがある、土(路座、ろざ)をつかっての絵は、ひだまりの時間は、両親に、ほんの少し、憩いがあったとき、あそんだ場所だったのだろう。
両親は、ずっと、沈黙がつづく、わたしと兄の遊び場所は、いつも、楠公さんだったかのようにも言う。

1953、54年ごろの、神戸という、敗戦後の町は、大人が懸命に働き、動き、いっしょに遊ぶ、子供がいなかったという記憶しかない。

2)
生きがいが、みえそうにない時代。三ノ宮という町。
そごう百貨店のそばに、パルナス製菓による、パルナス坊やのネオンが飾られた。

阪神電車や国鉄をつかい、大阪から、久しぶりに、電車から、見ると、夜空に、きれいなパルナスのネオンサインは、夢をあたえてくれる、くっきりとした、希望の明るさを与えてくれるものだった。

神戸の夜の空から、遠くへとんでゆきそうな、パルナス坊やのネオンサインは、おとぎ話をしてくれそうで、見飽きないものだった。

パルナス製菓のピロシキは、三ノ宮駅から、半分地下になる、そごう百貨店の、ガラス窓になった、地下売り場の入り口で、実演販売をしていた。
ぽこん、ぽこんと、楕円のピロシキが、油の中に、しずみ、うきあがってくる。
とうめいな、ガラスの戸の、外から、白い、楕円が、茶色になり、ぽこん、ぽこんと、あらわれ、みえる。
ぽこん、ぽこんの、色変わり、うつりかわりは、いつも、わたしの、心と眼とを、とどまらせた。

だけど、ここは、阪急や阪神、国鉄からの、客の通過道で、人の流れが多く、百貨店へと入るひともいて、幼児や小さな子供が、立ち止まると、邪魔になった。

生家での、もらい物は、大阪名物の「岩おこし」、「粟おこし」。京都名物の河道屋の「そばぼうろ」、「八つ橋」は、いつもといってよいほどあり、河道屋のは、缶だから、蹴ると、足が痛いのでしないが、「おこし」は、一番かるいので、土産物をもってきた客がかえり、衝立の前におかれたままだと、サッカーボールのように、蹴っていた。

すると、叔母が、
「あかん、あかん、それ、粟おこしや。岩おこしにして」と、播州弁でいう。
1歳児のわたしは、包装紙での、「岩おこし」と「粟おこし」の区別がつかなかった。
なぜ?と聞くと、
「それは、粟おこし。上等のやから、食べるんや」と言う。

わたしは、生後すぐ、病院生活で育った。駄菓子は禁止で、おかきは、「色紙(しきし)」。
仏壇にある、栗饅頭、最中(もなか)も、だいたい決まっていて、「おかし」というと、両親が忙しいとき、叔母も忙しく、たいがい、仏壇に、備えて在る、「栗饅頭で、がまんしといて」という。

いつも同じで、甘いものが、苦手だったため、何もないと諦めたとき、栗饅頭は上の側だけ、最中も皮だけ食べる。
夕方ごろ、
「あっ、また、ガワだけ、食べてる」と叔母がいう。
わたしの、おやつは、栗饅頭や最中の皮、10数個のときが多かった。

わたしの生家で、家族が食べるのは、「しおみまんじゅう」の本物ぐらいだった。
客向けもあり、わたしが、2歳ぐらいから、「しおみまんじゅう」だけは、ほうっておくと、ガワを中心に、5、6個は食べる。

「しおみまんじゅう」の本物は、わたしの父方の家紋と同じ、「左が上の、丸に、違い鷹の羽」なので、2歳児のわたしにも識別できる。
が、播州への新参者で、姫路を好んだ、母方の祖父は、意匠から、先祖からのは変えられなくても、祖母方の女紋もと、自由に加えた。

祖父は、母が若いころの手紙は、赤ペンでの添削つきで、返し、言葉遣いを教育したので、母は、不自由なイエと言っていた。

そんな自由で不自由な環境で育ち、仕事は、2人分、3人分をする母だけれど、姫路駅で、わたしが、「柄(ガラ)がちがう」と注意しても、しおみまんじゅうの本物は、識別ができない。

3)

1954年夏、わたしは、衝立のある、客間で、「♪おとうとが生まれる」と、自分が作った、いまも覚えている、わらべ歌のような音階の歌で、スキップをしていた。
この日は、幼児期、いちばん、話した日だった。

いろいろな人に、「なぜ?」ときかれるたび、「キャッチボール、するの」「お話、するの」と、答えてきた。
兄は、キャッチボールやおとぎ話が嫌いで、わたしは、弟ができたら、キャッチボールをして、野球を教えて、おとぎ話をして、絵をかいてあげるのが、2歳のときの夢だった。
母が、「お母さんは、女の子が欲しいの」と言うと、わたしは、「おねがいだから、男の子にして」と言った。
母は、「お母さんには、決められないの」と言い、女の子を願った。

わたしもとりあげた、助産婦さんが来て、母は、「向こうの部屋へ行って、おとなしくして」と言った。
祖母と叔母は、おくどさんと、餅つきの場をつかい、つぎつぎ湯を沸かしていた。
しばらく、おとなしくしていたが、兄が、幼稚園から、もどってきたので、二人して、客間で、わたしが作った、
「♪おとうとが、生まれる」の歌で、踊っていたら、祖母が、
「大きな、あかちゃん。女の子」と、ほほえんで言った。

「ええっ、女の子なの。いもうとだと、野球、できない」
と、言っても、祖母は、わらっている。
「おばあちゃん、男の子にして」と、言っても祖母は、笑顔のままだった。
「テルちゃん、兄ちゃん」と、わたしが泣きそうな顔をすると、兄は黙ったままなので、
「おばあちゃん、おばあちゃん、男の子にしてほしい。ボールであそんで、お話するの」
と、白の割烹着の祖母に言っても、祖母は、ほほえんでいるだけなので、
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。おとうとじゃない」と言うと、兄は、うつむき困った顔をした。

わたしと兄が、しょんぼりしているのに、祖母と叔母は、居間から、にこにこして、母が、喜んでいることをいう。
居間をとおり、産婆さんのいる奥の部屋にゆくと、母は、よこたわったまま、笑顔を、わたしと兄にみせた。そして、
「もう少し、しずかに、していなさいね。よしのぶ。いもうとが生まれたの、お兄ちゃん、ね」
と母は、明るく、元気な声で言う。
たった、ひとりの、いもうとが生まれたの、との、母の言葉を反復し、女の子でも、お兄ちゃんになったのか、とおもい、しかたがないので、スキップなしに、
「♪いもうとが生まれた」と、同じ節で、歌詞を変えたのだけど、兄はうごこうともしなくなった。
わたしたちとは、反対に、祖母と叔母は、「大きな子、元気な子」と、わらってばかりいる。

母屋からもどってきた、祖父は、男の子と決めていて、
「どっちや」と、勢いをつけ、力づよい、歩みだった。
祖父は声も、はずませていた。
あっ、どうしようと、わたしがおもうと、兄も緊張をしていた。

女の子が欲しいと、つよい願いをしていた母の気持ちを理解していた、祖母は、小声で、ほほえみ「女の子」というと、
「女なんか、産んで、どうする」と、不機嫌になった。
父のすぐ下の弟が、結婚し、1952年、大きな女の子を誕生させたので、祖父は、女児つづきで、嫌になったのだろう。

わたしは、祖父が、不機嫌な言葉は、これをふくめ、五回ほどしか耳にしていない。
兄はじめ、わたしも、孫たちには、一度も、注意すらしたことのない祖父と祖母だった。
父は仕事場にいて、母の願いを知っていたのか、いつものままの表情だったとおもう。
ほんとうに、ほんとうに、祖父が生きているときの、わたしの生まれた町は、このイエは、大きな寛容があった。

母のかわりに、祖母は叱られたが、
「ははっ」と、叔母と眼をあわせ、わらう。
「あはははは、はは」と、いつも、「どんがら(体格の意味、播州弁)を人並みにして、早く、嫁に行け」と言われている、大柄の叔母は、合併問題がこじれたりして、祖父が不機嫌になると、わらいだす。

4)
妹が生まれて、ケーキ好きな母と、時間があると、「姫路、行こ」「お菓子、たべに行こ」と、自分の子供のように、姫路をつれてまわり、洋菓子を好きになった叔母のせいで、わたしから、パルナスのピロシキは、ずいぶん、遠くなってしまった。

パルナスのピロシキは、揚げたてがおいしいのだけれど、とうじ、子供の菓子としては、めずらしく、高額だったのでは、とおもう。

二年生をすごした、1960年の豊中市小曽根小学校でも、三年、四年をすごした、加古川市川西小学校でも、五年、六年生をすごした、豊中市庄内小学校でも、血縁は別にして、お菓子の話になると、わたしは、神戸からのネオンサインを言い、「パルナスのピロシキ」だったが、友だちたちは、食べたことがないとのことだった。

パルナスのピロシキは、のちに、信州財閥の作曲家へ嫁がれた、中村メイコさんの、夢のあるCMソングが、流行していて、まだ言えた。 が、母が、加古川市川西小学校の村津末雄先生宅へ、1963年春、わたしのことで「お世話になりました」と送った、ゴンチャロフのチョコレートや、ウイスキーボンボンのことは、言葉にできない時代だった。

パルナスの音楽は、最初、ふつうの明るさをもった、完全1度音程の進行で、2度、3度音程を、しぜんに含む。そして、中村メイコさんの声による、「マ・マ」と「パル・ナス」との4度下降は、ここで、終わってもよい、楽理上の安定性が表現できている。親和性が高い音で、無理がまったくない。

さらに、パルナスの音楽は、楽譜上では同じだが、音の長さで、変形の反復をなす。
人の心身からの声は、絶えず、学問の理論では、分析できない、微分音以上より、複雑なものを持つ。楽譜では、ありふれた音の移動とみえても、作曲家と声楽家により、ちがった音の空間が、組み建てられ、芸術の表現がなされる。
幼児のわたしには、遠い国、ロシアには、子供の夢をかなえる、おとぎ話をはじめ、さまざまな贈り物が用意されている、との、力づいよい説得をかんじた。

母方のイトコたちは、パパ、ママと呼んでいたが、父方のイトコは、お父ちゃん、お母ちゃんで、わたしの、幼なじみや親友のイエは、そろって、「お母ちゃん」だった。

保育園児まえの、わたしは、「そごう」を通るたび、食べたいというのだけれど、兄は、いつも、ガムやチョコレートの方がいいといい、洋裁が仕事の母は、布地との関係や、そごう百貨店が雑踏なのと、ピロシキは油物のため、忙しいから、
「お菓子は、明治屋で、選びなさい」という。

ロシア革命(1917年)のおかげで、異国人の町となった、神戸は、ふりかえると、わたしの好きな色彩や建物の通りとなったけれど、1950年代はじめは、アメリカたち連合軍とソビエトに侵略され、その残骸は、1970年代も、神戸の北野であっても、異人館というより、お化け屋敷の親戚のようだった。

「しおみまんじゅうの本物、お客さん用に」と、姫路へ行ったときは、買ってきてといわれ、いつも、まちがえて、
「こんなん、食べられへん。お客さんに、だされへんやんか。左が上やないの、なんで、ガラもやし、味のちがいが、わからへの。本物のは、舌でとけるやない」と、叔母に、播州弁で注意される。

が、幼いとき、東京の京橋、明治屋の前のレストランで食事をしたという、母は、注意がかさなると、
「掃除がおわると、夜になって。なんのために嫁いだの」と言いはじめ、祖母と叔母と、もめはじめる。

5)

こんな環境と母の性格のため、母は、よく家出をした。ゆきさきは、自分の妹たちのイエより、洋裁学校での級友がいた、阪神沿線、千船駅ちかく、善念寺だった。
家出の回数は、妹が生まれてから、より、多くなった。
母は、妹さえ、女の子させ、居れば、いいと、つぎつぎ洋服をつくり、写真館へつれていったり、大事にした。

資料をみると、千船も1930年ごろは、ボートでゆらりと、大阪から神戸のモダニズムの尖塔をいったが、1950年代は、焼け野原に近かった。

母は、わたしが保育園児になった年も、家出をした。
昼過ぎ、善念寺につき、庫裏へはいると、まつおばあちゃんたちが居て、わたしたちように、食事の用意をしはじめてくれる。
僧侶の、ふだんの法衣の、義春おじいちゃんがでてきて、腰をまげて、
「よしのぶちゃん、おなか、すいていないか」と話かけてくる。
わたしは、空腹を自覚することの、少ない体質をしているけれど、保育園児になった、このとしは、
「うん」と、義春おじいちゃんの眼をみて返事をした。
おじいちゃんが、「そうか。玉子がけしよか」と言って、「うん」と返事すると、おじいちゃんが、作ってくれた。

玉子がけを口にできない兄は、おばあちゃんが、用意する「みそ汁」の、できあがるのをまっていた。
わたしは、台所の板の間にすわって食べはじめたが、兄は、おばあちゃんが、つくるあいだ、じっと、黙って、立っていた。

夜が近くなって、
「ぼんこ(末っ子のぼんぼんの意味)、おかえり」と、まつおばあちゃんと、母と同級の、千鶴子おばちゃんが言う。
ぼんこの、正信お兄ちゃんは、お坊さんになる、龍谷大学の学生で、京都からのもどりだった。
「ただいま。てっちゃん、よしのぶちゃん、来てんの」と、ぼんこ、お兄ちゃんは、わたしたちをみて、数日まえにあったかのように言う。
ぼんこ、お兄ちゃんの姿をみると、京都は、遠いところではなく、すぐ、そこのような気がした。

京都へは、家業のいろいろな組合で行くときは遠く、親族でゆくときは近くかんじたりした町だった。
ぼんこ、お兄ちゃんの、声と笑顔は、ぼんこ、お兄ちゃんが、勉強をする、京都の大学が、となりの町にあるような気がする。

夕食のあと、
「てるちゃん、よしのぶちゃん、お風呂、行こ」と言って、
「お風呂やさん」「お風呂やさん」と声をあわせ、善念寺の、八木の家族と、ひとかたまりで、銭湯へ行った。
お寺の家族といっしょでの、銭湯ゆきは、ふつうの道を、あるいているのだけれど、よく気がつく、和歌野(わかの)おばちゃんと、ぼんこお兄ちゃんがいっしょだと、なんだか、楽しくて、町自体も、元気よくかんじた。

兄の性格は、妹が誕生して、無口に、翳りが加わった。

生後40日から病院生活のわたしより、言葉に傷つき、過敏なところが多い、兄は、母が家出をするときにいう、
「きょうから、貧乏な生活ですからね」
の言葉は、これまでとちがい、母が抱く、まだ一歳児の妹のせいで、兄の、物の見方は、世の中、ぜんたいへ、緊張してしまうものになった。

わたしは、兄と反対の現象になり、母は、
「よしのぶは、貧乏になるというと元気になるわね」と言った。

わたしの散歩先は、おおきな桟敷の、千船劇場や、海へゆく船がみえる、水際だった。
千船は、どこを歩いても、声をかけられることなく、自由をかんじて、気持ちがよかった。

6)

千船の大和田市場の味は、姫路や、京都や、桑名の味と似て、東京の佃(つくだ)と同じである。

わたしが、大和田市場で、「これ」と佃煮をさすと、母は、「こんな塩気が多いのは、病気になるの」と、わたしに注意する。

味の選択だが、兄弟で、味噌汁でいうと、ふしぎなことに、わたしだけ、幼児から、母方の、赤味噌を選択して、白味噌を受け付けにくい体になっていた。
形の選択だが、わたしは、幼児から、器に、こだわった。
茶わんは、球形を好む母方のより、直線を大事にしている父方のほうが気にいっていた。
幼児からの、こういう、わたしの性格を、一族そろって、気むずかしいといった。

兄は、転校先になる、千船の大和田小学校は、天板が上がる机だったことで、わたしを、自分の席を案内して、そのときは、元気だったが、日々、弱くなっていった。

兄にとって、心の傷のひとつは、母が、千船にあった「ヤンマーディーゼル」の工場へ、事務の就職をするといい、試験を受けたことにもある。
ヤンマーの男性は、「仕事ができるのは、わかります。わかりますが、赤ちゃんまで連れては無理です」と母に言った。
採用など、優しさを持ったひとりで決められるものでなく、わたしには、ヤンマーの人の言葉は、思いやりがあった。

これは、とうじの精密機械メーカーを知っているものは理解できるが、ヤンマーのような大手であっても、敗戦後は、掘ったて小屋のような、杉板作りで、小さな川をはさみ、工場へ入るのには、かけたり、外したりする、橋があった。
ヤンマーのは、兄とわたしが、並び、どうにか歩ける、小さな木の橋で、この帰り、母も兄も、元気がなかった。

母は、善念寺の、離れを借りた。仕事は、内職というか、洋裁をえらび、いつもどおり、まつおばあちゃんが用意してくれた。
兄に、教科書がなかったため、善念寺の親戚の子からのを、ノートに写していた。

母の字は、男性のような字筆で、わたしには、格好よくみえるのだけど、兄は、こんなことにも、気後れする性格をしていた。

妹がいなかったころは、こういったことには過敏であっても、すぐ、ふつうにもどる、兄は、時刻をつげる、寺の鐘をついては、僧侶の、良春おじいちゃんを庫裏から出し、
「こら、てるちゃん、みんな、まちがえる」と言われ、善念寺の中を、まわって逃げる元気があったが、妹が居るようになってからは、こういったことをしなくなった。

イエから迎えにきたので、半月もたたないうちに、母は戻るというので、わたしは「なぜ?」ときいたら、「お兄ちゃんが、元気がないから」という。

6)

四月がおわろうとするころ、母は、丸帯をした、着物姿で、妹は、白のモヘアのセーターをかさねウサギのようだった。

阪神電車の千船駅から、三ノ宮がみえると同じく、パルナスのネオンが見えたので、窓側にいた、わたしは、
「パルナスのピロシキ」と兄と、むかいの席の母に言った。
兄はだまって、母は、困ったように、
「きょうは、ダメなの」という。
阪神電車が、阪急と合わさる、ジョイント構造も、たえず、好奇心がわき、
「あっ、電車が、あわさる」と言うと、母は、妹がいないときは、質問に答えてくれたけど、1956年の春、母は、
「ちがうの、ちがうの。あぶないの」と、わたしに注意をした。

女性も子供も見かけない、三ノ宮駅にあがったとき、すわれるように、電車をひとつ遅らせ、母は、一番前へ行った。
あとから、あとから、男性たちの集団ができあがった。
わたしと兄は、時代が変化したことに気づかなかった。
母は、わたしと兄に、「注意して、前だけ、見ていなさい」と言った。

三ノ宮発の電車がきたとき、男の集団は、母と妹を、線路へ突き落とした。
わたしと兄は、とりのこされた。
あとからの男性たちが、電車にのり、わたしと兄は、線路に落とされた、母と妹がわかった。
「助けてください」
の母の声をきき、兄は泣き始めた。

線路に体をたたきつけられ、動けなくなった母は、まだ一歳の妹を抱きあげ、
「この子だけ、お願いします」と、電車に座った男たちに言った。
窓からの男たちは、気づいていても、見るだけだった。
なんにんも、なんにんも、のぞいては、見ているだけだった。
わたしは、母が言った「貧乏」という言葉が、脳裏に反復した。

線路下の、やせた和装の母と、ウサギのような白いすがたの妹は、だれが見ても、貧乏には見えない。それより、電車に座って、ながめている男たちのほうが、貧乏な服装にかんじた。
「お母ちゃんが、線路に落ちた」と、わたしが言っても、電車の座席の男たちはだまって見ている。
「お母ちゃんが、線路に落ちた」と、わたしが言っても、母と妹を、のぞくだけで、助けようとしない。

母は、兄に、
「テルミツ、しっかりして、人をよんできなさい。このままだと、マサコも、死んでしまうから」と叫んだ。
が、兄は泣き声が大きくなっただけだった。
わたしは兄に、
「テルちゃん、兄ちゃん、呼びに、ゆこ」と、なんどか、兄の手をひいたが、二年生の兄は、泣くだけで、動こうとしなかった。
線路下の母は、
「この子だけ、この子だけ、お願いします」と、窓から見る、乗客へ叫んでいた。
わたしがみる、一歳の妹は、いちども声をあげなかった。

ホームには、だれもいなく、かけあがってくる男に、
「お母ちゃんが、線路に、落とされた」と言った。
が、数人、だれも聞きもしなかった。

わたしは、ホームから、階段を降りてゆくことにした。ホームからの階段は、暗くかんじて、こわく、それでも、つぎつぎ、体当たりをした。
保育園児には、階段の幅が大きく、ころびそうになり、中段の踊り場となっても、大人は止まってくれず、下まで、降りてゆくことにした。
「お母ちゃん、線路に落ちた」
何人目かわからなくなったころ、わたしがぶつかっていった、春先のコートを着た男の人が、わたしの言葉の意味に気づいてくれた。
コートに顔をぶつけた、わたしには、コートのやわらかな感触がつたわった。

わたしをつれ、階段をあがり、線路に落とされた母と妹をみて、
「人が落ちている」と電車を止める言葉を言った。
春先のコートの、後方から、来た、若い男が、線路下の母と妹に気づき、また、わたしと兄にも気づき、
「まつださん」と言った。
播州は素麺の町でもあるが、わたしのイエと、店子関係の親戚だった。

つぎつぎ、人があつまり、まえから、駅員と機関士がきて、ホームから、線路下で、動けなくなっている母と妹を見た。
「宝殿のまつだです」と、母は、ひとこえ、言った。
この、ひとこえで、機関士は、あわてて、姫路行きの電車に、ストップをかけた。

母と妹は、三ノ宮駅の、南の、金沢病院へと運ばれた。




▲ 南禅寺境内ちかく、久邇宮(くにのみや)家の秋。 (写真: 松田薫)
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後水尾天皇皇女 昭子内親王墓 (写真: 松田薫)

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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-11-08