京都昨今
35、 界面論T  消え現れるもの     ビートルズは何を教えてくれたのか!?     

1〕

1972年、夏の土曜日、イエにかえると、食堂のテーブルに、ビール瓶が、ならんでいる。床にもある。
なにをしているのかと、兄にたずねると、大瓶、15本目に挑戦しているという。
わたしが、いつから飲んでいるのかときくと、「午後3時ごろからだ」というので、2時間半もというと、そうだけど、15本目が飲めそうもないという。

それで、わたしが、一気飲みをしてみせるといい、したころ、父が戻ってきて、何をしていると聞き、
「こらっ、こらっ。ワシとこの(会社の下の)若いもんがして、病院へ運ばれた」という。

わたしは、水泳の短距離泳者は、自由形のレースだと、30メートルまで、無呼吸で、練習では100メートルは、ふつう行くし、飲みながら、息をしているような状態へ体を訓練してしまっているので、アルコール分解酵素をもっているものは、だれでもできるといった。が、
「危険だから、止めろ」と父は言う。父は、兄に、
「タバコも止めとはいわんが、ほどほど、というものがある」と叱る。
兄は一日に、ホープを、50〜100本は吸う。
一本に5分としたら、恐ろしい時間、吸っていることになる。

わたしの音楽環境は、先に、クラッシックがあるが、これは別として、生家では、わたしが保育園児のまえ、父の一番下、三男の叔父が、1950年代、アメリカンポップを聞いていた。
ところが、イエから、一歩、外へ出ると、1954年は、春日八郎の「お富さん」の、
「♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪〜」が聞こえた。

アメリカのは、何を言っているかわからないけれど、楽しい。
が、一般、大衆は、春日八郎を優先する。
わたしには、雰囲気が奇妙で、母に意味をきくと、「お母さんには、わからないの」と言う。

映画へ連れて行ってというと、「歌つきは嫌」という、わたしを、いつも、卒倒しそうな、クラッシック風、ミュージカルへ連れて行ってくれる、横浜市立東台(あずまだい)小学校入学の母は、
「昔、オーケストラの少女 One Hundred Men and a Girl を見たけれど、良かったのよ」と言う。

父に遊んでもらったのは、生涯二、三度だった。それぐらい忙しい人だ。
だいたい、家業の組合で行くのは、「宝塚歌劇」で、組合で、一番若い、無口な父は、つきあいで、わたしを連れ、ラインダンスを見て、他の経営者と、笑顔で返す。
保育園児の、わたしが、母に、「服がふわふわして、足音がうるさいところは嫌」というと、
「男の人は、あんなのが、楽しいの」という。

2〕
1960年、「二人の並木道」を歌った、佐川満男は、高砂市曽根村の、イトコの叔父が同級で、曽根であったと聞き、うらやましく思った。
100円の小遣いをもらったときいて、もし、その100円硬貨をもっていたら、500円札とかえてあげるといったが、もう使ってしまったという。
佐川満男のイエは、神戸、垂水の海岸そばの、モダンな屋根だった。

このころ、父は、六甲山ホテル(あじさいホテル)へ建設にゆき、竣工パーティに来られた、「北風」の北原謙二を、
「テレビより、すごい二枚目で、良い声をした、ええ男や」と言い、坂本九を、
「ありぁ、かわいい、お兄ちゃんや」と、ほがらかな声で評した。

こんな順序の音の進行で育ったため、1963年、中学生の兄は、ビートルズにいかれた。
そのため、わたしは、五年生、六年生の夕方は、毎日、ビートルズだった。
わたしが中学生のころ、兄は、加山雄三のファンとなり、1966年、ビクターのステレオを買ってもらったので、わたしにも、流行のレコードというので、荒木一郎にきめ、兄も許可した。
それで、転校生の大阪府トップクラスの島君と、寝屋川市の電気屋兼レコード店で、
「荒木一郎、ください」とおじさんに言った。
級長、委員バッジをみた、おじさんは、「ベートーベンとちごて、ほんまに、荒木一郎。これやけど」と言った。

父は仕事場とするテレビ局の食堂で、ザ・フォーク・クルセダーズとあい、
「おっちゃん、これもろてええ」と、父の皿の、カキフライを食べた、はしだのりひこを、
「すなおな、おもしろい、お兄ちゃんや」といい、加藤和彦を、
「ほんまに、かしこい、男や」と一言でくくった。

高校二年のとき、映画「卒業」がヒットし、主題歌はS&Gの「ミセス・ロビンソン」を耳にしたとき、とまどいを感じた。

同窓たちが、学園祭で、S&Gをするといい、奥深く、良い段帳がある、講堂でしたのだけれど、なぜ、ビートルズの後で、こんなに古くさい音階と歌詞で、伴奏音が多い編曲の作品と、わたしが言っても、きかない。

S&Gは、啓光学園だけかと思っていたのに、京阪沿線の学校で流行しはじめた。
わたしは、サイモンとガーファンクルに、名作「ボクサー」があるのを知らなかった。

このころ、枚方市のイトコは、高校生になって、ビートルズがいいというので、わたしが、いまごろというと、
「ジョンレノンの悪口を言うと、怒るから」という。

1970年という、複雑な時代がすぎた。

わたしが、ベッドに入って、眠ったときの、朝なのに、妹が、「この新曲、聞いて」と来る。
吉田拓郎の、「金曜日の朝」だった。
わたしは、この音の進行は、和声を無視した、ビートルズとまったくちがい、小学生でもできる和声進行だ。
しかし、クラッシックのものは、誰も書けない。「負ける」と言った。
また、このころ、ヒット曲は別にして、小学生でもできる進行の、南こうせつを描いた、「野の仏」が、優しく好きだった。

同じ1973年ごろ、とうじ、井上陽水は、ホリプロ所属で、ヤマハの川上源一さんとの約束で、仮の審査は、渋谷の道玄坂のヤマハでし、「紙飛行機」で、優勝の予定と、父親が大手企業の重役、最終審査員の友人は言っていた。

これにたいし、ホリプロの、近所のビルにいた、団塊の世代の知己が、
「おめえなぁ、陽水ってのは、くれー(暗い)んだよっ。エレベータでいっしょになったら、まっくらだぜっ」て、江戸言葉でいうので、陰旋律(マイナー)は暗く、作品の完成度とは関係がありませんがと言ったら、
「音も、歌詞も、わかんねぇんだよ」と言い返す。

それで、進行(音)にしろ、考え方しだいで、なんでもいいですが、少し練習不足か、ファルセットの無理は、あがっていたのでしょうと言ったら、
「理屈ばかり、言うんじゃ、ねぇ。紙飛行機は、白色に決まってんだよ」と言われた。

井上陽水も、和声は、小学校の音楽の進行である。
ビートルズからの影響というが、ポール・マッカートニーと比較すればすぐ、ちがいが分る。

3〕
オイルショック後からの、1977年、京都大丸、そばの十字屋楽器でわたしが買い物をしていると、妻が、どこかへと言うので、わたしには時間がないと言っていたら、京都会館での、井上陽水コンサートに、空席が多いとの、宣伝カーが止まった。
井上陽水にしようと言うと、
「あの人、捕まった人でしょう」と言う。
井上陽水は、1976年、大麻所持とやらで捕まった。

わたしは、「草」を燃やしたのを、そんなに吸いたいのであれば、故郷、遠賀川の土手焼きか、阿蘇山の野焼きのときにでも、居ればいいのにと思った。
妻がファンの、吉田拓郎、1973年5月の金沢事件は、どう解釈したのかと聞くと、
「拓郎がつかまったときね、開花亭の娘がね、ゆうこが、困ってね」と言う。

開花亭(芦原温泉)の、北川さん(ホテルニューオータニ、夫人) とは、高校のとき同級で、吉田拓郎ファンだったことから、「拓郎がつかまった。どうしよう」と、北国新聞の記事をもってきて、おろおろ、授業中も言っていたという。

1973年、福井文化会館での、「拓郎のコンサートへ、ゆうこたちと行ったら、拓郎は、歌だけで、なんにも、しゃべってくれなく、帰ってしまったのよ。前の年(1972)は、猫と来て、お話ばかりだったのに。ゆうこは、拓郎、福井が嫌いになったんだわ、どうしたらいいって、なやみはじめたの」という。

わたしが、「猫」が「地下鉄に乗って」を、赤坂見附(丸の内線)のホームで歌ったのを知ってる? 地下鉄の風がすごくて、髪はバラバラ、おびえた「猫」は、どうしたらいいんだろうって、顔で、歌って、とちゅう、新宿行きが来てねというと、「えー、そんな事があったの」と、おどろく。

金沢事件報道のとき、わたしは、妹に、警察は、暇だ。「冤罪」を、どうするのかの一言だった。

断言できたのは、わたしには、友人の役者たちとの行動があり、同様の事件がなんどと、ふりかかってきそうなとき、わたしが、警察官たちを、睨みつけたまま、沈黙での抗議をし、こちらは、まったくの、潔白との態度をとり、処理してきた経験からだ。

芸能人で、タクシー事件が、よく問題となったころだが、20キロ、30キロ単位の走行などのとき、運転手は、俳優の卵を、
「そんな、金で、働いているのかよ。バカじゃないか」と、たいがい、からかう。

花火大会のとき、見物の、子供の手を踏みつける人物がおり、注意してもきかないので、わたしが、投げ、多摩川へ、ほうりこもうとした人物は警官だった。
二回あり、二人ともが警官だ。強かったのは、元機動隊のものだ。わたしは、片手で応じた。
警視庁のパトロールは、京都府警と違い、警官を、逮捕しますといった。


それにしても、わたしが、歌唱力NO1と認知する、萩原健一といい、観客がわたし一人のスタジオで、歌ってくれた沢田研二も新幹線での暴力事件をおこしたというけれど、わたしたちがファンの人は、警察も、彼らのファンだろうなのだろうが、よく捕まえられる人が多い。

時代の変化で、勤務がえりの妹が、
「井上陽水の『人生が二度あれば』は、ある?」と聞くので、あるけれど、かけて欲しくないと言った。

「♪父は今年二月で六十四」「母は今年九月で六十四」との歌詞は、わたしの両親の誕生月と同じだから、わたしは、悲しくなるので、聞かない。
が、『人生が二度あれば』が流行歌となり、妹は、楽しく、聞いている。

1980年代となり、本格的に、大瀧詠一が、活動されはじめたときは、勝手に宣伝してやる(妹は、銀行をやめ、とうじ準大手の広告会社勤務)と、いい年をして、
「♪ くちびるツンと とがらせて 何かたくらむ表情は〜」と羞恥心なく、歌っているのは、奇特な、ことだと言い、わたしは、こんな言葉を使うと、勘当されるイエに育ったから、「かけて欲しい」と、放送局のディレクターへ直接言った。

わたしに忠誠を尽くしてくれるなら、君の名前は、親友たちに伝えておくといっても、わたしの意見を「おどおど」取り上げてくれた、この真面目なディレクター諸君の行為は、一回でおわった。なにしろ、大きな放送局は、金と権力に弱い。

1986年秋ごろ、FM東京、午後の番組で、吉田拓郎と小室等の、「フォーエバー・ヤング」という番組があった。
番組のはじまりで、吉田拓郎が、
「小室さん」。「ぼくの大学、なくなちゃったんですよね。すると、ぼく、高卒なんでしょうかね?」と、明るい声で言った。
すこし、良い間があって、
「タクロー」。「ぼくと、石川(鷹彦)なんか、大学なんて、行ってないよ。音楽していたもの」と、ふんわりした声で、言った。

多摩美大出身、小室さんと石川さんが、60年代後半から、フォーク音楽を、あえて、支える役目にまわられたのは、美徳とおもっていた、わたしは、心地よかった。

吉田拓郎の言葉は、学園紛争で嫌な体験をさせられた、わたしは、大学崩壊へ、突入した時代に、なったと思った。

また、このままだと、「フォーライフ」が、あぶないのじゃないか、と思ったわたしは、2年ほどして、なんでもいいから、100万部のメディアに、新譜を紹介するから、CDを持ってきてと、広告代理店をつうじて言った。

すると、「ないです」といい、しばらくして「拓郎さんのが」と言って、新譜を送ってこない。
わたしは広告代理店に、「タダって、言え」(臨時ディレクター、わたしの妻)といった。

3〕
フォーライフは、独立したおかげで、いじめられ、音楽放送の世界で、かけないという「排斥社会」の中にいた。
わたしは、こんなのが、嫌いな性格をしており、わたしが趣味でやっていることだから、かれらは、まったく知らない。
それでいい。

1989年はじめ、フォーライフが用意してきたのは、「ひまわり」で、リメイクが多い。しかも、CDではなく、タイトルが手書きのカセットテープ。「時代は平成」なのだ。
ジャケット写真の添付は常識なのに、送ってこない。

わたしのステレオは、カセットがかけられない。ラジカセで聞くのか思い、しかも、リメイクが中心のを紹介!?

わたしが決めた紹介文は、
「これは聞かないと、君は、時代に10年はおくれます」という、かなり、独断が先にあったので、困った。
ああっ、吉田拓郎が「ウチの事務所は、B型ばかりだから、働かないのかな」と言っている会社だから、もう、こっちが、手配すると告げなさいと言ったら、フォーライフは、「バイク便」で持ってきた。
わたしは、「ムダな金を使わないように、フォーライフへ言っておいて」と妻に言った。

こうなれば、「フォーエバー・ヤング」を、最初に、かこうと決め、「FM東京」に、とうじのタイムテーブル(月日、時間表)ありますか?ときくと、
「ウチはそんなもの、ありません」というので、「?」となった。

こんな事をしていたら、「吉田拓郎ファンクラブ」が、わたしに連絡をとりたいというので、「理由と内容」を妻からきくと、
「拓郎さんの、つぎの、コンサートは、いつですか?」というものだった。
わたしは、わたしが自由にしているもので、拓郎も、「生き物」だし、体調があるからと言い、事務所にきかれたらと伝えてというと、事務所が頼りないという。

それを言われても、わたしが、面識のない、吉田拓郎の、予定を決めるわけには行かない。
わたしは、ひとりのファンでいたいのだ。
悲しいことに、わたしが本業とする分野は、クラッシックだった。

しかも、わたしが、まったく未知の「五嶋みどり」さんへ、賞をといっているとき、梅原猛さんとやらが、ドイツ帰りの娘を京都市立大へ就職させたいと、言っているというので、なぜ、わたしが、聞いたこともないバイオリンの輩を、わたしが推挙できるのですか、どれぐらの技術ですか?ときくと、「まつだ君が、聞くようなレベルでは、ありません」で黙られたことから、トラブルが大きくなった。

けれど、「まつだ君が、首肯したといいます。梅原君に手紙をかいてくれませんか」と、山田忠男先生は言う。
わたしは、書きますが、これで、すべてが、終わりに、なりますからねと、叱責した。

関東の「物つくり大学」で、物を作る思考力がない、と批判されたときく、梅原猛さん。
わたしは、こういった過程で、あなたへ、手紙をさしだした。
1980年の手紙、梅原さん。実業家には平身低頭の梅原さん。
あれは、京都を去るという、暗喩がこもった手紙だったんですよ。

あのとき、あなたへ講演依頼したり、文学の審査のとき、老舗の高級料亭で、食事をした人たちは、妻の上司や、わたしの知己です。
いまも、あなたの住居、京大の夭折された学究の遺稿へ、賛美をかかれた大学者の子息は、ご存知ですよね。
わたしの同級には、飛鳥時代の豪族の直系がいます。とうぜん、ご存知ですよね。
正しさを、次の世代へ、伝えようとする、男たちの、研究の姿勢は、つねに冷静であることも。

桑原武夫先生が、「まつだ君のために、至急、日本のオリジナルを世界へ発信する、日本、民芸、民俗関係の研究所(いま、国際日本文化研究センター)をつくらないといけない」と、おっしゃっているという。
それで、わたしは、ささやかを希望する、わたしに、仰々しい、日本とか、民芸とかがつく、研究所は嫌ですと断った。

歴代の所長、河合隼雄氏、山折哲雄氏、かれらは、すべて、わたしの研究を妨害した、阪大の河合清三氏と、5分類で同一の手のライン。付け加えて、わたしの論文3つを無断引用、デタラメ、改ざん。指導しても、正しく、表記できなかった輩の先生、日高敏隆氏も同じ手のライン。

これらをはじめ、わたしの古典での正しい意見や批評を、力もない級友が拒絶したことがあり、クラッシック関係の仕事は、すべて断ることにした。

このときは、たまたま、吉田拓郎で、井上陽水だと、演奏で、八分どころか四分休符ぐらいの遅れでも、スタートが平気で冷静な、陽水コンサートは、知的な女性親子が多い。
そのため、
「これを聞くと、お嬢さまは10歳。お母さまは20歳、若返ります。気持ちだけ」といった、キャッチコピーにしようと思っていた。

吉田拓郎は、いっしょに仕事をされる、石川鷹彦に、録音やコンサートで「(正確な伴奏音の)音がうるさい」と言える人で、コンサートのバックが、欧米人であっても、
「こいつら、また、ついてくるというんだよね」という、あたたかいものがあり、男性の観客との距離が近い。

観客と近いのは、ジョルジュ・ムスタキもだが、ムスタキと少し似た、小室等も同じで、1988年、放送局ですれちがったとき、この人は、「きんとうん」にでも乗られる、仙人かとおもった。

テレビドラマ「想い出づくり」(1981)の音楽を作られ、軽快で、センチメンタルな、パンフルートの作品を作られ、ザンフィル演奏で、ヒットしたとき、
「こういった、ヒット曲は、もう、つくらない」と、いわれた言葉が印象的だった。

井の頭公園すぐ、吉祥寺の「いせや」が(2006年9月25日閉店)消えたことを知った。
「いせや」を中心とした、1970年〜80年代の、PUBLICATION-SHIYOTU- QUARTIER LATIN(居酒屋焼酎カルチェラタン)は、ほほえましい存在だった。

1984年、井の頭公園へ、日本リスを見学に行ったが、繊細な、本土リスは、鎌倉の台湾リスとちがい、眠っている最中だった。

わたしは、あきらめ、あの、アカハラ(ムクドリ)は賢い、来ると、わたしの手に呼び、何度しても、妻は、不思議がるが、この光景を、普通に見ていた動物園の係りの方が、
「なにを、見学に、でしょうか」ときくので、リスですがというと、いいですからと断っても、檻の中の小屋をたたいて「本土リス」をおこしてくれた。

その帰りだった。
「ここに座って、座って」と酔い、イスをたたく、女性たちに言われた。
焼酎&焼き鳥体験を、一度、新宿でしたことのあるわたしは、これは、合わないとおもいながら、妻が関心を抱くので、いいかっと思って、座った。

なんだか、ここの集団は、「おふらんす」のカルチェラタンでの、文化論ではなく、青年のときから痴呆老人風の、日本に正義があったのか、と考えさせつづけた、社会派、高田渡の、
「あらっ、夕方になり、夜になったわね。明日になると、朝がきますね」が会話となる、田園地域なので、わたしは、酔っ払った女性たちに、相槌だけを、一時間ほどうった。

この地域文化は永続するとおもったが、吉祥寺駅が大きくなり、1990年という時点で、吉祥寺ぜんたいの、変化が好きになれなかった。
少なくなる吉祥寺の古書店で、全集が完結した、「東京文壇」とやらに排斥された、龍胆寺雄(りゅうたんじ・ゆう)が、出ていることも、悲しくおもった。

京都のばあい、京阪三条から、浜大津にかけて、路面電車が、1997年まで、走っており、まだ、ゆっくりとした、時間をかんじさせた。
この時代、大阪方面から、大津方面から、勤務をおえた、労働者が、京阪三条を降り、町に、ゆっくり、吸い込まれてゆくのは、ひと、それぞれの、「界面」をなす、夕方があり、食事が、自宅なのか、まかない付きの下宿なのかと思わせた。

自動車での交通の発達で、高架や、地下となり、危険といわれた、踏み切りは消えていった。
むかし、京阪沿線に住み、京都方面の学校や、会社へ勤務したことのある人たちは、四条や、五条での、竹製の、黄色と黒色の、あの長い遮断機が、記憶にある人が多いだろう。

あなたは、遮断機が上がるまでの時間、なにを考えていたのですか。





           うす むらさきの 煙が ゆれて
           ああ ああ 何て 遠い 昔なんだろう
           君は 嵐を 乗り 越えたか
           そして 心は 満たされたか
           星を 数える 旅が続く
           男達は 黙って 進む
           今夜は ころがれ  (狂うまで)
           今夜は うかれて  (流れたい)
           都会の河で 友と 一緒に
           花でもかざして 踊ろうじゃないか
                                     「男達の詩    吉田拓郎」






▲   円山公園、バリケン。「今日まで そして 明日から」(拓郎)(写真:松田薫)
▼   「午前0時の街」(拓郎)。
(写真:松田薫)



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「京都昨今きょうとさっこん」松田薫2006-10-28