京都昨今
36、界面論U  消え現れるもの        第二次南北朝の戦い      

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ひとつの生物体は、それ自身、ひとつの「まとまり」を持っているが、このまとまりを、どのような方法でもって、認識してゆくかで、学問の形式は、かなり異なってくる。

「まとまり」の周辺や、このまとまりの、中身の構造や、構造のひとつを従来の思考で、単純な物質ととらえ、それらを、つぎつぎ特定(同定)してゆき、まとまりの中にある、物質同志の、活動の把握となると、非常に困難な世界であることも、わかってくる。

世田谷で、わたしより、10歳ぐらい年上の知己に、菩提寺が、わたしの父方と同じで、南朝の直系がある。
自分自身の人生が医療だけという方である。
古事記、日本書紀に、名前が、書かれてある話から、系図といい、印刷物によるものを、見せてくれる。
この家系までの話には、つきあって、ずいぶんたった後のことである。

話をしていて、歳月の経過のせいで、言葉の抑揚に、少し、京都弁がはいってきた。
それを聞くと、
「妻が、京都です。なにか、聞いたことがない、ダ、『ダム』だったかな、そんな大学でています」
と、謙遜されいうので、1960年代のノートルダム女子大は、同志社女子へ行く人と、カラーがちがい、良妻としての、お嫁さん候補は、ノートルダム女子大へと言われたと説明した。

系図が、「確かか、不確かか」、その実効性という話になり、わたしは、無理と返事する。
「なぜですか?」という。
いま、北朝さんが、されており、江戸末期の歌人、福井藩松平家の管轄に住んでいた、歌人「橘曙覧(たちばなあけみ)」を墓から起こして、橘曙覧の先祖という、「敏達天皇(びだつてんのう)」の末裔、奈良時代の、「橘諸兄(たちばなのもろえ)」でも再来させてもらわないと、と言った。

そして、歴史の手続き上、「楠木正成」の家系を、降臨させ、「第二次南北朝の戦い」をする覚悟があれば、別にいいですけどねといった。
さらに、断っておきますが、北朝側は、いまや、自衛隊25万人、警察25万人を、部下においていますと説明した。
わたしとしては、基本として、中学の級友に、過去、一度も、感情をだすとかをしたことがなかった「物部守屋(もののべのもりや)」の末裔がいますから、嫌ですけれど、とも言った。
ここまで、説明すると、わらうより、仕方がないと言う、雰囲気になる。

社会は、信頼により、規律をつくりあげ、成立してゆく。
が、こういったことがら、市民社会での規律が、しっかりしていると思いたい「ドイツ」で、2006年秋、政府は、なにをしても、市民に購買意欲がわかなく、不況がつづくから、「戦艦」をつかいはじめた。

それで、イスラエルまで行くというので、アラブ人種との「第五次中東戦争」最中の、ユダヤ人種のイスラエルが怒っている。

イスラエルは、レバノン(旧、ユーゴ)を、放射線爆弾で、攻撃し、止めろという、欧州連合に、
「連合軍は、イスラムの国、イラク攻撃が、一段落つくと、つぎは、いつもの、こっちの方か。コソボのとき、何万人も殺しておいて、なんだい。我々は、レバノンを、何人ころしたのか、放っておいてくれ」と言っている。

戦艦をだした、ドイツの軍事評論家は、「アメリカになにを、命令されているのか知らないけど、パーフォーマンスも、ほどほどにしたらどうか。そんなに、デッカイ、戦艦で、海底が浅い、イスラエルまで、行けるのか」と、地勢上の事実をいっている。

2006年11月になり、イランは、「わが軍のミサイルは、イスラエルとアメリカ軍へ、飛んでゆくよ。これ、ゲーム(war games)だけど」と言い出した。

こういった中、まじめなキリスト教徒で、文芸にたけ、オリジナルな装飾をみせてくれる、エジプトの「コプト族」が、反対勢力のイスラム教徒に、攻撃をされ、子供たちも、殺されている。

11世紀からの十字軍による、「聖地エルサレムの奪回」は、100年間以上つづいた。
何も言わず死んだ犠牲者は、どれほどの数だろうか。

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社会は、信用により、活動をふやし、繁栄をもたらす。
大昔は、豊作が、村社会の経済を豊かにしたが、20世紀からは、豊作になると、「先物取引の相場」がくずれ、都市部も田園地域も、障害がおきるという、皮肉な現象がおきるということになった。
2006年秋は、こういった年らしい。

夏目漱石は、第一次世界大戦がはじまった。日本も少し参加するようだ。この日本は議会解散の選挙だそうだ。米が安くなり、農家は金が入らなく不景気だとこぼしている。春の相撲がはじまる。世の中が大変で、
「硝子戸の中に凝(じっ)と座っている私なぞちょっと新聞に顔が出せないような気がする」『硝子戸の中』と書いた。
夏目漱石は、社会問題を解決できない、自分のような分際が、新聞に文章を書くことは、とんでもないことと、本気で自嘲した。

夏目漱石の時代とちがって、各国からの、食糧の輸出入により、さまざまの「ウィルス」による疾病が発生している。
これらのなかで、感染症と、同定できたものは、素早い対処が、必要なのに、疫病の対策研究が遅れている。
原因のひとつは、疾病への、研究費は、製薬メーカーの出資が多いが、この製薬メーカーの経済構造が弱っているので、より、研究対策が遅れる。

わたしは、慶応大学、医学部、RI棟、分子生物学教室にいらした、木原弘二(きはら・ひろじ 1929−99)先生が亡くなられたのを、2006年10月30日に知った。

木原先生は、1982年、わたしが研究室へ、挨拶にゆくと、大学院生への講義をやめられ、「科学基礎論学会」での、わたしの発表のとき、「出席をせず、もうしわけありません。わたしが担当になるのに」、と言われた。

静かでおとなしい研究生たちの、木原教室は、「染色体」で、黒板に、細胞の「在り方」が書かれてあった。

木原先生の部屋の背とした、書架というより、学生が使用するような本箱には、新刊の「生命とはなにか」(講談社 1982ブルーバックス)が一冊あった。
細胞の中、その構築を、模索された、この小さな書物は、木原先生にとって、自信作だったのだろう。
わたしが、何も言わず、著作へ眼をやると、京都出身の木原先生から、誇らしげなものが、見だされた。
木原先生が、一番力をそそがれた、この新書の校正は、専門家でないと、無理と感じ、月日がたてば重版になるだろうと、わたしは、入手したとき、即時しておいた。
が、木原先生には、なにも言わなかった。
日本は、良書を評価してゆく、規律が欠けていて、またこの書物が、難解なためか、細胞について、科学哲学をされていった思考経路がわかる「生命とはなにか」は重版に、ならなかった。

木原先生が、表記された、活字へ、ゆくまでの過程を考えることができる人は、この書物を、テキストにすれば、細胞についての論文は、かなりかける。

わたしは、「RI棟、分子生物学教室」は、「細胞学教室」「生化学」で良いのではと言った。
時代からゆくと、「分子生物」が正しいのかも知れないが、「遺伝子」も「分子」も《界面》をもつ大きな単位であること。
《界面》を考えるには、研究生レベルが《界面》を考えやすい、表面を《界面》としての「細胞」や「染色体」の方が、形成の研究をしてゆき、思考を、表現をしてゆくことが、しやすいからといった。

そして、疫病に強い、抗体を作ってゆく《界面》に、必要な分子、必要でない分子の排斥を考えることができる。さらに、《界面》問題をふくめ、いま、必要でないとしても、後で、必要となる分子のばあい、どうすればいいのか、こういった事柄を議論した。

この1982年初夏、いま、エイズ(AIDS)として知られる病名は、「後天性免疫不全症候群」など、複雑な名前が、さまざまにつけられていた。

わたしは、この病気の《界面》(防御の境界)の理論をつくるのには、最短距離で、10年はかかるだろうと考えていた。
人種と人種の交雑で、10年以内に、発生直後に、数理化してゆかないと、ウィルスが別の抗体をつけ《界面》が、変化してゆくと、捉え方が、難しいと判断した。

エイズ(AIDS)という名称がなく、抗体を見つけにくい、新しいウィルスですねと、分子生物の《界面》を知る、木原弘二先生と、話をして、25年という単位が経過してしまった。
わたしの考え方がわかる方なのに、何もできなかったに、等しかったのかと、いま、非常に疲れ、ぼんやりした気持ちになっている。

わたしは、木原弘二先生たちに、新ウィルスの《界面》を言った。
が、木原先生は、わたしの先行きのことだけを案じられた。
わたしは、来年、学会をやめますとも言った。
「やめたら、だめです」と木原先生は、意見してくださった。
わたしは、わたしの学問は、システムですから、100%措定として書いた論文でも、日本という国では、排除されますからと言った。

木原先生は、そういう状態でないことを、したいのですがと言われ、京都学派がもつ悪習と、木原先生の恩師の性癖を言い、
「絶対に近づいたら、ダメです。弟子のぼくが言うのですから」と言ってくださった。

京都学派とやらの悪習、SM野獣行為からは、山田忠男夫妻は、いっさい言葉にせず、ただ、人類に貢献してゆく医学より、SMという趣味が本業という、連中から、わたしを守ろうとされた。

2005年、アメリカ、カリブ湾からのハリケーンは、防波堤という《界面》が、崩され、被害が大きくなった。
海岸線での防波堤や、河川での護岸、ダムでの堤高(ていこう)、堰堤(えんてい)、を構築してゆく考え方が、界面問題を解いて行く、一段階である。

《界面》を、書店でたとえると、世田谷では、成城の吉田書店が閉め、経堂のキリン堂(2006年8月31日)が閉店した。
吉田書店のおじさん、おばさんとは、一言も、話したことはないけれど、おじさんは、わたしに、丁寧な方だった。小さな吉田書店は、書籍と向き合うことを教えてくれたのではないか。
キリン堂は、少し、若い世代向きというか、社会派ジャーナリスト向きの書籍の新刊を、選別し、入り口に、並べてくれていた。キリン堂は、散歩がてらに、思考を活性化して、《界面》への触媒作用をし、構築へ誘ってくれるような書店だった。

個性というより、書店としての、規律の精神があり、新刊書での、新しい知識をもった書籍を、書店主、従業員の経験則で、紹介してくれる、文化でもあった、重要な箇所がどんどん、消えてゆく。

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このような、散歩のとちゅう、ささやかな祝賀会だろう、細い路地にある、こじんまりとした居酒屋へ、はいってゆかれる政治家の江田五月さんと、すれちがった。
道が細いので、下を向いて歩く、わたしは、足をとめた。
江田さんは、もっと、遠慮され、止まられている。
江田五月さんは、小田急電車でも、見かけたことがある。わたしは、前に立ち、この行儀の良い、座っている方はと思い、眼にした。そして、あれから20年という歳月がたった。

選挙での票まとめは、大企業が一番集めやすい。
父方、祖父の姉が、尼崎を中心とした、財閥(鉄鋼所)に嫁いだことにあるのだろう。
選挙前の、正月には、西ノ宮の「門戸厄神」は、厄払いと祈願のための、国会議員と応援者の、祭りの場だった。

わたしを守ってくれる神社は、ネフローゼという難病が治りますようにとの、祈願から、米田町の村の神社である、大石神社(高砂市)から、父方の祖母(姫路市別所)の鹿島神社へうつり、そのあと、宝塚の清荒神さんとなった。
いま、鉄斎美術館の、そばにある、「龍王の滝」一面は、1959年、寄進によって、わたしの名前が書いた、「旗」だらけとなった。
豊中市服部にある、天竺川の、北向き地蔵さんも、同様で、母が寄進したもので、ずいぶんモダンな地蔵さんになったけれど、ただただ恥ずかしかった。

このあと、京大OBの医師たちが奇跡といい、快気祝いと、10ヶ月ぐらいして、母が言うので、清荒神さんへ、付いていったら、1950年代、アメリカンポップとハイカラな服装で育った、わたしは、寄進した、飾り物などにある、わたしの名前をみて、ぞっとして、また、病気になりそうになった。

不祥事だらけの京都市で、10月22日、京都では、時代祭りがあった。
わたしは、近視だけれど、メガネをかけないことがほとんどである。

時代祭りは、素朴だったのに、京都は不況なのに、だんだん派手になってゆく。
時代祭りがはじまって、もう100年がたつそうだから、そろそろ、日清戦争、日露戦争の軍隊行進があり、東郷平八郎元帥や、乃木希典大将の、身なりが、現れてもいいとおもっていると、なんだか、とても偉い風に、馬に乗っているひとがいたようだ。

わたしには、わからなかったが、沿道の、左京区の住民という、ご夫妻の、奥様が、なんだか、不愉快そうに、
「あの、変なん、だれ?」と言っている。
「ほんまに。カサが大きい奴や、ああっ、あれや、市会議員のや」と、ご主人がいう。
会話を聞いていると、わたしたち夫婦に、人権無視の言語をはいたままで、謝罪のひとつもない、鈴木正穂さんだそうだ。
年配の奥様が、
「なにが名奉行、横柄なくせして。あんなん。馬から、落ちたら、ええのに」と、怒っている。

訳がわかなかった、わたしは、このご夫妻も、嫌な事を、経験させられたのかと、思いながら、今年の時代祭りの、名場面は、このご夫妻の言葉とした。
馬にのるには、かなりの練習がいる。

世田谷で会わず、出町柳かいわいでも会ったことがなく、こんなトコに居たという、水上勉さんの、『一休』(中央公論 1984)サイン会のときも、河原町の駸々堂は、誰もいなかった。

一休宗純は、
「我 何人ぞ。誰か 境を奪い 人を奪う」
境(寺、境内)を奪い、人(生活、命)を奪う、《界面》を破るのは、だれだと言い、
「黄泉(よみ)の境界、幾多か労す」
生と死の、境界、それらの《界面》で、どれだけ、悩み、苦しむことか、と言った。

この「一休」を論じられた、白のワイシャツ姿の水上さんが、まじめな顔をされ、姿勢を正されているので、二冊目になるけど、妻に、これサインと言ってわたすと、
「ありが、とう」
と水上勉さんは、わたしを見て、アリスの谷村新司さんのような声で、礼をいわれた。
わたしは、おかしくなって、離れた位置から、わらった。

水上さんと、妻との記念写真をとらせていただいた。
水上勉さんについて、いろいろなことを、東京のマスコミ人や、京都の人たちからも、聞いていた。結局、このような生き方をされた作家は、ただ苦労をされたのではとかんじた。
いい表情をされた、水上勉さんが、アルバムのどこかにあるとおもう。

が、京都の市会議員には、偉い方がおられる。
わたしが、鈴木正穂さんに「悪代官」といって、彼が怒ったのは、この時代祭りで馬にのる「名奉行」の役目があったからだとおもった。
この、人権をしらない、鈴木正穂さんや、京都市役所の不祥事が大変なとき、桝本市長は、いっしょに、海外へ視察旅行だそうだ。それで、いま、留守だそうだ。

この鈴木正穂さんは、そばに、京都の荒神さんがある、鴨沂(おうき)高校出身だそうで、左京区だけは敏感なようだから、歌手の沢田研二さんの同窓かに、漬物の「加藤順」さんがあるというと、「え!?ほんと、ですか」とか言う。
この知識は、わたしの東京の叔母からである。わたしのイエに来なく、1970年代は、対岸の川端通りが細く、静かで、灯りに情緒があったホテル藤田にとまり、漬物屋へ行くと言っていた時期があったからだ。

この鈴木正穂さんに、左京区なら、昔、同志社の倫理学の川島秀一さんに、京大の票を頼まれ、加藤順さんの北に、奈良本辰也先生の友人たちのイエがあると言おうと思ったが、価値基準がちがうので、面倒になり黙った。

奈良本さんは、酒の場というか、「つどい」を好まれた。が、『アーロン収容所』で知られる、左京区の会田雄次さんは、随筆家の岡部伊都子さんへ、ついつい、接近ばかりしてゆくので、周囲は、いつも、あきれたらしい。

「つどい」を大事にされた、明治時代終わりや、大正時代初期の先生方は、50歳代から、入れ歯の先生が多く、岡部伊都子さんといるときの、会田さんの、表情を、入れ歯を使い、真似をされるのがおもしろかった。

この会田さんが、三島発言をしたとき、三島由紀夫の父、平岡梓(ひらおか あずさ)さんに、東京帝大で学んでから、発言しなさいと言われたとき、沈黙された。
わたしは、京都に生まれ、育たれた、会田さんに、同情した。

市民があって、市会議員というものの存在になるのだが、鈴木正穂さんとやらは、市会議員があって、市民があるという考え方をする。

左京区の、浄土寺東田町に住まわれていた、同大哲学科の工藤和男さん夫妻も、選挙で、鈴木正穂さんと、書いているはずだ。
無礼な鈴木正穂さんの件は、わたしと無関係に近い、無礼な川島秀一さんの言動が悪い。
わたしは、月日の浪費と、出費だけで、交通費はじめ、一円も、もらっていない。

由縁がわからず、複数の人間が動いているんだから、川島秀一さんに、カンパ金と言ったら、「選挙とは、そういうものではないんだよ、ははっ」と、倫理観欠如の、言葉だけ達者な人だ。
「ブルーバードU」で、迎えにきたりするので、作家の松本清張さんのと同じだというと、
「ははっ、ぼくのは、中古だよ」と川島さんは言った。
それより、なぜ、わたしだけの時間の浪費になるのかと聞くと、
「はは、マツダ君、君ね。世の中は、輪廻でね。悟っているとね。ははっ」と、わらえばすむとおもっているのが、川島さんだった。

母子家庭の娘を、文学部の事務員にし、留学先のドイツへ連れて、行ったのが原因で死なせ、同志社松蔭寮の、寮母さんから、「人殺し」と呼ばれたとき、
「ははっ、マツダ君、恋愛は純粋すぎるほど、難解で、凡人には、わからんよ」といった川島さんだ。さらに、
「ぼかぁね、子供が生まれて、うるさいとき、足をもって、ふりまわしたよ、天才とは、こうだね」と言い、妻を変えたと言わない、川島秀一さんだった。
わたしは、ぼんやりしているので、松蔭寮の、寮母さんや女学生に、何を言われているのか、2年間、わからなかった。

高見順は、
「徳富蘇峰が、毎日の社賓をやめた」「氏は戦争犯罪人に擬せられてゐるという噂がある。気の毒だ。不当だ。悪者はほかにもつと沢山ゐる」『敗戦日記』と言った。

山田忠男先生は、新島襄(1843―90)に意見をでき、いま、同志社の悪い所を、指摘し、直せるのは、徳富蘇峰だけだと言われた。
わたしは、徳富蘇峰(1863― 1957)が、生きていたら?って、110歳をこえて、元気だと、楽しいですけど、と言った。

1970年代は、夜8時ごろまで、テレビなどは、ちらっと、下宿の近所の食堂で見たりして、三々五々、帰ったり、ときに、人と人が、つどった。

この生活習慣のなかで、どこかに、急いで、行かなければならない所が、あったのだろうか。
わたしたちが、求めた文化の形は、いつのまにか、忙しいことが、優等生で、時代の子であるかのようなものになってしまった。

わたしのばあい、忙しいといっても、いつも同じ場所で、ゆっくりしながらの忙しい時間だった。

わたしのABO遺伝子論文の活字祝いを、山田忠男先生は、パーティごとが嫌いなわたしに、訪問した日、急に、「ルレ岡崎」へ連絡し、わたしとの、ご夫妻と、三人だけでの、パーティをしてくださった。
「ルレ岡崎」は、素材の形を工夫し、出費をひかえ、味は、超一流ホテルクラスを出していた。

規律ある支配人は、山田先生の友人の、京大理学部、医学部の学者たちとの関係もあって、そばに付いたままだった。
アメリカの資本での、満州を侵略し、パルチザンにより、竹で、突かれ、腰を痛め、脚を悪くされ、負傷兵となったけれど、中国を、一言も批難めいたことを言われなかった、山田先生夫妻は、今夜は、歩いて、帰りたい夜といった。

音楽は、京都市立大の、南東の、京都会館が中心の時代で、コンサートのリハーサルや本番を、断っても、みにきて欲しいと、友人に言われたときはなど、「ルレ岡崎」の、疎水を眼のまえにしたカフェですごした。
いま、ルレ岡崎はない。

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夜がくると静かな岡崎とちがい、四条河原町などは、バラバラでありながら、それぞれが、居ることを認識し、関心をせず、多くの人のかたまりが、黙ったまま、《界面》をつくった行動をする。

このバラバラとした《界面》の本質だが、1951年生まれの、わたしのばあい、同級の父親の顔を見るとか、土日に休日をとっているという人など、見ることがなかった。

都市の中心部で、30年、40年という単位で、働きながら、その方が、働かれ、作ったビルも、歳月により、壊されてゆくものがあり、仕事場を同じくしても、みな、無口な人たちで、消えてゆく。

父のばあい、最晩年となり、わたしが、仕事の断片を質問するので、六甲山の「あじさいホテル」は、最初から、父が、かかわったとわかった。
わたしは幼い記憶で、父に、あのとき、六甲ケーブルはなかったというと、「摩耶(ロープウェイ)や。そこから、歩いた」と言う。
冬の六甲はというと、「あんな寒いとこ、山の仕事は、二度とせん」と決めたと父はいった。

1985年8月12日、ボーイング747、日本航空123便が墜落した。
乗員と乗客、524名。そのうち520名が亡くなられた。

この1985年2月には、創作で休まれる時間がなかった、フレスコ画の技法をもちいられ、はかないオブジェへの愛しさを表現された、画家、有元利夫(ありもと・としお)さんが、夭折された。

妹の友人で、テンペラ画の技法をもちいた、坂田哲也(東京芸大教授)さんは、有元さんの死を悲しんだ。
妹が、日本橋三越での、額縁の代金が30万円かかったという、坂田哲也さんの作品を見てきてという。
わたしは、G.オキーフを好むが、オキーフのオブジェを輻輳させ、緻密さとマッス(量感)のある、坂田さんのを見て、
「リアルな輝きは充実させられうる」la realite et la lumiere qui brille と言った。
新しく、真剣な、創作物に出会うことが、わたしの日常の、安らぎのひとつであった。

このボーイング747の乗客に、「六甲山ホテル」の竣工式のパーティで、歌をうたった、坂本九さんがおられた。
「坂本九が来た」というので、わたしは、九ちゃんってどんな人と聞いた。
「ほっぺたに、ニキビの跡があるんやけどな。笑うと、かわいらしい、兄ちゃんや」
と36歳の父は言った。

また、同乗には、芸術関係では、画家、小磯良平さんの、愛人もいた。
小磯良平さんに、みそめられたのは、「画廊」に勤務されていたかたの元妻だった。
女性の特権だろう、自分自身の中の一部を、才能ある画家により、絵として残してほしい希望を言う人が多い。
が、洋画壇では、有元利夫さんにつづき、不吉と、大手「画廊」一同、神社へゆかれ、お祓いをしたとの連絡もあった。
大手マスコミでは、小磯良平の愛人の件は、すべて、書いたら、画集などの全集がストップになるので、講談社の「フライデー」が、少しスクープしていただけと記憶する。

機体支障がおき、「高天原山」(御巣鷹)での事故は、19時まえだった。
京都、東山の「真々庵」の客人、中曽根康弘首相のときで、事故発表は、20時30分ごろ、マスコミの友人からの連絡があった。

日本の上空は、とうじ、対ソビエト連邦にそなえ、レーダー・サイトによる、《界面》が、立体のメッシュで作られており、アメリカ空軍と、自衛隊の認知は即座で、ファントムは、30分で、事故現場に到着し、上空停止するから、90分の差はありえないと友人に言った。

現場到着は、TBS(東京放送)のクルーが一番先だった。
わたしは、知己がいるTBS報道に、「ワイアレス」。山はクルマを進ませることができないこと。東京の冬の、未踏の雑木林を進むことを想定した服装で、綿の靴下を多めに、長靴と、注意をした。
が、TBSは「車両係」の用意が早く、一番乗りと、わたしの意見をきかなかった。
現実の報道は、遅れて、発車したが、ワイアレスカメラをもった、フジテレビが、無事、先導したときいた。

この惨状の、御巣鷹山、検死、指紋、皮膚隆紋、人と人との《界面》の差を認知できる学問である、法医学の指揮と報告は、群馬大、古川研教授だった。
昭和のはじめ「血液型と気質説」をだした、古川竹二さんの、ご子息である。

群馬大、医学部は、1969年東大入試中止の余波で、この年度、入学生には、東大や京大医学部とならぶ学究が多く、古川研教授と行動をともにし、機械文明による、この悲惨さの《界面》を、捉えることが、いまの、学問対象であると、考えた医学者がいたのではないかと思う。





▲ 若王子、標識  (写真: 松田薫)
▼ 東山 要法寺  
写真: 松田薫)



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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-11-03